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<東京怪談ノベル(シングル)>


在り処

 天然の宝石には、それぞれの性質に合わせて、それぞれ最適な温度と湿度がある。それは、宝石と言うのは生き物で、我々と同じように呼吸もしているし、心地よいと感じる適温があるからだと言う。
 だとすれば、美術品などの保管にも温度・湿度管理が必要なのは、きっとそれと同じなのだろう。

 そしてそれは、本にもまた言える事で。
 その上だ、長い長い年月を経て魂を得た古書達に最適な環境はと言えば、普通の本にも言えるような、適度な湿度に適度な温度は当然として、それにプラス、古書達の場合によっては途方もなく長い話の相手になってやれるような、そんな人間の存在なのかもしれない。

 いつもなら騒がしい(と言ってもその声が聞こえるのはサラだけであるが)閉架書庫の一番奥、幾重にも歴史を重ねた古書達の眠るこの場所、普段、昼間のこんな時間帯なら、古書達の賑やかなお喋りの声がそこここで聞こえてくる筈のこの場所が、今日に限っては針が落ちてもその音が響いてしまいそうなぐらいに静まり返っている。眠っているのかと思いきやそうではなく、ただ息を潜めて成り行きを見守っている、と言う感じのようだ。そんな古書達が注目しているのは、書架の片隅で立ち尽くしたまま、一枚の葉書を手にしているここの管理人、サラである。
 彼女が手にしている葉書には、『第○期卒業生 同窓会のご案内』と書かれている。だが、サラが落とす視線はその文面にはない。サラの青い瞳は同窓会の要項ではなく、端に書かれた幹事の名前から離れないのだ。だがその表情は決して穏やかなものではなく、どちらかと言えば苦渋を噛み潰したようなもので、それでもその名前から目を離す事が出来ない辺り、これは虫の嫌いな人が嫌だ、恐いと思いつつも、見つけてしまった虫からは目が離せないのと同じ事なのかしら、とサラは他人事のように思った。
 虫の嫌いな人が見つけてしまった虫から目が離せないのは、その虫が、何処かに消えてしまわないように、一旦消えて不意に自分の想像の範囲外から再度飛び出てこないように、つまりはこれ以上、自分の精神的負担を増やさないが為の行動と言える。ではサラの場合はどうなのだろう。

 ―――懐かしいわね。…でも、行っても何を話せばいいと言うのか…。
 また他人事のように、サラが取って付けたような笑顔を浮かべた。

 それはサラが高校生の時。活発で背も高く運動の得意だったサラは、中学の時からバスケットボール部のエースと活躍していた。彼女の実力なら、大学でも活躍しただろうし、そのまま実業団入りも夢ではなかった。だがそれでは何故、今、彼女はこの暗く閉鎖された空間で、(一部)偏屈で口煩い古書達の相手をしているのか。

 ―――それについては思い出したくないわ…と言うよりは上手く思い出せないのよ…。
 自分の記憶を辿るのに上手いも下手もあるものか、と思われるだろうが、実はある。それはただ単に忘れてしまっている、と言う訳ではない。記憶としてはちゃんとまだサラの頭の中に存在するのだが、その記憶に関してはサラは苦く辛い思い出しかない。だから、その記憶を呼び起こせば、一緒に当時の痛さまで甦らせてしまうだろう。それを知っているサラの本能が、その記憶の断片に触れた彼女の意識を、別の方向に向けたり曖昧に誤魔化したり、集中力を失わせたり等の手段でもって、思い出させないように、その時の痛みを感じないようにしているのだ。
 どんなに辛く苦しい思い出も、時間が経てば癒されるし薄れていく。それは事実だが、だが、決して無かった事にはできないのだ。そしてそれと同じように、その記憶も痛みも無くなる事はない。サラは一生、この傷と付き合っていかなければならないのだ。

 ―――手痛い授業料だった…そう思うしかないのかしらね…。
 ふと、サラが溜息を漏らす。背後から、彼女の背中を見ていた古書達は、その上下する肩と背中の動きに何故かびくびくとし、隣の古書同士で囁き合おうとするも、雰囲気からそれも叶わず、ただ物言いたげな様子で辺りをきょときょと見ている事しか出来なかった。
 嘘をつく、騙す、陥れる、裏切りにもいろいろ姿形はあるけれど、相手の事を深く信用していればしている程、裏切られた時の傷は大きい。そこで、裏切った相手の事を心底恨む事が出来たのなら、まだ救いはあるのだ。責任を全て相手におっ被せる事で自らの正当性を主張し、謂われなき罪や罰から逃れようとする。それは一種の自己防衛なのだろうが、残念ながらサラは、生来の優しさの所為か、それが出来なかったのである。自分にも何か非があったかもしれない、何か原因があったかもしれない。そう思う事で、サラは人を憎むと言う、半端でないエネルギーを必要とする七面倒な感情からは免れられたものの、代わりに人間不信とやや閉鎖的な性格を手に入れてしまったのだった。

 サラは、手にした葉書の角で額をこつこつと突付く。はぁ、と大きな溜息をまた漏らした。
 同窓会の幹事を引き受けるぐらいだろうから、件の相手は変わらず元気なのだろう。それは当然、サラの中で悔しいという感情を引き起こす。私をあんな目に合わせておいて、よくもまぁおめおめと生きられたものね。そんな風に口汚く罵ってしまえたらそりゃもう楽になるだろうにね、とサラの中のもうひとりのサラが囁いた。
 だが、人を悪し様に罵るにはサラは優し過ぎたし、そこまでは相手を嫌いになり切れないのだ。確かに一度は心から信じた相手である、そう簡単に、自分の想いが浅はかであったとは思いたくはないものだ。だがやはり、相手への感情は確実にマイナス方向である事には変わりなく。つまりサラは、プラスとマイナスの間を行ったりきたりし続けている状態なのだ。その幅は時に広く、時に狭く。それはその時のサラの精神状態に寄るのだが。

 ―――心優しいって事も、時と場合と相手によっては仇になってしまうのね。
 聞きようによっては自画自賛のような言葉だが、今のサラはどこか一段高さの違う場所から自分を見つめているような状態なので、これも単なる他人への評価に過ぎない。
 ただ、自分が一段、高い処にいるのか低い処に居るのかは分からない。分からないからこそ、余計に自分の身の置き処があやふやで、今回のように不意を突かれて過去の出来事を突っつかれる事態に陥ると、極々軽いパニック症候群のような状況になってしまうのだろう。

 【サラさんや】
 ほっとけば、このまま日が暮れようが次の朝が来ようが永遠に物思いに耽っているのではと危惧してか、或いは他の古書達の動揺がいい加減小煩くなって来たか、サラが立ち尽くしている書架の、上から三段目に居る古書が声を掛ける。一度目はあっさりと無視をされ、二回、三回と呼んでようやくサラがその声に気付いた。それは古い古い洋書で、内容は精神的な自立や心の在り方を説いた、哲学と心理学の真ん中辺りのような書籍らしかった。と言うのは、過去に雨風に晒されでもしたか、既に表紙も中身も擦り切れて殆ど読み取れず、ただ古い事だけは明確なのでここの閉架書庫にいる、と言うだけの存在だったからだ。もし、この書籍の内容がちゃんと読み取れていれば、もしかしたら歴史的な大発見になったかもしれない。が、それも今は時代の隙間に埋もれ、ただの屁理屈年寄り古書と化してしまっていた。
 「…何か御用ですか、『名も無き』さん」
 古書の正式名称が分からないので、サラは『名も無き、とある時代の古い本』、略して『名も無き』と呼んでいた。一応はそう返答を返したものの、そのいつもよりも随分低く抑揚の無い声は、用事も無いのに話し掛けるなとの無言のプレッシャーが籠められていた。が、『名も無き』は堪えた様子などさらさらなく、いやぁ、と暢気に答える。
 【特に用事と言う訳でもないのだがね、サラさんがいつになく沈んでいるように見えたんでな。ちっと年寄りの娑婆心が出てきた、って所さね】
 「お気遣い、ありがとうございます。でも私、何も悩んでいませんよ?」
 痩せ我慢だ!と他の古書の叫びが聞こえてきそうだったが、『名も無き』は素知らぬ顔で低く嗄れ声で笑った。
 【悩んでおらんのか。では、その眉間の縦皺はなんじゃいの。折角の別嬪さんが台無しじゃのぅ】
 暢気な古書の声に、珍しくもキッとサラがきつい視線で古書を睨む。が、相変わらずのマイペースな古書の様子に毒気を抜かれたよう、肩を落として額を指先で押えた。
 「…敵いませんわね。でも本当に、わざわざお話しするような事でもないんですよ。昔の話ですし、自分の浅はかさに愛想が尽きたんでしょう。弱い人間ですもの、傷付くこともあるでしょうけど、それっきりしっかりとは立ち直れてないだけなんじゃないかしら」
 【サラさんは、そんな自分がお嫌いなのかね】
 そう尋ねられても、サラは首を傾げるだけだ。何故なら、今の自分の動揺が(最も本人は、自分が動揺していると言うこと自体認識してはいなかったが)過去の傷にあるとは思ってもいないからであった。
 「…嫌いも何も……分からないわ。ただ、どうしたらいいか分からないだけ。そうだ、『名も無き』さんは精神論を説いた本なんですよね。…教えてくれませんか、どうしたら人は、心落ち着かせ、安らかな毎日を送る事が出来るんでしょうね」
 サラは静かな声で、そう古書に尋ねる。サラ自身、本当にに答えを期待している訳ではなかったが、向けられたサラの視線には、何かに救いを求める僅かな光があった。が、そんな古書から返ってきた言葉はと言うと。
 【いやー、わしゃタダの年寄りじゃからのぅ、んな難しい事なんぞ知ったこっちゃないのぅ】
 「何よっ、歴史ある古書って言っても結局はただの年寄りって訳?!」
 と、一歩間違えば差別発言とも捉えかねない言葉を、さすがに口に出しては言わなかったが、心の中だけででも叫んだ辺り、サラには極めて珍しい暴言であった。そんな彼女の心情を察したのかただの天然か、古書はカラカラと乾いた声で笑う。
 【サラさんや、分かっててそう言う事を聞くもんじゃない。わしらは所詮、自ら行きたい場所へ移動する事も叶わん、ただの年寄りどもじゃて。いつものように元気なアンタ、厄介がらずに根気よくわしらの相手をしてくれるアンタ、それらは勿論の事、今みたいに悩んでぶるーになっているアンタでも、羨ましいと思うんじゃよ。わしらには、喜びや楽しみは勿論のこと、悲しみや苦しみでさえ、最早過去の遠い記憶でしか在り得ないのだからの】
 時間の止まってしまった、この閉架書庫の一番奥。余生を送っていると言えば聞こえはいいが、その実、全ての活動を止めてしまった、嫌な言い方をすれば、ここは本達の墓場なのである。彼ら、古書を求める者はまず、いや滅多にこの図書館を訪れる事はなく、もしサラがこの仕事を辞める事でもあれば、次に彼女と同じ能力を持った誰かが現われなければ、人と言葉を交わす事もなく、果ての無い沈黙の中で長い時間を過ごさなければならないのであるから。

 ―――それは分からないでもないけれど……。
 本達の気持ちは理解できる、それでもやはり当事者としては、今の苦しい想いに苛まれるよりは、いっそ何も感じない真空状態に居た方がいいと思ってしまうものだが。
 「…結局は無いもの強請りって事かしらね」
 ふと、そう呟いたサラの言葉に、古書達が頷いたような気がした。