コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


呪解緋

<序>

 時の彼方に見える、因果の糸を絡め取れ。
 それが、合図。
 仕切り直しとなるか、これで終幕となるか――…

 それはまだ、分からない。

          *

 目の前には、一通の手紙がある。
 それを溜息混じりに手に取り、草間武彦は空いた手で近くにあった煙草を引き寄せた。
 すでに手紙の内容には何度も目を通し済みである。
 それでもまた目を通そうとして、草間は緩く頭を振る。
 ……さて、どうしたものか。
 ちらりと、目を机の上にある封筒の方へと向ける。消印は、京都の某局。くるりとひっくり返すと黒い細ペンで差出人名が書かれていた。
 七海 綺(ななみ・あや)、と。
 この事務所にも実際に何度か来た事がある、とある里の桜の守人である。
 ある事件で身内をすべて無くした為、今は草間の旧友でもある鶴来那王(つるぎ・なお)という名の青年の、京都にある実家に身を寄せているのだが……。
 その友人の顔を思い出し、思わずまた一つこぼしかけた溜息を隠すように、草間は煙草をくわえる。
 思い出す彼の顔は、寝顔だけだった。
 かれこれ数ヶ月、鶴来那王は意識不明、原因不明の昏睡状態に陥っている。数年ぶりにやっと顔を合わせたと思ったらそんな状態の旧友に、草間はかけるべき言葉もなかった。
 とある事情により「何とか目を覚まさせてやる」とも言えず――早数ヶ月。
 夏の盛りだった季節は、すでに冬を迎えている。
 いつ消えるやも知れぬ命の前に、けれども自ら動く事もなく無駄に時を重ねていた、そんなある日。
 速達として届けられた、綺の手紙。
 そこに記されている文字をまた草間はぼんやりとした目で眺めやっていたが、ややして煙草に火をつけてくわえながらふらりと席を立ち、その場にいた者たちに文面を見せてみた。

          *

 前略、草間様

七海です。
月並みな挨拶ではじめたいところですが……今はそれどころではないので……。
さっそくですが、現在、那王さんが何者かの呪詛を受けて東京のとある病院で昏睡状態に陥られている事はすでにご存知かと思います。
その呪詛を放ったのが那王さんの実の弟さんということも、多分草間さんはご存知だとは思います。
そしてその呪詛の解呪は、呪詛を放った本人と那王さん、那王さんの家系の人しか分からないと言うことも、多分ご存知ですね(いや、もしかしたら何か別に、解く方法があるかもしれませんが)。
先日、那王さんの部屋で、那王さん自身が書きつけたと思われる妙なメモを見つけたので、とりあえずその言葉を書き写したものを送ります。
たぶん、何か「物」を示す言葉だと思うのですが……。
何か分かったら、ご連絡ください。俺がその「物」を持ち、そちらに向かいますので。
もしかしたら、それが解呪に繋がるキーかもしれません。
あと、俺が那王さんに渡された鈴も、同封します。
その鈴は那王さんが持っていた「魔を吸い込む瓢箪」と連動しているらしく、それを燃やせばその術具が燃えるように出来ているそうです。術具を悪用される前に手を打ってくれとの事でしたが……それを本当に燃やしていいのかどうか俺には判断しかねましたので、できればそれも、そちらでどう取り扱うか決めてください。
それでは、よろしくお願いします。   草々

          *

 草間が「目を覚まさせてやる」と言えない理由が、そこには綴られていた。
 彼の弟が放った呪詛を解く方法が、弟本人か鶴来の家系の者しか分からないと言うのがネックだったのである。
 だが今、その鍵となるべき言葉がもたらされたのなら――話は別である。
「誰か、ここに書いてあるなぞなぞを解いてくれる奴は居ないか?」
 草間はそのメモに見入る者たちに声をかけた。
 が。
 ふと草間はそこに居る面々の顔を見て考えた。
 もしかしたら、このなぞなぞを解く以外に何か方法があるのではないか――と。
 それならそれでいい。
 この際、呪詛が解けるのならもうなんだっていいのだ。
 なぞなぞが解けないのなら、他の方法を探ってもいい。もちろん、この謎が解けるのが最良の方法なのだろうが……。
 思い、再び草間はそのなぞなぞが書かれた2枚目の手紙へと視線を落とした。そして――深く、溜息をついた。

          *

赫奕(かくえき)の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます。
清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。

さあ、我は何者か。
我が名を、答えよ。

答えたならば
生まれて間もない、虚空より降りし細き銀光に我を掲げよ。
其の時こそ 赭堊(しゃあく)の光、闇を裂く――


<差し出されるもの>

 手紙を開いてから、ずっと表情を硬くしている草間のその横顔をシュライン・エマはしばらく眺めていたが、ややして自分の仕事をこなす為にそこから離れ、さくさくといつもどおり事務処理に務めていた。
 その間に、草間はその手紙をメモ用紙に書き写してどこかにファックスで流したり、その手紙をじっと見つめてじっと動きを止めていたり……と思ったらいつの間にか灰皿に山のように煙草の吸殻を積み上げていたり……。
 どうやら、何かを深く考え込んでいるようだった。
 そんな彼の様子を、シュラインは何も聞かずに見守っていた。
 郵便局員が持ってきたその速達の手紙を受け取ったのは、シュラインである。
 名前は、綺のもの。
 それを見た途端に心に清しい春の風と桜の花弁を纏った懐かしい記憶が駆け抜けたのと同時に、その胸を覆ったのは――暗い影。
 今朝も、もう殆ど日課と化した朝の見舞いに訪れ、鶴来の眠る顔を見てきた。
 日々、何の変化も見られないその表情。目に少しかかる程度だった前髪は、もうその目を余裕で覆い隠すほどに伸びた。
 もう、呪詛が放たれてから4ヶ月以上が経過する。多くの異能力者を知人に持つ草間が、けれども一向に呪詛を解く為に動こうとしないことに何か理由はあるのだろうとは感じていたのだが……。
 やはり、と緩く唇を噛む。
 下手に手出しして死なせるわけには行かなかったから、今まで沈黙していたのだ。
 無論、それは賢明な判断だと思うし、むしろ、当然の事だと思う。
 そんな草間が、ようやく動く事を決めたのは、つい今しがた。
 手紙が届いて、もう2時間が経過していた。
「…………」
 無言のまま、草間のデスクの傍に立ったシュラインは、その青い瞳を自分のデスクの方へと視線を向けた。
 けれど、今。
 その手に鍵がもたらされたのなら、扉を開ける為に動くのも、また当然だと思う。きっと草間もそう思っているだろう。
 自分と同じように、何度も眠りについている鶴来の姿を見ていた彼である。どういう関連での知り合いなのか未だに自分は彼から聞いてはいないが、呪われた知り合いをそのまま放置するほど冷酷な人間でないことも、いちいち口に出して問うまでもなくよく分かっていた。
「…………」
 事務所の壁に身を預けて立っていた花房 翠(はなふさ・すい)と草間が何かを話している間に、シュラインは視線を向けていた自分のデスクへと歩み寄り、その引き出しから一通の封書を取り出した。
 それを手にする彼女の青い瞳には、どこか思いつめたような色すら漂っている。
 翠に手紙を渡し、くると草間がシュラインを振り返った。
「もちろん、シュラインもなぞなぞ解きに参加するよな?」
 聞かなくても分かっているくせに、とは口にせず。
 シュラインは、すっと手に持っていたその封書を草間に差し出した。怪訝な彼の眼差しがその封書の表に落ちる。
 直後、眼鏡のレンズの向こうにある双眸が見開かれた。
「……おい、ちょっと待て」
 言いながら、視線を上げてシュラインを見据える。
「本気なのか? お前、本気でこんなもの……」
「この件が終わるまで、保留でいいから預かってて。……もし、鶴来さんの身に何か起きたら……その時には、正式に受理してください」
「何か、起きたら……」
 ふと、草間がもう一度封筒へと視線を落とした。
 それはつまり、鶴来が命を落としたら、ということだろう。
「……そうか。お前らしいと言えば、お前らしいか」
 ずっと、彼女なりに責任を感じていたのだろう。
 目の前で呪詛をかけられた鶴来に、何もしてやれなかった事。呪詛が放たれた時に絡んでいた事件の調査に当たる前、シュラインは既にゴーストネットの掲示板を見、鶴来とは別の誰かが動いている事を知っていた。もしかしたらそれが鶴来の弟かもしれないと思いもした。
 ずっと情緒不安定だった彼……その原因になっているのが弟かもしれないと薄々気づいてもいた。
 なのに、それに対して事前に何も手を打てず、呪詛を放たれ、血を吐いて倒れる彼を見ていることしか出来なかった。
 倒れた彼を、激しい雨の中、その腕に抱きとめることしか出来なかった。
 それどころか、もしかしたら自分が言った言葉の為に、彼が自衛手段を講じず、倒れたのかもしれないと思ったりもした。
『もし貴方に似た誰かと逢うことがあっても、暴走しちゃダメよ?』
(……バカよ、貴方)
 暴走と、自分の命を護る為に動く事では、明らかに意味が違うのに。
 その違いが分からないのは……それだけ、自分の命に執着を持っていないから、じゃないのか?
 いいや。ならば、なおさら。
 近くにいた自分が、察して諭してやるべきだったのだ、きっと。
 貴方には、綺くんがいるじゃないかと。もう貴方の命は貴方一人のものじゃないんじゃないかと。
 もっと、自分を大事にしないとダメだと。
「……もちろん、受理してもらわなくても良いようにはするけど。もしもの……」
 言いかけて、緩くシュラインは頭を振った。そして肩の力を抜いて、いつもと同じ笑みを浮かべた。
「悪い方向に考えて、いい結果は出ないわね。いいわ任せて。言葉を操るのには慣れているし、宿敵の鶴来さんが出すなぞなぞになんかプライドにかけてお手上げする気はないし」
 手に持っていた封筒を草間の手に預け、一度その手を強く掴んでから、何事もなかったようにそっと離す。
「……やめたく、ないもの」
 呟いた言葉は、その場に居た他の誰にも届かず、ただ草間のみに届く。
 ふっと草間が厳しかった眼差しを緩め、封書を上着の内ポケットに入れ、その手をぽんとシュラインの頭に置いた。
 ……何の言葉もなかったが、ただそれだけで十分だった。張り詰めていた思いが一瞬だけ解けそうになり思わずこみ上げそうになる涙を押し留め、口許に手を当てる。
 そんなシュラインの髪をくしゃっと一度かき回してから、何事もなかったかのように草間は彼女の横を通り過ぎた。そしてくいと親指で翠の方を指差す。
「他にもなんとかしてくれそうなヤツに声はかけておく。ヤツの幼馴染にはもう声かけたし、ヤツの弟に物凄く関係あってこの件に関しても責任が全くないとは言い切れないヤツとか……あと、ほら、ヤツに説教するのが得意なヤツとかな。そいつらからも何か情報がもたらされる事を期待して……それまではお前と花房――ジャーナリストとゴーストライター、言葉のスペシャリスト二人で何とかしてくれ」
 その言葉に、思わず振り返る。
 幼馴染は多分、まだ自分の知らない者だろう。鶴来の弟に関係あるというのはきっと、湖影虎之助(こかげ・とらのすけ)の事だ。
 だが……あと一人。鶴来への説教が得意な人?
 少し考え、ふとその脳裏に過ぎる、一人の精悍な男性の顔。
「えっ、でもあの人ってまだ中国方面に行ってるんじゃないの?」
「それが昨日、気合入れて居所探ったら、まあ上手い具合に連絡がついてな。鶴来の事話したら、今日帰国するってさ」
 その言葉に、シュラインは胸に手を当てた。
「そう……帰って来るのね、彼!」
「昼頃に東京に着くようにするとか言ってたから、そろそろ……着いてるかもな、成田に。電話かかってくるかもしれない」
 時計を見やりながら言って、草間は肩越しに振り返って笑った。
「まだ、終わってない。走れるよな、まだ」
「当たり前よ!」
 乱された前髪をかき上げ、その手を拳にして答えるシュラインに、満足そうに頷く草間。
「よし、それでこそうちの事務員だ。チェックメイトかかっててもひっくり返せる勝負もあるんだって事、ヤツとヤツの弟に教えてやれ」
 懐から、さっきしまったばかりの封書を取り出し、その背をこちらに向けてひらひらと振り。
「連れ戻して来い、あのバカを。それで平手の一発でも食らわせてこい」
 振られるその封筒の表に書かれている文字を、誰にも見せることなく草間はまた懐へと仕舞う。
 ――そこには、たった一言シュラインの字で『退職願』と書かれていた。


<推察>

 しばらく、その場には沈黙が横たわっていた。
 その場にいる三人全てが、ソファセットのテーブルの上に広げられた手紙に記されている言葉の意味を読むのに集中していたためである。
 それぞれが、その文から受ける印象を頭の中で纏めていく。
 口は動かさず、ただひたすら目と思考のみを動かして。
 それぞれ違った色の瞳に映るその文章を、見た目そのままとして理解するのではなく、その深淵に込められている意味をただ正確に掴み取るために。
 文字を何度も追うと、そのたびごとに胸に引っ掛かりを覚える。だがそれが何なのか……その脳裏に過ぎるものが何なのかがいまいち分からず、闇の向こうに確かに光はあるのに、そこに辿り着く手段が見つからないかのような、そんなもどかしい感じを抱く。
 ――ややして。
「……前の方が『物』を示すもので、我が名を答えよ云々の後が『解呪の方法』だと思うんだが」
 黒に近い茶髪の青年――花房 翠(はなふさ・すい)が、テーブルの脇に立ったままで口を開いた。それに、ソファに腰を下ろし、長い足を組み上げて口許に手を当てて黙り込んでいたモーリス・ラジアルが頷く。
「そうですね。しかし『名を答えよ』ですか。名、というのはその『物』が何かを答えればいいのか……それとも特殊な名がつけられた何かなのか」
 襟足で一つに結わえて左肩に流した細い金髪に無意識のうちに指を絡ませながら、呟く。澄んだ空の下にある草原を思わせる鮮やかな緑瞳が、文字を追って紙面上を滑った。
 なかなか、面白い謎々だと思う。一体こんなものを考えた人物とは、どのような者なのだろうか。
「んー……」
 同じように、モーリスの向かいのソファに腰掛けたシュライン・エマが、短く唸った。その怜悧な青い瞳でじっと文面を見つめている。その視線は最初の1行に止められていた。
 ――赫奕の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
「……赫奕の劫火……この場合、多分『赫奕』の部分には深い意味はないと思うのよ。言葉を一見してややこしいものに見せかけるためのハッタリというか、まあそんな感じじゃないかな。だから単純に『火』と解釈して、その後に続く『砂』とあわせて考えるとー……」
「火が、我と名乗る『物』の元となる物を砂から作り出す?」
「もしくは、砂を火に入れることで何かが形成される?」
 シュラインの声に反応した翠の言葉に、さらにモーリスが言葉を足した。
 炎と合わせられることで砂状の物から何かが形成される。それがおそらくは『眠りから呼び覚まされる』という事なのだろう。
 イメージするものは三人とも同じようだ。
 こくりと頷き、さらにシュラインは次の行へと目をやった。
 ――姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
「破月……とは、欠けた月の事ですね」
 ただの破月ではない。『姿を変え行く』、だ。
 姿を変えていく欠けた月。一日だけの月では姿は変えていかない。となるとつまり、幾夜もかけて、ということだろうか?
 そうモーリスが口にすると、シュラインが彼を見やって答えるように再び頷く。
「そうね、そういうことだと思うわ。その月の下で、打ちつけられて響く、音……」
 綴られた文字を眺めながら、翠が腕組みをして眉を寄せる。
 次の箇所で、微妙に気になる点があったのだ。
「ただの音じゃなく、硬質な、と指定してあるということは、それに重要な意味があるんだろうか。まあ打ちつけられてって言葉の後に、柔軟な、というのが来る事はないとは思うが」
「あえて硬質って書いてあるなら何か意味があるのかも。その後に魂の共鳴とか書いてあるし……『魂』も何かの例えだとしたら、硬い物同士をぶつけてるってことかしら。何日もかけて」
 続けて、三行目に移る。
 ――幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
「垢離って、水浴びの事だったか」
「神仏への祈願の際に、冷水を浴びて身を清める事ですね、確か。水垢離とも言ったと思います」
「水浴びと共鳴……共鳴はまあ、2行目の『打ちつける』って作業の事よね。水浴びと打ち付ける作業を繰り返す事で、『我』に躯命与えられる? ……体と命?」
 そうシュラインが呟いた時。
 ふと、その脳裏に何かが閃き、「あ」とシュラインと翠が同時に声を上げた。そのお互いの声に反応したように二人は顔を見合わせ、さらにお互いを指差し。
「刀!?」
 またしても同時に声を出した。それにモーリスが長い睫を打ち合わせるように何度か瞬きする。そして、その視線を手紙に戻して。
「ああ……なるほど」
 かすかに笑って短く呟いた。そう思ってみれば、そんな気がする。
 自分自身の閃きを裏打ちするように、シュラインが立ち上がって手紙を指差し、口早にその根拠となる所を示してみせた。
「そうよそうだわ! 1行目のは火の中に砂鉄か何かを入れて、鉄を精製する事。2行目はその、熱した鉄を叩いてる所を表してるのよ!」
「そして3行目の最初の『明暗』は、炎の中に入る事を『明』、出す事を『暗』で現して、叩いては水につけ、また炎に入れて出して……鍛冶の工程そのものを示してて」
「4行目は、刃を研ぐ作業の事を表現しているんですね」
 翠、モーリスの言葉に頷き、シュラインは指先で5行目を指した。
 ――清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。
「じゃあこれは、刀って御神刀とかで使われるから……それのことかしら。神に仕えるって、そういうことじゃないかしら?」
 そう考えると、全てがクリアになった気がする。書きつけられている言葉の全てが、刀の製造工程を遠回しな表現で記しているのだ。
 ふっと、翠が吐息を漏らしてきつかった眼差しをわずかばかり和らげた。
「これで何とか、助けられるか?」
 自分は、呪いをかけられているという人物の事を良くは知らない。幾ら言葉を使い文章を作り出す仕事をしているからとはいえ、そんな、よく知らない人物にまつわるなぞなぞなど解く役に立つのかどうかは分からなかったが……むしろ、彼をよく知っている者たちに任せた方が確実に解けるのではないかとも思ったりしたのだが。
 ……謎は、追うのが難解な方が面白いとは思う。
 けれど、それは人の命がかかっていない時の話だ。人の命を前にして、面白いだの面白くないだの言っている場合ではない。
 まあ、刀だというのが分かっただけでもよしとするべきか。
 けれどもその言葉に、モーリスがわずかに目を伏せて笑った。
「導き出した答えが、本当に正解なら、の話ですけれども」
 確かに『刀』という答えを手にして文章を見てみると、全てがハマる気はする。だが、それが正解かどうかは――そのなぞなぞを作り出した本人か、実際に解呪を試してみるその瞬間まで、分からない。
「……なら、俺は一足先にその本人――那王、だっけ? のところに行って来る。直接聞いたほうが確実なら、そうするまでだ」
「ちょっと花房くん、直接聞くって、鶴来さんは昏睡状態……」
 わずかにソファから腰を浮かせて言いかけたが、左手を軽く振って笑う彼を見て、シュラインはすぐに、友人である彼がその身の内に有する能力を思い出した。ああ、と吐息のような声を漏らしてまたソファへと腰を落とす。
「そうか……そうよね、そうしてもらえたら一番確実な答えを引き出せるわね、きっと」
「じゃ、俺は先に病院へ行く。多分刀であってるとは思うけど、確実を期すのなら多分、俺の力は無駄にはならないと思うしな」
 言って、黒いレザージャケットのポケットからバイクのキーを取り出して軽く振る。それにつられるように、モーリスもソファから腰を上げた。
「では、私も病院の方へ向かう事にします」
「え? アンタも?」
 怪訝そうに踵を返して歩き出そうとした翠が、肩越しにモーリスを振り返る。てっきりこのままここで謎解きを続行するかと思ったのだが。
 肩にかかった髪の束を手で背へと払いのけ、モーリスは優美に微笑んだ。
「私はこれでも医者なので、鶴来さんの診察をしてみたいと思いまして。こう見えても貴方がたよりずっと長生きもしていますし、何か分かる事があるかもしれません」
 こう見えても。
 その言葉に、シュラインと翠がやや離れた場所にありながらも顔を見合わせた。
 モーリスは、一見するとシュラインと大して変わりない年齢に見える。が、そのあまりにも冴え整った容貌や悠然とした様が、そこいらにいる普通の27歳の青年とはどこか違う雰囲気を醸し出していた。
 ……まあ、この草間興信所に出入りする者の中には特殊な者が多々いるので、今更特別驚くような事もないのだが。
「そう……なら、鶴来さんの事はそちらでお願いするわね。私は綺くんに電話して、鶴来さんの所持品にそれっぽい刀がないかどうかを確認してみるわ。その後、私も病院に行く」
「じゃ、先に」
 残る事を告げるシュラインに軽く手を上げて挨拶の代わりにすると、翠は足早に事務所を後にした。
 ふと、その後に続こうと足を踏み出したモーリスが、何かを思い出したように振り返った。
「そういえば、一緒に送られてきたという鈴はどうするんです?」
「あ。んー……一応、燃やすのはやめとこうかな、なんて思うんだけど」
「そうですね。私もその方がいいような気がします。なんとなく。とはいえ、私には鶴来さんたちの事情はよくは分かりませんが」
「……私にも、はっきりとはよく分からないけど……何となく、燃やさなくていい気がするから、今は保留にしとこうかなと思って」
 呪詛を掛けられた場に居たのに、自分は結局、彼らの事をよく理解できていないのだ。
 ふっと短く吐息をついて何かを考え込むように目を伏せたシュラインをしばし見ていたモーリスは、もう一度ちらりとテーブルに広げられた手紙へと視線を移す。
 そういえば、謎は前半と後半に分かれている。
 後半部分の鍵となるのは、『虚空』と『銀光』だと思うが……ならそこから導き出されるイメージは……。
「月明かりの下で、何か起こるのかもしれませんね」
「え?」
 呟くような声に、シュラインが俯けていた顔を上げる。
「月明かり?」
「ああ……その、最後の部分です。何となくそんなことを思って。前半部分にやたらと出てくる『共鳴』を起こすのは、もしかしたら鈴かもしれないと思いもしたんですが」
 まあ、後の謎解きは貴方に任せます。
 そう言い置くと、モーリスもまた、事務所を後にした。
 残されたシュラインは、その背を見送るとどさりと体をソファの背もたれに投げ出した。


<桜守への電話>

 事務所に残ったシュラインは、ふとデスクについたままの草間の方へと顔を向けた。こちらがあれやこれやと案を出し合っていた間、時折誰かに電話をかけては話し込んでいるようだが……一体誰と会話しているのだろう?
 気にかかり、ソファから腰を上げると手紙を手にデスクの方へ歩み寄る。草間はぼんやりと椅子の背もたれに体を預け切り、薄汚れた天井を見上げていた。頭の後ろで組まれた手には煙草が一本。今にも灰が床の上に落ちそうになっていた。
「武彦さん、煙草。灰が落ちるわよ」
「あ? ……っと」
 声をかけられてようやく我に戻った草間が、慌てて体を起こしてデスクの上の灰皿に煙草を移す。そして事務所内へと視線を走らせてきょとんとする。
「あれ? 花房たちは?」
「さっき、先に病院に行くって出てったわよ。気づかなかったの?」
「全然」
「そんなに集中して、一体何考えてたの」
 既に灰が山積みになっている灰皿を取り上げ、ごみ箱に向かって足を運びながらシュラインが背中で問う。考え事をしていると煙草の消費本数がやたらと跳ね上がるのはこの所長の癖である。
 かりかりと頭をかきながら、草間はもう一度椅子の背に体を預けて一つ大きく伸びをした。停滞する思考ですっかり淀んでいた頭の中をすっきりさせるように。
「あー、さっき鶴来の幼馴染から電話が入ってな。なぞなぞの答え、赤い刀身の刀だとか言ってたんだが……赤い刃の刀なんてあるものかと思ってな」
「赤い刃の?」
 怪訝そうな顔でシュラインが灰をごみ箱へ移しながら振り返る。
 そういえば、最終行にあった『赭堊の光』という言葉。
 赭堊というのは、赤と白の事だ。
 そしてその先に出ている言葉『銀光』はおそらく、赤と白のうち、白を差す言葉。とすると、残る『赤』が何に当たるのか――考えるのをすっかり落としていたのだが。
 そうだ。白が、物を掲げるための『銀光』を表しているのなら、赤は、その『掲げる物』を表しているのではないか?
 としたら、鶴来の幼馴染が言っていたという『赤い刀身の刀』で、正解を引き当てている気がする。
 灰皿片手に立ち尽くして考えを進めているシュラインに、草間が新しい煙草に火をつけながら電話を顎先で示した。
「とりあえず、お前らの方でも意見まとまったみたいだし、綺に電話してみたらどうだ? そういや湖影兄からもなぞなぞの答えを知らせる電話があったぞ」
「湖影くんから? あ、もしかしてなぞなぞ教えてあげたの?」
「考える人間が多いほうが正解を引く可能性も上がるってもんだろ。やっぱり『刀』で、あとは『新月に掲げる』んじゃないかとか言ってたが……そういやアイツ、今から鶴来の弟と会うとか言ってたな」
「会うって?」
「新宿中央公園の水の広場ナイアガラの滝前で待ち合わせなんだと。解呪しろって勧めに行くらしいけどな。まあそうしてくれたらなぞなぞがハズレてようがどうしようが関係なくなるわけだが」
 そう簡単にはいかんだろうな、と呟き、草間はくるりと椅子を回転させてデスクの裏にある窓を見やる。が、すぐにまたくるりとシュラインの方へと向き直り。
「あ、綺への電話、一応お前の携帯を使ってくれるか。まだあれこれ電話かかってくるかもしれんし」
 別に経費節減のためじゃないからな、と付け足す草間に、シュラインは思わず苦笑を浮かべる。確かに東京から京都までの通話はかなり痛い出費ではあるが、今はそんな事をゴタゴタ言っている場合でない事も分かっているだろうに。
 まあその辺はあえて言い返さず、シュラインは灰皿を草間のデスクに戻すと、自分のデスクの上に置いてあった携帯電話を手に取った。そして手紙の最後に、署名とともに書きつけられていた、090から始まる携帯電話への番号らしいそれへ、かける。
 二度のコール音の後、懐かしい声が聞こえてきた。
「あ。綺くん? 私よ、分かる?」
『あっ、シュラインさん……ですよね? 久しぶりです』
 弾むような綺の声に、思わず頬をほころばせて安堵する。
 鶴来が今あんな状態に陥っているから、一体どれほどその心に影響を受けているかと心配したのである。
「よかった、元気そうで。寒くなったけど風邪とかひいてない? ……って挨拶はとりあえずおいといて。手紙にあったなぞなぞの件なんだけど」
 労わるような優しい口調を一転、事務的なものに変えてシュラインは片手で携帯電話を、そしてもう片手に手紙を持ち、ソファに腰を下ろした。
「一応、あれの答えは刀なんじゃないかってことになったんだけど……気になることがあるの」
『なんですか?』
 綺からの手紙には、呪は鶴来の家系の者か、鶴来本人か、弟本人しかわからないというような事が書いてある。
 実際のところ、シュラインはその弟のことをあまり良く知らない。ここに湖影虎之助がいたならば、彼に色々と聞いて情報を引き出すことができたのだが……。
「鶴来さんの弟さんって、名前なんて言うの?」
 まずそんな基本的なことからして、自分は知らないのである。
 ああ、と短く綺が声を紡いだ。
『ななほし、まお……七つの星、真の王……という字面で、七星、真王』
「七星真王……」
 冗談としか思えないようなご大層な名前である。が、ふとシュラインはさらに首を傾げた。
「鶴来さんと姓が違うのね」
『あ……。お父さんが亡くなられた時に、ちょっと……家で揉め事があったらしく……。それでお母さんと那王さんが七星から縁を切られたとかで……今、那王さんが当主をされているのが母方の実家である鶴来家なんです。七星家は弟さんが当主をされているとか』
「揉め事?」
 その問いに、綺は少し言葉を詰まらせてから、低く答えた。
『誰が七星の次期当主になるか、と』
「それって相続争い?」
『いえ、むしろ権力争いかな……。七星には、分家の長から成る御前会(ごぜんかい)とかいう長老集団があり、本家の後継者すらも彼らが決めるとかなんとかで……』
 父が死去した直後に行われたその集団の会合で、那王には七星の跡目を継ぐだけの力がなく、真王にはそれだけの能力があると判断された。
 けれども、七星には代々、長子が家を継ぐという決め事があり……それに則るならば那王が七星にいる限りは彼に家を継がせねばならず。
 ならば七星から籍を外せばいいということになり、結果、父の死を期に母を実家に下がらせ、それに那王を同行させて――七星から彼らの存在を消去したのである。
 そうする事で真王が長子になり、当主になることになった、と。
 淡々とした口調で綺は語った。
 彼自身、家の跡目云々の話では過去に嫌な思い出がある為、それをなるべく感情を表に出さないようにした結果の、口調なのだろう。
『那王さんを当主にと押す派と、弟さんを当主にと押す派があり……御前会の中での派閥と権力の取り合いに、二人は巻き込まれた形になったようです』
「そう……。なら、解呪の方法を知る鶴来さんの家系というのは母方である鶴来家の方ではなく、父方である七星家の方だと思っていいわね」
 呪詛も、その七星の者である弟から放たれたものである。術自体が七星に伝わるものであるのなら、一族の者が知っていてもおかしくはない。
「なら、鶴来さんの持ち物で、お父さんから渡された物があるとか、聞いたことないかしら。物自体は刀だと思うんだけど、五芒星の模様が鞘とかについてたりとか、後は七星家にまつわる物だとか……」
『……ひふり?』
 ぽつりと呟かれたその言葉に、シュラインが眉を寄せる。
「ひふり?」
『あ……那王さんの持ってる刀の名前です。ひふりって。緋色が降るって書いて、緋降。確かお父さんから譲り受けたって言ってました。七星の家に代々伝わっていたものらしいですが』
「それ、もしかして刃が赤かったりする?」
『一度見せてもらったんですけど、刃が真っ赤でした。血で濡れたみたいに』
 その時。
「おいシュライン、綺、何て言ってるんだ?」
 いつの間にか備え付け電話の受話器を手にした草間がこちらに問いかけてきた。それにシュラインが手で制するような仕草をする。
「ちょっと待ってっ。綺くん、それ、それだわきっと! 武彦さん、緋色が降るって書いて『緋降』っていう名前の、刃が真っ赤な刀があるらしいわよっ。鶴来さんがお父さんから預かった、七星家で代々伝わってた刀!」
 間違いない。それだ。ここまで条件が一致しているのなら、ハズレなわけがない。
 確信を強めた所、また武彦が声をかけてきた。
「おい。ちょっと綺に、鈴を受け取った時の状況を聞いてくれないか?」
「え? ……っていうか電話、誰なの?」
「ん? ああ、抜剣白鬼(ぬぼこ・びゃっき)だよ」
 怪訝そうに聞き返したシュラインに返されたその言葉に、双眸を見開く。大陸に退魔の旅に出ていたという「鶴来への説教が得意な人」だ。
 慌てて、シュラインは綺にその質問を伝える。
 返って来たのは、胸を重くするような答えだった。
 ――自分の存在を「悪夢の中の物」に例え、そしていつかはその「悪夢」が「覚める」と、微笑みながら言っていたらしい。
 綺はそれを聞き、もしや鶴来は自分の存在を消したがっているのではないか? ……と、感じたそうだ。
 それをそのまま草間に伝え、ふっと吐息を漏らす。
 なんだか……本当に、彼を起こしていいのかどうか、少し迷いを覚えた。
 今、鶴来は眠っている。その眠りの中で見ているのは、もしかしたら、この上もなく幸せな夢なのかもしれない。
 けれど。
 ――このままでは絶対、ダメだ。
 携帯を強く握り締め、シュラインは一度目を閉じてから、ゆっくりと開き、強い眼差しで前を見据えた。
「綺くん。緋降を鶴来さんが入院している病院に持ってきてくれる? 鶴来さんの呪い、解くから。私も今から病院へ行って来るわ」
 その強い言葉に、一瞬だけ間を置いて。
 綺もまた、どこか強い決意をはらんだ声で言い切った。
『わかりました。何があっても必ず、緋降だけはそちらへ届けます』


<一時的な>

 不安はある。
 けれど、今は動いていないと……その不安が更に増しそうで、怖かった。だから今は、草間が言っていたように、ただ、走る。
 まだ、走れる。
 タクシーを降りたシュラインは、白い息を吐きながら目の前にそびえる建物を見上げた。
 もう、4ヶ月。ずっと毎日、休むことなく通い続けている、その建物。
 鶴来が入院している病院だ。
 きゅっとコートのポケットの中で手を強く握り締める。その手の中には、綺が送ってきた鈴があった。
 白鬼が、燃やさずに病院へ持ってきてほしいと草間に言付したのを聞き、言われるがままに持ってきたのだ。
 とりあえず、今は燃やす気はない。
 何となくだが、あの弟が瓢箪を悪用するようには思えなかったのだ。
 一年前の夏、西瓜にまつわる事件の時。封印されていた女の子を闇の中から救い出したのは、彼だった。
 そういう事を見てみても、彼は完全な悪ではないと思うのだ。
 何より、彼は鶴来にトドメをささなかったではないか。あの状況でなら、十分に、一撃で殺すこともできたはずなのに。
「……お願いだから、全てがいい方向へ動いててよね……」
 祈るように呟き、シュラインはエントランスに向かって歩き出した。

 シュラインにしてみれば、もう通い慣れた病室への通路。
 けれども今日は、少しだけ変化があった。
 そのドアの向かいの壁に、一人の全身黒尽くめの少年が背を持たせかけて立っていたのである。
 格好は、一見するとバンドでもやっていそうな雰囲気の、黒いレザーパンツに、黒いコート。首や腰にはシルバー系のアクセサリーを複数つけていて、組んだ腕にもシルバーのブレスが見えた。指にもいくつかシルバーのリングをつけている。
 ふと、その少年――綾辻 焔(あやつじ・ほむら)がシュラインの方を見た。暗い真紅の目が、細められる。
「……また客か」
 自分を見て足を止めたのは、中性的な美貌を持つ、黒髪に切れ長な青目を持つ女。
 先刻ここに現れた者3名がいずれも、今の彼女と同じような反応を自分に対して見せた事から、彼女もまた、このドアの向こうにいる者に用がある人物なのだろう。
「鶴来さんの知り合い?」
 ストレートにシュラインが問いかける。と、少し逡巡するような表情を見せてから、ぽつりと焔が答えた。
「……幼馴染」
 そういえば草間が、鶴来の幼馴染にも連絡したとか何とか言っていたことを思い出す。
 どうやら、それが彼の事らしい。しかし、幼馴染にしては……随分と年が離れている気がする。鶴来は確か自分と同じ年だ。が、焔は、背は大人並みだが顔立ちなどはどう見ても、まだ高校生くらいだ。
 ……まあ、鶴来に対して害意がないのならそれでいい。
 双方、お互いに対しそう思い、ふと目をドアの方へ向ける。
「入らないの? 中」
 シュラインの問いに、焔は何故か自嘲的な笑みを浮かべて俯いた。
「……那王に、見せたくないんだ。今の自分の様を」
 ぽつりと呟かれた言葉に、シュラインは、そう、とだけ短く返した。そしてドアへと歩み寄り、軽くノックしてから肩越しに振り返る。
「もし彼に何かあったら呼んであげるわ」
「……ああ」
 室内からは返事はない。構わず、シュラインはドアを開けて、中へと入っていった。
 が。
 その場にあった光景に、双眸を見開く。
 呪詛をかけられて眠っていたはずの鶴来が、目を開いているのである。
「つ……鶴来さん?! いつ起きたの!」
 その声に、びくっとベッドの向こう側に居た翠が肩を震わせて目を開いた。そして自分が手を握っていた相手の顔を見、彼もまたシュライン同様驚愕する。
 起きている。
 自分がメトリーをしていた間に、何があったのかは分からない。けれども、彼は今確かに目を開いていた。
 だが、ふと翠は握っていた鶴来の手を離し、無言のままその顔から視線をそらせた。
 ……今しがた見てきた彼の記憶を思い出し、何だか酷く悪い事をしたような気になったのである。
 だがそんな翠の反応に気づく事もなく、鶴来はシュラインを見ようとわずかに体を起こそうとしたが、何かに気づいたような顔をして緩く頭を振り、かすかに苦笑した。
「すみません……」
「ねえっ、鶴来さん起きたわよ! 早く!」
 シュラインが、廊下にいる焔を慌てて呼んだ。焔は一瞬室内へ入ろうかどうか迷ったらしいが、すぐに壁から身を起こし、足早に部屋へ足を運ぶ。
 その間に、モーリスが少し眉を寄せて鶴来の手首を取った。脈を自らの手で確認してみる。
 ――まだ、遅い。
 完全には、解呪しきれなかったらしい。完全に呪を断つのを阻む何かがあるのだろうか。
 ……やはり、最終的には手紙に記されていた解呪の方法に頼るしかないのだろうか。
 そんなモーリスの思いに気づいたのか、鶴来がかすかに目を細めて苦笑する。
「すみません……」
「いえ、謝罪する事はない。貴方のせいではないのだから」
「…………」
 それに対しては何の言葉も返さず、鶴来はモーリスの隣にいた白鬼へと視線を移す。目が合った途端、やはりその青い瞳に違和感を覚えたが、今は何も言わず、白鬼はただいつものように顎鬚を撫でながら笑った。
「やれやれ。どうなる事かと思ったよ。身内から呪いをかけられたお姫様には口づけしないと目が覚めないのかなー、とかね。2度目のキスをしようかと考えてたところだよ」
 その部屋に居た全員が、その言葉に驚いたように白鬼を見た。
 2度目のキス?
 それはつまり、一度彼と鶴来がキスをしたことがある、ということか?
 ……周囲に生まれた何とも言えない微妙な沈黙を解くように、鶴来はわずかに目を見開いてから苦笑を零した。
「生憎……俺は、お姫様じゃ……」
「2度目のキス、だって?!」
 言いかけた鶴来の言葉を遮るようにドアの方から飛んできた鋭い声に、白鬼が振り返る。そこにいた人物をわずかに頭を上げて見、鶴来が瞬きをした。
「……ほむら、か?」
 部屋に入るなり聞こえた白鬼の言葉に激昂しかけていた焔は、けれどもその鶴来の言葉に、はたと目を瞬かせた。そして慌てて白鬼を押しのけてベッド脇に駆け寄り、その顔をよく見る。
「那王、那王っ?」
「……久しぶり。大きくなったんだな、焔……」
「当たり前だろうっ。お前が嘘ついていなくなったのはもう7年も前の話だぞ!」
「ああ……それじゃあもうランドセル、背負ってないのか……」
 ぼんやりと呟く鶴来の言葉に、焔ががっくりとその場に膝をつく。あまりにも間の抜けた台詞に全身から力が抜けたのだ。
「背負っているわけないだろそんなもの……」
 けれど、自分の名を忘れずに呼んでくれた。ただそれだけで、涙が出そうになった。慌てて目を擦り、立ち上がったところを背後からシュラインが、トンとその肩に手を乗せた。
「昔から不義理をする性質ではあったわけね。おはよう鶴来さん」
「……おはようございます……と言いたいところなんですが……」
 ふとその眼差しをわずかに揺らせて、鶴来はモーリスへと視線を戻した。そして翠、白鬼、焔、シュラインへと視線を動かして。
「……すみません、もう少し、眠らせてください……」
「術が解けたわけじゃないのか?」
 翠がモーリスに問う。モーリスは唇に親指を当てて小さく頷いた。
「多少力を弱める事はできましたが、何かがひっかかっているようで」
 あ、と思い出したようにシュラインが鶴来の腕を取り、軽く揺すった。
「鶴来さんっ、貴方が書き残していた呪詛を解くためのなぞなぞ、あれの答えって何なの?!」
 そうだ。起きたなら今本人に聞けばすむ話だ。
 が。
 鶴来はまた深い眠りに入ってしまったらしく、答えが返ることはなかった。


<コピー>

 再び眠りに落ちた鶴来を前に、全員が一様に深い溜息をついた。
 なんだか、酷く疲れた。肉体的に、ではなく、精神的に、だ。
 だがいち早くそんな状態から復帰したのはモーリスだった。もう一度鶴来の手首に触れて脈を取ってから、両方の手を、何かを包むような形にし、そこに視線を落とす。
 不思議そうに、白鬼がその手を覗き込む。
「何だい?」
「ああ、とりあえず今、前よりも少し呪詛の状況が軽くなっているので、このまま現状維持しようと思って」
「現状維持?」
「私の能力で、檻を生成し、彼をその檻の中におきます」
「檻?」
 胡乱げに聞き返したのは焔だった。何をするつもりかと目で問うている彼に、けれどもモーリスは口で言うよりも実際にやって見せた方が早いと思ったのか、無言でまたその視線を両手へと落とした。
 イメージするのは、透明な壁で形成された立方体。
 キィンと、硬質な音が周囲に響いた。それを察したシュラインが、痛そうに顔をしかめて耳元に手を当てる。
「何……この音っ」
 すさまじい耳鳴りにも似たその音。
 包んだ手の中に生み出された小さな透明立方体を見、モーリスがゆっくりと、その両手を開く。と、その立方体がするすると見る間に大きくなり、人一人を余裕で内包できるほどのサイズへと変化する。そしてその中に鶴来が眠っている場所――ベッドごと、納めてしまう。
「……結界のようなものか」
 呟いた翠に、モーリスが頷く。
「これでとりあえずは症状が悪化することはありません。外部からの干渉もほぼ防げます」
「そうか……じゃあとりあえず、後は綺くんがここに到着するのを待つだけかな」
 動きたくても動けない。
 それが多少歯がゆくはあるが、時には待つことも必要な事もある。
 羽織ったままだった濃茶のフルジップパーカーを脱ぎながら、白鬼が言う。
 けれどその言葉に反するように、モーリスが緩く首を傾げた。
「どなたか、彼の弟さんがどこにおられるかご存知ないですか」
 問われるが、呪詛をかけた張本人がどこにいるかなど、誰も知っているはずはない。
 ……はずだったが。
「ああ、それなら新宿中央公園の水の広場ナイアガラの滝辺りに居るわよ」
 あっさりとシュラインが返事した。驚いてその場に居た全員が彼女を見る。
「なんでそんなこと知ってるんだ」
「え? だって今、湖影(こかげ)くんが彼に会ってるもの」
 焔の鋭い口調による問いかけに、シュラインはわずかに眉を持ち上げて言った。
「まあ多分、この中で鶴来さんの弟を捕まえられるのは彼だけだしね。いろいろ仲良くしてるみたいだし、何とか彼を説得してみるつもりらしいけど」
「湖影さん……ですか。まあとりあえず、私も行って来ます」
「行って来ます、って……行った所で相手に余計な警戒させるだけじゃないか? 説得するっていうならその男に任せた方が利口だと思うが」
 翠の言い分ももっともだった。が、モーリスとて何も手立てを考えていなかったわけではない。
「こんなに自分の持つ能力をフル活用するのも久々というか……」
 呟き、そっと自らが生成した檻の中で眠る鶴来の手に触れる。
 すると、徐々に淡く彼の体が光を帯び始めた。柔らかいその光。
 室内にいた全員が、目を見開いた。
 自らの目の前で起きていることが、信じられなかった。
 金色だったモーリスの髪が、毛先から黒く染まっていく。そして体つきもわずかに変化し――…。
 やがて彼を包んでいた光が消えた時。
 そこに立っていたのは、モーリスではなく、今檻の中で眠っているはずの鶴来、その人だった。するりと、襟足で結んでいた髪を解く。
 何が起きたのか、即座に理解したのは焔だった。
 鶴来那王の姿を、モーリスはそっくりそのままコピーしたのである。
 寒気がした。
 本人ではない者が、本人の姿をしてその場に立ってこちらを見ている、ということに。
 頭では、おそらくはこれで弟を少しくらいは油断させたり動揺させたりできるかもしれないと思った。だが、理性とは別の所で……感情が、その姿を拒絶する。
 どうしても、許せなかった。
(それは、那王の姿だ……!)
 誰かが勝手に使っていいものではない!
「お前……っ!」
 感情が爆発するのに任せて腕を伸ばし、モーリスの胸倉を掴み上げようとして――その手を、横から白鬼に掴まれた。
「落ち着きなよ。内輪もめしてる場合でもないだろう?」
「はいはい、焔くんはこっちこっち」
 その白鬼が掴んだ手を今度はシュラインが捕まえ、腕を絡めるようにしてズルズルとモーリスから焔を遠ざけた。やれやれと肩を竦めるのは翠。
「じゃあ、とりあえず俺たちはここで那王に干渉してくるヤツがいないかどうか見張ってるから」
「ではこちらは任せます」
 声すらもが、鶴来とまったく同じだった。
 自分も鶴来と同じ声を発した事はあるのだが、姿形まですっかり写し切ってしまったモーリスのその姿に、シュラインは苦笑する。
「気をつけてね」
 とりあえずそう声をかけるに留まる。その隣に居た焔は、今にも飛び掛りそうな眼差しでモーリスを見ていたが、チッと鋭く舌打ちするとそのまま顔を背ける。そうする事で彼の姿から目をそらせるように。
 静かにドアの向こうへと消えたモーリスの――鶴来の背中を見送ると、残された者たちは思わずベッドの方へと視線を向けた。
 先程と変わらず、鶴来は静かな眠りの内にいる。


<銀光とは>

 とりあえず、今は……今の所は特に何もする事がない状態で手持ち無沙汰になった4人は、手短に自己紹介を済ませた。
 とはいえ、翠、白鬼、シュラインの3人は既によくよく顔を合わせたことがある面子だったので、主に紹介は焔に対してのものだった。
「それにしても鶴来さんと幼馴染なんてねえ。なんかこの人の子供の頃の姿って、あんまりイメージできないのよねえ」
 シュラインはベッドのサイドボードの上に置いてある、籠入りの花アレンジメントと、あと、シュラインが綺から預かっていた「桜の枝」を活けた一輪挿しを倒さないようにと気を使いながら、持ち込んでいた紙コップを人数分狭いスペースに置いてスプーンでインスタントコーヒーの粉を放り込んでいた。
 桜は、綺がこの場に来れないのなら、せめて彼から貰った桜だけでも傍に置いておいてあげようという、シュラインの心遣いである。
 ちらと、シュラインが焔を見た。
「どんな子だったの、鶴来さんて」
「どんなって……別に、普通の」
 としか言いようがなく、焔は窓辺に立ったままわずかに肩を竦めた。とはいえ、何が普通で何がそうじゃないのか、いまいち焔にはよく分からなかったのだが。
 その言葉に、ベッドから離れた場所に丸椅子を移動させて座っていた翠が、焔の方へと顔を向けた。何か言いたそうに一瞬口を開きかけるが、そのまま何も言わずに溜息をつく。
 どこか浮かない様子の翠に、部屋の隅に置いていた籠を鶴来の方へと運んでいた白鬼が首を傾げた。
「どうしたんだい? なんか元気ないが……そういえばさっき、力使ってたね。何か、なぞなぞのヒントはあったのかな」
「あー……それは、多分、『緋降』とかいう刀だとは思うんだが」
「ああ、そういえばシュラインさんも綺くんとそんな事言ってたね」
「一応、綺くんにそれを持ってきてって伝えておいたんだけど……」
 言って、シュラインは作りたてのコーヒーを焔に手渡しながらちらと鶴来の枕元に置いておいた目覚まし時計を見る。
「京都からここまでだと、新幹線使って2時間くらいかしら」
「2時間半くらいだ」
 呟いた焔が、コーヒーを受け取って「悪い」と小さく礼を述べる。
 あ、と白鬼が焔を見た。
「そうか、君も京都なのか。まあ鶴来君と幼馴染ならそうなるか」
 頭をカリカリとかきながら朗らかに笑う白鬼。そのまま顔をシュラインへ向けた。
 思い出した事があったのだ。
「そういえば、謎の後半部分はどうなったのかな」
「え? あー……アレね。どうなのかしら。まだちゃんとした事は分かってないんだけど……どう思う?」
 まずは白鬼に、そして次いで黙り込んでいる翠にもコーヒーを手渡し、シュラインは鶴来の近くに置いてある椅子に腰を下ろした。
「私は、単純に考えて、月光か雨粒か……って思ったんだけど。あとは……涙、とかね」
 涙だったら、幾らだって泣いてやるのだが。
 けれど、「虚空より降りし」と書いてあったなら、多分、空にあるものだと思うのだ。
「モーリスさんは月明かりの下で何かするんじゃないかって言ってたけど。あと、湖影くんは新月……だったかしら。それに掲げるんじゃないかって」
「ああ、なるほど。俺は流星か雨かと思ったんだが……」
 片手に提げていた、様々な甘物が詰まった籠を鶴来のベッドの下に置きながら、白鬼が言う。
 と、紙コップを包むようにして持っていた手に黙り込んだまま視線を落としていた翠が、ふと顔を上げた。
「生まれて間もない月、って、何のことだと思う?」
「それ、サイコメトリーで読み取れた結果かい?」
 白鬼に問われて、翠は頷いた。
「緋降と、生まれて間もない月……っていうイメージを読み取ったんだが」
「新月のことじゃないのか?」
 ぽつりと、焔が口を開いた。
「欠けていく月じゃなく、満ちていく月。月齢で考えてみたら、減って行くのを生まれて間もないとは言わないだろうから、月齢0から順に、満ちていく月」
「そうか、『細き銀光』っていうのは細い月の事を示していたのか」
 翠が頷いた。
 なら、あのなぞなぞの意味するところは「新月の光に緋降を掲げろ」ということか。
 ……どうやら、ようやく全ての意味が解読できたらしい。
 しかし。
「じゃあ、一体新月っていつなんだろう?」
 白鬼がコーヒーをすすろうとした手を止めて首を傾げた。それに翠が眉を寄せる。
「新聞に月齢って出てなかったか?」
「……草間にでも電話かけてネットなりなんなりで検索かけてもらえばいいだろ」
 言って、ちらりとシュラインを見る焔。確かに、それが一番早いかもしれない。
 とはいえ病院内で携帯電話を使うのは気が引けて……仕方なく、シュラインは席を立つと、廊下に置いてあった公衆電話に向かった。
 そうなると、室内には男ばかりが残るわけで。
 焔はなにやら白鬼に対して妙な敵対心のようなものを持ってしまったらしく目を合わせようともしないし、翠は翠で、なにやらさっきから気分でも悪いのか、妙に押し黙ったままだった。
 何とも、居心地が悪い。
 やれやれと白鬼が溜息をついた時、シュラインが駆け戻ってきた。
「ちょっと!」
 慌てるシュラインとは対照的に、のんびりと白鬼が眠そうな眼差しを返す。本当に眠たいわけではなく、彼は常にそういう顔なのだが。
「どうしたんだい?」
「今日、月齢0なの! だから今日以降……つまり、明日くらいがチャンスって事みたいなのよ!」
 それはまた、なんというタイミングか。
「なら今日緋降がこっちに届けば、明日には万全の体制で解呪に挑める、ということか」
 呟く翠に、焔が頷く。
 綺が絶妙のタイミングで手紙を送ってくれてよかったというものだ。これがもう少し遅ければ、一ヶ月近くまた待たなければならないところだった。
 ここまで条件が整ったのなら。
 後はもう、緋降を待つだけ。


<桜、散る>

 廊下の方で、バタバタと激しい足音がした。
 救患か何かだろうかと思った鶴来の病室に詰めていた者たちは、勢いよく開かれたドアの向こうに立っていたモーリスと虎之助に目を瞬かせた。
「……どうしたの一体」
「誰が緋降を持ってくるんだ?!」
 問いかけたシュラインに、虎之助が足音高く室内に入り、前置きもせず怒鳴るように言った。その虎之助の肩にそっと手を乗せて落ち着かせるように促すと、モーリスが代わってシュラインに問う。
「緋降という刀をこちらに持ってくるのは、あの手紙を出してきた綺さんですね。今、綺さんはどちらに?」
「どちらって……多分、新幹線に乗ってるんじゃないの? 持ってきてってお願いしたっきり、連絡取ってないからわからないけど」
「では、誰も綺さんに付き添っていないんですね?」
「付き添うって……」
 二人が何を言っているのかいまいち理解できず、シュラインは眉を寄せた。
「綺くんがどうかしたの?」
 そう、シュラインが改めて聞いた時。
「あ……桜が!」
 翠が立ち上がって不意に声を上げた。全員の視線が、鶴来が眠っているベッドの傍にあるサイドボード上へと向けられた。
 そこには、シュラインが持ってきた桜が、一輪挿しに活けてあったのだが。
 その桜の白い花弁が、はらはらと、落ちはじめていた。
 驚いてシュラインが駆け寄り、手を花にかざす。
「どうして……綺くん、枯れない桜だって言ってたのに」
 シュラインが大切に思う限り、決して枯れる事はない、と。
 何故か、途端に嫌な予感が胸の中に沸き立ってくる。
 はっと、虎之助とモーリスを見た。
「綺くんに何か起きるっていうの?!」
 と、その時。
 かたん、と。
 ドアの方で音がした。
 反応したのは、白鬼だった。反射的に椅子を立ち、音に引かれるようにドアへと歩み寄る。
 虎之助たちが来た時に開かれたままになったドアからひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。
 すると、その目の前に、はらりと一片、白い花弁が舞い降りた。
 思わず手を出し、それを掌に受ける。
 桜の花弁だった。
 それを見て、一瞬、綺が来たのかと思った。
 ……が、そうではなく。
 もう一片舞い降りた花弁に引かれるように、視線を斜め下に落とし――白鬼はその細い双眸を、見開いた。
「これは」
 白い壁にもたれかかるように立っているのは、黒い鞘に収められた一振りの刀だった。その刀を護るように、周囲には桜の花弁がゆるゆると渦を巻いている。
 白鬼の声に反応したように、他の者たちも廊下へ出、そこにある刀を見、一様に動きを止めた。
 刀は、ある。
 けれども、それを運んできたはずの綺の姿が、そこにはなかった。
「綺くん?!」
 病院内だということも忘れ、シュラインが声を高くしてその名を呼ぶ。けれど、返る声はない。
 焔が、横から翠の肩を叩いた。
「刀に残された記憶、読んでみたらどうだ?」
「……そうだな」
 触れていいものかどうかと悩んだが、きっと、この桜の花弁が綺に関係しているものなら自分を敵だとは見なさないだろう。
 思い、翠は片膝をリノリウムの上に落として左手を伸ばし、黒い柄に触れた。
「……っ」
 途端、かすかな耳鳴りと共に流れ込んでくる記憶。
 ――おそらくそこは、鶴来の自室。その部屋の片隅に、ひっそりと置かれているのは、今ここにあるこの刀だった。
 それに手を伸ばす、高校生くらいの少年の姿が見えた。おそらくそれが、綺なのだろう。
 が。
 彼の手が、刀に触れるその直前。
 ふらりと、その体が傾いだ。肩で荒々しく息をつきながら、胸元を押さえている。
 持病か、と思ったが、そうではない。
 これは……流れ込んでくる綺の意識の欠片から拾い出せた言葉は。
 ――呪詛、か。
 苦痛に顔を歪めながらも、綺はその場に膝をついただけで、倒れこみはしなかった。自分を強靭な精神で律し、掌を刀にかざす。
 ――お願いだ、俺を守りし桜の神子たち……俺はいいから、この刀を、どうか、あの人の元へ……!
 祈るような強さで紡がれる言葉。それに応じるように、どこからともなく桜の花弁が現れ、刀を包み込んだ。まるで桜の花弁による繭のように。
 だが次の瞬間、パァンとその繭が弾けた。桜の花弁が散る。
 散った先。
 もうそこには、刀は無かった。
 そして、崩れ落ちる綺の体……。
「……っ」
 意識が、現実に戻った。目に映るのは、さっきまで時間の狭間で見ていたのと同じ、刀。
「何が見えたかな?」
 問うモーリスに、翠は力なく項垂れて頭を振った。
「……綺……刀をこちらへ運ぼうとした時に、誰かに呪詛をかけられたようだ。桜の精霊に命じてここに空間転移して運ばせたようだが、綺自身は……おそらくは、もう……」
「嘘……!」
 口許を両手で覆い、シュラインが短く悲鳴を上げた。
 桜が散ったのは、シュラインの気持ちが変わったからではない。
 綺が、いなくなってしまったからだったのだ。
 そうだ。綺は、言っていたじゃないか。
『何があっても必ず、緋降だけはそちらへ届けます』と。
 また自分は、鶴来が呪詛に倒れた時と同じく、言葉の奥底に潜むあまりにも強すぎる決意を見逃してしまったというのか……!
 どうしていいのか分からず頭を振り、シュラインはその場に膝から崩れ落ちた。が、それを横合いから白鬼が腕を取って支えた。
 大丈夫か、とは……言えなかった。大丈夫なはずがないからだ。
 と、その廊下の前方に、黒い影が現れた。騒ぎを聞きつけた看護士かと思ったが、そうではない。
 黒いハーフコートを着た、青年だった。黒いキャスケットの下の冷めた黒い瞳を、じっとその場に居る者たちに向けたままゆっくりと歩み寄ってくる。
 それは七星真王(ななほし・まお)――鶴来那王の、弟だった。
 それを見た途端、シュラインが駆け出した。そして真王の胸倉を掴んだ。
「アンタが綺くんに呪詛を放ったの?! 鶴来さんだけじゃ足りなくて、綺くんまで手をかけたっていうの?!」
 全身に渦巻く怒りをぶつけるかのように声を上げた。が、真王――正しくは、真王の裏人格・ルシフェルはその手を振り払いもせずじっと冷めた目でシュラインを見ていた。思わずシュラインがその拳を振り上げた時。
 その手を、横からそっと掴んだ者がいた。
 虎之助だった。
「違う、こいつじゃない。こいつがやったんじゃない」
「そんなこと分からないでしょっ! 湖影くんだって見たじゃないの、彼が自分のお兄さんに呪詛を放ったところを! 自分の兄を呪えるんなら、まったくの他人である綺くんを殺すことくらい……っ」
「違う! ……こいつが言ったんだ。ここに刀を持ってくる人物の身が危ないって。だから俺たちは慌ててここに来たんだ。こいつが呪詛を放つなら、そんなこと言うわけないでしょ?」
 激昂するシュラインをなだめるように言い、虎之助は優しく、シュラインの手をルシフェルの胸元から外した。ふらりと後ろに数歩よろめいたシュラインのその体を抱きとめ、モーリスが自然に、その触れたところから全てを調和へと導く力を注ぎ込む。
 昂ぶった心を、通常の精神状態へと戻すために。
 その横で、焔は目を見開いてじっと真王を見ていた。記憶にあるのとは随分と印象の違う、幼馴染の姿を。
 けれどその幼馴染はというと焔の事にはまったく意識を向けてはいなかった。傍らに立つ虎之助をちらと見、翠の手元にある刀へと視線を向ける。
「これで解呪の鍵は手に入った。よかったな。お前たちの望みがこれで叶えられるわけだ」
「ルシフェル」
 低く発せられる、諌めるような虎之助の声。モーリスの力で冷静さを取り戻したシュラインが、憎しみすらこもる目でルシフェルを見た。
 翠が、短く溜息をついてルシフェルを見やる。
「人の命が一つ無くなったとわかっていてわざと言っているのなら大した性格の悪さだ」
「お褒めいただき恐悦至極だ」
 ニヤ、と笑って紡がれたその言葉。が、それを手で制して、白鬼が問いかけた。
「それで。誰が綺くんに呪詛を放ったのか。君は分かっているんだろう?」
 その言葉に、ルシフェルは唇を歪めて視線を鶴来の病室のドアの方へと向けた。
「……七星の者だ」
「七星のって……真王、お前が当主なのにか?」
 焔が訝しげに問う。それにちらと視線を向けるルシフェルだが、そこには幼馴染に再会したという懐かしさなどという類いの表情は一切存在せず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「主の留守に勝手な真似をした者がいる。それだけのことだ」
「仮にも主と名乗るのなら、部下の不祥事くらいは面倒見てもらいたいね」
 冷めた口調で告げるモーリスに、かすかに唇の端をつり上げて笑ってみせる。
「残念ながら俺は神ではないからな。命を返せと言われても無理だ。が」
 ちらりともう一度、傍らに立つ虎之助を見る。それに、虎之助が眉を寄せた。
「なんだ?」
「……最後まで付き合えよ?」
「…………」
 何か、決意を固めたらしいルシフェルに、かすかに笑い、ポンとその頭に手を乗せた。
「分かってる」
 二人が何のことを言っているのかは分からなかったが、次にルシフェルから告げられた言葉に、虎之助を除く全員が、目を瞠った。
「明日、那王の呪詛を解く。緋降は虎に預けておけ。こいつには七星の呪詛は効かないから、他の奴が持っているよりは安全だ」
 それに、白鬼は首を傾げた。
「ちょっと待て。明日呪詛を解くって、今君が術を解くわけには行かないのかい?」
 踵を返しかけていたルシフェルが、足を止めて肩越しに振り返る。
「確実を期したいのなら、明日を待つことだ。呪詛をかけたはいいが、実際のところ、俺にもその解呪は難儀なんでな。組み合わせた呪が複数に渡るから、一つずつ術で鍵を開けていったら、結局は明日の夜までかかる」
 それに、と言葉を次いで、その目をシュラインに向けた。その顔には、冷笑が浮かんでいる。
「今この状況で那王が目覚めても、少しも嬉しくないだろう? 明日までに気持ちの整理くらいはつけておけ。……自分の為に綺とかいう者の命が犠牲になったと知る那王を、慰めてやれるくらいにはな」
 それだけを呟き、彼はその場を後にする。
 ルシフェルがいるというただそれだけで妙に張り詰めていた空気が、その存在をなくした事でほどけた。
 緋降は手に入ったのに――何とも言えない空虚さが、その場には満ちていた。


<目覚めの時>

 空気が、冴えていた。
 猫の爪のような細い月が、虚空には浮いている。
 ――12月24日。午後9時。
 月齢、1.094。
 ……緋降が届いてから、既に一夜明けている。
 病室の窓を開け放ち、凍えた空気を室内に取り込みながら、翠が振り返る。
 その視線の先には、鶴来のベッド脇でその顔をじっと見つめているシュラインがいた。目許が赤く染まっているのは、綺の死を悼み、泣き明かしたためかもしれないとちらりと思った。
 焔もまた、鶴来のベッド脇に立っていた。その傍には、通常の人間には見えないが、寄り添うように彼の式・犬神の伏姫が座っている。
 確かに、綺が亡くなった事は引っ掛かる。だが、それよりも自分には、もうすぐ彼が目覚めるということの方が大事だった。
 眠る顔を見、焔は自分の胸にそっと手を当てた。
 ……那王……。
 胸の内で、呟く。
(俺は、ずっとお前を探していたんだ。……帰って来い。帰ろう。こちらの世界へ。俺たちがいる世界へ)
 何があっても、もう、何者にもお前を傷つけさせはしない。
(神すらも敵に回してもいい。俺が、お前を守ってやるから)
 それは、誓い。
 誰に告げる言葉でもない。自分自身への、自戒にも似た誓いだ。
 真紅の瞳でじっと鶴来の顔を見つめている焔の、その横で白鬼もまた、自らの思考の内に居た。
 彼は、綺が亡くなったことを知れば――壊れてしまうかもしれない。そんなことを、思う。
 ただでさえ危うかった精神のバランス。誰かを守らなければいけないという思いがあれば、まだそのバランスを保つ事もできただろう。
 けれど、今はその対象が、自分が倒れている間に命を落としてしまった。
 ……耐えられるのだろうか、彼に。
 もしかしたら、このままずっと、何も知らないままに眠らせておいたほうがいいのかもしれない。
 ふと、そんな事を思い――ゆっくりと目を伏せて緩く頭を振る。
 いいや。
 それは、自分が彼にしてやれる事とは違う。
 自分は、彼の道を照らすためにここにいるのだ。
 そう、彼に約束したのだ。
 きっと今こそ、彼の手を引いてやらなければならない時なのだ。一人でその痛みを抱えさせはしない。同じ痛みも、分け合えばきっと、少しは楽になるだろうから。
 大きく一つ溜息をついた白鬼のその様をチラリと見てから、窓辺に立っていたモーリスが腕に嵌めた時計へと視線を落とした。
 そろそろ、か。
 思った所、コンコン、とノックの音が響いた。誰も返事をしなかったが、静かに、ドアが開く。
「悪い、少し遅れたかな」
 入ってきたのは、腕に毛布を抱いた虎之助だった。毛布は細長く、何かを包み込んでいるようだった。
 包まれているのは、言わずと知れた、緋降である。
 その虎之助の後ろから、黒い影が現れる。
 黒い式服を纏ったルシフェルだった。それを見て、シュラインと白鬼は、彼が一度綺に会った事があることを思い出した。
 自分達が綺に会うきっかけになった事件の手引きをしたのが、彼だった。
 彼に巻き込まれなければ、綺は今頃、まだ生きていたのだろうか?
 思うが……口には出さず、シュラインはふっと吐息を漏らした。そして椅子から立ち上がる。
 今は感傷に浸っている場合じゃない。もしかしたら、解呪の隙をついて、綺を狙った者からの呪詛がこないとも限らないのだ。妙な外部からの干渉が無いかどうか、細心の注意を払わなければならない。
 そしてその旨は、他の面々にも伝えてあった。
 モーリスが、鶴来の周囲に作ってあった『檻』を解除する。両腕を開いて、檻の表面が腕の中へと収縮する様を思い描く。
 するすると、徐々に小さくなっていき――最後には爪の先ほどの大きさになり、やがてぱちんと弾けて消えた。
「これで干渉できるようになったので」
 言って、ルシフェルを振り返る。それに小さく頷くと、ルシフェルは虎之助を見た。
「虎ちゃん、緋降を」
「ん、ああ」
 毛布を解き、中から黒い鞘と柄を持つ刀を取り出し、ルシフェルの手へ渡す。それを受け取り、窓辺に歩み寄りながらすらりと鞘から抜き放つと、その鞘を虎之助ではなく、窓の近くに居た翠に手渡した。
「さて。上手く呪を切れるといいがな」
 呟いて、ルシフェルはその真紅の刃を窓の外に見える月へと掲げた。そしてふと肩越しに室内を振り返る。
「……誰か、代わりにやるか?」
 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。
「冗談なら後でいいからさっさとやれ」
 焔が苛立たしげな声を出す。モーリスも肩を竦める。
「4ヶ月間眠っていた人が健康に目覚める様をぜひとも見たいから早くしてもらいたいね」
「……美味しい所だけ持って行くような気がして悪いと思ったんだがな」
 かすかに笑うと、再びルシフェルは月へと顔を向ける。
 そして。
 笑みを消して深く一つ呼吸すると、朗々とした声を発した。
「吾は是れ、天帝の執持しむる処の禁刀なり。凡常の刀に非ず。千妖も万邪も皆悉く済除す」
 続いて、天にかざしていた刀を、九字を切るように四縦五横に振るう。
「天は我が父たり、地は我が母たり。六合の中に、南斗と北斗、三台と玉女在り。左に青龍、右に白虎、前に朱雀、後に玄武在り。前後扶翼す。急々如律令」

 ――……。

 室内を、静寂が支配した。
 誰も、動く者はなく。動く物も、なく。

 ……酷く時間が長く感じられた。
 ふ、と。
 鶴来のその、閉ざされていた瞳が、開くまで。


<終――癒えぬ傷>

 どこをどう歩いて帰ってきたのか分からない。
 壊れそうなほどに泣いて、自分が死んでいれば綺が死なずにすんだだろうと叫ぶ鶴来の姿を見ていられず、病室を出て……。
 気がつけば、シュラインは草間興信所のソファに腰を下ろしていた。
 昨夜は結局この事務所には戻らず自宅に直行した。
 そういえば……草間の顔を、丸一日、見ていないと今気づく。連絡すらしていない。
 彼の声を聞かなかったのは、久々かもしれなかった。
 室内は無人。鍵が開いていたのは何故だろうとぼんやり思っていたところ、かすかな音がして草間が外出から戻ってきた。
「お。戻ってたのか。電気もつけずにどうした」
 窓から入る明かり以外に照明となるものがない真っ暗な室内に足を踏み入れながら、草間が壁に手をつき、そこにあった電気のスイッチを入れた。
 ぼんやりと放心したようなシュラインに、草間が怪訝そうに眉を寄せながら、コンビニの袋片手に歩み寄る。
「どうしたんだ、おい? 何かあったのか」
「……武彦さん」
「ん?」
「……退職届、受け取って」
「は? ……っておいちょっと待て!」
 言うだけ言ってまたふらりとソファから腰を上げて事務所を後にしようとするシュラインの腕を、草間が捕まえた。
「一体何があったんだっ。説明くらいしろ!」
「私が抜けても、今ならもう別に雑務をこなすのにも支障ないでしょ? ……色々、調べる時間が欲しいのよ」
 虚ろな顔で告げるシュラインに、草間は首を振る。
「それじゃ説明になってない。一体何があったんだ? 鶴来に、何かあったのか」
「……綺くんが」
 ぽつりと。
 その名を口にした途端。
 シュラインの青い双眸に涙が浮かんだ。それはすぐにぽろぽろと彼女の頬に零れ落ちる。
 覚醒した鶴来の前でも、何とか耐えて、気丈に涙を零さずにいたシュラインだが……もう、こらえ切れなかった。両手で顔を覆い、深く俯く。
「綺くんが、死んじゃったの……っ」
「……なんだって?」
「私……私が、一言、無理しないでって、言ってたら……っ。綺くんに何かあったら、鶴来さんが悲しむって、そう、言ってあげてたら……っ」
 桜の神子精霊に守られていた、綺。
 その神子たちを自分の為に使えば、呪詛をなんとかできたかもしれない。完全に解除はできなくても、死に至るほどのダメージは負わなかったはずだ。
 なのに、『必ずそちらへ届ける』と言った言葉を守る為に、彼は精霊を自分から離し、鶴来の元へ刀を届ける為に走らせた。
 約束を、守る為に。
「…………」
 声を上げて泣くシュラインを、草間はしばし眺めていたが、やがてそっとその肩に手を置いた。
「お前のせいじゃないだろ。きっとお前がそう言ってたところで、綺が聞いたとも思えない」
「でも……っ」
「むしろ、自分が死んでお前が悲しむより、鶴来が死んでお前が悲しむほうが、綺にとっては辛かったんじゃないか?」
「…………」
「そんなお前を、見たくなかったんだろう」
 何度かこの事務所に訪れた事がある、綺。
 普段は無表情な少年だったが、ただ一つ、彼の表情を彩りあるものに変える存在が、あった。
「……あいつ、お前のこと慕ってたからな」
 慕っていたと言うよりは、あれは――恋心、だろう。
 それを今告げるのは酷かと思ったのか。それ以上草間は何も言わず、ただ、シュラインが泣き止むまでずっと、その肩に手を置いていた。

 翌日。
 鶴来の病室を訪れたシュラインは、その部屋に彼の姿が無い事に目を見開いた。
 ベッドの上には患者衣が脱ぎ捨てられている。
「……鶴来さん」
 目覚めたとはいえ、4ヶ月も眠っていたのだ。まだ動けるはずは無いのに。
 どこへ行ったのかと、慌ててナースセンターに走ろうと思ったその時。
 ドアが開いた。
「あれ?」
 その声に、振り返る。
 と、そこには黒いスーツを身に纏った鶴来が立っていた。4ヶ月前となんら変わらない微笑を浮かべて。
「シュラインさん。どうかされましたか?」
「……どうか、って……どこ、行ってたの」
「ああ、モーリスさんにお礼を言いに行っていました」
「そんな体で?!」
「今、廊下で看護士さんにも叱られたところです」
 困ったような笑みを浮かべ、鶴来はスーツの上着を脱ぎながらベッドに歩み寄った。そして、ああ、とそのベッドの傍らにある丸椅子の上に置いてある籠に手を伸ばし、中から一つ、月餅の包みを取り出してシュラインに差し出した。
「抜剣さんのお土産だそうです。いかがですか?」
「…………」
「あ、俺が眠ってる間、ずっとケーキとか持ってお見舞いに来て下さっていたそうですね。草間に聞きました。ありがとうございました」
 穏やかな微笑を絶えず浮かべているその顔は、本当に、4ヶ月前とまったく同じ鶴来の様だ。
 だが。
 シュラインには、その笑顔が……作り物である事くらい、よく分かっていた。
 少し腫れぼったいその目許。それはきっと、昨夜、泣き続けていたためだろう。
「あ、お菓子だけ渡してお茶も出さないなんて、気がききませんね俺も」
 言って、ベッドに腰を下ろしたところ、すぐにまた立ち上がる。
 どう見ても、それはただの空元気。
 見ているほうが痛ましくてたまらなかった。
 思わず、シュラインはそんな鶴来の体を抱き締めていた。
「……シュラインさん?」
「……ごめんね、鶴来さん」
「何を謝っておられるんですか」
「……ごめんね……」
 自分も、昨夜は気がすむまで泣いたつもりだった。もう枯れたと思ったのに、またその目から涙が零れ出す。
 その背に、鶴来がそっと手を回した。
「草間に聞きました。興信所、お辞めになるつもりだとか」
「…………」
「辞めないでくださいね」
 言われて、顔を上げる。
 鶴来は、優しく微笑んでいた。
「あなたがあの事務所にいる。それがいつも、綺があなたを思い描く時に思い出していた光景だと思うんです。だから」
 静かに、その双眸を伏せ。
「辞めないでください。あなたがあの場に居る事が、きっと……」
 言葉が、途切れた。
 深い吐息を漏らしたその鶴来の眉が強く寄せられ。
 閉ざされた目から、涙が零れ落ちる。
 声もなく静かに泣く鶴来を、シュラインは強く抱き締めた。そして鶴来もまた、涙を零し続けるシュラインの身を優しく抱きとめていた。
 お互いの心の傷を、癒そうとするかのように。


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0065/抜剣・白鬼 (ぬぼこ・びゃっき)/男/30/僧侶(退魔僧)】
【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0523/花房・翠 (はなぶさ・すい)/男/20/フリージャーナリスト】
【0689/湖影・虎之助 (こかげ・とらのすけ)/男/21/大学生(副業にモデル)】
【0856/綾辻・焔 (あやつじ・ほむら)/男/17/学生】
【2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男/527/ガードナー・医師・調和者】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 シュライン・エマさん。再会できてとても嬉しいです。
 ですが。
 えー…多分今回参加者中、一番…痛いのではないかと…(汗)。
 鶴来の件ではなく、綺と、とても深く関わっていただいていたので…。
 退職届云々のプレイングを見た時は、本当に激しく動揺したのですが…最後に鶴来が言っています通りのことを、逢咲としても思っておりますので。

 今回、個別部分がけっこう多かったりしますので、あっちやこっちを読み進めていただけば、きっと、NPCについていろいろなことが分かると思います。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。