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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


呪解緋

<序>

 時の彼方に見える、因果の糸を絡め取れ。
 それが、合図。
 仕切り直しとなるか、これで終幕となるか――…

 それはまだ、分からない。

          *

 目の前には、一通の手紙がある。
 それを溜息混じりに手に取り、草間武彦は空いた手で近くにあった煙草を引き寄せた。
 すでに手紙の内容には何度も目を通し済みである。
 それでもまた目を通そうとして、草間は緩く頭を振る。
 ……さて、どうしたものか。
 ちらりと、目を机の上にある封筒の方へと向ける。消印は、京都の某局。くるりとひっくり返すと黒い細ペンで差出人名が書かれていた。
 七海 綺(ななみ・あや)、と。
 この事務所にも実際に何度か来た事がある、とある里の桜の守人である。
 ある事件で身内をすべて無くした為、今は草間の旧友でもある鶴来那王(つるぎ・なお)という名の青年の、京都にある実家に身を寄せているのだが……。
 その友人の顔を思い出し、思わずまた一つこぼしかけた溜息を隠すように、草間は煙草をくわえる。
 思い出す彼の顔は、寝顔だけだった。
 かれこれ数ヶ月、鶴来那王は意識不明、原因不明の昏睡状態に陥っている。数年ぶりにやっと顔を合わせたと思ったらそんな状態の旧友に、草間はかけるべき言葉もなかった。
 とある事情により「何とか目を覚まさせてやる」とも言えず――早数ヶ月。
 夏の盛りだった季節は、すでに冬を迎えている。
 いつ消えるやも知れぬ命の前に、けれども自ら動く事もなく無駄に時を重ねていた、そんなある日。
 速達として届けられた、綺の手紙。
 そこに記されている文字をまた草間はぼんやりとした目で眺めやっていたが、ややして煙草に火をつけてくわえながらふらりと席を立ち、その場にいた者たちに文面を見せてみた。

          *

 前略、草間様

七海です。
月並みな挨拶ではじめたいところですが……今はそれどころではないので……。
さっそくですが、現在、那王さんが何者かの呪詛を受けて東京のとある病院で昏睡状態に陥られている事はすでにご存知かと思います。
その呪詛を放ったのが那王さんの実の弟さんということも、多分草間さんはご存知だとは思います。
そしてその呪詛の解呪は、呪詛を放った本人と那王さん、那王さんの家系の人しか分からないと言うことも、多分ご存知ですね(いや、もしかしたら何か別に、解く方法があるかもしれませんが)。
先日、那王さんの部屋で、那王さん自身が書きつけたと思われる妙なメモを見つけたので、とりあえずその言葉を書き写したものを送ります。
たぶん、何か「物」を示す言葉だと思うのですが……。
何か分かったら、ご連絡ください。俺がその「物」を持ち、そちらに向かいますので。
もしかしたら、それが解呪に繋がるキーかもしれません。
あと、俺が那王さんに渡された鈴も、同封します。
その鈴は那王さんが持っていた「魔を吸い込む瓢箪」と連動しているらしく、それを燃やせばその術具が燃えるように出来ているそうです。術具を悪用される前に手を打ってくれとの事でしたが……それを本当に燃やしていいのかどうか俺には判断しかねましたので、できればそれも、そちらでどう取り扱うか決めてください。
それでは、よろしくお願いします。   草々

          *

 草間が「目を覚まさせてやる」と言えない理由が、そこには綴られていた。
 彼の弟が放った呪詛を解く方法が、弟本人か鶴来の家系の者しか分からないと言うのがネックだったのである。
 だが今、その鍵となるべき言葉がもたらされたのなら――話は別である。
「誰か、ここに書いてあるなぞなぞを解いてくれる奴は居ないか?」
 草間はそのメモに見入る者たちに声をかけた。
 が。
 ふと草間はそこに居る面々の顔を見て考えた。
 もしかしたら、このなぞなぞを解く以外に何か方法があるのではないか――と。
 それならそれでいい。
 この際、呪詛が解けるのならもうなんだっていいのだ。
 なぞなぞが解けないのなら、他の方法を探ってもいい。もちろん、この謎が解けるのが最良の方法なのだろうが……。
 思い、再び草間はそのなぞなぞが書かれた2枚目の手紙へと視線を落とした。そして――深く、溜息をついた。

          *

赫奕(かくえき)の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます。
清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。

さあ、我は何者か。
我が名を、答えよ。

答えたならば
生まれて間もない、虚空より降りし細き銀光に我を掲げよ。
其の時こそ 赭堊(しゃあく)の光、闇を裂く――


<動き出すもの>

 あれから、草間からも連絡はなかった。
 あの日――眠り続けている鶴来の依頼を請けて、以降。
 何も。
 死んだら死んだで連絡が来るだろうが、それもないところからするとおそらくは生きているのだろうが……。
 短く吐息をつき、湖影虎之助は、窓の外へと視線を向けた。
 自室の窓から見えるその見慣れた景色も、今はもうすっかり冬枯れのものへと移り変わっている。
 確か、呪詛が放たれたのは、8月上旬の事。
 としたら、もう既に4ヶ月、鶴来は眠りっぱなしだということになる。いくら病気ではないとはいえ、このままでいいはずがない。
 いいわけがない。
「……そろそろ……」
 独白を零し、虎之助はまた一つ吐息をつく。
 殺さないと言った、呪詛を放った張本人で鶴来の弟の中に宿る意識・ルシフェルの言葉を信じるのであれば、このまま放置していてもきっと鶴来は死んだりはしないのだろう。
 けれど、だからといって氏をいつまでも眠らせたままにしておくわけにもいかない。
 ……そろそろ、呪詛を解きにかかるべきだろう。
 それをルシフェルが承諾するかどうかは……本人に聞いてみなければ分からない。言って聞くような奴とも思えないが、彼に対し絶望しているわけでもない。言えば分かる奴だと、思っている。
 と、その時。
 ベッドの上に放り出していた携帯電話が軽やかなメロディを奏で出した。それは、特定の人物からメールが送られてきた時にのみ流れるように設定している曲。
「はいはい……っと。いつもながらいいタイミングだ」
 届いたメールを開いて見る。
 案の定、それは奴――ルシフェルからのメールだった。
 それに、わずかに眉を寄せる。
「また、あいつか」
 ここの所、送られてくるのはルシフェルのメールばかりだ。9月末に一度鶴来の弟の主人格・ミカエルと会いはしたものの、それ以降、彼からメールが来た事は一度もない。いつも、送られてくるのはルシフェルから。しかもかなり頻繁にだ。多い時には一日に20通近く来る。
 ……本当にストーカーもどきだなと毎度毎度苦笑していたのだが――最近そのメールのあまりの多さに、苦笑するどころか危惧を抱いていた。
 それは自分に対するストーカー行為について、ではない。
 もしや、常時ミカエルの意識を押しのけてルシフェルの意識が表に出ているのではないか? という心配だ。
 今までの彼らを見ていると、どうもルシフェルは、ミカエルの意識を強引に端に押しやって己の意識を表に出す事ができるようだ。が、ミカエルはそんなルシフェルを押しのけ返すことがどうも出来ないようなのだ。
 そうする気がないのかどうなのかは、ミカエル本人に聞いてみないと分からない。けれど、もしその力がないのなら、彼はずっと自分の体をルシフェルにのっとられ続けている事になる。
「……まあ、とりあえずは」
 また、例によって例のごとくどうでもいいことが書き連ねられているメール画面を返信モードに切り替えて、親指を器用に操って文章を入力しながら――ふ、と笑みを口許に浮かべる。
 それは普段から秀麗な虎之助の顔に、より凄絶な美しさを上乗せする、強気な笑みだった。
「俺は誰が死ぬのも誰が悲しむのも嫌なんだ。鶴来氏が死ぬのも、ルシフェルが消えるのも」
 鶴来が死ねば、間違いなくミカエルは悲しむだろう。9月末の、まだかすかに夏の匂いが残る風景の中で見た彼の透き通るような笑みを振り返ると……彼を悲しませるような事はしたくないと思えた。
 ボタンを押す親指を、止める。
 その顔に、さっきの笑みはない。
「俺は、お前以上にきっと我侭なんだ」
 真摯な眼差しで画面を見下ろしながら、虎之助は送信ボタンを押した。
 送られた文面を見て、奴がどう思うかは分からない。また、お前にはもう期待していないとかなんとか言い出すかもしれない。
 それでもいい。
 誰かが悲しむよりは。
「……だから……一つも落とさず、全部手に入れるよ」

 電子の翼に乗ってルシフェルの元に飛んだのは、
 ――話したいことがある。鶴来氏の解呪についてだ。応じるのなら返事をよこせ。今すぐに。
 という、相手に茶化す隙を与えない非常に事務的な言葉だった。


<与えられる謎>

 今日は祝日のせいか、街中は人が溢れていた。
 その中をすり抜けるように歩きながら、虎之助はいつになく厳しい顔つきで携帯電話を握り締めていた。
 その切れ長の目には明らかな苛立ちが宿っている。
 殺気立つ、というほどではないが、全身から発せられるピリピリとした空気を周囲が感じるのか……自然と虎之助の前にある人波は彼と接触する数秒前にするりと身をかわしていく。虎之助がすり抜けて歩いている、というよりはもはや、周囲が彼を避けている、といった感じだった。
 そんな周囲の様に気をとめる事もなく、虎之助は目的の場所へと歩いていく。
 あのメールを送った直後、ルシフェルから意外と早く返事が来た。
 それを思い出し、チッと鋭く舌打ちする。
 ――言われて「はいそうですか」と俺が応じると思ったか? どこまで付け上がる気でいるんだお前は。殺さなかっただけでも有難いと思え。
「何が有難い、だ」
 吐き捨てるように言い、強く手の中の携帯電話を握り締める。
 当然、それに虎之助は速攻で返事を出した。
 ――このままだといつか命が消えないとも限らないだろう。殺さないという約束を反故にする気か?
 それに乗ってくるという自信は、はっきり言ってあまりなかった。が、こちらが思うよりもずっとルシフェルは「約束」というものを守る性格らしく、数分後、会うということに対して諾意を示すメールを送り返してきた。
 けれども虎之助にしてみればやはり、一発目に返って来たメールの回答がどうにも気に入らず……それで苛々しているわけだが。
 苛立ちに任せて、歩く足の速度を速めながら目的の場所に向かい、タイミングよく信号が青に変わった交差点の横断歩道を渡る。
 その時。
 手の中にあった携帯が微妙な振動を発し始めた。何だ? という顔で手の中で二つ折りのそれを開き、ディスプレイを見る。表示された文字は……。
 着信、草間興信所。
「あれ?」
 慌てて通話ボタンを押して耳に押し当てる。
「はい?」
『あ、湖影兄か?』
 声の主は、言わずと知れた草間武彦だった。
 その言い方をどうにかしろと思いもするが、まあ確かに自分は兄の方なのでツッコミを入れる事なく短く返事する。
「何か用だったか?」
『お前、今どこにいるんだ?』
「どこって……何だ、仕事の依頼か? だったら後にしてもらえないか」
『何だ、急ぎの用事の最中か。……だったらまあ仕方ないか。鶴来の解呪に関する事だからお前にも手伝ってもらおうかと思ったんだが』
 素っ気無い返事に対して溜息混じりに紡がれた言葉に、虎之助は双眸を見開いた。思わず横断歩道の途中で足を止めそうになる。
(解呪に関する事、だって?)
 思わず、人目をはばかる事もなく問いかけた。
「ちっ、ちょっと待てっ。解呪の方法が分かったのか?!」
『んー……分かったと言うべきかまだ分からないと言うべきなのか』
 ……なんだ、この持って回ったような言い方は?
 依頼を請けると言わないと、詳細を教えないつもりなのだろうか?
 眉を寄せ、また前へと歩を進めながら虎之助は視線を斜め前へと落とす。その頭の中はフル回転していた。
 とりあえず、今は草間に自分が何をしにどこへ向かっているのかを告げるべきだろうかと少し考え、ふっと短く吐息を漏らす。
 言わなければ、きっと解呪の方法については教えてくれないだろう。自分は確かに、鶴来の依頼を請けてそれを解決するために尽力しはしたが、呪いをかけたルシフェルと今でも(自分が望む望まざるを別にして)懇意にしていることも確かだ。
 まだ完全には信用できないと、思われているかもしれない。
 依頼としてこちらに回すのなら、草間は、自分がそれを私情で使用することはないと――そういう情報がもたらされたと、ルシフェルに伝える事はないと思うだろう。
 それが「依頼」である以上は。
 今まで自分が草間興信所で幾つもの事件をこなしてきた上で勝ち得た、それが信頼と言う名の実績だ。
 そうなると、決断は早かった。横断歩道を渡り切って歩く速度を落としながら虎之助は草間に向かって言った。
「……俺は今からルシフェルに会う」
『ルシフェル? ……鶴来の弟の裏人格の方か』
「ああ。まさかそんな情報がそっちに入ってるなんて知らなかったから……直接会って、解呪の方法を聞こうかと思ってたんだが」
『……聞けると思うか?』
「さあ?」
 肩を竦め、虎之助は溜息をつきながらかすかに笑った。
「アイツが何を考えてるかなんて、俺にだって分からないからな」
 いや。自分にだけではない。きっと、ヤツの考えなど誰にも分かりはしないだろう。
 それでも、自分には自分にしかできない……やるべき事があるはずだ。動く事が、本当に正しい事なのかどうかは分からない。分からないが……分からないからといって、何もしないでただぼんやりと時が過ぎていくのに身を任せているのにも、もう飽きたのだ。
 言葉にはしなかったが、その思いが溜息と共に草間に伝わったのか――向こうからも短い溜息が聞こえた。
『そうか……まあいい。一応、お前にも鶴来の呪いを解く意志があるっていうなら、このなぞなぞについてちょっと考えてもらうか。ちょっと字とかがややこしいから、折り返しメールで送る』
「なぞなぞ?」
『鶴来自身が書き残していたメモらしいんだが、どうもそれが、解呪に繋がる「物」を現している言葉らしいんだ。あと、その「物」を使ってどうすれば呪いが解けるのかが書いてあるようなんだが』
 言って、少しの間を置き。
『お前、どこで弟と会うんだ?』
「え? ああ、新宿中央公園。水の広場ナイアガラの滝前」
『はあ? ナイアガラの? …………。そうか』
「……なんだその微妙な間は」
『ああいや。具体的に分かりやすい場所での待ち合わせで何よりだ』
 言っていることがよく分からないが、まあいい。どうでもいい話よりもまず、解呪の謎々のほうが気になった。
 それを言うと、じゃあとりあえず送るから何か気づいたことがあったら、こちらで今シュラインたちも答えを考えているからすぐに電話をくれと言い置き、草間は一旦通話をきった。直後、すぐにメールが送られてくる。
「……これは……」
 呟き、虎之助は携帯電話を持つのとは逆の手を口許に当てる。
 確かに、これは口頭ではちょっと伝えにくいものかもしれない。こちらにも今は手元にメモがなかったため、パーッと口で言われても即座には覚え切れなかっただろう。
 こんな時、いつでもどこでもメールを受け取れるようになったこの世の中の便利さを思い知る。
 もっとも、便利な反面、どこぞの阿呆な輩からひっきりなしに阿呆な内容のメールも飛ばされてもくるのだが。
 今から直接会うその阿呆の事を思い出して唇に薄い笑みを浮かべる。本人に阿呆などという言葉を吐いたら、どんな顔をするだろうか。思うと笑いがこみ上げる。
 が、すぐさまその笑みを消し、真剣な眼差しでその文字一つ一つに視線を滑らせた。
「…………」
 前半部分を読み取り、一瞬にして脳裏に閃いた「物」は――刀だった。
 そして後半部分。
「生まれて間もない、虚空より降りし細き銀光……」
 実際に口に出して小声で読み上げてみて、その脳裏に過ぎる映像を捕まえる。
 虚空に浮かぶ、細い銀の光を放つもの。
「……新月、か?」
 浮かぶのは、細い月の姿。生まれて間もないのならおそらく、欠けていく月ではなく、満ちていく月――それは新月から間もない月の事だと思うのだが。
 刀をその細い月に向かって掲げるだけで、いいのか?
 たった、それだけのこと?
「そんなことだけで済むわけないか……」
 一人ごちる。だが、とりあえず現時点で浮かぶものといったらそれくらいしかなかった。
「……まあ、シュラインさんもいるのなら心配はないだろうけど」
 事務員兼調査員として日々草間興信所で活躍する女史の事を思い出しつつ呟きながら、着信履歴を呼び出してリダイヤルする。一応、自分の思い描いたものを伝える為に。


<事情と内情と、決意と>

 園内の木々の殆どは葉が落ち、裸の枝のみが、水色の空へとその腕を伸ばしている。
 聞こえて来るのは、水の音。
 今日の最高気温は、16度。先日雪がちらついた時の気温に比べるとまだマシな方ではあるが、それでもやはり、水音を聞くと寒さが増してしまう。
 そういえば、週末からまた極度に冷え込むと天気予報で告げていた。どうせならクリスマスにその冷え込みが来ればいいのに、と思う。
 白い雪が舞う中で迎える聖夜。恋人たちが大喜びしそうなシチュエーションだ。
「……ま、今はそれどころじゃないか」
 呟いて、ふっと短く吐息をつく。一瞬だけ口許の空気が白く霞むが、すぐに周囲の透明な空気に混ざって消えていく。
 枯れ枝を見上げながら歩いてた虎之助は、その視線をゆっくりと広場へ向かう階段を下りながら前方へと向ける。
 新宿公園・ナイアガラの滝。
 そんなご大層な名前をつけられてはいるが、本物のナイアガラのような瀑布……なわけはなく、なんの事はない、ただの人工滝である。どういった人物がどういったセンスでもってそんな名前をつけたのやらと、思わず苦笑を零してしまう。
 広場では、子供達がスケートボードで遊んでいたり、数名の若者がストリートダンスの練習に興じていた。中には、祝日ではあるが仕事納めも近い為に仕事にかり出されでもしたのか、そんな子供たちの様子をぼんやりと疲れた顔で眺めているスーツ姿のサラリーマンもいる。
 階段を下り、滝の方へと歩いていた虎之助は、ふと、その視界の端に見たことがあるような姿がある気がして顔を向けた。
 そして、目を見開く。
「……あいつ……!」
 そこには、ストリートダンスを踊っている若者たちがいる。
 某有名ダンスユニットの振りをそのまま真似て踊っているその者たちの中に、一人、その場にいるストリートウエアを身に纏っている者たちとは明らかに違う黒いシャツに黒いパンツという姿の者がいた。
 黒いキャスケットをやたらと目深に被ったその者。服装こそ周囲からは浮いていたが、ダンスの方は周囲と比較しても全く遜色ない。動くたびに、伸ばされた横髪がさらさらと揺れ動く。
 顔はよくは見えないが、その容姿だけで、虎之助には誰かが分かった。
 と、ふとその黒尽くめの者が、ダンスの流れで持ち上げた手で、軽くキャスケットの先を持ち上げた。そして露になった目で虎之助を見てピタリと動きを止めると、周囲の者たちに軽く手を上げて軽く一言二言言葉を交わして、その輪の中から抜けてきた。
「お前……何やってんだ」
 自分の方へと歩み寄ってきたその者に、虎之助は半ば呆然としながら声をかける。
 今まで様々な彼の様子を見てきたが、まさか、踊れるとは思わなかったのだ。
 ふと口許を歪めて笑うと、彼――ここで虎之助と待ち合わせの約束をしていたルシフェルは、近くに放り出していた黒いハーフコートを拾い、軽く手で払ってからそれを羽織った。なかなかハードな動きをこなしておきながら、彼は息切れ一つしていなかった。
「待っている間退屈だったんでな。遊んでいたんだ。寒かったしな。動いて少しは暖かくなった」
「退屈ったってお前……踊ってる場合かよ」
「見惚れていただろう虎ちゃん。素敵だなぁルシフェル、さすがは俺の恋人、とか思っていたんじゃないのか?」
「誰がだバカ」
 べしりとキャスケットの上から後頭部を叩いておいて、虎之助は滝の方へと歩き出す。後ろから叩かれたことで目の上に覆いかぶさった帽子の先を親指で持ち上げると、やれやれと言うように肩を竦めて、ルシフェルもその後に続いた。
 水音が近づくにつれ、周囲の温度がわずかに下がっていくような気がする。こんな滝でもマイナスイオンが発生していたりするのだろうかとどうでもいいことをふと思い、虎之助は肩越しに、ついてくるルシフェルを振り返った。
「ミカは元気か?」
「ん? ああ、なんだ急に」
「いや、ここの所お前ばかりがメール打って来るから、ミカはどうしたのかと思ってな」
「別にどうもしやしないが? なんだ、虎ちゃんは俺よりミカの方がいいのか。ああそうかデートに誘ったのも俺ではなくミカの方だったしな。そうかそうか俺なんかどうでもいいわけか冷たいな虎ちゃんは」
「茶化さず答えろ。どうなんたミカは」
 いつもの調子で話の本筋をずらしていこうとするルシフェルに、冷めた声を放つ。いつになく厳しい視線を受けて、ルシフェルも浮かべていた薄ら笑いを治め、わずかに目を細める。
「ミカの話ではなく、那王の話の為に呼んだんじゃないのか」
「だったらお前に、兄貴にかけた呪いを解けと言ったらお前はそれを聞くのか?」
「聞くわけ無いだろう」
 あっさりと返された言葉に、虎之助は大きく溜息をついた。
 そこで「どうしようか」と迷う余地もないのか。
 滝の前まで来、足を止める。倣うように、ルシフェルも歩みを止めた。数歩後ろに立つルシフェルを、虎之助はゆっくりと体の向きを変えて振り返る。
「俺は、もしお前が呪いを解けるなら、お前に解いて欲しいと思ってる」
「だから言っているだろう。俺は解くつもりはないと。殺さなかっただけでも十分な譲歩だ。なのにお前は、その上俺に解呪を要求するのか。……もしかしてさっきからミカの事を聞いているのは、意識を入れ替えさせてミカに俺が呪詛を放った事を話し、ミカに解呪させようという魂胆からか?」
 虎之助を見る黒い瞳に、わずかばかり、警戒の色が宿る。
 だが虎之助は、口許に手を当てて緩く首を傾げて無言を保った。
 言葉を返すよりも先に、何故今まで思いつかなかったのか、という思いがその胸に宿ったのである。
 ……そうである。ミカエル――主人格にも、おそらくは呪詛を解く事ができるはずだ。彼も陰陽師としての知識を持っている。ならば、ルシフェルが放った呪詛がどういう類いのもので、どうすれば解く事ができるのか知っているはずである。
 それに、ミカエルならきっと、兄がそんな状態に陥っていると聞けば、迷う事無く解呪の為に動くだろう。
 だがルシフェルがその言葉を口にした以上、もう彼は簡単にはミカエルと意識を入れ替えはしないだろう。呪詛を解かれる事を警戒して。
 ……本当に、なぜもっと早く思いつかなかったのだろうか。
 そう思って沈黙する虎之助を、ますます怪訝そうに上目遣いに見、ルシフェルが眉を寄せる。
「一体何を考えているんだ、虎。その顔だと、別にミカに解呪させようと思っていたわけではなさそうだが」
「俺は、解呪がどうとかいう話じゃなくて、ただ単にお前がずっと真王の体を支配してるんじゃないかと心配しただけだ。ミカを押しのけて、ずっとお前が表に出っぱなしになってるんじゃないかと」
 解呪の事は欠片も思いつかなかったと素直に告げると、ルシフェルはわずかに目を見開いてから、小さく吹き出した。俯き、肩を震わせて笑い出す。
「なんだ、じゃあ俺は自分で余計な事を言ってしまったわけか」
「……と、言うかだな。俺は最初から言ってるだろう。お前に、解いてほしいんだと」
 お前に、の部分をわざと強調して言う。
 それにふと、ルシフェルが笑いを消して顔を上げた。
「何故、俺に言うんだ? ミカにも解けると言う事が分かったのなら、俺にミカを出せといえばいいだろう」
「出せと言っても出さないくせに。それに、確か呪詛返しとか……そういう術、あるんだろ? もし誰かにそういうのされたら」
 返る呪いは、二倍になると聞いたことがある。
 そんなものを受けたら。
「……お前が、危ないだろ?」
「…………」
 その言葉にルシフェルは一瞬目を見開いてから、くっ、と小さく息を吐き、声を立てて笑い出した。
 隠す事もない、濃い愉悦が滲んだ笑いだった。
 何かマズいことを言ったのだろうかと虎之助が形のいい眉を寄せる。
 だが、そうではないようだった。
 心底楽しげな笑みを浮かべながら、ルシフェルがすいと虎之助の鼻先に人差し指を当てる。そして間近に双眸を覗き込んだ。
 途端、周囲の雑音が一気に遠ざかったような気がした。耳に聞こえるのは、ルシフェルの紡ぐ言葉だけ。
 まるでその瞳に意識を縛られたかのようだった。
「虎ちゃんが俺の心配をしてくれているのはよくわかった。だが、呪詛返しなんかを今の那王にかけたら、それこそ俺の解呪は必要なくなるぞ」
「……どういうことだ?」
「あの呪は特殊な物でな。七星の、というよりは俺のオリジナルなんだ。七星の者以外の陰陽術をもって解呪しようとしたら、反発して呪詛が強まるようにしてある。つまり那王は死ぬということだな」
 さらりと紡がれたその言葉に、虎之助は目を見開いた。
 まさか。
 草間に声を掛けられた者の内に、陰陽師がいる、なんて事はないだろうか?
 さっと顔色を変える虎之助の様子を間近に見、ルシフェルは虎之助の鼻先から指を離して唇を歪める。
 途端、周囲の雑音が虎之助の耳に戻ってきた。……もしかしたらさっきのは、その言葉を虎之助以外の何者にも聞こえないようにするための何かの術だったのかもしれない。
「心配するな。生憎、那王の傍に居るのは妙な回復術を使う男とサイコメトラー、犬神使い、妙な坊主。……あとは、倒れた那王を抱きとめたあの女。それだけだ。陰陽師らしい者はいない」
「な……んでお前がそんなこと知ってるんだ?」
 安堵するよりも先に疑問が生まれる。それに、ルシフェルはちらりと虎之助の目を見た。
「今、お前は俺の目の前にいる。ということは、お前に俺の式神をつけておく必要はないわけだ。だからそれを今は那王の病室近くに置いている」
「……お前本当に俺のこと四六時中見張ってるんだな」
「ストーカーの面目躍如だろう?」
「そんな面目保たんでいい」
 思い切り呆れる。
 変な事に情熱を注ぎすぎだ。一体何の為に自分に式などつけているのだろう。
 自分がルシフェルを裏切る事を危惧して?
 ……いや、別に自分がコイツを裏切ったとしても、コイツに取っては痛くも痒くもない事だろう。自分の能力がコイツに対して害になるということもないし、存在が邪魔になることもないはず。
 考えながら、無意識に虎之助の指は、シャツの胸元からわずかに覗く黒曜石のペンダントに触れていた。
 お守りと称してルシフェルに渡された、それ。
「…………」
 その瞬間、何かが分かったような気がして、虎之助は目を瞠った。そして滝の流れを眺めているルシフェルのその横顔を見る。
「……お前、まさか俺を守るために式なんか放ってたのか?」
 問いかけに、ルシフェルは無言を保ったままだった。その耳元にあるのは、虎之助がミカエルに買ってやった、花のつぼみをあしらったピアス。おそらくはその胸にもそれと同じデザインのネックレスがかけられているのだろう。
 けれど、一体、何故?
 そこまで周到に鶴来に呪詛をかけていながら、何故自分をそこまでして守る必要がある?
 一応、ネックレスは鶴来からの呪詛を危惧して、というような言葉と共に渡されたはずだ。が、簡単には解けない術で呪詛をかけているのなら、「回復した時」などという言葉と共に自分にそんなものを渡す必要はないはずだ。
「一体、何から守っているんだ?」
 何か危惧があるから、そんなことをしているのだろう?
 言外に含まれた言葉に、ルシフェルがすっと滝の流れから虎之助の方へと目を移した。いつもの、人をなめたような笑みはなく、真意を悟らせない無表情で。
「お前には知る必要はない」
「そんな言い方されたら逆に気になるだろうが」
「……莫迦みたいな兄弟ゲンカに巻き込んだ以上、何があってもお前の事は俺が守ってやる。ただそれだけの事だ」
 何の気負いもなくさらりと告げると、ルシフェルはいつもの笑みを復活させてクスッと笑った。
「どうだ、俺に惚れたか虎ちゃん」
「……阿呆か」
 紡ぐ声は、かすかにかすれていた。
 本当に、阿呆だと思った。
 どうして……どうして、「巻き込んだ」などと思うのだろう。
 ……本当に、阿呆だ。
 すっと手を伸ばし、虎之助はその頭を無言で叩いた。痛っ、という短い声を発するルシフェル。そしてじろりと虎之助を睨みつける。
「何で殴るんだっ」
「俺は俺の意思でお前らに関わる事に決めたんだ。言っただろう、お前が鶴来氏に呪詛を放ったあの日に」
 ――俺は、お前らなんかに関わりたくないと思ってる。本当は、巻き込まれるのはごめんだ。ごめんなんだが……まあ、しょうがないから付き合ってやるよ。
 そう言ったのは、虎之助自身だ。
「だから、責任感じて俺の事なんか守らんでいい」
「…………」
「それに。悪いが、俺は簡単に死ぬような奴でもないんでね」
 言って、秀麗な顔に笑みを浮かべる。男でも見惚れてしまいそうなほどのその微笑に、ルシフェルはしばし目を見開いて沈黙し……やがて軽く肩を竦めた。
「阿呆はお前の方だ。……まあいい。その辺りは俺が好きでやっている事だから本当に、気にするな。それよりも」
 その話はそこまで。
 そう暗に告げて、ルシフェルは軽く右腕を持ち上げた。
 バサリという羽音がどこからか上がり、すうっと空気を切るようにしてその腕の上に、真紅の鷹が舞い降りる。額に金色の逆さ五芒星を持つそれは、ルシフェルの式神。
 彼は二羽の式神を持っていると、以前言っていた。その内の一羽はおそらく鶴来の病室に。そしてもう一羽が、今現れたこいつなのだろう。
「那王の呪詛の話だったな。草間興信所の連中が動いているところを見ると、どこかから解呪に関する情報を得たようだが?」
「…………」
「ノーコメント、か?」
「一応、依頼として預かっている話だからな。クライアントの不利益になることをお前に教えるわけにはいかない。もっとも、お前が解呪に応じてくれるのならば話は別だが」
「しつこい男は嫌われるぞ」
 解呪はしない。
 その答えに変化はないようだ。
 しかし、虎之助としてもここではいそうですかと引き下がる気もなかった。
 顔を、冬枯れの木々の向こうに見える都庁の方へと向け、一つ息を吐く。冷たい風が頬をなでた。
「お前に呪詛が返ることがないのはよくわかった。けどな、鶴来氏を眠らせたまま置いておくってのは、どうなんだ? それはただ、逃げてるだけじゃないのか?」
 ピクッと、ルシフェルが眉を動かした。
「逃げているだと?」
「結果を先送りしているだけだろ。どういう結果が訪れるかは俺には想像もつかないが、どっちにしてもお前は逃げてるだけにしか見えない。それじゃしょうがないんじゃないのか? いつまでもずっと逃げたまま……このままでいるつもりか?」
 それでは絶対に、根本的な解決にはならない。それに何より、おそらくは……ここでルシフェルに解呪を断られても、近いうちにきっとあのなぞなぞの答えが見つかり、鶴来は呪いを解かれて目覚めるだろう。
 都庁の方からルシフェルへと顔の向きを戻し、虎之助は真摯な眼差しで問うた。
「もっと、呪いで眠らせたままにするとかじゃなくて、何か方法はないのか?」
 話し合い、なんて平和な事はさすがに今更無理かもしれない。
 だが――何か、何かないのか?
 仮にも、兄弟なのだ。何か和解の糸口くらいはあるはずだ。
 その言葉に、式神を肩に移らせてから、ルシフェルが顎に手を添えてぽつりと言った。思ったよりも、あっさりと。
「なんとかする方法がないわけではない」
「っ! なんだ、一体どういう方法なんだ?!」
 思わずルシフェルの肩を掴んで前後に軽く揺さぶりながら声を浴びせる。それに酷く迷惑そうな顔をしつつもされるがままになりながら、ルシフェルが答えた。
「那王を、七星に戻して当主の座につければいい」
「は?」
 あまりにも唐突なその言葉に、虎之助が目を瞬かせた。
「当主に? ……なんでそれが解決に繋がるんだ?」
「真王が、霊を取り込む体質だというのはもう分かっているな?」
 こくりと頷く。
 陰陽師としての仕事をする際、祓った霊を、真王は浄化させるのではなく、浄化させていると見せかけて、実際には自分の中に取り込んでいるのである。そして、その取り込んだモノが凝り固まり、人格を形成し、時折「真王」の肉体を勝手に使うようになった。……それが、今「真王」の体を行使している「ルシフェル」である。
「元々、七星の者は全てそういう能力を持っているんだ」
「なら、鶴来氏もそうなのか?」
 姓は違うが、真王の兄だと言うのなら彼もまた七星の血を引くものであるはず。
 その問いに、ルシフェルは緩く頭を振った。そして肩にのった式神を見る。
「那王の瓢箪の事、知っているか」
「ああ、確か妖や霊を吸収して封じ込める、っていう……」
 言って、ふと虎之助は口許に手を当てた。小さく、あ、と声を零す。
 そうだ。
 真王の体質と鶴来が持っている瓢箪は、同じ能力じゃないか。
「……どういうことだ?」
「あの瓢箪は、七星の当主にのみ生成する事ができる物。七星では当主のみが退魔の仕事をこなすのが昔からのならわしなんだ。その仕事をこなす為に、当主となる器を持つ者にのみ、瓢箪を生成する能力があらかじめ備わっている」
 しかし、真王はその瓢箪を生成することができなかった。つまり、彼は当主の器ではなかったということである。
 だが、七星家は真王を当主に据えた。
 そして真王は魔を吸う瓢箪を持たぬまま、その身一つで退魔の仕事をこなす事を余儀なくされた。
 霊を、吸収しながら。
「真王は自分が霊を吸収する体質だと言う事を、真王を当主に推した者たちが隠し続けているせいで、知らないんだ。自分の身に何が起きているのかも知らないまま、退魔の仕事を続けている。……その結果、俺が生まれたわけだが」
 唇にどこか暗い笑みを刻み、ルシフェルは虎之助を見た。
「お前、最近ずっと表に出ているんじゃないかと心配していたな」
「ああ」
「退魔を行えば行うほど、霊を吸収して俺の意識は強さを増していく。このまま行けば、いつかは主人格であるミカエルの意識さえも超えてしまうだろう」
 虎之助が危惧していた通り、今はほとんどルシフェルの人格が表に出ているのである。
 紡がれた言葉に、虎之助は額を手で押さえて頭を振った。
「つまり、真王が当主としての仕事を続ける限り、最終的にはお前の意識とミカの意識が逆転する、ってことか」
「ご名答。だから那王を当主に据えれば、とりあえずはこれ以上退魔の仕事をせずに済むだろうからミカエルも消えずに済む。このままだとミカエルが俺に押しつぶされて消えてしまう……那王もそれを知っているんだ」
 だから、完全に体の主が逆転してしまう前に、一度ルシフェルの存在を真王の中から消し、霊の蓄積量をリセットしたかったのだ。
 それが、那王がルシフェルを狙う理由。
「……だが、俺を消すには大量の霊などを真王に吸収させる必要がある。一気に容量以上のモノを吸収すれば、さすがに俺も自我を保っていられなくなるからな」
 それは同時に、真王の体にも相当な負担を強いる事になる。
 下手をすれば、体自体がショック状態に陥り、死に至ることも考えられる。
「結局、そんな危険な賭けを、アイツは出来なかったんだろう」
 ふと、ルシフェルは今まで見せた事がない穏やかな微笑を浮かべて俯いた。
「那王は、本当に真王の事を大切に思っているからな。けれど、自分は七星から追い出された身。今更七星に戻って当主になることもできず……苦悩しているんだろう。結果、俺を殺すと口で言うことしかできずにいる。出来もしない事を言って虚勢を張っているだけ」
「……お前はミカの事どう思ってるんだ?」
 思わず問いかけた。それに、ルシフェルはかすかに笑う。
「ミカは、双子の片割れみたいなものだ」
 その言葉から嘘の匂いは感じなかった。彼も彼なりに、おそらくミカエルの事を大切だと思ってはいるのだろう。
「ちょっと、ミカに変われないか?」
「…………」
 案外すんなりと、ルシフェルはミカエルと意識を交代させた。少し俯いたその顔が上げられた時、黒かった双眸は青く染まり、表情も優しげなものへと変わっていた。
 その瞳が大きく見開かれる。
「あ……あれ? 湖影、さん?」
「ああ、こんにちは真王くん。久しぶり」
「あ、はい、先日はどうもありがとうございました」
 言って、春の光のような柔らかい微笑を浮かべてぺこりと丁寧に頭を下げる。先日って……もう3ヶ月も前の話なんだけど、と言いかけて虎之助はそのまま言葉を呑んだ。
 つまり、あれからずっとルシフェルが表に出ていたということだろう。
 ……本当に、かなりヤバい状態なのかもしれない。
 思うが、それもまた口にはせず。
 虎之助は、真王の肩に手を乗せると、その青い瞳を覗き込んだ。
「真王くん。君、自分の中にいるルシフェルの事、どう思ってる? 消えて欲しいと……やっぱりそう思ってるかい?」
「え? あ……ルシフェル、ですか」
 少し言葉を選ぶように視線を宙に浮かせてから、真王はまっすぐに虎之助を見た。
「自分の中にルシフェルが居る事はもう、僕も認めています。彼にも心があるのなら、それは彼もこの世界で生きているということ。上手く共存できるかどうかは分かりませんが、僕は彼が消える事を、彼の死だと思います。すでに生きている者をそのように……簡単に消してしまっていいものだとは思いません」
 きっぱりと、言い切った。優しい顔からは想像もできない強さをはらんだ口調だった。
 その言葉に、虎之助は優しく微笑んだ。
「そう、か……ありがとう、答えてくれて」
 ミカエルの言葉で、虎之助の心は決まった。
 ゆっくりと目を伏せて、一度深く呼吸をして目を上げたその時にはもう、目の前にいるのはミカエルではなく、ルシフェルだった。黒い瞳が、じっと虎之助を見つめている。
 発せられる言葉を、待つように。
「鶴来氏の呪詛、解いてもいいな? 解いて、くれるな?」
 揺らぎのない真摯な眼差しで、虎之助は口を開き、問うた。その真剣さに答えるように、ルシフェルもまた、真顔だった。
「自分が言っている言葉の意味、よく理解しているんだな? 目覚めた那王は、もしかした今度こそ、甘さを捨てて俺を消しにかかるかもしれない。それを理解した上で、解けと言っているんだな?」
 確かに、そうなるかもしれない。
 けれども、不思議と恐れはなかった。
 それはもう、腹を決めたからだろうか。
 ふっと溜息をつき、虎之助は苦笑を浮かべた。
「何があっても……まあ、最後まで付き合ってやるさ。……俺はお前の事を、最後まで信じてるからな」
 言われて。
 ルシフェルは、驚きに言葉を無くしたようだった。そして、溜息をついて小さく笑う。
 それはいつものような笑みではなく、さっきミカエルが浮かべたのと同じ、邪気のない綺麗な笑顔だった。
「バカだな……本当にお前、どうしようもないくらいにバカだな。だが」
 こつんと虎之助の額に拳を当てて。
「……そうだな、俺は、お前のそういう所が好きなんだ」
 楽しげに、そう言った。


<警戒・A>

「そういえば」
 虎之助は、思い出したようにコートのポケットから携帯電話を取り出して既読着信メールを呼び出した。画面に表示させ、それをルシフェルに見せる。
 表示されているのは、草間から送られてきた物だ。
「これは……」
 ちらと画面に目を落としてから、ルシフェルが虎之助を見た。それにこくりと頷く。
「鶴来氏が、解呪のためのキーを書き記したものらしい。多分、刀の事だと俺は思うんだが……お前、何か思い当たる事ないか」
 こめかみの辺りに指を沿え、ルシフェルがわずかに視線をずらす。
「……おそらくこれは、緋降の事だろう」
「ひふり?」
「七星家に昔から伝わる物だ。当主の身に降りかかる呪詛を祓う刀。七星の家にないと思っていたら、那王が持っていたのか。どうりで見つからないわけだ」
 おそらくは解呪を封じる為にその存在を探していたのだろう。
 正確な答えが分かったことで、とりあえず虎之助は携帯ですぐさまシュラインに連絡を取ろうとしたが、その腕を「必要ない」という言葉とともにルシフェルが引いた。
「必要ないって?」
「すでに答えは出ているようだ」
 それも、病院に置いた式からの情報だろうか。
 ……と、その時。
 ふっと、ルシフェルがその双眸を動かした。そして、ひどく機嫌悪そうに目を眇める。
 どうしたのか。
 思い、虎之助も携帯から視線を外してルシフェルの視線を追う。
 そして。
 目を見開いた。
「な……っ?!」
 石階段の上から、ゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる人物が、一人。
 さらりと、長めの黒髪が冷たい風に揺れた。
 端正な足取りで二人に歩み寄って来、わずかに微笑んだのは、今、呪詛を解く解かないという話をしていたその対象――鶴来那王、その人だった。
「な、んで……呪詛、もう解けたのか?!」
 驚愕に目を見開いたままの虎之助の前に、何かから彼を庇うようにすっと手を出し、ルシフェルが顎を少し引いて鶴来を見、わずかに唇を歪めた。
 そこにあるのは、強い嫌悪感。
「……勝手に赤の他人に兄の姿を盗むような真似をされるのは、見ていてあまりいい気分ではないな」
「なんだって?」
 紡がれた言葉に、虎之助が怪訝な顔で鶴来を見た。
 どこからどう見ても、間違いなく鶴来那王である。
 しかし、姿を盗む?
 冷静なままのルシフェルと、理解不能とでも言うように頭を振る虎之助を前に、鶴来がかすかに笑った。そして口許に手を当て、緩く首を傾げる。
 と、その体が淡い光を帯びた。黒かった髪が、毛先から金色へと変色していく。顔の部分は真っ白な光に包まれていてどうなっているのかよく見えないが、やがて光が消えると、そこには鶴来とはまったく別の人間が立っていた。
 金色の髪に緑色の瞳を持つ、秀麗な容貌の青年だった。
「これは失礼。少しは意表をつけるかと思ったんですが」
 悪びれもせずに言う青年――モーリス・ラジアルに、ルシフェルは嫌悪感を抱いたままでフンと軽く鼻を鳴らす。
「悪いが、今の那王の周辺の動きは全て分かっているんでな」
 言われて、モーリスはそれ以上追求せず、ただ「ああ」と目を伏せて笑った。
「便利な力を持っているようだ」
 なら話は早い。
 単刀直入に、モーリスは言った。
「呪詛を解いてもらえないだろうか」
 遠回しに言う必要はない。おそらくは、自分が病院に居た時から、この者には全て、自分の動きが見られていたはず。
 ならば自分が呪詛を解く為に動いていると言うことも、すべてお見通しだろう。
 紡がれた言葉に、ルシフェルが冷笑を浮かべて、肩越しに虎之助を見た。そして軽く顎をしゃくる。
「同じ事を言うんだな、この男と」
 ちらと、モーリスの目が虎之助へ移る。
 そのルシフェルの言葉で、彼が、シュラインが言っていた「弟に説得を試みている湖影虎之助」だと知れた。
 おそらくは「どうなんだ」と問いたがっているであろうその自分に向けられた視線に答えるように、虎之助は後ろからルシフェルの頭の上に手を置いた。
「コイツは首に縄つけてでも鶴来氏のとこに連れて行くから心配ない」
 どうやら、すでに話はついていたようである。
 だがここまで来た事を無駄足だとは思わず、モーリスは微笑んだ。
「首に縄、ね。随分と素敵な趣味をお持ちのようで」
「は? ……いや、そうじゃなくて。それはただの言葉のアヤってもんで」
 顔の前で手を振りながら虎之助は眉を顰めた。が、そのモーリスの言葉に便乗するようにルシフェルが小さく笑った。嫌な予感を覚える虎之助。
「縄よりは首輪だろう。それも俺につけるんじゃなくて虎ちゃんにつける方が似合うと思うが。俺のペットなんだから」
「って、お前もバカなこと言うな。ああコイツ、バカだから言ってること真剣に聞かないでくれ頼むから」
 ベシリとルシフェルの頭を軽く叩いておいてガクッと肩を落としす虎之助の様に、モーリスがくすくすと笑う。
 なんか、変な誤解とかされていないだろうか。
 虎之助は頭痛がしそうな額を押さえた。
 ……一体なんなんだこの二人は……。
 そんな虎之助の心労も気にせず、叩かれたことで歪んだ帽子を治しながら、ふとルシフェルが振り返った。
「おい虎ちゃん」
「何だ」
 額に置いた手の下から見るルシフェルの顔は――さっきまでとは違った真剣な色を帯びていた。
「那王を鶴来の家に追いやって七星の当主になれないようにしたのは、真王を当主につけたがっていた者たちだ。解呪を行えば、そいつらにとってはまた目障りな存在が覚醒する事になる。……としたら」
 わずかに言葉を切ってから。
「那王の覚醒を邪魔しようとする者もいるかもしれん。一体誰が緋降を那王の元に持ってくるんだ? 緋降は今、京都にある那王の実家に置いてあるんじゃないか?」
 はっと、ルシフェルを間に挟み、虎之助とモーリスが顔を見合わせた。
 その二人に、ルシフェルがさらに、言った。
「緋降を運んでくる奴の身は、安全なのか?」


<窮屈な…>

 その後、二人はすぐさま鶴来が入院している病院へ向かった。
 虎之助はシュラインの携帯電話の番号を知っていたのだが、病院内と言うことで、どうもシュラインが電源を切ってしまっているようで……いくらかけても向こうに繋がる事はなかった。
 こんなに、携帯が繋がらない事をもどかしく思った事はない。
 それもこれも、人の命がかかっているからだろう。
 病院に電話をかけてもよかったが、調べるよりも、直接さっさと向こうに向かった方が早いと判断したのだ。
 ……ルシフェルの式神を使って、向こうに居るであろう、霊的な能力を持つ者に知らせる、などという事は、すっぽりと意識から抜け落ちていたのだが。
 ルシフェル自身がそれを申し出なかったのも、そんな事の為に式神を使う気にはなれない、ということだったのだろう。
「携帯電話なんて、便利なようで不便なものだ」
 病院へ向かうタクシーの中で、モーリスが呟いた。そして解いたままだった髪を結わえなおす。
 その持ち上げられた肘が頬を掠め、虎之助が目を眇める。が、何も言わずに逆方向へと顔を向けた。
 そこには、じっと窓の外を見つめているルシフェルがいる。
(というか、なんで男と男の間に挟まれてタクシーなんぞに……)
 急いでいるとはいえ、この状況は虎之助的には非常に嬉しくなかった。
 もう、頼むから速攻で病院についてくれと願う虎之助だった。
 無論それは自分の為だけではなく、緋降を運ぶ人物と、そして鶴来のためでもあったが。


<桜、散る>

 廊下の方で、バタバタと激しい足音がした。
 救患か何かだろうかと思った鶴来の病室に詰めていた者たちは、勢いよく開かれたドアの向こうに立っていたモーリスと虎之助に目を瞬かせた。
「……どうしたの一体」
「誰が緋降を持ってくるんだ?!」
 問いかけたシュラインに、虎之助が足音高く室内に入り、前置きもせず怒鳴るように言った。その虎之助の肩にそっと手を乗せて落ち着かせるように促すと、モーリスが代わってシュラインに問う。
「緋降という刀をこちらに持ってくるのは、あの手紙を出してきた綺さんですね。今、綺さんはどちらに?」
「どちらって……多分、新幹線に乗ってるんじゃないの? 持ってきてってお願いしたっきり、連絡取ってないからわからないけど」
「では、誰も綺さんに付き添っていないんですね?」
「付き添うって……」
 二人が何を言っているのかいまいち理解できず、シュラインは眉を寄せた。
「綺くんがどうかしたの?」
 そう、シュラインが改めて聞いた時。
「あ……桜が!」
 翠が立ち上がって不意に声を上げた。全員の視線が、鶴来が眠っているベッドの傍にあるサイドボード上へと向けられた。
 そこには、シュラインが持ってきた桜が、一輪挿しに活けてあったのだが。
 その桜の白い花弁が、はらはらと、落ちはじめていた。
 驚いてシュラインが駆け寄り、手を花にかざす。
「どうして……綺くん、枯れない桜だって言ってたのに」
 シュラインが大切に思う限り、決して枯れる事はない、と。
 何故か、途端に嫌な予感が胸の中に沸き立ってくる。
 はっと、虎之助とモーリスを見た。
「綺くんに何か起きるっていうの?!」
 と、その時。
 かたん、と。
 ドアの方で音がした。
 反応したのは、白鬼だった。反射的に椅子を立ち、音に引かれるようにドアへと歩み寄る。
 虎之助たちが来た時に開かれたままになったドアからひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。
 すると、その目の前に、はらりと一片、白い花弁が舞い降りた。
 思わず手を出し、それを掌に受ける。
 桜の花弁だった。
 それを見て、一瞬、綺が来たのかと思った。
 ……が、そうではなく。
 もう一片舞い降りた花弁に引かれるように、視線を斜め下に落とし――白鬼はその細い双眸を、見開いた。
「これは」
 白い壁にもたれかかるように立っているのは、黒い鞘に収められた一振りの刀だった。その刀を護るように、周囲には桜の花弁がゆるゆると渦を巻いている。
 白鬼の声に反応したように、他の者たちも廊下へ出、そこにある刀を見、一様に動きを止めた。
 刀は、ある。
 けれども、それを運んできたはずの綺の姿が、そこにはなかった。
「綺くん?!」
 病院内だということも忘れ、シュラインが声を高くしてその名を呼ぶ。けれど、返る声はない。
 焔が、横から翠の肩を叩いた。
「刀に残された記憶、読んでみたらどうだ?」
「……そうだな」
 触れていいものかどうかと悩んだが、きっと、この桜の花弁が綺に関係しているものなら自分を敵だとは見なさないだろう。
 思い、翠は片膝をリノリウムの上に落として左手を伸ばし、黒い柄に触れた。
「……っ」
 途端、かすかな耳鳴りと共に流れ込んでくる記憶。
 ――おそらくそこは、鶴来の自室。その部屋の片隅に、ひっそりと置かれているのは、今ここにあるこの刀だった。
 それに手を伸ばす、高校生くらいの少年の姿が見えた。おそらくそれが、綺なのだろう。
 が。
 彼の手が、刀に触れるその直前。
 ふらりと、その体が傾いだ。肩で荒々しく息をつきながら、胸元を押さえている。
 持病か、と思ったが、そうではない。
 これは……流れ込んでくる綺の意識の欠片から拾い出せた言葉は。
 ――呪詛、か。
 苦痛に顔を歪めながらも、綺はその場に膝をついただけで、倒れこみはしなかった。自分を強靭な精神で律し、掌を刀にかざす。
 ――お願いだ、俺を守りし桜の神子たち……俺はいいから、この刀を、どうか、あの人の元へ……!
 祈るような強さで紡がれる言葉。それに応じるように、どこからともなく桜の花弁が現れ、刀を包み込んだ。まるで桜の花弁による繭のように。
 だが次の瞬間、パァンとその繭が弾けた。桜の花弁が散る。
 散った先。
 もうそこには、刀は無かった。
 そして、崩れ落ちる綺の体……。
「……っ」
 意識が、現実に戻った。目に映るのは、さっきまで時間の狭間で見ていたのと同じ、刀。
「何が見えたかな?」
 問うモーリスに、翠は力なく項垂れて頭を振った。
「……綺……刀をこちらへ運ぼうとした時に、誰かに呪詛をかけられたようだ。桜の精霊に命じてここに空間転移して運ばせたようだが、綺自身は……おそらくは、もう……」
「嘘……!」
 口許を両手で覆い、シュラインが短く悲鳴を上げた。
 桜が散ったのは、シュラインの気持ちが変わったからではない。
 綺が、いなくなってしまったからだったのだ。
 そうだ。綺は、言っていたじゃないか。
『何があっても必ず、緋降だけはそちらへ届けます』と。
 また自分は、鶴来が呪詛に倒れた時と同じく、言葉の奥底に潜むあまりにも強すぎる決意を見逃してしまったというのか……!
 どうしていいのか分からず頭を振り、シュラインはその場に膝から崩れ落ちた。が、それを横合いから白鬼が腕を取って支えた。
 大丈夫か、とは……言えなかった。大丈夫なはずがないからだ。
 と、その廊下の前方に、黒い影が現れた。騒ぎを聞きつけた看護士かと思ったが、そうではない。
 黒いハーフコートを着た、青年だった。黒いキャスケットの下の冷めた黒い瞳を、じっとその場に居る者たちに向けたままゆっくりと歩み寄ってくる。
 それは七星真王(ななほし・まお)――鶴来那王の、弟だった。
 それを見た途端、シュラインが駆け出した。そして真王の胸倉を掴んだ。
「アンタが綺くんに呪詛を放ったの?! 鶴来さんだけじゃ足りなくて、綺くんまで手をかけたっていうの?!」
 全身に渦巻く怒りをぶつけるかのように声を上げた。が、真王――正しくは、真王の裏人格・ルシフェルはその手を振り払いもせずじっと冷めた目でシュラインを見ていた。思わずシュラインがその拳を振り上げた時。
 その手を、横からそっと掴んだ者がいた。
 虎之助だった。
「違う、こいつじゃない。こいつがやったんじゃない」
「そんなこと分からないでしょっ! 湖影くんだって見たじゃないの、彼が自分のお兄さんに呪詛を放ったところを! 自分の兄を呪えるんなら、まったくの他人である綺くんを殺すことくらい……っ」
「違う! ……こいつが言ったんだ。ここに刀を持ってくる人物の身が危ないって。だから俺たちは慌ててここに来たんだ。こいつが呪詛を放つなら、そんなこと言うわけないでしょ?」
 激昂するシュラインをなだめるように言い、虎之助は優しく、シュラインの手をルシフェルの胸元から外した。ふらりと後ろに数歩よろめいたシュラインのその体を抱きとめ、モーリスが自然に、その触れたところから全てを調和へと導く力を注ぎ込む。
 昂ぶった心を、通常の精神状態へと戻すために。
 その横で、焔は目を見開いてじっと真王を見ていた。記憶にあるのとは随分と印象の違う、幼馴染の姿を。
 けれどその幼馴染はというと焔の事にはまったく意識を向けてはいなかった。傍らに立つ虎之助をちらと見、翠の手元にある刀へと視線を向ける。
「これで解呪の鍵は手に入った。よかったな。お前たちの望みがこれで叶えられるわけだ」
「ルシフェル」
 低く発せられる、諌めるような虎之助の声。モーリスの力で冷静さを取り戻したシュラインが、憎しみすらこもる目でルシフェルを見た。
 翠が、短く溜息をついてルシフェルを見やる。
「人の命が一つ無くなったとわかっていてわざと言っているのなら大した性格の悪さだ」
「お褒めいただき恐悦至極だ」
 ニヤ、と笑って紡がれたその言葉。が、それを手で制して、白鬼が問いかけた。
「それで。誰が綺くんに呪詛を放ったのか。君は分かっているんだろう?」
 その言葉に、ルシフェルは唇を歪めて視線を鶴来の病室のドアの方へと向けた。
「……七星の者だ」
「七星のって……真王、お前が当主なのにか?」
 焔が訝しげに問う。それにちらと視線を向けるルシフェルだが、そこには幼馴染に再会したという懐かしさなどという類いの表情は一切存在せず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「主の留守に勝手な真似をした者がいる。それだけのことだ」
「仮にも主と名乗るのなら、部下の不祥事くらいは面倒見てもらいたいね」
 冷めた口調で告げるモーリスに、かすかに唇の端をつり上げて笑ってみせる。
「残念ながら俺は神ではないからな。命を返せと言われても無理だ。が」
 ちらりともう一度、傍らに立つ虎之助を見る。それに、虎之助が眉を寄せた。
「なんだ?」
「……最後まで付き合えよ?」
「…………」
 何か、決意を固めたらしいルシフェルに、かすかに笑い、ポンとその頭に手を乗せた。
「分かってる」
 二人が何のことを言っているのかは分からなかったが、次にルシフェルから告げられた言葉に、虎之助を除く全員が、目を瞠った。
「明日、那王の呪詛を解く。緋降は虎に預けておけ。こいつには七星の呪詛は効かないから、他の奴が持っているよりは安全だ」
 それに、白鬼は首を傾げた。
「ちょっと待て。明日呪詛を解くって、今君が術を解くわけには行かないのかい?」
 踵を返しかけていたルシフェルが、足を止めて肩越しに振り返る。
「確実を期したいのなら、明日を待つことだ。呪詛をかけたはいいが、実際のところ、俺にもその解呪は難儀なんでな。組み合わせた呪が複数に渡るから、一つずつ術で鍵を開けていったら、結局は明日の夜までかかる」
 それに、と言葉を次いで、その目をシュラインに向けた。その顔には、冷笑が浮かんでいる。
「今この状況で那王が目覚めても、少しも嬉しくないだろう? 明日までに気持ちの整理くらいはつけておけ。……自分の為に綺とかいう者の命が犠牲になったと知る那王を、慰めてやれるくらいにはな」
 それだけを呟き、彼はその場を後にする。
 ルシフェルがいるというただそれだけで妙に張り詰めていた空気が、その存在をなくした事でほどけた。
 緋降は手に入ったのに――何とも言えない空虚さが、その場には満ちていた。


<目覚めの時>

 空気が、冴えていた。
 猫の爪のような細い月が、虚空には浮いている。
 ――12月24日。午後9時。
 月齢、1.094。
 ……緋降が届いてから、既に一夜明けている。
 病室の窓を開け放ち、凍えた空気を室内に取り込みながら、翠が振り返る。
 その視線の先には、鶴来のベッド脇でその顔をじっと見つめているシュラインがいた。目許が赤く染まっているのは、綺の死を悼み、泣き明かしたためかもしれないとちらりと思った。
 焔もまた、鶴来のベッド脇に立っていた。その傍には、通常の人間には見えないが、寄り添うように彼の式・犬神の伏姫が座っている。
 確かに、綺が亡くなった事は引っ掛かる。だが、それよりも自分には、もうすぐ彼が目覚めるということの方が大事だった。
 眠る顔を見、焔は自分の胸にそっと手を当てた。
 ……那王……。
 胸の内で、呟く。
(俺は、ずっとお前を探していたんだ。……帰って来い。帰ろう。こちらの世界へ。俺たちがいる世界へ)
 何があっても、もう、何者にもお前を傷つけさせはしない。
(神すらも敵に回してもいい。俺が、お前を守ってやるから)
 それは、誓い。
 誰に告げる言葉でもない。自分自身への、自戒にも似た誓いだ。
 真紅の瞳でじっと鶴来の顔を見つめている焔の、その横で白鬼もまた、自らの思考の内に居た。
 彼は、綺が亡くなったことを知れば――壊れてしまうかもしれない。そんなことを、思う。
 ただでさえ危うかった精神のバランス。誰かを守らなければいけないという思いがあれば、まだそのバランスを保つ事もできただろう。
 けれど、今はその対象が、自分が倒れている間に命を落としてしまった。
 ……耐えられるのだろうか、彼に。
 もしかしたら、このままずっと、何も知らないままに眠らせておいたほうがいいのかもしれない。
 ふと、そんな事を思い――ゆっくりと目を伏せて緩く頭を振る。
 いいや。
 それは、自分が彼にしてやれる事とは違う。
 自分は、彼の道を照らすためにここにいるのだ。
 そう、彼に約束したのだ。
 きっと今こそ、彼の手を引いてやらなければならない時なのだ。一人でその痛みを抱えさせはしない。同じ痛みも、分け合えばきっと、少しは楽になるだろうから。
 大きく一つ溜息をついた白鬼のその様をチラリと見てから、窓辺に立っていたモーリスが腕に嵌めた時計へと視線を落とした。
 そろそろ、か。
 思った所、コンコン、とノックの音が響いた。誰も返事をしなかったが、静かに、ドアが開く。
「悪い、少し遅れたかな」
 入ってきたのは、腕に毛布を抱いた虎之助だった。毛布は細長く、何かを包み込んでいるようだった。
 包まれているのは、言わずと知れた、緋降である。
 その虎之助の後ろから、黒い影が現れる。
 黒い式服を纏ったルシフェルだった。それを見て、シュラインと白鬼は、彼が一度綺に会った事があることを思い出した。
 自分達が綺に会うきっかけになった事件の手引きをしたのが、彼だった。
 彼に巻き込まれなければ、綺は今頃、まだ生きていたのだろうか?
 思うが……口には出さず、シュラインはふっと吐息を漏らした。そして椅子から立ち上がる。
 今は感傷に浸っている場合じゃない。もしかしたら、解呪の隙をついて、綺を狙った者からの呪詛がこないとも限らないのだ。妙な外部からの干渉が無いかどうか、細心の注意を払わなければならない。
 そしてその旨は、他の面々にも伝えてあった。
 モーリスが、鶴来の周囲に作ってあった『檻』を解除する。両腕を開いて、檻の表面が腕の中へと収縮する様を思い描く。
 するすると、徐々に小さくなっていき――最後には爪の先ほどの大きさになり、やがてぱちんと弾けて消えた。
「これで干渉できるようになったので」
 言って、ルシフェルを振り返る。それに小さく頷くと、ルシフェルは虎之助を見た。
「虎ちゃん、緋降を」
「ん、ああ」
 毛布を解き、中から黒い鞘と柄を持つ刀を取り出し、ルシフェルの手へ渡す。それを受け取り、窓辺に歩み寄りながらすらりと鞘から抜き放つと、その鞘を虎之助ではなく、窓の近くに居た翠に手渡した。
「さて。上手く呪を切れるといいがな」
 呟いて、ルシフェルはその真紅の刃を窓の外に見える月へと掲げた。そしてふと肩越しに室内を振り返る。
「……誰か、代わりにやるか?」
 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。
「冗談なら後でいいからさっさとやれ」
 焔が苛立たしげな声を出す。モーリスも肩を竦める。
「4ヶ月間眠っていた人が健康に目覚める様をぜひとも見たいから早くしてもらいたいね」
「……美味しい所だけ持って行くような気がして悪いと思ったんだがな」
 かすかに笑うと、再びルシフェルは月へと顔を向ける。
 そして。
 笑みを消して深く一つ呼吸すると、朗々とした声を発した。
「吾は是れ、天帝の執持しむる処の禁刀なり。凡常の刀に非ず。千妖も万邪も皆悉く済除す」
 続いて、天にかざしていた刀を、九字を切るように四縦五横に振るう。
「天は我が父たり、地は我が母たり。六合の中に、南斗と北斗、三台と玉女在り。左に青龍、右に白虎、前に朱雀、後に玄武在り。前後扶翼す。急々如律令」

 ――……。

 室内を、静寂が支配した。
 誰も、動く者はなく。動く物も、なく。

 ……酷く時間が長く感じられた。
 ふ、と。
 鶴来のその、閉ざされていた瞳が、開くまで。


<終――聖なる夜の、熱>

 誰かが彼に綺の事を話す前に、虎之助には、彼に聞いておきたいことがあった。
 綺の事を聞いた後の彼に、話しかける自信が、今の自分にはなかったのである。
 とりあえず、目覚めたばかりの彼に綺の事を話せるようなハードな心臓の持ち主もいなかったらしく……ならば、と、虎之助はぼんやりと天井を見上げている鶴来に歩み寄った。
 そして、その場に居る者たちに、悪いが少し時間が欲しいと言い、席を外してもらった。
 残されたのは、自分と鶴来だけ。
 ふと、鶴来が虎之助を見た。
「……いろいろと、お世話をかけましたね」
「ん、いや。アイツが呪詛放った時にどうにもできなかったしな」
 それより、と言葉を切って。
 虎之助は、厳しい眼差しで鶴来を見た。
「ずっと、聞きたかったんだ。真王君の中のもう一つの人格、消したがってるよなアンタ。それは、真王君がそう言ったから? それとも、アンタが自分でそうしたいと思ったから?」
 鶴来は、妙に青い瞳をゆっくりと瞼の裏に隠し、浅く吐息をついた。そしてゆっくりとまた双眸を開く。
「それを聞く為に、起こしてくれたんですか? 全ては、真王の為に?」
 問う言葉に、力はない。けれども頭はしっかり働いているようだった。
 虎之助は、わずかに顎を引いた。もしかしたらそれは、鶴来からすると頷いたように見えたかもしれない。
「もしアンタが消したいと思ったから動いてるんだなんて言ったら……俺は、アンタのただの自己満足だって言いたい。真王君は、もう一つの人格を抱えて生きる事を受け入れている。なのに、それをアンタは、アンタの自己満足で邪魔しようとしてる。その理由は?」
 真王――ミカエルは、言っていた。
 ――彼が消える事を、彼の死だと思っている。すでに生きている者を、そんなに簡単に消してしまっていいものだとは思わない。
「そうアンタの弟は言ってるんだ。形はどうあれ、この世に生まれた一人の人格をテメーの勝手な都合と思い込みで消そうとするその理由を言えよ。言ってみろよ」
 語調を強めたその言葉に。
 ふと、鶴来は目を細めて微笑んだ。
「本当は、もう全部真王に聞いているんじゃないですか……?」
「……俺は、テメーの口から聞きたいんだよ」
「真王を守る為に」
 さらりと。鶴来は言った。何の力みもなく告げられた言葉に、虎之助が一瞬返答に詰まった。
 確かに、ルシフェルから聞いた鶴来がルシフェルを消そうとする理由は、それだった。ルシフェルの人格がミカエルの人格を越える前に、ルシフェルの人格を消去しようとしたと。
 だが、結局それは真王の肉体を死に至らしめることになるかもしれないからと、恐れて鶴来は手出しできずにいたのだと。
「……もう一人の人格を消さずにどうにかする方法もあるだろうが」
 低く吐き出すように言う。
「アンタが七星に戻って、当主をやればいい。それだけのことだろう。そしたら真王くんの人格は、上手くもう一つの人格とやっていける」
「……そんな、こと……」
「瓢箪を生成できるのは当主となる資格を持つ者だけ。そうだよな?」
「……一体どこまで真王に聞いたんですか貴方は」
「多分、大体は聞いたはずだ。……本当に弟を助けてやりたいなら、それが一番手っ取り早い方法だろう?」
 言って、虎之助は座っていた椅子から腰を上げる。そして小さく笑った。
「俺は、アイツに約束したんだ。最後まで付き合ってな。あんた達の行き着く先を、ちゃんとこの目で最後まで見てやる」
 それに、ふと鶴来がまた微笑んだ。けれど、もう、その口から何か言葉を紡ぐ事は無かった。

 部屋を出ると、消灯時間を過ぎたせいで灯りを落とし気味の廊下で、掌に乗せた何かをじっと眺めているルシフェルがいた。が、虎之助が出てきたことに気づくと、軽く手を上げた。それに歩み寄る。
「なんだ、何見てる?」
「瓢箪」
「は? 鶴来氏から奪ったやつか?」
「いや。……あれとこれを交換した」
「は?」
「那王から奪った瓢箪と、この瓢箪と。多分、那王の瓢箪は那王のところに戻るだろう。これは那王の瓢箪と対になっている瓢箪だ。坊主が、持っていたのを俺に渡してくれた」
 坊主、というのが白鬼を示す言葉だとすぐに察し、虎之助は首を傾げた。
「なんでそんなものを鶴来氏は抜剣氏に渡してたんだろうな」
「……俺がお前に黒曜石を渡したのと同じ理由かもな」
 自分に助力する者として、認めたということか。
 呟いた虎之助の声には答えず、ルシフェルは式服の裾を翻して歩き出す。他の者たちはまた皆鶴来の病室へと戻っていたため、その場には二人しかいない。
 何となくルシフェルの後を追うように歩きながら、虎之助は式服の襟首にある金色の逆さ五芒星を眺めた。
 ……鶴来は、どうするのだろう。
 七星の当主に戻る為に動き出すのだろうか。
 それとも――…
「虎ちゃん」
 不意に声をかけられ、はっと虎之助はルシフェルを見た。ルシフェルは、振り返らずに背を向けたままだった。
「あ……なんだ?」
「今日、クリスマスイブだろう?」
「え? あー……そういやそうだな」
 あまりにも様々な事がありすぎて、うっかり忘れていた。
「残念だったな、せっかくのデート日和だというのにこんな茶番に巻き込まれて」
「別にそんなこと……だから言ってるだろう。好きでやってることだって」
「それが本心なら、俺にとっては、どこの誰とも知らぬ男よりもお前のほうがよっぽど聖者のように思えるが」
 淡々と背中で紡がれる言葉。
 が、ふと。
 その体が自分の方へと向けられ。
 二人の距離が縮まる。
 すっと、ルシフェルの顔が自分の顔に近づいた。
 虎之助の双眸が、見開かれる。

「――……」

 何をされたのか、一瞬分からなかった。
「……気持ち悪いと思うなら、悪いな」
 触れ合ったのは、瞬きする間にも満たないほどの、刹那。
 また距離を置いて、目を逸らせてからぽつりと言い、何も無かったようにルシフェルは踵を返して歩いていく。
 しばしその後を追うのも忘れて、虎之助は口許に拳を当てた。
 その唇に残るかすかな熱を、茶化して水に流した方がいいのだろうかと思い――けれどもふっと吐息を漏らして苦笑を浮かべた。

 今日は、本来の意味も忘れて浮かれ狂う聖夜前夜。
 これはきっと、その熱が見せた幻だろう。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0065/抜剣・白鬼 (ぬぼこ・びゃっき)/男/30/僧侶(退魔僧)】
【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0523/花房・翠 (はなぶさ・すい)/男/20/フリージャーナリスト】
【0689/湖影・虎之助 (こかげ・とらのすけ)/男/21/大学生(副業にモデル)】
【0856/綾辻・焔 (あやつじ・ほむら)/男/17/学生】
【2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男/527/ガードナー・医師・調和者】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 湖影・虎之助さん。再会できてとても嬉しいです。
 えー…。何から申せばいいのやら…(汗)。
 えー…と、とりあえず…。
 つ、ついに…や、やってしまいました…ゴメンナサイお兄様(倒)。
 「最後まで付き合う」と決心したためについてきたオマケだと思って…だ、だめですか…ゴメンナサイ(汗)。
 なんか始終ルシフェルとセット扱いで…というか半ば従者か何かのような…。
 これに懲りず…ルシフェルのことをよろしくお願いいたします(笑)。

 今回、個別部分がけっこう多かったりしますので、あっちやこっちを読み進めていただけば、きっと、NPCについていろいろなことが分かると思います。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。