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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


呪解緋

<序>

 時の彼方に見える、因果の糸を絡め取れ。
 それが、合図。
 仕切り直しとなるか、これで終幕となるか――…

 それはまだ、分からない。

          *

 目の前には、一通の手紙がある。
 それを溜息混じりに手に取り、草間武彦は空いた手で近くにあった煙草を引き寄せた。
 すでに手紙の内容には何度も目を通し済みである。
 それでもまた目を通そうとして、草間は緩く頭を振る。
 ……さて、どうしたものか。
 ちらりと、目を机の上にある封筒の方へと向ける。消印は、京都の某局。くるりとひっくり返すと黒い細ペンで差出人名が書かれていた。
 七海 綺(ななみ・あや)、と。
 この事務所にも実際に何度か来た事がある、とある里の桜の守人である。
 ある事件で身内をすべて無くした為、今は草間の旧友でもある鶴来那王(つるぎ・なお)という名の青年の、京都にある実家に身を寄せているのだが……。
 その友人の顔を思い出し、思わずまた一つこぼしかけた溜息を隠すように、草間は煙草をくわえる。
 思い出す彼の顔は、寝顔だけだった。
 かれこれ数ヶ月、鶴来那王は意識不明、原因不明の昏睡状態に陥っている。数年ぶりにやっと顔を合わせたと思ったらそんな状態の旧友に、草間はかけるべき言葉もなかった。
 とある事情により「何とか目を覚まさせてやる」とも言えず――早数ヶ月。
 夏の盛りだった季節は、すでに冬を迎えている。
 いつ消えるやも知れぬ命の前に、けれども自ら動く事もなく無駄に時を重ねていた、そんなある日。
 速達として届けられた、綺の手紙。
 そこに記されている文字をまた草間はぼんやりとした目で眺めやっていたが、ややして煙草に火をつけてくわえながらふらりと席を立ち、その場にいた者たちに文面を見せてみた。

          *

 前略、草間様

七海です。
月並みな挨拶ではじめたいところですが……今はそれどころではないので……。
さっそくですが、現在、那王さんが何者かの呪詛を受けて東京のとある病院で昏睡状態に陥られている事はすでにご存知かと思います。
その呪詛を放ったのが那王さんの実の弟さんということも、多分草間さんはご存知だとは思います。
そしてその呪詛の解呪は、呪詛を放った本人と那王さん、那王さんの家系の人しか分からないと言うことも、多分ご存知ですね(いや、もしかしたら何か別に、解く方法があるかもしれませんが)。
先日、那王さんの部屋で、那王さん自身が書きつけたと思われる妙なメモを見つけたので、とりあえずその言葉を書き写したものを送ります。
たぶん、何か「物」を示す言葉だと思うのですが……。
何か分かったら、ご連絡ください。俺がその「物」を持ち、そちらに向かいますので。
もしかしたら、それが解呪に繋がるキーかもしれません。
あと、俺が那王さんに渡された鈴も、同封します。
その鈴は那王さんが持っていた「魔を吸い込む瓢箪」と連動しているらしく、それを燃やせばその術具が燃えるように出来ているそうです。術具を悪用される前に手を打ってくれとの事でしたが……それを本当に燃やしていいのかどうか俺には判断しかねましたので、できればそれも、そちらでどう取り扱うか決めてください。
それでは、よろしくお願いします。   草々

          *

 草間が「目を覚まさせてやる」と言えない理由が、そこには綴られていた。
 彼の弟が放った呪詛を解く方法が、弟本人か鶴来の家系の者しか分からないと言うのがネックだったのである。
 だが今、その鍵となるべき言葉がもたらされたのなら――話は別である。
「誰か、ここに書いてあるなぞなぞを解いてくれる奴は居ないか?」
 草間はそのメモに見入る者たちに声をかけた。
 が。
 ふと草間はそこに居る面々の顔を見て考えた。
 もしかしたら、このなぞなぞを解く以外に何か方法があるのではないか――と。
 それならそれでいい。
 この際、呪詛が解けるのならもうなんだっていいのだ。
 なぞなぞが解けないのなら、他の方法を探ってもいい。もちろん、この謎が解けるのが最良の方法なのだろうが……。
 思い、再び草間はそのなぞなぞが書かれた2枚目の手紙へと視線を落とした。そして――深く、溜息をついた。

          *

赫奕(かくえき)の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます。
清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。

さあ、我は何者か。
我が名を、答えよ。

答えたならば
生まれて間もない、虚空より降りし細き銀光に我を掲げよ。
其の時こそ 赭堊(しゃあく)の光、闇を裂く――


<思い出すもの>

 桜が、舞っていた。
 淡い紅色の花弁が、春の柔らかな空気の中浮き立つように踊っている。
 幾つも幾つも。
 止む事の無い雪のように。
 澄んだ空気と、桜色に滲む風景。
 その景色の中に、詰襟を纏った少年がいた。こちらに背中を向けていて、その顔がどういう表情を浮かべているかは分からない。
 分からないが……。
 なんだか、幼心に、そのまま彼が消えてしまいそうな気がして――慌てて駆け寄り、その背中に手をとんと当てる。
 刹那、彼が振り返った。黒髪がさらりと透明な風に揺れる。
「……ほむら……?」
 ぽつりと紡がれた細い声。呼ばれたのが自分の名だと、一瞬分からなかった。
 どうしてそんなにか弱い声なのか。震えているのか。
 いつもと明らかに違う声に導かれるように、顔を上げて相手を見上げる。
 そして、気づく。
 その青い双眸から零れ落ちる涙の存在に。
 思わず、その頬に触れようとするように手を精一杯伸ばした。彼の制服を掴み、爪先立ちながら。
「なおちゃん? どこか痛い?」
「ああ……ごめん、心配しなくていいから」
「何で泣いてるの、なお?」
「……おばあちゃんが亡くなったんだ」
「なくなった?」
「死んじゃったんだ」
 軽々と自分の体を抱き上げ、彼はかすかに笑った。言われた言葉の意味は、齢4つの自分にはまだ上手く理解できなかった。けれども、彼が笑ってくれた事になんとなく安堵を覚えたものだった。
 ……祖母によく懐いていた彼にとって、その時の喪失感がどれほどのものか……あの時の自分にもっと理解できていれば、何か違う言葉で彼の中に出来た心の隙間を埋めてやれたかもしれないのに。

 それから6年後。
 彼はまた、肉親を一人亡くした。
 あの日も確か、桜が空に舞っていたように思う。
 彼が祖母を亡くした時よりは幾分歳を重ねていた自分は、今度は彼のその哀しみを少しは癒せるかもしれないと思った。
 幼い頃から憧れ、追いかけていたその背中に、追いつけるかもしれないと。
 けれども。
 辿り着いた彼の家。黒いスーツを身に纏った19歳の彼は――かすかな笑みを浮かべていた。慰めなど必要ないように。
 その笑みが何に対してのものなのか、よくは分からなかった。けれど、どこか……明らかに、いつもの笑みとは違っていた。
 ……時が経ち、その時の彼の表情を思うと「自嘲」という言葉が浮かんだのだが、当時の自分はそんな言葉など知らなかった。
 駆け込んできた自分の姿に気づき、ゆっくりとこちらに歩み寄って来て、視線を合わせるように腰をかがめていつものように優しく微笑む彼には、やはり「哀しみ」という感情がないかのように見えた。自分を見据える瞳は、黒曜石のように黒かった。
「焔、学校は?」
「だって、なおちゃんの父親が亡くなったって聞いたから、なおが……」
 言いかけて、言葉を呑む。……泣いていると思ったから、とは言えなかった。彼が泣いていたからといって、まだ10歳でしかない自分に何ができるのだと、その時改めて思ったりもした。
 きっと、彼はこの柔らかな笑みをさらに深くして「泣いてないよ」と言うだけだろう。
 自分に頼ろうとなどしないはず。頼ろうとなんてするわけがない。
 ――離れている9つという年の差は、思いの外大きく思えた。
 そんなこちらの思いを知ってか知らずか、彼は緩く首を傾げた。
「俺が、何?」
「……それより、何してるんだ? 葬式の用意じゃないのか?」
 彼の肩越しに家の中の様子を見て、自分は怪訝な顔をした。明らかに、葬儀の用意とは違う行動をしている大人達のその様子に。
 家具や、大小さまざまな段ボール箱を運び出している、その様。一体何をしているのか?
 けれども彼は緩く頭を振っただけでその問いには答えず、また穏やかに笑った。
「ほら、焔。もう学校に戻るんだ。先生が心配するだろう? 家に連絡が行ったら後で怒られるぞ?」
「けど……大丈夫なのか、なお」
 子供の自分が、もう大人の領域に足を踏み入れている彼に言うべき言葉ではなかったかもしれない。だが、言わずにはいられなかった。
 泣いてはいない。微笑もいつもの彼のものだ。
 だが。
 いつもの彼とは明らかに何かが違っていたから。
「俺が帰って来るまでちゃんとここにいるのか!」
「いるよ」
 さらりと何の気負いもなく当然の事のように言って、また彼はいつものように笑った。
「俺は焔との約束、破った事ないだろう? ちゃんとここにいるから」
 ――それが、最初で最後の、彼がついた嘘だった。
 それから彼の姿を見る事は二度となかった。学校から帰宅後、彼の弟に聞いたら、彼は自分が帰る数時間前に母方の実家へ引っ越して行ったのだと言われた。
 そして彼とその弟は、「七星」と「鶴来」という別々の姓を名乗る事になったのだと。
 母方の家はさほど遠くない場所にあるものの、もう自分達は会うことを許されないのだ、と彼の弟は寂しそうに語っていた。
 何故、会えないのか……聞いても、きっと彼は答えなかっただろう。
 12歳とはいえ、七星という家の重みを乗っけられてしまったその身では――やや特殊な事情がある自家の事情を、外部の者に話したりはできないはず。
 たとえそれが、幼馴染の、年端も行かない子供相手とはいえども、だ。
 そして、自分は彼の兄ではなく、彼が七星の家の当主になったと聞き、ぼんやりと思ったものだった。
 ああ、名前の通り「真の王」になったのか……と。
 不思議とそのことに違和感を覚えなかったのは、その名前がもたらす印象のせいだろうか。
 「真の王」などというご大層な名を名乗るには、少し、あの弟は優しくて、おっとりぼんやりしすぎているような気がしたのだが……。

 回帰する記憶の先にあるのはいつも、桜の下で泣いていたあの、詰襟を纏った、那王の姿。
 それを思い出すたび、早く大人になりたいと願った。
 そして、彼を探しに行きたいと。
 どこまでも、どこまでも。
 気の済むまで、追いかけたいと。

 もし、見つけて捕まえることができたら。
 もう二度と――その手を、離しはしない。

          *

「…………」
 流れてきたファックスを見、京都の自宅にいた綾辻 焔は真紅の双眸を見開いた。
 送信先は、草間興信所。
 焔の探し人が、たまにそこに調査依頼を持ち込んでいると聞いたのはつい最近の事。とりあえず探している旨を草間に伝え、情報があればこちらへ流して欲しいと言っていた、その返事が流れてきたのである。
 一通りざっと目を通し、焔はそれを手の中で握り締めて何かを考えるようにしばし瞳を閉ざし立ち尽くしていたが、やがてコートを羽織り、駆けるように玄関へと向かった。
 一分一秒が、惜しかった。
 その手にあるのは、ようやく掴んだ、「彼」に繋がる一本の糸。
「……那王……」
 呟きは、誰へ届く事もなくすっかり冬の気配を纏った冷風に飲み込まれ、消えていく。
 一度握り締めて皺だらけになったファックス用紙を開いて書きつけられた謎めいた言葉に目を通しながら、焔は駅へ向かって歩き出した。
 彼が――鶴来那王がいるという、東京へ向かう為に。


<開かれる記憶の扉>

 午前11時9分京都発の新幹線のぞみ、自由席車。
 羽織っていたコートのポケットから紙切れを抜き出して脱ぎ、左列・窓際の席に腰を下ろした焔は、黒いレザーパンツに包まれた長い足を組み上げ、その紙切れに視線を落とした。
 さっき草間の所から流れてきたファックス内容を写した感熱紙である。
 そこに綴られている文字を、しばらくじっと見つめる。
 注釈として、それは鶴来那王自身が記したものだと書かれている。
 そこに並ぶ、その文字の一つ一つ。
 字はおそらく草間の字だろう。癖のある、あまり「綺麗」とは言い難い字だったが……字はこの際どうでもいい。読めればいい。それ以上の物を要求はしない。
 それよりも。
 その文章に込められている、意味。
 書いた者の影が、そこから透けて見えそうな気がした。
 おそらくは、彼をよく知る者にだけ分かるように綴られているのだろうその文章。硬い響きを持つ言葉が幾つも並んでいるが、根底に流れるのは、なんだかひどく――綺麗な、気。
 ……それは、自分が那王に対してひとかたならぬ想いを抱いているから、そう感じてしまうのだろうか。
 軽く握った左手をこめかみに押し当て、浅い吐息を漏らす。そして、わずかに目を細めてかすかな笑みを口許に浮かべた。
 それはどこか、自嘲するかのような色を帯びている。
(会わなかった間に、アイツがどう変わってしまっているか……何も知らないくせに)
 最後に見たのは、那王の父の葬式前。もう7年も前の事だ。
 7年もあれば、人がすっかり変わっていてもおかしくない。
 昔はどこを見ているのか分からない、現実感に欠けたような眼差しをしてよくぼんやりと遠くを見ていた彼が、今ではしっかり現実に足をつけた利己的な人間になっていても別におかしなことではないはず。
 けれど、そこに綴られている文面から感じるのは、やはり、昔と何も変わらない那王の姿だった。
 どこまでも、ただ一人で傷ついて行く。
 誰にも頼らず、弱味を見せず。
 そして、何も告げず――いつもと同じ顔で笑いながら、いつかはそのまま消えてしまいそうな。
 あの日と、同じように。自分に初めて嘘をついた、あの日のように。
「……っ」
 こめかみに当てていた左の拳を、思わず窓硝子に叩きつけてしまいそうになり、はっと焔は我に戻った。振り上げた拳をそのまま力なく膝の上に落とす。
 どうやら自分は、かなり、那王がこんな状況に陥ってしまったということに苛立ちを感じているらしかった。
 那王に呪詛をかけた真王に対しての苛立ちではない。
 呪詛を甘んじて受けた那王に対しての苛立ち、でもない。
 それは。
 彼らがそんな状態になっている事を今まで知らず、そして今の今まで何もできなかった自分に対して、だ。
「……分かっているならさっさと謎を解けばいいんだ……」
 自分に対して呟くと、焔はまた草間の汚い字がのたうっている感熱紙へと赤い瞳を向ける。
 何度も出てくるのは「共鳴」という言葉。
 ふと。
 そういえば昔、那王が自宅近くにある弓道場に通い弓を引いている姿をよく見かけたなと思い出す。何とはなくついていき、その様をよく眺めていたものである。ピンと張り詰めた空気。凛とした、弓を引くそのまっすぐに伸ばされた背筋。強い眼差し。
 けれど本人は特別弓道が好きだとか言うわけではなかったようで、結局、数年でやめてしまったようだが……。
「弓……。共鳴、か」
 口許に、中指に嵌めたクロムハーツのケルティックVバンドリングを当てながら目を細める。
 昔から、那王の家――七星家が、陰陽師をしている事はすでに知っている焔である。
 陰陽師として、当然、陰陽術を使う那王。確かその技の一つに、弓を引くことで弦の音を鳴らして霊の姿を暴く、というのがあったはず。
 その技。確か、鳴弦(めいげん)――と言っただろうか。
 文中に出てくる『共鳴』というのはもしかしてそこにかかっているのか?
 細めたままの眼差しで、じっと髪を見据える。少しだけひんやりとしたシルバーの感覚が唇に触れている。
 もう一度、一文一文をゆっくりと目で追っていく。
 打ちつけられ……垢離……研ぎ澄ます……。
 闇を裂くという、赭堊の光……。闇とはおそらく、呪詛のこと。赭堊とは、赤と白のこと。先に出ている「銀光」というのがおそらくはその内の「白」なのだろう。
 とすると「赤」は、何だ……? 白い光に掲げる「物」が「赤い」ということか?
 打ちつけ、水垢離をし、研ぎ澄ます。
 神に仕えることさえ許される。
 赤。
 紅。
 赫――…
「…………」
 考え込んでいるうちに、ぼんやりと意識が遊離するような感覚を覚え、焔はその浮遊感に任せて瞳を閉じる。
 電車が、静かに線路の上を滑りだす。


 真っ白な、部屋。
 開かれた障子戸の向こうに広がるのは、隅々まで手入れが行き届いた整えられた純和風の庭園と、眩いほどの太陽光。
 ふんだんに、影が有する事を許さないかのように光を取り込んだその部屋。けれど、光が強ければ強いほど、影もまた、濃くそこに刻み込まれる。
 黒い指貫の上に白い狩衣を纏い、その場にきちんと正座しているのは高校生くらいの少年。狩衣の袖括りの緒と当帯、襟元にあるとんぼ(紐で出来た飾り止め)は、暗い赤で――それは血の色を思わせた。
 それが陰陽師としての彼の正装だと、自分は知っていた。もっとも、実際にその姿を見るのはその時が初めてだったが。
 彼は、黒目がちの瞳でこちらを見ていた。濡れたような漆黒の髪の上に綺麗な天使の輪が出来ていた事を、よく覚えている。
 眩しい光の中、彼はゆっくりと少し身体を前に傾がせ、その白く細い腕を伸ばして畳の上に置かれていた物を、手にした。
 それは、金色の細工を施した黒塗りの鞘に収められた、一振りの刀。柄も黒塗りで、あっさりとした金色の飾りが埋め込まれている。鍔も細かな細工が掘り込まれた金色の物で、木瓜形だ。
 すらりと、慣れた手つきで鞘から刀身を抜き放つ。
 現れるのは銀色の刃……ではなく。
 血塗れたような、真紅の刃。
「先日、父から譲り受けたんだ」
 彼はその刃を眺めて目を細めながら呟くように言った。そしてその黒い瞳を自分の方へと向けて、かすかに笑った。
「まるで焔の目の色みたいだと思わないか」
「……なんで赤いんだ、その刃」
「昔から七星の家に伝わるものらしいんだ。父にも刃が赤い理由は分からないらしい。ただ、何度も……当主となる人間の死地を救ってきた、とだけ聞いた」
「じゃあ那王、七星の当主になるのか?」
「……さあ、どうだろう。俺よりも、真王を当主にと望む人の方が多いから」
「でも、その刀をおじさんから貰ったんなら、おじさんは那王を当主にって思ったってことだろう? それに……確か七星の当主って能力を抑える為の瓢箪を生成するって聞いた。那王はそれができたけど、真王にはできなかったって……真王がこの前言ってた。それってつまり、那王の方が当主になる資格があるってことじゃないのか?」
 その言葉に、彼はわずかに瞳を揺らせて目を伏せた。そして静かに刀を畳の上に置くと、苦笑を浮かべて手を伸ばし、人差し指をそっと焔の唇に当てた。
「その事は、絶対に誰にも言っちゃいけない。俺と、真王と、焔だけの秘密だ」
「どうして」
 問いかけた言葉に、彼は緩く頭を振った。
「俺は真王と争いたくない」
「なおちゃん……?」
「俺は当主になんてなりたくない。大多数が真王を望むのなら、真王が七星を継げばいい。真王もそれを受け入れるのなら。……たとえ、俺が自分の身勝手でその責任から逃れようとしているのだと罵られてもいい」
「なお……」
「それに、真王が当主になったほうがきっと……」
 寂しげに目を逸らせ。
「母も、喜ぶから」
 彼らの母が、弟のみを溺愛していることは、自分もよく知っていた。その母が、弟に「真の王」などというご大層な名前を付けたのだと言うことも、知っている。
 どこまでも、彼を疎んじている母。だから彼は祖母に懐いていたのだが、その祖母も、数年前に逝去している。
 それからずっと彼が抱えているその寂しさを、癒してやりたいと何度思ったことか知れない。俺ならずっと傍にいてやるからと、何度言いたかったか知れない。
「焔……」
 すっと、彼が自分との距離を詰めた。間近にこちらの目を覗き込む――さっきまでは黒かったはずの、海のように蒼い、瞳。
「瓢箪の事は、忘れるんだ。俺はそんなもの作れていないし、そんなもので抑えなければならないほどの力は持っていない。何の力も持っていなかったんだ、最初からずっと。刀も、俺は父から譲り受けてはいない。忘れて……そんな話は、聞かなかったんだ……何も、何も……」
 緩やかに紡がれるその言葉は、何故かひどく心地よく……。


 はっと目を開く。
 そして窓の外を流れる景色に目をやった。
「……っ」
 一瞬自分が今どこにいて、何をしているのか思い出せなかったが、すぐにその流れる景色の速さを見て、現実感を取り戻す。
 新幹線の中だ。
 自分は、今、東京に向かっている。
 那王に、会う為に。その命を助ける為に。
 そして。
 目を手の中にある紙に落とし。
「……そうか、アレか……」
 呟く。
 今まで意識から抜け落ちていたのは、きっと、あの時那王がゆるやかに呟いていた言葉。あれが、那王が自分にかけた「催眠暗示」だっただろう。もしかしたら、この文字の羅列を見たら解けるように仕掛けられていた、とか?
 ……まあ、今更その暗示が解けた理由など、どうでもいい。
 いつの間に隣に座っていたのか分からないサラリーマン風の男の前を抜け、足早にデッキへと向かう。そして携帯電話をポケットから取り出してメモリーに入れておいた草間興信所の番号をダイヤルする。
 ふと腕にはめた時計に視線を落とすと、時間は午後1時20分を差している。あと10分もすれば東京駅に着くだろう。
 ……あの短い夢を見ている間に、2時間以上も眠り込んでいたらしい。
 この状況で爆睡できるその、己の神経の図太さに眩暈がした。が、お陰でこうして謎も解けたのだからよしとするべきか。
 数度のコールの後、通話が繋がる。出たのは草間だ。
 それに向かい、焔は言った。
「答えは、赫い刀身の『刀』だ」


<招来>

 どうやら、まだ誰もここへは訪れていないようだった。
 草間のファックスに書き付けられていた病院内の病室に辿り着いた焔は、ふっと息を吐いた。
 ……どうしよう。
 口許に拳を当てて俯く。
 勢いでここまで来たはよかったが、ここにきて、躊躇いが生じた。
 今、この扉の向こうには、ずっと……ずっと会いたくてたまらなかった人物が、いる。例え眠っているとはいえ、その人物本人が、いるのだ。
 夢ではなく。
 幻でもなく。
 そんな紛い物ではなく、現実として。本物として、だ。
 けれど、焔はその扉を、自分の手で開けることが出来なかった。
 彼を助ける事が出来なかった自分と、今まで家業だ仕事と称し、数多の命を奪い続けた事で穢れてしまった自分。
 そんな姿を、彼に見せたくは無かったのだ。
 最後に彼と会った時、自分はまだ家業である「犬神使い」としての力をつけてはいなかった。潜在的に能力としては身の内にあっただろうが、それで人を傷つけたりなどはまだしていなかった。
 人を殺した事も、なかった。
 けれど、今は違う。
 この体に流れる穢れた血に誘われるように、「仕事」と銘打たれた物は全て確実にこなしてきた。術を用いた殺しであっても。
 それが、犬神筋の人間としての宿命といえば聞こえがいいが、ただ単に、そんな家系だからと流されていただけである。そう思えばなおさら……彼に会うことに恥を覚えた。
「……那王……」
 名を呟けば、会いたいと思う気持ちに突き動かされそうになる。この扉を開き、一目だけでも彼を見たいと思う。
 だが、唇を噛み締めてその思いを押し殺し、焔はドアに背を向けた。そしてゆっくりと手を持ち上げる。右手で印を結び、真紅の瞳を瞼で覆い隠し。
「式もく行い参らする。今ぞ仮初の魂魄授けん。伏姫、招来」
 独り言のように低く紡がれる、言葉。
 すると、その言葉に応じるようにどこからともなくするりと、狼の様なしなやかさと美しさ、そして気高さを持つ真っ黒な犬が現れた。現実には体を持たないそれは、焔の式神・伏姫である。
 そっと実際には触れられないはずのその頭に手を置くと、焔は穏やかな眼差しで伏姫と視線を合わせる。それだけで、自分が何を命じるつもりなのか、彼女には伝わる。
 すっと、焔の体をすり抜け、そのままその後ろにあった扉をもすり抜けて伏姫はその場から姿を消す。
 ――もしかしたら、那王を死に至らしめる為に、何かが動き出すかもしれない。
 ならば、伏姫を放っておけば、奇妙な気の動きがあれば察知できるはずだ。病院周辺の警戒も命じておいた。もし何か異変が感じられたら、伏姫と意識を常に同調させておきさえすれば素早く対応することもできる。
「……どうせ草間の所からも何人かは動いているはずだ」
 呟くと、焔は扉から静かに身を離し、向かい側の白い壁に背を持たせかけた。
 呪詛をかけたのが那王の弟だというのは、草間のファックスに記されていた。
 那王の弟……というと。
「……真王、か」
 ぽつりと呟く。
 思い出されるのは、もっと幼い頃の事。焔にも兄が一人いるのだが、その兄との折り合いはあまりよくない。だが、那王と真王の兄弟は、違っていた。
 真王は那王を慕っていたし、全てにおいて憧憬を抱いているようにも見えた。そして那王は、そんな弟を大切に思っていたはずである。
 なのに一体、何があったというのか。兄に向かって呪詛を放つなんて、とてもではないが焔が知っている真王からは想像ができなかった。
 探そうかと思いはしたものの、那王にも何か事情があるのかもしれないと思い今の今まで動かなかった自分に対し、悔いても悔やみきれない思いを抱く。
 しかし。
 もし真王が本気で那王を殺すつもりであったなら。
「させない……」
 強い意志を込め、見据えるように焔は眼前にある扉を見る。真紅の瞳が最上級のルビー、ピジョンブラッドのような煌きを有する。
「絶対に、殺させたりはしない」
 どちらも、傷付けたくない。那王も、真王も。
 那王が弟から放たれた術を返そうとしなかったのは……真王に呪詛を返したくなかったからかもしれない。
 那王の思いが昔と変わらず、真王を大切に思っているのだとしたら……焔としては真王も傷付けたくはなかった。もしそうなったら、解呪に成功した所で、那王が嘆き悲しむのは目に見えている。
 ふっと吐息をつくと、焔はゆったりと腕組みをして天井を見上げた。
 もし、那王にかけられた呪詛が、何かを憑けるという類いのものであるのなら、伏姫を那王に同調させ、その憑いた何かを引きずり出すという手も使える。引きずり出した後は、どこぞの寂れた神社からでもかっぱらってきた御神鏡にでも封印してやればいい。
 そんなことを考えてもみたのだが……室内へ侵入させた伏姫から受ける感覚では、どうも、那王の中に何かが憑いているような感じはうけないのである。
 まあとりあえず……今は様子を見るか。
 思い、焔は静かに頭上を見上げたまま目を閉じた。
 それはまるで、天にいる見えない何かに向かい祈りを捧げてでもいるかのようだった。


<病室前で>

 先に病院に着いたのは花房 翠(はなふさ・すい)で、その後を追うようにすぐにモーリス・ラジアルもやってきた。
 鶴来が入院している病室は個室らしく、他の階とは違った静けさが満ちていた。見舞い客や、やたらと廊下を歩き回っている患者がいないためだ。
 並んでエレベーターを降り、綺麗に磨かれたリノリウムの廊下を歩いていた二人は、ふと、前方に居た、腕を組み白い壁に背を預けて立ち尽くしている黒尽くめの少年の姿に気づいた。一見するとバンド少年にも見えたが、ちらりと二人の方へと向けられたその真紅の双眸に宿る強い光が、ただのロック好きの少年とは明らかに違う空気を彼に付与していた。
 眇められる、ルビーのように赤い目。
 明らかに自分達――翠とモーリスを警戒していると分かるその様子に、二人が顔を見合わせた。
 草間から解呪の話を回された者の一人だろうか。
 それとも――鶴来の呪詛を解く事を阻む者、だろうか。
 とりあえず、二人は無言のまま少年がいる方へと歩み寄った。
 彼が立っていたのは、やはりと言うべきか……鶴来那王の病室前だった。ドアを見据えるようにしてじっと立ち尽くしていたらしい。
「この部屋に何か用ですか?」
 冷めた調子で問いかけたのは、モーリスだった。それに、少年――焔は顎をわずかに引いて上目遣いに自分に近づいてきた二人を見やる。
 まるで警戒心を露にする犬のようだなと、翠は目を細めた。
「……お前らは……草間興信所から来たのか?」
「ということは貴方も草間さんから話を聞いてここに来たんですね?」
「…………」
 返されたモーリスの言葉に、応とも否とも答えず、黙ったまま焔が視線を逸らせて、自分が立っている真向かいにある白いドアを見やった。そして口許に軽く手を当て、ヒュッと短く甲高い口笛のような音を鳴らした。
 翠が怪訝な顔をする。
「何だ、今のは」
「……室内に、俺の式を放ってある。お前達に危害を加えないように指示しただけだ」
 どうやら彼はここで、彼なりに鶴来を守護しているらしい。
 そう察すると、モーリスは鶴来の病室のドアに手をかけた。そして肩越しにわずかに振り返る。
「貴方は入らないんですか?」
「…………」
 また、無言。やれやれと言った具合に肩を竦めると、翠がモーリスに顎をしゃくって入室を促した。
「さっさと調べよう。時間が惜しい」
「そうですね」
 では、と焔に言い置くと、モーリスと翠は静かにドアを開け、そして室内へと消えた。
 その背中を静かに見送り、焔はふっと短く吐息をついて目を伏せた。


<病室前で・2>

 草間に教えてもらった病室へと向かう廊下を歩きながら、ふと、抜剣白鬼(ぬぼこ・びゃっき)は足を止めた。そしてちらりと近くにあったドアの傍に取り付けられているネームプレートの部屋番を見る。
「…………」
 そのまま無言で、また前方へと視線を戻す。ゆっくりと、そこから、ドアの数を数えつつ。
「……あそこだな」
 ぽつりと呟いたその言葉は、けれども余りにも静か過ぎるそのフロアでよく響いた。そして前方にいた黒尽くめの少年にもその言葉が聞こえたのか、ちらと彼が白鬼の方へ視線を向けた。
 ちょうど、彼が立っている場所のまん前にあるのが、鶴来の病室である。
 とすると、彼も草間興信所から派遣されてきた者だろうか?
 思いながら歩み寄ってくる白鬼に、焔は目を細めた。
 また、来客か。
「お前も草間の所から来たのか」
 愛想も何も無い冷めた声。それに白鬼は少しだけ首を傾がせてから、頷く。
「キミもかな?」
「……用もなくこんなところにボーッと突っ立ってる訳が無いだろう」
「ああ、それもそうか」
 妙に排他的な空気を持つ焔の事を、けれども白鬼は意に介する事も無く飄々としたままだ。そしてドアへ歩み寄ると、くると顔だけを背後にいる焔に向け。
「ドア、開けて貰えると有難かったりするんだけど」
「……一度荷物下ろせば開けられるだろ」
 言いながらも、焔はゆっくりともたれていた壁から身を起こして軽くノックしてからドアを開けてやった。なんだか憎めない空気を、白鬼から感じたためである。
「ああ、ありがとう。あー……キミは」
 言いかけて、いや、やっぱりいいと言い、白鬼はかすかに笑った。
 中へ入らないのかと問おうとしたが、入れるのに入らずにあえてここで立ち尽くしているのならそれにもまた何か意味があるのだろうと思ったのである。
 その大きな背中が室内へ滑り込むのを見ると、焔はゆっくりとドアを閉めてやった。
 かすかに、その隙間から那王の姿を見ようとした自分に苦笑しつつ。


<一時的な>

 シュライン・エマにしてみれば、もう通い慣れた病室への通路。
 けれども今日は、少しだけ変化があった。
 そのドアの向かいの壁に、一人の全身黒尽くめの少年が背を持たせかけて立っていたのである。
 格好は、一見するとバンドでもやっていそうな雰囲気の、黒いレザーパンツに、黒いコート。首や腰にはシルバー系のアクセサリーを複数つけていて、組んだ腕にもシルバーのブレスが見えた。指にもいくつかシルバーのリングをつけている。
 ふと、少年、こと焔はシュラインの方を見た。暗い真紅の目が、細められる。
「……また客か」
 自分を見て足を止めたのは、中性的な美貌を持つ、黒髪に切れ長な青目を持つ女。
 先刻ここに現れた者3名がいずれも、今の彼女と同じような反応を自分に対して見せた事から、彼女もまた、このドアの向こうにいる者に用がある人物なのだろう。
「鶴来さんの知り合い?」
 ストレートにシュラインが問いかける。と、少し逡巡するような表情を見せてから、ぽつりと焔が答えた。
「……幼馴染」
 そういえば草間が、鶴来の幼馴染にも連絡したとか何とか言っていたことを思い出す。
 どうやら、それが彼の事らしい。しかし、幼馴染にしては……随分と年が離れている気がする。鶴来は確か自分と同じ年だ。が、焔は、背は大人並みだが顔立ちなどはどう見ても、まだ高校生くらいだ。
 ……まあ、那王に対して害意がないのならそれでいい。
 双方、お互いに対しそう思い、ふと目をドアの方へ向ける。
「入らないの? 中」
 シュラインの問いに、焔は何故か自嘲的な笑みを浮かべて俯いた。
「……那王に、見せたくないんだ。今の自分の様を」
 ぽつりと呟かれた言葉に、シュラインは、そう、とだけ短く返した。そしてドアへと歩み寄り、軽くノックしてから肩越しに振り返る。
「もし彼に何かあったら呼んであげるわ」
「……ああ」
 室内からは返事はない。構わず、シュラインはドアを開けて、中へと入っていった。
 が。
 その場にあった光景に、双眸を見開く。
 呪詛をかけられて眠っていたはずの鶴来が、目を開いているのである。
「つ……鶴来さん?! いつ起きたの!」
 その声に、びくっとベッドの向こう側に居た翠が肩を震わせて目を開いた。そして自分が手を握っていた相手の顔を見、彼もまたシュライン同様驚愕する。
 起きている。
 自分がメトリーをしていた間に、何があったのかは分からない。けれども、彼は今確かに目を開いていた。
 だが、ふと翠は握っていた鶴来の手を離し、無言のままその顔から視線をそらせた。
 ……今しがた見てきた彼の記憶を思い出し、何だか酷く悪い事をしたような気になったのである。
 だがそんな翠の反応に気づく事もなく、鶴来はシュラインを見ようとわずかに体を起こそうとしたが、何かに気づいたような顔をして緩く頭を振り、かすかに苦笑した。
「すみません……」
「ねえっ、鶴来さん起きたわよ! 早く!」
 シュラインが、廊下にいる焔を慌てて呼んだ。焔は一瞬室内へ入ろうかどうか迷ったらしいが、すぐに壁から身を起こし、足早に部屋へ足を運ぶ。
 その間に、モーリスが少し眉を寄せて鶴来の手首を取った。脈を自らの手で確認してみる。
 ――まだ、遅い。
 完全には、解呪しきれなかったらしい。完全に呪を断つのを阻む何かがあるのだろうか。
 ……やはり、最終的には手紙に記されていた解呪の方法に頼るしかないのだろうか。
 そんなモーリスの思いに気づいたのか、鶴来がかすかに目を細めて苦笑する。
「すみません……」
「いえ、謝罪する事はない。貴方のせいではないのだから」
「…………」
 それに対しては何の言葉も返さず、鶴来はモーリスの隣にいた白鬼へと視線を移す。目が合った途端、やはりその青い瞳に違和感を覚えたが、今は何も言わず、白鬼はただいつものように顎鬚を撫でながら笑った。
「やれやれ。どうなる事かと思ったよ。身内から呪いをかけられたお姫様には口づけしないと目が覚めないのかなー、とかね。2度目のキスをしようかと考えてたところだよ」
 その部屋に居た全員が、その言葉に驚いたように白鬼を見た。
 2度目のキス?
 それはつまり、一度彼と鶴来がキスをしたことがある、ということか?
 ……周囲に生まれた何とも言えない微妙な沈黙を解くように、鶴来はわずかに目を見開いてから苦笑を零した。
「生憎……俺は、お姫様じゃ……」
「2度目のキス、だって?!」
 言いかけた鶴来の言葉を遮るようにドアの方から飛んできた鋭い声に、白鬼が振り返る。そこにいた人物をわずかに頭を上げて見、鶴来が瞬きをした。
「……ほむら、か?」
 部屋に入るなり聞こえた白鬼の言葉に激昂しかけていた焔は、けれどもその鶴来の言葉に、はたと目を瞬かせた。そして慌てて白鬼を押しのけてベッド脇に駆け寄り、その顔をよく見る。
「那王、那王っ?」
「……久しぶり。大きくなったんだな、焔……」
「当たり前だろうっ。お前が嘘ついていなくなったのはもう7年も前の話だぞ!」
「ああ……それじゃあもうランドセル、背負ってないのか……」
 ぼんやりと呟く鶴来の言葉に、焔ががっくりとその場に膝をつく。あまりにも間の抜けた台詞に全身から力が抜けたのだ。
「背負っているわけないだろそんなもの……」
 けれど、自分の名を忘れずに呼んでくれた。ただそれだけで、涙が出そうになった。慌てて目を擦り、立ち上がったところを背後からシュラインが、トンとその肩に手を乗せた。
「昔から不義理をする性質ではあったわけね。おはよう鶴来さん」
「……おはようございます……と言いたいところなんですが……」
 ふとその眼差しをわずかに揺らせて、鶴来はモーリスへと視線を戻した。そして翠、白鬼、焔、シュラインへと視線を動かして。
「……すみません、もう少し、眠らせてください……」
「術が解けたわけじゃないのか?」
 翠がモーリスに問う。モーリスは唇に親指を当てて小さく頷いた。
「多少力を弱める事はできましたが、何かがひっかかっているようで」
 あ、と思い出したようにシュラインが鶴来の腕を取り、軽く揺すった。
「鶴来さんっ、貴方が書き残していた呪詛を解くためのなぞなぞ、あれの答えって何なの?!」
 そうだ。起きたなら今本人に聞けばすむ話だ。
 が。
 鶴来はまた深い眠りに入ってしまったらしく、答えが返ることはなかった。


<コピー>

 再び眠りに落ちた鶴来を前に、全員が一様に深い溜息をついた。
 なんだか、酷く疲れた。肉体的に、ではなく、精神的に、だ。
 だがいち早くそんな状態から復帰したのはモーリスだった。もう一度鶴来の手首に触れて脈を取ってから、両方の手を、何かを包むような形にし、そこに視線を落とす。
 不思議そうに、白鬼がその手を覗き込む。
「何だい?」
「ああ、とりあえず今、前よりも少し呪詛の状況が軽くなっているので、このまま現状維持しようと思って」
「現状維持?」
「私の能力で、檻を生成し、彼をその檻の中におきます」
「檻?」
 胡乱げに聞き返したのは焔だった。何をするつもりかと目で問うている彼に、けれどもモーリスは口で言うよりも実際にやって見せた方が早いと思ったのか、無言でまたその視線を両手へと落とした。
 イメージするのは、透明な壁で形成された立方体。
 キィンと、硬質な音が周囲に響いた。それを察したシュラインが、痛そうに顔をしかめて耳元に手を当てる。
「何……この音っ」
 すさまじい耳鳴りにも似たその音。
 包んだ手の中に生み出された小さな透明立方体を見、モーリスがゆっくりと、その両手を開く。と、その立方体がするすると見る間に大きくなり、人一人を余裕で内包できるほどのサイズへと変化する。そしてその中に鶴来が眠っている場所――ベッドごと、納めてしまう。
「……結界のようなものか」
 呟いた翠に、モーリスが頷く。
「これでとりあえずは症状が悪化することはありません。外部からの干渉もほぼ防げます」
「そうか……じゃあとりあえず、後は綺くんがここに到着するのを待つだけかな」
 動きたくても動けない。
 それが多少歯がゆくはあるが、時には待つことも必要な事もある。
 羽織ったままだった濃茶のフルジップパーカーを脱ぎながら、白鬼が言う。
 けれどその言葉に反するように、モーリスが緩く首を傾げた。
「どなたか、彼の弟さんがどこにおられるかご存知ないですか」
 問われるが、呪詛をかけた張本人がどこにいるかなど、誰も知っているはずはない。
 ……はずだったが。
「ああ、それなら新宿中央公園の水の広場ナイアガラの滝辺りに居るわよ」
 あっさりとシュラインが返事した。驚いてその場に居た全員が彼女を見る。
「なんでそんなこと知ってるんだ」
「え? だって今、湖影(こかげ)くんが彼に会ってるもの」
 焔の鋭い口調による問いかけに、シュラインはわずかに眉を持ち上げて言った。
「まあ多分、この中で鶴来さんの弟を捕まえられるのは彼だけだしね。いろいろ仲良くしてるみたいだし、何とか彼を説得してみるつもりらしいけど」
「湖影さん……ですか。まあとりあえず、私も行って来ます」
「行って来ます、って……行った所で相手に余計な警戒させるだけじゃないか? 説得するっていうならその男に任せた方が利口だと思うが」
 翠の言い分ももっともだった。が、モーリスとて何も手立てを考えていなかったわけではない。
「こんなに自分の持つ能力をフル活用するのも久々というか……」
 呟き、そっと自らが生成した檻の中で眠る鶴来の手に触れる。
 すると、徐々に淡く彼の体が光を帯び始めた。柔らかいその光。
 室内にいた全員が、目を見開いた。
 自らの目の前で起きていることが、信じられなかった。
 金色だったモーリスの髪が、毛先から黒く染まっていく。そして体つきもわずかに変化し――…。
 やがて彼を包んでいた光が消えた時。
 そこに立っていたのは、モーリスではなく、今檻の中で眠っているはずの鶴来、その人だった。するりと、襟足で結んでいた髪を解く。
 何が起きたのか、即座に理解したのは焔だった。
 鶴来那王の姿を、モーリスはそっくりそのままコピーしたのである。
 寒気がした。
 本人ではない者が、本人の姿をしてその場に立ってこちらを見ている、ということに。
 頭では、おそらくはこれで弟を少しくらいは油断させたり動揺させたりできるかもしれないと思った。だが、理性とは別の所で……感情が、その姿を拒絶する。
 どうしても、許せなかった。
(それは、那王の姿だ……!)
 誰かが勝手に使っていいものではない!
「お前……っ!」
 感情が爆発するのに任せて腕を伸ばし、モーリスの胸倉を掴み上げようとして――その手を、横から白鬼に掴まれた。
「落ち着きなよ。内輪もめしてる場合でもないだろう?」
「はいはい、焔くんはこっちこっち」
 その白鬼が掴んだ手を今度はシュラインが捕まえ、腕を絡めるようにしてズルズルとモーリスから焔を遠ざけた。やれやれと肩を竦めるのは翠。
「じゃあ、とりあえず俺たちはここで那王に干渉してくるヤツがいないかどうか見張ってるから」
「ではこちらは任せます」
 声すらもが、鶴来とまったく同じだった。
 自分も鶴来と同じ声を発した事はあるのだが、姿形まですっかり写し切ってしまったモーリスのその姿に、シュラインは苦笑する。
「気をつけてね」
 とりあえずそう声をかけるに留まる。その隣に居た焔は、今にも飛び掛りそうな眼差しでモーリスを見ていたが、チッと鋭く舌打ちするとそのまま顔を背ける。そうする事で彼の姿から目をそらせるように。
 静かにドアの向こうへと消えたモーリスの――鶴来の背中を見送ると、残された者たちは思わずベッドの方へと視線を向けた。
 先程と変わらず、鶴来は静かな眠りの内にいる。


<銀光とは>

 とりあえず、今は……今の所は特に何もする事がない状態で手持ち無沙汰になった4人は、手短に自己紹介を済ませた。
 とはいえ、翠、白鬼、シュラインの3人は既によくよく顔を合わせたことがある面子だったので、主に紹介は焔に対してのものだった。
「それにしても鶴来さんと幼馴染なんてねえ。なんかこの人の子供の頃の姿って、あんまりイメージできないのよねえ」
 シュラインはベッドのサイドボードの上に置いてある、籠入りの花アレンジメントと、あと、シュラインが綺から預かっていた「桜の枝」を活けた一輪挿しを倒さないようにと気を使いながら、持ち込んでいた紙コップを人数分狭いスペースに置いてスプーンでインスタントコーヒーの粉を放り込んでいた。
 桜は、綺がこの場に来れないのなら、せめて彼から貰った桜だけでも傍に置いておいてあげようという、シュラインの心遣いである。
 ちらと、シュラインが焔を見た。
「どんな子だったの、鶴来さんて」
「どんなって……別に、普通の」
 としか言いようがなく、焔は窓辺に立ったままわずかに肩を竦めた。とはいえ、何が普通で何がそうじゃないのか、いまいち焔にはよく分からなかったのだが。
 その言葉に、ベッドから離れた場所に丸椅子を移動させて座っていた翠が、焔の方へと顔を向けた。何か言いたそうに一瞬口を開きかけるが、そのまま何も言わずに溜息をつく。
 どこか浮かない様子の翠に、部屋の隅に置いていた籠を鶴来の方へと運んでいた白鬼が首を傾げた。
「どうしたんだい? なんか元気ないが……そういえばさっき、力使ってたね。何か、なぞなぞのヒントはあったのかな」
「あー……それは、多分、『緋降』とかいう刀だとは思うんだが」
「ああ、そういえばシュラインさんも綺くんとそんな事言ってたね」
「一応、綺くんにそれを持ってきてって伝えておいたんだけど……」
 言って、シュラインは作りたてのコーヒーを焔に手渡しながらちらと鶴来の枕元に置いておいた目覚まし時計を見る。
「京都からここまでだと、新幹線使って2時間くらいかしら」
「2時間半くらいだ」
 呟いた焔が、コーヒーを受け取って「悪い」と小さく礼を述べる。
 あ、と白鬼が焔を見た。
「そうか、君も京都なのか。まあ鶴来君と幼馴染ならそうなるか」
 頭をカリカリとかきながら朗らかに笑う白鬼。そのまま顔をシュラインへ向けた。
 思い出した事があったのだ。
「そういえば、謎の後半部分はどうなったのかな」
「え? あー……アレね。どうなのかしら。まだちゃんとした事は分かってないんだけど……どう思う?」
 まずは白鬼に、そして次いで黙り込んでいる翠にもコーヒーを手渡し、シュラインは鶴来の近くに置いてある椅子に腰を下ろした。
「私は、単純に考えて、月光か雨粒か……って思ったんだけど。あとは……涙、とかね」
 涙だったら、幾らだって泣いてやるのだが。
 けれど、「虚空より降りし」と書いてあったなら、多分、空にあるものだと思うのだ。
「モーリスさんは月明かりの下で何かするんじゃないかって言ってたけど。あと、湖影くんは新月……だったかしら。それに掲げるんじゃないかって」
「ああ、なるほど。俺は流星か雨かと思ったんだが……」
 片手に提げていた、様々な甘物が詰まった籠を鶴来のベッドの下に置きながら、白鬼が言う。
 と、紙コップを包むようにして持っていた手に黙り込んだまま視線を落としていた翠が、ふと顔を上げた。
「生まれて間もない月、って、何のことだと思う?」
「それ、サイコメトリーで読み取れた結果かい?」
 白鬼に問われて、翠は頷いた。
「緋降と、生まれて間もない月……っていうイメージを読み取ったんだが」
「新月のことじゃないのか?」
 ぽつりと、焔が口を開いた。
「欠けていく月じゃなく、満ちていく月。月齢で考えてみたら、減って行くのを生まれて間もないとは言わないだろうから、月齢0から順に、満ちていく月」
「そうか、『細き銀光』っていうのは細い月の事を示していたのか」
 翠が頷いた。
 なら、あのなぞなぞの意味するところは「新月の光に緋降を掲げろ」ということか。
 ……どうやら、ようやく全ての意味が解読できたらしい。
 しかし。
「じゃあ、一体新月っていつなんだろう?」
 白鬼がコーヒーをすすろうとした手を止めて首を傾げた。それに翠が眉を寄せる。
「新聞に月齢って出てなかったか?」
「……草間にでも電話かけてネットなりなんなりで検索かけてもらえばいいだろ」
 言って、ちらりとシュラインを見る焔。確かに、それが一番早いかもしれない。
 とはいえ病院内で携帯電話を使うのは気が引けて……仕方なく、シュラインは席を立つと、廊下に置いてあった公衆電話に向かった。
 そうなると、室内には男ばかりが残るわけで。
 焔はなにやら白鬼に対して妙な敵対心のようなものを持ってしまったらしく目を合わせようともしないし、翠は翠で、なにやらさっきから気分でも悪いのか、妙に押し黙ったままだった。
 何とも、居心地が悪い。
 やれやれと白鬼が溜息をついた時、シュラインが駆け戻ってきた。
「ちょっと!」
 慌てるシュラインとは対照的に、のんびりと白鬼が眠そうな眼差しを返す。本当に眠たいわけではなく、彼は常にそういう顔なのだが。
「どうしたんだい?」
「今日、月齢0なの! だから今日以降……つまり、明日くらいがチャンスって事みたいなのよ!」
 それはまた、なんというタイミングか。
「なら今日緋降がこっちに届けば、明日には万全の体制で解呪に挑める、ということか」
 呟く翠に、焔が頷く。
 綺が絶妙のタイミングで手紙を送ってくれてよかったというものだ。これがもう少し遅ければ、一ヶ月近くまた待たなければならないところだった。
 ここまで条件が整ったのなら。
 後はもう、緋降を待つだけ。


<桜、散る>

 廊下の方で、バタバタと激しい足音がした。
 救患か何かだろうかと思った鶴来の病室に詰めていた者たちは、勢いよく開かれたドアの向こうに立っていたモーリスと虎之助に目を瞬かせた。
「……どうしたの一体」
「誰が緋降を持ってくるんだ?!」
 問いかけたシュラインに、虎之助が足音高く室内に入り、前置きもせず怒鳴るように言った。その虎之助の肩にそっと手を乗せて落ち着かせるように促すと、モーリスが代わってシュラインに問う。
「緋降という刀をこちらに持ってくるのは、あの手紙を出してきた綺さんですね。今、綺さんはどちらに?」
「どちらって……多分、新幹線に乗ってるんじゃないの? 持ってきてってお願いしたっきり、連絡取ってないからわからないけど」
「では、誰も綺さんに付き添っていないんですね?」
「付き添うって……」
 二人が何を言っているのかいまいち理解できず、シュラインは眉を寄せた。
「綺くんがどうかしたの?」
 そう、シュラインが改めて聞いた時。
「あ……桜が!」
 翠が立ち上がって不意に声を上げた。全員の視線が、鶴来が眠っているベッドの傍にあるサイドボード上へと向けられた。
 そこには、シュラインが持ってきた桜が、一輪挿しに活けてあったのだが。
 その桜の白い花弁が、はらはらと、落ちはじめていた。
 驚いてシュラインが駆け寄り、手を花にかざす。
「どうして……綺くん、枯れない桜だって言ってたのに」
 シュラインが大切に思う限り、決して枯れる事はない、と。
 何故か、途端に嫌な予感が胸の中に沸き立ってくる。
 はっと、虎之助とモーリスを見た。
「綺くんに何か起きるっていうの?!」
 と、その時。
 かたん、と。
 ドアの方で音がした。
 反応したのは、白鬼だった。反射的に椅子を立ち、音に引かれるようにドアへと歩み寄る。
 虎之助たちが来た時に開かれたままになったドアからひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。
 すると、その目の前に、はらりと一片、白い花弁が舞い降りた。
 思わず手を出し、それを掌に受ける。
 桜の花弁だった。
 それを見て、一瞬、綺が来たのかと思った。
 ……が、そうではなく。
 もう一片舞い降りた花弁に引かれるように、視線を斜め下に落とし――白鬼はその細い双眸を、見開いた。
「これは」
 白い壁にもたれかかるように立っているのは、黒い鞘に収められた一振りの刀だった。その刀を護るように、周囲には桜の花弁がゆるゆると渦を巻いている。
 白鬼の声に反応したように、他の者たちも廊下へ出、そこにある刀を見、一様に動きを止めた。
 刀は、ある。
 けれども、それを運んできたはずの綺の姿が、そこにはなかった。
「綺くん?!」
 病院内だということも忘れ、シュラインが声を高くしてその名を呼ぶ。けれど、返る声はない。
 焔が、横から翠の肩を叩いた。
「刀に残された記憶、読んでみたらどうだ?」
「……そうだな」
 触れていいものかどうかと悩んだが、きっと、この桜の花弁が綺に関係しているものなら自分を敵だとは見なさないだろう。
 思い、翠は片膝をリノリウムの上に落として左手を伸ばし、黒い柄に触れた。
「……っ」
 途端、かすかな耳鳴りと共に流れ込んでくる記憶。
 ――おそらくそこは、鶴来の自室。その部屋の片隅に、ひっそりと置かれているのは、今ここにあるこの刀だった。
 それに手を伸ばす、高校生くらいの少年の姿が見えた。おそらくそれが、綺なのだろう。
 が。
 彼の手が、刀に触れるその直前。
 ふらりと、その体が傾いだ。肩で荒々しく息をつきながら、胸元を押さえている。
 持病か、と思ったが、そうではない。
 これは……流れ込んでくる綺の意識の欠片から拾い出せた言葉は。
 ――呪詛、か。
 苦痛に顔を歪めながらも、綺はその場に膝をついただけで、倒れこみはしなかった。自分を強靭な精神で律し、掌を刀にかざす。
 ――お願いだ、俺を守りし桜の神子たち……俺はいいから、この刀を、どうか、あの人の元へ……!
 祈るような強さで紡がれる言葉。それに応じるように、どこからともなく桜の花弁が現れ、刀を包み込んだ。まるで桜の花弁による繭のように。
 だが次の瞬間、パァンとその繭が弾けた。桜の花弁が散る。
 散った先。
 もうそこには、刀は無かった。
 そして、崩れ落ちる綺の体……。
「……っ」
 意識が、現実に戻った。目に映るのは、さっきまで時間の狭間で見ていたのと同じ、刀。
「何が見えたかな?」
 問うモーリスに、翠は力なく項垂れて頭を振った。
「……綺……刀をこちらへ運ぼうとした時に、誰かに呪詛をかけられたようだ。桜の精霊に命じてここに空間転移して運ばせたようだが、綺自身は……おそらくは、もう……」
「嘘……!」
 口許を両手で覆い、シュラインが短く悲鳴を上げた。
 桜が散ったのは、シュラインの気持ちが変わったからではない。
 綺が、いなくなってしまったからだったのだ。
 そうだ。綺は、言っていたじゃないか。
『何があっても必ず、緋降だけはそちらへ届けます』と。
 また自分は、鶴来が呪詛に倒れた時と同じく、言葉の奥底に潜むあまりにも強すぎる決意を見逃してしまったというのか……!
 どうしていいのか分からず頭を振り、シュラインはその場に膝から崩れ落ちた。が、それを横合いから白鬼が腕を取って支えた。
 大丈夫か、とは……言えなかった。大丈夫なはずがないからだ。
 と、その廊下の前方に、黒い影が現れた。騒ぎを聞きつけた看護士かと思ったが、そうではない。
 黒いハーフコートを着た、青年だった。黒いキャスケットの下の冷めた黒い瞳を、じっとその場に居る者たちに向けたままゆっくりと歩み寄ってくる。
 それは七星真王(ななほし・まお)――鶴来那王の、弟だった。
 それを見た途端、シュラインが駆け出した。そして真王の胸倉を掴んだ。
「アンタが綺くんに呪詛を放ったの?! 鶴来さんだけじゃ足りなくて、綺くんまで手をかけたっていうの?!」
 全身に渦巻く怒りをぶつけるかのように声を上げた。が、真王――正しくは、真王の裏人格・ルシフェルはその手を振り払いもせずじっと冷めた目でシュラインを見ていた。思わずシュラインがその拳を振り上げた時。
 その手を、横からそっと掴んだ者がいた。
 虎之助だった。
「違う、こいつじゃない。こいつがやったんじゃない」
「そんなこと分からないでしょっ! 湖影くんだって見たじゃないの、彼が自分のお兄さんに呪詛を放ったところを! 自分の兄を呪えるんなら、まったくの他人である綺くんを殺すことくらい……っ」
「違う! ……こいつが言ったんだ。ここに刀を持ってくる人物の身が危ないって。だから俺たちは慌ててここに来たんだ。こいつが呪詛を放つなら、そんなこと言うわけないでしょ?」
 激昂するシュラインをなだめるように言い、虎之助は優しく、シュラインの手をルシフェルの胸元から外した。ふらりと後ろに数歩よろめいたシュラインのその体を抱きとめ、モーリスが自然に、その触れたところから全てを調和へと導く力を注ぎ込む。
 昂ぶった心を、通常の精神状態へと戻すために。
 その横で、焔は目を見開いてじっと真王を見ていた。記憶にあるのとは随分と印象の違う、幼馴染の姿を。
 けれどその幼馴染はというと焔の事にはまったく意識を向けてはいなかった。傍らに立つ虎之助をちらと見、翠の手元にある刀へと視線を向ける。
「これで解呪の鍵は手に入った。よかったな。お前たちの望みがこれで叶えられるわけだ」
「ルシフェル」
 低く発せられる、諌めるような虎之助の声。モーリスの力で冷静さを取り戻したシュラインが、憎しみすらこもる目でルシフェルを見た。
 翠が、短く溜息をついてルシフェルを見やる。
「人の命が一つ無くなったとわかっていてわざと言っているのなら大した性格の悪さだ」
「お褒めいただき恐悦至極だ」
 ニヤ、と笑って紡がれたその言葉。が、それを手で制して、白鬼が問いかけた。
「それで。誰が綺くんに呪詛を放ったのか。君は分かっているんだろう?」
 その言葉に、ルシフェルは唇を歪めて視線を鶴来の病室のドアの方へと向けた。
「……七星の者だ」
「七星のって……真王、お前が当主なのにか?」
 焔が訝しげに問う。それにちらと視線を向けるルシフェルだが、そこには幼馴染に再会したという懐かしさなどという類いの表情は一切存在せず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「主の留守に勝手な真似をした者がいる。それだけのことだ」
「仮にも主と名乗るのなら、部下の不祥事くらいは面倒見てもらいたいね」
 冷めた口調で告げるモーリスに、かすかに唇の端をつり上げて笑ってみせる。
「残念ながら俺は神ではないからな。命を返せと言われても無理だ。が」
 ちらりともう一度、傍らに立つ虎之助を見る。それに、虎之助が眉を寄せた。
「なんだ?」
「……最後まで付き合えよ?」
「…………」
 何か、決意を固めたらしいルシフェルに、かすかに笑い、ポンとその頭に手を乗せた。
「分かってる」
 二人が何のことを言っているのかは分からなかったが、次にルシフェルから告げられた言葉に、虎之助を除く全員が、目を瞠った。
「明日、那王の呪詛を解く。緋降は虎に預けておけ。こいつには七星の呪詛は効かないから、他の奴が持っているよりは安全だ」
 それに、白鬼は首を傾げた。
「ちょっと待て。明日呪詛を解くって、今君が術を解くわけには行かないのかい?」
 踵を返しかけていたルシフェルが、足を止めて肩越しに振り返る。
「確実を期したいのなら、明日を待つことだ。呪詛をかけたはいいが、実際のところ、俺にもその解呪は難儀なんでな。組み合わせた呪が複数に渡るから、一つずつ術で鍵を開けていったら、結局は明日の夜までかかる」
 それに、と言葉を次いで、その目をシュラインに向けた。その顔には、冷笑が浮かんでいる。
「今この状況で那王が目覚めても、少しも嬉しくないだろう? 明日までに気持ちの整理くらいはつけておけ。……自分の為に綺とかいう者の命が犠牲になったと知る那王を、慰めてやれるくらいにはな」
 それだけを呟き、彼はその場を後にする。
 ルシフェルがいるというただそれだけで妙に張り詰めていた空気が、その存在をなくした事でほどけた。
 緋降は手に入ったのに――何とも言えない空虚さが、その場には満ちていた。


<目覚めの時>

 空気が、冴えていた。
 猫の爪のような細い月が、虚空には浮いている。
 ――12月24日。午後9時。
 月齢、1.094。
 ……緋降が届いてから、既に一夜明けている。
 病室の窓を開け放ち、凍えた空気を室内に取り込みながら、翠が振り返る。
 その視線の先には、鶴来のベッド脇でその顔をじっと見つめているシュラインがいた。目許が赤く染まっているのは、綺の死を悼み、泣き明かしたためかもしれないとちらりと思った。
 焔もまた、鶴来のベッド脇に立っていた。その傍には、通常の人間には見えないが、寄り添うように彼の式・犬神の伏姫が座っている。
 確かに、綺が亡くなった事は引っ掛かる。だが、それよりも自分には、もうすぐ彼が目覚めるということの方が大事だった。
 眠る顔を見、焔は自分の胸にそっと手を当てた。
 ……那王……。
 胸の内で、呟く。
(俺は、ずっとお前を探していたんだ。……帰って来い。帰ろう。こちらの世界へ。俺たちがいる世界へ)
 何があっても、もう、何者にもお前を傷つけさせはしない。
(神すらも敵に回してもいい。俺が、お前を守ってやるから)
 それは、誓い。
 誰に告げる言葉でもない。自分自身への、自戒にも似た誓いだ。
 真紅の瞳でじっと鶴来の顔を見つめている焔の、その横で白鬼もまた、自らの思考の内に居た。
 彼は、綺が亡くなったことを知れば――壊れてしまうかもしれない。そんなことを、思う。
 ただでさえ危うかった精神のバランス。誰かを守らなければいけないという思いがあれば、まだそのバランスを保つ事もできただろう。
 けれど、今はその対象が、自分が倒れている間に命を落としてしまった。
 ……耐えられるのだろうか、彼に。
 もしかしたら、このままずっと、何も知らないままに眠らせておいたほうがいいのかもしれない。
 ふと、そんな事を思い――ゆっくりと目を伏せて緩く頭を振る。
 いいや。
 それは、自分が彼にしてやれる事とは違う。
 自分は、彼の道を照らすためにここにいるのだ。
 そう、彼に約束したのだ。
 きっと今こそ、彼の手を引いてやらなければならない時なのだ。一人でその痛みを抱えさせはしない。同じ痛みも、分け合えばきっと、少しは楽になるだろうから。
 大きく一つ溜息をついた白鬼のその様をチラリと見てから、窓辺に立っていたモーリスが腕に嵌めた時計へと視線を落とした。
 そろそろ、か。
 思った所、コンコン、とノックの音が響いた。誰も返事をしなかったが、静かに、ドアが開く。
「悪い、少し遅れたかな」
 入ってきたのは、腕に毛布を抱いた虎之助だった。毛布は細長く、何かを包み込んでいるようだった。
 包まれているのは、言わずと知れた、緋降である。
 その虎之助の後ろから、黒い影が現れる。
 黒い式服を纏ったルシフェルだった。それを見て、シュラインと白鬼は、彼が一度綺に会った事があることを思い出した。
 自分達が綺に会うきっかけになった事件の手引きをしたのが、彼だった。
 彼に巻き込まれなければ、綺は今頃、まだ生きていたのだろうか?
 思うが……口には出さず、シュラインはふっと吐息を漏らした。そして椅子から立ち上がる。
 今は感傷に浸っている場合じゃない。もしかしたら、解呪の隙をついて、綺を狙った者からの呪詛がこないとも限らないのだ。妙な外部からの干渉が無いかどうか、細心の注意を払わなければならない。
 そしてその旨は、他の面々にも伝えてあった。
 モーリスが、鶴来の周囲に作ってあった『檻』を解除する。両腕を開いて、檻の表面が腕の中へと収縮する様を思い描く。
 するすると、徐々に小さくなっていき――最後には爪の先ほどの大きさになり、やがてぱちんと弾けて消えた。
「これで干渉できるようになったので」
 言って、ルシフェルを振り返る。それに小さく頷くと、ルシフェルは虎之助を見た。
「虎ちゃん、緋降を」
「ん、ああ」
 毛布を解き、中から黒い鞘と柄を持つ刀を取り出し、ルシフェルの手へ渡す。それを受け取り、窓辺に歩み寄りながらすらりと鞘から抜き放つと、その鞘を虎之助ではなく、窓の近くに居た翠に手渡した。
「さて。上手く呪を切れるといいがな」
 呟いて、ルシフェルはその真紅の刃を窓の外に見える月へと掲げた。そしてふと肩越しに室内を振り返る。
「……誰か、代わりにやるか?」
 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。
「冗談なら後でいいからさっさとやれ」
 焔が苛立たしげな声を出す。モーリスも肩を竦める。
「4ヶ月間眠っていた人が健康に目覚める様をぜひとも見たいから早くしてもらいたいね」
「……美味しい所だけ持って行くような気がして悪いと思ったんだがな」
 かすかに笑うと、再びルシフェルは月へと顔を向ける。
 そして。
 笑みを消して深く一つ呼吸すると、朗々とした声を発した。
「吾は是れ、天帝の執持しむる処の禁刀なり。凡常の刀に非ず。千妖も万邪も皆悉く済除す」
 続いて、天にかざしていた刀を、九字を切るように四縦五横に振るう。
「天は我が父たり、地は我が母たり。六合の中に、南斗と北斗、三台と玉女在り。左に青龍、右に白虎、前に朱雀、後に玄武在り。前後扶翼す。急々如律令」

 ――……。

 室内を、静寂が支配した。
 誰も、動く者はなく。動く物も、なく。

 ……酷く時間が長く感じられた。
 ふ、と。
 鶴来のその、閉ざされていた瞳が、開くまで。


<終――おかえり>

 どうして。
 どうして、そんなに泣くんだ。
 どうして。

 綺の事を白鬼から聞き、顔を伏せて肩を震わせている那王を、焔はただ、見つめていた。
 灯りを消したその室内でも、はっきりとその姿は見て取れる。
 彼は、父の葬儀の時にもその目に涙を浮かべる事さえしなかったのに。
 どうして。
 どうして、そんなに。
 ……ついさっき、那王が叫んだ言葉が耳に残って離れなかった。聞いた瞬間、告げられた言葉が理解できないかのように緩く頭を振り……自分の両手を見下ろして、その手を強く握り締めて自分の胸に当て。
 血を吐くような声で、叫んだ。
『どうして俺を殺さなかったんだ……! 俺が死んでいれば、綺は死なずに済んだだろう!』
 ……呪いなんて、解かなければよかった。
 こんなに。
 こんなに悲しませるくらいなら。
 こんなに泣かせてしまうくらいなら。
 いっそ事。
 ――あのまま、一緒に逝ってやればよかった……。
 覚醒なんてさせずに、何も知らない眠りの中に身を置いたまま、ゆるやかな死を迎えさせてやればよかった。
 伏姫を使えば、それも可能だったのに。
 ――でも。
 声を殺して泣いている那王を見、焔は自分の身を抱くように体に腕を回した。
 でも。
 俺はお前に、死んでほしくなかったんだ。
 生きていてほしかったんだ。
 生きているお前の傍に、いたかったんだ。
「…………」
 そっと、焔はベッドの脇に膝を落とし、小刻みに震えている那王の手に触れた。冷たいその手を、両手で包み込む。
 自分の熱を彼に与えるように。
「…………」
 ふと、俯いていた那王がわずかに顔を上げた。長い前髪の向こうから見える、青い瞳。
 瓢箪を生成してからずっと、彼の瞳は黒かった。けれど今そこにあるのは、まだ彼が幼かった頃に持っていた、彼本来の瞳の色。
 何も言わず、那王はじっと焔を見ていた。その双眸からは、涙がはらはらとこぼれている。
 そっと。
 その前髪に触れ、優しい手つきでかき上げると、焔はかすかに笑った。
「髪、切ってやるよ。俺が」
「…………」
「これじゃ顔が見えない」
「…………」
「せっかく、やっと会えたのに。なおちゃん、びっくりするほど美人になったのに顔が見えないのは勿体無い」
「…………」
 無言のままの那王のその頭に手を置いて顔を覗き込み。
「おかえり。やっと、捕まえた」
 あえて、一緒に死んでやろうだとか……そういう負の言葉は紡がずに。
 目を瞬かせる那王のその顔を見、ぽんぽんと軽くあやすように頭に置いた手を動かす。
「せっかくのクリスマスイブだ。まあ別にどこの誰の誕生日の前日でも構わないが……街は皆莫迦みたいに浮かれているのに、なおちゃん一人だけそんな顔してるなよ」
「……焔」
「7年前、嘘ついて俺の前から居なくなった償いは、きっちりしてもらうからな」
 言って、焔は那王の体を抱き締めた。
「おかえり……俺は、お前が今、ここにいて生きててくれることが嬉しい」
「…………」
「悲しいなら気が済むまで泣いたらいい」
 とんとんとその背中を軽く叩いて体を離すと、焔はもう一度その手を掴んだ。
「泣き止むまで、ずっと傍にいてやるから」

 もう俺は、どこへも行かないから。
 ずっと、ずっと……お前の傍に居るから。

 もう二度と――この手を、離しはしないから。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0065/抜剣・白鬼 (ぬぼこ・びゃっき)/男/30/僧侶(退魔僧)】
【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0523/花房・翠 (はなぶさ・すい)/男/20/フリージャーナリスト】
【0689/湖影・虎之助 (こかげ・とらのすけ)/男/21/大学生(副業にモデル)】
【0856/綾辻・焔 (あやつじ・ほむら)/男/17/学生】
【2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男/527/ガードナー・医師・調和者】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、はじめまして。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 綾辻・焔さん。初めてのご参加、どうもありがとうございます。
 せっかく伏姫さん(さん?)を召喚したというのに、全くもって活躍させる機会がなく…!
 大変、大変申し訳ありません。
 テラコンで、NPCたちと「幼馴染」ということで相関結んでいただいていたので、今回は、幼馴染でないと知りえなかった鶴来の過去などが出ています。
 あと、プレイングから…鶴来に強い思い入れを持ってくださっていたようなので、そのような感じに。
 クールだけど、鶴来の事が絡むとつい取り乱してしまう。
 そんな青春真っ只中(?)の焔くんを描いてみたのですが…イメージが違っていたら申し訳ありません(汗)。

 今回、個別部分がけっこう多かったりしますので、あっちやこっちを読み進めていただけば、きっと、NPCについていろいろなことが分かると思います。

 PC同士の関係についてですが、テラコン、もしくは過去の逢咲の依頼を土台に置いています。他ライターさんの依頼内での関係は、テラコンに反映されていないと基本的には採用していません。
 その旨ご了承ください。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。