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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


呪解緋

<序>

 時の彼方に見える、因果の糸を絡め取れ。
 それが、合図。
 仕切り直しとなるか、これで終幕となるか――…

 それはまだ、分からない。

          *

 目の前には、一通の手紙がある。
 それを溜息混じりに手に取り、草間武彦は空いた手で近くにあった煙草を引き寄せた。
 すでに手紙の内容には何度も目を通し済みである。
 それでもまた目を通そうとして、草間は緩く頭を振る。
 ……さて、どうしたものか。
 ちらりと、目を机の上にある封筒の方へと向ける。消印は、京都の某局。くるりとひっくり返すと黒い細ペンで差出人名が書かれていた。
 七海 綺(ななみ・あや)、と。
 この事務所にも実際に何度か来た事がある、とある里の桜の守人である。
 ある事件で身内をすべて無くした為、今は草間の旧友でもある鶴来那王(つるぎ・なお)という名の青年の、京都にある実家に身を寄せているのだが……。
 その友人の顔を思い出し、思わずまた一つこぼしかけた溜息を隠すように、草間は煙草をくわえる。
 思い出す彼の顔は、寝顔だけだった。
 かれこれ数ヶ月、鶴来那王は意識不明、原因不明の昏睡状態に陥っている。数年ぶりにやっと顔を合わせたと思ったらそんな状態の旧友に、草間はかけるべき言葉もなかった。
 とある事情により「何とか目を覚まさせてやる」とも言えず――早数ヶ月。
 夏の盛りだった季節は、すでに冬を迎えている。
 いつ消えるやも知れぬ命の前に、けれども自ら動く事もなく無駄に時を重ねていた、そんなある日。
 速達として届けられた、綺の手紙。
 そこに記されている文字をまた草間はぼんやりとした目で眺めやっていたが、ややして煙草に火をつけてくわえながらふらりと席を立ち、その場にいた者たちに文面を見せてみた。

          *

 前略、草間様

七海です。
月並みな挨拶ではじめたいところですが……今はそれどころではないので……。
さっそくですが、現在、那王さんが何者かの呪詛を受けて東京のとある病院で昏睡状態に陥られている事はすでにご存知かと思います。
その呪詛を放ったのが那王さんの実の弟さんということも、多分草間さんはご存知だとは思います。
そしてその呪詛の解呪は、呪詛を放った本人と那王さん、那王さんの家系の人しか分からないと言うことも、多分ご存知ですね(いや、もしかしたら何か別に、解く方法があるかもしれませんが)。
先日、那王さんの部屋で、那王さん自身が書きつけたと思われる妙なメモを見つけたので、とりあえずその言葉を書き写したものを送ります。
たぶん、何か「物」を示す言葉だと思うのですが……。
何か分かったら、ご連絡ください。俺がその「物」を持ち、そちらに向かいますので。
もしかしたら、それが解呪に繋がるキーかもしれません。
あと、俺が那王さんに渡された鈴も、同封します。
その鈴は那王さんが持っていた「魔を吸い込む瓢箪」と連動しているらしく、それを燃やせばその術具が燃えるように出来ているそうです。術具を悪用される前に手を打ってくれとの事でしたが……それを本当に燃やしていいのかどうか俺には判断しかねましたので、できればそれも、そちらでどう取り扱うか決めてください。
それでは、よろしくお願いします。   草々

          *

 草間が「目を覚まさせてやる」と言えない理由が、そこには綴られていた。
 彼の弟が放った呪詛を解く方法が、弟本人か鶴来の家系の者しか分からないと言うのがネックだったのである。
 だが今、その鍵となるべき言葉がもたらされたのなら――話は別である。
「誰か、ここに書いてあるなぞなぞを解いてくれる奴は居ないか?」
 草間はそのメモに見入る者たちに声をかけた。
 が。
 ふと草間はそこに居る面々の顔を見て考えた。
 もしかしたら、このなぞなぞを解く以外に何か方法があるのではないか――と。
 それならそれでいい。
 この際、呪詛が解けるのならもうなんだっていいのだ。
 なぞなぞが解けないのなら、他の方法を探ってもいい。もちろん、この謎が解けるのが最良の方法なのだろうが……。
 思い、再び草間はそのなぞなぞが書かれた2枚目の手紙へと視線を落とした。そして――深く、溜息をついた。

          *

赫奕(かくえき)の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます。
清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。

さあ、我は何者か。
我が名を、答えよ。

答えたならば
生まれて間もない、虚空より降りし細き銀光に我を掲げよ。
其の時こそ 赭堊(しゃあく)の光、闇を裂く――


<働くもの>

 草間興信所には、種々雑多な理由で種々雑多な者たちが出入りしている。
 花房 翠も、そんな者たちのうちの一人だった。
 今日はとりあえず、月刊アトラス編集部辺りに持っていけるようなネタはないかと思い、ふらりと立ち寄ってみたのだが……どうやらあまりネタにならなそうな案件解決に巻き込まれそうな感じである。
 草間の手の中にある便箋に書かれた、なぞなぞ。
 それを解いたところで何か記事になるかといえば……多分、否。
 もっと派手で人の興味を引くようなものならまだしも、どこの誰とも知れない者に掛けられた呪いを解いたくらいの記事ではどうにも、あの厳しい碇編集長に「没!」と速攻で言われてしまいそうな気がする。
 ぼんやりと壁にもたれて、思案深げな顔で紙面に目を落としている草間の様を眺めていた翠は、やがてふっと短く吐息をついた。
 聞いたが最後、巻き込まれる事は良く分かっていたのだが。
「なあ。それ。その呪いにかかってるのってあんたの知り合いなのか?」
「ん? ああ、数年前からのな」
 煙草をくわえたままで、草間がぼそぼそと答えた。そして目を上げて翠を見、ぴらりと紙面を翠へと向けた。
「なぞなぞ、解いてみるかジャーナリスト? ジャーナリストなら言葉のスペシャリストと言っても間違ってはいないよな?」
「それより、先にどうしてそんな事になってるのか手短にでいいから教えてもらいたいものだが?」
「んー……奴等に関わった奴に言わせれば……まあ、壮絶な兄弟ゲンカ、ということらしいが」
「兄弟ゲンカ?」
 兄弟ゲンカ如きで相手を昏睡状態に陥れたりするものなのか?
 そんな翠の抱えた疑問に気づいたように、草間が煙草を指で挟み、ふうと宙に向かって煙と共に溜息を吐き出した。
「俺も鶴来の家系のことをよく知っているわけじゃない。そんなことペラペラ話して歩く奴でもないし、何より……聞いたらロクな事になりそうな気がしなかったんでな」
「巻き込まれること必至、ってことか?」
「まあそんなところだ。ちょっと……複雑なんだ、ヤツの家は」
「だからそんな壮絶な命がけの兄弟ゲンカもやるということか?」
 まあ、兄弟・肉親で殺し合いをしたりするのも別に珍しいという感覚がなくなってきた昨今である。ここ数年増加傾向にある凶悪事件の中には、兄弟で殺し合いをしたなどという話、別段驚く必要もないほど幾つも起きている。
 しかし……あまり、気分のいい話でないことは確かだ。
 下唇に親指を当てて考え込んでいる翠に、草間がひらひらと、その思考を遮るようにしてなぞなぞの書かれた紙を振ってみせた。
「そんなに気になるんなら、お前の力で直接鶴来に聞いてみたらいいだろう? 何が原因で何が理由なのか」
 言われて、はたと翠は黒い双眸を瞬かせた。
 確かに……それも、一つの方法か。
(今の状態じゃ何が正しくて、何が正しくないのかさっぱり分からない。呪いに侵されている本人の事をそれで知れるのなら、それもいいか……)
 それに、何より。
 そんな状態の人間一人を見過ごしておけるほど、翠も冷血漢ではなかった。
 よっ、と短い声と共に身体を壁から起こすと、翠は草間の方へと歩み寄った。唇の端をわずかに持ち上げて、笑う。
「どこまで役に立つか分からんが、俺にできる方法で手を貸してやる。……貸しは高いぜ?」
「……怪奇ネタ二つくらいでどうだ?」
 人の命がかかっているにしては随分と安いような気もしたが、ふっと吐息をついて翠は草間の差し出した紙面へと視線を落とした。


<推察>

 しばらく、その場には沈黙が横たわっていた。
 その場にいる三人全てが、ソファセットのテーブルの上に広げられた手紙に記されている言葉の意味を読むのに集中していたためである。
 それぞれが、その文から受ける印象を頭の中で纏めていく。
 口は動かさず、ただひたすら目と思考のみを動かして。
 それぞれ違った色の瞳に映るその文章を、見た目そのままとして理解するのではなく、その深淵に込められている意味をただ正確に掴み取るために。
 文字を何度も追うと、そのたびごとに胸に引っ掛かりを覚える。だがそれが何なのか……その脳裏に過ぎるものが何なのかがいまいち分からず、闇の向こうに確かに光はあるのに、そこに辿り着く手段が見つからないかのような、そんなもどかしい感じを抱く。
 ――ややして。
「……前の方が『物』を示すもので、我が名を答えよ云々の後が『解呪の方法』だと思うんだが」
 黒に近い茶髪の青年――花房 翠(はなふさ・すい)が、テーブルの脇に立ったままで口を開いた。それに、ソファに腰を下ろし、長い足を組み上げて口許に手を当てて黙り込んでいたモーリス・ラジアルが頷く。
「そうですね。しかし『名を答えよ』ですか。名、というのはその『物』が何かを答えればいいのか……それとも特殊な名がつけられた何かなのか」
 襟足で一つに結わえて左肩に流した細い金髪に無意識のうちに指を絡ませながら、呟く。澄んだ空の下にある草原を思わせる鮮やかな緑瞳が、文字を追って紙面上を滑った。
 なかなか、面白い謎々だと思う。一体こんなものを考えた人物とは、どのような者なのだろうか。
「んー……」
 同じように、モーリスの向かいのソファに腰掛けたシュライン・エマが、短く唸った。その怜悧な青い瞳でじっと文面を見つめている。その視線は最初の1行に止められていた。
 ――赫奕の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
「……赫奕の劫火……この場合、多分『赫奕』の部分には深い意味はないと思うのよ。言葉を一見してややこしいものに見せかけるためのハッタリというか、まあそんな感じじゃないかな。だから単純に『火』と解釈して、その後に続く『砂』とあわせて考えるとー……」
「火が、我と名乗る『物』の元となる物を砂から作り出す?」
「もしくは、砂を火に入れることで何かが形成される?」
 シュラインの声に反応した翠の言葉に、さらにモーリスが言葉を足した。
 炎と合わせられることで砂状の物から何かが形成される。それがおそらくは『眠りから呼び覚まされる』という事なのだろう。
 イメージするものは三人とも同じようだ。
 こくりと頷き、さらにシュラインは次の行へと目をやった。
 ――姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
「破月……とは、欠けた月の事ですね」
 ただの破月ではない。『姿を変え行く』、だ。
 姿を変えていく欠けた月。一日だけの月では姿は変えていかない。となるとつまり、幾夜もかけて、ということだろうか?
 そうモーリスが口にすると、シュラインが彼を見やって答えるように再び頷く。
「そうね、そういうことだと思うわ。その月の下で、打ちつけられて響く、音……」
 綴られた文字を眺めながら、翠が腕組みをして眉を寄せる。
 次の箇所で、微妙に気になる点があったのだ。
「ただの音じゃなく、硬質な、と指定してあるということは、それに重要な意味があるんだろうか。まあ打ちつけられてって言葉の後に、柔軟な、というのが来る事はないとは思うが」
「あえて硬質って書いてあるなら何か意味があるのかも。その後に魂の共鳴とか書いてあるし……『魂』も何かの例えだとしたら、硬い物同士をぶつけてるってことかしら。何日もかけて」
 続けて、三行目に移る。
 ――幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
「垢離って、水浴びの事だったか」
「神仏への祈願の際に、冷水を浴びて身を清める事ですね、確か。水垢離とも言ったと思います」
「水浴びと共鳴……共鳴はまあ、2行目の『打ちつける』って作業の事よね。水浴びと打ち付ける作業を繰り返す事で、『我』に躯命与えられる? ……体と命?」
 そうシュラインが呟いた時。
 ふと、その脳裏に何かが閃き、「あ」とシュラインと翠が同時に声を上げた。そのお互いの声に反応したように二人は顔を見合わせ、さらにお互いを指差し。
「刀!?」
 またしても同時に声を出した。それにモーリスが長い睫を打ち合わせるように何度か瞬きする。そして、その視線を手紙に戻して。
「ああ……なるほど」
 かすかに笑って短く呟いた。そう思ってみれば、そんな気がする。
 自分自身の閃きを裏打ちするように、シュラインが立ち上がって手紙を指差し、口早にその根拠となる所を示してみせた。
「そうよそうだわ! 1行目のは火の中に砂鉄か何かを入れて、鉄を精製する事。2行目はその、熱した鉄を叩いてる所を表してるのよ!」
「そして3行目の最初の『明暗』は、炎の中に入る事を『明』、出す事を『暗』で現して、叩いては水につけ、また炎に入れて出して……鍛冶の工程そのものを示してて」
「4行目は、刃を研ぐ作業の事を表現しているんですね」
 翠、モーリスの言葉に頷き、シュラインは指先で5行目を指した。
 ――清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。
「じゃあこれは、刀って御神刀とかで使われるから……それのことかしら。神に仕えるって、そういうことじゃないかしら?」
 そう考えると、全てがクリアになった気がする。書きつけられている言葉の全てが、刀の製造工程を遠回しな表現で記しているのだ。
 ふっと、翠が吐息を漏らしてきつかった眼差しをわずかばかり和らげた。
「これで何とか、助けられるか?」
 自分は、呪いをかけられているという人物の事を良くは知らない。幾ら言葉を使い文章を作り出す仕事をしているからとはいえ、そんな、よく知らない人物にまつわるなぞなぞなど解く役に立つのかどうかは分からなかったが……むしろ、彼をよく知っている者たちに任せた方が確実に解けるのではないかとも思ったりしたのだが。
 ……謎は、追うのが難解な方が面白いとは思う。
 けれど、それは人の命がかかっていない時の話だ。人の命を前にして、面白いだの面白くないだの言っている場合ではない。
 まあ、刀だというのが分かっただけでもよしとするべきか。
 けれどもその言葉に、モーリスがわずかに目を伏せて笑った。
「導き出した答えが、本当に正解なら、の話ですけれども」
 確かに『刀』という答えを手にして文章を見てみると、全てがハマる気はする。だが、それが正解かどうかは――そのなぞなぞを作り出した本人か、実際に解呪を試してみるその瞬間まで、分からない。
「……なら、俺は一足先にその本人――那王、だっけ? のところに行って来る。直接聞いたほうが確実なら、そうするまでだ」
「ちょっと花房くん、直接聞くって、鶴来さんは昏睡状態……」
 わずかにソファから腰を浮かせて言いかけたが、左手を軽く振って笑う彼を見て、シュラインはすぐに、友人である彼がその身の内に有する能力を思い出した。ああ、と吐息のような声を漏らしてまたソファへと腰を落とす。
「そうか……そうよね、そうしてもらえたら一番確実な答えを引き出せるわね、きっと」
「じゃ、俺は先に病院へ行く。多分刀であってるとは思うけど、確実を期すのなら多分、俺の力は無駄にはならないと思うしな」
 言って、黒いレザージャケットのポケットからバイクのキーを取り出して軽く振る。それにつられるように、モーリスもソファから腰を上げた。
「では、私も病院の方へ向かう事にします」
「え? アンタも?」
 怪訝そうに踵を返して歩き出そうとした翠が、肩越しにモーリスを振り返る。てっきりこのままここで謎解きを続行するかと思ったのだが。
 肩にかかった髪の束を手で背へと払いのけ、モーリスは優美に微笑んだ。
「私はこれでも医者なので、鶴来さんの診察をしてみたいと思いまして。こう見えても貴方がたよりずっと長生きもしていますし、何か分かる事があるかもしれません」
 こう見えても。
 その言葉に、シュラインと翠がやや離れた場所にありながらも顔を見合わせた。
 モーリスは、一見するとシュラインと大して変わりない年齢に見える。が、そのあまりにも冴え整った容貌や悠然とした様が、そこいらにいる普通の27歳の青年とはどこか違う雰囲気を醸し出していた。
 ……まあ、この草間興信所に出入りする者の中には特殊な者が多々いるので、今更特別驚くような事もないのだが。
「そう……なら、鶴来さんの事はそちらでお願いするわね。私は綺くんに電話して、鶴来さんの所持品にそれっぽい刀がないかどうかを確認してみるわ。その後、私も病院に行く」
「じゃ、先に」
 残る事を告げるシュラインに軽く手を上げて挨拶の代わりにすると、翠は足早に事務所を後にした。
 ふと、その後に続こうと足を踏み出したモーリスが、何かを思い出したように振り返った。
「そういえば、一緒に送られてきたという鈴はどうするんです?」
「あ。んー……一応、燃やすのはやめとこうかな、なんて思うんだけど」
「そうですね。私もその方がいいような気がします。なんとなく。とはいえ、私には鶴来さんたちの事情はよくは分かりませんが」
「……私にも、はっきりとはよく分からないけど……何となく、燃やさなくていい気がするから、今は保留にしとこうかなと思って」
 呪詛を掛けられた場に居たのに、自分は結局、彼らの事をよく理解できていないのだ。
 ふっと短く吐息をついて何かを考え込むように目を伏せたシュラインをしばし見ていたモーリスは、もう一度ちらりとテーブルに広げられた手紙へと視線を移す。
 そういえば、謎は前半と後半に分かれている。
 後半部分の鍵となるのは、『虚空』と『銀光』だと思うが……ならそこから導き出されるイメージは……。
「月明かりの下で、何か起こるのかもしれませんね」
「え?」
 呟くような声に、シュラインが俯けていた顔を上げる。
「月明かり?」
「ああ……その、最後の部分です。何となくそんなことを思って。前半部分にやたらと出てくる『共鳴』を起こすのは、もしかしたら鈴かもしれないと思いもしたんですが」
 まあ、後の謎解きは貴方に任せます。
 そう言い置くと、モーリスもまた、事務所を後にした。
 残されたシュラインは、その背を見送るとどさりと体をソファの背もたれに投げ出した。


<病室前で>

 先に病院に着いたのは花房 翠(はなふさ・すい)で、その後を追うようにすぐにモーリスもやってきた。
 鶴来が入院している病室は個室らしく、他の階とは違った静けさが満ちていた。見舞い客や、やたらと廊下を歩き回っている患者がいないためだ。
 並んでエレベーターを降り、綺麗に磨かれたリノリウムの廊下を歩いていた二人は、ふと、前方に居た、腕を組み白い壁に背を預けて立ち尽くしている黒尽くめの少年の姿に気づいた。一見するとバンド少年にも見えたが、ちらりと二人の方へと向けられたその真紅の双眸に宿る強い光が、ただのロック好きの少年とは明らかに違う空気を彼に付与していた。
 眇められる、ルビーのように赤い目。
 明らかに自分達――翠とモーリスを警戒していると分かるその様子に、二人が顔を見合わせた。
 草間から解呪の話を回された者の一人だろうか。
 それとも――鶴来の呪詛を解く事を阻む者、だろうか。
 とりあえず、二人は無言のまま少年がいる方へと歩み寄った。
 彼が立っていたのは、やはりと言うべきか……鶴来那王の病室前だった。ドアを見据えるようにしてじっと立ち尽くしていたらしい。
「この部屋に何か用ですか?」
 冷めた調子で問いかけたのは、モーリスだった。それに、少年――綾辻 焔(あやつじ・ほむら)は顎をわずかに引いて上目遣いに自分に近づいてきた二人を見やる。
 まるで警戒心を露にする犬のようだなと、翠は目を細めた。
「……お前らは……草間興信所から来たのか?」
「ということは貴方も草間さんから話を聞いてここに来たんですね?」
「…………」
 返されたモーリスの言葉に、応とも否とも答えず、黙ったまま焔が視線を逸らせて、自分が立っている真向かいにある白いドアを見やった。そして口許に軽く手を当て、ヒュッと短く甲高い口笛のような音を鳴らした。
 翠が怪訝な顔をする。
「何だ、今のは」
「……室内に、俺の式を放ってある。お前達に危害を加えないように指示しただけだ」
 どうやら彼はここで、彼なりに鶴来を守護しているらしい。
 そう察すると、モーリスは鶴来の病室のドアに手をかけた。そして肩越しにわずかに振り返る。
「貴方は入らないんですか?」
「…………」
 また、無言。やれやれと言った具合に肩を竦めると、翠がモーリスに顎をしゃくって入室を促した。
「さっさと調べよう。時間が惜しい」
「そうですね」
 では、と焔に言い置くと、モーリスと翠は静かにドアを開け、そして室内へと消えた。
 その背中を静かに見送り、焔はふっと短く吐息をついて目を伏せた。


<診察>

 室内は、どこもかしこも真っ白だった。
 ベッドのそばに置いてあるサイドボードの上には、誰かが持ってきたらしいケーキが入っているらしい箱と、バスケット入りの花アレンジメントと、こんな時期にはありえないはずの真っ白い桜の花をつけた枝が一本、銀色の一輪挿しに生けてあった。
 そこだけがわずかに彩りがあり、なんとなくホッとさせられる。
 モーリスが眠っている鶴来の顔を伺うようにベッドの左側へと歩み寄るのを暫し眺めていた翠も、遅れて、ベッドの右側から鶴来の顔を伺った。
「……心拍……遅めですね」
 ベッドの傍で規則正しい波形を示している心電図を眺め、モーリスが呟いた。心拍は25回/分を示している。通常なら大体60〜70回/分くらいなのだが……これも呪詛の影響なのだろうか?
「失礼」
 短く言って、モーリスは鶴来にかけられている布団を捲くった
左腕には点滴の針が刺されている。種類的にはおそらく、栄養剤といったところだろう。病状改善などという類いのものではないはず。
 まあ病気ではないのだからそれは当たり前だ。
 しかし、これはこれでとても興味深い症例ではある。
 もしこのまま放置したら、彼は一体どれだけ生きられるのだろう?
 ……少しだけ試してみたいような衝動に駆られ、かすかに笑みを零す。心底この者の事を心配できないのは、やはり、自分にとって関わりのない人間だからだろうか。
 そんなモーリスの様子をじっと眺めていた翠は、なぜ彼が笑っているのかまったく分からなかった。医師として、何か役に立つような事を発見でもしたのだろうか?
「……まあいい。俺もやるか……」
 ふっと一つ強く息を吐き、ベッドの傍にあった丸椅子に腰を下ろしてそっと鶴来の右手を掴む。
 そして、ゆっくりと目を閉じた。


<能力解放>

 触れるその手はひどくひんやりとしていた。こんなに冷たい手には今まで触った事がないのではないかというほどに。
 もしかしたら、死体の手というのはこんな感じなのだろうかと思い――翠は緩く頭を振った。
 今は、余計な事を考えてはいけない。頭を空にし、能力により向こう側からこちら側に流れ込んでくる情報を受け入れる為のスペースを作らなければならない。
 余計な思考は、そのスペースを埋めてしまう。だから、今は、無を心がけなければ。
 そう思い、意識を眉間の辺りに集中させる。
 外界から得られる、肌に触れる物、音、匂い、空気の流れ。その全ての情報をシャットアウトする。外へと広がっていた意識はすべて自らの中へ向けられ、内へ向ける事で研ぎ澄まされた感覚の尖端を、そのまま繋いだ手から鶴来の中へと送り込む。
「……っ」
 ビクッと、身動きを止めて固まっていた翠の体が、一瞬だけ大きく跳ねた。
 能力を鶴来へと送り込む事で、向こう側からまるでその力が反射され、さらにこちらで強力な吸引機で吸い上げるように、膨大な量の情報が一気に流れてくる。
 彼の記憶を垣間見て、その内から解呪の方法についての記憶で強く印象に残っている物を抜き出して「視る」のが目的だった。
 サイコメトリーという能力を持ってすれば、相手の持つ記憶の全てを見ることが出来る。が、それは相手の、踏み込まれたくない部分まで覗き見てしまうということ。
 それは、土足で他人の心に踏み入る、ということだ。
 だからこそ翠は、鶴来の中の解呪に関する記憶以外は見ないように、自らの能力に対し、意識的に制限を敷いたのだ。
 自ら制限をかけなければ、際限なく相手の事を、余す事無く全て見てしまえる事を知っているから。
 そしてそれは、決して他人に認められるような能力の使用方法ではないから。
 ……だが。
 向こう側から流れ込んでくる情報は、留まる事がない。怒涛の勢いで脳の中に入り込んでくるそれは、まるで滝の中に身を投げ出されたかのような衝撃を伴っていた。
 慌てて能力の的を絞ってこちらに来る情報量に制限をかけようとするが、その意識の壁をあっけなく決壊させ、留まる事無く流れ込んでくる。
(これ、は……っ)
 翠が、記憶を読み取っているわけではない。
 むしろ向こう側から溢れてきているかのようだった。
 思わず、掴んでいた鶴来の手を離そうとする。が、手が強張って動かない。
 閉ざした瞼の裏側で、まるで映画を見るように再生されるのは、おそらくはまだ幼い頃の鶴来の記憶。白い着物と袴を纏った少年が、そこにいる。
(や、めろ……っ!)
 違う。自分が見たいのはそんな記憶ではない。
(ただ俺は、あんたの中にある解呪の記憶を浚いたいだけなんだ! あんたに掛けられた呪詛を解く為に! 別にあんたに害を成そうとしているわけじゃないんだ!)
 きつく眉を寄せ、空にしていた思考を働かせて精一杯の拒絶を試みるが、鶴来の記憶とのアクセスを切る事ができない。強制的に回線を繋ぎっぱなしにし問答無用で流れ込んでくるそれは、翠の正常な意識を蝕んでいく。
 まるでコンピュータウイルスのように。
 今まで、こんな風に能力が制御不能になる事はなかった。一体自分の身に何が起きているのか。
 それすら理解できないままに、翠はただなす術もなく、記憶のスペースを埋めていく他人の記憶を、じっと見ていた。
 埋められていく意識の片隅で、もしかしたらこれは、承諾もなく相手の記憶を読み取ろうとした自分に、その記憶と引き換えに与えられた代償なのだろうかと……ぼんやりと思った。


<記憶の再生>

 白い着物と袴を纏った黒髪の少年が、庭に面した和室から突如、何かに弾かれたように庭先へと転がりだした。叩きつける激しい銀色の雨が、うつ伏せに倒れこんだその華奢で小さな体を一瞬にして濡れ鼠へと変える。
 両腕で体を支えて上体を濡れた芝生の上から上げると、ゆっくりと手の甲で唇の端を押さえた。かすかに切れて血が滲んでいる。
 ゆらりと上げられた眼差しの先には、真っ白な和装の女が立っている。綺麗に黒髪を結い上げた美しい切れ長の目のその女は、まるで蔑むような眼差しで少年を見ると、赤い唇を歪めた。
「何度言うたら分かりはりますのん? お稽古事、何の相談もなしに勝手にやめはるやなんて。まったく……何とか言いはったらどないですのん、那王さん」
 少年――これが幼少の頃の鶴来なのだろう――は、何も言わずにそのまま口を閉ざす。その態度にまた苛立ちが増したのか、女が厳しい声で自分の元へ来るようにと言いつける。
 従順に、ふらりと立ち上がって女が立つ廊下の上に濡れたままで上がる。
 と、その頬に鋭い平手が飛んだ。
 よろめき、近くにあった襖に体をぶつける少年。けれども殴った本人であるその女は何の感慨も抱いていないかのようにその様をしばし眺め、ふと目を細めた。
「こないな子がうちの息子やなんて……ほんまかなんわ。どこでもええさかいほかせたらええのに。顔見るだけでもえずくろしいわ。うちの子は真王(まお)だけで十分やのに」
 のきなはれ、と厳しく言い、身をかわした少年のその横を、女は歩き去っていく。
 はんなりとした京都弁。けれどもその意味するところは――こんな子が自分の息子なんて、本当にかなわない。どこにでもいいから捨てられたらいいのに。顔を見るだけで胸が悪い。
 ……そんなところだ。
 それは到底、息子に吐くべき言葉ではない。
 しばらくその場でじっとうずくまっていた少年は、ふと、顔を上げた。廊下の先に、幼い彼よりもさらに幼い少年がタオルを手に立っていた。ぱたぱたと軽い足音を立てて駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「……ああ、大丈夫だよ。俺の事はいいから、真王、母さんの所へ行っておいで」
 心配そうに問う弟に、痛む口許をかすかに歪めて笑う兄。そして軽くその手を弟の頭の上に置いて顔を覗き込んだ。
「ほら……早く行っておいで。きっと母さん……嫌な気分だろうから。お前が傍に居てあげたら少しは安らぐだろうし」
「……ごめんね、お兄ちゃん」
「真王のせいじゃないだろ?」
 優しく笑う兄の顔を見て泣きそうになる弟。
 ……どうやら兄の方は酷く母親には疎まれているようだが、兄弟仲はいいようだった。
 けれど、どうしてこんなに母親に疎まれているのだろう? 母の言葉からすると、彼は確かにその母の腹から生まれたようだが……何か、理由があるのだろうか?

 ページが切り替わるように、場面が変わる。

 さっきより少し成長した鶴来少年がいた。
 炎の前に結跏趺坐し、目を閉じて何か術を唱えていた。何の術かは専門外なので翠には分からないが――鶴来の記憶からすると、どうやらそれは彼の家系に伝わる特殊な呪のようだった。
 一度パンと高い音を立てて手を打ち合わせると、そのままその両手を複雑な形に組み合わせ、謡うように術を唱える。記憶越しとはいえ、彼から発せられる尋常でないオーラを感じる事ができる。それは異常に強い、力。ゆうらりと彼の身を包むように真紅の気が陽炎のように舞い上がるのを、翠は陶酔するような気持ちで見ていた。不思議と、心身の高揚を煽られる。
 その声が、ふと途切れた。閉ざされていた目が開かれ、印を組んでいた手が解かれる。
 と、何も無かったはずのその手の中には。
 小さな瓢箪が二つ、乗っかっていた。どうやらそれは、彼が生み出したものらしい。
 そしてその瓢箪を手にした彼の気は、さっきまでとはまるで別人なのではないかと言うほどに弱まっていた。
 映像と同時に流れてくる鶴来の記憶からすると、それはどうやら彼の力を凝り固める事で生み出される、いわば彼の力を凝縮した物、らしかった。

 また場面が切り替わる。

 さっきよりもまた更に成長し、学生服を纏った鶴来少年が、黒いスーツを纏った一人の壮年の男の前に正座していた。
 す、と。
 その男から、少年の前へと差し出されるものがある。
 それは黒塗りの鞘に収められた、一振りの刀だった。
 怪訝そうに目を上げる少年に、男は苦笑を浮かべる。
「なんて顔をするんだ」
「……これは七星の家に伝わる、当主が継ぐべき刀でしょう。ならこれは真王に渡すべきです」
「どうして。お前が今は七星の現当主の長子だろう? この私の」
「…………」
 微妙な沈黙を宿す少年に、男がさらに苦笑を深くした。そして刀を持ち上げて少年に差し出す。
「受け取りなさい、那王」
「……俺には受け取る事はできません」
 言って、那王は苦悩するように表情を歪めて一度深く俯くと、すぐに顔を上げた。その顔には今にも泣き出してしまいそうなほどの弱い苦笑が、浮かべられていた。
「俺は貴方の子じゃない。貴方と血の繋がらない俺は、現当主の長子じゃない」
「お前は私の子だ。誰がなんと言おうと」
「貴方がそう言っても、俺が……っ」
 激昂しかけるその思いを飲み下すように一度深く息を吐いてから、少年は自嘲するような笑みを浮かべて低く言った。
「俺が、今は亡き前当主である貴方の父と、そして貴方の妻との間に出来た子だという事は、七星の長老方にも知られている。そんな穢れた子を、彼らは次期当主だとは認めない」
 紡がれた少年の声は絶望を帯び、暗く響いた。けれども構わず、男は少年に向かい、刀を差し出した。
「お前は私の子だ。受け取りなさい。私を父だと思うのならば」
 強い口調で言われて、少年は気圧されたようにその手に刀を取る。
 そして、すらりと鞘から刃を抜き放つ。
 その刃は、真紅の煌きを帯びていた。

 また、場面が切り替わる。

 次のシーンでは、白い式服に身を包んだ二十歳前後の鶴来が、桜の下で、二十代半ばくらいの草間武彦と面と向かい合い、何かを話していた。

 そしてまた映像が切り替わり。
 現在、そのヴィジョンには真っ白い紙が映っている。
 そしてその紙に、ゆっくりとペンを走らせるのは、黒いスーツを身に纏った鶴来那王だった。
 ちらと、彼が視線を向ける先には、父から譲り受けた刃の赤い刀がある。
 その名『緋降(ひふり)』と言う。
 さらと、鶴来が文字を紙に綴りだす。
 記されていくのは、あの、手紙に添えられていた謎めいた一文。
 それに、翠は意識を凝らす。鶴来の、その時点での思いを読み取るように。
 綴られていく、文章。その、意図するところは。
(緋降、と……生まれて、間もない……月……)
 そんな翠の読み取りを知らないままに、鶴来がぽつりと言った。
「呪詛をかけられることがあるのなら、きっと……真王からだな」
 呟きは、けれども柔らかな微笑の上に乗せられていた。
「その呪を断つのが、七星当主しか持つ事を許されない刀、だなんて……皮肉な話だ。真王……どうせなら、返す余裕も無いほどの……」
 唇が、空振りする。けれども、彼の心すら読み取ることができる翠には、その空音が紡いだ言葉が伝わってきた。
 ――呪詛をかけてくれ。……いっその事、今すぐにでもこの穢れた身を始末してくれればいいのに……。

 全ては、覚悟の上、だったのか。
 それでも呪詛を断つ鍵を書き記したのは、少しでもその暗い運命の上に、光が差す事を、信じていたかったからなのか――…。
 

<一時的な>

「つ……鶴来さん?! いつ起きたの!」
 記憶を見ていたその時。
 不意に叩きつけるように意識の中にまで響いた声に、びくっと肩を震わせて、翠が閉ざしていた目を開いた。そして自分が手を握っていた相手の顔を見、彼もまたシュライン同様驚愕する。
 起きている。
 自分がメトリーをしていた間に、何があったのかは分からない。けれども、彼は今確かに目を開いていた。
 だが、ふと翠は握っていた鶴来の手を離し、無言のままその顔から視線をそらせた。
 ……今しがた見てきた彼の記憶を思い出し、何だか酷く悪い事をしたような気になったのである。
 だがそんな翠の反応に気づく事もなく、鶴来はシュラインを見ようとわずかに体を起こそうとしたが、何かに気づいたような顔をして緩く頭を振り、かすかに苦笑した。
「すみません……」
「ねえっ、鶴来さん起きたわよ! 早く!」
 シュラインが、廊下にいる焔を慌てて呼んだ。焔は一瞬室内へ入ろうかどうか迷ったらしいが、すぐに壁から身を起こし、足早に部屋へ足を運ぶ。
 その間に、モーリスが少し眉を寄せて鶴来の手首を取った。脈を自らの手で確認してみる。
 ――まだ、遅い。
 完全には、解呪しきれなかったらしい。完全に呪を断つのを阻む何かがあるのだろうか。
 ……やはり、最終的には手紙に記されていた解呪の方法に頼るしかないのだろうか。
 そんなモーリスの思いに気づいたのか、鶴来がかすかに目を細めて苦笑する。
「すみません……」
「いえ、謝罪する事はない。貴方のせいではないのだから」
「…………」
 それに対しては何の言葉も返さず、鶴来はモーリスの隣にいた白鬼へと視線を移す。目が合った途端、やはりその青い瞳に違和感を覚えたが、今は何も言わず、白鬼はただいつものように顎鬚を撫でながら笑った。
「やれやれ。どうなる事かと思ったよ。身内から呪いをかけられたお姫様には口づけしないと目が覚めないのかなー、とかね。2度目のキスをしようかと考えてたところだよ」
 その部屋に居た全員が、その言葉に驚いたように白鬼を見た。
 2度目のキス?
 それはつまり、一度彼と鶴来がキスをしたことがある、ということか?
 ……周囲に生まれた何とも言えない微妙な沈黙を解くように、鶴来はわずかに目を見開いてから苦笑を零した。
「生憎……俺は、お姫様じゃ……」
「2度目のキス、だって?!」
 言いかけた鶴来の言葉を遮るようにドアの方から飛んできた鋭い声に、白鬼が振り返る。そこにいた人物をわずかに頭を上げて見、鶴来が瞬きをした。
「……ほむら、か?」
 部屋に入るなり聞こえた白鬼の言葉に激昂しかけていた焔は、けれどもその鶴来の言葉に、はたと目を瞬かせた。そして慌てて白鬼を押しのけてベッド脇に駆け寄り、その顔をよく見る。
「那王、那王っ?」
「……久しぶり。大きくなったんだな、焔……」
「当たり前だろうっ。お前が嘘ついていなくなったのはもう7年も前の話だぞ!」
「ああ……それじゃあもうランドセル、背負ってないのか……」
 ぼんやりと呟く鶴来の言葉に、焔ががっくりとその場に膝をつく。あまりにも間の抜けた台詞に全身から力が抜けたのだ。
「背負っているわけないだろそんなもの……」
 けれど、自分の名を忘れずに呼んでくれた。ただそれだけで、涙が出そうになった。慌てて目を擦り、立ち上がったところを背後からシュラインが、トンとその肩に手を乗せた。
「昔から不義理をする性質ではあったわけね。おはよう鶴来さん」
「……おはようございます……と言いたいところなんですが……」
 ふとその眼差しをわずかに揺らせて、鶴来はモーリスへと視線を戻した。そして翠、白鬼、焔、シュラインへと視線を動かして。
「……すみません、もう少し、眠らせてください……」
「術が解けたわけじゃないのか?」
 翠がモーリスに問う。モーリスは唇に親指を当てて小さく頷いた。
「多少力を弱める事はできましたが、何かがひっかかっているようで」
 あ、と思い出したようにシュラインが鶴来の腕を取り、軽く揺すった。
「鶴来さんっ、貴方が書き残していた呪詛を解くためのなぞなぞ、あれの答えって何なの?!」
 そうだ。起きたなら今本人に聞けばすむ話だ。
 が。
 鶴来はまた深い眠りに入ってしまったらしく、答えが返ることはなかった。


<コピー>

 再び眠りに落ちた鶴来を前に、全員が一様に深い溜息をついた。
 なんだか、酷く疲れた。肉体的に、ではなく、精神的に、だ。
 だがいち早くそんな状態から復帰したのはモーリスだった。もう一度鶴来の手首に触れて脈を取ってから、両方の手を、何かを包むような形にし、そこに視線を落とす。
 不思議そうに、白鬼がその手を覗き込む。
「何だい?」
「ああ、とりあえず今、前よりも少し呪詛の状況が軽くなっているので、このまま現状維持しようと思って」
「現状維持?」
「私の能力で、檻を生成し、彼をその檻の中におきます」
「檻?」
 胡乱げに聞き返したのは焔だった。何をするつもりかと目で問うている彼に、けれどもモーリスは口で言うよりも実際にやって見せた方が早いと思ったのか、無言でまたその視線を両手へと落とした。
 イメージするのは、透明な壁で形成された立方体。
 キィンと、硬質な音が周囲に響いた。それを察したシュラインが、痛そうに顔をしかめて耳元に手を当てる。
「何……この音っ」
 すさまじい耳鳴りにも似たその音。
 包んだ手の中に生み出された小さな透明立方体を見、モーリスがゆっくりと、その両手を開く。と、その立方体がするすると見る間に大きくなり、人一人を余裕で内包できるほどのサイズへと変化する。そしてその中に鶴来が眠っている場所――ベッドごと、納めてしまう。
「……結界のようなものか」
 呟いた翠に、モーリスが頷く。
「これでとりあえずは症状が悪化することはありません。外部からの干渉もほぼ防げます」
「そうか……じゃあとりあえず、後は綺くんがここに到着するのを待つだけかな」
 動きたくても動けない。
 それが多少歯がゆくはあるが、時には待つことも必要な事もある。
 羽織ったままだった濃茶のフルジップパーカーを脱ぎながら、白鬼が言う。
 けれどその言葉に反するように、モーリスが緩く首を傾げた。
「どなたか、彼の弟さんがどこにおられるかご存知ないですか」
 問われるが、呪詛をかけた張本人がどこにいるかなど、誰も知っているはずはない。
 ……はずだったが。
「ああ、それなら新宿中央公園の水の広場ナイアガラの滝辺りに居るわよ」
 あっさりとシュラインが返事した。驚いてその場に居た全員が彼女を見る。
「なんでそんなこと知ってるんだ」
「え? だって今、湖影(こかげ)くんが彼に会ってるもの」
 焔の鋭い口調による問いかけに、シュラインはわずかに眉を持ち上げて言った。
「まあ多分、この中で鶴来さんの弟を捕まえられるのは彼だけだしね。いろいろ仲良くしてるみたいだし、何とか彼を説得してみるつもりらしいけど」
「湖影さん……ですか。まあとりあえず、私も行って来ます」
「行って来ます、って……行った所で相手に余計な警戒させるだけじゃないか? 説得するっていうならその男に任せた方が利口だと思うが」
 翠の言い分ももっともだった。が、モーリスとて何も手立てを考えていなかったわけではない。
「こんなに自分の持つ能力をフル活用するのも久々というか……」
 呟き、そっと自らが生成した檻の中で眠る鶴来の手に触れる。
 すると、徐々に淡く彼の体が光を帯び始めた。柔らかいその光。
 室内にいた全員が、目を見開いた。
 自らの目の前で起きていることが、信じられなかった。
 金色だったモーリスの髪が、毛先から黒く染まっていく。そして体つきもわずかに変化し――…。
 やがて彼を包んでいた光が消えた時。
 そこに立っていたのは、モーリスではなく、今檻の中で眠っているはずの鶴来、その人だった。するりと、襟足で結んでいた髪を解く。
 何が起きたのか、即座に理解したのは焔だった。
 鶴来那王の姿を、モーリスはそっくりそのままコピーしたのである。
 寒気がした。
 本人ではない者が、本人の姿をしてその場に立ってこちらを見ている、ということに。
 頭では、おそらくはこれで弟を少しくらいは油断させたり動揺させたりできるかもしれないと思った。だが、理性とは別の所で……感情が、その姿を拒絶する。
 どうしても、許せなかった。
(それは、那王の姿だ……!)
 誰かが勝手に使っていいものではない!
「お前……っ!」
 感情が爆発するのに任せて腕を伸ばし、モーリスの胸倉を掴み上げようとして――その手を、横から白鬼に掴まれた。
「落ち着きなよ。内輪もめしてる場合でもないだろう?」
「はいはい、焔くんはこっちこっち」
 その白鬼が掴んだ手を今度はシュラインが捕まえ、腕を絡めるようにしてズルズルとモーリスから焔を遠ざけた。やれやれと肩を竦めるのは翠。
「じゃあ、とりあえず俺たちはここで那王に干渉してくるヤツがいないかどうか見張ってるから」
「ではこちらは任せます」
 声すらもが、鶴来とまったく同じだった。
 自分も鶴来と同じ声を発した事はあるのだが、姿形まですっかり写し切ってしまったモーリスのその姿に、シュラインは苦笑する。
「気をつけてね」
 とりあえずそう声をかけるに留まる。その隣に居た焔は、今にも飛び掛りそうな眼差しでモーリスを見ていたが、チッと鋭く舌打ちするとそのまま顔を背ける。そうする事で彼の姿から目をそらせるように。
 静かにドアの向こうへと消えたモーリスの――鶴来の背中を見送ると、残された者たちは思わずベッドの方へと視線を向けた。
 先程と変わらず、鶴来は静かな眠りの内にいる。


<銀光とは>

 とりあえず、今は……今の所は特に何もする事がない状態で手持ち無沙汰になった4人は、手短に自己紹介を済ませた。
 とはいえ、翠、白鬼、シュラインの3人は既によくよく顔を合わせたことがある面子だったので、主に紹介は焔に対してのものだった。
「それにしても鶴来さんと幼馴染なんてねえ。なんかこの人の子供の頃の姿って、あんまりイメージできないのよねえ」
 シュラインはベッドのサイドボードの上に置いてある、籠入りの花アレンジメントと、あと、シュラインが綺から預かっていた「桜の枝」を活けた一輪挿しを倒さないようにと気を使いながら、持ち込んでいた紙コップを人数分狭いスペースに置いてスプーンでインスタントコーヒーの粉を放り込んでいた。
 桜は、綺がこの場に来れないのなら、せめて彼から貰った桜だけでも傍に置いておいてあげようという、シュラインの心遣いである。
 ちらと、シュラインが焔を見た。
「どんな子だったの、鶴来さんて」
「どんなって……別に、普通の」
 としか言いようがなく、焔は窓辺に立ったままわずかに肩を竦めた。とはいえ、何が普通で何がそうじゃないのか、いまいち焔にはよく分からなかったのだが。
 その言葉に、ベッドから離れた場所に丸椅子を移動させて座っていた翠が、焔の方へと顔を向けた。何か言いたそうに一瞬口を開きかけるが、そのまま何も言わずに溜息をつく。
 どこか浮かない様子の翠に、部屋の隅に置いていた籠を鶴来の方へと運んでいた白鬼が首を傾げた。
「どうしたんだい? なんか元気ないが……そういえばさっき、力使ってたね。何か、なぞなぞのヒントはあったのかな」
「あー……それは、多分、『緋降』とかいう刀だとは思うんだが」
「ああ、そういえばシュラインさんも綺くんとそんな事言ってたね」
「一応、綺くんにそれを持ってきてって伝えておいたんだけど……」
 言って、シュラインは作りたてのコーヒーを焔に手渡しながらちらと鶴来の枕元に置いておいた目覚まし時計を見る。
「京都からここまでだと、新幹線使って2時間くらいかしら」
「2時間半くらいだ」
 呟いた焔が、コーヒーを受け取って「悪い」と小さく礼を述べる。
 あ、と白鬼が焔を見た。
「そうか、君も京都なのか。まあ鶴来君と幼馴染ならそうなるか」
 頭をカリカリとかきながら朗らかに笑う白鬼。そのまま顔をシュラインへ向けた。
 思い出した事があったのだ。
「そういえば、謎の後半部分はどうなったのかな」
「え? あー……アレね。どうなのかしら。まだちゃんとした事は分かってないんだけど……どう思う?」
 まずは白鬼に、そして次いで黙り込んでいる翠にもコーヒーを手渡し、シュラインは鶴来の近くに置いてある椅子に腰を下ろした。
「私は、単純に考えて、月光か雨粒か……って思ったんだけど。あとは……涙、とかね」
 涙だったら、幾らだって泣いてやるのだが。
 けれど、「虚空より降りし」と書いてあったなら、多分、空にあるものだと思うのだ。
「モーリスさんは月明かりの下で何かするんじゃないかって言ってたけど。あと、湖影くんは新月……だったかしら。それに掲げるんじゃないかって」
「ああ、なるほど。俺は流星か雨かと思ったんだが……」
 片手に提げていた、様々な甘物が詰まった籠を鶴来のベッドの下に置きながら、白鬼が言う。
 と、紙コップを包むようにして持っていた手に黙り込んだまま視線を落としていた翠が、ふと顔を上げた。
「生まれて間もない月、って、何のことだと思う?」
「それ、サイコメトリーで読み取れた結果かい?」
 白鬼に問われて、翠は頷いた。
「緋降と、生まれて間もない月……っていうイメージを読み取ったんだが」
「新月のことじゃないのか?」
 ぽつりと、焔が口を開いた。
「欠けていく月じゃなく、満ちていく月。月齢で考えてみたら、減って行くのを生まれて間もないとは言わないだろうから、月齢0から順に、満ちていく月」
「そうか、『細き銀光』っていうのは細い月の事を示していたのか」
 翠が頷いた。
 なら、あのなぞなぞの意味するところは「新月の光に緋降を掲げろ」ということか。
 ……どうやら、ようやく全ての意味が解読できたらしい。
 しかし。
「じゃあ、一体新月っていつなんだろう?」
 白鬼がコーヒーをすすろうとした手を止めて首を傾げた。それに翠が眉を寄せる。
「新聞に月齢って出てなかったか?」
「……草間にでも電話かけてネットなりなんなりで検索かけてもらえばいいだろ」
 言って、ちらりとシュラインを見る焔。確かに、それが一番早いかもしれない。
 とはいえ病院内で携帯電話を使うのは気が引けて……仕方なく、シュラインは席を立つと、廊下に置いてあった公衆電話に向かった。
 そうなると、室内には男ばかりが残るわけで。
 焔はなにやら白鬼に対して妙な敵対心のようなものを持ってしまったらしく目を合わせようともしないし、翠は翠で、なにやらさっきから気分でも悪いのか、妙に押し黙ったままだった。
 何とも、居心地が悪い。
 やれやれと白鬼が溜息をついた時、シュラインが駆け戻ってきた。
「ちょっと!」
 慌てるシュラインとは対照的に、のんびりと白鬼が眠そうな眼差しを返す。本当に眠たいわけではなく、彼は常にそういう顔なのだが。
「どうしたんだい?」
「今日、月齢0なの! だから今日以降……つまり、明日くらいがチャンスって事みたいなのよ!」
 それはまた、なんというタイミングか。
「なら今日緋降がこっちに届けば、明日には万全の体制で解呪に挑める、ということか」
 呟く翠に、焔が頷く。
 綺が絶妙のタイミングで手紙を送ってくれてよかったというものだ。これがもう少し遅ければ、一ヶ月近くまた待たなければならないところだった。
 ここまで条件が整ったのなら。
 後はもう、緋降を待つだけ。


<桜、散る>

 廊下の方で、バタバタと激しい足音がした。
 救患か何かだろうかと思った鶴来の病室に詰めていた者たちは、勢いよく開かれたドアの向こうに立っていたモーリスと虎之助に目を瞬かせた。
「……どうしたの一体」
「誰が緋降を持ってくるんだ?!」
 問いかけたシュラインに、虎之助が足音高く室内に入り、前置きもせず怒鳴るように言った。その虎之助の肩にそっと手を乗せて落ち着かせるように促すと、モーリスが代わってシュラインに問う。
「緋降という刀をこちらに持ってくるのは、あの手紙を出してきた綺さんですね。今、綺さんはどちらに?」
「どちらって……多分、新幹線に乗ってるんじゃないの? 持ってきてってお願いしたっきり、連絡取ってないからわからないけど」
「では、誰も綺さんに付き添っていないんですね?」
「付き添うって……」
 二人が何を言っているのかいまいち理解できず、シュラインは眉を寄せた。
「綺くんがどうかしたの?」
 そう、シュラインが改めて聞いた時。
「あ……桜が!」
 翠が立ち上がって不意に声を上げた。全員の視線が、鶴来が眠っているベッドの傍にあるサイドボード上へと向けられた。
 そこには、シュラインが持ってきた桜が、一輪挿しに活けてあったのだが。
 その桜の白い花弁が、はらはらと、落ちはじめていた。
 驚いてシュラインが駆け寄り、手を花にかざす。
「どうして……綺くん、枯れない桜だって言ってたのに」
 シュラインが大切に思う限り、決して枯れる事はない、と。
 何故か、途端に嫌な予感が胸の中に沸き立ってくる。
 はっと、虎之助とモーリスを見た。
「綺くんに何か起きるっていうの?!」
 と、その時。
 かたん、と。
 ドアの方で音がした。
 反応したのは、白鬼だった。反射的に椅子を立ち、音に引かれるようにドアへと歩み寄る。
 虎之助たちが来た時に開かれたままになったドアからひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。
 すると、その目の前に、はらりと一片、白い花弁が舞い降りた。
 思わず手を出し、それを掌に受ける。
 桜の花弁だった。
 それを見て、一瞬、綺が来たのかと思った。
 ……が、そうではなく。
 もう一片舞い降りた花弁に引かれるように、視線を斜め下に落とし――白鬼はその細い双眸を、見開いた。
「これは」
 白い壁にもたれかかるように立っているのは、黒い鞘に収められた一振りの刀だった。その刀を護るように、周囲には桜の花弁がゆるゆると渦を巻いている。
 白鬼の声に反応したように、他の者たちも廊下へ出、そこにある刀を見、一様に動きを止めた。
 刀は、ある。
 けれども、それを運んできたはずの綺の姿が、そこにはなかった。
「綺くん?!」
 病院内だということも忘れ、シュラインが声を高くしてその名を呼ぶ。けれど、返る声はない。
 焔が、横から翠の肩を叩いた。
「刀に残された記憶、読んでみたらどうだ?」
「……そうだな」
 触れていいものかどうかと悩んだが、きっと、この桜の花弁が綺に関係しているものなら自分を敵だとは見なさないだろう。
 思い、翠は片膝をリノリウムの上に落として左手を伸ばし、黒い柄に触れた。
「……っ」
 途端、かすかな耳鳴りと共に流れ込んでくる記憶。
 ――おそらくそこは、鶴来の自室。その部屋の片隅に、ひっそりと置かれているのは、今ここにあるこの刀だった。
 それに手を伸ばす、高校生くらいの少年の姿が見えた。おそらくそれが、綺なのだろう。
 が。
 彼の手が、刀に触れるその直前。
 ふらりと、その体が傾いだ。肩で荒々しく息をつきながら、胸元を押さえている。
 持病か、と思ったが、そうではない。
 これは……流れ込んでくる綺の意識の欠片から拾い出せた言葉は。
 ――呪詛、か。
 苦痛に顔を歪めながらも、綺はその場に膝をついただけで、倒れこみはしなかった。自分を強靭な精神で律し、掌を刀にかざす。
 ――お願いだ、俺を守りし桜の神子たち……俺はいいから、この刀を、どうか、あの人の元へ……!
 祈るような強さで紡がれる言葉。それに応じるように、どこからともなく桜の花弁が現れ、刀を包み込んだ。まるで桜の花弁による繭のように。
 だが次の瞬間、パァンとその繭が弾けた。桜の花弁が散る。
 散った先。
 もうそこには、刀は無かった。
 そして、崩れ落ちる綺の体……。
「……っ」
 意識が、現実に戻った。目に映るのは、さっきまで時間の狭間で見ていたのと同じ、刀。
「何が見えたかな?」
 問うモーリスに、翠は力なく項垂れて頭を振った。
「……綺……刀をこちらへ運ぼうとした時に、誰かに呪詛をかけられたようだ。桜の精霊に命じてここに空間転移して運ばせたようだが、綺自身は……おそらくは、もう……」
「嘘……!」
 口許を両手で覆い、シュラインが短く悲鳴を上げた。
 桜が散ったのは、シュラインの気持ちが変わったからではない。
 綺が、いなくなってしまったからだったのだ。
 そうだ。綺は、言っていたじゃないか。
『何があっても必ず、緋降だけはそちらへ届けます』と。
 また自分は、鶴来が呪詛に倒れた時と同じく、言葉の奥底に潜むあまりにも強すぎる決意を見逃してしまったというのか……!
 どうしていいのか分からず頭を振り、シュラインはその場に膝から崩れ落ちた。が、それを横合いから白鬼が腕を取って支えた。
 大丈夫か、とは……言えなかった。大丈夫なはずがないからだ。
 と、その廊下の前方に、黒い影が現れた。騒ぎを聞きつけた看護士かと思ったが、そうではない。
 黒いハーフコートを着た、青年だった。黒いキャスケットの下の冷めた黒い瞳を、じっとその場に居る者たちに向けたままゆっくりと歩み寄ってくる。
 それは七星真王(ななほし・まお)――鶴来那王の、弟だった。
 それを見た途端、シュラインが駆け出した。そして真王の胸倉を掴んだ。
「アンタが綺くんに呪詛を放ったの?! 鶴来さんだけじゃ足りなくて、綺くんまで手をかけたっていうの?!」
 全身に渦巻く怒りをぶつけるかのように声を上げた。が、真王――正しくは、真王の裏人格・ルシフェルはその手を振り払いもせずじっと冷めた目でシュラインを見ていた。思わずシュラインがその拳を振り上げた時。
 その手を、横からそっと掴んだ者がいた。
 虎之助だった。
「違う、こいつじゃない。こいつがやったんじゃない」
「そんなこと分からないでしょっ! 湖影くんだって見たじゃないの、彼が自分のお兄さんに呪詛を放ったところを! 自分の兄を呪えるんなら、まったくの他人である綺くんを殺すことくらい……っ」
「違う! ……こいつが言ったんだ。ここに刀を持ってくる人物の身が危ないって。だから俺たちは慌ててここに来たんだ。こいつが呪詛を放つなら、そんなこと言うわけないでしょ?」
 激昂するシュラインをなだめるように言い、虎之助は優しく、シュラインの手をルシフェルの胸元から外した。ふらりと後ろに数歩よろめいたシュラインのその体を抱きとめ、モーリスが自然に、その触れたところから全てを調和へと導く力を注ぎ込む。
 昂ぶった心を、通常の精神状態へと戻すために。
 その横で、焔は目を見開いてじっと真王を見ていた。記憶にあるのとは随分と印象の違う、幼馴染の姿を。
 けれどその幼馴染はというと焔の事にはまったく意識を向けてはいなかった。傍らに立つ虎之助をちらと見、翠の手元にある刀へと視線を向ける。
「これで解呪の鍵は手に入った。よかったな。お前たちの望みがこれで叶えられるわけだ」
「ルシフェル」
 低く発せられる、諌めるような虎之助の声。モーリスの力で冷静さを取り戻したシュラインが、憎しみすらこもる目でルシフェルを見た。
 翠が、短く溜息をついてルシフェルを見やる。
「人の命が一つ無くなったとわかっていてわざと言っているのなら大した性格の悪さだ」
「お褒めいただき恐悦至極だ」
 ニヤ、と笑って紡がれたその言葉。が、それを手で制して、白鬼が問いかけた。
「それで。誰が綺くんに呪詛を放ったのか。君は分かっているんだろう?」
 その言葉に、ルシフェルは唇を歪めて視線を鶴来の病室のドアの方へと向けた。
「……七星の者だ」
「七星のって……真王、お前が当主なのにか?」
 焔が訝しげに問う。それにちらと視線を向けるルシフェルだが、そこには幼馴染に再会したという懐かしさなどという類いの表情は一切存在せず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「主の留守に勝手な真似をした者がいる。それだけのことだ」
「仮にも主と名乗るのなら、部下の不祥事くらいは面倒見てもらいたいね」
 冷めた口調で告げるモーリスに、かすかに唇の端をつり上げて笑ってみせる。
「残念ながら俺は神ではないからな。命を返せと言われても無理だ。が」
 ちらりともう一度、傍らに立つ虎之助を見る。それに、虎之助が眉を寄せた。
「なんだ?」
「……最後まで付き合えよ?」
「…………」
 何か、決意を固めたらしいルシフェルに、かすかに笑い、ポンとその頭に手を乗せた。
「分かってる」
 二人が何のことを言っているのかは分からなかったが、次にルシフェルから告げられた言葉に、虎之助を除く全員が、目を瞠った。
「明日、那王の呪詛を解く。緋降は虎に預けておけ。こいつには七星の呪詛は効かないから、他の奴が持っているよりは安全だ」
 それに、白鬼は首を傾げた。
「ちょっと待て。明日呪詛を解くって、今君が術を解くわけには行かないのかい?」
 踵を返しかけていたルシフェルが、足を止めて肩越しに振り返る。
「確実を期したいのなら、明日を待つことだ。呪詛をかけたはいいが、実際のところ、俺にもその解呪は難儀なんでな。組み合わせた呪が複数に渡るから、一つずつ術で鍵を開けていったら、結局は明日の夜までかかる」
 それに、と言葉を次いで、その目をシュラインに向けた。その顔には、冷笑が浮かんでいる。
「今この状況で那王が目覚めても、少しも嬉しくないだろう? 明日までに気持ちの整理くらいはつけておけ。……自分の為に綺とかいう者の命が犠牲になったと知る那王を、慰めてやれるくらいにはな」
 それだけを呟き、彼はその場を後にする。
 ルシフェルがいるというただそれだけで妙に張り詰めていた空気が、その存在をなくした事でほどけた。
 緋降は手に入ったのに――何とも言えない空虚さが、その場には満ちていた。


<目覚めの時>

 空気が、冴えていた。
 猫の爪のような細い月が、虚空には浮いている。
 ――12月24日。午後9時。
 月齢、1.094。
 ……緋降が届いてから、既に一夜明けている。
 病室の窓を開け放ち、凍えた空気を室内に取り込みながら、翠が振り返る。
 その視線の先には、鶴来のベッド脇でその顔をじっと見つめているシュラインがいた。目許が赤く染まっているのは、綺の死を悼み、泣き明かしたためかもしれないとちらりと思った。
 焔もまた、鶴来のベッド脇に立っていた。その傍には、通常の人間には見えないが、寄り添うように彼の式・犬神の伏姫が座っている。
 確かに、綺が亡くなった事は引っ掛かる。だが、それよりも自分には、もうすぐ彼が目覚めるということの方が大事だった。
 眠る顔を見、焔は自分の胸にそっと手を当てた。
 ……那王……。
 胸の内で、呟く。
(俺は、ずっとお前を探していたんだ。……帰って来い。帰ろう。こちらの世界へ。俺たちがいる世界へ)
 何があっても、もう、何者にもお前を傷つけさせはしない。
(神すらも敵に回してもいい。俺が、お前を守ってやるから)
 それは、誓い。
 誰に告げる言葉でもない。自分自身への、自戒にも似た誓いだ。
 真紅の瞳でじっと鶴来の顔を見つめている焔の、その横で白鬼もまた、自らの思考の内に居た。
 彼は、綺が亡くなったことを知れば――壊れてしまうかもしれない。そんなことを、思う。
 ただでさえ危うかった精神のバランス。誰かを守らなければいけないという思いがあれば、まだそのバランスを保つ事もできただろう。
 けれど、今はその対象が、自分が倒れている間に命を落としてしまった。
 ……耐えられるのだろうか、彼に。
 もしかしたら、このままずっと、何も知らないままに眠らせておいたほうがいいのかもしれない。
 ふと、そんな事を思い――ゆっくりと目を伏せて緩く頭を振る。
 いいや。
 それは、自分が彼にしてやれる事とは違う。
 自分は、彼の道を照らすためにここにいるのだ。
 そう、彼に約束したのだ。
 きっと今こそ、彼の手を引いてやらなければならない時なのだ。一人でその痛みを抱えさせはしない。同じ痛みも、分け合えばきっと、少しは楽になるだろうから。
 大きく一つ溜息をついた白鬼のその様をチラリと見てから、窓辺に立っていたモーリスが腕に嵌めた時計へと視線を落とした。
 そろそろ、か。
 思った所、コンコン、とノックの音が響いた。誰も返事をしなかったが、静かに、ドアが開く。
「悪い、少し遅れたかな」
 入ってきたのは、腕に毛布を抱いた虎之助だった。毛布は細長く、何かを包み込んでいるようだった。
 包まれているのは、言わずと知れた、緋降である。
 その虎之助の後ろから、黒い影が現れる。
 黒い式服を纏ったルシフェルだった。それを見て、シュラインと白鬼は、彼が一度綺に会った事があることを思い出した。
 自分達が綺に会うきっかけになった事件の手引きをしたのが、彼だった。
 彼に巻き込まれなければ、綺は今頃、まだ生きていたのだろうか?
 思うが……口には出さず、シュラインはふっと吐息を漏らした。そして椅子から立ち上がる。
 今は感傷に浸っている場合じゃない。もしかしたら、解呪の隙をついて、綺を狙った者からの呪詛がこないとも限らないのだ。妙な外部からの干渉が無いかどうか、細心の注意を払わなければならない。
 そしてその旨は、他の面々にも伝えてあった。
 モーリスが、鶴来の周囲に作ってあった『檻』を解除する。両腕を開いて、檻の表面が腕の中へと収縮する様を思い描く。
 するすると、徐々に小さくなっていき――最後には爪の先ほどの大きさになり、やがてぱちんと弾けて消えた。
「これで干渉できるようになったので」
 言って、ルシフェルを振り返る。それに小さく頷くと、ルシフェルは虎之助を見た。
「虎ちゃん、緋降を」
「ん、ああ」
 毛布を解き、中から黒い鞘と柄を持つ刀を取り出し、ルシフェルの手へ渡す。それを受け取り、窓辺に歩み寄りながらすらりと鞘から抜き放つと、その鞘を虎之助ではなく、窓の近くに居た翠に手渡した。
「さて。上手く呪を切れるといいがな」
 呟いて、ルシフェルはその真紅の刃を窓の外に見える月へと掲げた。そしてふと肩越しに室内を振り返る。
「……誰か、代わりにやるか?」
 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。
「冗談なら後でいいからさっさとやれ」
 焔が苛立たしげな声を出す。モーリスも肩を竦める。
「4ヶ月間眠っていた人が健康に目覚める様をぜひとも見たいから早くしてもらいたいね」
「……美味しい所だけ持って行くような気がして悪いと思ったんだがな」
 かすかに笑うと、再びルシフェルは月へと顔を向ける。
 そして。
 笑みを消して深く一つ呼吸すると、朗々とした声を発した。
「吾は是れ、天帝の執持しむる処の禁刀なり。凡常の刀に非ず。千妖も万邪も皆悉く済除す」
 続いて、天にかざしていた刀を、九字を切るように四縦五横に振るう。
「天は我が父たり、地は我が母たり。六合の中に、南斗と北斗、三台と玉女在り。左に青龍、右に白虎、前に朱雀、後に玄武在り。前後扶翼す。急々如律令」

 ――……。

 室内を、静寂が支配した。
 誰も、動く者はなく。動く物も、なく。

 ……酷く時間が長く感じられた。
 ふ、と。
 鶴来のその、閉ざされていた瞳が、開くまで。


<終――未来を築く者>

 はあ、と深い溜息をつく。
 それに、デスクについて新聞を広げていた草間が思い切り眉をひそめた。
 もう、翠の溜息はかれこれ数十回に及ぶ。しかもこっそりつく溜息ではなく、盛大な、しっかり草間の耳にも届くようなものなのだ。
 聞いているだけでこちらの気まで滅入ってくる。
 それまでシカトを決め込んでいた草間も、いよいよたまらなくなり、新聞をばさりと折りたたんでデスクの上に投げ出し、翠を見やった。
「お前な。さっきからものすごく鬱陶しいんだが」
 解呪が成った、翌日。
 翠は、草間興信所に姿を見せていた。
 本当は、鶴来の見舞いにでも行こうかとちらりと思いもした。けれど、何となく顔を見てもどう言っていいのかわからないと思い――けれども誰かと話していなければ落ち着かず。
 そんなわけで、どうせ暇を持て余しているだろう草間の所へ来たのだが。
 また一つ重い溜息をつき、翠は草間を見た。
「……アンタ、知ってたのか? 那王の出生の事とかいろいろ」
「ん? あー……一応な」
 もごもごと言い、草間もついに、翠につられるように溜息をついた。
「何にしても、かなり後味悪いことになったな。まあ……誰のせいでもないんだが」
「まだ誰かのせいだったほうが気が楽だ」
「それもそうか」
 責任を押しやる所在がないため、事に絡んでいた全員が全員、自分が綺のことにもう少し気を回していればと思っているに違いない。
 特に、昨夜のあの、白鬼に綺の死を告げられた時の鶴来の取り乱し様を見た後では。
「……鶴来は、綺のことを自分の子供のように思っていたようだからな」
 デスクから立ち、サーバーに残っていたコーヒーをカップに移しながらぽつりと草間が言った。
「メトリーで見たんだろう? あいつの子供の頃の事」
「ああ……母親に虐待もどきのことされてた事か」
「虐待もあり、それに出生もアレだからな……どうも、自分が与えられなかった子供の頃の幸せというものを、綺には与えてやりたいと思っていたようだ」
 それが、自分の呪詛を解くための刀を運ぶ為に犠牲になったとは……耐えられないのも無理はない。
『どうして俺を殺さなかったんだ……! 俺が死んでいれば、綺は死なずに済んだだろう!』
 叩きつけられる言葉が、ただただ痛かった。
 すっと、昨夜の事を思い出していたその目の前に、草間からカップが差し出される。ふわりとコーヒーの匂いが鼻先に漂った。
「……那王は呪詛をかけられてたわけだもんな。としたら、それを解こうとした場合、その鍵を動かそうとするヤツに呪詛がかかることも、ちょっと考えたら分かりそうなものだったのに」
 カップを受け取り、ふうとまた一つ溜息をつく。それに、草間がわずかに肩を竦めた。
「誰も緋降自体がマークされているとは思わないだろう。なぞなぞだって解けていなかったんだしな」
 言いながら、デスクに歩み寄り、書類をいくつか持ってまた翠の元へと戻ってそれを差し出した。
「ほれ、約束の報酬」
 怪奇ネタ、二つ。
 けれども翠はそれを受け取ろうとしなかった。
 受け取れなかった。
 が、書類から目を逸らすその翠の手に、半ば押し付けるようにして草間がそれを渡した。
「うだうだ立ち止まって後悔することなら誰にだって出来るんだ。そんなことをしたいなら鬱陶しいから他所でやってくれ」
 素っ気無いその言葉に、翠が伏せていた顔を上げる。
 それに、草間は薄く笑った。
「ただ未来を築くもののみが過去を裁く権利を持っている、ってな」
 その言葉に翠はわずかに目を見開く。
 過去を振り返ってばかりいるのではなく、先を見ろと。
 そうするものにしか、過去の過ちをどうこう言う権利はない、と。
「……そうだな」
 だが、頷くその脳裏に過ぎるのはやはり、鶴来が嘆き悲しむ様。
 道を踏み外しはしないか、と。
 壊れて、自暴自棄になり、無茶をやらかさないかと……思ったのだが。
 草間はそれにも、軽く笑って見せた。
「人間は、たとえ暗い衝動に動かされようとも、正しい道を忘れやしない。……大体あいつの周りにはおせっかいなヤツがたくさん居るからな」
 道を踏み外しかけたら、彼らが引き戻すだろう。
 そう言外に告げる草間に、翠はようやく、かすかに笑った。
「にしても、アンタがゲーテだのニーチェだのの言葉を知ってるとは思わなかった」
「バカにするなよ若造」
 言い、草間はデスクへと戻っていく。
 その背をしばし眺めて、翠はふと手元に残った怪奇ネタへと視線を落とした。

 今はただ、未来を築く為に。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0065/抜剣・白鬼 (ぬぼこ・びゃっき)/男/30/僧侶(退魔僧)】
【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0523/花房・翠 (はなぶさ・すい)/男/20/フリージャーナリスト】
【0689/湖影・虎之助 (こかげ・とらのすけ)/男/21/大学生(副業にモデル)】
【0856/綾辻・焔 (あやつじ・ほむら)/男/17/学生】
【2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男/527/ガードナー・医師・調和者】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 花房・翠さん。再会できてとても嬉しいです。
 一度目は…グループ3ノベルでしたね。
 依頼の方にも参加してくださり、どうもありがとうございました。
 サイコメトリーを使うということで、鶴来の過去に引きずられてしまいまして…大変気分的に重たいものを見ていただくことになってしまい…(汗)。
 とてもいろいろと、後味悪いのではないかと思いますが…本当にすみません(汗)。
 隠し能力も使用させていただきたかったのですが、今回は特にバトルがなかったので…また機会をいただければ、次回、ぜひとも書かせていただきたいと思います。

 今回、個別部分がけっこう多かったりしますので、あっちやこっちを読み進めていただけば、きっと、NPCについていろいろなことが分かると思います。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。