コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


紅い花 咲く時

 刻まれた記憶は、どうしてこんなにも鮮明に残り続けるのだろう。
(蝕み続けるのだろう)
 隠しても隠しても、隠し切れない深い傷痕。
 それはどんなに面で覆っても、踊る指先からにじみ出る哀しさに似ていた。
(舞いを踊ることで、魔を退ける)
 それが私の仕事。
 無表情の面をかぶって、踊る退魔の舞いの中に。
(潜んでいた)
 自分さえ気づかなかったそれを見つけたのは、一匹の犬だった。



 2年前――15の頃。
 早く強くなりたくてどうしようもなかった私は、無茶なことばかりしていた。
 ”修行のため”といい自ら積極的に街中の瘴気を発するポイントに出向いては、ケンカを売り歩いていたのだ。
 瘴気のある場所には魔物が集まりやすいが、それだけではなかった。陰な感情を持った者たちも、集まりやすいのだ。
 そういう者たちは、叩けばいくらでも響いた。
 そんなふうに人を殴りながらも思い出していたのは、母の最期の姿。
(どうしてこんなふうに)
 殴れなかったのだろう。
 母を壊そうとする、この世ならざるもの。
(どうしてこんなふうに)
 蹴れなかったのだろう。
 魔が私の世界を、壊す前に。
 もちろん時には修行らしく、魔と対峙することもあった。
 その頃には既に退魔の舞いは完成していて、発動すれば比類ない力を発揮するまでになっていたのだが。何しろ媒体が舞いであるために発動までに時間を要し、同時にその間無防備になってしまうことが目下の課題だった。
(――やはり、独りでは無理?)
 普通舞い巫女には、琴師などのパートナーがつく。同じように私にも、パートナーがいたなら……。
 そう考えるものの、私は既に他人に背を預けることができなくなっていた。
(どうして信じられよう?)
 向けた背がばっさりと斬られないことを。
 信じていた日常にあっさりと裏切られた時、私はこの世界そのものを信じられなくなってしまったのだ。
 目に映るもの、すべて――

     ★

 その犬を俺が助けたのは、偶然だった。
(助けたつもりはなかった)
 ただケンカした奴らが、その犬を苛めていたというただそれだけのことだったのだ。
 しかしその犬は何を勘違いしたのか、そいつらが走り去っていくと私の足元へとやってきた。
(何?)
 そうして私を見上げ、荒い息づかいで舌を出す。
(……おなかでも減っているんだろうか?)
 犬の心理などよくわからなかったが、私は先ほどの奴らが落としていったコンビニの袋の中からパンを拾いあげると、開けて少し遠くの方へ放った。
 すると犬は、勢いよくそちらへ走り出す。
(なんだ……)
 やはりおなかが減っていたのだ。
「――!」
 そう納得した時、俺は近づいてくる魔の気配に気づいた。
 瘴気が強くなる。
(まだ、間に合いそうだ)
 ゆっくりと、身を構えた。
 面をかぶる仕草をし、指先をすらりと伸ばす。
 幽玄の、帳が下りる。
(”花”を――)
 能舞いによって魔を退けることができるのは、それにより魔に感動・感銘を与え、魔を魔ではないのもに昇華させるからである。
 能の大成者である観阿弥・世阿弥親子は、その感動力を”花”と呼んだ。
(そしてその”花”は)
 極めれば、魔をも退ける力を持っていた――



「……キャゥウン」
 すべてが終わると、さっきの犬がまた、私の足元にやってきて顔をすり寄せる。
(まだいたんだ……よく、逃げなかったな)
 魔はとうに消え去った。だが人間ならば、それよりも前に逃げていたことだろう。
「――勇気が、あるんだね」
 呟いて、手を伸ばした。頭を軽く撫でてやる。
 その瞬間。
「?!」
 もう1つの、強い気配に気づいた。
(さっきの気配に隠れていたのか!)
 すぐに舞い始める。が、とてもじゃないが間に合わない。しかしだからといって舞いを途中でやめたのでは、他に対抗する手段がないのだ。
 近づいてくる気配。
(間に合え……)
 焦れば焦るほど、舞いは乱れた。
(間に合え!)
 そこには幽玄の欠片もない。
「――ワウゥっ」
 突然犬が吠えた。そして見えているのか、魔の方へ向かって走ってゆく。
「お……」
 呼び止めようとした。
 その時に、気づいた。
(勇気があるんじゃない)
 まさか――気づいて、いたのか?
 霊に対しては、動物の方が鋭いと言われる。それと同じように、この犬はもう1つの魔の気配に気づいていたのではないか。
(そして教えようとした……?)
 走っていく犬の行く末は、目にせずとも簡単に想像することができた。だから私は見ない。
 目を閉じて、舞いに集中する。
(どうして)
 何度もくり返してきた言葉。
 訴えかけるように――私は、いくつもの”花”を咲かせた。



 それは小さな小さな、恩であったはずだ。
 そしてその死体も、酷く小さかった。
(信じられない)
 自分が今生きているのは、紛れもなくこの犬のおかげなのだ。この犬が、私に最後まで舞う時間をくれたから。
 私はもう一度、先ほどと同じように頭に触れた。まだ温かい。
(温かい何かが)
 心に染み入ってくる。

『哀しそうに、舞うんだね』

 そんな声が、聞こえた気がした。
(哀しそうに……?)
 ああ――そうだ。
 私は哀しいのだ。舞っている最中はいつも。殴っている時よりも哀しい。
 だって本当は、知っているから。
(殴れはしない)
 蹴れもしない。
 あの時本当にできなければならなかったのは、この舞いなのだから。
 舞うたびに哀しかった。
(自分でも、気づかぬまま――)

『哀色の、”花”が見えるよ』

 名残の”花”は、私を導く。
(哀しそうだったから)
 私の傍にいたの?
 しかし私の声は、届かない。

『今度は紅い、”花”を咲かせて?』

 燃えるように、紅い”花”を?

『温かい、”花”が見たいんだ……』

 やがて、その声も聞こえなくなった。
(私は――)
 初めて、面を脱いで舞った。
(ほんの少しだけ)
 この犬の心を。
 世界を。
 信じてみようと思った。





(終)