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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


呪解緋

<序>

 時の彼方に見える、因果の糸を絡め取れ。
 それが、合図。
 仕切り直しとなるか、これで終幕となるか――…

 それはまだ、分からない。

          *

 目の前には、一通の手紙がある。
 それを溜息混じりに手に取り、草間武彦は空いた手で近くにあった煙草を引き寄せた。
 すでに手紙の内容には何度も目を通し済みである。
 それでもまた目を通そうとして、草間は緩く頭を振る。
 ……さて、どうしたものか。
 ちらりと、目を机の上にある封筒の方へと向ける。消印は、京都の某局。くるりとひっくり返すと黒い細ペンで差出人名が書かれていた。
 七海 綺(ななみ・あや)、と。
 この事務所にも実際に何度か来た事がある、とある里の桜の守人である。
 ある事件で身内をすべて無くした為、今は草間の旧友でもある鶴来那王(つるぎ・なお)という名の青年の、京都にある実家に身を寄せているのだが……。
 その友人の顔を思い出し、思わずまた一つこぼしかけた溜息を隠すように、草間は煙草をくわえる。
 思い出す彼の顔は、寝顔だけだった。
 かれこれ数ヶ月、鶴来那王は意識不明、原因不明の昏睡状態に陥っている。数年ぶりにやっと顔を合わせたと思ったらそんな状態の旧友に、草間はかけるべき言葉もなかった。
 とある事情により「何とか目を覚まさせてやる」とも言えず――早数ヶ月。
 夏の盛りだった季節は、すでに冬を迎えている。
 いつ消えるやも知れぬ命の前に、けれども自ら動く事もなく無駄に時を重ねていた、そんなある日。
 速達として届けられた、綺の手紙。
 そこに記されている文字をまた草間はぼんやりとした目で眺めやっていたが、ややして煙草に火をつけてくわえながらふらりと席を立ち、その場にいた者たちに文面を見せてみた。

          *

 前略、草間様

七海です。
月並みな挨拶ではじめたいところですが……今はそれどころではないので……。
さっそくですが、現在、那王さんが何者かの呪詛を受けて東京のとある病院で昏睡状態に陥られている事はすでにご存知かと思います。
その呪詛を放ったのが那王さんの実の弟さんということも、多分草間さんはご存知だとは思います。
そしてその呪詛の解呪は、呪詛を放った本人と那王さん、那王さんの家系の人しか分からないと言うことも、多分ご存知ですね(いや、もしかしたら何か別に、解く方法があるかもしれませんが)。
先日、那王さんの部屋で、那王さん自身が書きつけたと思われる妙なメモを見つけたので、とりあえずその言葉を書き写したものを送ります。
たぶん、何か「物」を示す言葉だと思うのですが……。
何か分かったら、ご連絡ください。俺がその「物」を持ち、そちらに向かいますので。
もしかしたら、それが解呪に繋がるキーかもしれません。
あと、俺が那王さんに渡された鈴も、同封します。
その鈴は那王さんが持っていた「魔を吸い込む瓢箪」と連動しているらしく、それを燃やせばその術具が燃えるように出来ているそうです。術具を悪用される前に手を打ってくれとの事でしたが……それを本当に燃やしていいのかどうか俺には判断しかねましたので、できればそれも、そちらでどう取り扱うか決めてください。
それでは、よろしくお願いします。   草々

          *

 草間が「目を覚まさせてやる」と言えない理由が、そこには綴られていた。
 彼の弟が放った呪詛を解く方法が、弟本人か鶴来の家系の者しか分からないと言うのがネックだったのである。
 だが今、その鍵となるべき言葉がもたらされたのなら――話は別である。
「誰か、ここに書いてあるなぞなぞを解いてくれる奴は居ないか?」
 草間はそのメモに見入る者たちに声をかけた。
 が。
 ふと草間はそこに居る面々の顔を見て考えた。
 もしかしたら、このなぞなぞを解く以外に何か方法があるのではないか――と。
 それならそれでいい。
 この際、呪詛が解けるのならもうなんだっていいのだ。
 なぞなぞが解けないのなら、他の方法を探ってもいい。もちろん、この謎が解けるのが最良の方法なのだろうが……。
 思い、再び草間はそのなぞなぞが書かれた2枚目の手紙へと視線を落とした。そして――深く、溜息をついた。

          *

赫奕(かくえき)の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます。
清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。

さあ、我は何者か。
我が名を、答えよ。

答えたならば
生まれて間もない、虚空より降りし細き銀光に我を掲げよ。
其の時こそ 赭堊(しゃあく)の光、闇を裂く――


<指示されるもの>

 たまたま草間興信所に用事があって出向いてきていたモーリス・ラジアルは、草間の声に引かれるように、向かっていたパソコンのモニターから首をねじまげて丁度自分の背後近くにいた彼の方を見やった。少し伸びた襟足の髪をうなじの辺りで一つに束ねているのだが、それが動きにあわせて小さく揺れる。
 モニターに表示されているのは、草間興信所が解決してきた案件の過去データ。その内の植物に関する事件の解決報告書に目を通していたのである。
 庭園設計者としてリンスター財閥所有の庭園の全管理を任されている彼が最近、その庭園の一角に植えた覚えのない……しかも見覚えすらもない花が咲いていたのを気にかけていた所、その財閥の総帥が穏やかで美麗な微笑を浮かべながら、この事務所になら何か役に立つデータがあるかもしれないと教えてくれたのである。
 リンスター財閥の関係者だと言えば草間はあっさりとデータを見ることを許可してくれたし、実際、その謎の花に関するデータ(何の事はない、どこぞの精霊か何かが適当に撒いた異界の花の種が偶々飛んで来て芽吹いただけのようである)も見つけることが出来た……のだが。
 予定外の事に巻き込まれてしまいそうな予感を覚えて、モーリスは口許に拳を当てた。
 あの庭の花を、どうにかしておきたい。別に害なすものではないと分かったのはいいが、それでも……あの庭は、いわば自分の作品である。そこに自分が意図したものでないものが紛れているというのがどうにも気になった。
 とはいえ、人の生死がかかっているというのならこのまま無視するというのも……。
 庭園設計者ではなく、もう一つの職――医師としての自分が、それにひっかかりを覚えていた。……いや、別に見も知らぬ者の事だし、放置しても構わないといえば構わない気もするのだが。
 しかしここで話を聞いたのも何かの縁。しかもタダでデータ閲覧させてもらった身としては、このまま草間に「では失礼しました」と言って帰るのも何となく気が引けた。
 秀麗な容貌にわずかな逡巡を滲ませてから、彼は携帯電話を手にした。メモリーで、リンスター財閥総帥の部屋への直通番号を呼び出す。
 数度のコールの後に繋がる。聞きなれた、落ち着いた声音が回線越しに紡がれてくる。
「ああ……私ですが。今草間興信所にいまして。ええ、例の花の件ですが、そのまま放置しておいても特に差し障りないようですので。あ……それから、実は」
 言いかけたところ先に向こうから、何か事件に巻き込まれたのではないかと問われ、モーリスは苦笑を浮かべた。
 さすが、というべきか。
「ええ……それで」
 そこから先の言葉を紡ぐ前に、またしても向こうから先に「手伝って差し上げなさい」という言葉をかけられてしまう。
 彼に仕える者としての仕事よりも、こちらの仕事を取る事に対するわずかばかりの逡巡を見抜いたかのようなその言葉。迷うその背を軽く押すような柔らかい響きを持つその声に、モーリスは短く吐息を漏らして苦笑を深くした。
「わかりました。それでは、事が終わり次第すぐに戻りますので」
 失礼しますと言いおき、相手が通話を切るのを確認してからモーリスもまた通話を切り、携帯電話を仕立ての良いスーツのポケットに仕舞う。
 まあ何か用事があれば、かの人は自分を呼ぶだろう。そしたら能力を使い、その場に転移して現れれば済むことだ。
 ……もっとも、「手伝って差し上げなさい」と言った彼が、この仕事を終えるまではきっと何があっても自分を呼ばないだろう事も、よく分かっていたが。
 気を取り直すと、モーリスはマウスを操ってパソコンの電源を落とし、再び草間の方へと身体を向けた。


<推察>

 しばらく、その場には沈黙が横たわっていた。
 その場にいる三人全てが、ソファセットのテーブルの上に広げられた手紙に記されている言葉の意味を読むのに集中していたためである。
 それぞれが、その文から受ける印象を頭の中で纏めていく。
 口は動かさず、ただひたすら目と思考のみを動かして。
 それぞれ違った色の瞳に映るその文章を、見た目そのままとして理解するのではなく、その深淵に込められている意味をただ正確に掴み取るために。
 文字を何度も追うと、そのたびごとに胸に引っ掛かりを覚える。だがそれが何なのか……その脳裏に過ぎるものが何なのかがいまいち分からず、闇の向こうに確かに光はあるのに、そこに辿り着く手段が見つからないかのような、そんなもどかしい感じを抱く。
 ――ややして。
「……前の方が『物』を示すもので、我が名を答えよ云々の後が『解呪の方法』だと思うんだが」
 黒に近い茶髪の青年――花房 翠(はなふさ・すい)が、テーブルの脇に立ったままで口を開いた。それに、ソファに腰を下ろし、長い足を組み上げて口許に手を当てて黙り込んでいたモーリス・ラジアルが頷く。
「そうですね。しかし『名を答えよ』ですか。名、というのはその『物』が何かを答えればいいのか……それとも特殊な名がつけられた何かなのか」
 襟足で一つに結わえて左肩に流した細い金髪に無意識のうちに指を絡ませながら、呟く。澄んだ空の下にある草原を思わせる鮮やかな緑瞳が、文字を追って紙面上を滑った。
 なかなか、面白い謎々だと思う。一体こんなものを考えた人物とは、どのような者なのだろうか。
「んー……」
 同じように、モーリスの向かいのソファに腰掛けたシュライン・エマが、短く唸った。その怜悧な青い瞳でじっと文面を見つめている。その視線は最初の1行に止められていた。
 ――赫奕の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
「……赫奕の劫火……この場合、多分『赫奕』の部分には深い意味はないと思うのよ。言葉を一見してややこしいものに見せかけるためのハッタリというか、まあそんな感じじゃないかな。だから単純に『火』と解釈して、その後に続く『砂』とあわせて考えるとー……」
「火が、我と名乗る『物』の元となる物を砂から作り出す?」
「もしくは、砂を火に入れることで何かが形成される?」
 シュラインの声に反応した翠の言葉に、さらにモーリスが言葉を足した。
 炎と合わせられることで砂状の物から何かが形成される。それがおそらくは『眠りから呼び覚まされる』という事なのだろう。
 イメージするものは三人とも同じようだ。
 こくりと頷き、さらにシュラインは次の行へと目をやった。
 ――姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
「破月……とは、欠けた月の事ですね」
 ただの破月ではない。『姿を変え行く』、だ。
 姿を変えていく欠けた月。一日だけの月では姿は変えていかない。となるとつまり、幾夜もかけて、ということだろうか?
 そうモーリスが口にすると、シュラインが彼を見やって答えるように再び頷く。
「そうね、そういうことだと思うわ。その月の下で、打ちつけられて響く、音……」
 綴られた文字を眺めながら、翠が腕組みをして眉を寄せる。
 次の箇所で、微妙に気になる点があったのだ。
「ただの音じゃなく、硬質な、と指定してあるということは、それに重要な意味があるんだろうか。まあ打ちつけられてって言葉の後に、柔軟な、というのが来る事はないとは思うが」
「あえて硬質って書いてあるなら何か意味があるのかも。その後に魂の共鳴とか書いてあるし……『魂』も何かの例えだとしたら、硬い物同士をぶつけてるってことかしら。何日もかけて」
 続けて、三行目に移る。
 ――幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
「垢離って、水浴びの事だったか」
「神仏への祈願の際に、冷水を浴びて身を清める事ですね、確か。水垢離とも言ったと思います」
「水浴びと共鳴……共鳴はまあ、2行目の『打ちつける』って作業の事よね。水浴びと打ち付ける作業を繰り返す事で、『我』に躯命与えられる? ……体と命?」
 そうシュラインが呟いた時。
 ふと、その脳裏に何かが閃き、「あ」とシュラインと翠が同時に声を上げた。そのお互いの声に反応したように二人は顔を見合わせ、さらにお互いを指差し。
「刀!?」
 またしても同時に声を出した。それにモーリスが長い睫を打ち合わせるように何度か瞬きする。そして、その視線を手紙に戻して。
「ああ……なるほど」
 かすかに笑って短く呟いた。そう思ってみれば、そんな気がする。
 自分自身の閃きを裏打ちするように、シュラインが立ち上がって手紙を指差し、口早にその根拠となる所を示してみせた。
「そうよそうだわ! 1行目のは火の中に砂鉄か何かを入れて、鉄を精製する事。2行目はその、熱した鉄を叩いてる所を表してるのよ!」
「そして3行目の最初の『明暗』は、炎の中に入る事を『明』、出す事を『暗』で現して、叩いては水につけ、また炎に入れて出して……鍛冶の工程そのものを示してて」
「4行目は、刃を研ぐ作業の事を表現しているんですね」
 翠、モーリスの言葉に頷き、シュラインは指先で5行目を指した。
 ――清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。
「じゃあこれは、刀って御神刀とかで使われるから……それのことかしら。神に仕えるって、そういうことじゃないかしら?」
 そう考えると、全てがクリアになった気がする。書きつけられている言葉の全てが、刀の製造工程を遠回しな表現で記しているのだ。
 ふっと、翠が吐息を漏らしてきつかった眼差しをわずかばかり和らげた。
「これで何とか、助けられるか?」
 自分は、呪いをかけられているという人物の事を良くは知らない。幾ら言葉を使い文章を作り出す仕事をしているからとはいえ、そんな、よく知らない人物にまつわるなぞなぞなど解く役に立つのかどうかは分からなかったが……むしろ、彼をよく知っている者たちに任せた方が確実に解けるのではないかとも思ったりしたのだが。
 ……謎は、追うのが難解な方が面白いとは思う。
 けれど、それは人の命がかかっていない時の話だ。人の命を前にして、面白いだの面白くないだの言っている場合ではない。
 まあ、刀だというのが分かっただけでもよしとするべきか。
 けれどもその言葉に、モーリスがわずかに目を伏せて笑った。
「導き出した答えが、本当に正解なら、の話ですけれども」
 確かに『刀』という答えを手にして文章を見てみると、全てがハマる気はする。だが、それが正解かどうかは――そのなぞなぞを作り出した本人か、実際に解呪を試してみるその瞬間まで、分からない。
「……なら、俺は一足先にその本人――那王、だっけ? のところに行って来る。直接聞いたほうが確実なら、そうするまでだ」
「ちょっと花房くん、直接聞くって、鶴来さんは昏睡状態……」
 わずかにソファから腰を浮かせて言いかけたが、左手を軽く振って笑う彼を見て、シュラインはすぐに、友人である彼がその身の内に有する能力を思い出した。ああ、と吐息のような声を漏らしてまたソファへと腰を落とす。
「そうか……そうよね、そうしてもらえたら一番確実な答えを引き出せるわね、きっと」
「じゃ、俺は先に病院へ行く。多分刀であってるとは思うけど、確実を期すのなら多分、俺の力は無駄にはならないと思うしな」
 言って、黒いレザージャケットのポケットからバイクのキーを取り出して軽く振る。それにつられるように、モーリスもソファから腰を上げた。
「では、私も病院の方へ向かう事にします」
「え? アンタも?」
 怪訝そうに踵を返して歩き出そうとした翠が、肩越しにモーリスを振り返る。てっきりこのままここで謎解きを続行するかと思ったのだが。
 肩にかかった髪の束を手で背へと払いのけ、モーリスは優美に微笑んだ。
「私はこれでも医者なので、鶴来さんの診察をしてみたいと思いまして。こう見えても貴方がたよりずっと長生きもしていますし、何か分かる事があるかもしれません」
 こう見えても。
 その言葉に、シュラインと翠がやや離れた場所にありながらも顔を見合わせた。
 モーリスは、一見するとシュラインと大して変わりない年齢に見える。が、そのあまりにも冴え整った容貌や悠然とした様が、そこいらにいる普通の27歳の青年とはどこか違う雰囲気を醸し出していた。
 ……まあ、この草間興信所に出入りする者の中には特殊な者が多々いるので、今更特別驚くような事もないのだが。
「そう……なら、鶴来さんの事はそちらでお願いするわね。私は綺くんに電話して、鶴来さんの所持品にそれっぽい刀がないかどうかを確認してみるわ。その後、私も病院に行く」
「じゃ、先に」
 残る事を告げるシュラインに軽く手を上げて挨拶の代わりにすると、翠は足早に事務所を後にした。
 ふと、その後に続こうと足を踏み出したモーリスが、何かを思い出したように振り返った。
「そういえば、一緒に送られてきたという鈴はどうするんです?」
「あ。んー……一応、燃やすのはやめとこうかな、なんて思うんだけど」
「そうですね。私もその方がいいような気がします。なんとなく。とはいえ、私には鶴来さんたちの事情はよくは分かりませんが」
「……私にも、はっきりとはよく分からないけど……何となく、燃やさなくていい気がするから、今は保留にしとこうかなと思って」
 呪詛を掛けられた場に居たのに、自分は結局、彼らの事をよく理解できていないのだ。
 ふっと短く吐息をついて何かを考え込むように目を伏せたシュラインをしばし見ていたモーリスは、もう一度ちらりとテーブルに広げられた手紙へと視線を移す。
 そういえば、謎は前半と後半に分かれている。
 後半部分の鍵となるのは、『虚空』と『銀光』だと思うが……ならそこから導き出されるイメージは……。
「月明かりの下で、何か起こるのかもしれませんね」
「え?」
 呟くような声に、シュラインが俯けていた顔を上げる。
「月明かり?」
「ああ……その、最後の部分です。何となくそんなことを思って。前半部分にやたらと出てくる『共鳴』を起こすのは、もしかしたら鈴かもしれないと思いもしたんですが」
 まあ、後の謎解きは貴方に任せます。
 そう言い置くと、モーリスもまた、事務所を後にした。
 残されたシュラインは、その背を見送るとどさりと体をソファの背もたれに投げ出した。


<病室前で>

 先に病院に着いたのは花房 翠(はなふさ・すい)で、その後を追うようにすぐにモーリスもやってきた。
 鶴来が入院している病室は個室らしく、他の階とは違った静けさが満ちていた。見舞い客や、やたらと廊下を歩き回っている患者がいないためだ。
 並んでエレベーターを降り、綺麗に磨かれたリノリウムの廊下を歩いていた二人は、ふと、前方に居た、腕を組み白い壁に背を預けて立ち尽くしている黒尽くめの少年の姿に気づいた。一見するとバンド少年にも見えたが、ちらりと二人の方へと向けられたその真紅の双眸に宿る強い光が、ただのロック好きの少年とは明らかに違う空気を彼に付与していた。
 眇められる、ルビーのように赤い目。
 明らかに自分達――翠とモーリスを警戒していると分かるその様子に、二人が顔を見合わせた。
 草間から解呪の話を回された者の一人だろうか。
 それとも――鶴来の呪詛を解く事を阻む者、だろうか。
 とりあえず、二人は無言のまま少年がいる方へと歩み寄った。
 彼が立っていたのは、やはりと言うべきか……鶴来那王の病室前だった。ドアを見据えるようにしてじっと立ち尽くしていたらしい。
「この部屋に何か用ですか?」
 冷めた調子で問いかけたのは、モーリスだった。それに、少年――綾辻 焔(あやつじ・ほむら)は顎をわずかに引いて上目遣いに自分に近づいてきた二人を見やる。
 まるで警戒心を露にする犬のようだなと、翠は目を細めた。
「……お前らは……草間興信所から来たのか?」
「ということは貴方も草間さんから話を聞いてここに来たんですね?」
「…………」
 返されたモーリスの言葉に、応とも否とも答えず、黙ったまま焔が視線を逸らせて、自分が立っている真向かいにある白いドアを見やった。そして口許に軽く手を当て、ヒュッと短く甲高い口笛のような音を鳴らした。
 翠が怪訝な顔をする。
「何だ、今のは」
「……室内に、俺の式を放ってある。お前達に危害を加えないように指示しただけだ」
 どうやら彼はここで、彼なりに鶴来を守護しているらしい。
 そう察すると、モーリスは鶴来の病室のドアに手をかけた。そして肩越しにわずかに振り返る。
「貴方は入らないんですか?」
「…………」
 また、無言。やれやれと言った具合に肩を竦めると、翠がモーリスに顎をしゃくって入室を促した。
「さっさと調べよう。時間が惜しい」
「そうですね」
 では、と焔に言い置くと、モーリスと翠は静かにドアを開け、そして室内へと消えた。
 その背中を静かに見送り、焔はふっと短く吐息をついて目を伏せた。


<診察>

 室内は、どこもかしこも真っ白だった。
 ベッドのそばに置いてあるサイドボードの上には、誰かが持ってきたらしいケーキが入っているらしい箱と、バスケット入りの花アレンジメントと、こんな時期にはありえないはずの真っ白い桜の花をつけた枝が一本、銀色の一輪挿しに生けてあった。
 そこだけがわずかに彩りがあり、なんとなくホッとさせられる。
 モーリスが眠っている鶴来の顔を伺うようにベッドの左側へと歩み寄るのを暫し眺めていた翠も、遅れて、ベッドの右側から鶴来の顔を伺った。
「……心拍……遅めですね」
 ベッドの傍で規則正しい波形を示している心電図を眺め、モーリスが呟いた。心拍は25回/分を示している。通常なら大体60〜70回/分くらいなのだが……これも呪詛の影響なのだろうか?
「失礼」
 短く言って、モーリスは鶴来にかけられている布団を捲くった
左腕には点滴の針が刺されている。種類的にはおそらく、栄養剤といったところだろう。病状改善などという類いのものではないはず。
 まあ病気ではないのだからそれは当たり前だ。
 しかし、これはこれでとても興味深い症例ではある。
 もしこのまま放置したら、彼は一体どれだけ生きられるのだろう?
 ……少しだけ試してみたいような衝動に駆られ、かすかに笑みを零す。心底この者の事を心配できないのは、やはり、自分にとって関わりのない人間だからだろうか。
 そんなモーリスの様子をじっと眺めていた翠は、なぜ彼が笑っているのかまったく分からなかった。医師として、何か役に立つような事を発見でもしたのだろうか?
「……まあいい。俺もやるか……」
 ふっと一つ強く息を吐き、ベッドの傍にあった丸椅子に腰を下ろしてそっと鶴来の右手を掴む。
 そして、ゆっくりと目を閉じた。


<ハルモニア>

 翠が鶴来の手を取り、目を閉ざして身動きを止めたのを見、モーリスは怪訝な顔でそれを見やり、わずかに首を傾げた。
「花房さん?」
 呼びかけても、返事はない。どうやら彼も彼なりに何かの能力を使い、調査を試みているようだ。
 それならば自分も、自分の能力を使ってみることにしよう。医学的観点から調べてみても、おそらくは、何も分かりはしないだろう。
「失礼」
 もう一度そう言い置くと、モーリスは鶴来の纏っている浴衣型の白い患者衣の胸を開かせた。ゆっくりとした浅い呼吸に合わせて上下する胸板は死人のように白い。そっとその左胸、心臓の真上辺りに右手を置き、深く呼吸する。
 掌から伝わる鶴来の体温はひどく冷たい。まるで、長時間低温の場に置かれていたかのような……。
 もしかしたら、そういう類いの呪なのかもしれない。体温低下を促すような。
 ならばその熱を元に戻す方向へ働きかけてやればどうなるか。
 ――すべての存在を、あるべき状態へと戻す。
 それが、彼の力。
 柔らかな波動を、彼の肌を通し、その身全体に行き渡らせ……。
 その時。
 軽いノックの音の後、ドアが開かれた。
 おや、という顔でモーリスが閉ざしていた目を開けて振り返る。
 と、そこにはがっしりとした体格の男が一人、立っていた。手には、なにやら饅頭やら最中やら……菓子が目一杯詰められた籠を下げている。
 彼はモーリスと、そして鶴来が寝ているベッドを挟んだ向こう側にいる翠に目を止め、細い目を見開いて何度か瞬きをしてから持っていた籠を部屋の隅に置き、つかつかとモーリスの方へと歩み寄ってきた。
「君は? 草間くんの所から来たのかな?」
「ええ。では貴方もですか」
「親友の危機とあってはね。来ないわけにはいかない」
 言って、手短に自己紹介をすると、彼――抜剣白鬼(ぬぼこ・びゃっき)は翠の方へと顔を向けた。眠ったように身動きせず黙り込んでいるその様に、彼が何をしているのか一瞬で悟ったようだ。
「サイコメトリーしてるんだね、花房くんは。そうか……覗けば何が解呪に必要なのかすぐ分かるな」
 言われて、ようやくモーリスは翠にそんな能力があったのだと知った。なるほど、ならば今は外部からの感覚を遮断し、意識を深く集中させているのだろう。
「……さて、なら俺もちょっと調べさせてもらおうかな」
 隣、いいかな、と問われ、モーリスは少しだけ奥につめて場所を譲る。自分の能力も中途で止めてしまっていたが、それより彼が何をするのかが気にかかった。
 白鬼は、モーリスが見ている前でしばし、鶴来の顔を眺めていた。そしてゆっくりと大きく息を吐き、一瞬だけ、痛そうに顔を歪めた。
「……久しぶりだ。少し見ない間に……」
 元から華奢な体つきではあったが、さらに細く、痩せたように思う。酷く彼が小さく見えるのは、発せられる気が感じられないからだろうか。
 長くなった前髪を大きな手でかき上げ、さらによくその顔を見る。眠っているその顔は、苦痛も何も感じていないような――どこまでも安らかなものだった。
 その額に手を当て、目を閉じる。自分の中に流れている気をその掌に集中させ、そこから鶴来の体内へとそれを流し込むように。
 健康体ならば、気を送り込んでもなんの反応もない。けれどもどこか病んだ場所があれば、気を介して白鬼に伝わってくる。
 けれども……返って来る反応は何もなかった。病んでいる箇所は内容である。魂の存在も、きちんと体内に感じる事ができる。
 これではただ、眠っているのと変わりがない。
 と、ふと白鬼は、その鶴来の胸元がはだけられているのを思い出し、モーリスの方へと顔を向けた。
「あ、もしかして君も何か力を?」
 黙って腕を組んで白鬼の様子を眺めていたモーリスは、ああ、と短く言ってかすかに笑った。
「そうですね。では続けさせてもらいます。上手く行けば、目覚めさせられるかもしれません」
 その言葉に白鬼が目を瞠る。だがそれ以上何を問う間も与えず、モーリスはまた鶴来の左胸部に手を当て、目をわずかに細めた。
 ふわりと、まるで羽が開くようにモーリスの体から透き通るオーラが発される。その気が全て、手を通して鶴来の体へと流れ込んでいく。
 ハルモニア。それはラテン語で「調和」を表す言葉。
 そしてそれが、彼の能力の名。ハルモニアマイスター。
 気の流れがわかる白鬼には、それがどれだけの力なのかが即座に理解できた。人ならざるものの有する能力としか思えない。
 室内で唯一音を発していた心電図が刻んでいた、ゆっくりとした単調なリズムが、わずかに変わり始めた。白鬼がモニターを見やる。
 さっきまで25回/分を示していた心拍が、45回/分へと上がっている。
 目を見開いてモーリスを、そして鶴来を見やる。翠は、変わらず鶴来の手を握ったまま動かない。
 と、その手がわずかに震えた。続いて、ぴくりと鶴来の体がわずかに動いた。
 驚いて、白鬼がモーリスの邪魔にならないように鶴来の左手を掴んだ。
「鶴来くんっ!」


<一時的な>

「…………」
 ふっ、と。
 その閉ざされていた双眸が、白鬼の声に導かれるように薄く開かれた。モーリスがそっとその胸から手を離し、鶴来の顔を覗き込む。
「気分はどうですか」
 問われて、しばしぼんやりしていたものの、やがてその双眸をモーリスの方へと向け、ゆっくりと瞬きして。
「……貴方の……力、ですか……」
 ぽつりと、呟くように言った。モーリスを見るその瞳は酷く青く、その色に、通常の彼の瞳の色を知っている白鬼がわずかに眉を寄せた。
 鶴来の瞳は、いつもは黒かったはずだ。確かに、光が入ると青く透けて見える事はあった。が、元々は黒のはずである。なのに、なぜ今はこんなに青いのだ?
 と、その時、コンコンと部屋のドアがノックされた。返事を待たずにドアを開けたのは、シュラインである。そして彼女は目を開けている鶴来を見て驚愕の表情をその顔に貼り付けた。
「つ……鶴来さん?! いつ起きたの!」
 その声に、びくっとベッドの向こう側に居た翠が肩を震わせて目を開いた。そして自分が手を握っていた相手の顔を見、彼もまたシュライン同様驚愕する。
 起きている。
 自分がメトリーをしていた間に、何があったのかは分からない。けれども、彼は今確かに目を開いていた。
 だが、ふと翠は握っていた鶴来の手を離し、無言のままその顔から視線をそらせた。
 ……今しがた見てきた彼の記憶を思い出し、何だか酷く悪い事をしたような気になったのである。
 だがそんな翠の反応に気づく事もなく、鶴来はシュラインを見ようとわずかに体を起こそうとしたが、何かに気づいたような顔をして緩く頭を振り、かすかに苦笑した。
「すみません……」
「ねえっ、鶴来さん起きたわよ! 早く!」
 シュラインが、廊下に向かって誰かを呼んでいる。
 その間に、モーリスが少し眉を寄せて鶴来の手首を取った。脈を自らの手で確認してみる。
 ――まだ、遅い。
 完全には、解呪しきれなかったらしい。完全に呪を断つのを阻む何かがあるのだろうか。
 ……やはり、最終的には手紙に記されていた解呪の方法に頼るしかないのだろうか。
 そんなモーリスの思いに気づいたのか、鶴来がかすかに目を細めて苦笑する。
「すみません……」
「いえ、謝罪する事はない。貴方のせいではないのだから」
「…………」
 それに対しては何の言葉も返さず、鶴来はモーリスの隣にいた白鬼へと視線を移す。目が合った途端、やはりその青い瞳に違和感を覚えたが、今は何も言わず、白鬼はただいつものように顎鬚を撫でながら笑った。
「やれやれ。どうなる事かと思ったよ。身内から呪いをかけられたお姫様には口づけしないと目が覚めないのかなー、とかね。2度目のキスをしようかと考えてたところだよ」
 その部屋に居た全員が、その言葉に驚いたように白鬼を見た。
 2度目のキス?
 それはつまり、一度彼と鶴来がキスをしたことがある、ということか?
 ……周囲に生まれた何とも言えない微妙な沈黙を解くように、鶴来はわずかに目を見開いてから苦笑を零した。
「生憎……俺は、お姫様じゃ……」
「2度目のキス、だって?!」
 言いかけた鶴来の言葉を遮るようにドアの方から飛んできた鋭い声に、白鬼が振り返る。そこにいた人物をわずかに頭を上げて見、鶴来が瞬きをした。
「……ほむら、か?」
 部屋に入るなり聞こえた白鬼の言葉に激昂しかけていた焔は、けれどもその鶴来の言葉に、はたと目を瞬かせた。そして慌てて白鬼を押しのけてベッド脇に駆け寄り、その顔をよく見る。
「那王、那王っ?」
「……久しぶり。大きくなったんだな、焔……」
「当たり前だろうっ。お前が嘘ついていなくなったのはもう7年も前の話だぞ!」
「ああ……それじゃあもうランドセル、背負ってないのか……」
 ぼんやりと呟く鶴来の言葉に、焔ががっくりとその場に膝をつく。あまりにも間の抜けた台詞に全身から力が抜けたのだ。
「背負っているわけないだろそんなもの……」
 けれど、自分の名を忘れずに呼んでくれた。ただそれだけで、涙が出そうになった。慌てて目を擦り、立ち上がったところを背後からシュラインが、トンとその肩に手を乗せた。
「昔から不義理をする性質ではあったわけね。おはよう鶴来さん」
「……おはようございます……と言いたいところなんですが……」
 ふとその眼差しをわずかに揺らせて、鶴来はモーリスへと視線を戻した。そして翠、白鬼、焔、シュラインへと視線を動かして。
「……すみません、もう少し、眠らせてください……」
「術が解けたわけじゃないのか?」
 翠がモーリスに問う。モーリスは唇に親指を当てて小さく頷いた。
「多少力を弱める事はできましたが、何かがひっかかっているようで」
 あ、と思い出したようにシュラインが鶴来の腕を取り、軽く揺すった。
「鶴来さんっ、貴方が書き残していた呪詛を解くためのなぞなぞ、あれの答えって何なの?!」
 そうだ。起きたなら今本人に聞けばすむ話だ。
 が。
 鶴来はまた深い眠りに入ってしまったらしく、答えが返ることはなかった。


<コピー>

 再び眠りに落ちた鶴来を前に、全員が一様に深い溜息をついた。
 なんだか、酷く疲れた。肉体的に、ではなく、精神的に、だ。
 だがいち早くそんな状態から復帰したのはモーリスだった。もう一度鶴来の手首に触れて脈を取ってから、両方の手を、何かを包むような形にし、そこに視線を落とす。
 不思議そうに、白鬼がその手を覗き込む。
「何だい?」
「ああ、とりあえず今、前よりも少し呪詛の状況が軽くなっているので、このまま現状維持しようと思って」
「現状維持?」
「私の能力で、檻を生成し、彼をその檻の中におきます」
「檻?」
 胡乱げに聞き返したのは焔だった。何をするつもりかと目で問うている彼に、けれどもモーリスは口で言うよりも実際にやって見せた方が早いと思ったのか、無言でまたその視線を両手へと落とした。
 イメージするのは、透明な壁で形成された立方体。
 キィンと、硬質な音が周囲に響いた。それを察したシュラインが、痛そうに顔をしかめて耳元に手を当てる。
「何……この音っ」
 すさまじい耳鳴りにも似たその音。
 包んだ手の中に生み出された小さな透明立方体を見、モーリスがゆっくりと、その両手を開く。と、その立方体がするすると見る間に大きくなり、人一人を余裕で内包できるほどのサイズへと変化する。そしてその中に鶴来が眠っている場所――ベッドごと、納めてしまう。
「……結界のようなものか」
 呟いた翠に、モーリスが頷く。
「これでとりあえずは症状が悪化することはありません。外部からの干渉もほぼ防げます」
「そうか……じゃあとりあえず、後は綺くんがここに到着するのを待つだけかな」
 動きたくても動けない。
 それが多少歯がゆくはあるが、時には待つことも必要な事もある。
 羽織ったままだった濃茶のフルジップパーカーを脱ぎながら、白鬼が言う。
 けれどその言葉に反するように、モーリスが緩く首を傾げた。
「どなたか、彼の弟さんがどこにおられるかご存知ないですか」
 問われるが、呪詛をかけた張本人がどこにいるかなど、誰も知っているはずはない。
 ……はずだったが。
「ああ、それなら新宿中央公園の水の広場ナイアガラの滝辺りに居るわよ」
 あっさりとシュラインが返事した。驚いてその場に居た全員が彼女を見る。
「なんでそんなこと知ってるんだ」
「え? だって今、湖影(こかげ)くんが彼に会ってるもの」
 焔の鋭い口調による問いかけに、シュラインはわずかに眉を持ち上げて言った。
「まあ多分、この中で鶴来さんの弟を捕まえられるのは彼だけだしね。いろいろ仲良くしてるみたいだし、何とか彼を説得してみるつもりらしいけど」
「湖影さん……ですか。まあとりあえず、私も行って来ます」
「行って来ます、って……行った所で相手に余計な警戒させるだけじゃないか? 説得するっていうならその男に任せた方が利口だと思うが」
 翠の言い分ももっともだった。が、モーリスとて何も手立てを考えていなかったわけではない。
「こんなに自分の持つ能力をフル活用するのも久々というか……」
 呟き、そっと自らが生成した檻の中で眠る鶴来の手に触れる。
 すると、徐々に淡く彼の体が光を帯び始めた。柔らかいその光。
 室内にいた全員が、目を見開いた。
 自らの目の前で起きていることが、信じられなかった。
 金色だったモーリスの髪が、毛先から黒く染まっていく。そして体つきもわずかに変化し――…。
 やがて彼を包んでいた光が消えた時。
 そこに立っていたのは、モーリスではなく、今檻の中で眠っているはずの鶴来、その人だった。するりと、襟足で結んでいた髪を解く。
 何が起きたのか、即座に理解したのは焔だった。
 鶴来那王の姿を、モーリスはそっくりそのままコピーしたのである。
 寒気がした。
 本人ではない者が、本人の姿をしてその場に立ってこちらを見ている、ということに。
 頭では、おそらくはこれで弟を少しくらいは油断させたり動揺させたりできるかもしれないと思った。だが、理性とは別の所で……感情が、その姿を拒絶する。
 どうしても、許せなかった。
(それは、那王の姿だ……!)
 誰かが勝手に使っていいものではない!
「お前……っ!」
 感情が爆発するのに任せて腕を伸ばし、モーリスの胸倉を掴み上げようとして――その手を、横から白鬼に掴まれた。
「落ち着きなよ。内輪もめしてる場合でもないだろう?」
「はいはい、焔くんはこっちこっち」
 その白鬼が掴んだ手を今度はシュラインが捕まえ、腕を絡めるようにしてズルズルとモーリスから焔を遠ざけた。やれやれと肩を竦めるのは翠。
「じゃあ、とりあえず俺たちはここで那王に干渉してくるヤツがいないかどうか見張ってるから」
「ではこちらは任せます」
 声すらもが、鶴来とまったく同じだった。
 自分も鶴来と同じ声を発した事はあるのだが、姿形まですっかり写し切ってしまったモーリスのその姿に、シュラインは苦笑する。
「気をつけてね」
 とりあえずそう声をかけるに留まる。その隣に居た焔は、今にも飛び掛りそうな眼差しでモーリスを見ていたが、チッと鋭く舌打ちするとそのまま顔を背ける。そうする事で彼の姿から目をそらせるように。
 静かにドアの向こうへと消えたモーリスの――鶴来の背中を見送ると、残された者たちは思わずベッドの方へと視線を向けた。
 先程と変わらず、鶴来は静かな眠りの内にいる。


<警戒・B>

 周囲には、冬枯れの木が幾つも植わっている。
 寒々しい肌を晒すその枝は、けれども賢明に冬の弱い光を浴びようとしているかのように、天に向かって腕を伸ばしている。
 それを優しい眼差しで見、モーリスは目的の場所へ向けて歩を進めていた。
 新宿公園内、ナイアガラの滝。
 ……まったく、ご大層な名前である。
 そんなご大層な名前を付けるなんて一体どんなものかと思うが、どうせ実物はそれほど大した物ではないのだろうと、モーリスは想像していた。既存の物と同じ名をつけるなど、センスがない証拠だ。
 もっともここにはナイアガラの滝以外に、もう一つ「白糸の滝」という物もあるが……まあ今はそんなものを見物しに来たわけではない。
 とりあえず、ナイアガラの滝に向かい、モーリスは冷たい空気の中、鶴来の姿で歩いていく。
 徐々に近づいてくる、滝の音。
 その滝の前には広場があり、子供たちが楽しげな笑い声を発している。寒い中でも元気にはしゃぎまわっているその姿は、微笑ましいものがある。
 そんな光景の中。
 滝に程近い場所に、立って何かを話している二人の青年が居た。
 一人は、黒いコートを身に纏った、すらりと背の高い黒髪の青年。
 もう一人は、黒いハーフコートを纏い、黒いキャスケットを被った青年。その容貌は、先程病院で見た鶴来の容貌にどことなく似通っていた。
 おそらくはあれが、彼の弟だろう。そしてもう一人の長身の青年が、シュラインが言っていた湖影虎之助(こかげ・とらのすけ)だろう。
 ……説得は上手くいったのだろうか?
 まあ、上手くいっていなかったら自分が重ねて説得すればいい。
 ……そして自分の説得にも応じなければ。
「処分させていただくだけですが」
 呟くモーリスの表情には、冷めた色が漂っている。
 とりあえず、解呪に応じないのならばこちらの能力を使って二度と呪詛などを放てないような状態にしてみよう。
 もし戦闘になるのなら、それはそれで構わない。
 さすがに、命までは取ろうとは思わないが。
 ふと口許に笑みを浮かべ。
「一応、私も医者ですからね。生き物は大切にしないと」
 呟くその言葉は、どこか空々しさを含んでいた。
 本心なのかどうなのかは――モーリスのみぞ、知る、というところだろう。
 冷たい風が、鶴来の姿を写している彼の黒い髪を揺らせた。
 

 ふっと。
 何かを感じたように、ルシフェルがその双眸を動かした。そして、ひどく機嫌悪そうに目を眇める。
 どうしたのか。
 思い、虎之助も携帯から視線を外してルシフェルの視線を追う。
 そして。
 目を見開いた。
「な……っ?!」
 石階段の上から、ゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる人物が、一人。
 さらりと、長めの黒髪が冷たい風に揺れた。
 端正な足取りで二人に歩み寄って来、わずかに微笑んだのは、今、呪詛を解く解かないという話をしていたその対象――鶴来那王、その人だった。
「な、んで……呪詛、もう解けたのか?!」
 驚愕に目を見開いたままの虎之助の前に、何かから彼を庇うようにすっと手を出し、ルシフェルが顎を少し引いて鶴来を見、わずかに唇を歪めた。
 そこにあるのは、強い嫌悪感。
「……勝手に赤の他人に兄の姿を盗むような真似をされるのは、見ていてあまりいい気分ではないな」
「なんだって?」
 紡がれた言葉に、虎之助が怪訝な顔で鶴来を見た。
 どこからどう見ても、間違いなく鶴来那王である。
 しかし、姿を盗む?
 冷静なままのルシフェルと、理解不能とでも言うように頭を振る虎之助を前に、鶴来がかすかに笑った。そして口許に手を当て、緩く首を傾げる。
 と、その体が淡い光を帯びた。黒かった髪が、毛先から金色へと変色していく。顔の部分は真っ白な光に包まれていてどうなっているのかよく見えないが、やがて光が消えると、そこには鶴来とはまったく別の人間が立っていた。
 金色の髪に緑色の瞳を持つ、秀麗な容貌の青年だった。
「これは失礼。少しは意表をつけるかと思ったんですが」
 悪びれもせずに言う青年――モーリスに、ルシフェルは嫌悪感を抱いたままでフンと軽く鼻を鳴らす。
「悪いが、今の那王の周辺の動きは全て分かっているんでな」
 言われて、モーリスはそれ以上追求せず、ただ「ああ」と目を伏せて笑った。
「便利な力を持っているようだ」
 なら話は早い。
 単刀直入に、モーリスは言った。
「呪詛を解いてもらえないだろうか」
 遠回しに言う必要はない。おそらくは、自分が病院に居た時から、この者には全て、自分の動きが見られていたはず。
 ならば自分が呪詛を解く為に動いていると言うことも、すべてお見通しだろう。
 紡がれた言葉に、ルシフェルが冷笑を浮かべて、肩越しに虎之助を見た。そして軽く顎をしゃくる。
「同じ事を言うんだな、この男と」
 ちらと、モーリスの目が虎之助へ移る。
 そのルシフェルの言葉で、彼が、シュラインが言っていた「弟に説得を試みている湖影虎之助」だと知れた。
 おそらくは「どうなんだ」と問いたがっているであろうその自分に向けられた視線に答えるように、虎之助は後ろからルシフェルの頭の上に手を置いた。
「コイツは首に縄つけてでも鶴来氏のとこに連れて行くから心配ない」
 どうやら、すでに話はついていたようである。
 だがここまで来た事を無駄足だとは思わず、モーリスは微笑んだ。
「首に縄、ね。随分と素敵な趣味をお持ちのようで」
「は? ……いや、そうじゃなくて。それはただの言葉のアヤってもんで」
 顔の前で手を振りながら虎之助は眉を顰めた。が、そのモーリスの言葉に便乗するようにルシフェルが小さく笑った。嫌な予感を覚える虎之助。
「縄よりは首輪だろう。それも俺につけるんじゃなくて虎ちゃんにつける方が似合うと思うが。俺のペットなんだから」
「って、お前もバカなこと言うな。ああコイツ、バカだから言ってること真剣に聞かないでくれ頼むから」
 ベシリとルシフェルの頭を軽く叩いておいてガクッと肩を落としす虎之助の様に、モーリスがくすくすと笑う。
 なんか、変な誤解とかされていないだろうか。
 虎之助は頭痛がしそうな額を押さえた。
 ……一体なんなんだこの二人は……。
 そんな虎之助の心労も気にせず、叩かれたことで歪んだ帽子を治しながら、ふとルシフェルが振り返った。
「おい虎ちゃん」
「何だ」
 額に置いた手の下から見るルシフェルの顔は――さっきまでとは違った真剣な色を帯びていた。
「那王を鶴来の家に追いやって七星の当主になれないようにしたのは、真王を当主につけたがっていた者たちだ。解呪を行えば、そいつらにとってはまた目障りな存在が覚醒する事になる。……としたら」
 わずかに言葉を切ってから。
「那王の覚醒を邪魔しようとする者もいるかもしれん。一体誰が緋降を那王の元に持ってくるんだ? 緋降は今、京都にある那王の実家に置いてあるんじゃないか?」
 はっと、ルシフェルを間に挟み、虎之助とモーリスが顔を見合わせた。
 その二人に、ルシフェルがさらに、言った。
「緋降を運んでくる奴の身は、安全なのか?」


<窮屈な…>

 その後、二人はすぐさま鶴来が入院している病院へ向かった。
 虎之助はシュラインの携帯電話の番号を知っていたのだが、病院内と言うことで、どうもシュラインが電源を切ってしまっているようで……いくらかけても向こうに繋がる事はなかった。
 こんなに、携帯が繋がらない事をもどかしく思った事はない。
 それもこれも、人の命がかかっているからだろう。
 病院に電話をかけてもよかったが、調べるよりも、直接さっさと向こうに向かった方が早いと判断したのだ。
 ……ルシフェルの式神を使って、向こうに居るであろう、霊的な能力を持つ者に知らせる、などという事は、すっぽりと意識から抜け落ちていたのだが。
 ルシフェル自身がそれを申し出なかったのも、そんな事の為に式神を使う気にはなれない、ということだったのだろう。
「携帯電話なんて、便利なようで不便なものだ」
 病院へ向かうタクシーの中で、モーリスが呟いた。そして解いたままだった髪を結わえなおす。
 その持ち上げられた肘が頬を掠め、虎之助が目を眇める。が、何も言わずに逆方向へと顔を向けた。
 そこには、じっと窓の外を見つめているルシフェルがいる。
(というか、なんで男と男の間に挟まれてタクシーなんぞに……)
 急いでいるとはいえ、この状況は虎之助的には非常に嬉しくなかった。
 もう、頼むから速攻で病院についてくれと願う虎之助だった。
 無論それは自分の為だけではなく、緋降を運ぶ人物と、そして鶴来のためでもあったが。


<桜、散る>

 廊下の方で、バタバタと激しい足音がした。
 救患か何かだろうかと思った鶴来の病室に詰めていた者たちは、勢いよく開かれたドアの向こうに立っていたモーリスと虎之助に目を瞬かせた。
「……どうしたの一体」
「誰が緋降を持ってくるんだ?!」
 問いかけたシュラインに、虎之助が足音高く室内に入り、前置きもせず怒鳴るように言った。その虎之助の肩にそっと手を乗せて落ち着かせるように促すと、モーリスが代わってシュラインに問う。
「緋降という刀をこちらに持ってくるのは、あの手紙を出してきた綺さんですね。今、綺さんはどちらに?」
「どちらって……多分、新幹線に乗ってるんじゃないの? 持ってきてってお願いしたっきり、連絡取ってないからわからないけど」
「では、誰も綺さんに付き添っていないんですね?」
「付き添うって……」
 二人が何を言っているのかいまいち理解できず、シュラインは眉を寄せた。
「綺くんがどうかしたの?」
 そう、シュラインが改めて聞いた時。
「あ……桜が!」
 翠が立ち上がって不意に声を上げた。全員の視線が、鶴来が眠っているベッドの傍にあるサイドボード上へと向けられた。
 そこには、シュラインが持ってきた桜が、一輪挿しに活けてあったのだが。
 その桜の白い花弁が、はらはらと、落ちはじめていた。
 驚いてシュラインが駆け寄り、手を花にかざす。
「どうして……綺くん、枯れない桜だって言ってたのに」
 シュラインが大切に思う限り、決して枯れる事はない、と。
 何故か、途端に嫌な予感が胸の中に沸き立ってくる。
 はっと、虎之助とモーリスを見た。
「綺くんに何か起きるっていうの?!」
 と、その時。
 かたん、と。
 ドアの方で音がした。
 反応したのは、白鬼だった。反射的に椅子を立ち、音に引かれるようにドアへと歩み寄る。
 虎之助たちが来た時に開かれたままになったドアからひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。
 すると、その目の前に、はらりと一片、白い花弁が舞い降りた。
 思わず手を出し、それを掌に受ける。
 桜の花弁だった。
 それを見て、一瞬、綺が来たのかと思った。
 ……が、そうではなく。
 もう一片舞い降りた花弁に引かれるように、視線を斜め下に落とし――白鬼はその細い双眸を、見開いた。
「これは」
 白い壁にもたれかかるように立っているのは、黒い鞘に収められた一振りの刀だった。その刀を護るように、周囲には桜の花弁がゆるゆると渦を巻いている。
 白鬼の声に反応したように、他の者たちも廊下へ出、そこにある刀を見、一様に動きを止めた。
 刀は、ある。
 けれども、それを運んできたはずの綺の姿が、そこにはなかった。
「綺くん?!」
 病院内だということも忘れ、シュラインが声を高くしてその名を呼ぶ。けれど、返る声はない。
 焔が、横から翠の肩を叩いた。
「刀に残された記憶、読んでみたらどうだ?」
「……そうだな」
 触れていいものかどうかと悩んだが、きっと、この桜の花弁が綺に関係しているものなら自分を敵だとは見なさないだろう。
 思い、翠は片膝をリノリウムの上に落として左手を伸ばし、黒い柄に触れた。
「……っ」
 途端、かすかな耳鳴りと共に流れ込んでくる記憶。
 ――おそらくそこは、鶴来の自室。その部屋の片隅に、ひっそりと置かれているのは、今ここにあるこの刀だった。
 それに手を伸ばす、高校生くらいの少年の姿が見えた。おそらくそれが、綺なのだろう。
 が。
 彼の手が、刀に触れるその直前。
 ふらりと、その体が傾いだ。肩で荒々しく息をつきながら、胸元を押さえている。
 持病か、と思ったが、そうではない。
 これは……流れ込んでくる綺の意識の欠片から拾い出せた言葉は。
 ――呪詛、か。
 苦痛に顔を歪めながらも、綺はその場に膝をついただけで、倒れこみはしなかった。自分を強靭な精神で律し、掌を刀にかざす。
 ――お願いだ、俺を守りし桜の神子たち……俺はいいから、この刀を、どうか、あの人の元へ……!
 祈るような強さで紡がれる言葉。それに応じるように、どこからともなく桜の花弁が現れ、刀を包み込んだ。まるで桜の花弁による繭のように。
 だが次の瞬間、パァンとその繭が弾けた。桜の花弁が散る。
 散った先。
 もうそこには、刀は無かった。
 そして、崩れ落ちる綺の体……。
「……っ」
 意識が、現実に戻った。目に映るのは、さっきまで時間の狭間で見ていたのと同じ、刀。
「何が見えたかな?」
 問うモーリスに、翠は力なく項垂れて頭を振った。
「……綺……刀をこちらへ運ぼうとした時に、誰かに呪詛をかけられたようだ。桜の精霊に命じてここに空間転移して運ばせたようだが、綺自身は……おそらくは、もう……」
「嘘……!」
 口許を両手で覆い、シュラインが短く悲鳴を上げた。
 桜が散ったのは、シュラインの気持ちが変わったからではない。
 綺が、いなくなってしまったからだったのだ。
 そうだ。綺は、言っていたじゃないか。
『何があっても必ず、緋降だけはそちらへ届けます』と。
 また自分は、鶴来が呪詛に倒れた時と同じく、言葉の奥底に潜むあまりにも強すぎる決意を見逃してしまったというのか……!
 どうしていいのか分からず頭を振り、シュラインはその場に膝から崩れ落ちた。が、それを横合いから白鬼が腕を取って支えた。
 大丈夫か、とは……言えなかった。大丈夫なはずがないからだ。
 と、その廊下の前方に、黒い影が現れた。騒ぎを聞きつけた看護士かと思ったが、そうではない。
 黒いハーフコートを着た、青年だった。黒いキャスケットの下の冷めた黒い瞳を、じっとその場に居る者たちに向けたままゆっくりと歩み寄ってくる。
 それは七星真王(ななほし・まお)――鶴来那王の、弟だった。
 それを見た途端、シュラインが駆け出した。そして真王の胸倉を掴んだ。
「アンタが綺くんに呪詛を放ったの?! 鶴来さんだけじゃ足りなくて、綺くんまで手をかけたっていうの?!」
 全身に渦巻く怒りをぶつけるかのように声を上げた。が、真王――正しくは、真王の裏人格・ルシフェルはその手を振り払いもせずじっと冷めた目でシュラインを見ていた。思わずシュラインがその拳を振り上げた時。
 その手を、横からそっと掴んだ者がいた。
 虎之助だった。
「違う、こいつじゃない。こいつがやったんじゃない」
「そんなこと分からないでしょっ! 湖影くんだって見たじゃないの、彼が自分のお兄さんに呪詛を放ったところを! 自分の兄を呪えるんなら、まったくの他人である綺くんを殺すことくらい……っ」
「違う! ……こいつが言ったんだ。ここに刀を持ってくる人物の身が危ないって。だから俺たちは慌ててここに来たんだ。こいつが呪詛を放つなら、そんなこと言うわけないでしょ?」
 激昂するシュラインをなだめるように言い、虎之助は優しく、シュラインの手をルシフェルの胸元から外した。ふらりと後ろに数歩よろめいたシュラインのその体を抱きとめ、モーリスが自然に、その触れたところから全てを調和へと導く力を注ぎ込む。
 昂ぶった心を、通常の精神状態へと戻すために。
 その横で、焔は目を見開いてじっと真王を見ていた。記憶にあるのとは随分と印象の違う、幼馴染の姿を。
 けれどその幼馴染はというと焔の事にはまったく意識を向けてはいなかった。傍らに立つ虎之助をちらと見、翠の手元にある刀へと視線を向ける。
「これで解呪の鍵は手に入った。よかったな。お前たちの望みがこれで叶えられるわけだ」
「ルシフェル」
 低く発せられる、諌めるような虎之助の声。モーリスの力で冷静さを取り戻したシュラインが、憎しみすらこもる目でルシフェルを見た。
 翠が、短く溜息をついてルシフェルを見やる。
「人の命が一つ無くなったとわかっていてわざと言っているのなら大した性格の悪さだ」
「お褒めいただき恐悦至極だ」
 ニヤ、と笑って紡がれたその言葉。が、それを手で制して、白鬼が問いかけた。
「それで。誰が綺くんに呪詛を放ったのか。君は分かっているんだろう?」
 その言葉に、ルシフェルは唇を歪めて視線を鶴来の病室のドアの方へと向けた。
「……七星の者だ」
「七星のって……真王、お前が当主なのにか?」
 焔が訝しげに問う。それにちらと視線を向けるルシフェルだが、そこには幼馴染に再会したという懐かしさなどという類いの表情は一切存在せず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「主の留守に勝手な真似をした者がいる。それだけのことだ」
「仮にも主と名乗るのなら、部下の不祥事くらいは面倒見てもらいたいね」
 冷めた口調で告げるモーリスに、かすかに唇の端をつり上げて笑ってみせる。
「残念ながら俺は神ではないからな。命を返せと言われても無理だ。が」
 ちらりともう一度、傍らに立つ虎之助を見る。それに、虎之助が眉を寄せた。
「なんだ?」
「……最後まで付き合えよ?」
「…………」
 何か、決意を固めたらしいルシフェルに、かすかに笑い、ポンとその頭に手を乗せた。
「分かってる」
 二人が何のことを言っているのかは分からなかったが、次にルシフェルから告げられた言葉に、虎之助を除く全員が、目を瞠った。
「明日、那王の呪詛を解く。緋降は虎に預けておけ。こいつには七星の呪詛は効かないから、他の奴が持っているよりは安全だ」
 それに、白鬼は首を傾げた。
「ちょっと待て。明日呪詛を解くって、今君が術を解くわけには行かないのかい?」
 踵を返しかけていたルシフェルが、足を止めて肩越しに振り返る。
「確実を期したいのなら、明日を待つことだ。呪詛をかけたはいいが、実際のところ、俺にもその解呪は難儀なんでな。組み合わせた呪が複数に渡るから、一つずつ術で鍵を開けていったら、結局は明日の夜までかかる」
 それに、と言葉を次いで、その目をシュラインに向けた。その顔には、冷笑が浮かんでいる。
「今この状況で那王が目覚めても、少しも嬉しくないだろう? 明日までに気持ちの整理くらいはつけておけ。……自分の為に綺とかいう者の命が犠牲になったと知る那王を、慰めてやれるくらいにはな」
 それだけを呟き、彼はその場を後にする。
 ルシフェルがいるというただそれだけで妙に張り詰めていた空気が、その存在をなくした事でほどけた。
 緋降は手に入ったのに――何とも言えない空虚さが、その場には満ちていた。


<目覚めの時>

 空気が、冴えていた。
 猫の爪のような細い月が、虚空には浮いている。
 ――12月24日。午後9時。
 月齢、1.094。
 ……緋降が届いてから、既に一夜明けている。
 病室の窓を開け放ち、凍えた空気を室内に取り込みながら、翠が振り返る。
 その視線の先には、鶴来のベッド脇でその顔をじっと見つめているシュラインがいた。目許が赤く染まっているのは、綺の死を悼み、泣き明かしたためかもしれないとちらりと思った。
 焔もまた、鶴来のベッド脇に立っていた。その傍には、通常の人間には見えないが、寄り添うように彼の式・犬神の伏姫が座っている。
 確かに、綺が亡くなった事は引っ掛かる。だが、それよりも自分には、もうすぐ彼が目覚めるということの方が大事だった。
 眠る顔を見、焔は自分の胸にそっと手を当てた。
 ……那王……。
 胸の内で、呟く。
(俺は、ずっとお前を探していたんだ。……帰って来い。帰ろう。こちらの世界へ。俺たちがいる世界へ)
 何があっても、もう、何者にもお前を傷つけさせはしない。
(神すらも敵に回してもいい。俺が、お前を守ってやるから)
 それは、誓い。
 誰に告げる言葉でもない。自分自身への、自戒にも似た誓いだ。
 真紅の瞳でじっと鶴来の顔を見つめている焔の、その横で白鬼もまた、自らの思考の内に居た。
 彼は、綺が亡くなったことを知れば――壊れてしまうかもしれない。そんなことを、思う。
 ただでさえ危うかった精神のバランス。誰かを守らなければいけないという思いがあれば、まだそのバランスを保つ事もできただろう。
 けれど、今はその対象が、自分が倒れている間に命を落としてしまった。
 ……耐えられるのだろうか、彼に。
 もしかしたら、このままずっと、何も知らないままに眠らせておいたほうがいいのかもしれない。
 ふと、そんな事を思い――ゆっくりと目を伏せて緩く頭を振る。
 いいや。
 それは、自分が彼にしてやれる事とは違う。
 自分は、彼の道を照らすためにここにいるのだ。
 そう、彼に約束したのだ。
 きっと今こそ、彼の手を引いてやらなければならない時なのだ。一人でその痛みを抱えさせはしない。同じ痛みも、分け合えばきっと、少しは楽になるだろうから。
 大きく一つ溜息をついた白鬼のその様をチラリと見てから、窓辺に立っていたモーリスが腕に嵌めた時計へと視線を落とした。
 そろそろ、か。
 思った所、コンコン、とノックの音が響いた。誰も返事をしなかったが、静かに、ドアが開く。
「悪い、少し遅れたかな」
 入ってきたのは、腕に毛布を抱いた虎之助だった。毛布は細長く、何かを包み込んでいるようだった。
 包まれているのは、言わずと知れた、緋降である。
 その虎之助の後ろから、黒い影が現れる。
 黒い式服を纏ったルシフェルだった。それを見て、シュラインと白鬼は、彼が一度綺に会った事があることを思い出した。
 自分達が綺に会うきっかけになった事件の手引きをしたのが、彼だった。
 彼に巻き込まれなければ、綺は今頃、まだ生きていたのだろうか?
 思うが……口には出さず、シュラインはふっと吐息を漏らした。そして椅子から立ち上がる。
 今は感傷に浸っている場合じゃない。もしかしたら、解呪の隙をついて、綺を狙った者からの呪詛がこないとも限らないのだ。妙な外部からの干渉が無いかどうか、細心の注意を払わなければならない。
 そしてその旨は、他の面々にも伝えてあった。
 モーリスが、鶴来の周囲に作ってあった『檻』を解除する。両腕を開いて、檻の表面が腕の中へと収縮する様を思い描く。
 するすると、徐々に小さくなっていき――最後には爪の先ほどの大きさになり、やがてぱちんと弾けて消えた。
「これで干渉できるようになったので」
 言って、ルシフェルを振り返る。それに小さく頷くと、ルシフェルは虎之助を見た。
「虎ちゃん、緋降を」
「ん、ああ」
 毛布を解き、中から黒い鞘と柄を持つ刀を取り出し、ルシフェルの手へ渡す。それを受け取り、窓辺に歩み寄りながらすらりと鞘から抜き放つと、その鞘を虎之助ではなく、窓の近くに居た翠に手渡した。
「さて。上手く呪を切れるといいがな」
 呟いて、ルシフェルはその真紅の刃を窓の外に見える月へと掲げた。そしてふと肩越しに室内を振り返る。
「……誰か、代わりにやるか?」
 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。
「冗談なら後でいいからさっさとやれ」
 焔が苛立たしげな声を出す。モーリスも肩を竦める。
「4ヶ月間眠っていた人が健康に目覚める様をぜひとも見たいから早くしてもらいたいね」
「……美味しい所だけ持って行くような気がして悪いと思ったんだがな」
 かすかに笑うと、再びルシフェルは月へと顔を向ける。
 そして。
 笑みを消して深く一つ呼吸すると、朗々とした声を発した。
「吾は是れ、天帝の執持しむる処の禁刀なり。凡常の刀に非ず。千妖も万邪も皆悉く済除す」
 続いて、天にかざしていた刀を、九字を切るように四縦五横に振るう。
「天は我が父たり、地は我が母たり。六合の中に、南斗と北斗、三台と玉女在り。左に青龍、右に白虎、前に朱雀、後に玄武在り。前後扶翼す。急々如律令」

 ――……。

 室内を、静寂が支配した。
 誰も、動く者はなく。動く物も、なく。

 ……酷く時間が長く感じられた。
 ふ、と。
 鶴来のその、閉ざされていた瞳が、開くまで。


<終――日常へ>

 さく、と。
 土にスコップの先端を埋めて、ゆっくりと斜めに持ち上げる。するとそこに植わっていた花がスコップの動きにあわせて少し斜めに傾いた。それをゆっくりと、手で支えながら掘り起こす。
 根を傷つけないように。
 丁寧に、壊れ物を扱うような手つきでその花を鉢に移す。
 そしてふっと、モーリスは吐息を漏らした。
 ずっと気にかかっていた、庭の片隅に生えた謎の植物を、ようやくその場から移動させることができた瞬間である。掘り起こした場所に、周りから土を移動させて平らに生めて、今しがた植え替えがすんだばかりの鉢植えを片手に立ち上がる。
 害はないとはいえ、やはり、気になる物は気になるのである。
 これでようやく、胸のつかえが取れたような気がした。
「さて。お茶にでもするかな」
 光が当たるごとに七色に色を変化させる小さく可憐な花。まずはこれに水をやって、それから主の所へ紅茶を運び……などと考えていた時。
 屋敷のメイドが「お客様がいらしていますが」と呼びに来た。

 誰かと思ったら、昨夜、呪詛から解き放たれて覚醒した鶴来だった。黒いスーツを纏ったその姿は、患者衣を着ていた時とは微妙に印象が違っていた。
「いきなりお邪魔してすみません」
 穏やかに微笑むその顔。けれども、その目許がわずかにはれぼったく見えるのは……気のせいでもなんでもない。
 昨夜。
 覚醒した鶴来は、綺が亡くなったことを知らされるや否や、気が狂れたのではないかと思うほどに、泣いて取り乱したのだから。
 おそらくはその加減だろう。
 とりあえず、立ち話もなんなので中へ、と声をかけると、鶴来は緩く頭を振ってそれを辞退した。
「いえ……お話だけしたらすぐに帰りますので」
「話?」
 顎に手を沿え、モーリスは緩く首を傾げた。さらと結んだ金色の髪が揺れる。
「何かな」
「貴方の力……俺を一時的に目覚めさせた、あの力」
 ハルモニアマイスターの事だろうか。
 それがどうかしたのかと問うと、鶴来は少しだけ躊躇するように視線を外してから、またモーリスの方へと目を向けて。
「例えば……死んだ者の体があれば、そこに命を戻す事も可能ですか」
 その言葉だけで、彼が言いたいことが分かった。
 綺のことだろう。
 真剣な眼差しで問うその様に、ふと、モーリスは笑みを零す。
 そして、笑いを含んだ声で素っ気無く言った。
「さあ、どうかな」
「……無理、ですか」
「さあ?」
 はぐらかされる事に、けれども鶴来は苛立ちを覚える事もなくふっと吐息を漏らし、そうですか、と呟くように言った。そして軽く頭を下げる。
「突然お邪魔してすみませんでした。この度はお世話になり、有難うございました。それでは失礼します」
 意外とあっさり引き下がったなと思いつつ、モーリスは去り行く鶴来の背中を暫し、腕を組んでドアに肩甲骨を預けながら眺めていた。またどこか頼りない足取りで歩いていく、その様。
 自分の体とて、まだ完璧ではないのだろう。医師であるためそれくらいはすぐに見て取れる。
 なのに、自分の事よりも亡くなった綺の事を気にかけるなんて。
「何を考えているのやら」
 ただでさえ、普通の人間などほんのわずかな時間しか生きていられない存在だというのに。自らその短い命を削ってまで他人の為に何かをしてやる必要があるのだろうか。
 と、その脳裏に、主が呼ぶ声が響いた。それに反応するようにドアから身を起こしながら、モーリスは踵を返し。
 ふと、思った。
 ――腫れてた目許、治してやればよかったかな。
 けれどもそんな事はすぐさま記憶の彼方へ消え行き。
 モーリスは、自分を呼ぶ主の元へと転移した。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0065/抜剣・白鬼 (ぬぼこ・びゃっき)/男/30/僧侶(退魔僧)】
【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0523/花房・翠 (はなぶさ・すい)/男/20/フリージャーナリスト】
【0689/湖影・虎之助 (こかげ・とらのすけ)/男/21/大学生(副業にモデル)】
【0856/綾辻・焔 (あやつじ・ほむら)/男/17/学生】
【2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男/527/ガードナー・医師・調和者】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、はじめまして。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 モーリス・ラジアルさん。初めてのご参加、どうもありがとうございます。
 能力、全フル活用だったんですが…全部、こちらで勝手にイメージする能力発動描写になってしまいまして…(汗)。
 もしイメージと違っていたなら申し訳ありません。
 優しげだけども性格はちょっと冷たい部分があったりとか…そういう雰囲気を出せていたらよいのですが…。

 今回、個別部分がけっこう多かったりしますので、あっちやこっちを読み進めていただけば、きっと、NPCについていろいろなことが分かると思います。

 PC同士の関係についてですが、テラコン、もしくは過去の逢咲の依頼を土台に置いています。他ライターさんの依頼内での関係は、テラコンに反映されていないと基本的には採用していません。
 その旨ご了承ください。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。