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<東京怪談ノベル(シングル)>



 
 鉛筆の芯がスケッチブックの紙上を滑る音が、静かな室内に続いている。その他の音と言えば、古びた石油ストーブの上に置かれた薬缶の中で水が沸かされる、しゅんしゅんと言う音だけだ。
 閑静な住宅街の、更に奥まった場所。そこに片瀬海の家はある。
 一人で暮らすこの家は借家だ。訳あって格安で借りている。
 その家の居間で、海は胡座をかいてスケッチをしていた。
 白い紙に鉛筆の線によって咲き初めるのは菫。現在の季節は冬だ。まだ今年は雪を迎えてはいないが、朝ともなれば前の晩に降った雨の名残である水溜まりが凍る程には寒い。
 春の花である菫が野に咲いている訳はなく、よって海が今描く菫は記憶に咲く花だ。
 だが、海ははっきりと覚えている。鮮やかな紫色の花弁。小さくも野生の生命を抱く花。
 暖かな季節に群生すれば野を青く染める…花の記憶を鉛筆が再現してゆく。描線に色はないが、だが描かれた花はリアルに…見る者に色を喚起させる程。
 一心に描きながら、何枚もの菫の野を捲りながら、海の脳裏に蘇ったものがあった。
 少し前に、草間興信所に舞い込んだ依頼をたまたま訪れていた海は請け負った。一人の少女が起こした行動が引金となって起きた事件は、二人の人間と、それに関わった人々の心を引き裂き命を奪った。
 そして引金となった少女は、己の行いが故に死し、苦しみ続ける友人を目の前にしても、己が為した結果を悔いる事なく、奪った命に心を痛める事すらなかった。平然と、自分は悪くないのだと。
「…命を刈り取る事を躊躇わない者に」
 この花の美しさが判るだろうか――
 無言でいた海の唇が小さく言葉を生んだ。この花、とはスケッチブックに咲き乱れる無色の花ではない。本当の、野を彩る菫。花と言う名の生命達。
 生きる事を、意識するでなく咲く花。ただただ生を濁す事なくまっとうする花。
 その純粋さが、美しさが、判るか…?
 浮かんでいた少女の顔が薄れて、代わりに現れた冷酷な顔に、海は問うた。答えが返らぬを知っていても。問うてみたかったのだ。現れたのは海の父だ。厳格で、己の意志を消して曲げることをせぬ。意に添わぬ人間は容赦無く切って捨てる。その父がある時自分に命じた。海の大切な人間を殺せと、そう。
 海は片瀬家の次期長を嘱望されている。一族の中で異論を唱える者が全くない、それ程に。
 ゆえに、次期長たるべき自分に課すと、父は言うのだ。
『久坂よう』を殺せ、と。
 彼が身の内に棲まわせた凶悪なる『呪』が発現する前に、始末せよ、と。
 出来るわけがない。自分がどれだけ彼を大切にしているのか、どれだけ思うのか。そんなものは自分が一番知っている。命じられたからと、殺せるわけがない。
 下した者が誰あろう実の父親だとしても。
「…俺には出来ない」
 思考に沈めども手を止める事は無かった、海の手許に力が込められる。
「…そして、させない」
 ――殺させは、しない。
 念じる強さで思うのに応えたかのように、鉛筆の芯が小さい音を立てて折れた。
「…俺にも…誰、にも」
 小さくも声に意志を乗せて、海は身の傍らに置いてあったナイフとスーパーのチラシを取り上げた。二つ折りのナイフの、しまわれていた刃を引きだした。ゆっくりと、鉛筆に充てて削り始める。
 一回一回、丁寧に削っていく。徐々に芯が鋭利になっていく。
 海の視線は尖って行く先端に注がれていた。
 己の心を研いで行くかのようだと、思った。
 心の内に抱いた刃が研ぎ澄まされて行くのを思う。これは人を傷つける事が出来る… 
 だが海は、人を傷つけるのは嫌いだ。それが例え他人でも。身内なら尚更。
 だが、彼を守るには、誰かを傷つけなければならないのは確実だ。殺す為に近付く者を退けるのに、無傷で済ませるのは至難だろう…「その時」が来たとしたら?
 海は削り終わった鉛筆の先を再びスケッチブックへと乗せた。
 そのまま無造作に花を描く。
 先ほどより幾分乱暴な手が、花を咲き誇らせる。
 海の目には紫に燃える花弁が見える。だがそれは本来の菫の花弁ではない。海の中の感情が開かせた花だ。
 海は唐突に手を止めた。
 鉛筆を握り込み、スケッチブックの表面を払った。その、刹那。

 ざっ
 
 音を立てて、花弁が散る。色の無い描線が、瞬時に青く燃え上がった。
 海の眼前を一色に占め、だがすぐに無へと消え行く。
 見下ろしたスケッチブックには、白さだけが残る。紫色の花弁も、鉛筆の描線も、無い。
 海は、何も残されなかった白い紙面を見つめて、ぽつりと呟く。
「いつか俺は…選択するだろうか」
 必要になった時に―彼を守る為に―他者の命を摘む、事を。
 海は唇を噛み締めて、スケッチブックを閉じた。
 閉じたスケッチブックを胡座をかいた足の上に置きそれに両手を、抑えつけるように重ねた。
 ふ、と溜息が落ちて、白く染まった。古い家は隙間風を呼ぶようで、屋内の温度は外気に近い。
 鉛筆を動かして、花を描いていた時には感じなかった寒さが、急に身体の内に入り込む。
 しんと静まる室内、ひやとした寒気。
 海は瞳を閉じた。
 菫を思い描くのと同じように、一人の少年の面を脳裏に描いた。
 柔らかな茶の髪、整って小さな顔。
 緑色の瞳は光を孕んで柔かに輝く。
 体内の奥深く秘めた凶たる呪いを思わせぬ澄んで強い心は見え描くは出来なくとも、知っている。感じている。いつも出会う度。話し、声を聞く度に。
「たとえ…選択したとしても、俺は後悔しない」
 呟いてスケッチブックを開いた。白い画面にまた、鉛筆を落とした。
「…早く春が、来ればいいのに」
 季が訪れたら、彼と、彼の大事な妹を誘って春の野へ行こう…ふと思いついた案に海は強ばらせていた表情を和らげた。
 身を支配しようとしていた寒気が解けて行く。
 
 海はまた花を描く。
 春野原。咲く菫。共に開く笑顔を。
 
 奔る鉛筆の尖端。其は白紙の野を青く染め。
 

 終