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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


呪解緋

<序>

 時の彼方に見える、因果の糸を絡め取れ。
 それが、合図。
 仕切り直しとなるか、これで終幕となるか――…

 それはまだ、分からない。

          *

 目の前には、一通の手紙がある。
 それを溜息混じりに手に取り、草間武彦は空いた手で近くにあった煙草を引き寄せた。
 すでに手紙の内容には何度も目を通し済みである。
 それでもまた目を通そうとして、草間は緩く頭を振る。
 ……さて、どうしたものか。
 ちらりと、目を机の上にある封筒の方へと向ける。消印は、京都の某局。くるりとひっくり返すと黒い細ペンで差出人名が書かれていた。
 七海 綺(ななみ・あや)、と。
 この事務所にも実際に何度か来た事がある、とある里の桜の守人である。
 ある事件で身内をすべて無くした為、今は草間の旧友でもある鶴来那王(つるぎ・なお)という名の青年の、京都にある実家に身を寄せているのだが……。
 その友人の顔を思い出し、思わずまた一つこぼしかけた溜息を隠すように、草間は煙草をくわえる。
 思い出す彼の顔は、寝顔だけだった。
 かれこれ数ヶ月、鶴来那王は意識不明、原因不明の昏睡状態に陥っている。数年ぶりにやっと顔を合わせたと思ったらそんな状態の旧友に、草間はかけるべき言葉もなかった。
 とある事情により「何とか目を覚まさせてやる」とも言えず――早数ヶ月。
 夏の盛りだった季節は、すでに冬を迎えている。
 いつ消えるやも知れぬ命の前に、けれども自ら動く事もなく無駄に時を重ねていた、そんなある日。
 速達として届けられた、綺の手紙。
 そこに記されている文字をまた草間はぼんやりとした目で眺めやっていたが、ややして煙草に火をつけてくわえながらふらりと席を立ち、その場にいた者たちに文面を見せてみた。

          *

 前略、草間様

七海です。
月並みな挨拶ではじめたいところですが……今はそれどころではないので……。
さっそくですが、現在、那王さんが何者かの呪詛を受けて東京のとある病院で昏睡状態に陥られている事はすでにご存知かと思います。
その呪詛を放ったのが那王さんの実の弟さんということも、多分草間さんはご存知だとは思います。
そしてその呪詛の解呪は、呪詛を放った本人と那王さん、那王さんの家系の人しか分からないと言うことも、多分ご存知ですね(いや、もしかしたら何か別に、解く方法があるかもしれませんが)。
先日、那王さんの部屋で、那王さん自身が書きつけたと思われる妙なメモを見つけたので、とりあえずその言葉を書き写したものを送ります。
たぶん、何か「物」を示す言葉だと思うのですが……。
何か分かったら、ご連絡ください。俺がその「物」を持ち、そちらに向かいますので。
もしかしたら、それが解呪に繋がるキーかもしれません。
あと、俺が那王さんに渡された鈴も、同封します。
その鈴は那王さんが持っていた「魔を吸い込む瓢箪」と連動しているらしく、それを燃やせばその術具が燃えるように出来ているそうです。術具を悪用される前に手を打ってくれとの事でしたが……それを本当に燃やしていいのかどうか俺には判断しかねましたので、できればそれも、そちらでどう取り扱うか決めてください。
それでは、よろしくお願いします。   草々

          *

 草間が「目を覚まさせてやる」と言えない理由が、そこには綴られていた。
 彼の弟が放った呪詛を解く方法が、弟本人か鶴来の家系の者しか分からないと言うのがネックだったのである。
 だが今、その鍵となるべき言葉がもたらされたのなら――話は別である。
「誰か、ここに書いてあるなぞなぞを解いてくれる奴は居ないか?」
 草間はそのメモに見入る者たちに声をかけた。
 が。
 ふと草間はそこに居る面々の顔を見て考えた。
 もしかしたら、このなぞなぞを解く以外に何か方法があるのではないか――と。
 それならそれでいい。
 この際、呪詛が解けるのならもうなんだっていいのだ。
 なぞなぞが解けないのなら、他の方法を探ってもいい。もちろん、この謎が解けるのが最良の方法なのだろうが……。
 思い、再び草間はそのなぞなぞが書かれた2枚目の手紙へと視線を落とした。そして――深く、溜息をついた。

          *

赫奕(かくえき)の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます。
姿変え行く破月の下、打ちつけられ響く硬質な音色は、魂の共鳴。
幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し、漸く我に魂拠るべき躯命与えられる。
其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます。
清き我が身は時に神に仕える事さえ許与される。

さあ、我は何者か。
我が名を、答えよ。

答えたならば
生まれて間もない、虚空より降りし細き銀光に我を掲げよ。
其の時こそ 赭堊(しゃあく)の光、闇を裂く――


<戻りしもの>

 滞在先のホテルに国際電話が入ったのは、夜。出立の準備をしている最中だった。
 鞄に服を詰めていた抜剣白鬼(ぬぼこ・びゃっき)は、受話器を肩に挟んで耳に当て、準備をする手を止めずに話し掛けた。
「もしもし、抜剣ですが?」
『ああ、俺だ、俺。草間だ。あーやっと捕まった』
 相手の名前に、白鬼は細い目をわずかに見開いたが、すぐに朗らかに笑いながら顎に手を置いた。
「久しぶりだなぁ。元気だったかい?」
『おかげさまで。そっちも元気そうで何よりだ。ところで早速なんだが……、御坊、いつ頃こっちに帰る?』
 いきなり切り出された問いに、白鬼はちらりと電話機の傍に置いてある卓上カレンダーに視線を向けた。今から中国の四川・成都の国際会議展覧中心の傍にあるこのホテルを発ち、西へ向かい、西藏(チベット)へ入る予定だった。そして日喀則(シガツェ)にある蔵王墓へ行き……まあ、それは言い方は悪いが「物のついで」である。
 白鬼は、ここ数ヶ月の間、台湾から西へ西へと移動し、福建、江西、湖南、貴州、四川、チベット、新疆ウイグル自治区……というように、移動に移動を重ね、転々とする日々を送っていたのである。
 それもこれも、退魔の仕事のためだ。
 そちら方面ならわざわざ自分が出向かなくても、行を修めた者たちがたくさんいるだろうが……あえて白鬼は何かに追われるように――自分を追い立てるように、日本を出たのである。心身の鍛錬の為でもあり、自分の力を試したくなったというのもある。
 結果、数ヶ月日本に戻れない状態だったのだが、先日ようやく追っていた「モノ」を祓うことに成功し、昨日、一息つきに四川に戻ってきたばかりだった。が、そういえば折角ここまで来たのに、何の見物もしていないななどと思い、ならチベットに戻って蔵王墓へ行こうと考えていたのだが。
 白鬼は、眉を寄せた。
 わざわざ草間が、自分の様子を聞くためだけに、高い金を払って国際電話など掛けてくるはずがない。
 しかも、自分の事を「抜剣」と呼ぶのではなく「御坊」などと言う以上、おそらくは何か厄介事を抱えているのだろう。
 ということは、仕事?
 だが、わざわざ国外にいる自分に回すような仕事? ……一体どういう仕事だというのだろう?
 次々と湧き出して内を巡る疑問を一旦横に置き、少し声を落とす。
「何かあったのかい?」
『……仕事で外にいるお前にわざわざ聞かせるのもどうかと思って、居場所がどこかも分からず、つかまらないのに任せて今まで連絡せず黙ってたんだが』
「……何があった?」
 嫌な予感が走る。目を眇めるその白鬼の様が電話回線を通じて草間に伝わったわけではないだろうが、草間もまた声を落として、少し言いよどんでから言葉を継いだ。
『鶴来が、弟に呪詛をかけられて昏睡状態に陥ってるんだ。かれこれもう4ヶ月になる』
 紡がれたその言葉に、白鬼は耳を疑った。
「……え?」
 4ヶ月、昏睡状態?
 弟に、呪詛をかけられた?
「な……どういう、事……一体何が……」
 何故か喉がからからに枯れたように、声がかすれた。
 自分が東京を発ったのは、今年の5月。恋人とデートをし、それから間もなくこの退魔の旅に出たのだが。
 今が12月。逆算したら、4ヶ月前だと……8月か。それからずっと、昏睡状態だというのか。
 ちらと、ベッドの上に広げて置いてある僧衣の方へと視線を向けた。その懐には、鶴来から貰い受けた小さな瓢箪が入っている。
 それは自分が呼べば鶴来が持つ瓢箪から鶴来へとその呼び声が伝わるという、謎のアイテム。
 国外に出てからは、一度も彼を呼んだ事はない。
 忘れていた、と言うわけではない。事実、出先で甘い菓子などの土産物を見るたびに甘い物好きの彼を思い出し、恋人への土産とは別に、彼への土産を籠一杯に詰めるほど買っている。
 自分の思考の中に入り込みかけた白鬼を呼び戻すように、草間が溜息をついた。
『シュラインには言っていないが、いい加減このままだと……身体が持たないかもしれないと、医者が言っていてな。病院側も、原因不明だと手の出しようもないし、ほとほと困り果てているんだ』
 再び、白鬼の細い双眸が見開かれた。
「……それはつまり」
『このままだと死ぬのもそう遠い事じゃないということだ』
 乾いた口調できっぱりと言う草間。が、また一つ溜息をつく。
『お前、鶴来と仲良かったし。もう少し早く知らせるべきだったのかもしれないが……仕事の邪魔になっても、と思ってな。悪かった、連絡が遅くなって』
「いや……」
 草間は草間なりに気を回したのだろう。それを責めるつもりは白鬼にはなかった。
 ただ。
 どうしてそうなった時に自分が鶴来の傍にいなかったのかと。
 それが、酷く悔やまれた。
 きつく握り締めた拳を眉間に当て、強く目を閉じる。
 ――いいや、違う。今は、悔やんでいる場合じゃない。
 すでに、時は動いているのだ。変わらない過去に対して幾ら悔やむ気持ちを持っても、何も変わらない。過去という時は、動かせない。
 ただ、動かせるとすれば、未来だけ。
 ならば、今は悔やんでいる場合ではない。未来を動かすために、今、出来る事は――…。
 ゆっくりと目を開き、電話口で黙り込んでいる草間に白鬼は告げた。
「今からすぐにそっちに帰る。明日の昼くらいには東京に着くようにするから」
『そうか、わかった。それじゃ……待っている。悪いな、わざわざ呼び戻すような真似して……すまない、こちらでなんとかできなくて』
 謝罪の後、切られた通話。途端、部屋に妙に空虚な静けさが満ちる。
 大きく息を吐くと、白鬼はベッドに仰向けに倒れこみ天井を見上げた。
 助けてみせる。
 そう胸で呟く眼差しは、強い意志が宿っている。右手を天井へ向けて伸ばす。それは、何かに向けて手を差し伸べるようであり……。
(俺は、彼に言ったんだ。道を照らしてやると。だから、必ず……救ってみせる)
 夏のあの日、闇に暮れ行く景色の中に浮かぶ対岸に灯る美しい明かりを前に彼に告げた言葉が蘇る。
 ――ちゃんと前に、歩いてこうな。道に迷いそうなら、俺が手を引いてやるから。
「……ちゃんと、約束したとおり」
 呪詛という暗闇の中に沈んでいても。
 必ず、こちらへ戻る為に眩いほどの光を照らし。
「その手を、引いてやるから」
 誓いを込めるように、強く、天井に向けた右手を握り締めた。


<帰国>

 低い雑踏と柔らかい英語の搭乗アナウンスが響く中、成田空港についた白鬼は、腕に嵌めた時計を見た。
 午後1時30分を少し越えた所だ。
 偶々今日が火曜だった事もあり、成都から直接成田に飛ぶ便があったため草間に告げたとおり昼頃こちらに着くに至った。
 長々とした手続きを終え、ようやく自由の身となった白鬼は、荷物を抱えてすぐさま足早に公衆電話の方へと向かう。
 とりあえず、こちらに着いた旨を草間に伝えよう。それに、何か新しい事態が起きているかもしれない。あちらへ向かうまでに少しでも情報を手に入れておきたかった。
 携帯電話が今手元にないのが痛いなと思いつつ、硬化を電話に飲み込ませながら記憶していた草間興信所の番号を手繰り寄せ、ボタンをプッシュする。
 数コール。その間に経過する時間すらもどかしい。
『はい、草間興信所ー』
 気だるげな、やる気なさそうな男の声。言わずと知れた興信所の主だ。
「もしもし、抜剣だが……」
『おっ、帰ってきたのか? 今どこだ?』
「まだ成田だよ。やっと手続き終わったから、今からタクシーで即そっちに向かおうと思う」
『んー……じゃあちょっとそのタクシーの中で考えてもらいたい事があるんだが、メモか何か、今手元にあるか?』
 問われて、白鬼はその場に受話器を持ったまましゃがみこみ、傍らに置いていた鞄の中からメモの代わりになる物とペンを取り出した。
『今日、鶴来が面倒見てる七海 綺から速達が届いててな。そこに鈴と、鶴来の解呪のためのヒントが書かれていたんだ』
 言って、草間はそのヒントを告げる。書いてある文字の一つ一つを詳細に、きちんと白鬼へと伝えていく。それをメモに書き取り、ふと白鬼は首を傾げた。
「綺くんから速達って……綺くん自身は?」
『そのなぞなぞの答えが分かったら、京都の鶴来の実家にいる綺に連絡する事になってる。そしたら綺が、それの答えを持ってこっちに来るって』
 それから、と草間は同封されていた鈴についての説明も手短に告げた。それをどうするかも考えくれと。
『それじゃ……何か分かったらすぐに、どこからでもいいから電話くれるか。こっちも今からシュラインたちが考えるから』
「わかった。それで、俺はそっちへ行けばいいのかな? それとも、鶴来くんのいる病院を教えてもらった方がいいだろうか?」
『あ、そうかそうか。そうだな……鶴来の所で落ち合ってもらったほうがいいかもしれんな。謎が解け次第、シュラインたちもそっちに行く事にするだろうから』
 言って、草間は鶴来の入院する都内の病院名と病室の番号を口にした。それもメモに書き取り、素早くジャケットのポケットに突っ込むと、その手で下に置いていた鞄の取っ手を握る。そして手短な挨拶だけを告げて受話器を戻すと、白鬼は踵を返して空港出口に向けて歩き出した。


<考察>

 考える事は、多いと思う。
 タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げてからずっと、白鬼は腕を組んでじっと窓の外を睨みつけていた。
 たまに何かと口喧しく話し掛けてくる運転手もいるのだが、運良くこのタクシーの運転手は寡黙なタチだったのか、行き先を告げる白鬼の声に応えを返したっきり、何も言わずに黙として前を見据え運転に集中している。
 ……いや、ただ白鬼が話しかけにくい雰囲気を纏っていたせいかもしれないが。
 常ではどこか飄々として、むしろ話しかけやすい雰囲気を持つ彼だが、今は余計な会話を拒む空気を周辺に張り巡らせている。仮にも客商売である運転手がそのぴりぴりとした様子を感じ取り、声をかけずにいたとしてもおかしい話ではない。
 車内は時折無線による小さな声が入る程度で、その他は冷めた沈黙が支配している。
(……何か「物」を示す言葉だと言ってたな……)
 メモに書きつけた言葉を脳裏に描く。
 ざっと聞いて思い描いたのは、「鈴」だった。「響く」や「共鳴」などの言葉が入っている為だろう。
(そして、「赫奕の劫火」「赭堊の光」……)
 その沈黙に促されるように、白鬼は静かに自分の思考の中に入り込んでいる。
 あまり普段から使われる事はないだろうその言葉の意味を、さすがと言うべきか、白鬼は理解していた。
(赤と、白、か……。赤と白の光……)
 浮かぶのは、夜明けの様子。白々と、東の方から赤く染まっていく空の様を思い描く。そして「赫奕の劫火」を赤と白の劫火だと解釈するとして。
(鈴を、夜明けに燃やすのだろうか? そしたら鈴が白い炎を上げ、それに共鳴した瓢箪が、赤い炎を上げて燃える……とか)
 思うが、緩く首を傾げる。
 としたら、その「鈴」というのは綺が同封していたその鈴なのだろうが……なんとなく、それを燃やす事に白鬼は不安を覚えていた。
 それを燃やしたら、何となく――根拠はないのだが……鶴来が、死んでしまいそうな気がして。
 ふと、白鬼は組んでいた腕を解き、脱いで横に置いていた濃茶のフルジップパーカーのポケットから小さな瓢箪を取り出した。それは鶴来の持っていた瓢箪と対になっている物である。今は、彼の弟に奪われてしまったらしいが……。
 何の為に彼は瓢箪を奪って行ったのだろう?
 そもそも、この瓢箪は一体何なのだろうか。
 ずっと気にはなっていたが、そろそろ、本格的にこの瓢箪について考える時が来たのかもしれない。
 だが、それはひとまず横に置いて。
 まずは早く謎を解いて、草間興信所で考え込んでいるであろうシュライン・エマたちに伝えなければならない。
 さっき瓢箪を取り出したポケットから、謎を書きつけたメモを取り出し、広げて目を落とす。右手で無意識のうちに顎鬚を撫でながら、細い目をさらに細める。
 細い銀光、というのは一体何なのか。虚空より降りし、と言うことはおそらく、空が関係しているのだろうが……。
 前に現している「物」が鈴なら、夜明けに、細い細い月明かりに向けて鈴を振るのかと思ったりもする。
「銀光……ぎんこう……」
 ふと目を上げて見やった車窓の向こうに、たまたま一件の銀行が目に入った。
「……まさか銀行に持っていけとか……はは、ありえないありえない。『ぎんこう』違いだ」
 苦く乾いた笑いを漏らしながら呟いたその言葉が運転手の耳に入ったのか、ちらりと彼がバックミラーで白鬼の様子を見やった。だがまたすぐに彼が黙り込んで何か考え込むようにメモに視線を落とした事で、そのまま何も言わずに運転に集中する。
 ふっと短い息を吐いて、白鬼は緩く頭を振った。
 空から降る物なら、雨か流星か。普通に考えたらそれくらいだろう。……それくらいしか思いつかないが、自信はない。
 としたら、それに掲げる物は、一体なんだ?
 こんこんとこめかみの辺りを掌で叩いて、つと視線をメモに戻す。
 と。
「……あれ?」
 あることに気づいた。
『赫奕の劫火、我を砂上の深き眠りより呼び覚ます』『打ちつけられ響く硬質な音色』『幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し』『其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます』
 これらを実際の形として考えてみると、とある「物」の大まかな製作工程に当てはまる事に気づいたのだ。
 砂の眠り――すなわち、その「物」を構成する基本の物。おそらくそれは、鉄の砂。砂鉄。そしてそれを赫奕の劫火に放り込む事により、それは「鉄」へと姿を変える。
 打ちつけられ響く――すなわち、何かを「物」に叩きつけるという事。おそらくそれは、ハンマーで熱された鉄を打っていくという工程。
 幾度もの明暗を越え垢離と共鳴を繰り返し――すなわち、明暗は、炎の中に入れられることを「明」、出される事を「暗」と現し、垢離は水につけること、共鳴は先に述べたと同じく、ハンマーで打つ事。おそらくそれは鍛造の工程の事だろう。
 其の身を削立し、さらに魂研ぎ澄ます――すなわち、打ちあがった物を文字通り「削り、研ぐ」という事。おそらくそれは、刃を研ぐという工程。
 そうして、その工程をなぞっていた脳裏に最後、浮かんだのは一振りの刀だった。
「ああ、そうか……刀、か」
 目からウロコが落ちた気分だった。
 が、その余韻に浸っている暇はなく、慌てて白鬼は運転手に声をかけた。
「すみませんっ、どこかに公衆電話ないですかねっ?」
「え? ああ、電話ですか? ……お急ぎですかね?」
「ええ、かなり」
「なら私の携帯電話、お貸ししますよ」
 ちょうど赤信号で車を停車させていた運転手は、人の良い笑みを浮かべながら助手席に置いていた携帯電話を白鬼の方へと差し出した。それに慌てて白鬼が顔の前で手を振る。
「いえいえ、いいですよ公衆電話で。その間待っててもらわなくちゃなりませんけど」
「いいですよ、遠慮なくどうぞ」
 運転手にしてみれば、成田から東京へ向かうだけでも随分稼がせて貰えるのだ。これくらいのサービスくらいならいいと思ったのかもしれない。
 少し思案するように短く唸りはしたものの、実際、白鬼にしても一分一秒の時間が惜しい状況だ。ならば、ここでの決断は一つ。
「すみません、ではお借りします」
 思わず両手を合わせて小さく頭を下げてから、白鬼は両手で電話を受け取った。そしてすぐさま暗記している草間興信所の番号を再び押す。
 電話は、ワンコールで繋がった。
『はい草間興信所ー』
「ああ、草間くんかい?」
『お。どうだ、謎の方は?』
「それなんだけど、シュラインさんたちはどうかな? 一応、俺は刀じゃないかと思ったんだが」
 そう思った根拠を説明するのを、そのまま草間が向こう側にいるシュラインたちに伝えてくれる。
『そうか。で、その刀を示す言葉の後の方は?』
「流星か雨か……と思ったんだが……。流星なら明け方、結構見ることができるけど……これはちょっと自信がないんだよ」
 苦笑しつつ、頭をかりかりとかく。そしてそっちの意見は? と問う。
 シュラインも「物」は刀だと思い、その後の「銀光」は月光、雨粒、涙……などを考え、他の二人――モーリス・ラジアルという青年は「銀光」は月明かりだと思い、白鬼とはすでに顔見知りでもある花房 翠(はなふさ・すい)は、「物」を刀だと思っているらしい。そしてその場には居ないが、京都から東京へ向かっている綾辻 焔(あやつじ・ほむら)という高校生は電話で「物」を「赤い刀身の刀」ではないかと言っていたらしい。
「そうか……じゃあとりあえず刀、というのは一致してると見ていいね」
『あ、ちょっと待て。おいシュライン、綺、何て言ってるんだ?』
『ちょっと待って……綺くん、それ、それだわきっと!』
 どうやら電話の向こうで、シュラインが綺と電話しているらしい。
「何て言ってるんだ、綺くんは?」
『ひふり?』
「ひふり?」
『緋色って色あるだろ? その「緋」と、雨が降るの「降る」で「緋降」っていう名前の刀があるらしい、鶴来の所持品に。刃が真っ赤で、鶴来の父方の……つまり、弟が跡取りになった七星の家に伝わるものらしい』
 なるほど。白鬼は顎鬚を撫でながら頷いた。
「多分、それに違いないね。で、綺くんが送ってきた鈴はどうする予定なのかな? できれば綺くんに鶴来くんからそれを受け取った時の事を聞いてもらいたいんだが」
 その言葉に綺は素直に答えてくれたらしく、シュラインを通し、さらに草間を通してこちらにその言葉が回ってくる。
 ――自分の存在を「悪夢の中の物」に例え、そしていつかはその「悪夢」が「覚める」と、微笑みながら言っていたらしい。
 綺はそれを聞き、もしや鶴来は自分の存在を消したがっているのではないか? ……と、感じたそうだ。
 それを聞き、白鬼も目を伏せてかすかに吐息をつく。
 ……自分も、幾度か彼に、生への執着への気の薄さを感じ、不安を覚えた事はある。だから、綺に託された鈴も、もしかしたらその「悪夢」の中に居る「自分」を「消したい」が為に、瓢箪の事を言い訳にして渡したのではないかと思ったのだ。
 もしかしたらあの瓢箪自体が鶴来の命と何らかの繋がりがあり、鈴を燃やすと連動で瓢箪が燃え、そして鶴来の命まで燃え尽きるのではないかと――そんな事を考えてしまったのだ。
 命に関する選択を、綺に託したのではないか、と。燃やせば死、燃やさなければそのまま生を歩む、という……。
「鈴は燃やさないで、できれば病院に持ってきてもらえないかな? そう、シュラインさんに伝えて欲しい」
 その鈴が鶴来の瓢箪に関連しているのなら、きっと自分に預けられた瓢箪にも関係があるはずだ。
 手の中に持ったままだった瓢箪に視線を落とし、白鬼は草間に言う。
 まったく……一体どれが彼の命を救う事に繋がり、どれが彼の命を奪う事に繋がっているのか分からない。
 今自分が下した選択が、彼の命を奪うものでない事を祈りながら、白鬼はまた一つ、大きく吐息をついた。

 車は一路、彼が眠る場所へと走り続けている。


<病室前で>

 酷く長く感じた車中だったが、ようやく目的地に着くと、白鬼はてきぱきと荷物をトランクから降ろし、運転手に笑いかけた。
「いろいろとありがとう」
「いえいえ。お友達、早く元気になられるといいですね」
 白鬼に負けず劣らず人のよさそうな笑顔でそう言うと、運転手は小さく会釈して、また業務へと戻って行った。
「さて」
 荷物を持ち直すと、白鬼は気合を込めるように一つ小さく呟き、大きく息を吐いた。冷たい空気の中に白く浮かび上がる自らの吐息を見てから、そびえる建物を見上げる。
 手に提げているのは、荷物と、籠いっぱいのお菓子。それは仕事先で買いまくった、鶴来への土産。
「行くとするか。お姫様を目覚めさせるためにね」
 呟き、その自分が発した言葉に小さく笑う。
 ……大丈夫。
 まだ、笑える余裕は、ある。

 草間に教えてもらった病室へと向かう廊下を歩きながら、ふと、白鬼は足を止めた。そしてちらりと近くにあったドアの傍に取り付けられているネームプレートの部屋番を見る。
「…………」
 そのまま無言で、また前方へと視線を戻す。ゆっくりと、そこから、ドアの数を数えつつ。
「……あそこだな」
 ぽつりと呟いたその言葉は、けれども余りにも静か過ぎるそのフロアでよく響いた。そして前方にいた黒尽くめの少年にもその言葉が聞こえたのか、ちらと彼が白鬼の方へ視線を向けた。
 ちょうど、彼が立っている場所のまん前にあるのが、鶴来の病室である。
 とすると、彼も草間興信所から派遣されてきた者だろうか?
 思いながら歩み寄ってくる白鬼に、少年――綾辻 焔(あやつじ・ほむら)が目を細めた。
「お前も草間の所から来たのか」
 愛想も何も無い冷めた声。それに白鬼は少しだけ首を傾がせてから、頷く。
「キミもかな?」
「……用もなくこんなところにボーッと突っ立ってる訳が無いだろう」
「ああ、それもそうか」
 妙に排他的な空気を持つ焔の事を、けれども白鬼は意に介する事も無く飄々としたままだ。そしてドアへ歩み寄ると、くると顔だけを背後にいる焔に向け。
「ドア、開けて貰えると有難かったりするんだけど」
「……一度荷物下ろせば開けられるだろ」
 言いながらも、焔はゆっくりともたれていた壁から身を起こして軽くノックしてからドアを開けてやった。なんだか憎めない空気を、白鬼から感じたためである。
「ああ、ありがとう。あー……キミは」
 言いかけて、いや、やっぱりいいと言い、白鬼はかすかに笑った。
 中へ入らないのかと問おうとしたが、入れるのに入らずにあえてここで立ち尽くしているのならそれにもまた何か意味があるのだろうと思ったのである。
 その大きな背中が室内へ滑り込むのを見ると、焔はゆっくりとドアを閉めてやった。


<ハルモニア>

 室内に入ると、白鬼はわずかに眉を持ち上げた。
 さっきのノックの音で入室者の存在に気づいたのだろうかるおや、という顔でモーリス・ラジアルが、はだけた鶴来の胸の上に手を置いたまま閉ざしていた目を開けて振り返る。
 その視線にはかまわず、白鬼はモーリスと、そして鶴来が寝ているベッドを挟んだ向こう側にいる、既に白鬼とは顔見知りである花房 翠(はなふさ・すい)に目を止め、細い目を見開いて何度か瞬きをしてから持っていた籠と荷物を部屋の隅に置き、つかつかとモーリスの方へと歩み寄ってきた。
「君は? 草間くんの所から来たのかな?」
「ええ。では貴方もですか」
「親友の危機とあってはね。来ないわけにはいかない」
 言って、手短に自己紹介をすると、白鬼は翠の方へと顔を向けた。眠ったように身動きせず黙り込んでいるその様に、彼が何をしているのか一瞬で悟ったようだ。
「サイコメトリーしてるんだね、花房くんは。そうか……覗けば何が解呪に必要なのかすぐ分かるな」
 言われて、ようやくモーリスは翠にそんな能力があったのだと知った。なるほど、ならば今は外部からの感覚を遮断し、意識を深く集中させているのだろう。
「……さて、なら俺もちょっと調べさせてもらおうかな」
 隣、いいかな、と問われ、モーリスは少しだけ奥につめて場所を譲る。自分の能力も中途で止めてしまっていたが、それより彼が何をするのかが気にかかった。
 白鬼は、モーリスが見ている前でしばし、鶴来の顔を眺めていた。そしてゆっくりと大きく息を吐き、一瞬だけ、痛そうに顔を歪めた。
「……久しぶりだ。少し見ない間に……」
 元から華奢な体つきではあったが、さらに細く、痩せたように思う。酷く彼が小さく見えるのは、発せられる気が感じられないからだろうか。
 長くなった前髪を大きな手でかき上げ、さらによくその顔を見る。眠っているその顔は、苦痛も何も感じていないような――どこまでも安らかなものだった。
 その額に手を当て、目を閉じる。自分の中に流れている気をその掌に集中させ、そこから鶴来の体内へとそれを流し込むように。
 健康体ならば、気を送り込んでもなんの反応もない。けれどもどこか病んだ場所があれば、気を介して白鬼に伝わってくる。
 けれども……返って来る反応は何もなかった。病んでいる箇所は内容である。魂の存在も、きちんと体内に感じる事ができる。
 これではただ、眠っているのと変わりがない。
 と、ふと白鬼は、その鶴来の胸元がはだけられているのを思い出し、モーリスの方へと顔を向けた。
「あ、もしかして君も何か力を?」
 黙って腕を組んで白鬼の様子を眺めていたモーリスは、ああ、と短く言ってかすかに笑った。
「そうですね。では続けさせてもらいます。上手く行けば、目覚めさせられるかもしれません」
 その言葉に白鬼が目を瞠る。だがそれ以上何を問う間も与えず、モーリスはまた鶴来の左胸部に手を当て、目をわずかに細めた。
 ふわりと、まるで羽が開くようにモーリスの体から透き通るオーラが発される。その気が全て、手を通して鶴来の体へと流れ込んでいく。
 ハルモニア。それはラテン語で「調和」を表す言葉。
 そしてそれが、彼の能力の名。ハルモニアマイスター。
 気の流れがわかる白鬼には、それがどれだけの力なのかが即座に理解できた。人ならざるものの有する能力としか思えない。
 室内で唯一音を発していた心電図が刻んでいた、ゆっくりとした単調なリズムが、わずかに変わり始めた。白鬼がモニターを見やる。
 さっきまで25回/分を示していた心拍が、45回/分へと上がっている。
 目を見開いてモーリスを、そして鶴来を見やる。翠は、変わらず鶴来の手を握ったまま動かない。
 と、その手がわずかに震えた。続いて、ぴくりと鶴来の体がわずかに動いた。
 驚いて、白鬼がモーリスの邪魔にならないように鶴来の左手を掴んだ。
「鶴来くんっ!」


<一時的な>

「…………」
 ふっ、と。
 その閉ざされていた双眸が、白鬼の声に導かれるように薄く開かれた。モーリスがそっとその胸から手を離し、鶴来の顔を覗き込む。
「気分はどうですか」
 問われて、しばしぼんやりしていたものの、やがてその双眸をモーリスの方へと向け、ゆっくりと瞬きして。
「……貴方の……力、ですか……」
 ぽつりと、呟くように言った。モーリスを見るその瞳は酷く青く、その色に、通常の彼の瞳の色を知っている白鬼がわずかに眉を寄せた。
 鶴来の瞳は、いつもは黒かったはずだ。確かに、光が入ると青く透けて見える事はあった。が、元々は黒のはずである。なのに、なぜ今はこんなに青いのだ?
 と、その時、コンコンと部屋のドアがノックされた。返事を待たずにドアを開けたのは、シュラインである。そして彼女は目を開けている鶴来を見て驚愕の表情をその顔に貼り付けた。
「つ……鶴来さん?! いつ起きたの!」
 その声に、びくっとベッドの向こう側に居た翠が肩を震わせて目を開いた。そして自分が手を握っていた相手の顔を見、彼もまたシュライン同様驚愕する。
 起きている。
 自分がメトリーをしていた間に、何があったのかは分からない。けれども、彼は今確かに目を開いていた。
 だが、ふと翠は握っていた鶴来の手を離し、無言のままその顔から視線をそらせた。
 ……今しがた見てきた彼の記憶を思い出し、何だか酷く悪い事をしたような気になったのである。
 だがそんな翠の反応に気づく事もなく、鶴来はシュラインを見ようとわずかに体を起こそうとしたが、何かに気づいたような顔をして緩く頭を振り、かすかに苦笑した。
「すみません……」
「ねえっ、鶴来さん起きたわよ! 早く!」
 シュラインが、廊下に向かって誰かを呼んでいる。
 その間に、モーリスが少し眉を寄せて鶴来の手首を取った。脈を自らの手で確認してみる。
 ――まだ、遅い。
 完全には、解呪しきれなかったらしい。完全に呪を断つのを阻む何かがあるのだろうか。
 ……やはり、最終的には手紙に記されていた解呪の方法に頼るしかないのだろうか。
 そんなモーリスの思いに気づいたのか、鶴来がかすかに目を細めて苦笑する。
「すみません……」
「いえ、謝罪する事はない。貴方のせいではないのだから」
「…………」
 それに対しては何の言葉も返さず、鶴来はモーリスの隣にいた白鬼へと視線を移す。目が合った途端、やはりその青い瞳に違和感を覚えたが、今は何も言わず、白鬼はただいつものように顎鬚を撫でながら笑った。
「やれやれ。どうなる事かと思ったよ。身内から呪いをかけられたお姫様には口づけしないと目が覚めないのかなー、とかね。2度目のキスをしようかと考えてたところだよ」
 その部屋に居た全員が、その言葉に驚いたように白鬼を見た。
 2度目のキス?
 それはつまり、一度彼と鶴来がキスをしたことがある、ということか?
 ……周囲に生まれた何とも言えない微妙な沈黙を解くように、鶴来はわずかに目を見開いてから苦笑を零した。
「生憎……俺は、お姫様じゃ……」
「2度目のキス、だって?!」
 言いかけた鶴来の言葉を遮るようにドアの方から飛んできた鋭い声に、白鬼が振り返る。そこにいた人物をわずかに頭を上げて見、鶴来が瞬きをした。
「……ほむら、か?」
 部屋に入るなり聞こえた白鬼の言葉に激昂しかけていた焔は、けれどもその鶴来の言葉に、はたと目を瞬かせた。そして慌てて白鬼を押しのけてベッド脇に駆け寄り、その顔をよく見る。
「那王、那王っ?」
「……久しぶり。大きくなったんだな、焔……」
「当たり前だろうっ。お前が嘘ついていなくなったのはもう7年も前の話だぞ!」
「ああ……それじゃあもうランドセル、背負ってないのか……」
 ぼんやりと呟く鶴来の言葉に、焔ががっくりとその場に膝をつく。あまりにも間の抜けた台詞に全身から力が抜けたのだ。
「背負っているわけないだろそんなもの……」
 けれど、自分の名を忘れずに呼んでくれた。ただそれだけで、涙が出そうになった。慌てて目を擦り、立ち上がったところを背後からシュラインが、トンとその肩に手を乗せた。
「昔から不義理をする性質ではあったわけね。おはよう鶴来さん」
「……おはようございます……と言いたいところなんですが……」
 ふとその眼差しをわずかに揺らせて、鶴来はモーリスへと視線を戻した。そして翠、白鬼、焔、シュラインへと視線を動かして。
「……すみません、もう少し、眠らせてください……」
「術が解けたわけじゃないのか?」
 翠がモーリスに問う。モーリスは唇に親指を当てて小さく頷いた。
「多少力を弱める事はできましたが、何かがひっかかっているようで」
 あ、と思い出したようにシュラインが鶴来の腕を取り、軽く揺すった。
「鶴来さんっ、貴方が書き残していた呪詛を解くためのなぞなぞ、あれの答えって何なの?!」
 そうだ。起きたなら今本人に聞けばすむ話だ。
 が。
 鶴来はまた深い眠りに入ってしまったらしく、答えが返ることはなかった。


<コピー>

 再び眠りに落ちた鶴来を前に、全員が一様に深い溜息をついた。
 なんだか、酷く疲れた。肉体的に、ではなく、精神的に、だ。
 だがいち早くそんな状態から復帰したのはモーリスだった。もう一度鶴来の手首に触れて脈を取ってから、両方の手を、何かを包むような形にし、そこに視線を落とす。
 不思議そうに、白鬼がその手を覗き込む。
「何だい?」
「ああ、とりあえず今、前よりも少し呪詛の状況が軽くなっているので、このまま現状維持しようと思って」
「現状維持?」
「私の能力で、檻を生成し、彼をその檻の中におきます」
「檻?」
 胡乱げに聞き返したのは焔だった。何をするつもりかと目で問うている彼に、けれどもモーリスは口で言うよりも実際にやって見せた方が早いと思ったのか、無言でまたその視線を両手へと落とした。
 イメージするのは、透明な壁で形成された立方体。
 キィンと、硬質な音が周囲に響いた。それを察したシュラインが、痛そうに顔をしかめて耳元に手を当てる。
「何……この音っ」
 すさまじい耳鳴りにも似たその音。
 包んだ手の中に生み出された小さな透明立方体を見、モーリスがゆっくりと、その両手を開く。と、その立方体がするすると見る間に大きくなり、人一人を余裕で内包できるほどのサイズへと変化する。そしてその中に鶴来が眠っている場所――ベッドごと、納めてしまう。
「……結界のようなものか」
 呟いた翠に、モーリスが頷く。
「これでとりあえずは症状が悪化することはありません。外部からの干渉もほぼ防げます」
「そうか……じゃあとりあえず、後は綺くんがここに到着するのを待つだけかな」
 動きたくても動けない。
 それが多少歯がゆくはあるが、時には待つことも必要な事もある。
 羽織ったままだった濃茶のフルジップパーカーを脱ぎながら、白鬼が言う。
 けれどその言葉に反するように、モーリスが緩く首を傾げた。
「どなたか、彼の弟さんがどこにおられるかご存知ないですか」
 問われるが、呪詛をかけた張本人がどこにいるかなど、誰も知っているはずはない。
 ……はずだったが。
「ああ、それなら新宿中央公園の水の広場ナイアガラの滝辺りに居るわよ」
 あっさりとシュラインが返事した。驚いてその場に居た全員が彼女を見る。
「なんでそんなこと知ってるんだ」
「え? だって今、湖影(こかげ)くんが彼に会ってるもの」
 焔の鋭い口調による問いかけに、シュラインはわずかに眉を持ち上げて言った。
「まあ多分、この中で鶴来さんの弟を捕まえられるのは彼だけだしね。いろいろ仲良くしてるみたいだし、何とか彼を説得してみるつもりらしいけど」
「湖影さん……ですか。まあとりあえず、私も行って来ます」
「行って来ます、って……行った所で相手に余計な警戒させるだけじゃないか? 説得するっていうならその男に任せた方が利口だと思うが」
 翠の言い分ももっともだった。が、モーリスとて何も手立てを考えていなかったわけではない。
「こんなに自分の持つ能力をフル活用するのも久々というか……」
 呟き、そっと自らが生成した檻の中で眠る鶴来の手に触れる。
 すると、徐々に淡く彼の体が光を帯び始めた。柔らかいその光。
 室内にいた全員が、目を見開いた。
 自らの目の前で起きていることが、信じられなかった。
 金色だったモーリスの髪が、毛先から黒く染まっていく。そして体つきもわずかに変化し――…。
 やがて彼を包んでいた光が消えた時。
 そこに立っていたのは、モーリスではなく、今檻の中で眠っているはずの鶴来、その人だった。するりと、襟足で結んでいた髪を解く。
 何が起きたのか、即座に理解したのは焔だった。
 鶴来那王の姿を、モーリスはそっくりそのままコピーしたのである。
 寒気がした。
 本人ではない者が、本人の姿をしてその場に立ってこちらを見ている、ということに。
 頭では、おそらくはこれで弟を少しくらいは油断させたり動揺させたりできるかもしれないと思った。だが、理性とは別の所で……感情が、その姿を拒絶する。
 どうしても、許せなかった。
(それは、那王の姿だ……!)
 誰かが勝手に使っていいものではない!
「お前……っ!」
 感情が爆発するのに任せて腕を伸ばし、モーリスの胸倉を掴み上げようとして――その手を、横から白鬼に掴まれた。
「落ち着きなよ。内輪もめしてる場合でもないだろう?」
「はいはい、焔くんはこっちこっち」
 その白鬼が掴んだ手を今度はシュラインが捕まえ、腕を絡めるようにしてズルズルとモーリスから焔を遠ざけた。やれやれと肩を竦めるのは翠。
「じゃあ、とりあえず俺たちはここで那王に干渉してくるヤツがいないかどうか見張ってるから」
「ではこちらは任せます」
 声すらもが、鶴来とまったく同じだった。
 自分も鶴来と同じ声を発した事はあるのだが、姿形まですっかり写し切ってしまったモーリスのその姿に、シュラインは苦笑する。
「気をつけてね」
 とりあえずそう声をかけるに留まる。その隣に居た焔は、今にも飛び掛りそうな眼差しでモーリスを見ていたが、チッと鋭く舌打ちするとそのまま顔を背ける。そうする事で彼の姿から目をそらせるように。
 静かにドアの向こうへと消えたモーリスの――鶴来の背中を見送ると、残された者たちは思わずベッドの方へと視線を向けた。
 先程と変わらず、鶴来は静かな眠りの内にいる。


<銀光とは>

 とりあえず、今は……今の所は特に何もする事がない状態で手持ち無沙汰になった4人は、手短に自己紹介を済ませた。
 とはいえ、翠、白鬼、シュラインの3人は既によくよく顔を合わせたことがある面子だったので、主に紹介は焔に対してのものだった。
「それにしても鶴来さんと幼馴染なんてねえ。なんかこの人の子供の頃の姿って、あんまりイメージできないのよねえ」
 シュラインはベッドのサイドボードの上に置いてある、籠入りの花アレンジメントと、あと、シュラインが綺から預かっていた「桜の枝」を活けた一輪挿しを倒さないようにと気を使いながら、持ち込んでいた紙コップを人数分狭いスペースに置いてスプーンでインスタントコーヒーの粉を放り込んでいた。
 桜は、綺がこの場に来れないのなら、せめて彼から貰った桜だけでも傍に置いておいてあげようという、シュラインの心遣いである。
 ちらと、シュラインが焔を見た。
「どんな子だったの、鶴来さんて」
「どんなって……別に、普通の」
 としか言いようがなく、焔は窓辺に立ったままわずかに肩を竦めた。とはいえ、何が普通で何がそうじゃないのか、いまいち焔にはよく分からなかったのだが。
 その言葉に、ベッドから離れた場所に丸椅子を移動させて座っていた翠が、焔の方へと顔を向けた。何か言いたそうに一瞬口を開きかけるが、そのまま何も言わずに溜息をつく。
 どこか浮かない様子の翠に、部屋の隅に置いていた籠を鶴来の方へと運んでいた白鬼が首を傾げた。
「どうしたんだい? なんか元気ないが……そういえばさっき、力使ってたね。何か、なぞなぞのヒントはあったのかな」
「あー……それは、多分、『緋降』とかいう刀だとは思うんだが」
「ああ、そういえばシュラインさんも綺くんとそんな事言ってたね」
「一応、綺くんにそれを持ってきてって伝えておいたんだけど……」
 言って、シュラインは作りたてのコーヒーを焔に手渡しながらちらと鶴来の枕元に置いておいた目覚まし時計を見る。
「京都からここまでだと、新幹線使って2時間くらいかしら」
「2時間半くらいだ」
 呟いた焔が、コーヒーを受け取って「悪い」と小さく礼を述べる。
 あ、と白鬼が焔を見た。
「そうか、君も京都なのか。まあ鶴来君と幼馴染ならそうなるか」
 頭をカリカリとかきながら朗らかに笑う白鬼。そのまま顔をシュラインへ向けた。
 思い出した事があったのだ。
「そういえば、謎の後半部分はどうなったのかな」
「え? あー……アレね。どうなのかしら。まだちゃんとした事は分かってないんだけど……どう思う?」
 まずは白鬼に、そして次いで黙り込んでいる翠にもコーヒーを手渡し、シュラインは鶴来の近くに置いてある椅子に腰を下ろした。
「私は、単純に考えて、月光か雨粒か……って思ったんだけど。あとは……涙、とかね」
 涙だったら、幾らだって泣いてやるのだが。
 けれど、「虚空より降りし」と書いてあったなら、多分、空にあるものだと思うのだ。
「モーリスさんは月明かりの下で何かするんじゃないかって言ってたけど。あと、湖影くんは新月……だったかしら。それに掲げるんじゃないかって」
「ああ、なるほど。俺は流星か雨かと思ったんだが……」
 片手に提げていた、様々な甘物が詰まった籠を鶴来のベッドの下に置きながら、白鬼が言う。
 と、紙コップを包むようにして持っていた手に黙り込んだまま視線を落としていた翠が、ふと顔を上げた。
「生まれて間もない月、って、何のことだと思う?」
「それ、サイコメトリーで読み取れた結果かい?」
 白鬼に問われて、翠は頷いた。
「緋降と、生まれて間もない月……っていうイメージを読み取ったんだが」
「新月のことじゃないのか?」
 ぽつりと、焔が口を開いた。
「欠けていく月じゃなく、満ちていく月。月齢で考えてみたら、減って行くのを生まれて間もないとは言わないだろうから、月齢0から順に、満ちていく月」
「そうか、『細き銀光』っていうのは細い月の事を示していたのか」
 翠が頷いた。
 なら、あのなぞなぞの意味するところは「新月の光に緋降を掲げろ」ということか。
 ……どうやら、ようやく全ての意味が解読できたらしい。
 しかし。
「じゃあ、一体新月っていつなんだろう?」
 白鬼がコーヒーをすすろうとした手を止めて首を傾げた。それに翠が眉を寄せる。
「新聞に月齢って出てなかったか?」
「……草間にでも電話かけてネットなりなんなりで検索かけてもらえばいいだろ」
 言って、ちらりとシュラインを見る焔。確かに、それが一番早いかもしれない。
 とはいえ病院内で携帯電話を使うのは気が引けて……仕方なく、シュラインは席を立つと、廊下に置いてあった公衆電話に向かった。
 そうなると、室内には男ばかりが残るわけで。
 焔はなにやら白鬼に対して妙な敵対心のようなものを持ってしまったらしく目を合わせようともしないし、翠は翠で、なにやらさっきから気分でも悪いのか、妙に押し黙ったままだった。
 何とも、居心地が悪い。
 やれやれと白鬼が溜息をついた時、シュラインが駆け戻ってきた。
「ちょっと!」
 慌てるシュラインとは対照的に、のんびりと白鬼が眠そうな眼差しを返す。本当に眠たいわけではなく、彼は常にそういう顔なのだが。
「どうしたんだい?」
「今日、月齢0なの! だから今日以降……つまり、明日くらいがチャンスって事みたいなのよ!」
 それはまた、なんというタイミングか。
「なら今日緋降がこっちに届けば、明日には万全の体制で解呪に挑める、ということか」
 呟く翠に、焔が頷く。
 綺が絶妙のタイミングで手紙を送ってくれてよかったというものだ。これがもう少し遅ければ、一ヶ月近くまた待たなければならないところだった。
 ここまで条件が整ったのなら。
 後はもう、緋降を待つだけ。


<桜、散る>

 廊下の方で、バタバタと激しい足音がした。
 救患か何かだろうかと思った鶴来の病室に詰めていた者たちは、勢いよく開かれたドアの向こうに立っていたモーリスと虎之助に目を瞬かせた。
「……どうしたの一体」
「誰が緋降を持ってくるんだ?!」
 問いかけたシュラインに、虎之助が足音高く室内に入り、前置きもせず怒鳴るように言った。その虎之助の肩にそっと手を乗せて落ち着かせるように促すと、モーリスが代わってシュラインに問う。
「緋降という刀をこちらに持ってくるのは、あの手紙を出してきた綺さんですね。今、綺さんはどちらに?」
「どちらって……多分、新幹線に乗ってるんじゃないの? 持ってきてってお願いしたっきり、連絡取ってないからわからないけど」
「では、誰も綺さんに付き添っていないんですね?」
「付き添うって……」
 二人が何を言っているのかいまいち理解できず、シュラインは眉を寄せた。
「綺くんがどうかしたの?」
 そう、シュラインが改めて聞いた時。
「あ……桜が!」
 翠が立ち上がって不意に声を上げた。全員の視線が、鶴来が眠っているベッドの傍にあるサイドボード上へと向けられた。
 そこには、シュラインが持ってきた桜が、一輪挿しに活けてあったのだが。
 その桜の白い花弁が、はらはらと、落ちはじめていた。
 驚いてシュラインが駆け寄り、手を花にかざす。
「どうして……綺くん、枯れない桜だって言ってたのに」
 シュラインが大切に思う限り、決して枯れる事はない、と。
 何故か、途端に嫌な予感が胸の中に沸き立ってくる。
 はっと、虎之助とモーリスを見た。
「綺くんに何か起きるっていうの?!」
 と、その時。
 かたん、と。
 ドアの方で音がした。
 反応したのは、白鬼だった。反射的に椅子を立ち、音に引かれるようにドアへと歩み寄る。
 虎之助たちが来た時に開かれたままになったドアからひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。
 すると、その目の前に、はらりと一片、白い花弁が舞い降りた。
 思わず手を出し、それを掌に受ける。
 桜の花弁だった。
 それを見て、一瞬、綺が来たのかと思った。
 ……が、そうではなく。
 もう一片舞い降りた花弁に引かれるように、視線を斜め下に落とし――白鬼はその細い双眸を、見開いた。
「これは」
 白い壁にもたれかかるように立っているのは、黒い鞘に収められた一振りの刀だった。その刀を護るように、周囲には桜の花弁がゆるゆると渦を巻いている。
 白鬼の声に反応したように、他の者たちも廊下へ出、そこにある刀を見、一様に動きを止めた。
 刀は、ある。
 けれども、それを運んできたはずの綺の姿が、そこにはなかった。
「綺くん?!」
 病院内だということも忘れ、シュラインが声を高くしてその名を呼ぶ。けれど、返る声はない。
 焔が、横から翠の肩を叩いた。
「刀に残された記憶、読んでみたらどうだ?」
「……そうだな」
 触れていいものかどうかと悩んだが、きっと、この桜の花弁が綺に関係しているものなら自分を敵だとは見なさないだろう。
 思い、翠は片膝をリノリウムの上に落として左手を伸ばし、黒い柄に触れた。
「……っ」
 途端、かすかな耳鳴りと共に流れ込んでくる記憶。
 ――おそらくそこは、鶴来の自室。その部屋の片隅に、ひっそりと置かれているのは、今ここにあるこの刀だった。
 それに手を伸ばす、高校生くらいの少年の姿が見えた。おそらくそれが、綺なのだろう。
 が。
 彼の手が、刀に触れるその直前。
 ふらりと、その体が傾いだ。肩で荒々しく息をつきながら、胸元を押さえている。
 持病か、と思ったが、そうではない。
 これは……流れ込んでくる綺の意識の欠片から拾い出せた言葉は。
 ――呪詛、か。
 苦痛に顔を歪めながらも、綺はその場に膝をついただけで、倒れこみはしなかった。自分を強靭な精神で律し、掌を刀にかざす。
 ――お願いだ、俺を守りし桜の神子たち……俺はいいから、この刀を、どうか、あの人の元へ……!
 祈るような強さで紡がれる言葉。それに応じるように、どこからともなく桜の花弁が現れ、刀を包み込んだ。まるで桜の花弁による繭のように。
 だが次の瞬間、パァンとその繭が弾けた。桜の花弁が散る。
 散った先。
 もうそこには、刀は無かった。
 そして、崩れ落ちる綺の体……。
「……っ」
 意識が、現実に戻った。目に映るのは、さっきまで時間の狭間で見ていたのと同じ、刀。
「何が見えたかな?」
 問うモーリスに、翠は力なく項垂れて頭を振った。
「……綺……刀をこちらへ運ぼうとした時に、誰かに呪詛をかけられたようだ。桜の精霊に命じてここに空間転移して運ばせたようだが、綺自身は……おそらくは、もう……」
「嘘……!」
 口許を両手で覆い、シュラインが短く悲鳴を上げた。
 桜が散ったのは、シュラインの気持ちが変わったからではない。
 綺が、いなくなってしまったからだったのだ。
 そうだ。綺は、言っていたじゃないか。
『何があっても必ず、緋降だけはそちらへ届けます』と。
 また自分は、鶴来が呪詛に倒れた時と同じく、言葉の奥底に潜むあまりにも強すぎる決意を見逃してしまったというのか……!
 どうしていいのか分からず頭を振り、シュラインはその場に膝から崩れ落ちた。が、それを横合いから白鬼が腕を取って支えた。
 大丈夫か、とは……言えなかった。大丈夫なはずがないからだ。
 と、その廊下の前方に、黒い影が現れた。騒ぎを聞きつけた看護士かと思ったが、そうではない。
 黒いハーフコートを着た、青年だった。黒いキャスケットの下の冷めた黒い瞳を、じっとその場に居る者たちに向けたままゆっくりと歩み寄ってくる。
 それは七星真王(ななほし・まお)――鶴来那王の、弟だった。
 それを見た途端、シュラインが駆け出した。そして真王の胸倉を掴んだ。
「アンタが綺くんに呪詛を放ったの?! 鶴来さんだけじゃ足りなくて、綺くんまで手をかけたっていうの?!」
 全身に渦巻く怒りをぶつけるかのように声を上げた。が、真王――正しくは、真王の裏人格・ルシフェルはその手を振り払いもせずじっと冷めた目でシュラインを見ていた。思わずシュラインがその拳を振り上げた時。
 その手を、横からそっと掴んだ者がいた。
 虎之助だった。
「違う、こいつじゃない。こいつがやったんじゃない」
「そんなこと分からないでしょっ! 湖影くんだって見たじゃないの、彼が自分のお兄さんに呪詛を放ったところを! 自分の兄を呪えるんなら、まったくの他人である綺くんを殺すことくらい……っ」
「違う! ……こいつが言ったんだ。ここに刀を持ってくる人物の身が危ないって。だから俺たちは慌ててここに来たんだ。こいつが呪詛を放つなら、そんなこと言うわけないでしょ?」
 激昂するシュラインをなだめるように言い、虎之助は優しく、シュラインの手をルシフェルの胸元から外した。ふらりと後ろに数歩よろめいたシュラインのその体を抱きとめ、モーリスが自然に、その触れたところから全てを調和へと導く力を注ぎ込む。
 昂ぶった心を、通常の精神状態へと戻すために。
 その横で、焔は目を見開いてじっと真王を見ていた。記憶にあるのとは随分と印象の違う、幼馴染の姿を。
 けれどその幼馴染はというと焔の事にはまったく意識を向けてはいなかった。傍らに立つ虎之助をちらと見、翠の手元にある刀へと視線を向ける。
「これで解呪の鍵は手に入った。よかったな。お前たちの望みがこれで叶えられるわけだ」
「ルシフェル」
 低く発せられる、諌めるような虎之助の声。モーリスの力で冷静さを取り戻したシュラインが、憎しみすらこもる目でルシフェルを見た。
 翠が、短く溜息をついてルシフェルを見やる。
「人の命が一つ無くなったとわかっていてわざと言っているのなら大した性格の悪さだ」
「お褒めいただき恐悦至極だ」
 ニヤ、と笑って紡がれたその言葉。が、それを手で制して、白鬼が問いかけた。
「それで。誰が綺くんに呪詛を放ったのか。君は分かっているんだろう?」
 その言葉に、ルシフェルは唇を歪めて視線を鶴来の病室のドアの方へと向けた。
「……七星の者だ」
「七星のって……真王、お前が当主なのにか?」
 焔が訝しげに問う。それにちらと視線を向けるルシフェルだが、そこには幼馴染に再会したという懐かしさなどという類いの表情は一切存在せず、ただ淡々と言葉を継いだ。
「主の留守に勝手な真似をした者がいる。それだけのことだ」
「仮にも主と名乗るのなら、部下の不祥事くらいは面倒見てもらいたいね」
 冷めた口調で告げるモーリスに、かすかに唇の端をつり上げて笑ってみせる。
「残念ながら俺は神ではないからな。命を返せと言われても無理だ。が」
 ちらりともう一度、傍らに立つ虎之助を見る。それに、虎之助が眉を寄せた。
「なんだ?」
「……最後まで付き合えよ?」
「…………」
 何か、決意を固めたらしいルシフェルに、かすかに笑い、ポンとその頭に手を乗せた。
「分かってる」
 二人が何のことを言っているのかは分からなかったが、次にルシフェルから告げられた言葉に、虎之助を除く全員が、目を瞠った。
「明日、那王の呪詛を解く。緋降は虎に預けておけ。こいつには七星の呪詛は効かないから、他の奴が持っているよりは安全だ」
 それに、白鬼は首を傾げた。
「ちょっと待て。明日呪詛を解くって、今君が術を解くわけには行かないのかい?」
 踵を返しかけていたルシフェルが、足を止めて肩越しに振り返る。
「確実を期したいのなら、明日を待つことだ。呪詛をかけたはいいが、実際のところ、俺にもその解呪は難儀なんでな。組み合わせた呪が複数に渡るから、一つずつ術で鍵を開けていったら、結局は明日の夜までかかる」
 それに、と言葉を次いで、その目をシュラインに向けた。その顔には、冷笑が浮かんでいる。
「今この状況で那王が目覚めても、少しも嬉しくないだろう? 明日までに気持ちの整理くらいはつけておけ。……自分の為に綺とかいう者の命が犠牲になったと知る那王を、慰めてやれるくらいにはな」
 それだけを呟き、彼はその場を後にする。
 ルシフェルがいるというただそれだけで妙に張り詰めていた空気が、その存在をなくした事でほどけた。
 緋降は手に入ったのに――何とも言えない空虚さが、その場には満ちていた。


<目覚めの時>

 空気が、冴えていた。
 猫の爪のような細い月が、虚空には浮いている。
 ――12月24日。午後9時。
 月齢、1.094。
 ……緋降が届いてから、既に一夜明けている。
 病室の窓を開け放ち、凍えた空気を室内に取り込みながら、翠が振り返る。
 その視線の先には、鶴来のベッド脇でその顔をじっと見つめているシュラインがいた。目許が赤く染まっているのは、綺の死を悼み、泣き明かしたためかもしれないとちらりと思った。
 焔もまた、鶴来のベッド脇に立っていた。その傍には、通常の人間には見えないが、寄り添うように彼の式・犬神の伏姫が座っている。
 確かに、綺が亡くなった事は引っ掛かる。だが、それよりも自分には、もうすぐ彼が目覚めるということの方が大事だった。
 眠る顔を見、焔は自分の胸にそっと手を当てた。
 ……那王……。
 胸の内で、呟く。
(俺は、ずっとお前を探していたんだ。……帰って来い。帰ろう。こちらの世界へ。俺たちがいる世界へ)
 何があっても、もう、何者にもお前を傷つけさせはしない。
(神すらも敵に回してもいい。俺が、お前を守ってやるから)
 それは、誓い。
 誰に告げる言葉でもない。自分自身への、自戒にも似た誓いだ。
 真紅の瞳でじっと鶴来の顔を見つめている焔の、その横で白鬼もまた、自らの思考の内に居た。
 彼は、綺が亡くなったことを知れば――壊れてしまうかもしれない。そんなことを、思う。
 ただでさえ危うかった精神のバランス。誰かを守らなければいけないという思いがあれば、まだそのバランスを保つ事もできただろう。
 けれど、今はその対象が、自分が倒れている間に命を落としてしまった。
 ……耐えられるのだろうか、彼に。
 もしかしたら、このままずっと、何も知らないままに眠らせておいたほうがいいのかもしれない。
 ふと、そんな事を思い――ゆっくりと目を伏せて緩く頭を振る。
 いいや。
 それは、自分が彼にしてやれる事とは違う。
 自分は、彼の道を照らすためにここにいるのだ。
 そう、彼に約束したのだ。
 きっと今こそ、彼の手を引いてやらなければならない時なのだ。一人でその痛みを抱えさせはしない。同じ痛みも、分け合えばきっと、少しは楽になるだろうから。
 大きく一つ溜息をついた白鬼のその様をチラリと見てから、窓辺に立っていたモーリスが腕に嵌めた時計へと視線を落とした。
 そろそろ、か。
 思った所、コンコン、とノックの音が響いた。誰も返事をしなかったが、静かに、ドアが開く。
「悪い、少し遅れたかな」
 入ってきたのは、腕に毛布を抱いた虎之助だった。毛布は細長く、何かを包み込んでいるようだった。
 包まれているのは、言わずと知れた、緋降である。
 その虎之助の後ろから、黒い影が現れる。
 黒い式服を纏ったルシフェルだった。それを見て、シュラインと白鬼は、彼が一度綺に会った事があることを思い出した。
 自分達が綺に会うきっかけになった事件の手引きをしたのが、彼だった。
 彼に巻き込まれなければ、綺は今頃、まだ生きていたのだろうか?
 思うが……口には出さず、シュラインはふっと吐息を漏らした。そして椅子から立ち上がる。
 今は感傷に浸っている場合じゃない。もしかしたら、解呪の隙をついて、綺を狙った者からの呪詛がこないとも限らないのだ。妙な外部からの干渉が無いかどうか、細心の注意を払わなければならない。
 そしてその旨は、他の面々にも伝えてあった。
 モーリスが、鶴来の周囲に作ってあった『檻』を解除する。両腕を開いて、檻の表面が腕の中へと収縮する様を思い描く。
 するすると、徐々に小さくなっていき――最後には爪の先ほどの大きさになり、やがてぱちんと弾けて消えた。
「これで干渉できるようになったので」
 言って、ルシフェルを振り返る。それに小さく頷くと、ルシフェルは虎之助を見た。
「虎ちゃん、緋降を」
「ん、ああ」
 毛布を解き、中から黒い鞘と柄を持つ刀を取り出し、ルシフェルの手へ渡す。それを受け取り、窓辺に歩み寄りながらすらりと鞘から抜き放つと、その鞘を虎之助ではなく、窓の近くに居た翠に手渡した。
「さて。上手く呪を切れるといいがな」
 呟いて、ルシフェルはその真紅の刃を窓の外に見える月へと掲げた。そしてふと肩越しに室内を振り返る。
「……誰か、代わりにやるか?」
 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。
「冗談なら後でいいからさっさとやれ」
 焔が苛立たしげな声を出す。モーリスも肩を竦める。
「4ヶ月間眠っていた人が健康に目覚める様をぜひとも見たいから早くしてもらいたいね」
「……美味しい所だけ持って行くような気がして悪いと思ったんだがな」
 かすかに笑うと、再びルシフェルは月へと顔を向ける。
 そして。
 笑みを消して深く一つ呼吸すると、朗々とした声を発した。
「吾は是れ、天帝の執持しむる処の禁刀なり。凡常の刀に非ず。千妖も万邪も皆悉く済除す」
 続いて、天にかざしていた刀を、九字を切るように四縦五横に振るう。
「天は我が父たり、地は我が母たり。六合の中に、南斗と北斗、三台と玉女在り。左に青龍、右に白虎、前に朱雀、後に玄武在り。前後扶翼す。急々如律令」

 ――……。

 室内を、静寂が支配した。
 誰も、動く者はなく。動く物も、なく。

 ……酷く時間が長く感じられた。
 ふ、と。
 鶴来のその、閉ざされていた瞳が、開くまで。


<終――在るべき場所へ>

 覚醒した鶴来に、誰もがどう声をかけていいのかしばし迷ったその一瞬に、虎之助が、まずは彼と話がしたいからと言い、その場にいた全員を室外へと追いやった。
 室内に淀む気が無い事を確認だけすると、虎之助を除く全員は、一旦病室から出た。

 ふと。
 白鬼は自分の隣に立つ黒い式服の青年へと目を向ける。
 一度だけ、その後姿を見たことがある。手を失った少年の、その手が首を絞める云々という事件の時だ。
 もっともアレは、術による目くらましだったが。
 まともに会うのは昨日が初めてだったはず。今までは話をする機会すらなかった。
「……?」
 その視線に気づいたのか、青年――ルシフェルが顔を上げた。
「なんだ?」
「……キミ、どうして鶴来くんの瓢箪を持ち去ったんだい?」
 言いながら、上着のポケットに手を突っ込み、鶴来に預けられている瓢箪を取り出す。そしてそれをルシフェルに見せた。
「一応、これに関しては俺も関係者だと言ってもいいのかな」
「……どうしてお前が対(つい)を持っているんだ?」
「対?」
 わずかに眉を寄せて問い返す。
 その目の前で、ルシフェルは式服の合わせに手を入れて、何かを取り出した。ついと差し出される掌には、瓢箪が乗っている。
 それは鶴来から奪ったものだ。
「これが、七星当主が常に持つ、正(せい)。対は、当主が仕事の補佐を任せると決めた者に渡す物。対から正を呼ぶことができる」
「ああ、そうだね。俺も、これのお陰で何度か鶴来くんに唐突に会うことができたよ」
 それ以外になんの力もないと言われているが、それは本当のところ、どうなのか。
 問うと、ルシフェルは案外素直に答えてくれた。
 実際、それしか能力がないのだと。
「蓋を開けたところで、何が起こるわけでもない。対は、対の持ち主が魔に遭遇した時に、正の持ち主を呼び、食らわせるためだけに存在するもの」
「……一体この瓢箪は、何なんだい? そういえば鶴来くんが、こんなものを綺くんに渡していたんだが」
 言って、もう一度ポケットに手を突っ込み、シュラインから預かっていた銀の鈴を取り出した。
「これを燃やせばそっちの瓢箪が燃えるからって。それで瓢箪を封じられる、みたいなことを言っていたようだけど」
 その言葉に、わずかにルシフェルが目を眇めた。そして緩く頭を振る。
「よく燃やさなかったな」
「え?」
「燃やしていたら、那王の呪いは解けただろうが、俺が死んでいた」
「えっ」
 どういうことだ?
 てっきり、これを燃やせば鶴来が死ぬかと思ったのだが。
 まさか、ルシフェルが討たれていたとは。
 唇を歪め、ルシフェルがその鈴を掴む。
「封じどころか、中に封じられていたもの全てが一気に解放されていたところだ」
 その解放されたものの為に命を奪われ――呪詛をかけた本人が死ぬ事で、那王の呪いが解ける。
 そういう仕組みになっていたらしい。
「……俺を殺すかどうかという選択を、那王は綺に任せたということだな」
 呟き、ルシフェルは鼻を鳴らして笑った。
「自分では殺せないから、他人に任せる……甘さと弱さが混在しているあいつらしい選択だ」
「そうなる事を予測できたはずだろうに、瓢箪を持って行ったのはどうしてなんだい?」
「目が覚めた時にまだこれを持って居られたら厄介だと思ったからなんだが……結局、どちらにしても厄介な事に違いなかったな」
 どうやらルシフェルは、まさか鶴来が、自分が倒れても瓢箪の中を解放する手段を用意していたとは思っていなかったらしい。
 なんだか、命のやり取りのために相手の手を深くまで読まなくてはならない――まるで将棋かチェスのようだと思い、白鬼は顎鬚に手を当てた。
 兄弟相手にそんなことしか考えられないのは、疲れるとか……そんな程度の話ではない気がする。
 それは、あまりにも悲しすぎやしないか。
「……それで。キミはまだ鶴来くんを殺したいと思っているのかな?」
 ここで呪詛を解いても、まだ彼に同じ事をする意志があるのなら意味がない。
 だが。
 ルシフェルは緩く首を傾げて、笑った。
「いや。気が変わった。殺意の矛先を変えた」
「変えるって、誰に」
「俺と那王、そして真王に……こんな運命を強いた者たちだ」
 ふっと唇に残酷な笑みを浮かべ、彼は呟いた。
「やつらの慌てふためく顔を見るのが楽しみだ。いつまでも人形だと思っているなよ……」
 剣呑な呟きに、白鬼が眉を寄せる。
「奴らって」
「気にするな。ここから先は兄弟ゲンカではなく、ただのお家騒動だ」
 それは、つまり七星にまつわる血縁者を指しているのだろう。
 あっさり言うと、ルシフェルは手に持っていた瓢箪を白鬼の大きな手の中に押し付けるように預けた。
 白鬼がはたと目を瞬かせる。
「何だい」
「これは……あいつの力の結晶だ。俺が持っていても意味はない」
「……いいのかい? 俺に預けて。鶴来くんに返してしまうよ?」
「好きにしろ」
 素直ではないが、これはおそらく、返しておけと言うことなのだろう。
 そう意思を汲み取ると、白鬼は代わりに、持っていた『対』をその手に握らせた。それに、今度はルシフェルが目を瞬かせた。
「何だ」
「多分、俺が持っているよりはキミが持っているべきなんだろうと思ったんだよ」
「……これを持つのは猫の首に鈴をつけられるようなものなんだが。大体、那王がお前に渡したものだろう。俺に渡すのを、あいつは納得しないだろうし、……これがないと、お前は那王を呼べないぞ?」
「心配ない」
 ニッと笑うと、白鬼はとんとんと自分のこめかみを指差した。
「それは気合で何とかする方向で」
 その言葉に、ふっとルシフェルが笑った。
「変な坊主だ」
「キミにしても鶴来くんにしても、思いつめすぎなんだよ、いろいろと。思いつめすぎて動けなくなる前に……変な坊主でよければ話くらいは聞くよ」
 けれど、それにルシフェルは緩く頭を振った。
「お前は那王についていてやれ。俺には……」
 その時、病室の扉が開いた。中から虎之助が現れる。それをちらと見やって、唇を歪め。
「アレがいるからな」

 大きく息をつき、白鬼は室内へ戻る扉に手をかけた。
 目覚めた鶴来に、綺のことをどう伝えればいいだろう。
 そっとその手に、シュラインが手を置いた。ふと見ると、横顔のままシュラインは目を細めて切なげな笑みを浮かべた。
「支えてあげなくちゃ、ね。でないと壊れちゃうから、きっと」
「……そうだね」
 ゆっくりと、扉を開く。
 眠りから戻りし鶴来に、残酷な現実を告げる為に。

 けれど、決して壊れさせはしない。
 どれだけ険しくても、その道を照らしその手を引くと決めたのは、己自身。
 どれだけ傷付いても、どれだけ苦しんでも。
 ずっと、道を照らしてやるから。
 進む道が正しいかどうか分からない。けれども、共に進んでやるから。

 一つ深く呼吸した白鬼のその目には、揺るがない強い意志が宿っている。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0065/抜剣・白鬼 (ぬぼこ・びゃっき)/男/30/僧侶(退魔僧)】
【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0523/花房・翠 (はなぶさ・すい)/男/20/フリージャーナリスト】
【0689/湖影・虎之助 (こかげ・とらのすけ)/男/21/大学生(副業にモデル)】
【0856/綾辻・焔 (あやつじ・ほむら)/男/17/学生】
【2318/モーリス・ラジアル (もーりす・らじある)/男/527/ガードナー・医師・調和者】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 抜剣・白鬼さん。お久しぶりです。再会できてとても嬉しいです。
 救わねば、と思っていただきまして。
 おかげさまで、救われました。とりあえず、鶴来は救われました。…犠牲が他に出てしまいましたけども。
 プレイングの「銀行」ネタに笑ってしまったのですが、結局それを他のPCさんの前で披露することが出来ず…(笑)。
 あと、今回、初依頼の時に鶴来がお渡しした瓢箪「対」を、ルシフェルに返しております。
 今後、もし鶴来に御用の時には…携帯電話にでもかけてやってください。きっと、気合があれば繋がると思いますので(笑)。
 瓢箪仲間ではなくなりましたが、これからもいろいろと、この困ったNPCを支えてやっていただけるとうれしいです。

 今回、個別部分がけっこう多かったりしますので、あっちやこっちを読み進めていただけば、きっと、NPCについていろいろなことが分かると思います。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。