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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─オーケストラピアノ前夜─

【0A】

「……あら、」
 田沼・亮一(たぬま・りょういち)の探偵事務所を引き揚げた後、日常的な習慣で草間興信所に立ち寄ったシュライン・エマ(しゅらいん・えま)は応接室のデスクに怪奇探偵、草間・武彦(くさま・たけひこ)のだらけきった姿を認めて声を上げた。
「……戻ってたの?」
「……ああ、シュラインか」
 顔を上げた草間に代わって横合いから返事したのは、草間・零(くさま・れい)だ。
「そうなんです。夕方位に」
「……あら、そう」
「電話くれたんだってな、シュライン。……何だ?」
「……んー、……」
 シュラインは目を細めて草間の恍けた表情を眺めながら暫く逡巡し、結局「何でも無い」と明るく答えた。
「そうか」
「随分長いお出かけだったのね」
「……煙草の買い出しでな」
 しゃら、と音がする。草間が掲げたビニール袋にはカートン買いしたマルボロ──内一つは封を切って今現在も彼がくわえている──が入っていた。
「へえ、今日は豪勢なのね」
 その話題はそこで終わった。こうした、シュラインと草間の交わす言葉には別に裏は無い。──ただの、日常会話だ。
「……あ、そうそう。それとは別の件で、ちょっと知りたい事があるんだけど」
 シュラインは声の調子を変え、あくまで相談としてその話題を草間に持ち掛けた。
「何だ?」
「あのね、6年程前に遺伝子学的な方面から音楽研究に関わっていた研究者で、最近不自然な移動をした人材の有無なんか、分からないかしら」
「……遺伝子方面の音楽研究……?」 
 如何にも音楽音痴らしく、素っ恍けた返事を返した草間の様子はシュラインの良く知る彼の姿だ。
「……さあなあ……、」
「分からないわよね、……良いの、別に」
 シュラインはさっぱりとした笑顔を向け、キッチンに向かった。

──……ディテクター……、

 ──そう、彼がそうした、自分の知らない一面を持っていても、私は別に構わないし、追求する気も無い。
 社会にも組織にも、個人のレベルでは公に出来ることと出来ない事があって然る可きだ。いくら親しいからと云って、何でもかんでも知りたがり、また教える可きでは無いと思う。寧ろ、そうしたプライバシーを尊重する為にも、人間として社会に存在する以上、必ず属している組織の機密は守る可きだ。……モラルとして。
 草間がああだとしても……今日の事を考えれば、IO2の「垣根」は想像したより低いのだろうか? ……それとも……。──シュラインは料理の手を止め、小首を傾いだ。

「……単に、私が堅いだけなのかしら?」

「シュライン、」
 興信所を出ようとしたシュラインを、相変わらず無精そうな体でデスクに沈み込んだ草間が呼び止めた。
「──ん、何?」
「……さっき訊いてた事だけどな。……──大学の音楽行動学の助教授に、東京音楽才能開発教育研究所とか云う機関出身の学者が居る。……らしい」
「──そう。……ありがと、武彦さん」

【xxx】

 冬の雨は非情な程に冷たい。
 結城・磔也の感覚は完全に麻痺していた。寒さも、焼けるような腹部の痛みも最近になって著しくなった耳鳴りも何も感じない。
 殆ど這うような歩調でようやく目的の一軒家に辿り着いた。磔也は凭れ掛かるようにしてドアを叩き、家主の名前を呼んだ。
「冨樫さん、……俺、助けてくれ」
 
 東京ムジカオーケストラ第一トロンボーン奏者兼インスペクター、冨樫・一比は目を通していた新曲のスコアから顔を上げ、溜息を一つ吐いて立ち上がった。
 招かれざる客が誰かは直ぐに分かったが、だからこそ中に入れるのは面倒である。ドアを開けはしたものの、彼はその間に長身を立ちはだからせて対応に出た。
「冨樫さん、」
「……うわ」
 絶望的な笑みを浮かべて自分を見上げている少年が押さえている腹部から下は、真っ赤に染まっていた。失血の所為か或いは単に寒さの所為か、彼の顔色は紙のように真っ白だった。
「どうしたの、その怪我」
「里井だ、あいつ、刺しやがった、この俺を……」
「……で、刺された訳?」
 冷たい視線が淡々とした声と共に降って来た。
「頭が痛かったんだ、知ってるだろう、冨樫さんだって俺の耳の事、……周期的に耳鳴りがするんだ、喉も痛い、耳鼻咽喉系の神経自体がイカれてるんだ、仕方無いだろ」
「救急車、呼んであげようか?」
「冗談云うなよ、医者に説明出来る訳無いだろ、……助けてくれよ。忍も帰って来たし、レイにこんな所見せられやし無ェし、冨樫さんしか頼れないんだ」
「……んー、……今、散らかってるしねぇ……、それも、明日団員に配るパート譜整理してるから、血で汚されても困るし。何より僕、その準備で忙しいから手当てする暇無いし」
「……、冨樫さん……」
「磔也君、友達居るんじゃ無かったっけ? それも、多少の出血じゃ驚か無さそうな人が。結構問題になってたよ、忍さんの護衛だとか、IO2と勝手に取り引きした事とか。実は僕の所にも然る大財閥の御総帥が直々にお見えになって困ったんだよねえ。多分、磔也君その内外されるから僕より彼らを頼った方が良いんじゃ無いかな?」
「あんな連中……友達でも何でも無い、……大体……、忍の事はシドニーが……、」
 限界だ。彼はそこで意識を失い、熱に浮かされて目が冷めるまでそこに居た。

【1A】

「突然、お邪魔します」
 研究室に入るなり、シュラインは微笑を浮かべて丁寧に頭を下げた。彼女を出迎えた中年の男は一瞬、シュラインの美貌に目を見張った後で礼を返した。
「──出版社のシュライン・エマさんですね?」
「ええ」
 シュラインは、生物科学の専門雑誌を出版するとある出版会社の社名が刷り込まれた名刺を差し出して頷いた。ゴーストライターとは儲からない商売だ。が、こうした時に自分の力で、半分は嘘で無しに身分を証明出来るというメリットがある。
 ちらり、とシュラインは名刺を受け取る研究者の顔を盗み見た。彼が、草間が「……らしい」と教えてくれた元東京音楽才能開発教育研究所出身の音楽行動学者である。「御名前を出せる訳ではありませんけれど、特集記事の参考までにお話を伺いたいのですが」とシュラインは予め電話連絡で打診した。先ずどうした内容か、と訊ねて来た彼に、「芸術的な(敢て音楽、とは云わず)才能は果たして天性の才能かそれとも教育と育ちか、どちらに寄す物かと云うテーマで」と、尤もらしくも上手く情報を引き出す方向に流せそうな事を答え、「名前が出ないのは逆に好都合だ」と了承の意を貰った。
「重ねて確認しますが、名前が出る事は無いんでしょうね?」
 こうした慎重な質問に、軽々しく「勿論です」などと答えない方が信頼を得られる事は経験から良く知っている。
「先生の御名前が挙がった時点で、編集の行方とお話の内容に拠ってはインタビューとて御名前を乗せる可能性はありました。でも、都合が悪いと仰るのであればあくまで参考意見として記載はしません。お約束します」
「それなら結構です。伺いましょう」
 そこで、シュラインの視線とかち合った彼は極まり悪そうに云い訳した。
「……大学は、堅いですから……、勝手に、雑誌の取材に協力したりするとまずいんですよ、申し訳無い」
「お察しします。こちらこそ御無理をお願いして、すみません」
 シュラインは、その裏に企みがある事など全く思い当たりようの無い明るい笑顔で頷いた。

「氏か育ちか、と云うように、過去から現在まで色々な分野に於いて遺伝か環境か、どちらが勝るものかが問題として取り上げられています。先生の音楽行動学など、音楽分野に於けるそうした問題の専門だと思いますけれど、その点、如何お考えですか?」
「難しい問題ですが、まずは音楽能力には二種類が存在する点が問題ですね。先ず、特別な作曲や演奏の才能では無く鑑賞する能力ですが、この音楽能力は殆ど万人が持ち合わせます。と云う事は、音楽能力に遺伝的価値、生存能力があると云う裏付けになります。然し音楽を創造するという能力、音楽才能ですが、こちらの観点からは未だ結論が出ていません。前者の音楽能力は万人が持ち合わせる、人間の基本的能力である。これは確かです。ですから、それには遺伝的に価値があり、環境によって生成されるものでは無いと断言出来ます。然し、後者の場合はある程度私見になりますが、構いませんか」
「勿論です、私が伺いたかったのも、そうした創造者としての能力についてなんです」
 『東京音楽才能開発教育研究』、この場合の「開発」される「才能」とは、無論今彼が述べた理屈の後者を指すのだろう。シュラインは先を促した。
「結論から云えば、遺伝も環境も、両方が作用していると考えますね。この場合、キーワードはある特定のホルモンの連続値なんです」
「ホルモン?」
「テストステロンと云うホルモンの事は御存じですか?」
 シュラインはちら、と目の前の研究者の頭部を見遣り、その心配が無い事を確認してから頷いた。
「ええ、男性ホルモンの一種ですね。……一時期、発毛との関連性が話題になった……、」
「そうです。このテストステロンの値には男女差や季節毎の変動がありますが、最も大きい男女差は平均値で男性が女性の10倍程度です。そして個体差が存在する訳ですが。このテストステロンの季節毎の変動値と、古今の優れた音楽作品の製作時期の統計から、両者に関連性がある事が証明されたんです。私もこの、テストステロンの値が音楽才能を左右するという考えを支持しています」
「それと、遺伝問題に何の関係が?」
 ──以下、彼の説明を大雑把に纏めれば次のような内容である。
 先ず、元々値の高い男性に於いてテストステロンの値が低い時期に、多くの音楽作品が作られている。その事から、男性に於いては(目の前に女性が居るのに失礼だが、女性に於いてテストステロン値のデータを採取するのは難しく信頼性のあるデータが無いので御了承願いたい、と彼は付け加えた)テストステロン値が低い程音楽的な才能に優れる事が予測される。逆に、女性の場合は(元々の値が低いので)値が高い方が音楽才能に優れる。恐らくは男性に於ける低い値、女性に於ける高い値の交差線上に、最も音楽的才能に優れたテストステロン値が存在すると考えられる。
 更に、このテストステロンと云う男性ホルモンが、左脳の成長を遅らせる働きを持つと云う研究結果がある。左脳が言語能力を、右脳が感性や計算能力、空間認知能力を司るというのは周知の事実だ。一時期、「男性は人の話を聞かず、女性は方向音痴だ」と云う説が話題に登ったが、それはつまりそういう事なのだ。元々、男性ホルモンテストステロン値の高い男性は左脳より空間認知能力を司る右脳が発達し、女性は右脳よりも言語能力を司る左脳が発達している、と。
 そして胎児期に何らかの原因でテストステロン分泌に異常が起きると、左脳の発達が著しく抑制される。その結果、通常よりも右脳──音楽に必要な感性、また結局は数学的な要素を多く持つ作曲能力等──がその損失を補って発達し、肥大化した形で生まれる為に音楽才能に優れた脳を持つ事になる。何らかの原因とは、遺伝もあり、ストレスもある。遺伝も環境も、両方が関与すると云う結論はこうした事である。
「また、音楽才能に優れた人間には左利きが多いという統計もあります。左利きというのは、即ち右脳が発達しているからです。また逆に、左脳の発達が遅れている事が多い失読症、読書障害、自己免疫疾患の人間は空間認知能力が優れ、男女共に高い数学、作曲能力を示すというデータもあります」
「……、何だか、人間を数値化していると云うか……多少差別的な学説じゃありません?」
 シュラインはぴくり、と片方の眉を吊り上げ、挑戦的な微笑を口許に浮かべて切り返した。
「然し、事実ですよ」
「……そのデータ、先生が採られたものなんですか?」
 出来るだけ触り気無さを装って、訊ねてみた。
「元々、音楽行動学としてこうした研究テーマやデータは存在したんですよ。然し一応、私も裏付けとしてデータを採った事はあります。以前、ちょっとした音楽教育機関の研究室に居た事がありまして──、」
 ──しまった、口が滑った、と云うような表情で彼は言葉を切った。然し、シュラインにして見れば獲物が罠に掛かった瞬間である。賺さず、「それは、どちらの?」と訊ねた。
「……いや、極個人的な話で。聞かなかった事にして下さい」
「興味があります。……そこまで仰るからには、ラットで代用した動物実験なんて不正確な物では無いのでしょうね?」
 シュラインは如何にも思わせ振りな口調で身を乗り出した。「私はあなたを理解します、私達は同志よ、」と云うニュアンスを──勿論、ハッタリだが──匂わせて。
「……あなたは、」
「……あなたの研究成果を以てすれば、音楽の天才を作る事が可能だわ。東京音楽才能開発教育研究所が解体された今、東京コンセルヴァトワールでは間に合わない、……結城忍、」
 ぴくり、と研究者の口許が引き攣った。
「以前、天才的なピアニストである彼のクローンが作られたそうですね。17年前に一人、21年前にも更に一人、但しこちらは女性。男性のクローンとして女性が生まれてしまったのは何故? ただの事故ですか? それに、弟の方──結城磔也が、ああして勝手な行動を許されているのは何故、……もしかして、本人も気付かない内にシェトラン、東京コンセルヴァトワールの行方を左右する鍵の次期器だからでは?」
「一体、どこまで知っているんだ、君は!」
 悲鳴に近い声が上がった。シュラインは怯まない。美しい笑みを浮かべたまま、動じずに言葉を継いだ。
「心配しないで下さい、私はあなたに迷惑をお掛けする気はありません。ただ、音楽の天才の再現を見届けたいだけなんです」
 飴と鞭とは良く云ったものである。目の前の驚愕した彼の心理は今、最後まで果たせなかった研究の末路を見られるかも知れないと云う好奇心と、こんな見も知らず、事実の深層を突いている女性に情報を漏す事で東京コンセルヴァトワールから既に切られた自身へ危害が及ぶ事への恐怖の板挟みになっている筈だ。

 ──他言無用、と念を押し、シュラインが意気洋々と頷いた後に彼の告げた、結城忍とその「子供達」に纏わる事柄だ。
 結城忍は、究極の芸術家としての素質を完璧に兼ね備えた個体である。それは、何も音楽的才能や演奏技術、作曲能力などと云った事では無い。それらの才能は持った上で、彼が「シェトラン」であるには更に条件が付加される。一つ、彼の専門はピアノでなければならない。一つ、彼は彼の最優先事項を芸術として意識的、無意識的に持ち合わせなければならない、──あくまで無邪気に、その事で他の何を犠牲にしようと、それを他者がどう「利用」しようと、自身の芸術の追求にとってプラスとなるならば迷わずそれに従う程に。結城レイは意図的な失敗作である。男性のXY染色体からX染色体のみを選択し、一つとして女性であってもシェトランは継承出来るものかと云う実験の為、一つとしてその引き継ぎが可能であった場合、男性よりも遺伝子の維持に都合が良いと思われる女性とする事。──結果は、失敗に終わった。3歳にして彼女の音楽才能は極平凡なもの、辛うじて音楽的感性にやや優れると云った程度である事は発覚した。少々感受性の強い少女を一人生んだ所で何の役にも立たない。実験作の第2弾として、純粋なクローンが作られた。それが結城磔也である。──実際には、作られたのは一体だけでは無かった。が、結城忍の音楽才能に優れた脳の構造のデメリットとして、免疫疾患を同時に持ち合わせる事も分かっていた。磔也と同時に作られたクローンの内、大半は彼を残して免疫系の疾病で早逝した。遺伝子情報の解析から、そうした自己免疫疾患のピークが幼児期、7歳までにある事が分かっていた為に生き残った磔也はその後忍に引き取られるまで、無菌室に缶詰めで音楽訓練を施しながら養成された。用途に困った姉は一応忍に引き取らせていたが、ただ養っているのも無駄である。芸術の為には特に、自分にも他人にも冷酷な性質の忍のコピーであり、特にそうした限度を知らない子供の磔也が暴走する歯止めとして、「彼女は君の姉であり、君の所有物である。君は彼女に執着すべきだ」と云う刷り込みを、教育の中で行った。彼は姉に思慕を抱いている訳でも無ければただのシスターコンプレックスでも無い。特に幼少期の教育に拠る刷り込み的な影響は大きい。彼は、理由も無くただ姉は自分の物だから、他者に渡しては不可ない、彼女が逃げないように監視していなければならない、という強迫観念に捕われているだけである。同時に、姉弟を始めとして同じような経緯で作られた「音楽の天才児」達には全て「東京から出てはならない、それは死を意味する」と云う刷り込みが為されている。古今から、優れた芸術家の国外への流出は権力者に取って驚異であり悩みの種だった。それを未然に防ぐ為、東京から出てはならないという条件を彼等には刷り込んである。
「成る程ねえ……、なかなか、過去の失敗をカバーし得る教育法だわ。『完璧』ね。……あら、でも『シドニー』は? 彼女もそうした優れた音楽家のクローンでは無いの? でも、彼女はフランスに居るのよね?」
 シドニー・オザワ。不思議な事に、そうして完璧を期して作られたクローンよりも、たまたま紛れ込んでいた子供の中に更に優れた天才が居たりするものだ。シドニーは、完璧だった。結果、同世代の中では磔也よりもシドニーが優先される事になる。6年前、あまりに違法性の高い不透明な研究がIO2に目を付けられて名目上は解散した時にも、現在のシェトラン、結城忍と子供達の中で最も優先されたシドニーはお互いの監視役と云う役目を負いながらも国外へ逃がされた。その時には東京を出てはならない、と云う刷り込みは暗示で解除すれば良かったものだが、シドニーはそうした事とは無縁だった。デフォルトであまりに高い知性を持つシドニーには、根本的には他愛の無い刷り込みなど通用していなかったのである。
「……もしかして、近頃結城磔也が破滅的な行動に出ても黙認されていたのは、捨て駒だから? 別に、破滅しても東京コンセルヴァトワールにとっては痛くも痒くも無い存在だから?」
「恐らく……、それに、最近では彼には感音性難聴の急激な進行も確認された。耳が聴こえなくては役に立ちようが無い」
「感音性難聴……、中耳レベルの伝音性難聴では無い、内耳の有毛細胞が音を分析出来なくなってしまう、医学でも治せない種類の聴覚障害ね」
 ──可哀想に。シュラインは表面上、目の前の研究者から情報を引き出し続ける為に表情を取り繕いながらも内心で憐憫の情を覚えた。
 難聴では無いが、シュラインも十代の頃に言葉によるコミュニケーションを取れなくなってしまう障害を経験した事がある。彼女はそれを乗り越え得る意思の持ち主だったが──。
「……でも、結局の所『シェトラン』とは何なの? 『シェトラン』になり得る条件は分かったわ、でも、だから何だと? ただ優れた芸術家、と云っても良いのでは?」
「無論それでも構わない。ただ、シェトランとは……、象徴だ。過去から存在した、大いなる意思の」
「象徴?」
「──古典の時代から存在したマエストロ、……いや、そんな範疇には入らない。大いなる理想の、音楽の造り手の象徴だ。……言葉では云えない」
「……、」
 シュラインは黙った。聡明な彼女なればこそ、こうした専門的な話題を頭に入れながら聞く事も出来たが──一度、ゆっくり頭で整理する必要がありそうだ。
「もう一つ。では、クシレフとは?」
 ──クシレフ、彼の顔色が変わった。
「……知らない、」
「知らない? 本当に?」
「本当だ、連中のような──東京コンセルヴァトワールのような組織では機密保持の為に情報は分割されている、私のような特定の専門学者には一部の情報しか与えられていないんだ、専門外だ」
「……分かりました」
 もう良いだろう、──話し過ぎた。彼は、もう何を訊いても答えないぞ、という気色を見せて背を向けた。
 潮時だと、シュラインも潔く立ち上がった。莞爾と、ややサービス過剰な程の笑顔を浮かべて。
「有り難うございました。御協力に感謝します。『大学にも他のどこにも』、あなたの名前は出しませんからご安心を」

【xxx】

「厭な人間を敵に回しましたね」
 目の前の男が床の上に叩き付けた報告書を丁寧に拾い集めた冨樫・一比(とがし・かずひさ)はのんびりと呟いた。
「それにしても──財団までリンスター財閥の云いなりか。薄情なものですよねー」
「薄情、で済む問題か!」
「落ち着きましょうよ。この僅か一週間の間で──音楽大学、同付属高校、幼稚園、──出版社、それに今日で──財団も。いやあ、壮観ですよ」
 額を押さえて座り込んだ男は、良くもそんなに暢気にしていられる、と飄々の体の冨樫を見遣った。
「たかが、非常勤講師ですしね、僕」

 ──ここは、施設全体が一戸のビルディングを占める東京コンセルヴァトワールの最上階の一室である。莫迦──では無くて、権力者と煙は高所を好む。故に、冨樫が前にしているこの部屋の主が割合重要な地位に居るであろうことは予測が付く。
 冨樫と彼が何をして騒いでいるのかと云えば、今朝になって、今まで資金援助を受けていたとある財団から援助の停止を宣言されたのである。冨樫が先程列挙した名前も、全て資金援助、或いは提携活動を断ち切る、と云う組織だ。

「リンスター財閥、やってくれるじゃないか。……歳若い男が総帥だと云うが、奴が問題らしいな」
「若くないですよ。何でも725歳だそうです」
「……何を云っているんだ、君は」
「アイルランド出身の人魚だそうですよ。いやあ、大したもんだ。研究者達が知ったら愕然とするでしょうね、何せそんな人間が居るなら自分達の研究なんかただの徒労なんですから」
「……、」
 最早呆れて何も云えなくなった男への止めに、冨樫は「レイちゃんの情報ですから、信憑性があるか皆無か、どっちかですけどね、極端な情報しか集めて来ませんから、彼女」と微笑んだ。
「……結城のコピーか。……あれも全くの役立たずだ。弟の抑止剤だったが、その弟の方も死にかけているらしいな」
「ああ、里井君でしょう。彼、大分虐められてましたからね、とうとう『キレた』らしいですね。怖いですねえ、今どきの若者。知ってます、キレるとナイフで通りがかりの人間を刺すそうですよ」
 この二人、お互いへの対応には慣れているらしい。暢気な冨樫の軽口を聞き流し、男は「寿命だ」とだけ吐き捨てた。
「え、17で寿命ですか。早いなあ、だったら僕なんかどうなるんですかね」
「年齢の問題じゃ無い。……耳の聴こえない──それも感音性難聴の駒など、必要無い」
 怖、と冨樫は肩を竦めた。
「僕も気を付けるかな」

【2A】

「──いやあ、大したものだ。一応、心配して来てみたんですが、見事なお手並み、拝見しましたよ」
「──……、」
 大学の敷地を後にしたシュラインの背後から、飄々とした男の声が掛かった。振り返った彼女は、見知らない青年の──その声の通り飄々とした涼しい笑顔の──姿を認めた。
「あなたは?」
「ああ、申し遅れました。緋磨・聖(ひば・あきら)と云います、先日は家内がお世話になったようで」
「あら……、」
 背中までの長髪に、黒ずくめの風体。眼鏡の奥で一見人の良さそうな笑みを浮かべている彼の正体を知って、シュラインは目を細めた。
「IO2の関係者だと云う、緋磨さんの旦那さんね、あなたが?」
「関係者、と云う訳でも無いんですけどね、僕も妻も。まあ、IO2とはお互いに利用し合いながら牽制している仲、と云った所で。その事で先日は御迷惑をお掛けしたようですし、田沼もお世話になったようだし、……ディテクターには借りも作ってしまいましたからね、御節介ながら、エマさんが単身下っ端とは云え敵の許に乗り込まれた、と云う事で不慮の事故が無いかと」
「まあ、それは御丁寧に」
 緋磨相手にやや注意を払いながら、シュラインは口許だけで微笑んだ。……この男の方が、余程怪しい。
「巣鴨での田沼さんには、大分驚いたけれど。私自身、声が出ない、と思っていたら遮断されていたんだもの」
「もしかして、怒ってます? エマさん」
「いいえ。……ま、あわよくばホールと水谷には干渉出来る状態にして、IO2を利用出来ないかと思っていたからちょっと残念だったけど。結果的に人命に危害は及ばなかったのだし、……どうせ、IO2側への事後の手回しも完璧なのでしょう?」
「買い被りですよ」
 緋磨の底抜けに明るい笑顔を眺めながら、シュラインは溜息を吐いた。──道理で、先日来穏やかだと思った。
 それは置いておいて、という風に緋磨は穏やかそうに細めた目の奥に一条の光を煌めかせて話題を変えた。
「……ときに、彼からは何か聞き出せました?」
「黙秘、かな?」
 シュラインも微笑み返す。──乾燥した冬場の、冷たい風が2人の間を通り抜けた。
「現役科学者でも、依頼を受けた研究内容は家族や友人に対しても口外出来ないもの。それに倣ってみるわ」
「……ははあ、」
 緋磨は苦笑した。
「安心して下さい、俺だって近しい人間の命でも関わっていなければ、そうそう情報を漏洩する訳じゃありませんよ。妻はあれで、……見た目の通りかも知れませんが男勝りな性分で、口の堅さは信用出来ますし」
「ん、でもこの情報にも一応人命の安全が掛かっているし、約束した事だから。……堅いかと思うけど」
「……成る程、田沼が叶わない訳だ」
 それじゃ、失礼します、と緋磨は相変わらず人好きしそうな笑顔を浮かべたままでシュラインに会釈した。
「こちらこそ、御丁寧に。奥様に宜しく」

「……あ、」
 緋磨と完全に別れてから、しまった、とシュラインはぺろりと舌を出した。
「シェトランが『ピアニスト』でなければならない理由……訊きそびれたわね」
 然し、今更戻るのもどうか──。それにこれからウィンの呼び掛けでカーニンガム総帥宅に「作戦会議と情報交換」に集まる事になっている。そこで今聞いた事を伝えれば、何か分かるかも知れないし。

【xxx】

「未来小説 ユーフォニア、もしくは音楽都市」
──この小説はフランス人作曲家、エクトール・ベルリオーズが1852年に記した、音楽に全てを捧げ、グルックのオペラの『壮大な』記念上演を目指す共産主義的ユートピア思想の伺える共同体についての空想物語である。
 ユーフォニア市は音楽、芸術という「全体の崇高な目的」の為軍部の支配下にある鉄の規律に支配されており、クシレフは作曲家であると同時にユーフォニア市の音楽分野での最高責任者である。何故グルックか、と云う点にはただ「素晴らしく『壮大な』古典として」としか記述されていないが、恐らくは19世紀最大のグルック信奉者であったベルリオーズの個人的な趣味かと思われる。
 然しあらすじ自体は陳腐なスプラッタ、と一笑に伏されて然るべき単純なものである。
 女性歌手に裏切られ、復讐の為に大量虐殺、──『壮大な』破壊を目論むクシレフは彼女の誕生日のコンサートが行われる鋼鉄の音楽堂に残虐な仕掛けを施す。
 ところで、当時ユーフォニア市には一人の機械工の巨匠がいた。彼の製作した巨大なピアノは変化自在の音色と音量を持ち、それ故に『独りの名手が』奏するだけで、一団のオーケストラを遥かに凌ぐ音楽を発信することが出来た。──オーケストラピアノ。
 クシレフは鋼鉄の音楽堂とこのオーケストラピアノを接続し、その奏者として友人であるピアニスト、シェトランを呼び寄せる。
 女性歌手の誕生日祝いに大勢の人間が音楽堂に集った時、そこで悲劇が起こる。シェトランがオーケストラピアノを弾き始めると同時に鋼鉄の壁が内側に向かって聴衆を圧殺すべく押し寄せ、そこは阿鼻叫喚地獄と化す。クシレフはそれを音楽堂の外から傍観している。シェトランは目の前の悲劇にも気付かずにピアノに熱中したままである。

【3ADEGH】

「ウィンちゃん、ねえねえ見て見て、あの自転車!」
 カーニンガム総帥の屋敷の前に、常識破りな速度で急停止した一台のロードバイクが現れた。そんな移動手段を使う人間は1人しか居まい。きらり、と目の色を変えて(制止に走る可く?)窓の外を見遣った修一が首を傾いだ。
 ロードバイクを降り、てくてくと前庭を屋敷へと横切って来るのは前髪の長い怪し気な少女に在らず。それとは対照的な、明るい茶色の短髪を風に靡かせた辛子色のコートを着た青年である。
「あら、御影君?」
 透の歓声に吊られて窓を覗いたウィンまでが目を見張っていた。
「……レイさんに洗脳されちまったんだ……、」
 孝が溜息と共に、本人の前では云えないことをぼそりと呟き捨てた。
「こんにちは、」
 ややして、彼も書斎に入って来た。
「田沼さんは?」
「ああ、亮一さん? ……それがね、レイさんとデートなんだ」
 ウィンの疑問に、にこにこと(含み有り気に)涼が答える。
「デート!?」
「うん、奥多摩に冠雪を観に行くらしいですよ」
「あら、付いて行かなくて良いの、御影君? レイも薄情ね。……あ、でもその辺りって……、県境じゃ無いの。……良いのかしら、レイ、」
「亮一さんの誘いだしね、」
 東京都と山梨県の境にデート。……そうか。
「あ、先越されたか、」
 少し口惜しそうに孝が呟いた。──同じ事を、孝は異空間を利用して実験しようとしていたのだ。
「ま、田沼さんならパニックの時でも安心か……」
 自分なら結局、また封印札に頼って今後更にヒエラルキーの深淵に突き落とされそうだ。
「……そうそう、その亮一さんからの伝言なんだけど、……『無自覚』と『教育』がキーワード、だそうです」
「無自覚と教育……?」
 思案を始めたウィンを横目に、セレスティは「陵君、」と秘書に何事かを促した。命を受けて一旦別室へ出て行った彼が戻った時、手にしていたのは何やらしっかりとした、それでいて上品なデザインの箱である。
「どうぞ」
 修一はそれを涼に差し出した。「?」と首を傾ぐ涼には、セレスティが「コンサート用の正装です」と告げる。
「採寸に御呼びする暇が無かったもので不安ですが、腕の良いテーラーですから大丈夫でしょう。略式のスーツですが、学生さんはお持ちでは無いかと思いまして」
「うわ、良いんですか? 有難うございます、」
「天音神君もですよ、」
 それまで、涼を他人事のように暢気に傍観していた孝にも総帥の穏やか、且つ絶対的な声向けられ、修一が彼の前にも箱を置いた。
「へ……、」
「オペラの公演と云えば、正装はマナーですよ。いくら何でも、あまり大雑把な服装は不可ません。そうそう、それと、当日はその無精髭もきちんと手入れして来て下さいね、」
 くす、と──孝が狼狽するのを見抜いた上で──悪戯っぽい笑みを浮かべながら総帥は一部の人間が「絶対逆らえない」と断言する「命令」を下した。孝の血の気がさっと引く。
「ええ……(……そんな、ここまで伸ばすのに一体何年掛かったか……)、……いや、でもあのその(……仕方無い、最終手段を使うか……)、……分かりました、と……当日までには何とか……」
 悲愴な決意に満ちた声で孝が項垂れる。そこでカーニンガム総帥は莞爾と満足気な微笑を浮かべた。
「流石総帥☆ だったら私もとびきりの正装をして行かなくてはね、」
 うきうき、とウィンは孝の悲愴もどこ吹く風で両手を胸の前で組む。
「あ、良いなあ〜〜、オレもウィンちゃんのドレス姿、見たいよぅ〜〜〜〜、」
「ダメよ、透、随分事情の込み入ったコンサートなんだから。あなたは追試の勉強があるでしょ?」
「ええ〜〜〜〜、」
 愛情故の厳しい言葉を向けたウィンも、心から残念そうな透の表情にはついつい鬼にした心が一瞬で甘い色に染まってしまう。
「だから、その分良いコにしてたらクリスマスにはミニスカートのサンタ服を着てあげるからね、それで2人でパーティをしましょ、」
 飴と鞭。無邪気な透は直ぐに表情を明るく変えた。
「ウィンちゃんのミニスカサンタ!? 見たァ〜〜〜〜い、うん、じゃあコンサートは諦めるよ、」
「あなたって本当良い子、透、」
「……仲の良ろしい事、」
 優しくも呆れたような声と共に、「遅れてごめんなさい、」とシュラインが顔を見せた。
「ちょっと、インタビューに時間を取ったものだから」
「インタビュー、……、」
 シュラインとウィンは目配せと笑みを交わした。
「ええ、遺伝学と音楽才能との関わり合いについてね」
「聞かせて貰える? その中でお互いの情報と対策を検討して行きましょう」
 
 ──そして。シュラインは先程得たばかりの情報を簡潔に整理しつつかいつまんで説明した。
 結城忍が「シェトラン」と云う、理想の音楽家としての才能の持ち主である事、結城レイは実験的に女性体として作られたが、失敗作だった為に放置された事、その後複数体作られた忍のクローンの内、唯一生き残ったのが磔也であると云う事。
「忍さんに妙な意識が感じられなかった事、そして『シェトランはピアノを弾く事で現れる』という磔也の言葉、……それで当然なのよ、だって、シェトランは芸術家なの、芸術家は無邪気なのよ。その、あまりの無邪気さが時には他人にとって悪意になることもあるし、また策略によって暴力の為の武器、──プロパガンダとして利用される事もある。でも、本人はあくまで無邪気なの、芸術しか見えていないのよ」
「……どういう事?」
 ウィンは眉を顰めた。
「シェトランは、人格なんてものじゃない。もっと曖昧な観念だと云う事? ……でも……、……だとしたら、例えば忍さんのように子供の価値を才能で計ったり、ベルリオーズの小説では周囲の人間が圧殺されて痛みと恐怖で悶えていても気付かずに演奏に熱中したり……、芸術の為には一切の雑念を捨てる事さえも出来る情熱という才能、……それが、シェトラン?」
「そうよ」
 シュラインは確信を持って頷いた。
「……シェトランが才能の象徴だとすれば、……クシレフは?」
 ──恐らく、とシュラインは低い声で呟いた。
「シェトランが芸術家だとすれば、クシレフはそれを利用する悪意。芸術家を、使い方一つでアジテーターに出来る人間……独裁者」
「屹度、磔也君もシェップも間違っていたのよ。シェトランでは無く、クシレフを追う可きだったの。おそらくは、クシレフが全ての黒幕である筈。この間の幻想交響曲にしても、水谷を煽ったクシレフの策略であったとすれば……。磔也君が云っていた、『音楽の暴力』。あれも、音楽の罠よね」
 ドイツ出身のウィンの脳裏には、一つのプロパガンダの良い例が浮かんでいた。今年の夏に亡くなり話題に登った女性映像作家。彼女は第二次世界大戦中、ナチスドイツに協力したとして戦後、裁判で有罪判決を受けた。然し、彼女は純粋に芸術の為に撮っただけなのだ。芸術家は、無邪気。利用するのは独裁者。商業に於いてもそうだ。芸術家はあくまで商品であり、それを宣伝して売り出すのは興業主という他者である。
「……、あの、」 
 それまで、ある程度は予測が付いていたものの、近しい友人2人の素性を知ってしまい、額を押さえて項垂れていた涼がようやく口を開いた。
「音楽の罠、だけど、俺も……その、難聴の事調べててさ、幾つか仮説があるんだ」
「聞かせて」
「一つは音響性外傷。一定以上の騒音を瞬間的に聴いた事に拠って永久に聴覚を失ってしまう。もう一つは音楽癲癇。癲癇を引き起こす原因の一つとして、特殊な状態で音楽が発端になることがあるらしいんだ。何だか、そこまで音楽や人間をデータとして扱っている連中なら、何か……例えば振動数や音圧単位で特定の数値を割り出して、精神的ショックを引き起こすような騒音を発する事も考えていそうだと思う」
 ウィンは頷きながら聞き、更に確認した。
「この間の、ホールで磔也君が指示したレクイエムみたいなものね?」
「うん、」
「音楽って、一口に云っても色々学問の種類があるものなのね。演奏だけで無く、音楽理論、和声法、音響学、音楽療法学、音楽行動学、音響心理学……、それだけ、音楽の応用性があると云うことかしら。良くも悪くも」
「どう思われます? セレスティさん?」
 徐ら、シュラインが口許に笑みを含んでセレスティに話を振った。それまで黙っていたセレスティは、瞳を閉じたままで穏やかな微笑を浮かべた顔を上げた。
「──私ですか?」
「なんだか、全てお見通しのようなのだもの」
「……、」
 その一言で、一同の視線がくるり、とセレスティに集中した。仕方ない、と云う風にセレスティは軽く溜息を吐く。

【xxx】

「東京コンセルヴァトワールと各機関の繋がりや資金源について調べてみたのですが、その中で、どうも不穏な計画が浮き彫りになりましたよ。少し話が逸れますが、古くはバロックの時代から古典派、ロマン派、近代、現代、そして今やクラシックを凌いで世界の音楽の中心となっているジャズやポップスと云った音楽、実はこれらの音楽の区分けは、様式の他にも『その音楽が何処で栄えていたか』と云った観点からも行う事が出来るのです。例えば、現在ではジャズやポップスが全盛ですが、これらの大本の発信地はアメリカです。その時代の音楽の中心地、──それは、その時代の最も力、──財力、政治的な影響力、知名度等……ですね、そうした物を持った国なのです。音楽とその国の力というものは等しく発展するものなのですよ。19世紀初頭にはフランスで現代音楽が栄え、その後はドイツやイタリアに分散し、そうしたヨーロッパの各国が第二次世界大戦で凌ぎを削り合った結果、戦後の音楽の中心地は自国で戦争を行わなかったアメリカに移ったと云う訳です。……そして今、音楽の中心地を再びフランスに据えようと云う計画の情報を得ました。それはつまり、フランスに財力、政治的影響力、今では軍事力も欠かせませんね、そうした力を集め、フランスが世界を支配する時代を作ろうとする事です。そうすれば自然、音楽の中心地もフランスに移る事になりますからね、コンセルヴァトワールの中の一組織が何やら、小細工を行っているようですよ。不思議な事に、彼等の通信文書の中に『クシレフと遭遇』と云った言葉が多く見られたのです。クシレフとは、恐らく独裁者の地位を望む者。第二次世界大戦時のファシズムを思えば間違いはありません。ルクセンブルク嬢、あなたが磔也君の意識の中で聞いたと仰った、『クシレフはあらゆる肉体の壁を飛び越えて自分の前に現れた』と云う言葉と合わせて、意識レベルで独立した存在、そして彼は恐らくあらゆる固体を転移して生き延びる。私達が会っただけでも、最初は幻想交響曲の世界の中に、そして磔也君がそれをメモリカードに保存して水谷に与えた。クシレフが今、そうして東京に止まっている理由が、東京コンセルヴァトワールです。東京コンセルヴァトワールは、そうしたフランスで計画の挙がっている、云わば世界へ向けたクーデターの為の中継地として東京を利用する気です。遺伝子学の研究も、応用すれば音楽家だけでなく軍隊への転用が可能です。また、専門技師や優秀な科学者といった存在も作り得る。それに、音楽はプロパガンダとして非常に有効です。ナチスドイツの政治は、音楽を非常に巧く利用した洗脳であったと云えます。ルクセンブルク嬢の前で失礼ですが、あの聡明なドイツ人種がその計略に掛かってユダヤ人を敵と認識したのです。私は、今度のオペラの上演を一種の洗脳作戦だと予測します。被害の軽減の為、チケットの買収を計ったのですが、大半は回収出来ませんでした。何故だと思われますか。……殆どが、音楽大学や音楽高校等の団体で、学校行事、或いは必修課外授業として組み込まれていたからです。音楽を専攻する若者を「中心」に聴衆に選んでいる、……洗脳は怪しまれますね」
 ──……。
「ホールへは、実際に行くしか方法は無いと思われます。東京コンセルヴァトワールへ今後の対策としては、少々野蛮ですが資金源を虱潰しに絶つと云う方法を取りました。大分、協力して頂きましたよ。……副産物として、奨学資金の縮小を行った為に、海外へ散っている留学生の大半が東京へ戻る事になりました。シドニー・オザワ、彼女も帰国します。彼女へは特別に、ルクセンブルク女史の御名前をお借りしてコンタクトを取ってみました。恐らく、19日までには帰国することでしょう。今後、フランスで泳がせるよりは少々リスクはあっても、実際に東京で対面して置く方がいいかと思われます」

【4ADEGH】

 それでは実際に当日、ホールで。──と云う話になって各自が帰り支度は始めた時だ。孝が、何気無く思い出した事を口にした。
「そう云えばさ、磔也なんだけど、どうもあれから一回も家に帰って無いらしいんだよなー。レイさんは喜んでたけど、」
「え?」
 ウィンは慌てて孝を振り返った。
「どういう事? 帰ってないって、」
「ん、だから会ってないんだってさ。親父さんは『自分に会いたく無いから友達の所にでも泊まってるんだろう』って云ってるらしいけど、あいつ友達なんか居たっけ? レイさんはレイさんで『どっかで野垂れ死んでるんじゃない?』とか云うし……」
「あれじゃ無いの、『プチ家出』」
 昨今の高校生は大した理由も無く、不意に家に帰らなくなるらしい。期間が所詮2、3日乃至一週間程度である為『プチ』と云うそうだ。その意見が憧れのシュラインのものだったので、孝は単純に「あ、そっか」と納得してしまった。──が。
「分からないわ、この間の後だもの、IO2に狙われたりしたんじゃ無いかしら、心配よ」
 ウィンは優しい。表情を心配に曇らせ、本気で彼を心配していた。
「……あ、磔也なら大丈夫。アイツなら今、くらちゃんの所に居るよ」
 突如、涼は温厚な表情で告げた。
「くらちゃん?」
「あ、倉菜ちゃん。この間ホールに居た銀髪の娘」
 ──さっ、と孝の血の気が引いた。銀髪の……って、……あの……。
「でも、どうして?」
「……うん、」
 涼は、多分知られたがらないだろう怪我の事は云わず、「風邪引いたんだ、」と半分だけの事実を告げた。
「どうも雨の中を薄着でうろうろしてたみたいで、殆ど意識を無くしてた所をくらちゃんが見付けたみたいなんだ。俺、呼ばれて診察して来たよ。大分熱があったけど、その所為で意識が混濁してたのが倖いだったかな。逆に、大人しくしてるじゃないか。昨日も様子見て来たけど、大分元気そうだったよ。顔を合わせたらまた反発されそうだしそのまま帰って来たけど」
「あらまあ、」
 意外な展開だ。ウィンとシュラインは顔を見合わせた。
「つか、磔也なんか止めて硝月嬢の方こそ大丈夫なのかね、」
 孝は不安気に涼に訊ねた。彼はその脳天気な性格故にあの不良学生さえ友人と認識してしまうお人好しだが、何しろ血の気の多い年頃だし、──孝個人としては問題があるものの──美人な娘だし。涼は気楽に苦笑した。
「大丈夫だと思うよ、そこは。くらちゃんの家、お祖父さんの楽器工房でほとんどお父さんみたいな元気そうなお祖父さんも居るし、他にも見習い職人達が出入りしてたし。……可笑しかったなあ、昨日俺が訊ねた時はくらちゃんが未だ学校だったんだけど、ピアノをどうも勝手に弾いてたみたいで、うるさいってお祖父さんに怒られてた」
 先入観によるイメージで、厳格で頑固そうな楽器職人からうるさいと怒られている居候姿の磔也を想像して思わず吹き出してから、ウィンはふと質問を発した。
「……所で、何弾いてたの、彼?」
「それがさ、幻想交響曲」
「ピアノで?」
「そう。何か凄い事やってたよ、」
「交響曲なのに……、即興で編曲したのかしら、」
「リストですね」
 不意に、それまで黙っていたセレスティが穏やかに告げた。
「リスト?」
「幻想交響曲では『死の舞踏』でお世話になったでしょう、フランツ・リストですよ。ベルリオーズと親しかったリストは、彼の交響曲や合唱曲の殆どをピアノソロ用に編曲しています。とてもピアノ一台とは思えない超絶技巧の代物ですが、それだけに上手く演ればオーケストラに勝るとも劣らない壮大な作品群です」
「オーケストラ曲を独奏……、ピアノならではね……」
 唖然とするウィンを眺めて居たシュラインが、不意に「ん?」と小首を傾いだ。
「……ピアノ……、」
 ──成る程。シェトランがピアニストでならなけば不可ない理由。
 ヴァイオリンやフルート等の旋律楽器では、とうてい一人ではオーケストラに匹敵する「壮大な」演奏は出来ない。然し、オーケストラというのは大人数による共同作業である。手軽に行動出来る訳では無い。指揮者にしても、余程優れたオーケストラの前に立たなければ実力を発揮出来ないのだ。
「……ピアニストならば、それが可能だと云う事? ……一人の人間で、『壮大な』音楽が作れるなら……プロパガンダに利用する事も簡単……、」
 ──そしてその背後では、セレスティがにこやかな微笑を浮かべて孝を手招きしていた。
「は、はい。何でしょうか」
「──天音神君。19日の事なのですが」
「はい?」
「どうも、レイさん、磔也君の幼い頃からの知り合いがシドニー・オザワの他にも一人、お見えになりそうです。先日話題に上った、東京コンセルヴァトワールの非常勤講師で東京ムジカオーケストラのインスペクターですが。どうも、話術が巧みなお方のようで。中々腹の内が探れないのです」
 困りました、と云うように総帥は物憂気な表情で宣う。
「……はあ、」
 孝は厭な予感を感じながら、殊更空恍けて曖昧な相槌を打った。
「……ルクセンブルク嬢にも御協力頂ければ、楽屋等で面会が可能かと思われます。そうした理由で、天音神君、宜しくお願い致します」
 当然のように、総帥は莞爾と微笑んだ。
「……へ? 俺が、会話で駆け引きするんですか、その人と?」
「それで上手く行けば良いのですが、中々手強そうな相手ですよ。……それより天音神君なら、もっと効果的で確実な方法があるではありませんか?」
「──……、」
 『あまねちゃん』の絶叫が屋敷内に響き渡った。

【xxx】

 葛城のアパートは文京区か……。
 今からじゃ電車は無いだろうし、タクシーでも拾うか。

 別に、あのまま倉菜の祖父の工房に居座っても良かった筈だ。が、何か──倉菜のあのきれいな顔を見ていると無性に自分が惨めに思えて遣り切れなかった。彼女の云う通り、こんな時に頼れる友人が居ない。唯一信頼していた冨樫からは──東京コンセルヴァトワールも含め──冷たく突き放されたし、姉にも養父にも会いたく無い。亮一は信用出来ないし信用されてもいないだろう。何より事務所包みでIO2とも繋がりがあったなんて、あんな探偵に関わるのはヤバい。然もにこにこ笑いながらピアノの蓋で指を潰そうとした奴だ。なんとか財閥総帥も然りだし、それを云えば東京随一の怪奇探偵、草間武彦と繋がりのあるシュライン・エマも同じだ。優男──御影涼、駄目だ、あいつだけは苦手だ。何故、あそこまで人が好いのか分からない。優しい人間は苦手だ。……(恐怖の対象でもあり、宿敵と云えるその兄は無論)ルクセンブルクも同じ理由で厭だし、天音神、──論外。名前を思い出すのも厭だ。
 ──となれば、矢張りここはちょっと脅せば多分黙って云う事を聞くだろう葛城樹しか居ない。
 水谷のデスクから失敬して来た樹の履歴書を手に、(終電後のような深夜に押し掛けるという樹の迷惑は考えず)逡巡して通りに目をやった磔也の肩を、背後からとんとん、と叩いた手がある。
「あ……?」
 振り返った磔也の顔色がはっきりと変化した。
「Cava ?」
 目の前にあったのは、端正な少女の笑顔だ。シドニー、……磔也の声は上ずっていた。
「……いつ、帰って来た、」
 返事の代わりに、少女は何気無い動作で磔也の腹部を押さえ付けた。激痛に悲鳴を上げた少年が蹲っても、東京の明るい夜では誰が目を止めるでも無い。
「厭だ、痛そう。……ねえ、ちょっと確りしたら? みっともないわよ、そんなに顔歪めちゃって。……ねえ、聴こえてる? もしかして、もうそこまで駄目になってる訳?」
「シドニー!」
「あなたが厄介な相手に情報流した所為で、皆が迷惑してるのよ。私だって奨学資金の縮小で呼び戻されちゃったの。……今後は、東京コンセルヴァトワールだってまともに機能出来ないわ。安心して、私はもう直ぐ自分でフランスに帰るわ。あなた、もう駄目なようだし、永遠のお別れになるわね。寂しいわ。昔のあなたは良かった。今はこんなに惨めだけど。……最後に、あなたのデータを貰って行くわ。来て頂戴。直ぐに終わるし、痛くないわよ」

「……お?」
 夜の街を我が物顔で行く紹介屋、太巻・大介(うずまき・だいすけ)の目に、一組の男女の姿が映った。
 未だ十代の少年少女だ。何やら、揉めている。傍目には痴話喧嘩でもしているようで、東京の人々は気にも止めずに通り過ぎて行く。が、少年の方は太巻の見知った顔である。久し振りだ──と思って見れば、彼は面識のある人間なら異常に気付かない訳は無い苦痛に満ちた表情をしている。一旦その光景を目に入れた太巻の目は誤魔化せなかった。
「……貸しでも作ってやるか」
 揶揄かいついでに……。──太巻は、歩を進めた。

「よお、久し振りじゃねェか」
「……?」
 磔也と、もう一人の端正な顔をした少女は同時に顔色を変えた。
「太巻……、」
「……どなたかしら、磔也?」
 少女は太巻にあまり友好的では無い笑顔を向けた。磔也はと云えば、未だ腹部を押さえたきり俯いている。──本当に、手間のかかるガキだ。
 太巻は磔也の腕を取って少女から引き剥がした。
「ちょっと?」
「ああ、ナンパならやめとけ。残念な事にコイツ、あっちの気があるもんでな。あんたみてェなきれいな嬢ちゃんには勿体無ェよ」
「何だとこの野郎──」
 磔也が眉を吊り上げた所で、その反論を皆まで云わさず太巻は彼の顎を無理矢理持ち上げて──実際には頬の辺りに──キスをくれてやった。無論、クールで知的な女性を好む(然も妻子持ちの)太巻とこの不良学生が好い仲な訳では無い。単純に助けるのも面白く無い、のでどうせなら思いきり磔也が厭がる事をしてやろうと悪乗りしただけである。
「磔也!」
 少女の血の気がさっと引く。同時に、太巻の頬が少女以上に顔面蒼白な磔也の平手で(本気で)張り飛ばされた。
「痛ェな、」
「何の積もりだこの変態、──痛……、」
「暴れるからだ」
 暴れたのは誰の所為だ。少女は既に口唇を震わせ、2人を嫌悪感に満ちた目で蔑視している。──これで、追っては来ないだろう。
 数十秒後には、それまで誰の注意も集めなかった磔也は一瞬にして人目に晒される事になる。彫りの深い顔立ちの、香水と煙草の匂いを漂わせた男に何やら仲良さそうに引き摺られて移動すれば、それは当然の結果である。然し、彼等の行き先は二丁目に在らず。

 ──「時空の狭間」。東京の人間がふとした弾みで迷い込む。ここは、太巻の縄張りだ。
「何があったかは知らねェが、おめェみてェなガキが美少女とイチャついてんのが気に喰わなかっただけだ。文句なら聞かねェぜ、」
「……貸しを作ったなんて思うなよ、」
 未だ憎まれ口を叩いている磔也に、太巻は口の端に咥えた煙草の煙を吐き出しながら「医者、紹介してやろうか」と低く訊ねた。
「……、」
 磔也は俯いたまま頭を振る。それを眺めながら、太巻は僅かに目を細めた。
「……何か、訳有りみてェだな」
 ──ぱさ、と音がして磔也が顔を上げると、目の前に「おくすり」と書かれた──病院の処方箋のような何の変哲も無い──紙袋があった。
「MS(硫酸モルヒネ)と抗嘔吐剤、抗生物質だ」
 太巻は囁き声で中身を告げ、「とっとけ。困った時はお互い様、だろ?」と口の端に笑みを浮かべた。
「……、仕方無ェなあ、……『借り』といてやるよ」
 紙袋に手を伸ばし、暫くしてから磔也は云い足した。
「……借りついでに、……太巻、……チャカ、用意出来ないか」

【7】

 12月19日。ホールの入口で待ち合わせた面々は揃って中に入った。──譜面捲りの名目で、舞台袖に潜り込む事に成功したウィンを除いて。

「何かあったら、私はサイコで弦を切る積もりよ。そうならない事を願うけど」
 別れ際にウィンもそう云っていたが、樹は予め複数の耳栓は持参していた。そしてメージを受けた精神を癒す効果のある呪歌を保存したPC。──磔也の置き手紙から、今日は必要無いかも知れないとは思いながら、念の為。
「……はあ、」
 隅の方で、孝が肩を落として溜息を吐いている。本日はライトなピアノコンサートという事で普段通りの服装であるが、彼の気分の重さはコンサート後の予定にあるらしい。反面、セレスティは常通り穏やかながらもどこか楽しそうだった。
 ちらり、と倉菜はそんな孝を見遣った。先日、自分の顔を視て露骨に厭な顔をされた事が今だに気になっている。
「……、」
「……、」
 ふと、視線を上げた孝は倉菜と顔を合わせた。
「……あ、」
「……、」
 ふい、と顔を反らした倉菜の許へ駆け寄り、孝は突如頭を下げた。
「ごめん、」
 視線を戻した倉菜は「?」と首を傾いでいる。その顔を相変わらず複雑な心中で眺めながら、孝は低声で告げた。
「君、俺の妹に似てるんだ」
「え?」
「……そんで、吃驚しちまって、こないだは、つい。厭な思いさせたかも知れない、御免な、」
「……、」
 そうして孝はそそくさと、再び倉菜から遠離った。
「……何だ」
 そのあまりに肩身の狭そうな様子を眺める倉菜は、可笑しくてつい吹き出した。
「エマさん、」
 亮一は隣に掛けたシュラインにそっと耳打ちした。
「緋磨から聞いたんですが、……先日は済みませんでした。……勝手に『遮断』してしまって。まさか、エマさんにそんな不都合が生じるとは思っていなかったので……」
 先月の13日の事だ。後から聞いた所に拠れば、亮一の能力で遮断されてしまうとシュラインは声自体が発せなくなってしまうと云うことである。恐縮する亮一に、シュラインは苦笑したながら溜息を吐いた。
「良いのよ。……ま、仕方無かったんだものね。ただ、出来れば今度からは事前に合図して下さいね」
「すみません」
「……それより……、……田沼さん達の情報網って、本当に広いのね。緋磨さんの旦那様にまで御会いして、吃驚したわ」
「……まあ、色々」
 亮一も苦笑いを返した。
 その横で、礼儀正しい彼らしく既に今日からスーツ姿の涼はそわそわと開演前のホールを見回して居た。以前にセレスティが云った通り、学生が多くて見分け難い。
「葛城さん、」
 涼は樹を掴まえた。樹の所に居ると聞いていたが、何でもまた再び直前に行方をくらましたと云う事だ。──太巻から穏やかで無い事を聞いた涼は、落ち着かない。
「磔也、来てる?」
「……分かりません、……ごめんなさい」
「いや」
 莞爾と涼は微笑んだ。彼が『視て』も、磔也の気配は感じられない。──とすると、今日は来ていないのか……。
 ……が、未だ客席を見回していた涼はある一点で視線を止めた。
「……、」
 とんとん、と亮一の肩が軽く叩かれた。
「亮一さん、俺、ちょっとあっちに移動するよ」
 涼が一席だけ空きのあった前方を指した。──そこを見遣り、空席の「前」の人間を認めた亮一は微笑を崩さず、目だけを少しく細めて頷いた。

 ──会場が段階を経て暗くなり、開演を告げる、オルガンをサンプリングしたアナウンスが響いた。
 
【8】

 プログラムは、ヘンデルからベートーヴェンまでの古典作品のみで構成したピアノソナタと小品だった。
 オーケストラ等派手な構成ならばともかく、ピアノ一台では、今どき、音大生にも退屈な演目である。当初には怠惰な鑑賞姿勢の見えた聴衆には、然し演奏開始後から明らかな変化が訪れた。

 厳密に設計されたホールの音響効果もあるだろう。クラシックの演奏に最も適した残響は2秒と云うことだが、ユーフォニアハーモニーホールは見事にその条件を制していた。
 ──それ以上に、……否、その両方の条件を備えていた所為か、シェトラン、結城忍の演奏が壮絶だった。
 別段派手な訳では無い。基本的に、楽譜に忠実な古典派が専門らしい演奏である。が、そもそも独奏と云うのは尋常では無い集中力と情熱を必要とするものだ。綱渡り、と云うが、そんなものでは無い。ピン、と張った一本の細い糸の上を、バランスを崩す事無く、真直ぐに進む状態だ。それを達成し得るヴィルトゥオーソの演奏は、特に同じく演奏を専攻する者ならば直ぐに理解して目を見張る。
 
 ──周囲の音大生達の熱心な態度を眺めながら一同が感じた事は、もしもこの熱狂がプロパガンダに利用されれば……、と云う予感である。

 然し本番自体は何事も無く過ぎた。勿論、演奏上のミスを含め、何事も無く。
 アンコールで再び舞台に現れた時、傍にはウィンが楽譜を持って付き添っていた。
 無愛想に曲目紹介も無く奏され出した旋律を聞いた樹は、はっと身を乗り出した。──覚えのある旋律だ。

──『妖精の踊り』、
 
 グルックのオペラ、「オルフェオとエウリディーチェ」の中の一曲だ。フルートの優美な旋律の曲だが、ピアノ一台用に編曲してある。
「……、もしかして、」
 
 これが予告編だとすれば、可能性として、明日のオペラでのバンダは、オーケストラでは無いのだろうか。例えば、全曲をピアノ一台で演奏出来るように編曲してあり、ホールの構造と「オーケストラピアノ」を合わせ、「一人の音楽家」でもオーケストラに匹敵する効果を上げられる事を証明する為……。

【xxx】

 魔法少女☆あまねちゃん──基い、淡い緑の髪を背中まで垂らし、金色の大きな瞳をどこか不機嫌そうに吊り上げた美少女はやや俯いて淡々と語り出す。

「……今日は、クシレフは居ない。本番はあくまで明日。今日は前夜祭だ。全ては明日起こる」
 他には? と命令者本人であるセレスティは先を促す。
「過去の記憶が知りたいですね」
「えと。先ず、シュラインさんの仮説は大体当たりだ。つまり、結城家の連中の素性だけど。……あと、この人、冨樫氏も元はと云えば洗脳、つか教育された人らしいな。……この人が……これ、何だろ? (孝はあまりこちらの世界の固有名詞には詳しくないらしい)何か、管楽器。これを始めたのが10代の時で、そこで東京音楽才能開発教育研究所付属の音楽教室に通ってた。その頃から、この人の思考が段々、何つーか、妙に腹黒くなって行ってるような」
「矢張り、教育と云う『暴力』ですか」

 シドニーは、終演後の混乱に紛れて姿を消した。
 樹やウィンの対策は決して無駄では無かったが、今日ばかりは何も不穏な事は起こらずに終わった。──逆に云えば、磔也の警告が真実であったと云う事だ。だとすれば、「20日はヤバい」と云う言葉も的中する筈だ。
 セレスティと孝は冨樫を解放して意識を失わせてから、レイを連れて脱出した。シュライン、倉菜、亮一、涼、樹は周囲のの音大生達と共に一般客としてホールを後にし、途中でウィンが合流した。

「ちょっと肩透かしだけど、今日だけでも無事に終わったのは良かったわ」
 歩きながら、ウィンがそう笑顔を見せた。
「近くで忍さんを見ていて、何か気付いた事ある?」
 シュラインが訊ねる。ウィンは肩を竦めた。
「んー、……あれがシェトランなのね、って感じかしら。……何だかね、怖いくらいなのよ、あまりに集中力が鬼気迫っていて」
「ウィン従姉さん、」
 横合いから遠慮勝ちに声を掛けたのは樹だ。
「従姉さん、あのアンコールの楽譜なんですけど、……誰が編集したか、分かりませんか」
 ああ、「妖精の踊り」ね──。とウィンは微笑んだ。
「忍さん本人よ。楽屋でちらっと見たけど、どうも『オルフェオとエウリディーチェ』全編、オーケストラパートのピアノ編曲譜があるみたい」
 矢っ張り──。
「明日ね、全ては」

【zero】

──どうして?
 
 なんで、こんな事になってるの?
 ただのピアノコンサートじゃない、何を皆警戒してるの?
 なんで、私は今まで東京に居たの?

 冨樫さんを信用しちゃ不可ないってどういう事?
 磔也が見殺しにされたってとういう事?
 
 たかがコンサートじゃない、何が起きるって云うの?

──もう厭だ……、

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】

【渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生】
【太巻・大介 / 男 / 30 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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相変わらず、長らくお待たせしてしまいました。
更に今回は理屈が多く、あまりに長い個別パートに辟易されたかと思います。
本当に申し訳ありません。実力不足を痛感します。
それにも関わらず、続投を頂いた皆様、本当に有り難うございました。
今回、受注時に取ったアンケート結果は以下の通りでした。

1)里井薫に刺される。(重症)…………3
2)里井薫に刺される。(瀕死)…………0
3)里井薫に襲撃されるも、返り討ち。…1
4)ただのプチ家出。………………………6

重複不可、とは書いていなかった為、敢て二重回答もそのままカウントしました。
内容が内容だけに微妙な所で、多数決よりも数を反映した積もりです。
然し全体的な話の流れをこうしたアンケート式で決定するのも面白いと思いましたので、今後色々な点で取り入れて行こうと思います。

連載開始当初はそんな積もりでは無かったのですが、どうも今回のシリーズでは理屈が多いです。音楽理論、耳鼻咽喉学、生体学等に関しては一応の下調べはしてありますが、私は専門家ではありません。表記に誤りがありましたら、御自分のPC設定、プレイング内容の読み誤りなどと合わせて遠慮無く御一報下さい。

次回、最終話の受注は12月29日月曜日、午後8時から行います。
最終話には3つのシナリオ分岐アンケートを設定しました。
PL様方は恐らく今、モニターの前で呆れ返っておられるかと思いますが、気分が乗れば最終話にも参加してやって下さいませ。
尚、後日談としては最終話の後に一話、独立して受注を考えています。

反省点を抱えたままですが、今回御参加頂いた事に心より感謝致します。有り難うございました。

■ シュライン・エマ様

前回、不可能な筈の行動を取らせてしまったとの事です。
田沼氏とPL様に責は無く、寧ろ迷惑を掛けてしまった程です。
完全に私のミスであり、読みが浅かったと反省しております。申し訳ありませんでした。
疑問点についてはNPCの旦那様からそれとなく答えて頂きましたが、晴れましたでしょうか。

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