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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─オーケストラピアノ前夜─

【xxx】

 冬の雨は非情な程に冷たい。
 結城・磔也の感覚は完全に麻痺していた。寒さも、焼けるような腹部の痛みも最近になって著しくなった耳鳴りも何も感じない。
 殆ど這うような歩調でようやく目的の一軒家に辿り着いた。磔也は凭れ掛かるようにしてドアを叩き、家主の名前を呼んだ。
「冨樫さん、……俺、助けてくれ」
 
 東京ムジカオーケストラ第一トロンボーン奏者兼インスペクター、冨樫・一比は目を通していた新曲のスコアから顔を上げ、溜息を一つ吐いて立ち上がった。
 招かれざる客が誰かは直ぐに分かったが、だからこそ中に入れるのは面倒である。ドアを開けはしたものの、彼はその間に長身を立ちはだからせて対応に出た。
「冨樫さん、」
「……うわ」
 絶望的な笑みを浮かべて自分を見上げている少年が押さえている腹部から下は、真っ赤に染まっていた。失血の所為か或いは単に寒さの所為か、彼の顔色は紙のように真っ白だった。
「どうしたの、その怪我」
「里井だ、あいつ、刺しやがった、この俺を……」
「……で、刺された訳?」
 冷たい視線が淡々とした声と共に降って来た。
「頭が痛かったんだ、知ってるだろう、冨樫さんだって俺の耳の事、……周期的に耳鳴りがするんだ、喉も痛い、耳鼻咽喉系の神経自体がイカれてるんだ、仕方無いだろ」
「救急車、呼んであげようか?」
「冗談云うなよ、医者に説明出来る訳無いだろ、……助けてくれよ。忍も帰って来たし、レイにこんな所見せられやし無ェし、冨樫さんしか頼れないんだ」
「……んー、……今、散らかってるしねぇ……、それも、明日団員に配るパート譜整理してるから、血で汚されても困るし。何より僕、その準備で忙しいから手当てする暇無いし」
「……、冨樫さん……」
「磔也君、友達居るんじゃ無かったっけ? それも、多少の出血じゃ驚か無さそうな人が。結構問題になってたよ、忍さんの護衛だとか、IO2と勝手に取り引きした事とか。実は僕の所にも然る大財閥の御総帥が直々にお見えになって困ったんだよねえ。多分、磔也君その内外されるから僕より彼らを頼った方が良いんじゃ無いかな?」
「あんな連中……友達でも何でも無い、……大体……、忍の事はシドニーが……、」
 限界だ。彼はそこで意識を失い、熱に浮かされて目が冷めるまでそこに居た。

【1B】

──酷い事、云っちゃったな……。
 
 硝月・倉菜(しょうつき・くらな)はすっかり暗くなった冬空の下を、彼女の通う神聖都学園から祖父の工房への帰路につきながらぼんやりと考えた。
 ここ数日来、学校での部活動や工房での修行に打ち込みながらもずっと気に掛けていた事だ。先日の一連の騒ぎ、あの不良学生が加担した原因が彼の聴覚異常だと知って、……つい、「最低」と云ってしまった。
 自分だって他人事では無いし、音楽に関わる人間にとって耳がどれほど大切かも良く分かっていた筈なのに。
 気になる事と云えば他に、「また音響に関した仕事を頼む」と云っていた巣鴨ユーフォニアハーモニーホールから、人事担当者である水谷とは違う事務員から「経費削減の為、申し訳無いが人員を削減する必要に迫られた。アルバイトの話は縁が無かったと思って欲しい」と云う電話を受けた事もある。──バレた、だろうか。然しそこはまた別の対策を考えれば良い話だ。楽器職人である祖父のコネクションを使えば、ホールの音響設備に彼女の手を加える事も不可能ではないだろう。──矢張り、一番悔やまれるのは……。

 ──悔やんでいても仕方ない。今度会ったら謝ろう。そして、治療を勧めて、必要ならば父に腕の良い医者を紹介して貰って……。

 ──と、彼女がそう決心して気を取り直した直後の事だ。倉菜が、本当に磔也と再会したのは。
 ……但し、あまり穏やかとは云え無い状態で。

「……磔也君?」
「……、」
 路地の暗がりに凭れていた彼が、僅かに顔を上げた。口許には自嘲的な笑み。
「……っあー、……最悪」
「え? ……、」
 視線を磔也の腹部に落とした倉菜は息を飲んだ。──血塗れだ。
「ちょっと、どうしたの!? 血だらけじゃないの、」
「……見りゃ分かるだろ……、……刺された」
「刺された!? 誰に!?」
「……里井。……あー、本当最悪。……連中からも、とうとう不要品のラベル張られたらしいしな……。……にしてもあの野郎……今度会ったら私刑だ。喉、潰してやる」
「そんな事云ってるから足許を掬われるのよ! ちょっと、黙って、見せて!」
「触んな!」
「磔也君!」
「……汚れるから、……あんたの、キレイな顔」
「……、」
 倉菜は携帯電話を取り出した。鋭く見咎めた磔也は眉を吊り上げる。
「……どこに掛けてる、」
「119」
「止めろ!」
「死にたいの!?」
「医者なんかに見せるよりマシだ!」
「この莫迦!」
 無理に倉菜の手を振り解こうとした磔也は、そこで意識が切れたらしい。彼女の華奢な腕に、急激に重みが掛かった。
「……重……、」
 無茶して、こんな所で気絶しないでよ。意識の無い人間は、重いのよ。
「……仕方無い……、」
 倉菜は片腕で重みに耐えながら、携帯電話を119とは別のメモリへ発信した。

「涼さん、──助けて。直ぐに来て下さい、磔也君が、大怪我してるの」

【xxx】

「厭な人間を敵に回しましたね」
 目の前の男が床の上に叩き付けた報告書を丁寧に拾い集めた冨樫・一比(とがし・かずひさ)はのんびりと呟いた。
「それにしても──財団までリンスター財閥の云いなりか。薄情なものですよねー」
「薄情、で済む問題か!」
「落ち着きましょうよ。この僅か一週間の間で──音楽大学、同付属高校、幼稚園、──出版社、それに今日で──財団も。いやあ、壮観ですよ」
 額を押さえて座り込んだ男は、良くもそんなに暢気にしていられる、と飄々の体の冨樫を見遣った。
「たかが、非常勤講師ですしね、僕」

 ──ここは、施設全体が一戸のビルディングを占める東京コンセルヴァトワールの最上階の一室である。莫迦──では無くて、権力者と煙は高所を好む。故に、冨樫が前にしているこの部屋の主が割合重要な地位に居るであろうことは予測が付く。
 冨樫と彼が何をして騒いでいるのかと云えば、今朝になって、今まで資金援助を受けていたとある財団から援助の停止を宣言されたのである。冨樫が先程列挙した名前も、全て資金援助、或いは提携活動を断ち切る、と云う組織だ。

「リンスター財閥、やってくれるじゃないか。……歳若い男が総帥だと云うが、奴が問題らしいな」
「若くないですよ。何でも725歳だそうです」
「……何を云っているんだ、君は」
「アイルランド出身の人魚だそうですよ。いやあ、大したもんだ。研究者達が知ったら愕然とするでしょうね、何せそんな人間が居るなら自分達の研究なんかただの徒労なんですから」
「……、」
 最早呆れて何も云えなくなった男への止めに、冨樫は「レイちゃんの情報ですから、信憑性があるか皆無か、どっちかですけどね、極端な情報しか集めて来ませんから、彼女」と微笑んだ。
「……結城のコピーか。……あれも全くの役立たずだ。弟の抑止剤だったが、その弟の方も死にかけているらしいな」
「ああ、里井君でしょう。彼、大分虐められてましたからね、とうとう『キレた』らしいですね。怖いですねえ、今どきの若者。知ってます、キレるとナイフで通りがかりの人間を刺すそうですよ」
 この二人、お互いへの対応には慣れているらしい。暢気な冨樫の軽口を聞き流し、男は「寿命だ」とだけ吐き捨てた。
「え、17で寿命ですか。早いなあ、だったら僕なんかどうなるんですかね」
「年齢の問題じゃ無い。……耳の聴こえない──それも感音性難聴の駒など、必要無い」
 怖、と冨樫は肩を竦めた。
「僕も気を付けるかな」

【2BD】

「……もう大丈夫。急所は免れてるみたいだ。失血が痛いけど、致死量じゃ無いし。……安静にしていれば、の話だけど。どっちかと云えば、熱がある方が気になるね。傷口が炎症を起してる訳じゃ無いから、風邪を引いたんだろう」
 包帯の端を処理し終えた涼は、手に付いた血を洗面器の水で洗って倉菜に微笑んで見せた。
「その辺はちゃんと見張っときます。……ごめんなさい、いきなり呼び出して。子供みたいに騒ぐんだもの、医者は厭だって」
「君の所為じゃ無いよ。……それにしても、」
 医者嫌いか、俺、益々避けられそうだな、と涼は苦笑した。
 あの後、倉菜は涼を呼び出し、祖父に車を回して貰って磔也を工房の住居スペースまで運び込んだ。同時にロードバイクを飛ばして(怪我人の姉に特訓された甲斐があったらしい)駆け付けた涼が手当てを施した。
「所で、君の家、良いの?」
 手を振って水気を切っている涼にタオルを手渡しながら、倉菜は大丈夫、と答える。
「その辺の物分かりは良いの、祖父。普段からお弟子さんなんかが結構出入りしてるし」
「俺のアパートに引き取っても良いんだけど、俺、コイツには何か避けられてるしね。無理に逃げ出そうとしたら逆効果だし。経過は見に来るけど、当分君の所に寝かせて貰えると助かるかな」
 倉菜は黙ったまま頷いた。涼は倉菜と磔也を見比べて苦笑した。
「君こそ大変な荷物、背負っちゃったね」
「いいえ……、……彼の事については、色々思う事もあるし。ちょっと調べてみたい事もあるから」
「耳の事?」
 矢張り、倉菜は頷いた。
「……そう。父がニューヨークに居るんです。向こうは、日本より医学も色々発達してるから、良いお医者様が居るかも知れないし、そうでなくても何か……、」
「優しいね」
「別に」
 倉菜はふい、と顔を逸らした。涼は穏やかに微笑みながら彼女を見詰めていたが、やがて険しい表情で切り出した。
「その事だけど、俺もちょっと調べてみたんだ。丁度先刻、大学で耳鼻科の専門教授に話を聞いてた所なんだよ。……ちょっと、話せる?」
 倉菜は頷いた。そこで涼は彼女を促し、磔也を寝かせた部屋を出てドアを閉めた。
「先回りするようだけど、──あいつの耳、医療の力では治療も、進行を止めるのも不可能な事が分かった」
「……、」
 倉菜は無表情のままだったが、さっ、と顔色が変わった。涼にしても、出来れば口に等したくない事だ。だが、最善策を摸索する為には先ず事実を認識しなくてはならない。
「くらちゃん、ベートーヴェンの難聴の事は知ってるだろう?」
 ぱちり、と目を大きく瞬かせてから倉菜は頷いた。
「ベートーヴェンの場合、ピアノやオーケストラのはっきりした、甲高い音は聴こえたんだけど背後からの聴衆の拍手やコーラス、人の話し声といった低い音がぼんやりとして聴こえ難かったそうなんだ。彼の難聴は、伝音性難聴と云う中耳から内耳までに原因があるケースで、これだと治療も、補聴器で聴力を補う事も可能だ。でも、磔也の場合は慢性音響性障害と云って、これは、感音難聴という内耳より更に奥に障害がある、特定の振動数の音域から順に、振動自体を認識する事が不可能になるケースだと思う。……この感音難聴は、不可逆だ。進行を止める事も、現在の医療では治療も出来ない事が分かってる」
「……分からないわ、もしかしたら、アメリカの最先端の医療なら」
「人工内耳、と云う新しい装置が出来ている話は聞いたよ。でも、多分そのレベルじゃ無いかな。……話を聞いた教授にね、不可侵領域──神の領域だ、と云われたよ」
「……、」
 そこで、倉菜は意外にも血色を取り戻して考え込む表情になった。何か、考えがあるらしい。然し涼は、もう一つ彼の気に掛かっていた事を切り出した。
「所で、その感音性難聴なんだけどさ。磔也の場合は多分──自分でヘッドホンで大音量を聴いていたのか、或いは昔居た研究所で無理な音感訓練を受けたのかは分からないけど、慢性音響性障害に当たると思う。でも、これにも種類があるんだ。音響性外傷と云って、ある一定以上の音を瞬間的に聴いた場合に、急性音響障害が起こる。これは、ほんの一瞬の騒音でも同じく感音障害を永久に負うんだ。ほら、戦場でピストルの音を耳許で聴いて耳が駄目になった、なんて話、あるじゃないか。……これも、音楽の武器だと思わないか?」
「……確かに。……でも、不特定多数の人間を治療不可能な難聴にする事だけが、東京コンセルヴァトワールの人間達の陰謀ですか? ……それって、何か無理があるような気が……」
「まあね、俺もそれだけが連中の目的だとは思わない。でも、法律でも問い難いし、意外と防御がし難い、人を傷付ける行為だと思うよ。現に、磔也だってその事で自暴自棄になって今回の一件に加担してるんじゃ無いか。混乱を引き起こす事は可能だと思うよ。……あと、音楽癲癇、なんていうのもあるし、……あんまり愉快な話じゃ無いけど、意外とあるものなんだよな、音や音楽を使って他人に危害を加える方法って。そう云えば、あのIO2エージェント、シェップも身内が、音楽療法の不適切な使用が引き金となって自殺したそうだ。手札は多い方が良い。急性音響性障害を、連中が場合によっては武器として使うかも知れない、って事も一応頭に入れておいた方が良いと思う」
「……、」
 倉菜は、再び不愉快そうな表情の変化を見せた。──そうした可能性は、彼女にとっては不快な存在、不協和音でしか無い。

「じゃあ、よろしく頼んだよ、磔也の事」
「ええ。……有り難うございました」
「君が礼を云う事じゃ無いよ。寧ろ、俺が云いたいくらいだ」
 倉菜と涼は微笑み合って、その日は別れた。

【xxx】

「未来小説 ユーフォニア、もしくは音楽都市」
──この小説はフランス人作曲家、エクトール・ベルリオーズが1852年に記した、音楽に全てを捧げ、グルックのオペラの『壮大な』記念上演を目指す共産主義的ユートピア思想の伺える共同体についての空想物語である。
 ユーフォニア市は音楽、芸術という「全体の崇高な目的」の為軍部の支配下にある鉄の規律に支配されており、クシレフは作曲家であると同時にユーフォニア市の音楽分野での最高責任者である。何故グルックか、と云う点にはただ「素晴らしく『壮大な』古典として」としか記述されていないが、恐らくは19世紀最大のグルック信奉者であったベルリオーズの個人的な趣味かと思われる。
 然しあらすじ自体は陳腐なスプラッタ、と一笑に伏されて然るべき単純なものである。
 女性歌手に裏切られ、復讐の為に大量虐殺、──『壮大な』破壊を目論むクシレフは彼女の誕生日のコンサートが行われる鋼鉄の音楽堂に残虐な仕掛けを施す。
 ところで、当時ユーフォニア市には一人の機械工の巨匠がいた。彼の製作した巨大なピアノは変化自在の音色と音量を持ち、それ故に『独りの名手が』奏するだけで、一団のオーケストラを遥かに凌ぐ音楽を発信することが出来た。──オーケストラピアノ。
 クシレフは鋼鉄の音楽堂とこのオーケストラピアノを接続し、その奏者として友人であるピアニスト、シェトランを呼び寄せる。
 女性歌手の誕生日祝いに大勢の人間が音楽堂に集った時、そこで悲劇が起こる。シェトランがオーケストラピアノを弾き始めると同時に鋼鉄の壁が内側に向かって聴衆を圧殺すべく押し寄せ、そこは阿鼻叫喚地獄と化す。クシレフはそれを音楽堂の外から傍観している。シェトランは目の前の悲劇にも気付かずにピアノに熱中したままである。

【xxx】

「東京コンセルヴァトワールと各機関の繋がりや資金源について調べてみたのですが、その中で、どうも不穏な計画が浮き彫りになりましたよ。少し話が逸れますが、古くはバロックの時代から古典派、ロマン派、近代、現代、そして今やクラシックを凌いで世界の音楽の中心となっているジャズやポップスと云った音楽、実はこれらの音楽の区分けは、様式の他にも『その音楽が何処で栄えていたか』と云った観点からも行う事が出来るのです。例えば、現在ではジャズやポップスが全盛ですが、これらの大本の発信地はアメリカです。その時代の音楽の中心地、──それは、その時代の最も力、──財力、政治的な影響力、知名度等……ですね、そうした物を持った国なのです。音楽とその国の力というものは等しく発展するものなのですよ。19世紀初頭にはフランスで現代音楽が栄え、その後はドイツやイタリアに分散し、そうしたヨーロッパの各国が第二次世界大戦で凌ぎを削り合った結果、戦後の音楽の中心地は自国で戦争を行わなかったアメリカに移ったと云う訳です。……そして今、音楽の中心地を再びフランスに据えようと云う計画の情報を得ました。それはつまり、フランスに財力、政治的影響力、今では軍事力も欠かせませんね、そうした力を集め、フランスが世界を支配する時代を作ろうとする事です。そうすれば自然、音楽の中心地もフランスに移る事になりますからね、コンセルヴァトワールの中の一組織が何やら、小細工を行っているようですよ。不思議な事に、彼等の通信文書の中に『クシレフと遭遇』と云った言葉が多く見られたのです。クシレフとは、恐らく独裁者の地位を望む者。第二次世界大戦時のファシズムを思えば間違いはありません。ルクセンブルク嬢、あなたが磔也君の意識の中で聞いたと仰った、『クシレフはあらゆる肉体の壁を飛び越えて自分の前に現れた』と云う言葉と合わせて、意識レベルで独立した存在、そして彼は恐らくあらゆる固体を転移して生き延びる。私達が会っただけでも、最初は幻想交響曲の世界の中に、そして磔也君がそれをメモリカードに保存して水谷に与えた。クシレフが今、そうして東京に止まっている理由が、東京コンセルヴァトワールです。東京コンセルヴァトワールは、そうしたフランスで計画の挙がっている、云わば世界へ向けたクーデターの為の中継地として東京を利用する気です。遺伝子学の研究も、応用すれば音楽家だけでなく軍隊への転用が可能です。また、専門技師や優秀な科学者といった存在も作り得る。それに、音楽はプロパガンダとして非常に有効です。ナチスドイツの政治は、音楽を非常に巧く利用した洗脳であったと云えます。ルクセンブルク嬢の前で失礼ですが、あの聡明なドイツ人種がその計略に掛かってユダヤ人を敵と認識したのです。私は、今度のオペラの上演を一種の洗脳作戦だと予測します。被害の軽減の為、チケットの買収を計ったのですが、大半は回収出来ませんでした。何故だと思われますか。……殆どが、音楽大学や音楽高校等の団体で、学校行事、或いは必修課外授業として組み込まれていたからです。音楽を専攻する若者を「中心」に聴衆に選んでいる、……洗脳は怪しまれますね」
 ──……。
「ホールへは、実際に行くしか方法は無いと思われます。東京コンセルヴァトワールへ今後の対策としては、少々野蛮ですが資金源を虱潰しに絶つと云う方法を取りました。大分、協力して頂きましたよ。……副産物として、奨学資金の縮小を行った為に、海外へ散っている留学生の大半が東京へ戻る事になりました。シドニー・オザワ、彼女も帰国します。彼女へは特別に、ルクセンブルク女史の御名前をお借りしてコンタクトを取ってみました。恐らく、19日までには帰国することでしょう。今後、フランスで泳がせるよりは少々リスクはあっても、実際に東京で対面して置く方がいいかと思われます」

【5B】

「お帰りなさい、倉菜さん」
 授業と部活動──本日は料理研究会の──を終えて帰宅した倉菜を、工房に出入りしている弟子の一人が出迎えた。ただいま、と微笑を返した倉菜は彼の背後に視線を遣って小さく声を上げた。
「……あ」
 磔也だ。全く何時起き出したものか、ふらふらとまるで自縛霊のような存在感で工房の廊下を歩いている。
「起きたの? いつですか?」
 倉菜は弟子に訊ねる。彼は困ったような表情を倉菜から磔也に移した。
「あ、昼過ぎです。なんだかあの人が急に客室から出て来て、あんな調子でふらふらしてるんですよ。師匠は放っておけ、って云うし倉菜さんもなかなか帰らないから、困ってたんですよ」
「磔也君、大丈夫なの? 傷は? 熱は?」
「……煩ェなあ、ガキじゃ無ェんだ、放っとけ」
 じろり、と弟子が太々しい磔也を睨み付けた。当然の心境だろう。血塗れで転がり込んで来たと思ったら数日寝込んだきり、居候を決め込んでいる不良学生が煩いなどと云える筈は無い。
「放っとけ、じゃ無いじゃない。寝てなきゃ駄目よ」
「あーもう治った。つーか寝過ぎた。頭痛い」
 最後の一言だけは真実らしく、やや眉を顰めてこめかみを押えながら磔也は倉菜の視線を反らす。
 ……頭が痛い……、耳鳴りがしてるんじゃない? 寝過ぎた所為? ……嘘でしょう。
「熱は下がったみたいね、でもまだ傷は塞がってないでしょう、あんまり動いちゃ駄目よ」
「それも治った」
「……、」
 そして再び、ふらりと客室へ戻って行く磔也の背中を倉菜はじっと見詰めていた。
 ──例の件は、祖父にも父にも反対された。だが……、どうすべきだろう。

 早朝、台所には暖かい良い匂いが漂っていた。
 制服に着替えた上からエプロンを着け、髪を編んだ姿で倉菜は弁当箱に料理を手際良く詰めて行く。その中身は、見た目まで非常にきれいだった。
 料理は、得意だ。部活動はNYで両親の許に居た時から嗜む剣道に加え、別に料理研究会に入っている程なので好きでもある。いつも自分の弁当くらいは自分で作っていた。
 弁当箱を包み終わった所で、倉菜は別に炊いていた鍋の蓋を開けた。──丁度良い具合だ。軽く味を見て頷いてから、倉菜はその中身を別の腕に装ってトレイに乗せた。

「……ねえ、磔也君起きてる?」
 片手にトレイを持ったまま、器用にドアをノックした倉菜には沈黙しか返って来ない。未だ寝ているだろうか、と薄くドアを開けて中を覗いた所で、彼女は先ず藻抜けの空の寝台を認めた。
「あ、」 
 ドアを完全に開ける、──とそこで初めて、起き出して窓から外を眺めていた磔也の鋭い視線とかち合った。
「……何だよ、」
「起きてたのね、良かったわ。……お腹、空いてない? お粥作ってみたんだけど……、」
「要らない」
「……でも、何も食べないのも良くないわ。食欲は無いと思うけど、少しずつでも消化の良い物を摂った方が良いから……、」
 倉菜は出来るだけ明るく微笑みながらトレイを掲げて見せ、寝台のサイドテーブルに置いた。
「……要ら無ェし。……気分悪くなるから、下げてくれよ」
「絶対身体に良く無いわ」
 「一口だけでも」と倉菜は(何故彼女が逆に頭を下げなければならないのか……)重ねて頼み込んだ。そうでもしなければ、意地を張って平気で衰弱死しそうな感がある。
 磔也はようやく、厭々そうながらも寝台に腰掛けてトレイに乗せていたスプーンを手に取った。──が、中々食べる気配が無い。眉を顰めて暫くお粥を見ていた彼は、とうとう再びスプーンを投げ出した。
「……そんなに不味そう?」
 料理には自信があるのだが。倉菜は恐る恐る訊ねてみた。
「……いや……、」
 流石に磔也の表情は気まずそうだ。
「……卵」
「え?」
「駄目なんだ」
 倉菜は最早呆れて唖然とするしか無かった。
「……、栄養あるのに……(好き嫌いまで子供レベルか!)」
「アレルギー」
「……、あ、そうなの。……ごめんなさい、気分悪く、ってそういう事だったのね」
「……悪いな」
「いいの。……じゃあ……後でまた何も入れないの、作って置いておくから。……所で、」
 倉菜は磔也が投げ出したスプーンを拾いながら、微笑した。
「左利きなのね、磔也君」

「……何があったの?」
 夜半、就寝直前の倉菜は工房からの騒ぎに気付いて手近な弟子の一人に訊ねた。殆どの弟子は引き揚げた後だったが、未だ数人の残っていた弟子と、祖父が何かを取り巻いている。その中心で蹲っていたのは、磔也だ。
「……磔也君!? 傷が痛むの!?」
 慌てて人を掻き分け、磔也を覗き込んだ倉菜はあっ、と声を上げた。
 如何にも日陰者らしい、妙に色の白い彼の肌が、露出した腕から指先までが赤い発疹にびっしりと覆われていたのだ。掻き毟った痕に出血が見え、当人は自分の身体を抱いて震えながら激しく咳き込んでいた。
「ちょっと、磔也君、大丈夫!?」
「勝手に、僕の部屋に入ったんですよ、この人。気付いた時にはこの状態です、」
 倉菜に説明を向けたのは、主に弦楽器のボウの製作、修理を学ぶ職人だ。
 ボウの原料には、主にフェルナンブコ木材を使用する。この木材は弦楽器の原料の中でも特殊であり、その木屑の粉塵が毒性を持つ特性がある。それ故に楽器工房の中でも特別隔離された部屋を使用し、制作者は木を削る時にはマスクを着用して粉塵を吸い込まないようにする。──その部屋に、無防備な体で入ったらしい。
「なんて無茶な、」
 ──それにしても酷い。粉塵を吸い込んだにしてもアレルギー反応が急激過ぎる。倉菜に気付いた磔也は口を開こうとして、また咳き込んだ。
「磔也君、確り、……知らなかったのね? ここが、フェルナンブコ材を扱った部屋だって、」
 磔也は辛うじて頷きながら、未だ爪先で発疹を掻き毟ろうとしていた。倉菜は駄目、とその腕を掴んで止めた。
「駄目よ、無理に引っ掻いたりしちゃ。もう、こんなに血が出てるじゃない!」
「血を抜くんだ、」
「何云ってるの!? 寫血療法じゃあるまいし、無茶苦茶よ、そんなの!」
「駄目なんだ、俺、……こういうの、……あ……、血、……悪い血が巡る、」
「……、」
 磔也は既に半狂乱だ。ただでさえ咳が激しいのに、喉から絞り出すような声はざらついていた。気管内にも発疹が出ているのかも知れない。
 ──調和の無い音。アレルギー源の木材粉塵を消し去れば、この不協和音は消えるだろう。倉菜はちらり、と祖父を見遣り、目配せした。仕方ない、と云う風に彼が頷く。
「ちょっと、来て」
 倉菜は磔也のだらりとした腕を掴んで立ち上がった。

「……どうして、勝手に入ったりしたの?」
「……興味があったから」
 されるままに倉菜に腕を差し出した磔也は、憮然と呟いた。
「弦楽器、……造る所なんか見た事無かったし」
「……そう。……昼間、うろうろしてたのもその所為だったのね?」
 磔也は答えず、元の状態に戻った腕を見詰め、急激に楽になった喉を押さえて瞬きをしていた。
「……どうやって、」
「秘密。……ちょっとした、特別な治療方法。……今日は大人しかったのね」
「……駄目なんだよ、俺、発疹とか」
「アレルギー?」
「……最近はちょっとましだったんだけどな。自分で雑菌なんかは出来るだけ消してるから。……ガキの頃からこれだ、特定の植物で被れる、動物なんか全部駄目。喰い物でもあれが駄目これが駄目で自己免疫疾患児だったんだ。……生まれ付き、免疫力が弱いんだとよ」
 珍しい、彼がそうした自分の弱味を曝け出すなんて──と思いながら、倉菜は微笑した。
「何だよ、笑うな」
「……違うの。……父の事を思い出した」
「は?」
「何だか似てるなあって。……不思議ね、見た目とか性格が似てる訳じゃ無いのに、色々共通点があるの、父と磔也君。左利きだとか、演奏や作曲が得意な所とか、免疫が弱い所とか」
「……ファザコン、」
 磔也はうんざりしたように溜息を吐いた。
「……何でこうも女ってファザコンが多いんだろうな」
 磔也は掛けていた椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。
「……別にファザコンて積もりじゃ無いんだけど……、」
 倉菜がそう呟いている内に、磔也は再び廊下を戻って来た。今度は、重症で転がり込んで来た時に着ていたコートを着ている。
「……ち……ちょっと、磔也君? こんな時間に、何処行くの?」
「出て行く。世話んなった」
「世話にって……、未だ、傷も塞がってないのに」
「もー治ったっつってんだろ。……それに、こんな危無ェ所に居るのは御免だ」
「大丈夫よ、工房には色々な木材も薬品もあるけど、客室で大人しく寝てれば」
「飽きたんだよ、寝てんの」
「身体の方が大事でしょ!?」
 慌てて追い縋ろうとする倉菜に、磔也は何かを訴えるような目で低く告げた。
「……耳鳴りがするんだ。聞いたろ、俺は難聴なんだ。それも、どれだけ大人しくしてたって治らない種類の。……大人しくしてれば、どうやってもこの煩い耳鳴りがして耐えられないんだ。……不快な音を否応無しに聴かされる不安、あんたなら分かるだろう」
 ──涼に聴いた、感音性難聴の事だ。
 医学では治せない難聴。不可侵領域、神の領域だと聞いた時に、倉菜は魔神の血を引く自分なら治せるかも知れないと思った。涼から聞いた以上にも、何か治療法が無いかと問い合わせた父も祖父もその事には反対した。やっては不可ない事だ、情に絆されて簡単に干渉して良い問題では無い。
 それでも倉菜は思い止まる事はしなかった。丁度、傷が回復する頃だろう1ヶ月後、──巣鴨ユーフォニアハーモニーホールの幕開けまでに、治しても良いものか彼の人間を見極めようとした。
 未だ、決心は着いていない。だが、熱も下がったし、傷自体は思いの他良くなっているようだ。
「……でも、ここを出て何処へ行くの?」
「安心しろ、つっても別に心配なんかして無ェだろうけど。家には帰らないけど、アテはある」
「……樹君の所?」
「……鋭いねェ、あんた相変わらず」
「それ位しか友達居ないじゃない、あなた」
「ちゃんと泊めてくれって頼むさ」
「……、」
 どうせ、誰にも連絡せず黙って云う通りに泊めろとか何とか、殆ど脅して転がり込む気だろう。──だが、今の所は自棄を起しそうな感情の起伏も無いし、大丈夫だろう──。
「……分かった。あなたがそう云うのなら、無理には止めないし樹君の所なら安心出来る。でも、ちゃんと身体は労って」
 精一杯の優しい言葉を掛けて見送った倉菜に、磔也は「いくら難聴だからって年寄り扱いすんな、このファザコン」と随分な悪態を吐いて出て行った。

【xxx】

 葛城のアパートは文京区か……。
 今からじゃ電車は無いだろうし、タクシーでも拾うか。

 別に、あのまま倉菜の祖父の工房に居座っても良かった筈だ。が、何か──倉菜のあのきれいな顔を見ていると無性に自分が惨めに思えて遣り切れなかった。彼女の云う通り、こんな時に頼れる友人が居ない。唯一信頼していた冨樫からは──東京コンセルヴァトワールも含め──冷たく突き放されたし、姉にも養父にも会いたく無い。亮一は信用出来ないし信用されてもいないだろう。何より事務所包みでIO2とも繋がりがあったなんて、あんな探偵に関わるのはヤバい。然もにこにこ笑いながらピアノの蓋で指を潰そうとした奴だ。なんとか財閥総帥も然りだし、それを云えば東京随一の怪奇探偵、草間武彦と繋がりのあるシュライン・エマも同じだ。優男──御影涼、駄目だ、あいつだけは苦手だ。何故、あそこまで人が好いのか分からない。優しい人間は苦手だ。……(恐怖の対象でもあり、宿敵と云えるその兄は無論)ルクセンブルクも同じ理由で厭だし、天音神、──論外。名前を思い出すのも厭だ。
 ──となれば、矢張りここはちょっと脅せば多分黙って云う事を聞くだろう葛城樹しか居ない。
 水谷のデスクから失敬して来た樹の履歴書を手に、(終電後のような深夜に押し掛けるという樹の迷惑は考えず)逡巡して通りに目をやった磔也の肩を、背後からとんとん、と叩いた手がある。
「あ……?」
 振り返った磔也の顔色がはっきりと変化した。
「Cava ?」
 目の前にあったのは、端正な少女の笑顔だ。シドニー、……磔也の声は上ずっていた。
「……いつ、帰って来た、」
 返事の代わりに、少女は何気無い動作で磔也の腹部を押さえ付けた。激痛に悲鳴を上げた少年が蹲っても、東京の明るい夜では誰が目を止めるでも無い。
「厭だ、痛そう。……ねえ、ちょっと確りしたら? みっともないわよ、そんなに顔歪めちゃって。……ねえ、聴こえてる? もしかして、もうそこまで駄目になってる訳?」
「シドニー!」
「あなたが厄介な相手に情報流した所為で、皆が迷惑してるのよ。私だって奨学資金の縮小で呼び戻されちゃったの。……今後は、東京コンセルヴァトワールだってまともに機能出来ないわ。安心して、私はもう直ぐ自分でフランスに帰るわ。あなた、もう駄目なようだし、永遠のお別れになるわね。寂しいわ。昔のあなたは良かった。今はこんなに惨めだけど。……最後に、あなたのデータを貰って行くわ。来て頂戴。直ぐに終わるし、痛くないわよ」

「……お?」
 夜の街を我が物顔で行く紹介屋、太巻・大介(うずまき・だいすけ)の目に、一組の男女の姿が映った。
 未だ十代の少年少女だ。何やら、揉めている。傍目には痴話喧嘩でもしているようで、東京の人々は気にも止めずに通り過ぎて行く。が、少年の方は太巻の見知った顔である。久し振りだ──と思って見れば、彼は面識のある人間なら異常に気付かない訳は無い苦痛に満ちた表情をしている。一旦その光景を目に入れた太巻の目は誤魔化せなかった。
「……貸しでも作ってやるか」
 揶揄かいついでに……。──太巻は、歩を進めた。

「よお、久し振りじゃねェか」
「……?」
 磔也と、もう一人の端正な顔をした少女は同時に顔色を変えた。
「太巻……、」
「……どなたかしら、磔也?」
 少女は太巻にあまり友好的では無い笑顔を向けた。磔也はと云えば、未だ腹部を押さえたきり俯いている。──本当に、手間のかかるガキだ。
 太巻は磔也の腕を取って少女から引き剥がした。
「ちょっと?」
「ああ、ナンパならやめとけ。残念な事にコイツ、あっちの気があるもんでな。あんたみてェなきれいな嬢ちゃんには勿体無ェよ」
「何だとこの野郎──」
 磔也が眉を吊り上げた所で、その反論を皆まで云わさず太巻は彼の顎を無理矢理持ち上げて──実際には頬の辺りに──キスをくれてやった。無論、クールで知的な女性を好む(然も妻子持ちの)太巻とこの不良学生が好い仲な訳では無い。単純に助けるのも面白く無い、のでどうせなら思いきり磔也が厭がる事をしてやろうと悪乗りしただけである。
「磔也!」
 少女の血の気がさっと引く。同時に、太巻の頬が少女以上に顔面蒼白な磔也の平手で(本気で)張り飛ばされた。
「痛ェな、」
「何の積もりだこの変態、──痛……、」
「暴れるからだ」
 暴れたのは誰の所為だ。少女は既に口唇を震わせ、2人を嫌悪感に満ちた目で蔑視している。──これで、追っては来ないだろう。
 数十秒後には、それまで誰の注意も集めなかった磔也は一瞬にして人目に晒される事になる。彫りの深い顔立ちの、香水と煙草の匂いを漂わせた男に何やら仲良さそうに引き摺られて移動すれば、それは当然の結果である。然し、彼等の行き先は二丁目に在らず。

 ──「時空の狭間」。東京の人間がふとした弾みで迷い込む。ここは、太巻の縄張りだ。
「何があったかは知らねェが、おめェみてェなガキが美少女とイチャついてんのが気に喰わなかっただけだ。文句なら聞かねェぜ、」
「……貸しを作ったなんて思うなよ、」
 未だ憎まれ口を叩いている磔也に、太巻は口の端に咥えた煙草の煙を吐き出しながら「医者、紹介してやろうか」と低く訊ねた。
「……、」
 磔也は俯いたまま頭を振る。それを眺めながら、太巻は僅かに目を細めた。
「……何か、訳有りみてェだな」
 ──ぱさ、と音がして磔也が顔を上げると、目の前に「おくすり」と書かれた──病院の処方箋のような何の変哲も無い──紙袋があった。
「MS(硫酸モルヒネ)と抗嘔吐剤、抗生物質だ」
 太巻は囁き声で中身を告げ、「とっとけ。困った時はお互い様、だろ?」と口の端に笑みを浮かべた。
「……、仕方無ェなあ、……『借り』といてやるよ」
 紙袋に手を伸ばし、暫くしてから磔也は云い足した。
「……借りついでに、……太巻、……チャカ、用意出来ないか」

【6BD】

「──よう。相変わらず勉学以外で忙しそうだな、医学生」
「太巻さん、……失礼します」
 先日、渋谷透を巡った事件で、草間興信所で顔を合わせた事のある紹介屋、太巻大介。
 涼は、飄々とした親し気な笑顔の太巻の許へ、やや彼らしく無い張り詰めた表情で大股に歩を進めた。
「酒なら出せねェぞ、……ま、良いか、未成年つってもあと一年だもんな、」
「いえ、結構です。……それより太巻さん、聞きたい事がある」
「んー?」
 涼は厳しい口調のまま、──大体、涼の質問を察した上で恍けているようにも思える太巻に問う。
「磔也、……結城磔也、ここへ来たんでしょう」
「……あぁ?」
 
 ──数日前、磔也の様子見に、と倉菜の祖父の工房へ赴いた涼はそこで「つい昨日、出て行った」と聞いて愕然とした。倉菜に拠れば、弦楽器の材料の木材でアレルギーを起して半狂乱になり、ここには居たくないと云うから引き止めなかった──と云うことだが……。
「そんな、いくら熱は下がったって、あの傷なのに。安静にしてなきゃ駄目なんだ、分かってるだろう、それはくらちゃんだって、」
 慌てて問い質した涼に、倉菜は「それは分かっているけど……、」と云い淀んだ。
「まさか、大人しく家に帰る訳は無いよな。どこへ行くとか、云ってなかったかな、」
「……、」
 ──ごめんなさい、と倉菜は静かに謝った。
「大体は聞いてる。……涼さんには隠しても無駄かも知れないけど、一応、口止めされている事だから聞かないで下さい。……今はそっとしておいて欲しいんだと思うわ。彼の性格だもの、難聴が進行してて、絶望している時に更に親しい人間から優しい言葉を掛けられるのは追い討ちに近いのよ。彼の望むようにさせてあげるのが一番だと思います。それに、どうせオペラではホールで会う事になると思うし……」
「……、絶対に、安全だって云う保証はある?」
「絶対、なんて云える事は無いわ。でも、アテはあるみたいだし、私もそのアテは多分彼を受け入れてくれると思うから」
「……そうか」
 それなら仕方ないか……と、涼も一応の納得はしたのだ。
 だが、今日になって涼は、ふと通り掛かった通りで磔也の記憶と遭遇した。

──あ、

 その場所で、磔也は見覚えの無い少女から何かを責め立てられていた。彼女は傷口を開く真似をして磔也を連れ去ろうとしていた。──そこを通り掛かった太巻が、彼女を丸め込んで磔也を連れて行った所まで──。

「そうして、気配を辿っていたらここに辿り着いたんです」
「……ここ<時空の狭間>へ、……ねェ、」
 太巻は相変わらず口の端に煙草を咥えたまま、ニヤリ、と笑う。
「……ふぅん、ま、タダの医大生さんじゃねェって事は分かってたけどな。……流石だねェ。……ま、安心して良いぜ。奴ぁ今はお友達んとこに世話になってるみてぇだ。そいつとはあんたも面識があるだろうよ」
「……友達、って云っても……」
「あ、友達なんかいねェか。てぇ云うよりか、あいつに虐められてる坊主かな」
 ……ああ……分かった……。……あの人か……。
 ケタケタと笑う太巻の声を耳に脱力しながら、涼は先日、ホールで磔也に怒鳴られるわ蹴倒されるわ殴られかかるわの散々な目に遭って怯えていた青年を思い出した。確か、葛城・樹──涼よりは一つ下で、ハーフらしい端正で繊細そうな顔立ちの音大予備校生だ。
 そこで、ふと太巻は真面目な顔に口唇の端だけをニッ、と吊り上げて涼に忠告した。
「つぅ訳で、あのガキの事は心配無ェよ、今ん所。……まあ、ちょっと過激なオモチャを持ってったみてェだが」
「……過激なオモチャ……?」
 太巻はにやり、と笑って手でピストルの形を作り、その先を涼の鼻先に向けて「チャカだよ、チャカ」と嘯いた。
「ま、実際に使うとなりゃあ誰かが止めるだろうから、敢て云う事聞いてやったんだがな」
「……え……?」
「ホレ、あいつぁあの通り細っこくてタッパもそんなに無ェだろう? ……生身で戦うとなりゃあ、何か武器でも欲しい所なんだろうな」

【7】

 12月19日。ホールの入口で待ち合わせた面々は揃って中に入った。──譜面捲りの名目で、舞台袖に潜り込む事に成功したウィンを除いて。

「何かあったら、私はサイコで弦を切る積もりよ。そうならない事を願うけど」
 別れ際にウィンもそう云っていたが、樹は予め複数の耳栓は持参していた。そしてメージを受けた精神を癒す効果のある呪歌を保存したPC。──磔也の置き手紙から、今日は必要無いかも知れないとは思いながら、念の為。
「……はあ、」
 隅の方で、孝が肩を落として溜息を吐いている。本日はライトなピアノコンサートという事で普段通りの服装であるが、彼の気分の重さはコンサート後の予定にあるらしい。反面、セレスティは常通り穏やかながらもどこか楽しそうだった。
 ちらり、と倉菜はそんな孝を見遣った。先日、自分の顔を視て露骨に厭な顔をされた事が今だに気になっている。
「……、」
「……、」
 ふと、視線を上げた孝は倉菜と顔を合わせた。
「……あ、」
「……、」
 ふい、と顔を反らした倉菜の許へ駆け寄り、孝は突如頭を下げた。
「ごめん、」
 視線を戻した倉菜は「?」と首を傾いでいる。その顔を相変わらず複雑な心中で眺めながら、孝は低声で告げた。
「君、俺の妹に似てるんだ」
「え?」
「……そんで、吃驚しちまって、こないだは、つい。厭な思いさせたかも知れない、御免な、」
「……、」
 そうして孝はそそくさと、再び倉菜から遠離った。
「……何だ」
 そのあまりに肩身の狭そうな様子を眺める倉菜は、可笑しくてつい吹き出した。
「エマさん、」
 亮一は隣に掛けたシュラインにそっと耳打ちした。
「緋磨から聞いたんですが、……先日は済みませんでした。……勝手に『遮断』してしまって。まさか、エマさんにそんな不都合が生じるとは思っていなかったので……」
 先月の13日の事だ。後から聞いた所に拠れば、亮一の能力で遮断されてしまうとシュラインは声自体が発せなくなってしまうと云うことである。恐縮する亮一に、シュラインは苦笑したながら溜息を吐いた。
「良いのよ。……ま、仕方無かったんだものね。ただ、出来れば今度からは事前に合図して下さいね」
「すみません」
「……それより……、……田沼さん達の情報網って、本当に広いのね。緋磨さんの旦那様にまで御会いして、吃驚したわ」
「……まあ、色々」
 亮一も苦笑いを返した。
 その横で、礼儀正しい彼らしく既に今日からスーツ姿の涼はそわそわと開演前のホールを見回して居た。以前にセレスティが云った通り、学生が多くて見分け難い。
「葛城さん、」
 涼は樹を掴まえた。樹の所に居ると聞いていたが、何でもまた再び直前に行方をくらましたと云う事だ。──太巻から穏やかで無い事を聞いた涼は、落ち着かない。
「磔也、来てる?」
「……分かりません、……ごめんなさい」
「いや」
 莞爾と涼は微笑んだ。彼が『視て』も、磔也の気配は感じられない。──とすると、今日は来ていないのか……。
 ……が、未だ客席を見回していた涼はある一点で視線を止めた。
「……、」
 とんとん、と亮一の肩が軽く叩かれた。
「亮一さん、俺、ちょっとあっちに移動するよ」
 涼が一席だけ空きのあった前方を指した。──そこを見遣り、空席の「前」の人間を認めた亮一は微笑を崩さず、目だけを少しく細めて頷いた。

 ──会場が段階を経て暗くなり、開演を告げる、オルガンをサンプリングしたアナウンスが響いた。
 
【7BF】

「倉菜さん、これ」
 暗闇の中で、樹はそっと倉菜に件のメモを手渡した。舞台上の明りを頼りに倉菜は視線を落とす。
「……、」
「磔也君からです」

『19日には特に何も無い筈だ。20日には行くな。どうしても行くなら騒音対策はして行け。ヤバくなったら直ぐ逃げろ。
 硝月に伝えろ、どうせあいつホールいじりたがってるだろうから。オーケストラピットに、オーケストラピアノがある。20日のG.P.(ゲネプロ)後に行けば、最終調律をさせて貰えるように手配してある。硝月は疑われて無い、安心しろ』

「……オーケストラピアノ……?」

【8】

 プログラムは、ヘンデルからベートーヴェンまでの古典作品のみで構成したピアノソナタと小品だった。
 オーケストラ等派手な構成ならばともかく、ピアノ一台では、今どき、音大生にも退屈な演目である。当初には怠惰な鑑賞姿勢の見えた聴衆には、然し演奏開始後から明らかな変化が訪れた。

 厳密に設計されたホールの音響効果もあるだろう。クラシックの演奏に最も適した残響は2秒と云うことだが、ユーフォニアハーモニーホールは見事にその条件を制していた。
 ──それ以上に、……否、その両方の条件を備えていた所為か、シェトラン、結城忍の演奏が壮絶だった。
 別段派手な訳では無い。基本的に、楽譜に忠実な古典派が専門らしい演奏である。が、そもそも独奏と云うのは尋常では無い集中力と情熱を必要とするものだ。綱渡り、と云うが、そんなものでは無い。ピン、と張った一本の細い糸の上を、バランスを崩す事無く、真直ぐに進む状態だ。それを達成し得るヴィルトゥオーソの演奏は、特に同じく演奏を専攻する者ならば直ぐに理解して目を見張る。
 
 ──周囲の音大生達の熱心な態度を眺めながら一同が感じた事は、もしもこの熱狂がプロパガンダに利用されれば……、と云う予感である。

 然し本番自体は何事も無く過ぎた。勿論、演奏上のミスを含め、何事も無く。
 アンコールで再び舞台に現れた時、傍にはウィンが楽譜を持って付き添っていた。
 無愛想に曲目紹介も無く奏され出した旋律を聞いた樹は、はっと身を乗り出した。──覚えのある旋律だ。

──『妖精の踊り』、
 
 グルックのオペラ、「オルフェオとエウリディーチェ」の中の一曲だ。フルートの優美な旋律の曲だが、ピアノ一台用に編曲してある。
「……、もしかして、」
 
 これが予告編だとすれば、可能性として、明日のオペラでのバンダは、オーケストラでは無いのだろうか。例えば、全曲をピアノ一台で演奏出来るように編曲してあり、ホールの構造と「オーケストラピアノ」を合わせ、「一人の音楽家」でもオーケストラに匹敵する効果を上げられる事を証明する為……。

【xxx】

 魔法少女☆あまねちゃん──基い、淡い緑の髪を背中まで垂らし、金色の大きな瞳をどこか不機嫌そうに吊り上げた美少女はやや俯いて淡々と語り出す。

「……今日は、クシレフは居ない。本番はあくまで明日。今日は前夜祭だ。全ては明日起こる」
 他には? と命令者本人であるセレスティは先を促す。
「過去の記憶が知りたいですね」
「えと。先ず、シュラインさんの仮説は大体当たりだ。つまり、結城家の連中の素性だけど。……あと、この人、冨樫氏も元はと云えば洗脳、つか教育された人らしいな。……この人が……これ、何だろ? (孝はあまりこちらの世界の固有名詞には詳しくないらしい)何か、管楽器。これを始めたのが10代の時で、そこで東京音楽才能開発教育研究所付属の音楽教室に通ってた。その頃から、この人の思考が段々、何つーか、妙に腹黒くなって行ってるような」
「矢張り、教育と云う『暴力』ですか」

 シドニーは、終演後の混乱に紛れて姿を消した。
 樹やウィンの対策は決して無駄では無かったが、今日ばかりは何も不穏な事は起こらずに終わった。──逆に云えば、磔也の警告が真実であったと云う事だ。だとすれば、「20日はヤバい」と云う言葉も的中する筈だ。
 セレスティと孝は冨樫を解放して意識を失わせてから、レイを連れて脱出した。シュライン、倉菜、亮一、涼、樹は周囲のの音大生達と共に一般客としてホールを後にし、途中でウィンが合流した。

「ちょっと肩透かしだけど、今日だけでも無事に終わったのは良かったわ」
 歩きながら、ウィンがそう笑顔を見せた。
「近くで忍さんを見ていて、何か気付いた事ある?」
 シュラインが訊ねる。ウィンは肩を竦めた。
「んー、……あれがシェトランなのね、って感じかしら。……何だかね、怖いくらいなのよ、あまりに集中力が鬼気迫っていて」
「ウィン従姉さん、」
 横合いから遠慮勝ちに声を掛けたのは樹だ。
「従姉さん、あのアンコールの楽譜なんですけど、……誰が編集したか、分かりませんか」
 ああ、「妖精の踊り」ね──。とウィンは微笑んだ。
「忍さん本人よ。楽屋でちらっと見たけど、どうも『オルフェオとエウリディーチェ』全編、オーケストラパートのピアノ編曲譜があるみたい」
 矢っ張り──。
「明日ね、全ては」

【zero】

──どうして?
 
 なんで、こんな事になってるの?
 ただのピアノコンサートじゃない、何を皆警戒してるの?
 なんで、私は今まで東京に居たの?

 冨樫さんを信用しちゃ不可ないってどういう事?
 磔也が見殺しにされたってとういう事?
 
 たかがコンサートじゃない、何が起きるって云うの?

──もう厭だ……、

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】

【渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生】
【太巻・大介 / 男 / 30 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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相変わらず、長らくお待たせしてしまいました。
更に今回は理屈が多く、あまりに長い個別パートに辟易されたかと思います。
本当に申し訳ありません。実力不足を痛感します。
それにも関わらず、続投を頂いた皆様、本当に有り難うございました。
今回、受注時に取ったアンケート結果は以下の通りでした。

1)里井薫に刺される。(重症)…………3
2)里井薫に刺される。(瀕死)…………0
3)里井薫に襲撃されるも、返り討ち。…1
4)ただのプチ家出。………………………6

重複不可、とは書いていなかった為、敢て二重回答もそのままカウントしました。
内容が内容だけに微妙な所で、多数決よりも数を反映した積もりです。
然し全体的な話の流れをこうしたアンケート式で決定するのも面白いと思いましたので、今後色々な点で取り入れて行こうと思います。

連載開始当初はそんな積もりでは無かったのですが、どうも今回のシリーズでは理屈が多いです。音楽理論、耳鼻咽喉学、生体学等に関しては一応の下調べはしてありますが、私は専門家ではありません。表記に誤りがありましたら、御自分のPC設定、プレイング内容の読み誤りなどと合わせて遠慮無く御一報下さい。

次回、最終話の受注は12月29日月曜日、午後8時から行います。
最終話には3つのシナリオ分岐アンケートを設定しました。
PL様方は恐らく今、モニターの前で呆れ返っておられるかと思いますが、気分が乗れば最終話にも参加してやって下さいませ。
尚、後日談としては最終話の後に一話、独立して受注を考えています。

反省点を抱えたままですが、今回御参加頂いた事に心より感謝致します。有り難うございました。

■ 硝月・倉菜様

不良学生が御迷惑をお掛けしました。
もし最終話に続投頂けた場合、硝月さんは本番直前の調律としてオーケストラピットに潜入する事が可能です。

また何処か間違いがある気がします……。

x_c.