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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─オーケストラピアノ前夜─

【0F】

「……とうとう、極めたか」
 音大予備校、進路担当の教師は彼の提出した書類を手に訊ねた。
 葛城・樹(かつらぎ・しげる)は大きく頷く。
「歌を止める積もりはありません。でも、進路をそれに極めても歌の練習は自分でも続けて行く積もりです。……僕が今、専門に学ぶ可き事は作曲だって、気付きました」
 樹の表情は、晴れやかだった。少し前まではあれほどに彼を苦しめていた進路の迷い──声楽か、作曲か──も、今は嘘のようにクリアだ。
「……御両親は、」
 恐らく、お母さんは、と云いたかったのだろうが教師は云い難そうに念を押した。
 樹の母親、世界的な声楽家の彼女の事だ。樹はその事を、今までは予備校内では隠していた。が、無論未成年の彼が教師にまで親の名前を隠せはしない。絶対に秘密にして欲しい、と入学当初から嘆願していたのだが──。
「両親にはもう伝えました。2人とも、賛成してくれています。……元々、僕の未来は、僕が極める事だから、って云ってくれていたんです。ただ、僕の意思が弱かった。それだけです」
「そうか。なら、心配は無い。作曲科を受験するにしても、この調子なら気を抜かなければ第一志望でも大丈夫だろう」
「有難うございます」
 頭を下げて事務所を出ようとした樹に、教師は「何だか人が変わったみたいにすっきりしてるな」と声を掛けた。
「……多分、もう何を隠す事も無い、って気付いたからだと思います。今まで、何をあんなに意固地に母の名前を隠してたんだろうって、自分でも可笑しい。……ちょっと、ある人にからかわれて。でも、これからは尊敬する母の名前に恥じないように努力するだけだって──そう思っています」

【xxx】

 冬の雨は非情な程に冷たい。
 結城・磔也の感覚は完全に麻痺していた。寒さも、焼けるような腹部の痛みも最近になって著しくなった耳鳴りも何も感じない。
 殆ど這うような歩調でようやく目的の一軒家に辿り着いた。磔也は凭れ掛かるようにしてドアを叩き、家主の名前を呼んだ。
「冨樫さん、……俺、助けてくれ」
 
 東京ムジカオーケストラ第一トロンボーン奏者兼インスペクター、冨樫・一比は目を通していた新曲のスコアから顔を上げ、溜息を一つ吐いて立ち上がった。
 招かれざる客が誰かは直ぐに分かったが、だからこそ中に入れるのは面倒である。ドアを開けはしたものの、彼はその間に長身を立ちはだからせて対応に出た。
「冨樫さん、」
「……うわ」
 絶望的な笑みを浮かべて自分を見上げている少年が押さえている腹部から下は、真っ赤に染まっていた。失血の所為か或いは単に寒さの所為か、彼の顔色は紙のように真っ白だった。
「どうしたの、その怪我」
「里井だ、あいつ、刺しやがった、この俺を……」
「……で、刺された訳?」
 冷たい視線が淡々とした声と共に降って来た。
「頭が痛かったんだ、知ってるだろう、冨樫さんだって俺の耳の事、……周期的に耳鳴りがするんだ、喉も痛い、耳鼻咽喉系の神経自体がイカれてるんだ、仕方無いだろ」
「救急車、呼んであげようか?」
「冗談云うなよ、医者に説明出来る訳無いだろ、……助けてくれよ。忍も帰って来たし、レイにこんな所見せられやし無ェし、冨樫さんしか頼れないんだ」
「……んー、……今、散らかってるしねぇ……、それも、明日団員に配るパート譜整理してるから、血で汚されても困るし。何より僕、その準備で忙しいから手当てする暇無いし」
「……、冨樫さん……」
「磔也君、友達居るんじゃ無かったっけ? それも、多少の出血じゃ驚か無さそうな人が。結構問題になってたよ、忍さんの護衛だとか、IO2と勝手に取り引きした事とか。実は僕の所にも然る大財閥の御総帥が直々にお見えになって困ったんだよねえ。多分、磔也君その内外されるから僕より彼らを頼った方が良いんじゃ無いかな?」
「あんな連中……友達でも何でも無い、……大体……、忍の事はシドニーが……、」
 限界だ。彼はそこで意識を失い、熱に浮かされて目が冷めるまでそこに居た。

【1EDG】

「うわ〜〜〜〜、すげー! ……あ、ウィンちゃん見て見て見て〜〜!! 庭がクリスマスだよぅ〜、」
 恋人の声で黙読中の書籍から顔を上げたウィン・ルクセンブルクは、仕方ない、と溜息を吐きながらも穏やかな笑みを浮かべて彼の隣の窓際に立った。
「そうね、透」
「えへへ、いやぁ〜、良いですなあ〜、クリスマスにウィンちゃんと一緒にこんな所で過ごせたら良いねっ……、」
「……、」
 ニマ、と子供のような笑顔を浮かべて振り返った恋人、渋谷・透(しぶや・とおる)の頬に、ウィンは軽く音を立ててキスをした。
「……きゃっ、」
「そうね、私も透と一緒にクリスマスをロマンチックに過ごしたいわ。でも、だったら今の内に確り勉強しておかなきゃね」
「頑張りますよ! デートがかかってるもんな。オレってば、やれば出来る人間だもん
ね〜〜」
 昂然と胸を張る透は、無邪気だ。彼の笑顔に負けて、駄目駄目、今は甘やかす時じゃ無いのに……と思いながらもウィンは胸に飛び込んで来た彼を全身で受け止め、確りと抱き締めた。
「……あの、お茶をお持ちしましたが……、」
 背後から、冷たい声が掛かった。はっ、と顔を赤くして振り返ったウィンを冷めた目で眺めているのは、陵・修一(みささぎ・しゅういち)、──この屋敷の主人、リンスター財閥総帥セレスティ・カーニンガムに秘書兼護衛役として仕える青年である。
「やだ、ごめんなさい……、」
「御構いなく。僕は別に気にしません。……ここに置いておきますので、何かあればお申し付け下さい」
「……、」
 くす、と愉快そうな声がする。セレスティは寛容だ。友人達の微笑ましい光景と、それに冷たく水を注す不粋な秘書の姿を黙ったままで楽し気に眺めている。
「有難うございました……、」
 古いレコードを片手に、オーディオルームから戻った葛城・樹が入って来た。
「如何でしたか」
 セレスティは頭を下げてレコードを棚に返却した樹に優しく問い掛けた。レコードのラベルは「クリストフ・ヴィリバルト・グルック/オルフェオとエウリディーチェ」となっている。
「素晴らしかったです。ちゃんと、全編通して聴いたのは始めてだったし、ゆっくり聴けたお陰でほぼ暗譜できました」
「そうですか。お役に立てたようなら倖いですよ」
「お疲れさま。樹ちゃんも紅茶、頂けば?」
 従姉が、修一の置いて行ったティーポットを取り上げて微笑んだ。
「頂きます、」
 そう答え、息抜きの姿勢に入っても樹は直ぐに愛用のリュックサックからファイルを取り出してテーブルに広げた。元々、受験生である。入試も近い。あまりのんびりと寛ぐ暇は無いのだ。ファイルから取り出した和声の課題を眺めながら、樹はウィンの注いだ紅茶を啜った。
 今日、こうして一同がセレスティ宅に会している理由は各人様々である。提案者はウィンだが、彼女の目的はどんな図書館や古書店にも及ばないセレスティの膨大な蔵書を頼っての調べもの、ついでに連れて来た恋人は卒業要件単位取得に向けた勉強の気分転換、樹はグルックのオペラを覚えるに当たっての音源と資料を求めて。
 セレスティは何時ものように穏やかに「喜んで」と快諾してくれたし、どうせだから、と云うことで12月19日、20日の巣鴨ユーフォニアハーモニーホール幕開けに備えた作戦会議も兼ねようと、広く声を掛けてある。後から、シュライン・エマや天音神・孝も来る筈だ。
「あら、樹ちゃん、これ、新曲?」
 ウィンが、徐ら和声課題のプリントに混ざっていた樹の手書きの楽譜を取り上げた。未だ構想中らしく、あちこちに修正の跡が見える。
「ええ、未だ出来て無いし、……どうも上手く行かなくて、なかなか……なんですけど」
「随分丁寧に作ってるのね。……あら、」
 楽譜を眺めていたウィンは、ある事に気付いてぼんやりとした、半分以上は音楽の事を考えているらしい樹の横顔を見遣った。
 楽譜は、二段に別れている。──音域的にも、恐らく……。
「これ、ピアノ曲なのね」
「……あ、……はい」
 1、2、3、1、2、3……、8分の6拍子だ。軽くリズムを口ずさみながら楽譜を追っていた──彼女自身、幼少期にピアニストに憧れていた為にある程度の譜読みは出来る──ウィンが、途中まで来て微笑しながら肩を竦めた。
「一見軽快で楽しそうだけど、難しそうな曲ね。でも、完璧に弾ければ本当に素敵なのでしょうね」
「僕自身ピアノでは楽譜を追うので一杯です。……でも……、」
 でも、と云い淀んだ樹に、ウィンは安心させるように頷いて見せた。──この真摯な従弟が、誰の為を思ってこの曲を作っているのか、大体の予想が着いたからだ。
「彼なら、きっと弾けるわよ」
 樹も微笑んだ。
「だから、後は僕がその曲を最も良い形に出来るように頑張るだけだと思います」
 なかなか難しいんですけど、と樹は低声で云い加えた。
「何か、意見があったら聞かせて下さいね、ウィン従姉さん」
「……んー、そうね。良い主題だと思うわ。でもね、ここまで難しい音系を盛り込む必要って、あるかしら」
 どちらかと云えば理屈よりも感性に優れた彼らしく無い、と思った事を率直にウィンは告げた。樹の表情が曇る。──気にしていたらしい。
「……そうは思ったんですけど……、ただ、あんまり単純過ぎる曲じゃ、楽しく無いかと思って……」
 ──弾くのは『彼』だし……。演奏者本人を、その音楽の中にまず惹き込めなければこの曲の意図は伝わらない。試行錯誤した挙げ句の産物だ。
「少し、見せて頂いても宜しいでしょうか?」
 不意に、背後からセレスティの声が掛かった。「あ、はい、」と樹は振り返り、楽譜を差し出す。
「あなたは、何を表現したいのですか?」
 全てを見通す透徹した青い瞳で楽譜を追いながらセレスティは静かに訊ねる。
「……音楽の歓びそのものを、」
 樹の答えに、頷いてからセレスティは語り掛けた。
「成る程、……その歓びを知らない者にそれを気付かせる為には、何か彼の意識を惹くような仕掛けが必要だと考えられたのですね」
「……はい、」
 流石に軽率な考えだったかも知れない、然し、他に良い方法が思い付かなかった。──そんな、樹の心中を見通したようにセレスティは微笑み掛けた。
「若者には良くあることですよ、気に為さらないで宜しいでしょう。……然し、私ならばこう考えますね。技巧の仕掛けによって意識を引き付けるのでは無く、音楽の持つ意味合いそのものに手を加えよう……と、」
「音楽の持つ意味?」
「例えば、こんな事は知っていますか。彼のモーツァルトの作品に於いて、ニ短調という調整は特別な意味合いを持っていたのです」
 樹の脳裏で、ニ短調の主和音と音階が重く響き渡った。
「……短調、では無くてニ短調が、ですか?」
「そうです」
「分かりません、何を意味しているんですか」
「死です」
 ──死、……そう云えば……、「ドン・ジョヴァンニ」の序曲の冒頭、有名なレクイエム。やや衝撃的なその言葉に愕然としながら樹は繰り返した。
「……そうだったんだ……、」
「恐らく、古典派に於いてはその考えは一般的だったのでしょう。昔は、各調性に於いてそれぞれ深い意味があったのですよ。長調、短調なら全て同じだったのではないのです。引いては、転調にも理論では無い、思想的な意味合いが存在します。……バッハのシャコンヌ、名曲ですね。あの曲などどうですか? 最初はそのニ短調から始まり、主題を経て、同名調のニ長調に転ずる……、あなたなら、そこにどんな意味を見い出すでしょう?」
 多くは語らない麗人だ。セレスティは樹に問い掛けを残し、楽譜を丁寧に返した。
 然し、それで充分だ。
「ニ短調……死、から長調への転調……、」
 目の前に、一条の柔らかな光が射したような錯覚を覚えて樹はよろめいた。
「……そうだ、……希望、……歓び……、」
 ──分かった。変に作り込む必要などどこにも無い。そもそも、これは呪歌だ。彼があの忌わしい強迫観念から解放されれば良い、と云う意思さえあれば──。
 夢中になった樹が再び楽譜をテーブルに置いた時だ。突如、ドアを隔てた廊下から何かに陶酔しているような絶叫が響いた。
「──光だ! ……そうだ、無の中の光だ! 嗚呼、神よ!」

【xxx】

「厭な人間を敵に回しましたね」
 目の前の男が床の上に叩き付けた報告書を丁寧に拾い集めた冨樫・一比(とがし・かずひさ)はのんびりと呟いた。
「それにしても──財団までリンスター財閥の云いなりか。薄情なものですよねー」
「薄情、で済む問題か!」
「落ち着きましょうよ。この僅か一週間の間で──音楽大学、同付属高校、幼稚園、──出版社、それに今日で──財団も。いやあ、壮観ですよ」
 額を押さえて座り込んだ男は、良くもそんなに暢気にしていられる、と飄々の体の冨樫を見遣った。
「たかが、非常勤講師ですしね、僕」

 ──ここは、施設全体が一戸のビルディングを占める東京コンセルヴァトワールの最上階の一室である。莫迦──では無くて、権力者と煙は高所を好む。故に、冨樫が前にしているこの部屋の主が割合重要な地位に居るであろうことは予測が付く。
 冨樫と彼が何をして騒いでいるのかと云えば、今朝になって、今まで資金援助を受けていたとある財団から援助の停止を宣言されたのである。冨樫が先程列挙した名前も、全て資金援助、或いは提携活動を断ち切る、と云う組織だ。

「リンスター財閥、やってくれるじゃないか。……歳若い男が総帥だと云うが、奴が問題らしいな」
「若くないですよ。何でも725歳だそうです」
「……何を云っているんだ、君は」
「アイルランド出身の人魚だそうですよ。いやあ、大したもんだ。研究者達が知ったら愕然とするでしょうね、何せそんな人間が居るなら自分達の研究なんかただの徒労なんですから」
「……、」
 最早呆れて何も云えなくなった男への止めに、冨樫は「レイちゃんの情報ですから、信憑性があるか皆無か、どっちかですけどね、極端な情報しか集めて来ませんから、彼女」と微笑んだ。
「……結城のコピーか。……あれも全くの役立たずだ。弟の抑止剤だったが、その弟の方も死にかけているらしいな」
「ああ、里井君でしょう。彼、大分虐められてましたからね、とうとう『キレた』らしいですね。怖いですねえ、今どきの若者。知ってます、キレるとナイフで通りがかりの人間を刺すそうですよ」
 この二人、お互いへの対応には慣れているらしい。暢気な冨樫の軽口を聞き流し、男は「寿命だ」とだけ吐き捨てた。
「え、17で寿命ですか。早いなあ、だったら僕なんかどうなるんですかね」
「年齢の問題じゃ無い。……耳の聴こえない──それも感音性難聴の駒など、必要無い」
 怖、と冨樫は肩を竦めた。
「僕も気を付けるかな」

【2EDGH】

「……は?」
 ドアが開いた。入って来たのは──一部の人間には忘れ難いあの問題青年──映像作家、柾・晴冶(まさき・はるや)である。
「あ、……あなた……、」
 樹は先程の集中も忘れ、思わず席を立っていた。「おや、」とセレスティも口唇に微笑を浮かべる。
 随分とまあ元気そうである。先日は、衰弱死寸前の体の生ける死体だった癖に──。
 柾は、ウィンやセレスティには目も呉れずに真直ぐ樹の許へやって来た。「え?」と困惑する樹の手を両手で確りと握り締め、柾は朗々と語り出す。
「葛城君、長らく待たせた。俺にも神の啓示が降りたぞ、そう、ヨーロッパの芸術は全て聖書に端を発するんだ、光だ光! 救いだ! 嗚呼、千鶴子、見てろ! 俺は神の救いを映し出して見せるぞ、ようやくお前の鎮魂を謳う事が出来る!」
「……、」
 最早呆れ返るしか無い。ああ、この方が先日、お兄様達が幻想交響曲の世界から救い出したという映像作家なのね、……それにしても、随分お元気そうだこと……、と思考するウィン、手を取られたままの樹は唖然として柾の羨ましい程に晴れやかな笑顔を眺めていた。
「……、」
 くす、と笑い声を漏したのはセレスティだ。──神、聖書の世界か。以前、同じような目をした画家が居たものだ。
「と云う訳で」
 俄に現実的な表情に変わった柾は、在らぬ方向に向けていた視線をくるりと樹に落とした。
「君の出番だ、君、今日は喉の調子はどうだ、ああ、良さそうだな。顔色も良い。君の場合は化粧は無しにしたかったんだ。ああ、幸先が良いぞ。そうと極まれば、早速事務所に帰ろう、良いな、君は俺と一緒に聖書と云う永遠のテーマを現在のメディアの主たる映像に再現するんだ、」
「……ちょっと待って下さい、何で僕が……、」
 樹は目眩さえ覚えながらようやく隙を突いて反論した。……が、斯様な事をインスピレーションを得た真っ最中のゲージュツカに云って聞く筈が無し。
「安心しろ、君の従兄から許可は貰っている。その美貌に歌声、君はそれを芸術の為に活かす事もせずに打ち捨てておく気か!? 良いか、芸術は腐っても美の追求にあるんだ、それを──」
「だから、僕はその為に今音大受験の勉強を──、」
 最早樹の身体は半分以上書斎からはみ出していた。柾が引っ張っているのである。
「ウィン従姉さん!」
 最後の救いを求め、樹は指先を美しい従姉に差し伸べた。
「……そうね……、でも、折角元気になって千鶴子さんの為に撮るって仰っているのだし、一日位付き合ってあげたら?」
「あああああ────っ!!」
 そうして樹は柾に依って拉致された。御愁傷様である。
「……ウィンちゃん、」
 透がようやく、ウィンの袖を引いた。無邪気に小首を傾いでいる。
「……何があったの?」
「……さあ、何かしら……、」
「……、」
 入れ違いに、修一が茶請けと思しい菓子を盛ったトレイを手に入って来た。その目は呆然としている。
「……晴冶君……、……何と云うか、元気そうで……」
 今や屋敷内の事にはすっかり敏感で心配性で、本来ならば義兄になる予定だった彼でさえ、そうとしか云い様が無いらしい。
「ええ、その事が何よりですねえ……、」 
 セレスティは一人、相変わらず穏やかである。
「……こんにちはー、」
 のそり、と修一の後ろから入って来たのは孝だった。
「すいません、遅くなってー……、」
 くしゃくしゃ、と深緑色の短髪を掻き回しながら、孝は極まり悪そうに謝った。何しろ、今去ったばかりの台風の目を連れて来てしまったのは孝なのである。
「応仁守さんの事務所に寄って来たの?」
 ウィンの問いに、孝はげっそりと頷いた。
「そう。……水谷の事を聞こうと思ってさー、会いに行って、話を聞いたは良いんだけど、何かハジけてる真っ最中で、葛城君はどこだ、そうか君の行く先か、なら俺も行くって、……ビビったぜ、何せ俺より先に異空間通り抜けちまうんだもんなー……、」
 その数分間の間の孝の疲労たるや、数日に及ぶレイの奴隷生活よりも多大だったようだ。
「つ訳で、すみません」
「いいえ」
 あくまで興味深い事の一端として今の出来事を眺めていたセレスティは、寛容に頷いた。
「……で、肝心の水谷とクシレフの接点は?」
 それがさ、と孝はウィンに向き直った。
「矢っ張り、心当たりは無いって。柾氏自身、東京コンセルヴァトワールなんて聞いた事もないっつってたし、……何かの弾みで付け込まれたんじゃ無いかなー、」
「……そう。……クシレフの宿る先……、それは、水谷である必要性は無かったと考えた方がシンプルになって良いでしょうね」
 ──そう、そしてクシレフとは何ぞや、と云う最初の疑問に戻る。ウィンは、さっきの一騒動ですっかり打ち捨てられていた書籍の山へと再び戻った。
 『Les Soirees de l'orchestre オーケストラの夜話』、これが問題の、幻想交響曲の作曲家エクトール・ベルリオーズが記したクシレフとシェトランを巡るスプラッタ小説「音楽都市、若しくはユーフォニア」の納められているフランス語の古書である。一通りは目を通しておく可きだろうとは思ったが、日本語版が無く、原書すら絶版になっているこの本は図書館や古書店をいくら当たっても見つからなかった。……が、試しにセレスティに訊ねた所、あっさり「在りますよ」との事である。愕然としたものの、ウィンは即座に閲覧を頼み込んだ。フランス語ですが構いませんか、ええ、読めます──と、先程までに大方のあらすじを読み終えた所だった。
 
【xxx】

「未来小説 ユーフォニア、もしくは音楽都市」
──この小説はフランス人作曲家、エクトール・ベルリオーズが1852年に記した、音楽に全てを捧げ、グルックのオペラの『壮大な』記念上演を目指す共産主義的ユートピア思想の伺える共同体についての空想物語である。
 ユーフォニア市は音楽、芸術という「全体の崇高な目的」の為軍部の支配下にある鉄の規律に支配されており、クシレフは作曲家であると同時にユーフォニア市の音楽分野での最高責任者である。何故グルックか、と云う点にはただ「素晴らしく『壮大な』古典として」としか記述されていないが、恐らくは19世紀最大のグルック信奉者であったベルリオーズの個人的な趣味かと思われる。
 然しあらすじ自体は陳腐なスプラッタ、と一笑に伏されて然るべき単純なものである。
 女性歌手に裏切られ、復讐の為に大量虐殺、──『壮大な』破壊を目論むクシレフは彼女の誕生日のコンサートが行われる鋼鉄の音楽堂に残虐な仕掛けを施す。
 ところで、当時ユーフォニア市には一人の機械工の巨匠がいた。彼の製作した巨大なピアノは変化自在の音色と音量を持ち、それ故に『独りの名手が』奏するだけで、一団のオーケストラを遥かに凌ぐ音楽を発信することが出来た。──オーケストラピアノ。
 クシレフは鋼鉄の音楽堂とこのオーケストラピアノを接続し、その奏者として友人であるピアニスト、シェトランを呼び寄せる。
 女性歌手の誕生日祝いに大勢の人間が音楽堂に集った時、そこで悲劇が起こる。シェトランがオーケストラピアノを弾き始めると同時に鋼鉄の壁が内側に向かって聴衆を圧殺すべく押し寄せ、そこは阿鼻叫喚地獄と化す。クシレフはそれを音楽堂の外から傍観している。シェトランは目の前の悲劇にも気付かずにピアノに熱中したままである。

【xxx】

「東京コンセルヴァトワールと各機関の繋がりや資金源について調べてみたのですが、その中で、どうも不穏な計画が浮き彫りになりましたよ。少し話が逸れますが、古くはバロックの時代から古典派、ロマン派、近代、現代、そして今やクラシックを凌いで世界の音楽の中心となっているジャズやポップスと云った音楽、実はこれらの音楽の区分けは、様式の他にも『その音楽が何処で栄えていたか』と云った観点からも行う事が出来るのです。例えば、現在ではジャズやポップスが全盛ですが、これらの大本の発信地はアメリカです。その時代の音楽の中心地、──それは、その時代の最も力、──財力、政治的な影響力、知名度等……ですね、そうした物を持った国なのです。音楽とその国の力というものは等しく発展するものなのですよ。19世紀初頭にはフランスで現代音楽が栄え、その後はドイツやイタリアに分散し、そうしたヨーロッパの各国が第二次世界大戦で凌ぎを削り合った結果、戦後の音楽の中心地は自国で戦争を行わなかったアメリカに移ったと云う訳です。……そして今、音楽の中心地を再びフランスに据えようと云う計画の情報を得ました。それはつまり、フランスに財力、政治的影響力、今では軍事力も欠かせませんね、そうした力を集め、フランスが世界を支配する時代を作ろうとする事です。そうすれば自然、音楽の中心地もフランスに移る事になりますからね、コンセルヴァトワールの中の一組織が何やら、小細工を行っているようですよ。不思議な事に、彼等の通信文書の中に『クシレフと遭遇』と云った言葉が多く見られたのです。クシレフとは、恐らく独裁者の地位を望む者。第二次世界大戦時のファシズムを思えば間違いはありません。ルクセンブルク嬢、あなたが磔也君の意識の中で聞いたと仰った、『クシレフはあらゆる肉体の壁を飛び越えて自分の前に現れた』と云う言葉と合わせて、意識レベルで独立した存在、そして彼は恐らくあらゆる固体を転移して生き延びる。私達が会っただけでも、最初は幻想交響曲の世界の中に、そして磔也君がそれをメモリカードに保存して水谷に与えた。クシレフが今、そうして東京に止まっている理由が、東京コンセルヴァトワールです。東京コンセルヴァトワールは、そうしたフランスで計画の挙がっている、云わば世界へ向けたクーデターの為の中継地として東京を利用する気です。遺伝子学の研究も、応用すれば音楽家だけでなく軍隊への転用が可能です。また、専門技師や優秀な科学者といった存在も作り得る。それに、音楽はプロパガンダとして非常に有効です。ナチスドイツの政治は、音楽を非常に巧く利用した洗脳であったと云えます。ルクセンブルク嬢の前で失礼ですが、あの聡明なドイツ人種がその計略に掛かってユダヤ人を敵と認識したのです。私は、今度のオペラの上演を一種の洗脳作戦だと予測します。被害の軽減の為、チケットの買収を計ったのですが、大半は回収出来ませんでした。何故だと思われますか。……殆どが、音楽大学や音楽高校等の団体で、学校行事、或いは必修課外授業として組み込まれていたからです。音楽を専攻する若者を「中心」に聴衆に選んでいる、……洗脳は怪しまれますね」
 ──……。
「ホールへは、実際に行くしか方法は無いと思われます。東京コンセルヴァトワールへ今後の対策としては、少々野蛮ですが資金源を虱潰しに絶つと云う方法を取りました。大分、協力して頂きましたよ。……副産物として、奨学資金の縮小を行った為に、海外へ散っている留学生の大半が東京へ戻る事になりました。シドニー・オザワ、彼女も帰国します。彼女へは特別に、ルクセンブルク女史の御名前をお借りしてコンタクトを取ってみました。恐らく、19日までには帰国することでしょう。今後、フランスで泳がせるよりは少々リスクはあっても、実際に東京で対面して置く方がいいかと思われます」

【xxx】

 葛城のアパートは文京区か……。
 今からじゃ電車は無いだろうし、タクシーでも拾うか。

 別に、あのまま倉菜の祖父の工房に居座っても良かった筈だ。が、何か──倉菜のあのきれいな顔を見ていると無性に自分が惨めに思えて遣り切れなかった。彼女の云う通り、こんな時に頼れる友人が居ない。唯一信頼していた冨樫からは──東京コンセルヴァトワールも含め──冷たく突き放されたし、姉にも養父にも会いたく無い。亮一は信用出来ないし信用されてもいないだろう。何より事務所包みでIO2とも繋がりがあったなんて、あんな探偵に関わるのはヤバい。然もにこにこ笑いながらピアノの蓋で指を潰そうとした奴だ。なんとか財閥総帥も然りだし、それを云えば東京随一の怪奇探偵、草間武彦と繋がりのあるシュライン・エマも同じだ。優男──御影涼、駄目だ、あいつだけは苦手だ。何故、あそこまで人が好いのか分からない。優しい人間は苦手だ。……(恐怖の対象でもあり、宿敵と云えるその兄は無論)ルクセンブルクも同じ理由で厭だし、天音神、──論外。名前を思い出すのも厭だ。
 ──となれば、矢張りここはちょっと脅せば多分黙って云う事を聞くだろう葛城樹しか居ない。
 水谷のデスクから失敬して来た樹の履歴書を手に、(終電後のような深夜に押し掛けるという樹の迷惑は考えず)逡巡して通りに目をやった磔也の肩を、背後からとんとん、と叩いた手がある。
「あ……?」
 振り返った磔也の顔色がはっきりと変化した。
「Cava ?」
 目の前にあったのは、端正な少女の笑顔だ。シドニー、……磔也の声は上ずっていた。
「……いつ、帰って来た、」
 返事の代わりに、少女は何気無い動作で磔也の腹部を押さえ付けた。激痛に悲鳴を上げた少年が蹲っても、東京の明るい夜では誰が目を止めるでも無い。
「厭だ、痛そう。……ねえ、ちょっと確りしたら? みっともないわよ、そんなに顔歪めちゃって。……ねえ、聴こえてる? もしかして、もうそこまで駄目になってる訳?」
「シドニー!」
「あなたが厄介な相手に情報流した所為で、皆が迷惑してるのよ。私だって奨学資金の縮小で呼び戻されちゃったの。……今後は、東京コンセルヴァトワールだってまともに機能出来ないわ。安心して、私はもう直ぐ自分でフランスに帰るわ。あなた、もう駄目なようだし、永遠のお別れになるわね。寂しいわ。昔のあなたは良かった。今はこんなに惨めだけど。……最後に、あなたのデータを貰って行くわ。来て頂戴。直ぐに終わるし、痛くないわよ」

「……お?」
 夜の街を我が物顔で行く紹介屋、太巻・大介(うずまき・だいすけ)の目に、一組の男女の姿が映った。
 未だ十代の少年少女だ。何やら、揉めている。傍目には痴話喧嘩でもしているようで、東京の人々は気にも止めずに通り過ぎて行く。が、少年の方は太巻の見知った顔である。久し振りだ──と思って見れば、彼は面識のある人間なら異常に気付かない訳は無い苦痛に満ちた表情をしている。一旦その光景を目に入れた太巻の目は誤魔化せなかった。
「……貸しでも作ってやるか」
 揶揄かいついでに……。──太巻は、歩を進めた。

「よお、久し振りじゃねェか」
「……?」
 磔也と、もう一人の端正な顔をした少女は同時に顔色を変えた。
「太巻……、」
「……どなたかしら、磔也?」
 少女は太巻にあまり友好的では無い笑顔を向けた。磔也はと云えば、未だ腹部を押さえたきり俯いている。──本当に、手間のかかるガキだ。
 太巻は磔也の腕を取って少女から引き剥がした。
「ちょっと?」
「ああ、ナンパならやめとけ。残念な事にコイツ、あっちの気があるもんでな。あんたみてェなきれいな嬢ちゃんには勿体無ェよ」
「何だとこの野郎──」
 磔也が眉を吊り上げた所で、その反論を皆まで云わさず太巻は彼の顎を無理矢理持ち上げて──実際には頬の辺りに──キスをくれてやった。無論、クールで知的な女性を好む(然も妻子持ちの)太巻とこの不良学生が好い仲な訳では無い。単純に助けるのも面白く無い、のでどうせなら思いきり磔也が厭がる事をしてやろうと悪乗りしただけである。
「磔也!」
 少女の血の気がさっと引く。同時に、太巻の頬が少女以上に顔面蒼白な磔也の平手で(本気で)張り飛ばされた。
「痛ェな、」
「何の積もりだこの変態、──痛……、」
「暴れるからだ」
 暴れたのは誰の所為だ。少女は既に口唇を震わせ、2人を嫌悪感に満ちた目で蔑視している。──これで、追っては来ないだろう。
 数十秒後には、それまで誰の注意も集めなかった磔也は一瞬にして人目に晒される事になる。彫りの深い顔立ちの、香水と煙草の匂いを漂わせた男に何やら仲良さそうに引き摺られて移動すれば、それは当然の結果である。然し、彼等の行き先は二丁目に在らず。

 ──「時空の狭間」。東京の人間がふとした弾みで迷い込む。ここは、太巻の縄張りだ。
「何があったかは知らねェが、おめェみてェなガキが美少女とイチャついてんのが気に喰わなかっただけだ。文句なら聞かねェぜ、」
「……貸しを作ったなんて思うなよ、」
 未だ憎まれ口を叩いている磔也に、太巻は口の端に咥えた煙草の煙を吐き出しながら「医者、紹介してやろうか」と低く訊ねた。
「……、」
 磔也は俯いたまま頭を振る。それを眺めながら、太巻は僅かに目を細めた。
「……何か、訳有りみてェだな」
 ──ぱさ、と音がして磔也が顔を上げると、目の前に「おくすり」と書かれた──病院の処方箋のような何の変哲も無い──紙袋があった。
「MS(硫酸モルヒネ)と抗嘔吐剤、抗生物質だ」
 太巻は囁き声で中身を告げ、「とっとけ。困った時はお互い様、だろ?」と口の端に笑みを浮かべた。
「……、仕方無ェなあ、……『借り』といてやるよ」
 紙袋に手を伸ばし、暫くしてから磔也は云い足した。
「……借りついでに、……太巻、……チャカ、用意出来ないか」

【6F】

「……、」
 深夜になって、アルバイト先のジャズ喫茶から帰宅し、アパートのドアを開けようと鍵を探っていた樹は背後から突然口を塞がれてさっと血の気が引いた。ちらり、と視界の端に移った手は異様に白い。──大方の予想は着いた。が、それだけに樹の恐怖心は倍増される事になる。耳許で彼は低く命じた。
「声出すな。……鍵、開けろよ」

「磔也君……、倉菜さんの所に居るんじゃ無かったんですか?」
 観念して磔也を部屋に入れ、コーヒーを煎れながら樹は呆れて呟くように訊ねた。
「……あんな危無ェ所に居られるかよ」
「危ない?」
「何でも無い。煩ェな、お前、俺の行動に口出しして良いと思ってんのかよ」
 それまで妙に生気に乏しかった磔也の瞳がきらり、と輝いた。そこで常人なら「何様の積もりだ」と云える所だが、彼は葛城樹である。樹は慌ててすみません、と謝った。
「で……も、磔也君、風邪は……、高熱で意識が混濁してたって聞きましたけど、大丈夫なんですか」
「ああ。……伝染るとしたって、どうせお前だしな」
「……、どうぞ……」
 最早口応えする気力も失せ、樹はコーヒーを磔也に差し出した。礼の一つも云わずにカップを取り上げた磔也だが、一口も飲まない内にやや眉を顰めてそれを横へやってしまった。樹は不味かったか、とまた肩を竦めたが、原因は彼の煎れたコーヒーの味にあったのでは無いらしい。磔也は少し力を込めた手で腹部を押さえていた。
「……磔也君、顔色が悪いけど……大丈夫……?」
「別に……、……、」
 明らかに、彼の様子はおかしかった。磔也は立ち上がってキッチンへ行くと、断りも無しにグラスに水を注いで懐中から取り出した──何かの処方箋のような──薬を出して飲んだ。神経質そうにやや眉を顰めながら。
「この水、大丈夫だろうな」
「……大丈夫だと思いますよ……。一応、浄水器通してますし……」
 風邪薬だろうか、だがそれにしても──、だが、またここで質問したら何をされるか分かったものでは無い──、ややして懊悩する樹を振り返った磔也の表情は、つい今し方の不安を忘れる程に相変わらず威圧的だった。
「つー訳で(どういう訳だ)、当分泊めろ。絶対に誰にも連絡すんなよ。レイと忍には絶対だ、従姉にもな」
「……、」
 ここで「厭です」と答えられる人間が居れば、その顔を見てみたかった。
「安心しろ、一週間もすりゃ出て行くよ」
 その後、「吐き気がする」と云って壁際に座り込んだ磔也に寝台を譲り、途方に暮れながらも樹は黙って従う事にした。恐怖の為だけでは無く、彼らしい気遣いから。
 余談だが、モルヒネの副作用として嘔吐が挙げられる。抗嘔吐剤の服用である程度は抑えられるが。

「……じゃ、僕予備校に行きますけど、磔也君、無理しないで」
 云って素直に聞く筈は無いと分かっていながら、樹は玄関から遠慮勝ちに声を掛けた。
「……、」
 磔也は黙っている。軽く溜息を吐いて出掛けようとした樹が愛用のリュックサックを取り上げた瞬間、空耳を疑うような低い声が掛かった。
「……葛城、さっきお前がやってたバス課題だけどな」
「……はい、」
 一瞬、何の事だろうと思った。磔也は適当な方向を見詰めたまま言葉を次いだ。
「一カ所、間違いがあるぜ。中間の偽終止の直前、五から一の進行に隠伏8度がある。良く見てみろ」
 その一言で、ようやく、出掛けにやっていた和声法の模擬問題の事だと気付いた樹は慌ててリュックサックを開け、問題のプリントを取り出した。
「……あ、」
「アルトとバスが8度に到達してるだろう」
 押し黙っている振りをして、樹が身支度をしている間にでもしっかり見ていたらしい。
「……本当だ。うっかりしてた。……でも、バスを主音に解決したら導音のテノールをどうしたら良いのか……、隠伏1度を避けた結果なんですけど」
「導音は勿論主音に進行させる。五、一の進行でテノールの導音とバスの属音が主音に解決した結果の隠伏1度は禁則じゃ無いんだよ。……本当だぜ、こんな下らない嘘を云っても始まらないだろ」
「……信じます」
「そこだけ直しとけよ。他は大分良くなったぜ。……半年前のお前の答案を見た時はあんまり酷いもんで笑ったけど」
「半年前の答案!? ……予備校のサーバに侵入って……、……そんなものまで見たんですか」
「だから、大分良くなったって云ってやってんだろ。有り難く思え」
 有り難く思うのはどっちだ。怪我をして転がり込んで来た彼を、(二人共同じく)苦手にしている従兄に知らせもせずにこうして置いてやっているのに。
 ──が、そこは彼の性格なので今更だ。樹は素直に例を述べた。
「有難う、……何だか、受験、上手く行きそうな気がして来ました」
「気が早ェよ」
「いえ、本当です。……じゃ、行って来ますね」
 ──磔也君に「行って来ます」と云うのも変だな……、と思いつつ、樹は明るく玄関を出た。
 とにかく、僕は真剣に音楽の勉強をするだけだ。磔也君と、良いライバルとして話が出来るように。
 ──その為には、受験も、今作っている最中のこのピアノ曲も確り頑張らなければ不可ない、──樹は、リュックサックに仕舞った書き掛けの楽譜の存在を確かめた。

 そうしてその日、樹が予備校の授業とジャズ喫茶でのアルバイトを終えて帰宅した時には、あの神出鬼没で異様に神経質な不良学生は幽かな煙草の匂い、それに素っ気無いが性分らしく几帳面な文字で書かれた一辺のメモだけを残して消え去っていた。

『19日には特に何も無い筈だ。20日には行くな。どうしても行くなら騒音対策はして行け。ヤバくなったら直ぐ逃げろ。
 硝月に伝えろ、どうせあいつホールいじりたがってるだろうから。オーケストラピットに、オーケストラピアノがある。20日のG.P.(ゲネプロ)後に行けば、最終調律をさせて貰えるように手配してある。硝月は疑われて無い、安心しろ』

 相変わらず一方的で礼の一言も無いが、明らかに有利な情報だ。何か、状況が変わったのかも知れない。
──……大丈夫、きっとまた会える筈だ。……巣鴨で……。

【7】

 12月19日。ホールの入口で待ち合わせた面々は揃って中に入った。──譜面捲りの名目で、舞台袖に潜り込む事に成功したウィンを除いて。

「何かあったら、私はサイコで弦を切る積もりよ。そうならない事を願うけど」
 別れ際にウィンもそう云っていたが、樹は予め複数の耳栓は持参していた。そしてメージを受けた精神を癒す効果のある呪歌を保存したPC。──磔也の置き手紙から、今日は必要無いかも知れないとは思いながら、念の為。
「……はあ、」
 隅の方で、孝が肩を落として溜息を吐いている。本日はライトなピアノコンサートという事で普段通りの服装であるが、彼の気分の重さはコンサート後の予定にあるらしい。反面、セレスティは常通り穏やかながらもどこか楽しそうだった。
 ちらり、と倉菜はそんな孝を見遣った。先日、自分の顔を視て露骨に厭な顔をされた事が今だに気になっている。
「……、」
「……、」
 ふと、視線を上げた孝は倉菜と顔を合わせた。
「……あ、」
「……、」
 ふい、と顔を反らした倉菜の許へ駆け寄り、孝は突如頭を下げた。
「ごめん、」
 視線を戻した倉菜は「?」と首を傾いでいる。その顔を相変わらず複雑な心中で眺めながら、孝は低声で告げた。
「君、俺の妹に似てるんだ」
「え?」
「……そんで、吃驚しちまって、こないだは、つい。厭な思いさせたかも知れない、御免な、」
「……、」
 そうして孝はそそくさと、再び倉菜から遠離った。
「……何だ」
 そのあまりに肩身の狭そうな様子を眺める倉菜は、可笑しくてつい吹き出した。
「エマさん、」
 亮一は隣に掛けたシュラインにそっと耳打ちした。
「緋磨から聞いたんですが、……先日は済みませんでした。……勝手に『遮断』してしまって。まさか、エマさんにそんな不都合が生じるとは思っていなかったので……」
 先月の13日の事だ。後から聞いた所に拠れば、亮一の能力で遮断されてしまうとシュラインは声自体が発せなくなってしまうと云うことである。恐縮する亮一に、シュラインは苦笑したながら溜息を吐いた。
「良いのよ。……ま、仕方無かったんだものね。ただ、出来れば今度からは事前に合図して下さいね」
「すみません」
「……それより……、……田沼さん達の情報網って、本当に広いのね。緋磨さんの旦那様にまで御会いして、吃驚したわ」
「……まあ、色々」
 亮一も苦笑いを返した。
 その横で、礼儀正しい彼らしく既に今日からスーツ姿の涼はそわそわと開演前のホールを見回して居た。以前にセレスティが云った通り、学生が多くて見分け難い。
「葛城さん、」
 涼は樹を掴まえた。樹の所に居ると聞いていたが、何でもまた再び直前に行方をくらましたと云う事だ。──太巻から穏やかで無い事を聞いた涼は、落ち着かない。
「磔也、来てる?」
「……分かりません、……ごめんなさい」
「いや」
 莞爾と涼は微笑んだ。彼が『視て』も、磔也の気配は感じられない。──とすると、今日は来ていないのか……。
 ……が、未だ客席を見回していた涼はある一点で視線を止めた。
「……、」
 とんとん、と亮一の肩が軽く叩かれた。
「亮一さん、俺、ちょっとあっちに移動するよ」
 涼が一席だけ空きのあった前方を指した。──そこを見遣り、空席の「前」の人間を認めた亮一は微笑を崩さず、目だけを少しく細めて頷いた。

 ──会場が段階を経て暗くなり、開演を告げる、オルガンをサンプリングしたアナウンスが響いた。
 
【7BF】

「倉菜さん、これ」
 暗闇の中で、樹はそっと倉菜に件のメモを手渡した。舞台上の明りを頼りに倉菜は視線を落とす。
「……、」
「磔也君からです」

『19日には特に何も無い筈だ。20日には行くな。どうしても行くなら騒音対策はして行け。ヤバくなったら直ぐ逃げろ。
 硝月に伝えろ、どうせあいつホールいじりたがってるだろうから。オーケストラピットに、オーケストラピアノがある。20日のG.P.(ゲネプロ)後に行けば、最終調律をさせて貰えるように手配してある。硝月は疑われて無い、安心しろ』

「……オーケストラピアノ……?」

【8】

 プログラムは、ヘンデルからベートーヴェンまでの古典作品のみで構成したピアノソナタと小品だった。
 オーケストラ等派手な構成ならばともかく、ピアノ一台では、今どき、音大生にも退屈な演目である。当初には怠惰な鑑賞姿勢の見えた聴衆には、然し演奏開始後から明らかな変化が訪れた。

 厳密に設計されたホールの音響効果もあるだろう。クラシックの演奏に最も適した残響は2秒と云うことだが、ユーフォニアハーモニーホールは見事にその条件を制していた。
 ──それ以上に、……否、その両方の条件を備えていた所為か、シェトラン、結城忍の演奏が壮絶だった。
 別段派手な訳では無い。基本的に、楽譜に忠実な古典派が専門らしい演奏である。が、そもそも独奏と云うのは尋常では無い集中力と情熱を必要とするものだ。綱渡り、と云うが、そんなものでは無い。ピン、と張った一本の細い糸の上を、バランスを崩す事無く、真直ぐに進む状態だ。それを達成し得るヴィルトゥオーソの演奏は、特に同じく演奏を専攻する者ならば直ぐに理解して目を見張る。
 
 ──周囲の音大生達の熱心な態度を眺めながら一同が感じた事は、もしもこの熱狂がプロパガンダに利用されれば……、と云う予感である。

 然し本番自体は何事も無く過ぎた。勿論、演奏上のミスを含め、何事も無く。
 アンコールで再び舞台に現れた時、傍にはウィンが楽譜を持って付き添っていた。
 無愛想に曲目紹介も無く奏され出した旋律を聞いた樹は、はっと身を乗り出した。──覚えのある旋律だ。

──『妖精の踊り』、
 
 グルックのオペラ、「オルフェオとエウリディーチェ」の中の一曲だ。フルートの優美な旋律の曲だが、ピアノ一台用に編曲してある。
「……、もしかして、」
 
 これが予告編だとすれば、可能性として、明日のオペラでのバンダは、オーケストラでは無いのだろうか。例えば、全曲をピアノ一台で演奏出来るように編曲してあり、ホールの構造と「オーケストラピアノ」を合わせ、「一人の音楽家」でもオーケストラに匹敵する効果を上げられる事を証明する為……。

【xxx】

 魔法少女☆あまねちゃん──基い、淡い緑の髪を背中まで垂らし、金色の大きな瞳をどこか不機嫌そうに吊り上げた美少女はやや俯いて淡々と語り出す。

「……今日は、クシレフは居ない。本番はあくまで明日。今日は前夜祭だ。全ては明日起こる」
 他には? と命令者本人であるセレスティは先を促す。
「過去の記憶が知りたいですね」
「えと。先ず、シュラインさんの仮説は大体当たりだ。つまり、結城家の連中の素性だけど。……あと、この人、冨樫氏も元はと云えば洗脳、つか教育された人らしいな。……この人が……これ、何だろ? (孝はあまりこちらの世界の固有名詞には詳しくないらしい)何か、管楽器。これを始めたのが10代の時で、そこで東京音楽才能開発教育研究所付属の音楽教室に通ってた。その頃から、この人の思考が段々、何つーか、妙に腹黒くなって行ってるような」
「矢張り、教育と云う『暴力』ですか」

 シドニーは、終演後の混乱に紛れて姿を消した。
 樹やウィンの対策は決して無駄では無かったが、今日ばかりは何も不穏な事は起こらずに終わった。──逆に云えば、磔也の警告が真実であったと云う事だ。だとすれば、「20日はヤバい」と云う言葉も的中する筈だ。
 セレスティと孝は冨樫を解放して意識を失わせてから、レイを連れて脱出した。シュライン、倉菜、亮一、涼、樹は周囲のの音大生達と共に一般客としてホールを後にし、途中でウィンが合流した。

「ちょっと肩透かしだけど、今日だけでも無事に終わったのは良かったわ」
 歩きながら、ウィンがそう笑顔を見せた。
「近くで忍さんを見ていて、何か気付いた事ある?」
 シュラインが訊ねる。ウィンは肩を竦めた。
「んー、……あれがシェトランなのね、って感じかしら。……何だかね、怖いくらいなのよ、あまりに集中力が鬼気迫っていて」
「ウィン従姉さん、」
 横合いから遠慮勝ちに声を掛けたのは樹だ。
「従姉さん、あのアンコールの楽譜なんですけど、……誰が編集したか、分かりませんか」
 ああ、「妖精の踊り」ね──。とウィンは微笑んだ。
「忍さん本人よ。楽屋でちらっと見たけど、どうも『オルフェオとエウリディーチェ』全編、オーケストラパートのピアノ編曲譜があるみたい」
 矢っ張り──。
「明日ね、全ては」

【zero】

──どうして?
 
 なんで、こんな事になってるの?
 ただのピアノコンサートじゃない、何を皆警戒してるの?
 なんで、私は今まで東京に居たの?

 冨樫さんを信用しちゃ不可ないってどういう事?
 磔也が見殺しにされたってとういう事?
 
 たかがコンサートじゃない、何が起きるって云うの?

──もう厭だ……、

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】

【渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生】
【太巻・大介 / 男 / 30 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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相変わらず、長らくお待たせしてしまいました。
更に今回は理屈が多く、あまりに長い個別パートに辟易されたかと思います。
本当に申し訳ありません。実力不足を痛感します。
それにも関わらず、続投を頂いた皆様、本当に有り難うございました。
今回、受注時に取ったアンケート結果は以下の通りでした。

1)里井薫に刺される。(重症)…………3
2)里井薫に刺される。(瀕死)…………0
3)里井薫に襲撃されるも、返り討ち。…1
4)ただのプチ家出。………………………6

重複不可、とは書いていなかった為、敢て二重回答もそのままカウントしました。
内容が内容だけに微妙な所で、多数決よりも数を反映した積もりです。
然し全体的な話の流れをこうしたアンケート式で決定するのも面白いと思いましたので、今後色々な点で取り入れて行こうと思います。

連載開始当初はそんな積もりでは無かったのですが、どうも今回のシリーズでは理屈が多いです。音楽理論、耳鼻咽喉学、生体学等に関しては一応の下調べはしてありますが、私は専門家ではありません。表記に誤りがありましたら、御自分のPC設定、プレイング内容の読み誤りなどと合わせて遠慮無く御一報下さい。

次回、最終話の受注は12月29日月曜日、午後8時から行います。
最終話には3つのシナリオ分岐アンケートを設定しました。
PL様方は恐らく今、モニターの前で呆れ返っておられるかと思いますが、気分が乗れば最終話にも参加してやって下さいませ。
尚、後日談としては最終話の後に一話、独立して受注を考えています。

反省点を抱えたままですが、今回御参加頂いた事に心より感謝致します。有り難うございました。

■ 葛城・樹様

すみません……。
不良学生が、どうしても遊びに行きたいとか何とか申しましたもので。
柾にも今後振り回されそうですが、適当に宜しくしてやって下さいませ。
ピアノ曲、楽しみにしております。

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