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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─オーケストラピアノ前夜─

【xxx】

 冬の雨は非情な程に冷たい。
 結城・磔也の感覚は完全に麻痺していた。寒さも、焼けるような腹部の痛みも最近になって著しくなった耳鳴りも何も感じない。
 殆ど這うような歩調でようやく目的の一軒家に辿り着いた。磔也は凭れ掛かるようにしてドアを叩き、家主の名前を呼んだ。
「冨樫さん、……俺、助けてくれ」
 
 東京ムジカオーケストラ第一トロンボーン奏者兼インスペクター、冨樫・一比は目を通していた新曲のスコアから顔を上げ、溜息を一つ吐いて立ち上がった。
 招かれざる客が誰かは直ぐに分かったが、だからこそ中に入れるのは面倒である。ドアを開けはしたものの、彼はその間に長身を立ちはだからせて対応に出た。
「冨樫さん、」
「……うわ」
 絶望的な笑みを浮かべて自分を見上げている少年が押さえている腹部から下は、真っ赤に染まっていた。失血の所為か或いは単に寒さの所為か、彼の顔色は紙のように真っ白だった。
「どうしたの、その怪我」
「里井だ、あいつ、刺しやがった、この俺を……」
「……で、刺された訳?」
 冷たい視線が淡々とした声と共に降って来た。
「頭が痛かったんだ、知ってるだろう、冨樫さんだって俺の耳の事、……周期的に耳鳴りがするんだ、喉も痛い、耳鼻咽喉系の神経自体がイカれてるんだ、仕方無いだろ」
「救急車、呼んであげようか?」
「冗談云うなよ、医者に説明出来る訳無いだろ、……助けてくれよ。忍も帰って来たし、レイにこんな所見せられやし無ェし、冨樫さんしか頼れないんだ」
「……んー、……今、散らかってるしねぇ……、それも、明日団員に配るパート譜整理してるから、血で汚されても困るし。何より僕、その準備で忙しいから手当てする暇無いし」
「……、冨樫さん……」
「磔也君、友達居るんじゃ無かったっけ? それも、多少の出血じゃ驚か無さそうな人が。結構問題になってたよ、忍さんの護衛だとか、IO2と勝手に取り引きした事とか。実は僕の所にも然る大財閥の御総帥が直々にお見えになって困ったんだよねえ。多分、磔也君その内外されるから僕より彼らを頼った方が良いんじゃ無いかな?」
「あんな連中……友達でも何でも無い、……大体……、忍の事はシドニーが……、」
 限界だ。彼はそこで意識を失い、熱に浮かされて目が冷めるまでそこに居た。

【1EDG】

「うわ〜〜〜〜、すげー! ……あ、ウィンちゃん見て見て見て〜〜!! 庭がクリスマスだよぅ〜、」
 恋人の声で黙読中の書籍から顔を上げたウィン・ルクセンブルクは、仕方ない、と溜息を吐きながらも穏やかな笑みを浮かべて彼の隣の窓際に立った。
「そうね、透」
「えへへ、いやぁ〜、良いですなあ〜、クリスマスにウィンちゃんと一緒にこんな所で過ごせたら良いねっ……、」
「……、」
 ニマ、と子供のような笑顔を浮かべて振り返った恋人、渋谷・透(しぶや・とおる)の頬に、ウィンは軽く音を立ててキスをした。
「……きゃっ、」
「そうね、私も透と一緒にクリスマスをロマンチックに過ごしたいわ。でも、だったら今の内に確り勉強しておかなきゃね」
「頑張りますよ! デートがかかってるもんな。オレってば、やれば出来る人間だもん
ね〜〜」
 昂然と胸を張る透は、無邪気だ。彼の笑顔に負けて、駄目駄目、今は甘やかす時じゃ無いのに……と思いながらもウィンは胸に飛び込んで来た彼を全身で受け止め、確りと抱き締めた。
「……あの、お茶をお持ちしましたが……、」
 背後から、冷たい声が掛かった。はっ、と顔を赤くして振り返ったウィンを冷めた目で眺めているのは、陵・修一(みささぎ・しゅういち)、──この屋敷の主人、リンスター財閥総帥セレスティ・カーニンガムに秘書兼護衛役として仕える青年である。
「やだ、ごめんなさい……、」
「御構いなく。僕は別に気にしません。……ここに置いておきますので、何かあればお申し付け下さい」
「……、」
 くす、と愉快そうな声がする。セレスティは寛容だ。友人達の微笑ましい光景と、それに冷たく水を注す不粋な秘書の姿を黙ったままで楽し気に眺めている。
「有難うございました……、」
 古いレコードを片手に、オーディオルームから戻った葛城・樹が入って来た。
「如何でしたか」
 セレスティは頭を下げてレコードを棚に返却した樹に優しく問い掛けた。レコードのラベルは「クリストフ・ヴィリバルト・グルック/オルフェオとエウリディーチェ」となっている。
「素晴らしかったです。ちゃんと、全編通して聴いたのは始めてだったし、ゆっくり聴けたお陰でほぼ暗譜できました」
「そうですか。お役に立てたようなら倖いですよ」
「お疲れさま。樹ちゃんも紅茶、頂けば?」
 従姉が、修一の置いて行ったティーポットを取り上げて微笑んだ。
「頂きます、」
 そう答え、息抜きの姿勢に入っても樹は直ぐに愛用のリュックサックからファイルを取り出してテーブルに広げた。元々、受験生である。入試も近い。あまりのんびりと寛ぐ暇は無いのだ。ファイルから取り出した和声の課題を眺めながら、樹はウィンの注いだ紅茶を啜った。
 今日、こうして一同がセレスティ宅に会している理由は各人様々である。提案者はウィンだが、彼女の目的はどんな図書館や古書店にも及ばないセレスティの膨大な蔵書を頼っての調べもの、ついでに連れて来た恋人は卒業要件単位取得に向けた勉強の気分転換、樹はグルックのオペラを覚えるに当たっての音源と資料を求めて。
 セレスティは何時ものように穏やかに「喜んで」と快諾してくれたし、どうせだから、と云うことで12月19日、20日の巣鴨ユーフォニアハーモニーホール幕開けに備えた作戦会議も兼ねようと、広く声を掛けてある。後から、シュライン・エマや天音神・孝も来る筈だ。
「あら、樹ちゃん、これ、新曲?」
 ウィンが、徐ら和声課題のプリントに混ざっていた樹の手書きの楽譜を取り上げた。未だ構想中らしく、あちこちに修正の跡が見える。
「ええ、未だ出来て無いし、……どうも上手く行かなくて、なかなか……なんですけど」
「随分丁寧に作ってるのね。……あら、」
 楽譜を眺めていたウィンは、ある事に気付いてぼんやりとした、半分以上は音楽の事を考えているらしい樹の横顔を見遣った。
 楽譜は、二段に別れている。──音域的にも、恐らく……。
「これ、ピアノ曲なのね」
「……あ、……はい」
 1、2、3、1、2、3……、8分の6拍子だ。軽くリズムを口ずさみながら楽譜を追っていた──彼女自身、幼少期にピアニストに憧れていた為にある程度の譜読みは出来る──ウィンが、途中まで来て微笑しながら肩を竦めた。
「一見軽快で楽しそうだけど、難しそうな曲ね。でも、完璧に弾ければ本当に素敵なのでしょうね」
「僕自身ピアノでは楽譜を追うので一杯です。……でも……、」
 でも、と云い淀んだ樹に、ウィンは安心させるように頷いて見せた。──この真摯な従弟が、誰の為を思ってこの曲を作っているのか、大体の予想が着いたからだ。
「彼なら、きっと弾けるわよ」
 樹も微笑んだ。
「だから、後は僕がその曲を最も良い形に出来るように頑張るだけだと思います」
 なかなか難しいんですけど、と樹は低声で云い加えた。
「何か、意見があったら聞かせて下さいね、ウィン従姉さん」
「……んー、そうね。良い主題だと思うわ。でもね、ここまで難しい音系を盛り込む必要って、あるかしら」
 どちらかと云えば理屈よりも感性に優れた彼らしく無い、と思った事を率直にウィンは告げた。樹の表情が曇る。──気にしていたらしい。
「……そうは思ったんですけど……、ただ、あんまり単純過ぎる曲じゃ、楽しく無いかと思って……」
 ──弾くのは『彼』だし……。演奏者本人を、その音楽の中にまず惹き込めなければこの曲の意図は伝わらない。試行錯誤した挙げ句の産物だ。
「少し、見せて頂いても宜しいでしょうか?」
 不意に、背後からセレスティの声が掛かった。「あ、はい、」と樹は振り返り、楽譜を差し出す。
「あなたは、何を表現したいのですか?」
 全てを見通す透徹した青い瞳で楽譜を追いながらセレスティは静かに訊ねる。
「……音楽の歓びそのものを、」
 樹の答えに、頷いてからセレスティは語り掛けた。
「成る程、……その歓びを知らない者にそれを気付かせる為には、何か彼の意識を惹くような仕掛けが必要だと考えられたのですね」
「……はい、」
 流石に軽率な考えだったかも知れない、然し、他に良い方法が思い付かなかった。──そんな、樹の心中を見通したようにセレスティは微笑み掛けた。
「若者には良くあることですよ、気に為さらないで宜しいでしょう。……然し、私ならばこう考えますね。技巧の仕掛けによって意識を引き付けるのでは無く、音楽の持つ意味合いそのものに手を加えよう……と、」
「音楽の持つ意味?」
「例えば、こんな事は知っていますか。彼のモーツァルトの作品に於いて、ニ短調という調整は特別な意味合いを持っていたのです」
 樹の脳裏で、ニ短調の主和音と音階が重く響き渡った。
「……短調、では無くてニ短調が、ですか?」
「そうです」
「分かりません、何を意味しているんですか」
「死です」
 ──死、……そう云えば……、「ドン・ジョヴァンニ」の序曲の冒頭、有名なレクイエム。やや衝撃的なその言葉に愕然としながら樹は繰り返した。
「……そうだったんだ……、」
「恐らく、古典派に於いてはその考えは一般的だったのでしょう。昔は、各調性に於いてそれぞれ深い意味があったのですよ。長調、短調なら全て同じだったのではないのです。引いては、転調にも理論では無い、思想的な意味合いが存在します。……バッハのシャコンヌ、名曲ですね。あの曲などどうですか? 最初はそのニ短調から始まり、主題を経て、同名調のニ長調に転ずる……、あなたなら、そこにどんな意味を見い出すでしょう?」
 多くは語らない麗人だ。セレスティは樹に問い掛けを残し、楽譜を丁寧に返した。
 然し、それで充分だ。
「ニ短調……死、から長調への転調……、」
 目の前に、一条の柔らかな光が射したような錯覚を覚えて樹はよろめいた。
「……そうだ、……希望、……歓び……、」
 ──分かった。変に作り込む必要などどこにも無い。そもそも、これは呪歌だ。彼があの忌わしい強迫観念から解放されれば良い、と云う意思さえあれば──。
 夢中になった樹が再び楽譜をテーブルに置いた時だ。突如、ドアを隔てた廊下から何かに陶酔しているような絶叫が響いた。
「──光だ! ……そうだ、無の中の光だ! 嗚呼、神よ!」

【xxx】

「厭な人間を敵に回しましたね」
 目の前の男が床の上に叩き付けた報告書を丁寧に拾い集めた冨樫・一比(とがし・かずひさ)はのんびりと呟いた。
「それにしても──財団までリンスター財閥の云いなりか。薄情なものですよねー」
「薄情、で済む問題か!」
「落ち着きましょうよ。この僅か一週間の間で──音楽大学、同付属高校、幼稚園、──出版社、それに今日で──財団も。いやあ、壮観ですよ」
 額を押さえて座り込んだ男は、良くもそんなに暢気にしていられる、と飄々の体の冨樫を見遣った。
「たかが、非常勤講師ですしね、僕」

 ──ここは、施設全体が一戸のビルディングを占める東京コンセルヴァトワールの最上階の一室である。莫迦──では無くて、権力者と煙は高所を好む。故に、冨樫が前にしているこの部屋の主が割合重要な地位に居るであろうことは予測が付く。
 冨樫と彼が何をして騒いでいるのかと云えば、今朝になって、今まで資金援助を受けていたとある財団から援助の停止を宣言されたのである。冨樫が先程列挙した名前も、全て資金援助、或いは提携活動を断ち切る、と云う組織だ。

「リンスター財閥、やってくれるじゃないか。……歳若い男が総帥だと云うが、奴が問題らしいな」
「若くないですよ。何でも725歳だそうです」
「……何を云っているんだ、君は」
「アイルランド出身の人魚だそうですよ。いやあ、大したもんだ。研究者達が知ったら愕然とするでしょうね、何せそんな人間が居るなら自分達の研究なんかただの徒労なんですから」
「……、」
 最早呆れて何も云えなくなった男への止めに、冨樫は「レイちゃんの情報ですから、信憑性があるか皆無か、どっちかですけどね、極端な情報しか集めて来ませんから、彼女」と微笑んだ。
「……結城のコピーか。……あれも全くの役立たずだ。弟の抑止剤だったが、その弟の方も死にかけているらしいな」
「ああ、里井君でしょう。彼、大分虐められてましたからね、とうとう『キレた』らしいですね。怖いですねえ、今どきの若者。知ってます、キレるとナイフで通りがかりの人間を刺すそうですよ」
 この二人、お互いへの対応には慣れているらしい。暢気な冨樫の軽口を聞き流し、男は「寿命だ」とだけ吐き捨てた。
「え、17で寿命ですか。早いなあ、だったら僕なんかどうなるんですかね」
「年齢の問題じゃ無い。……耳の聴こえない──それも感音性難聴の駒など、必要無い」
 怖、と冨樫は肩を竦めた。
「僕も気を付けるかな」

【2EDGH】

「……は?」
 ドアが開いた。入って来たのは──一部の人間には忘れ難いあの問題青年──映像作家、柾・晴冶(まさき・はるや)である。
「あ、……あなた……、」
 樹は先程の集中も忘れ、思わず席を立っていた。「おや、」とセレスティも口唇に微笑を浮かべる。
 随分とまあ元気そうである。先日は、衰弱死寸前の体の生ける死体だった癖に──。
 柾は、ウィンやセレスティには目も呉れずに真直ぐ樹の許へやって来た。「え?」と困惑する樹の手を両手で確りと握り締め、柾は朗々と語り出す。
「葛城君、長らく待たせた。俺にも神の啓示が降りたぞ、そう、ヨーロッパの芸術は全て聖書に端を発するんだ、光だ光! 救いだ! 嗚呼、千鶴子、見てろ! 俺は神の救いを映し出して見せるぞ、ようやくお前の鎮魂を謳う事が出来る!」
「……、」
 最早呆れ返るしか無い。ああ、この方が先日、お兄様達が幻想交響曲の世界から救い出したという映像作家なのね、……それにしても、随分お元気そうだこと……、と思考するウィン、手を取られたままの樹は唖然として柾の羨ましい程に晴れやかな笑顔を眺めていた。
「……、」
 くす、と笑い声を漏したのはセレスティだ。──神、聖書の世界か。以前、同じような目をした画家が居たものだ。
「と云う訳で」
 俄に現実的な表情に変わった柾は、在らぬ方向に向けていた視線をくるりと樹に落とした。
「君の出番だ、君、今日は喉の調子はどうだ、ああ、良さそうだな。顔色も良い。君の場合は化粧は無しにしたかったんだ。ああ、幸先が良いぞ。そうと極まれば、早速事務所に帰ろう、良いな、君は俺と一緒に聖書と云う永遠のテーマを現在のメディアの主たる映像に再現するんだ、」
「……ちょっと待って下さい、何で僕が……、」
 樹は目眩さえ覚えながらようやく隙を突いて反論した。……が、斯様な事をインスピレーションを得た真っ最中のゲージュツカに云って聞く筈が無し。
「安心しろ、君の従兄から許可は貰っている。その美貌に歌声、君はそれを芸術の為に活かす事もせずに打ち捨てておく気か!? 良いか、芸術は腐っても美の追求にあるんだ、それを──」
「だから、僕はその為に今音大受験の勉強を──、」
 最早樹の身体は半分以上書斎からはみ出していた。柾が引っ張っているのである。
「ウィン従姉さん!」
 最後の救いを求め、樹は指先を美しい従姉に差し伸べた。
「……そうね……、でも、折角元気になって千鶴子さんの為に撮るって仰っているのだし、一日位付き合ってあげたら?」
「あああああ────っ!!」
 そうして樹は柾に依って拉致された。御愁傷様である。
「……ウィンちゃん、」
 透がようやく、ウィンの袖を引いた。無邪気に小首を傾いでいる。
「……何があったの?」
「……さあ、何かしら……、」
「……、」
 入れ違いに、修一が茶請けと思しい菓子を盛ったトレイを手に入って来た。その目は呆然としている。
「……晴冶君……、……何と云うか、元気そうで……」
 今や屋敷内の事にはすっかり敏感で心配性で、本来ならば義兄になる予定だった彼でさえ、そうとしか云い様が無いらしい。
「ええ、その事が何よりですねえ……、」 
 セレスティは一人、相変わらず穏やかである。
「……こんにちはー、」
 のそり、と修一の後ろから入って来たのは孝だった。
「すいません、遅くなってー……、」
 くしゃくしゃ、と深緑色の短髪を掻き回しながら、孝は極まり悪そうに謝った。何しろ、今去ったばかりの台風の目を連れて来てしまったのは孝なのである。
「応仁守さんの事務所に寄って来たの?」
 ウィンの問いに、孝はげっそりと頷いた。
「そう。……水谷の事を聞こうと思ってさー、会いに行って、話を聞いたは良いんだけど、何かハジけてる真っ最中で、葛城君はどこだ、そうか君の行く先か、なら俺も行くって、……ビビったぜ、何せ俺より先に異空間通り抜けちまうんだもんなー……、」
 その数分間の間の孝の疲労たるや、数日に及ぶレイの奴隷生活よりも多大だったようだ。
「つ訳で、すみません」
「いいえ」
 あくまで興味深い事の一端として今の出来事を眺めていたセレスティは、寛容に頷いた。
「……で、肝心の水谷とクシレフの接点は?」
 それがさ、と孝はウィンに向き直った。
「矢っ張り、心当たりは無いって。柾氏自身、東京コンセルヴァトワールなんて聞いた事もないっつってたし、……何かの弾みで付け込まれたんじゃ無いかなー、」
「……そう。……クシレフの宿る先……、それは、水谷である必要性は無かったと考えた方がシンプルになって良いでしょうね」
 ──そう、そしてクシレフとは何ぞや、と云う最初の疑問に戻る。ウィンは、さっきの一騒動ですっかり打ち捨てられていた書籍の山へと再び戻った。
 『Les Soirees de l'orchestre オーケストラの夜話』、これが問題の、幻想交響曲の作曲家エクトール・ベルリオーズが記したクシレフとシェトランを巡るスプラッタ小説「音楽都市、若しくはユーフォニア」の納められているフランス語の古書である。一通りは目を通しておく可きだろうとは思ったが、日本語版が無く、原書すら絶版になっているこの本は図書館や古書店をいくら当たっても見つからなかった。……が、試しにセレスティに訊ねた所、あっさり「在りますよ」との事である。愕然としたものの、ウィンは即座に閲覧を頼み込んだ。フランス語ですが構いませんか、ええ、読めます──と、先程までに大方のあらすじを読み終えた所だった。
 
【xxx】

「未来小説 ユーフォニア、もしくは音楽都市」
──この小説はフランス人作曲家、エクトール・ベルリオーズが1852年に記した、音楽に全てを捧げ、グルックのオペラの『壮大な』記念上演を目指す共産主義的ユートピア思想の伺える共同体についての空想物語である。
 ユーフォニア市は音楽、芸術という「全体の崇高な目的」の為軍部の支配下にある鉄の規律に支配されており、クシレフは作曲家であると同時にユーフォニア市の音楽分野での最高責任者である。何故グルックか、と云う点にはただ「素晴らしく『壮大な』古典として」としか記述されていないが、恐らくは19世紀最大のグルック信奉者であったベルリオーズの個人的な趣味かと思われる。
 然しあらすじ自体は陳腐なスプラッタ、と一笑に伏されて然るべき単純なものである。
 女性歌手に裏切られ、復讐の為に大量虐殺、──『壮大な』破壊を目論むクシレフは彼女の誕生日のコンサートが行われる鋼鉄の音楽堂に残虐な仕掛けを施す。
 ところで、当時ユーフォニア市には一人の機械工の巨匠がいた。彼の製作した巨大なピアノは変化自在の音色と音量を持ち、それ故に『独りの名手が』奏するだけで、一団のオーケストラを遥かに凌ぐ音楽を発信することが出来た。──オーケストラピアノ。
 クシレフは鋼鉄の音楽堂とこのオーケストラピアノを接続し、その奏者として友人であるピアニスト、シェトランを呼び寄せる。
 女性歌手の誕生日祝いに大勢の人間が音楽堂に集った時、そこで悲劇が起こる。シェトランがオーケストラピアノを弾き始めると同時に鋼鉄の壁が内側に向かって聴衆を圧殺すべく押し寄せ、そこは阿鼻叫喚地獄と化す。クシレフはそれを音楽堂の外から傍観している。シェトランは目の前の悲劇にも気付かずにピアノに熱中したままである。

【3ADEGH】

「ウィンちゃん、ねえねえ見て見て、あの自転車!」
 カーニンガム総帥の屋敷の前に、常識破りな速度で急停止した一台のロードバイクが現れた。そんな移動手段を使う人間は1人しか居まい。きらり、と目の色を変えて(制止に走る可く?)窓の外を見遣った修一が首を傾いだ。
 ロードバイクを降り、てくてくと前庭を屋敷へと横切って来るのは前髪の長い怪し気な少女に在らず。それとは対照的な、明るい茶色の短髪を風に靡かせた辛子色のコートを着た青年である。
「あら、御影君?」
 透の歓声に吊られて窓を覗いたウィンまでが目を見張っていた。
「……レイさんに洗脳されちまったんだ……、」
 孝が溜息と共に、本人の前では云えないことをぼそりと呟き捨てた。
「こんにちは、」
 ややして、彼も書斎に入って来た。
「田沼さんは?」
「ああ、亮一さん? ……それがね、レイさんとデートなんだ」
 ウィンの疑問に、にこにこと(含み有り気に)涼が答える。
「デート!?」
「うん、奥多摩に冠雪を観に行くらしいですよ」
「あら、付いて行かなくて良いの、御影君? レイも薄情ね。……あ、でもその辺りって……、県境じゃ無いの。……良いのかしら、レイ、」
「亮一さんの誘いだしね、」
 東京都と山梨県の境にデート。……そうか。
「あ、先越されたか、」
 少し口惜しそうに孝が呟いた。──同じ事を、孝は異空間を利用して実験しようとしていたのだ。
「ま、田沼さんならパニックの時でも安心か……」
 自分なら結局、また封印札に頼って今後更にヒエラルキーの深淵に突き落とされそうだ。
「……そうそう、その亮一さんからの伝言なんだけど、……『無自覚』と『教育』がキーワード、だそうです」
「無自覚と教育……?」
 思案を始めたウィンを横目に、セレスティは「陵君、」と秘書に何事かを促した。命を受けて一旦別室へ出て行った彼が戻った時、手にしていたのは何やらしっかりとした、それでいて上品なデザインの箱である。
「どうぞ」
 修一はそれを涼に差し出した。「?」と首を傾ぐ涼には、セレスティが「コンサート用の正装です」と告げる。
「採寸に御呼びする暇が無かったもので不安ですが、腕の良いテーラーですから大丈夫でしょう。略式のスーツですが、学生さんはお持ちでは無いかと思いまして」
「うわ、良いんですか? 有難うございます、」
「天音神君もですよ、」
 それまで、涼を他人事のように暢気に傍観していた孝にも総帥の穏やか、且つ絶対的な声向けられ、修一が彼の前にも箱を置いた。
「へ……、」
「オペラの公演と云えば、正装はマナーですよ。いくら何でも、あまり大雑把な服装は不可ません。そうそう、それと、当日はその無精髭もきちんと手入れして来て下さいね、」
 くす、と──孝が狼狽するのを見抜いた上で──悪戯っぽい笑みを浮かべながら総帥は一部の人間が「絶対逆らえない」と断言する「命令」を下した。孝の血の気がさっと引く。
「ええ……(……そんな、ここまで伸ばすのに一体何年掛かったか……)、……いや、でもあのその(……仕方無い、最終手段を使うか……)、……分かりました、と……当日までには何とか……」
 悲愴な決意に満ちた声で孝が項垂れる。そこでカーニンガム総帥は莞爾と満足気な微笑を浮かべた。
「流石総帥☆ だったら私もとびきりの正装をして行かなくてはね、」
 うきうき、とウィンは孝の悲愴もどこ吹く風で両手を胸の前で組む。
「あ、良いなあ〜〜、オレもウィンちゃんのドレス姿、見たいよぅ〜〜〜〜、」
「ダメよ、透、随分事情の込み入ったコンサートなんだから。あなたは追試の勉強があるでしょ?」
「ええ〜〜〜〜、」
 愛情故の厳しい言葉を向けたウィンも、心から残念そうな透の表情にはついつい鬼にした心が一瞬で甘い色に染まってしまう。
「だから、その分良いコにしてたらクリスマスにはミニスカートのサンタ服を着てあげるからね、それで2人でパーティをしましょ、」
 飴と鞭。無邪気な透は直ぐに表情を明るく変えた。
「ウィンちゃんのミニスカサンタ!? 見たァ〜〜〜〜い、うん、じゃあコンサートは諦めるよ、」
「あなたって本当良い子、透、」
「……仲の良ろしい事、」
 優しくも呆れたような声と共に、「遅れてごめんなさい、」とシュラインが顔を見せた。
「ちょっと、インタビューに時間を取ったものだから」
「インタビュー、……、」
 シュラインとウィンは目配せと笑みを交わした。
「ええ、遺伝学と音楽才能との関わり合いについてね」
「聞かせて貰える? その中でお互いの情報と対策を検討して行きましょう」
 
 ──そして。シュラインは先程得たばかりの情報を簡潔に整理しつつかいつまんで説明した。
 結城忍が「シェトラン」と云う、理想の音楽家としての才能の持ち主である事、結城レイは実験的に女性体として作られたが、失敗作だった為に放置された事、その後複数体作られた忍のクローンの内、唯一生き残ったのが磔也であると云う事。
「忍さんに妙な意識が感じられなかった事、そして『シェトランはピアノを弾く事で現れる』という磔也の言葉、……それで当然なのよ、だって、シェトランは芸術家なの、芸術家は無邪気なのよ。その、あまりの無邪気さが時には他人にとって悪意になることもあるし、また策略によって暴力の為の武器、──プロパガンダとして利用される事もある。でも、本人はあくまで無邪気なの、芸術しか見えていないのよ」
「……どういう事?」
 ウィンは眉を顰めた。
「シェトランは、人格なんてものじゃない。もっと曖昧な観念だと云う事? ……でも……、……だとしたら、例えば忍さんのように子供の価値を才能で計ったり、ベルリオーズの小説では周囲の人間が圧殺されて痛みと恐怖で悶えていても気付かずに演奏に熱中したり……、芸術の為には一切の雑念を捨てる事さえも出来る情熱という才能、……それが、シェトラン?」
「そうよ」
 シュラインは確信を持って頷いた。
「……シェトランが才能の象徴だとすれば、……クシレフは?」
 ──恐らく、とシュラインは低い声で呟いた。
「シェトランが芸術家だとすれば、クシレフはそれを利用する悪意。芸術家を、使い方一つでアジテーターに出来る人間……独裁者」
「屹度、磔也君もシェップも間違っていたのよ。シェトランでは無く、クシレフを追う可きだったの。おそらくは、クシレフが全ての黒幕である筈。この間の幻想交響曲にしても、水谷を煽ったクシレフの策略であったとすれば……。磔也君が云っていた、『音楽の暴力』。あれも、音楽の罠よね」
 ドイツ出身のウィンの脳裏には、一つのプロパガンダの良い例が浮かんでいた。今年の夏に亡くなり話題に登った女性映像作家。彼女は第二次世界大戦中、ナチスドイツに協力したとして戦後、裁判で有罪判決を受けた。然し、彼女は純粋に芸術の為に撮っただけなのだ。芸術家は、無邪気。利用するのは独裁者。商業に於いてもそうだ。芸術家はあくまで商品であり、それを宣伝して売り出すのは興業主という他者である。
「……、あの、」 
 それまで、ある程度は予測が付いていたものの、近しい友人2人の素性を知ってしまい、額を押さえて項垂れていた涼がようやく口を開いた。
「音楽の罠、だけど、俺も……その、難聴の事調べててさ、幾つか仮説があるんだ」
「聞かせて」
「一つは音響性外傷。一定以上の騒音を瞬間的に聴いた事に拠って永久に聴覚を失ってしまう。もう一つは音楽癲癇。癲癇を引き起こす原因の一つとして、特殊な状態で音楽が発端になることがあるらしいんだ。何だか、そこまで音楽や人間をデータとして扱っている連中なら、何か……例えば振動数や音圧単位で特定の数値を割り出して、精神的ショックを引き起こすような騒音を発する事も考えていそうだと思う」
 ウィンは頷きながら聞き、更に確認した。
「この間の、ホールで磔也君が指示したレクイエムみたいなものね?」
「うん、」
「音楽って、一口に云っても色々学問の種類があるものなのね。演奏だけで無く、音楽理論、和声法、音響学、音楽療法学、音楽行動学、音響心理学……、それだけ、音楽の応用性があると云うことかしら。良くも悪くも」
「どう思われます? セレスティさん?」
 徐ら、シュラインが口許に笑みを含んでセレスティに話を振った。それまで黙っていたセレスティは、瞳を閉じたままで穏やかな微笑を浮かべた顔を上げた。
「──私ですか?」
「なんだか、全てお見通しのようなのだもの」
「……、」
 その一言で、一同の視線がくるり、とセレスティに集中した。仕方ない、と云う風にセレスティは軽く溜息を吐く。

【xxx】

「東京コンセルヴァトワールと各機関の繋がりや資金源について調べてみたのですが、その中で、どうも不穏な計画が浮き彫りになりましたよ。少し話が逸れますが、古くはバロックの時代から古典派、ロマン派、近代、現代、そして今やクラシックを凌いで世界の音楽の中心となっているジャズやポップスと云った音楽、実はこれらの音楽の区分けは、様式の他にも『その音楽が何処で栄えていたか』と云った観点からも行う事が出来るのです。例えば、現在ではジャズやポップスが全盛ですが、これらの大本の発信地はアメリカです。その時代の音楽の中心地、──それは、その時代の最も力、──財力、政治的な影響力、知名度等……ですね、そうした物を持った国なのです。音楽とその国の力というものは等しく発展するものなのですよ。19世紀初頭にはフランスで現代音楽が栄え、その後はドイツやイタリアに分散し、そうしたヨーロッパの各国が第二次世界大戦で凌ぎを削り合った結果、戦後の音楽の中心地は自国で戦争を行わなかったアメリカに移ったと云う訳です。……そして今、音楽の中心地を再びフランスに据えようと云う計画の情報を得ました。それはつまり、フランスに財力、政治的影響力、今では軍事力も欠かせませんね、そうした力を集め、フランスが世界を支配する時代を作ろうとする事です。そうすれば自然、音楽の中心地もフランスに移る事になりますからね、コンセルヴァトワールの中の一組織が何やら、小細工を行っているようですよ。不思議な事に、彼等の通信文書の中に『クシレフと遭遇』と云った言葉が多く見られたのです。クシレフとは、恐らく独裁者の地位を望む者。第二次世界大戦時のファシズムを思えば間違いはありません。ルクセンブルク嬢、あなたが磔也君の意識の中で聞いたと仰った、『クシレフはあらゆる肉体の壁を飛び越えて自分の前に現れた』と云う言葉と合わせて、意識レベルで独立した存在、そして彼は恐らくあらゆる固体を転移して生き延びる。私達が会っただけでも、最初は幻想交響曲の世界の中に、そして磔也君がそれをメモリカードに保存して水谷に与えた。クシレフが今、そうして東京に止まっている理由が、東京コンセルヴァトワールです。東京コンセルヴァトワールは、そうしたフランスで計画の挙がっている、云わば世界へ向けたクーデターの為の中継地として東京を利用する気です。遺伝子学の研究も、応用すれば音楽家だけでなく軍隊への転用が可能です。また、専門技師や優秀な科学者といった存在も作り得る。それに、音楽はプロパガンダとして非常に有効です。ナチスドイツの政治は、音楽を非常に巧く利用した洗脳であったと云えます。ルクセンブルク嬢の前で失礼ですが、あの聡明なドイツ人種がその計略に掛かってユダヤ人を敵と認識したのです。私は、今度のオペラの上演を一種の洗脳作戦だと予測します。被害の軽減の為、チケットの買収を計ったのですが、大半は回収出来ませんでした。何故だと思われますか。……殆どが、音楽大学や音楽高校等の団体で、学校行事、或いは必修課外授業として組み込まれていたからです。音楽を専攻する若者を「中心」に聴衆に選んでいる、……洗脳は怪しまれますね」
 ──……。
「ホールへは、実際に行くしか方法は無いと思われます。東京コンセルヴァトワールへ今後の対策としては、少々野蛮ですが資金源を虱潰しに絶つと云う方法を取りました。大分、協力して頂きましたよ。……副産物として、奨学資金の縮小を行った為に、海外へ散っている留学生の大半が東京へ戻る事になりました。シドニー・オザワ、彼女も帰国します。彼女へは特別に、ルクセンブルク女史の御名前をお借りしてコンタクトを取ってみました。恐らく、19日までには帰国することでしょう。今後、フランスで泳がせるよりは少々リスクはあっても、実際に東京で対面して置く方がいいかと思われます」

【4ADEGH】

 それでは実際に当日、ホールで。──と云う話になって各自が帰り支度は始めた時だ。孝が、何気無く思い出した事を口にした。
「そう云えばさ、磔也なんだけど、どうもあれから一回も家に帰って無いらしいんだよなー。レイさんは喜んでたけど、」
「え?」
 ウィンは慌てて孝を振り返った。
「どういう事? 帰ってないって、」
「ん、だから会ってないんだってさ。親父さんは『自分に会いたく無いから友達の所にでも泊まってるんだろう』って云ってるらしいけど、あいつ友達なんか居たっけ? レイさんはレイさんで『どっかで野垂れ死んでるんじゃない?』とか云うし……」
「あれじゃ無いの、『プチ家出』」
 昨今の高校生は大した理由も無く、不意に家に帰らなくなるらしい。期間が所詮2、3日乃至一週間程度である為『プチ』と云うそうだ。その意見が憧れのシュラインのものだったので、孝は単純に「あ、そっか」と納得してしまった。──が。
「分からないわ、この間の後だもの、IO2に狙われたりしたんじゃ無いかしら、心配よ」
 ウィンは優しい。表情を心配に曇らせ、本気で彼を心配していた。
「……あ、磔也なら大丈夫。アイツなら今、くらちゃんの所に居るよ」
 突如、涼は温厚な表情で告げた。
「くらちゃん?」
「あ、倉菜ちゃん。この間ホールに居た銀髪の娘」
 ──さっ、と孝の血の気が引いた。銀髪の……って、……あの……。
「でも、どうして?」
「……うん、」
 涼は、多分知られたがらないだろう怪我の事は云わず、「風邪引いたんだ、」と半分だけの事実を告げた。
「どうも雨の中を薄着でうろうろしてたみたいで、殆ど意識を無くしてた所をくらちゃんが見付けたみたいなんだ。俺、呼ばれて診察して来たよ。大分熱があったけど、その所為で意識が混濁してたのが倖いだったかな。逆に、大人しくしてるじゃないか。昨日も様子見て来たけど、大分元気そうだったよ。顔を合わせたらまた反発されそうだしそのまま帰って来たけど」
「あらまあ、」
 意外な展開だ。ウィンとシュラインは顔を見合わせた。
「つか、磔也なんか止めて硝月嬢の方こそ大丈夫なのかね、」
 孝は不安気に涼に訊ねた。彼はその脳天気な性格故にあの不良学生さえ友人と認識してしまうお人好しだが、何しろ血の気の多い年頃だし、──孝個人としては問題があるものの──美人な娘だし。涼は気楽に苦笑した。
「大丈夫だと思うよ、そこは。くらちゃんの家、お祖父さんの楽器工房でほとんどお父さんみたいな元気そうなお祖父さんも居るし、他にも見習い職人達が出入りしてたし。……可笑しかったなあ、昨日俺が訊ねた時はくらちゃんが未だ学校だったんだけど、ピアノをどうも勝手に弾いてたみたいで、うるさいってお祖父さんに怒られてた」
 先入観によるイメージで、厳格で頑固そうな楽器職人からうるさいと怒られている居候姿の磔也を想像して思わず吹き出してから、ウィンはふと質問を発した。
「……所で、何弾いてたの、彼?」
「それがさ、幻想交響曲」
「ピアノで?」
「そう。何か凄い事やってたよ、」
「交響曲なのに……、即興で編曲したのかしら、」
「リストですね」
 不意に、それまで黙っていたセレスティが穏やかに告げた。
「リスト?」
「幻想交響曲では『死の舞踏』でお世話になったでしょう、フランツ・リストですよ。ベルリオーズと親しかったリストは、彼の交響曲や合唱曲の殆どをピアノソロ用に編曲しています。とてもピアノ一台とは思えない超絶技巧の代物ですが、それだけに上手く演ればオーケストラに勝るとも劣らない壮大な作品群です」
「オーケストラ曲を独奏……、ピアノならではね……」
 唖然とするウィンを眺めて居たシュラインが、不意に「ん?」と小首を傾いだ。
「……ピアノ……、」
 ──成る程。シェトランがピアニストでならなけば不可ない理由。
 ヴァイオリンやフルート等の旋律楽器では、とうてい一人ではオーケストラに匹敵する「壮大な」演奏は出来ない。然し、オーケストラというのは大人数による共同作業である。手軽に行動出来る訳では無い。指揮者にしても、余程優れたオーケストラの前に立たなければ実力を発揮出来ないのだ。
「……ピアニストならば、それが可能だと云う事? ……一人の人間で、『壮大な』音楽が作れるなら……プロパガンダに利用する事も簡単……、」
 ──そしてその背後では、セレスティがにこやかな微笑を浮かべて孝を手招きしていた。
「は、はい。何でしょうか」
「──天音神君。19日の事なのですが」
「はい?」
「どうも、レイさん、磔也君の幼い頃からの知り合いがシドニー・オザワの他にも一人、お見えになりそうです。先日話題に上った、東京コンセルヴァトワールの非常勤講師で東京ムジカオーケストラのインスペクターですが。どうも、話術が巧みなお方のようで。中々腹の内が探れないのです」
 困りました、と云うように総帥は物憂気な表情で宣う。
「……はあ、」
 孝は厭な予感を感じながら、殊更空恍けて曖昧な相槌を打った。
「……ルクセンブルク嬢にも御協力頂ければ、楽屋等で面会が可能かと思われます。そうした理由で、天音神君、宜しくお願い致します」
 当然のように、総帥は莞爾と微笑んだ。
「……へ? 俺が、会話で駆け引きするんですか、その人と?」
「それで上手く行けば良いのですが、中々手強そうな相手ですよ。……それより天音神君なら、もっと効果的で確実な方法があるではありませんか?」
「──……、」
 『あまねちゃん』の絶叫が屋敷内に響き渡った。

【xxx】

 葛城のアパートは文京区か……。
 今からじゃ電車は無いだろうし、タクシーでも拾うか。

 別に、あのまま倉菜の祖父の工房に居座っても良かった筈だ。が、何か──倉菜のあのきれいな顔を見ていると無性に自分が惨めに思えて遣り切れなかった。彼女の云う通り、こんな時に頼れる友人が居ない。唯一信頼していた冨樫からは──東京コンセルヴァトワールも含め──冷たく突き放されたし、姉にも養父にも会いたく無い。亮一は信用出来ないし信用されてもいないだろう。何より事務所包みでIO2とも繋がりがあったなんて、あんな探偵に関わるのはヤバい。然もにこにこ笑いながらピアノの蓋で指を潰そうとした奴だ。なんとか財閥総帥も然りだし、それを云えば東京随一の怪奇探偵、草間武彦と繋がりのあるシュライン・エマも同じだ。優男──御影涼、駄目だ、あいつだけは苦手だ。何故、あそこまで人が好いのか分からない。優しい人間は苦手だ。……(恐怖の対象でもあり、宿敵と云えるその兄は無論)ルクセンブルクも同じ理由で厭だし、天音神、──論外。名前を思い出すのも厭だ。
 ──となれば、矢張りここはちょっと脅せば多分黙って云う事を聞くだろう葛城樹しか居ない。
 水谷のデスクから失敬して来た樹の履歴書を手に、(終電後のような深夜に押し掛けるという樹の迷惑は考えず)逡巡して通りに目をやった磔也の肩を、背後からとんとん、と叩いた手がある。
「あ……?」
 振り返った磔也の顔色がはっきりと変化した。
「Cava ?」
 目の前にあったのは、端正な少女の笑顔だ。シドニー、……磔也の声は上ずっていた。
「……いつ、帰って来た、」
 返事の代わりに、少女は何気無い動作で磔也の腹部を押さえ付けた。激痛に悲鳴を上げた少年が蹲っても、東京の明るい夜では誰が目を止めるでも無い。
「厭だ、痛そう。……ねえ、ちょっと確りしたら? みっともないわよ、そんなに顔歪めちゃって。……ねえ、聴こえてる? もしかして、もうそこまで駄目になってる訳?」
「シドニー!」
「あなたが厄介な相手に情報流した所為で、皆が迷惑してるのよ。私だって奨学資金の縮小で呼び戻されちゃったの。……今後は、東京コンセルヴァトワールだってまともに機能出来ないわ。安心して、私はもう直ぐ自分でフランスに帰るわ。あなた、もう駄目なようだし、永遠のお別れになるわね。寂しいわ。昔のあなたは良かった。今はこんなに惨めだけど。……最後に、あなたのデータを貰って行くわ。来て頂戴。直ぐに終わるし、痛くないわよ」

「……お?」
 夜の街を我が物顔で行く紹介屋、太巻・大介(うずまき・だいすけ)の目に、一組の男女の姿が映った。
 未だ十代の少年少女だ。何やら、揉めている。傍目には痴話喧嘩でもしているようで、東京の人々は気にも止めずに通り過ぎて行く。が、少年の方は太巻の見知った顔である。久し振りだ──と思って見れば、彼は面識のある人間なら異常に気付かない訳は無い苦痛に満ちた表情をしている。一旦その光景を目に入れた太巻の目は誤魔化せなかった。
「……貸しでも作ってやるか」
 揶揄かいついでに……。──太巻は、歩を進めた。

「よお、久し振りじゃねェか」
「……?」
 磔也と、もう一人の端正な顔をした少女は同時に顔色を変えた。
「太巻……、」
「……どなたかしら、磔也?」
 少女は太巻にあまり友好的では無い笑顔を向けた。磔也はと云えば、未だ腹部を押さえたきり俯いている。──本当に、手間のかかるガキだ。
 太巻は磔也の腕を取って少女から引き剥がした。
「ちょっと?」
「ああ、ナンパならやめとけ。残念な事にコイツ、あっちの気があるもんでな。あんたみてェなきれいな嬢ちゃんには勿体無ェよ」
「何だとこの野郎──」
 磔也が眉を吊り上げた所で、その反論を皆まで云わさず太巻は彼の顎を無理矢理持ち上げて──実際には頬の辺りに──キスをくれてやった。無論、クールで知的な女性を好む(然も妻子持ちの)太巻とこの不良学生が好い仲な訳では無い。単純に助けるのも面白く無い、のでどうせなら思いきり磔也が厭がる事をしてやろうと悪乗りしただけである。
「磔也!」
 少女の血の気がさっと引く。同時に、太巻の頬が少女以上に顔面蒼白な磔也の平手で(本気で)張り飛ばされた。
「痛ェな、」
「何の積もりだこの変態、──痛……、」
「暴れるからだ」
 暴れたのは誰の所為だ。少女は既に口唇を震わせ、2人を嫌悪感に満ちた目で蔑視している。──これで、追っては来ないだろう。
 数十秒後には、それまで誰の注意も集めなかった磔也は一瞬にして人目に晒される事になる。彫りの深い顔立ちの、香水と煙草の匂いを漂わせた男に何やら仲良さそうに引き摺られて移動すれば、それは当然の結果である。然し、彼等の行き先は二丁目に在らず。

 ──「時空の狭間」。東京の人間がふとした弾みで迷い込む。ここは、太巻の縄張りだ。
「何があったかは知らねェが、おめェみてェなガキが美少女とイチャついてんのが気に喰わなかっただけだ。文句なら聞かねェぜ、」
「……貸しを作ったなんて思うなよ、」
 未だ憎まれ口を叩いている磔也に、太巻は口の端に咥えた煙草の煙を吐き出しながら「医者、紹介してやろうか」と低く訊ねた。
「……、」
 磔也は俯いたまま頭を振る。それを眺めながら、太巻は僅かに目を細めた。
「……何か、訳有りみてェだな」
 ──ぱさ、と音がして磔也が顔を上げると、目の前に「おくすり」と書かれた──病院の処方箋のような何の変哲も無い──紙袋があった。
「MS(硫酸モルヒネ)と抗嘔吐剤、抗生物質だ」
 太巻は囁き声で中身を告げ、「とっとけ。困った時はお互い様、だろ?」と口の端に笑みを浮かべた。
「……、仕方無ェなあ、……『借り』といてやるよ」
 紙袋に手を伸ばし、暫くしてから磔也は云い足した。
「……借りついでに、……太巻、……チャカ、用意出来ないか」

【7】

 12月19日。ホールの入口で待ち合わせた面々は揃って中に入った。──譜面捲りの名目で、舞台袖に潜り込む事に成功したウィンを除いて。

「何かあったら、私はサイコで弦を切る積もりよ。そうならない事を願うけど」
 別れ際にウィンもそう云っていたが、樹は予め複数の耳栓は持参していた。そしてメージを受けた精神を癒す効果のある呪歌を保存したPC。──磔也の置き手紙から、今日は必要無いかも知れないとは思いながら、念の為。
「……はあ、」
 隅の方で、孝が肩を落として溜息を吐いている。本日はライトなピアノコンサートという事で普段通りの服装であるが、彼の気分の重さはコンサート後の予定にあるらしい。反面、セレスティは常通り穏やかながらもどこか楽しそうだった。
 ちらり、と倉菜はそんな孝を見遣った。先日、自分の顔を視て露骨に厭な顔をされた事が今だに気になっている。
「……、」
「……、」
 ふと、視線を上げた孝は倉菜と顔を合わせた。
「……あ、」
「……、」
 ふい、と顔を反らした倉菜の許へ駆け寄り、孝は突如頭を下げた。
「ごめん、」
 視線を戻した倉菜は「?」と首を傾いでいる。その顔を相変わらず複雑な心中で眺めながら、孝は低声で告げた。
「君、俺の妹に似てるんだ」
「え?」
「……そんで、吃驚しちまって、こないだは、つい。厭な思いさせたかも知れない、御免な、」
「……、」
 そうして孝はそそくさと、再び倉菜から遠離った。
「……何だ」
 そのあまりに肩身の狭そうな様子を眺める倉菜は、可笑しくてつい吹き出した。
「エマさん、」
 亮一は隣に掛けたシュラインにそっと耳打ちした。
「緋磨から聞いたんですが、……先日は済みませんでした。……勝手に『遮断』してしまって。まさか、エマさんにそんな不都合が生じるとは思っていなかったので……」
 先月の13日の事だ。後から聞いた所に拠れば、亮一の能力で遮断されてしまうとシュラインは声自体が発せなくなってしまうと云うことである。恐縮する亮一に、シュラインは苦笑したながら溜息を吐いた。
「良いのよ。……ま、仕方無かったんだものね。ただ、出来れば今度からは事前に合図して下さいね」
「すみません」
「……それより……、……田沼さん達の情報網って、本当に広いのね。緋磨さんの旦那様にまで御会いして、吃驚したわ」
「……まあ、色々」
 亮一も苦笑いを返した。
 その横で、礼儀正しい彼らしく既に今日からスーツ姿の涼はそわそわと開演前のホールを見回して居た。以前にセレスティが云った通り、学生が多くて見分け難い。
「葛城さん、」
 涼は樹を掴まえた。樹の所に居ると聞いていたが、何でもまた再び直前に行方をくらましたと云う事だ。──太巻から穏やかで無い事を聞いた涼は、落ち着かない。
「磔也、来てる?」
「……分かりません、……ごめんなさい」
「いや」
 莞爾と涼は微笑んだ。彼が『視て』も、磔也の気配は感じられない。──とすると、今日は来ていないのか……。
 ……が、未だ客席を見回していた涼はある一点で視線を止めた。
「……、」
 とんとん、と亮一の肩が軽く叩かれた。
「亮一さん、俺、ちょっとあっちに移動するよ」
 涼が一席だけ空きのあった前方を指した。──そこを見遣り、空席の「前」の人間を認めた亮一は微笑を崩さず、目だけを少しく細めて頷いた。

 ──会場が段階を経て暗くなり、開演を告げる、オルガンをサンプリングしたアナウンスが響いた。
 
【8】

 プログラムは、ヘンデルからベートーヴェンまでの古典作品のみで構成したピアノソナタと小品だった。
 オーケストラ等派手な構成ならばともかく、ピアノ一台では、今どき、音大生にも退屈な演目である。当初には怠惰な鑑賞姿勢の見えた聴衆には、然し演奏開始後から明らかな変化が訪れた。

 厳密に設計されたホールの音響効果もあるだろう。クラシックの演奏に最も適した残響は2秒と云うことだが、ユーフォニアハーモニーホールは見事にその条件を制していた。
 ──それ以上に、……否、その両方の条件を備えていた所為か、シェトラン、結城忍の演奏が壮絶だった。
 別段派手な訳では無い。基本的に、楽譜に忠実な古典派が専門らしい演奏である。が、そもそも独奏と云うのは尋常では無い集中力と情熱を必要とするものだ。綱渡り、と云うが、そんなものでは無い。ピン、と張った一本の細い糸の上を、バランスを崩す事無く、真直ぐに進む状態だ。それを達成し得るヴィルトゥオーソの演奏は、特に同じく演奏を専攻する者ならば直ぐに理解して目を見張る。
 
 ──周囲の音大生達の熱心な態度を眺めながら一同が感じた事は、もしもこの熱狂がプロパガンダに利用されれば……、と云う予感である。

 然し本番自体は何事も無く過ぎた。勿論、演奏上のミスを含め、何事も無く。
 アンコールで再び舞台に現れた時、傍にはウィンが楽譜を持って付き添っていた。
 無愛想に曲目紹介も無く奏され出した旋律を聞いた樹は、はっと身を乗り出した。──覚えのある旋律だ。

──『妖精の踊り』、
 
 グルックのオペラ、「オルフェオとエウリディーチェ」の中の一曲だ。フルートの優美な旋律の曲だが、ピアノ一台用に編曲してある。
「……、もしかして、」
 
 これが予告編だとすれば、可能性として、明日のオペラでのバンダは、オーケストラでは無いのだろうか。例えば、全曲をピアノ一台で演奏出来るように編曲してあり、ホールの構造と「オーケストラピアノ」を合わせ、「一人の音楽家」でもオーケストラに匹敵する効果を上げられる事を証明する為……。

【8GH】

 然し、セレスティはアンコールが始まらない内に孝を促してそっと席を立ち上がってしまう。
「……え?」
「先に失礼しましょう。私達は、用事がありますから。最後まで聴いていては、逃げられますよ、『彼』に」
 莞爾。──孝は重い足取りで総帥に続いた。

【9GH】

「失礼致します、」
 ウィンに予め話を通して置いて貰ったお陰で、楽屋へは簡単に通過する事が出来た。別に、アイドルのコンサートでも無い。その辺りの警備は差程厳重では無いのだ。
 忍は未だ舞台だが、そこはウィンが巧くやってくれるだろう。彼等の目的は──……。
 楽屋の一室で、彼等は目的の男、冨樫・一比を見つける事に成功した。軽装で、舞台を映したモニターを眺めている。ただ一つ間が悪い事には、横にレイが居たことである。
「……あ、総帥。……に、孝君?」
 先に気付いたレイの声で、やや顔色を変えて冨樫は振り返った。セレスティと冨樫の間の空気は、不穏である。妙に平和なレイの視線とは対照的に。
「……あ、どうも、先日は」
「こちらこそ。突然伺いまして」
 表面上だけ穏やかな挨拶を交わす彼等の横で、孝は絶望したい気分だ。
「レイさん、つか何で一緒に居るんだよ」
「……何でって。冨樫さん、父の後輩なの。私、子供の頃から遊んで貰ってたし」
「……、」
 孝のあまりの思い詰めた表情から経験者の勘が働いたものか、レイははっと、顔色を変えた。
「……孝君、……冨樫さんでやる気?」
「だって、総帥の命令だし」
「駄目だって──!!」
 レイは大慌てで冨樫の腕を引く。飄々とした体を装っている冨樫も、流石にこの慌てようには動揺したらしい。
「レイちゃん、何、」
「冨樫さん、逃げて! 駄目よ、絶対、コイツ、大変な事するんだから、そりゃもう口じゃ云えないけど大変な、早く!」
「逃げるって」
 どうせ、腕力か話術あたりが関の山だとでも思っているのだろう。冨樫は落ち着いている。
「孝君、それに総帥もよ、あんた達何考えてんの、冨樫さんまで巻き込まないでよ!」
「失礼ですが、レイさん、巻き込まれているのはあなたの方ですよ」
 セレスティは穏やかだがはっきりと告げた。
「……え、」
「どうもあなたは他人を信用し過ぎるようです。……あなたが行方を気にも掛けていない弟君ですが、ここ一ヶ月、重症と高熱を負って硝月嬢と葛城君のお宅にお世話になっておられたのですよ。御存じ無かったでしょう。何故彼等のお宅かと云えば、冨樫氏に見殺しにされたからです」
「……どういう事、磔也、重症って何、……冨樫さん?」
「……、」
 冨樫はにこにことして3人を眺めたままだ。──その一瞬の隙を付き、何が起こったかは説明するまでも無い。

「チェンジ! フュージョン!」

「……好きねえ、孝君……、」

【xxx】

 魔法少女☆あまねちゃん──基い、淡い緑の髪を背中まで垂らし、金色の大きな瞳をどこか不機嫌そうに吊り上げた美少女はやや俯いて淡々と語り出す。

「……今日は、クシレフは居ない。本番はあくまで明日。今日は前夜祭だ。全ては明日起こる」
 他には? と命令者本人であるセレスティは先を促す。
「過去の記憶が知りたいですね」
「えと。先ず、シュラインさんの仮説は大体当たりだ。つまり、結城家の連中の素性だけど。……あと、この人、冨樫氏も元はと云えば洗脳、つか教育された人らしいな。……この人が……これ、何だろ? (孝はあまりこちらの世界の固有名詞には詳しくないらしい)何か、管楽器。これを始めたのが10代の時で、そこで東京音楽才能開発教育研究所付属の音楽教室に通ってた。その頃から、この人の思考が段々、何つーか、妙に腹黒くなって行ってるような」
「矢張り、教育と云う『暴力』ですか」

 シドニーは、終演後の混乱に紛れて姿を消した。
 樹やウィンの対策は決して無駄では無かったが、今日ばかりは何も不穏な事は起こらずに終わった。──逆に云えば、磔也の警告が真実であったと云う事だ。だとすれば、「20日はヤバい」と云う言葉も的中する筈だ。
 セレスティと孝は冨樫を解放して意識を失わせてから、レイを連れて脱出した。シュライン、倉菜、亮一、涼、樹は周囲のの音大生達と共に一般客としてホールを後にし、途中でウィンが合流した。

「ちょっと肩透かしだけど、今日だけでも無事に終わったのは良かったわ」
 歩きながら、ウィンがそう笑顔を見せた。
「近くで忍さんを見ていて、何か気付いた事ある?」
 シュラインが訊ねる。ウィンは肩を竦めた。
「んー、……あれがシェトランなのね、って感じかしら。……何だかね、怖いくらいなのよ、あまりに集中力が鬼気迫っていて」
「ウィン従姉さん、」
 横合いから遠慮勝ちに声を掛けたのは樹だ。
「従姉さん、あのアンコールの楽譜なんですけど、……誰が編集したか、分かりませんか」
 ああ、「妖精の踊り」ね──。とウィンは微笑んだ。
「忍さん本人よ。楽屋でちらっと見たけど、どうも『オルフェオとエウリディーチェ』全編、オーケストラパートのピアノ編曲譜があるみたい」
 矢っ張り──。
「明日ね、全ては」

【zero】

──どうして?
 
 なんで、こんな事になってるの?
 ただのピアノコンサートじゃない、何を皆警戒してるの?
 なんで、私は今まで東京に居たの?

 冨樫さんを信用しちゃ不可ないってどういう事?
 磔也が見殺しにされたってとういう事?
 
 たかがコンサートじゃない、何が起きるって云うの?

──もう厭だ……、

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】

【渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生】
【太巻・大介 / 男 / 30 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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相変わらず、長らくお待たせしてしまいました。
更に今回は理屈が多く、あまりに長い個別パートに辟易されたかと思います。
本当に申し訳ありません。実力不足を痛感します。
それにも関わらず、続投を頂いた皆様、本当に有り難うございました。
今回、受注時に取ったアンケート結果は以下の通りでした。

1)里井薫に刺される。(重症)…………3
2)里井薫に刺される。(瀕死)…………0
3)里井薫に襲撃されるも、返り討ち。…1
4)ただのプチ家出。………………………6

重複不可、とは書いていなかった為、敢て二重回答もそのままカウントしました。
内容が内容だけに微妙な所で、多数決よりも数を反映した積もりです。
然し全体的な話の流れをこうしたアンケート式で決定するのも面白いと思いましたので、今後色々な点で取り入れて行こうと思います。

連載開始当初はそんな積もりでは無かったのですが、どうも今回のシリーズでは理屈が多いです。音楽理論、耳鼻咽喉学、生体学等に関しては一応の下調べはしてありますが、私は専門家ではありません。表記に誤りがありましたら、御自分のPC設定、プレイング内容の読み誤りなどと合わせて遠慮無く御一報下さい。

次回、最終話の受注は12月29日月曜日、午後8時から行います。
最終話には3つのシナリオ分岐アンケートを設定しました。
PL様方は恐らく今、モニターの前で呆れ返っておられるかと思いますが、気分が乗れば最終話にも参加してやって下さいませ。
尚、後日談としては最終話の後に一話、独立して受注を考えています。

反省点を抱えたままですが、今回御参加頂いた事に心より感謝致します。有り難うございました。

■ セレスティ・カーニインガム様

冨樫の失礼な発言をNPCに代わってお詫び致します……。

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