コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


アコーディオンの響く時


SCENE[0] 君が呉れた物語の始まり


 君を誰よりも憎んでる
 君を誰よりも愛してる
 だから ねえ 神サマってヤツがいるのなら
 あの子を殺して 僕に頂戴
 この腕の中に抱きしめて 彼岸の果てで永遠を誓うから



 雲切千駿の眼前、ベッドの上の空気が、僅かに揺れた気がした。
 千駿が難治性成人喘息を発症し、雲切病院内特別室に軟禁状態となってより今まで、約四年。さして広くもないこの空間のことなら、どんな些細な変化であってもそれと感知できる自信がある。
「……また、彼か」
 千駿は口中で小さく呟き、手にしていたカルテを事務机の上に置いて、苦笑した。
 ベッド上の歪みは次第に大きくなり、やがてそれは虚空に穿たれた一つの孔に姿を変えた。

 ――――来る。

 千駿が直感したと同時、穿孔は一気に引き拡げられ、その裡からガハッと二人の人間を吐き出した。
「ぅわああぁぁぁあッ!?」
 彼らは、頓狂な叫び声と伴に、空中の孔から千駿のベッドへと落下した。
 二人分の体重を受けとめてベッドのスプリングが烈しく軋み、真白いシーツがぶわっと舞い上がった。
「……特別室へ、ようこそ」
 千駿は胸の前で軽く両腕を組み、ベッドで組んず解れつなかなか体勢を整えられずにいる二人に微笑を送った。
「あ、あぁあ、千駿さん、お久し振りですぅ」
 一人は、月刊アトラス編集部勤めの平編集部員、三下忠雄。
 そして、もう一人は。
「あ……あいたた、三下さんっ、ボクの腕、踏んでる! 踏んでます!」
 華奢で小柄な体躯。一見して少女だか少年だか区別の付かない、黒髪赤眼の十八歳。こちらも現在、アトラス編集部に雇われの身である。名を、桂、という。
 千駿は、ここ雲切病院に勤務している薬剤師にして友人の黒薙ユリから紹介を受けて、三下とはすでに幾度か逢っている。一方、桂とは先日初めて顔合わせを済ませたばかりなのだが――――その時も桂は今日と同じような方法でこの室を訪れた。いや、正確には「訪れた」と言うより「侵入した」と言うべきか。空間に孔を開け、時空を超えて、いずこなりと自由に移動する。それが桂の有する特殊能力である。今も、この二人はアトラス編集部室から直接に、この場処へと空間を開き来たのだろう。
「桂君、きみの能力は分かったから、出来れば次回は普通にドアから遊びに来てくれると嬉しいんだけどね?」
「あはは……、ごめんなさい、千駿さん。ちょっと、急いでたから」
 桂は申し訳なさそうに千駿に向かって笑いかけつつ、三下の膝の下に敷かれていた片腕を引き抜くと、ベッドを降りた。その手に、長い鎖を曳いた懐中時計のようなものを握っている。それが、桂が時空を切り開く時に必要なアイテムなのだろう。
「急いでいた?」
 千駿に問われ、桂はこくりと肯いた。
「その、千駿さんにお願いしたいことがあって」
「そうなんですよおぉっ」
 桂の背後から、一本の藁しべに必死に縋り付くような三下の情けない声が飛んできた。
「……何か、あった?」
「アコーディオンが」
 桂が応えた。
「アコーディオン?」
「はい。三下さんが、預かり物の大切なアコーディオンを、壊したんです」
 桂が言うには、月刊アトラスに特集記事を掲載することになった曰く付きの鍵盤式アコーディオンを、編集長である碇麗香が、持ち主から借り受けてきたらしい。三下は、そのアコーディオンを眺め、好奇心から鍵盤を叩いたりネイロ切り替えスイッチを押したりしているうちに、何をどうしたものか、全く音が鳴らなくなってしまったのだという。
「千駿さん、前に、アコーディオンを演奏してたことがあるって、言ってましたよね? だから、何とかならないかな、と思って……。アコーディオンの構造に詳しい人って、なかなか他にみつからなくて」
「アコーディオンは、大学時代に少しね。イタリア旅行中に知り合った向こうの友人が、ファミリーバンドを組んでいたから、それに混ぜてもらって演奏したりしていたんだ。けど……アコーディオンの構造は、見た目以上に複雑だよ。調律だって、専門の職人に頼まないと出来ないしね。製音に関して言えば、ピアノ以上にコストのかかる代物らしいし。……それを壊したとなると」
「なな、何とかならないでしょうかっ」
 三下が、バタバタと千駿に駆け寄った。
「うーん……、とりあえず、実物を見ないことには何とも。そのアコーディオン、どこにあるの」
 千駿に訊かれて、三下と桂は思わず顔を見合わせた。
「……あ……、編集部に、忘れてきた……?」
「それは恐れ入った」
 千駿の語尾に重なるように、チリリン、と涼やかな音が鳴った。誰かが特別室のドア向こうに立っている合図である。
 この室は、千駿が暮らすようになってから、彼の希望により施錠、防音仕様を備えた造りにリニューアルされたため、来訪者は皆、扉の前でドアホンを押すことになる。そうすると、室内に「チリリン」が鳴り響くというわけだ。
 千駿は室内モニタの通話ボタンを押し、相手を確認すると、「どうぞ」と告げた。
 間を措かずドアが開いて、室に入ってきたのは、黒薙ユリだった。
「今、アトラス編集部からだと言って、アコーディオンが持ち込まれたんですけど」
 ユリは開口一番、千駿にそう言い、白いアコーディオンを腕に抱えた恰好で、心細そうに身を寄せ合っている三下と桂を一瞥した。
「あら。……もしかしてこのアコーディオン、お二人の?」
「ああ、そうらしいよ。編集部から病院まで、そう遠くないんだし、桂君達もアコーディオンと一緒に正面玄関から来た方がよかったんじゃないかな」
 千駿はくすくす笑い乍らアコーディオンを受け取り、眼を細めて嬉しそうにそれをみつめた。
「やっぱりいいね、楽器は。見ているだけでも、どんな音が鳴るのかと気分が昂揚する。……フルサイズ、41鍵120ベースか。まあ、標準的なモデルだな」
「千駿さん、好きですよね、楽器。確か、クラシックギターも昔弾いていたとか」
 ユリが、アコーディオンを触っている千駿を見て言った。
「クラシックは家にあったから、たまたまね。自分で買ったのはエレアコくらい。まあ、どちらも趣味程度だから、偉そうなことは言えないよ。最近は弾いていないし」
「この室、折角防音にしたんですから、演奏しても構わないんじゃないですか?」
「……それはそうだけど。こんなところで、延々一人で弾くのも何だろう?」
 千駿はユリに苦笑して見せると、一通り状態を確かめたアコーディオンのストラップを両肩に掛け、試しに蛇腹を動かして弾いてみた。すると――――華やかで伸びやかなミュゼット・トーンが室内に滑り出した。
「えっ」
「ええっ」
 桂と三下の驚きが揃った。
「鳴るじゃないか」
 千駿が、ちらりと二人を見、それから何事か考え込むように眼線を床の一点に固定して、アコーディオンの輪郭を指先でなぞった。
「……このアコーディオンがアトラス編集部で鳴らなかったのは……壊れたからじゃなかったわけか」
「で、でも、じゃあ、どうして」
 三下が困惑げに言った。
「そうだな、たとえば……、アコーディオンが鳴りたがらなくなるようなことがあった、とかね」
「えっ?」
「持ち主の手許にあった時は、これ、普通に鳴っていたんだろう? それが、編集部に行って鳴らなくなって、この病院にやって来てまた鳴るようになった。……不思議といえば不思議だけど……何だか、このアコーディオンに意思があるように思えてならないよ、僕は」
 そう言って、アコーディオンを下ろそうとして、千駿はふと、ショルダーストラップの裏側に何か書かれているのに気が付いた。顔を近づけて見ると、それは「エロスとタナトスのために響く」と読めた。
「エロスとタナトスのために……?」
 千駿の声に、ユリがぴくんと反応した。
「その言葉」
「……どうかした?」
「昨日ウチに入院した患者さんが、よく口遊んでるんです。十六歳の女の子なんですけど……」
「入院って、病気? それとも事故で怪我でも?」
「怪我です。噂では、崖から突き落とされて殺されかけたとか」
 ユリは事の重大さを分かっているのかいないのか、あっさりと言い切った。
「そのショックからか、今、精神的に不安定で……そのせいで、そんな言葉を口走っているのかと思ったんですけど」
「……エロスとタナトスのために響く、か」
 千駿はアコーディオンを静かに机の上に置き、
「やっぱり、アコーディオンが鳴らなくなった理由は、三下君にあるわけじゃないみたいだね」
 三下に向けて、穏やかな声音を送った。
「よ、よかったですぅう」
「よくはないですよ、三下さんっ」
 桂が、安堵の色を浮かべた三下の肩を揺すった。
「このアコーディオンの取材記事、どうするんですか? もともと曰く付きだっていう話なのに、何だかますますややこしいことになってきちゃいましたよー」
 桂に言われて、三下はウロウロと室内に視線を彷徨わせ、最終的に千駿の顔に行き当たって止まった。
「……分かった。分かってる。手伝うよ」
 千駿は、三下の悲愴な表情に溜息吐き、アコーディオンの上にそっと右手を載せた。
「手伝うのはいいけど、僕はこの室から出られないし、ユリ君も仕事があるしね……、さて、どうするかな」


SCENE[1] 秋の名残を携えて


 阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓

「足柄の土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに児ろが言はなくに……」
 佐和トオルは、何気なくその一句を口遊み、石橋の欄干に手を突いた。石の裡に溜め込まれた冷気が、掌を通ってトオルの体内へじわり滲み入る。
 奥湯河原の、段段に流れ落ち来る渓流の頭上、枝を川面と平行に這い伸ばしている落葉樹の葉が、朝陽の中で紅黄色に照り輝いている。今年は晩秋を過ぎてもなかなか気温が下がらず、季節がようやく初冬の冷え込みを見せ始めたこのところ、どうにかこの地の紅葉も見頃に差しかかったようだった。
 東京から高速に乗ってバイクを駆り二時間ほど、アクセスが至便なせいもあり、このあたりの景勝地はトオルのショートツーリングの目的地設定範囲内である。
 ――――久し振りに、走りたいな。
 そう思い立ったが吉日、トオルは、自ら共同経営者としても名を連ねているホストクラブ「Virgin-Angel」での昨夜来の仕事が明けるや、バイクに跨った。
 流体の抵抗を抑えるべく優美なまでになめらかな曲線を備えた、銀のフォルム。その正体は、二十世紀最大の怪物とも言われる、350km/hのスピードメーターと178psの出力を持つKAWASAKI ZX-12R。身長180センチ程度のライダーがメインターゲットに据えられているだけはあって、シートは肉厚、カウルの幅も広く、全体的に大柄な作りになっている。
 200km/h前後で気持ち良く本領を発揮する愛車、などとさすがに大声では言えないが、トオルは12Rの他に類を見ない加速力が気に入っていた。ギアのチェンジショックもなくスムーズに加速し、風に同化してゆくバイクと己を体感する一瞬に、何とも言えぬ快感を覚えるのだ。
 そのZX-12Rで早朝走り来た奥湯河原。
 懇意にしている若女将のいる高級温泉宿「翠巒」で、都合をつけてもらって渓流沿いの露天風呂にゆっくり浸かり、東京へ出て来た際には店へ立ち寄ってほしいとのにこやかな営業トークも忘れずに宿を後にし、現在。
 トオルは、清流を望む橋の上、鮮やかな紅葉舞う中に立っていた。
 湯河原は、出湯の地として唯一、万葉集東歌にも詠まれた場処である。
「湯がこぽこぽ湧き出る様子を恋愛の情に絡めて相聞歌に詠んだってんだから、万葉浪漫もどうなんだろうなァ」
 常連客である大学教授から教わったのだと言って、トオルにとって先輩ホストでありクラブの共同経営者でもある男が、酒の肴に幾度も話すので、いい加減トオルもその句を憶えてしまった。
 何の役に立つわけではなくても、こうして紅葉の下でふっと己の裡からこぼれ出るのが万葉歌だというのは、なかなか乙なものである。
「出づる湯の……よにもたよらに……」
 呟き乍ら、トオルはふわりと風に流れ来た紅い葉を一枚、指先で抓み取った。
 これ以上ないほど頬を赧らめているその葉に微笑みかけると、
「……よし、決めた」
 トオルは鮮やかな風景に背を向け、坂を下った先の樹下に寄せ停めたバイクの許へ、小走りに戻った。
 一枚の紅葉を手土産に、見舞いに行こう。
 先日不運にもバイクで事故を起こし、雲切病院に入院中のライダー仲間のところへ。
 ひとひらの、秋の名残を届けに行こう。
 奥湯河原までの道程は、カーヴの先に拡がる景色は、風の匂いは、本当に気持ち良かったぞと伝えに行こう。
 土産話に悔しがって、きっと地団駄の一つも踏みたがるだろうが、そこはそれ、骨折した足では無理なことだ。
「じゃ、行こうか」
 トオルは、友人の肩に手を置くように、ZX-12Rのカウルをポンと軽く叩き、周囲にエンジン音を響かせた。


 行きよりも帰りの方が距離的に短く感じるのは、往々にして単なる錯覚だとしても、実際時計を見ると思ったより早く病院に到着したのだと知れた。
 (少し、飛ばしすぎたかな)
 明らかなスピード違反に大した罪悪感も抱かぬまま、軽い足取りで外来中央玄関を入り、受付で仲間の入院している室番号と位置を訊ねた。
 長い髪を清潔そうに纏め上げた受付嬢は、黒革のライダースーツを着用しフルフェイスのメットを抱えたトオルを、少し訝しげに見上げた。その視線に笑顔で応えると、相手はぱっと眼を伏せ、関係者配布用の病棟案内図に記された中の一室に赤丸を付けて、手渡してくれた。
 その案内図を参照しつつ、トオルは外来待合室を抜けて廊下を左へ折れ、奥へ向かった。
「えーっと……、この先の階段を上へ行けばいいのか……」
 そう言って手にした図面から顔を上げた時、不意に静かな光が視界に入った。
 見ると、回廊沿いの扉を開け放した一室の前に、一人の少女が立ち尽くしている。光と見えたのは、蛍光灯の下で鈍く輝く銀の髪だった。
 中に入るでもなく、あんなところで何をしているのだろう、と思っていると、少女は控えめに頸を伸ばして室内を覗き込みかけた。
 トオルは、そのまま歩みを止めることなく廊下を直進し、
「この室が、どうかしたの?」
 少女の背後から、愛想の良い声をかけた。
「え……っ?」
 少女はびくんと肩を揺らし、声のした方を――――トオルを、振り返った。
 トオルの眼前で僅かに狼狽えているのは、
 半透明の美しい白魚のような、華奢な体。
 色白だというより、周囲の色を拒絶するだけの強さを持たぬ淡い輪郭で区切られた、清らかな空気に包まれた少女。
 長い銀髪と白い肌に、双眸の紅がはっと息を呑むほどよく映えている。
「あ……、いきなり声かけて、悪かったかな」
 トオルは少し頸を傾げて笑って見せ、
「別に、キミが覗こうとしてたのを誚めてるわけじゃないんだ、ただちょっと、どうしたのかなと思って」
「の……覗くだなんて、私!」
 少女はぶんぶんと顔を左右に振った。
「あれ? 違うの?」
「違いますっ、その、病室の扉が開いていたから、それで、何となく……気になって……」
「気になって、覗いてみた?」
 トオルが愉しげに言うのへ、咄嗟にどんな返答も思い付かなかったのか、少女はきゅっと唇を引き結んだ。
 その紅眸が数回瞬き、
「あ、あの」
 少女が再び口を開きかけた時、室の中からひょこっと頭が一つ差し出された。
 トオルは、心の裡に「あ」と小さく声を上げた。
 黒縁眼鏡に、ばさりと顔にかかる水分欠乏気味の疲れた黒髪。眼鏡の奥の両眼が、何かに怯えるように揺れている。その危うげな眼線が、トオルに固定された。
「あぁあ! さ、佐和さんじゃないですかぁ」
「驚いた、まさかこんなところで三下君に逢うなんてね」
 三下忠雄。月刊アトラスの編集部員であり、すでにトオルとは幾度かの怪事件を通じて知り合いの身である。その彼と、ここ雲切病院で偶然にも対面しようとは。
「僕も驚きましたよ、廊下から、聞き覚えのある声が響いてきて……」
 三下は、眼尻を下げて気弱そうに笑った。
「ああ、ごめん、うるさかったかな」
「いぃえ、ちょうど良かったです!」
「ちょうど良かった……?」
 トオルはそう繰り返し、
 (もしかして……俺、また何か妙な事件に巻き込まれることになるのか、な)
 胸に湧いた複雑な予感を曳いた視線を、銀の髪の少女へ向けた。
「……悪いけど、何だかキミまで巻き込んじゃうことになりそうだよ」
「え?」
 少女は、何がどうなっているのか分からないという表情で、トオルを見返した。


SCENE[2] タナトスの導き


 千駿、ユリ、三下、桂、の他に、さらに五人もの人間を受け容れた特別室は、通常の病室と較べれば幾分広いとは言え、さすがに窮屈に感じられた。
「……僕を含めて九人か。この室に、一度にこれだけの人数が集まるのは、初めてかもしれないな」
 そう言って、千駿は室内にそれぞれ居場処を定めて佇んでいる面々を見遣り、おもむろにフッと苦笑を洩らした。
「皆の気持ちは分かるし、僕だって気にはなるけど――――だからって、そんなにあからさまに凝視したら、コウサカ君達が困るよ」
「……全くだ」
 千駿の言葉に、香坂蓮が溜息吐いて同意を示した。そのすぐ左隣、蓮と肩を触れ合わせんばかりにして立った向坂愁は、
「確かに、黒薙さんに依頼されて、レンと一緒に今回の一件に協力するとは言いましたけど……、そんなにみつめられても、何も出ませんよ?」
 どこか醒めた口調で、けれど表情は飽くまでも愉しげに、言った。
「そう……ですよね、すみません、不躾に」
 高遠弓弦が、ぱっと眼を伏せ、申し訳なさそうに頭を下げた。
 弓弦を両側から挟むように身を置いた佐和トオルと志賀哲生は、まだじっと蓮と愁を見据えたまま、順に口を開いた。
「だってまさか、蓮と全く同じ顔が此の世にもう一つあるなんて、思わなかったから」
「これだけ整ったおカオの双子を見る機会ってのは、そうはねえからなあ」
 同じ顔。
 双子。
 そう、香坂蓮と向坂愁は、当人達に一卵性双生児なのだと打ち明けてもらわずとも、一見してそれと分かるほど、よく似ていた。髪型や服装、喋り方こそ違え、その髪の色、眸の色、声音、どれをとっても自ずから「同じ」であることを主張していた。
 この場に集った中で、トオルと三下、ユリ以外は蓮とは初対面で、愁とは全員が――――驚くことに蓮本人をも含め――――これが初顔合わせだったが、皆が皆、問題の白いアコーディオンよりも先に、蓮と愁に興味を抱いてしまったようだった。
 いや、皆、ではない。一人、ユリだけは、さして驚いた様子も見せず、手持ち無沙汰に机上に置かれたアコーディオンに触れていた。そして、まるで独り言でも言うような調子で、
「そんなに、似ていますか?」
 静かに異論を呈した。
「え?」
 トオルが訊き返した。
「ユリさんには、似てるように見えませんか?」
「同じ、というほどには。顔の作りがどうというより、何となく、受ける印象が違いますから」
「あー、まあ、それはそうかもしれねえな。もとの作りはともかく、人間の表情なんてヤツは、そいつがどう生きて来たかで変わるもんだからなァ」
 先だって私立探偵だと名告った哲生は、職業柄、日々他人の後ろ暗さを覗き見ている者らしい穿った言い方をした。
 哲生がユリに連れられて、蓮、愁と伴にこの特別室を訪れた時、すでにトオルと弓弦はここにいて、後から来たメンバーを迎えた。
 そうして、本題に入る前にとりあえず、ということで各々簡単に自己紹介を済ませた。
 最近は兼業している便利屋としての諸事に追われて疲れ気味らしいヴァイオリニスト、香坂蓮。
 今年八月に日本に帰国したばかりの、こちらも同じくヴァイオリニスト、向坂愁。
 黒のライダースーツを身に纏い、今日は仲間の見舞いに雲切病院を訪れたのだというホスト、佐和トオル。
 カトリック系の高校に通う、見るからに穏やかで優しげな銀の髪の少女、高遠弓弦。
 最後に、左腕に包帯を巻き、縒れたシャツとタイをそれなりに着こなした無精髭の男、志賀哲生。
 それぞれ異なった理由で雲切病院を来訪した五人が、何の因果か、三下と桂の持ち込んだアコーディオンの謎を解くために、千駿の室に導かれた。
「……とにかく。アコーディオンの調査をしないなら、俺は帰る。時間の無駄だ」
 蓮が眉間に皺を寄せて言い、そうだね、と千駿が受けた。
「そのために協力をお願いしたんだし、早速このアコーディオンについての皆の見解を聞かせてもらいたい」
 千駿の催促に、トオルはひょいと手を伸ばしてアコーディオンのストラップを裏返し、軽く肩を竦めた。
「エロスとタナトス……、愛と死のために響く、か。なかなか綺麗で不吉な言葉だね」
 ――――エロスとタナトスのために響く。
 そこにははっきりと、そう記されていた。巧いとは言えない、けれど一字一字丁寧に書かれた文字列。
「そうですね、そのまま素直に考えると、佐和さんの言うように、愛と死のために、って意味に取れますね」
「愛と死、ですか……」
 愁の言葉に、弓弦が感慨深げに呟いた。
 哲生は、何やら思うところがあるように、へえ、とアコーディオンに顔を寄せて見、
「エロスとタナトスねえ。……タナトスのためにも鳴るのなら、俺にも演奏できるかもな」
 そう言って、よいしょ、と両腕にアコーディオンを持ち上げた。
「あ……、志賀さん、その左腕の怪我……、大丈夫なのですか」
 弓弦が、左袖を肘まで捲り上げた哲生の腕に巻かれた包帯を見て、心配そうに声をかけた。
「ん? ああ、大したことはねえよ。悪いな、気にしてもらって」
 照れくさそうに言い乍ら、哲生はストラップを肩に掛け、胸の前にアコーディオンを抱えた。
「……アンタ、弾けるのか」
 蓮が単刀直入に訊いた。人は見かけによらない、かもしれないが、それにしてもこの探偵、楽器に縁があるようには思われない。
 哲生は顔を横に振った。
「いいや。全く。けど、まあ、鍵盤押したら、音くらいは出るだろう。それに……」
「それに? 何です?」
 言い淀んだところを愁に促され、哲生はぽりぽりと指先で頬を掻いた。
「……さっきも言ったが、このアコーディオンがタナトスのために鳴るっていうなら、俺にも何とかなるんじゃないかと思ったんだ。あんまり威張れたことじゃァねえんだが……どうも俺は、死とか、屍体とか、そういった方面に敏感に反応しちまう体質らしくてね」
 多少言い難そうに吐露し、哲生はぐっと力を込めて蛇腹を伸縮させた。鍵盤の上に置いた無骨な手をどう動かしたものか、哲生自身もよく分からぬまま、手当たり次第に押してみた。
 すると。
 初心者がどう足掻いても、蛇腹を扱う左手と鍵盤を弾く右手がなかなか噛み合わない筈のアコーディオンから、すうぅっと流麗なメロディが立ち昇った。
「……バッハのオルガン・コーラル……、" Wohl mir, das ich Jesum hade "?」
 愁が言うのへ、弓弦が嬉しそうに肯き、胸の前で両手を組み合わせて微笑んだ。
「主よ、人の望みの喜びよ……、ですね」
「タナトスに惹かれる志賀さんが、ルカ伝の讃美歌を演奏するっていうのも、何だか」
 トオルが苦笑しつつ、聴き慣れたその旋律に合わせて体を揺らした。
「……それ以前に、どうして弾けるんだ、その曲が。いくら何でも、『鍵盤を押したら音が出るだろう』程度の人間に出来る芸当じゃない」
「尤もな意見だね」
 千駿が蓮に相槌を打った。
 ふっ、と哲生の奏でる音色が止み、彼は驚愕の表情で一度ゆっくりと瞬きした。
「……驚いたな」
「驚いたのはこっちの方だ」
 蓮に指摘されて、哲生は、はは、と曖昧に笑って見せ、
「何なんだろうな、一体? まさかこのアコーディオン、自動演奏機能が付いてるとかじゃあ」
「何言ってる、アンタ、今ちゃんと自分の指で弾いたろう」
「……だよな。けど、この曲を弾こうと思って弾いたわけじゃねえんだ。ってことは……やっぱり、アレか、俺に潜むタナトスの匂いにアコーディオンが反応した、か――――?」
「なかなか面白いことを言うんですねぇ」
 愁が、ふぅん、と顎に指を当ててアコーディオンを眺め、
「……レンも弾いてみたら?」
 蓮に向かって声を投げた。
「え……?」
「試しに、さ。タナトス属性の志賀さんに弾けたとして、他の人間にもこのアコーディオンが反応するかどうかは分からないんだし」
「あぁ、ちなみに僕には弾けたよ、一応」
 千駿が愁に向かって軽く手を挙げた。
「雲切さんは……極端にエロス属性でも、タナトス属性でもなさそうな感じですね、何となく」
 トオルが千駿を見遣って言った。
「そう? 中立的かな?」
「ええ、多分」
 肯いて、改めてアコーディオンに視線を送ったトオルは、そこから滲み出て視える濁った気配に眼を凝らした。あまり善い色とは言えない。たとえるなら、血を溶液で溶き薄めたような、濃厚ではないが生々しさを孕んだ朧な色。
「そのアコーディオン、どちらかと言うと、浄い力には反応しない気がしますね」
「浄い力に反応しない……、なぜですか?」
 弓弦に問い返されて、トオルはほんの少し答えに困ったように間を置き、
「……説明、しにくいんだけどね。視えるんだ、不穏な色が。アコーディオンの周りに」
「色が……?」
「そう。だから、高遠さんにはきっと弾けないと思うよ。キミ、すごく清浄な空気を纏ってるから」
「えっ? そ、そんなことは」
 弓弦はほんのり頬を染めて、羞ずかしそうにトオルから視線を逸らした。
「ほら、レン」
 愁は哲生からアコーディオンを受け取るや、蓮の諾否も聞かず、背後に回って彼の両腕にストラップを通した。それを肩まで引き上げ、アコーディオンを安定させると、肩越しに蓮の顔を覗き込んで微笑んだ。
「弾いてみてよ」
「……分かったから、少し離れててくれ」
 何かと身近く接しようとする愁に戸惑い乍らも、蓮は鍵盤に手を掛けた。
 比較するというのなら、同じ曲の方が分かりやすいだろう。
 そう思い、蛇腹の動きに気を遣いつつ、哲生が弾いたと同じコラートの譜を、指の動きなめらかにキー上に追った。
 だが、アコーディオンは蓮の動きに全く反応を示さなかった。
 続けて、トオル、弓弦も試してみたが、結果は同じだった。愁は興味がないからと言って弾こうとはせず、結局アコーディオンを鳴らせたのは哲生と千駿だけだった。
「志賀さんと千駿さんが特別なのか、それとも香坂さん、佐和さん、高遠さんに何かアコーディオンを奏でられない理由でもあるのかしら」
 ユリが、再び机上に安置されたアコーディオンを横眼に言った。
「ま、俺についてはタナトスの念に誘われたんだとして……、あんた達三人、何か共通点でもあるのか?」
 哲生に訊かれて、トオルが、ああ、と笑みを浮かべた。
「あると言えば、あるかな。高遠さんはカトリック系の学校に通う、神に仕えたいと願う女性みたいだし……、蓮と俺は教会にちょっとした縁があるしね」
「教会ねえ。じゃ、やっぱりさっきあんたが言ったみたいに、浄い力には共鳴しないって話が正解か?」
「同じ場処で同じように弾いてみてこういう風に結果が分かれたのですから、そうかもしれませんね」
 弓弦がトオルの代わりに答えた。
「アトラス編集部で三下さんが触れた時も、音は鳴らなかったと伺いましたけれど……、それについては、場処が問題なのではないかと思います」
「ちょっと待って、病院と死が密接な関係にあるのは分かりますけど、それより例の女の子のことはどうなったんです? 『エロスとタナトスのために』って言葉を口走っていたという入院中の女の子」
「……そうだな、それに大体、このアコーディオン、どうしてアトラスに持ち込まれたんだ? 先ずその点が明らかになっていない。曰く付きだという話だが、どういう奇譚を持った楽器なんだ」
 愁と蓮が立て続けに異議を申し立てた。
 同じ声音で投げかけられた的を射た疑問に、一同、数秒黙した。
 と、これまでじっと室の隅で身を縮めて事の成り行きを見守っていた三下が、「あのぅ」と控えめに発言した。
「そのぉ、一応、ある程度のアコーディオンの曰くなら、編集長から聞いてますから、分かります」
「どんな?」
 トオルが先を急かした。
 三下はどこから話したものか迷うように視線を遠くに投げ、それから一つ咳払いをしようとして、勢い余って咳き込んだ。
「ぐぇ、ゲほッ……、ぇ、えぇと、その、アコーディオンの色なんですけど、もともとはそれ、赤いアコーディオンだったようで……」
「赤?」
 愁と蓮の声が揃った。二人は一度顔を見合わせ、愁は笑い、蓮は落ち着かぬげにすっと顔を背けた。
 皆の眼はいったん双子へ向けられた後、白いアコーディオンに集中した。
「……白い、よな?」
「ええ……、白いですよね」
 哲生と弓弦が、微妙な距離感で肯き合った。
「もともとは赤、か」
 トオルは、アコーディオンの漂わせている濁色が微かに血の色合を帯びているように視えたのも、その赤のせいかもしれないな、と納得した。
 三下は話を続けた。
「もとは赤いアコーディオンだったのが、持ち主である青年が事故で他界した後、色を白く変じてしまったらしくて……、一時期近所でも噂になったらしいんですよー。で、そのまま数年家に放置してあったのを、いい加減どうにかしようと手を触れたところ、な、なんと」
「なんと?」
 惹き込まれるように、哲生が三下に向かって頸を伸ばした。
「白いアコーディオンが、一瞬にして赤く染まったんです……!」
 三下が興奮気味に両手をギュッと握り締めた。
 千駿のベッドの端に腰かけて静かに話を聞いていた桂は、そこで初めて口を挟んだ。
「少し補足します。アコーディオンが赤く染まったのは本当に一瞬で、手を放した途端、またもとの白色に戻った、ということらしいです。だから、今のアコーディオンは白い色のままで」
「……成る程。それで、その手の怪しげな記事で鳴らしているアトラスに、アコーディオンを調べてみないかという話が舞い込んで来たのか」
 蓮に言われて、三下は頸を斜めに傾げた。
「舞い込んで来たと言うか、そのぉ、編集長が、ひったくって来たと言うか……」
「さすが麗香さん」
 トオルが乾いた声で賛辞を贈った。
「アコーディオンについては分かりました、それで、女の子の方は?」
 愁が、僅かに苛立ちを織り交ぜた口調で訊ねた。
 その問いには、ユリが応えた。
「ウチの第一病棟の個室に入院している患者さんで、名前が、三上和奏さん。今、高校一年生です。高い崖から突き落とされたらしいんですが、幸い途中で木の枝に引っ掛かって下の岩場まで転げ落ちず、怪我自体はそれほどでもありません。ただ、精神的な混乱があって、今のところ会話がなかなか成り立たないんですけど」
「みかみ、わかなさん――――」
 同性の上、年齢が近いこともあって親近感を覚えたのか、弓弦はその名を口の中でゆっくり繰り返した。ところへ、三下の奇妙な叫声が飛んで来た。
「み、み、三上さんっ!?」
「えっ? み、三上さんが、どうか……しましたか?」
「あぁあ、あの、アコーディオンの持ち主!……は、亡くなったんですが、そ、その家の名字が、三上なんですよぉ!」
「……それなら、話は早いね」
 愁が、胸の前で、ぱんと両の掌を拍ち合わせた。
「その三上和奏さん、亡くなったアコーディオンの所有者の家族なんでしょう、きっと。だから、ストラップに書かれていた文字も知っていたんじゃないですか? もしかしたら、白いアコーディオンに触れて赤く色を変えさせたのも、彼女かもしれません。三上さんがいるから、アトラス編集部で鳴らなかったアコーディオンがここでは鳴るのかもしれないし……。何にしても、そういうことならアコーディオンを彼女に見せてみれば謎は解けると思いますよ」
 言い終わるや、愁はアコーディオンを腕に抱え上げ、ユリに「その子の病室に案内してもらえますか」と歩み寄った。
 その背に向かって、
「あ……、おい、待て、向坂!」
 蓮が声をかけた。
 愁はぴたりと動きを止め、頸だけを回して蓮を振り向くと、
「……何?」
 少々不機嫌そうに口の端を歪めた。
 向坂、と呼ばれたのが気に入らなかったのだろうか。実際、双子であるにも関わらず、蓮が愁を名字で呼ぶこと自体、周囲から見ても不自然ではあるのだが――――。
「……アコーディオンを三上という患者に見せるのは、待った方がいいんじゃないか」
 蓮は、愁の感情の動きには構わず、冷静に言った。
「どうして」
「その患者に関係しているなら尚更、アコーディオンを前にして、当人がどういう反応をするのか予想がつかない。もし、怪我の原因の一端が、色を変えるアコーディオンにあるのだとしたら、どうなると思う? 有り得ないことじゃない、迂闊な行動は取れないだろう」
「どうなる、って……、それこそ、見せてみたら分かるよ」
「だから、それは」
「なんだなんだ、兄弟喧嘩かァ?」
 蓮の言葉を遮って、哲生が大きな声を上げた。
「アコーディオンを見せるかどうかで仲違いしてるんだったら、いっそのこと多数決で決めちまおうじゃねえか。その、三上和奏って娘のところに、アコーディオンを持って行くかどうか」
「……俺は、とりあえずその子に逢ってみたいな。アコーディオンを見せる前に。逢えば多分、俺にもいろいろと分かることがあると思うから」
 トオルが先ず、自分の意見を述べ、話題を弓弦に振った。
「高遠さんは? どう思う?」
「私は……、このアコーディオンは、何らかの想いを奏でようとしているのだと、思うのです。そう、おそらくは……三上和奏さんのために。たとえそれが、タナトスの色濃い導きによるものだとしても、やはり惹き合う存在は出逢うべきだと、思います。そうして初めて癒される、痛切な想いというものもあるでしょうから」
「じゃあ、あんたはアコーディオンを見せるべきだと思うんだな?」
 哲生に確かめられて、弓弦は、はい、と肯いた。
「そうか。……で、俺はだな、金髪ホストの兄さんと一緒で、とりあえずその娘に逢ってみたい。もし本当に、誰かに殺意を向けられて、崖から突き落とされたって言うんだったら、その残り香を嗅ぎ分けられるかもしれねえしな」
「……三対二、か」
 千駿が、それまで背を凭せかけていた壁から身を起こし、愁と弓弦を見遣った。
「この場は一応、数の力に決断を任せてみようか。先ずは、患者さんに逢ってみて、それから、どうしても必要なようなら、アコーディオンを見せてみる。それでいい?」
「……分かりました」
「はい、そのように」
 二人が諒承し、五人はユリの案内で三上和奏の病室へと向かった。あまり大人数で押しかけて患者を興奮させてもいけないと言うことで、三下と桂は残ることになった。
 特別室を出て行く時、蓮は室のソファに立て掛けておいたヴァイオリンを手に取り、何気なく千駿を振り返った。
 千駿は、蓮の視線に気付き、
「ウチの病院の大切な患者さんだから、呉々もよろしく頼むよ。僕の代わりにね」
 そう言って、眼許に穏やかな微笑を載せた。


SCENE[3] 病室の追体験


 こぢんまりとした、空気の流動の殆どない室だった。
 その中へ、五人は順に入って行った。
 半ば引いた薄桃色のアコーディオン・カーテンの向こうに、ベッド。白いキャビネット。小さな冷蔵庫。ベッドから手を伸ばせばすぐ届くところに、コップや水差しを置いた小振りなワゴン。
 そしてベッド上には、上半身を起こし、肩から赤いショールを掛けた少女。
 三上和奏。
 頭に巻いた白い包帯と、頬に絆創膏で固定された大きなガーゼが痛々しい。
 少し伸びたフェイスラインのルーズな毛先が、彼女が深く呼吸するたび僅かに揺れた。
「……はじめまして、三上和奏さん。俺、佐和って言います、佐和トオル。少し、お邪魔してもいいかな」
 トオルが、冥い重々しさを嫌うように、朗らかな声をかけた。
 和奏は胡乱な眼つきで見知らぬ男を見上げ、後に続いて室内に入って来た四人へも視線を送った。そうして、口を噤んだまま、その視線をするりと窓辺へ逸らしてしまった。
「三上さん……」
 トオルが言葉を継ぎかけた時、ゆらり、和奏のベッドサイドに身を寄せる影があった。
 哲生である。
「……志賀さん?」
 哲生は、眼球の輪郭がとろりと蕩けたような甘く濡れた眸で、和奏をみつめていた。
「志賀さん、そんな風にみつめたら、この子が怯えますよ」
 愁が、今にも和奏の頬に指先を触れそうな哲生の腕に手をかけ、苦笑した。
「……匂うんだよ」
 哲生が、掠れた声で囁いた。
「匂うんだ……、死の薫りが」
「死の……?」
 訊き返した愁に肯き、哲生は眼を屡叩いた。
「すでに身に帯びた死、これから訪れるだろう死、そういう匂いが混ざり合って――――」
「おい、アンタ、ちょっと待て!」
 蓮が少々慌てたように、哲生にそれ以上の発言をさせまいとした。蓮の後ろで大人しく立っていた弓弦も、珍しく表情に憤りを滲ませ、細い声に張りを見せた。
「志賀さん、患者さんに向かって、なんてことを仰るんですか……!」
 言われて、哲生も何とか匂いの裡に現実感を取り戻したのか、開いた口を一度閉じ、それから「ああ」と浅く息を吐いた。
「……すまねえな。だが……、ああ、そうだ、死の薫りは感じるが、その、崖から突き落とされたとかいう、この娘に向けられた殺意の気配は、なさそうだぞ……?」
「殺意を感じない? じゃあ、つまり、三上さんは、誰かに死を望まれて突き落とされたんじゃないってことですか?」
 愁が頸を傾げた。
「こ、向坂さんも、そういう言い方は……!」
 弓弦に窘められて、愁は、そうだね、ごめん、と肩を竦めた。
 が、当の和奏は、皆の会話が耳に入っていないかのような無表情で、窓を蔽うカーテンの畝をぼうと見遣るばかりだった。
「俺が少し……視てみますから」
 このままでは埒が明かないと見たトオルは、和奏の手の甲にそっと己の掌を重ね置いた。一瞬、ぴくん、と小さく和奏の肩が揺れたが、彼女はトオルの手を振り払うでもなく、またそれまで同様の孤独な静けさの中に還って行った。
 ――――過去の追体験。
 エンパシーの能力を有したトオルが、その力を駆使してさらに行うことの出来る隠された技能である。たとえば、犯罪者の罪悪感をエンパシーによって読み取った時、意識的に、相手が犯した罪を自分の体験そのものとして感じることが可能だ。但し、この力を使うことはトオル自身にも精神的な負担を多く強いるため、濫用はしない。
 今回は、特別だ。
 かつて家族を亡くし、今自分自身も死に直面しかけた、不思議なアコーディオンに魅入られた十六歳の少女。
 それは現時点ではまだ単なる想像に過ぎないが、多分、正しい。そんな予感がする。
 トオルは、心を澄ませて、和奏の色を己の裡に取り込んだ。

 窓が開いているわけでもないのに、冷たい風が髪を撫でた気がした。
 瞬間、脳裡に拡がったのは、蒼白な空の色と、土の感触。
 ここは、どこなのだろう。
 知らない場処。
 何かに、誰かに導かれるように訪れた、地の果つる場処。
 切り立った崖。
 無色の風。
 風に流れ来るのは、来るのは――――アコーディオンの、音。
 Jesu, Joy of Man's Desiring
 ああ、この旋律……、
 何度も何度も繰り返し、彼が奏でた音。
 左手でふいごを器用に動かし、ボタンを操作し、鍵盤の音色を高く低く、美しく舞い上げる。
 私のためだけに奏でられるメロディ。
 心地よい和音。
 軽快なフィンガリング。

 ……お兄ちゃん。

 刹那に視界を埋める鮮血のイメージ。
 それはやがてぬくもりを喪い、白く硬い色に褪せてゆく。
 逝ってしまった人の骨の色。
 残された愛おしさを切り刻む空虚な時間の色。
 本当は繋ぎたかった手を諦めた、僅かに空いた隙間の色。
 もう一度、もう一度、その色が染まる日が来るだろうか。
 こんな風に出逢うのでさえなかったら、
 こんな風に訣れるのでさえなかったら、
 もう一度、
 いいえ、もう二度と、
 ――――だから。

「……あ……っ」
 トオルが、短く声を上げた。
 視界が廻転する。
 落ち、る。
 背を押されたのでもなく、自ら飛び降りたのでもなく、
 それは本当に自然に、ふわりと体が浮き上がるように、まるで風に乗って飛べるのではないかと思うほど身軽く、アコーディオンの音色に導かれて、崖の、向こうへ。
 (……殺意なんて……どこにも……、アコーディオンの残留思念の存在は……強く感じる、けど)
 カクン、とトオルの膝が折れた。
「あ……、佐和さんっ?」
 そばにいた愁が、床に頽れてしまいそうなトオルの体を支えた。


SCENE[4] アコーディオンの響く時


 少しく疲労の色を帯びて壁際のパイプ椅子に腰かけたトオルの手を、弓弦が握っていた。
「佐和さんが和奏さんを視て、彼女の思念と同化することで心身に負担がかかったのでしたら、私が……」
 そう言って、弓弦はトオルの手を取ったのだ。
 信心深い高遠弓弦に備わった、慈愛に満ちた癒しの力。その力が、繋いだ手を通してトオルに流れ込んで来た。余剰に他者の意識を取り込んで体内で揺れていた不協和音が、次第に消えてゆく。
「……ありがとう」
 トオルは微笑を浮かべ、それから、和奏から読み取り、感じた意識の総てを、皆に伝え聞かせた。
「じゃあ、やっぱり、あんたの見立てでも、殺意の介在はなさそうなんだな?」
 和奏から引き離されて、窓を背に愁と並んで立った哲生が訊いた。
 トオルが肯く。
「ええ、そうですね。崖から突き落とされた、という話も、どうやら信憑性には欠ける気がします」
「殺人未遂事件でもなく、かといって自殺しようとしたというほど強い自我が関与しているわけでもないとすると――――」
 蓮の声を、インターホンの呼び出し音が過ぎった。
 蓮は一度和奏に眼を遣り、彼女が何の反応も示さないことを見て取ると、ベッド脇備え付けインターホンの受話ボタンを押して口を寄せた。
「……はい」
『ああ、コウサカ君? ……えぇと、蓮君、の方かな』
 千駿の声が、スピーカーを通して室内に流れ出た。
「ご名答。ふぅん、結構聞き分けられるものなんですね」
 窓際から愁が応えたが、さすがにその声は千駿にまで届かなかったらしく、代わりに蓮が、
「ああ、そうだ。……よく、分かったな」
 そう言って、愁を一瞥した。
『そうだね、何となくだけど、分かるよ。どう違うのかって言われると困るけど……、あ、それより、アコーディオンの件』
「……何かあったのか?」
『アトラスの編集長に三上家の連絡先を教えてもらって、直接アコーディオンについての詳細を聞き出してみたんだ。尤も、詳細と言っても……、亡くなったアコーディオンの持ち主と、三上和奏さんの関係程度しか分からなかったけどね』
「関係?」
 訊き返した蓮の胸中に、先刻トオルが和奏と意識を同化させて得た、あるフレーズが浮かんだ。

 ……お兄ちゃん。

「もしかして……、その二人、兄妹なのか?」
『……驚いた、和奏さんから聞き出せた?』
「いや、聞き出せたというか……読み取れたというか。そんなところだ」
『そう、じゃ、僕からの情報は必要なかったかな。和奏さんの兄は、三上家の養子でね。三歳の時に三上家に来たらしいんだけど、その後、実子の和奏さんが生まれたそうだ』
「……血の繋がらない兄妹か」
『そういうこと。彼は二年前、事故に遭って他界してる。アコーディオンの腕前は、なかなかのものだったらしいよ』
 千駿との通話は、そこで切れた。
 蓮はインターホンから顔を離し、無言で和奏に視線を向けた。
「それなりに複雑な家族模様が想像できるね、その状況。子供の出来なかった三上夫婦が養子をもらったところ、妊娠が発覚した……ってあたりが、妥当なセンかな」
 愁が蓮を見、どことなく感傷的に言った。
「……そうだな」
 蓮は呟くように応じ、トオルを呼んだ。
「さっき、三上和奏の感情を読んだ時、アコーディオンの音が聞こえたと言ったな」
「え? ああ、そうだよ。風に乗って、『主よ、人の望みの喜びよ』を演奏するアコーディオンの音が聞こえて……それに導かれるみたいに、気が付いたら崖から落ちてた」
「アコーディオンに、導かれたのですか? そのせいで、崖から転落を?」
 弓弦が、眼を瞠った。
「……あのアコーディオン、和奏さんを連れて行きたがっているのかもね。持ち主の想いが、移っちゃってるのかな」
「持ち主って、つまり、この娘の兄さんなんだろう? ってこたァ、あれか、あの言葉――――エロスとタナトスのために響く、ってやつをストラップに書いたのは、その兄貴か」
 トオルの言い分に、哲生が不足を補ったかたちになった。
 その直後。
「あ、あァ、あ……ッ」
 ベッド上の和奏が、突然、奇声を発した。
 それまで朧に据えられていた眸がカッと光を灯し、室内の人間を慌ただしく見回した。
「え……、わ、和奏さん?」
 弓弦がベッドに駆け寄り、和奏を宥めようとした。が、急に近付いて来た弓弦に驚いたのか、和奏はがむしゃらに両腕を振り回し、手近にあった物を弾き飛ばした。
「きゃ……!」
「! おい、危な……」
 弓弦を反射的に庇った蓮は、和奏の腕に当たってワゴン上から飛び、壁にぶつかり砕けたコップの破片で、頬を切った。
「……ッ」
「レン!」
 愁が気色ばんだ声を上げ、すぐさま暴れる和奏の両腕を捕らえた。
「向坂君、手荒な真似は……!」
 トオルの諫止に、分かってる、と言うように頸を振り、愁は和奏の顔を覗き込んだ。
「三上さん、落ち着いて――――落ち着いて。大丈夫、何もしませんから……何も」
「あ……ああ、あ」
「大丈夫、誰もあなたに危害を加えたりはしない。だから、ゆっくり、息を吸って……吐いて。ね?」
「……あ……」
 愁の言葉に従って、和奏は深呼吸をした。
 一回。二回。三回。
 五回目の深呼吸の後、ようやく、和奏の眼に穏やかな色が戻った。
 その様子を見ていた哲生は、すまなさそうに溜息吐いた。
「悪い、俺が……あの言葉を言っちまったから、それに反応したんだろうな、きっと」
 あの言葉。

 エロスとタナトスのために響く。

 アコーディオンのショルダーストラップに記され、病院に運ばれてきた和奏が口走っていたという、あの言葉。
「……あの……言葉?」
 落ち着きと同時に多少の精気を取り戻したのか、和奏が哲生に真っ直ぐ眼を向けた。
「あ? ……ああ、その、アコーディオンに書かれてた言葉なんだが」
「アコー……ディオン」
「……あんた、憶えてるか? 白いアコーディオン」
「白い……? 知らない……わ」
「それじゃ、赤いアコーディオンは?」
 愁が訊いた。
 和奏は少し考えるように間を置き、急にハッと息を呑んだ後、烈しく瞬きを繰り返した。
「……赤いのは……知ってる。お兄ちゃん……お兄ちゃんの」
「そうだね、お兄さんのアコーディオン」
「あ……、でも……違うの、赤かったけど、白くなって……、私が触ったらまた赤く……、だから、違うの」
「三上さん……、和奏さんが触れたら、色が変わった?」
「そう……、手を放したら赤くなくなって……それで……、それで、お兄ちゃんが……お兄ちゃんの声が……音が聞こえなくなって」
「音? ……アコーディオンの音色?」
 和奏が、こくりと深く頭を垂れた。
 弓弦はつらそうな表情でそんな和奏をみつめ、口を開いた。
「まだ少し、記憶の混同があるみたいですね。でも、あのアコーディオンは和奏さんに反応して色を変えるようですし、それに、和奏さんの今回の事故も、アコーディオンに宿った想いに誘われて起こったことのようですし……。やはりここは、和奏さんとアコーディオンを引き合わせた方がいいのではないかと思うのですが。……私だったら、逢いたいですから。大切な人の、形見に」
「……そう、だね。それがいいかもしれないな」
 トオルが弓弦に同調した。
「持って来るよ、あのアコーディオン。それでいいかな」
 トオルに問われて、哲生と蓮、それから愁がそれぞれ肯いた。


SCENE[5] アンビヴァレンス


 三上和奏は、トオルが運んできたアコーディオンを差し出された途端、それに縋り付いて、泣いた。
 和奏の腕の中で、アコーディオンは真っ赤に染まり、鍵盤が、カタカタと小刻みに震えるように鳴った。
「やっぱり、すっかり想いが沁み付いちゃってるみたいだね、アコーディオンに」
 トオルが戸惑いがちな微笑を床に落とした。
「……祓えば、いいのか?」
 蓮がぽつりと言った。
「え?」
「アコーディオンに憑いたものを、浄化させればいいのかと訊いたんだ。妹を連れて逝こうとする兄の念を」
「あ……、そうか、キミのヴァイオリンで」
 トオルが、蓮のヴァイオリンに視線を遣った。蓮は、ヴァイオリンで鎮魂歌を奏でることで、霊や妖を浄化させる能力を持っている。
「……兄が他界してもう二年が経つと言うが、暫く放ってあったアコーディオンに妹が触れたことで、眠っていた筈の兄の想念が喚起されたんだろう。それでその瞬間、白から赤に色が戻り――――結果として怪しげなアコーディオンはアトラスに連れ去られて、妹は崖から落ちる羽目になった。このままにしておいたら、またいつ妹が兄に喚ばれるか分からない」
「レン。……もし、妹が兄のそばに逝きたがっていたら、どうするの」
 愁が、横合いから口を挟んだ。
「え……?」
「エロスとタナトスのために、ってストラップに書いてあったんだし……、この兄妹、ただの兄と妹ってわけじゃなさそうだと思わない? 血の繋がりだってないんだしさ」
「……それは……」
 言葉に詰まった蓮の代わりに、トオルが後を引き継いだ。
「愛と死か。確かにね、愛し合って……いたのかもしれないけど」
「さて、そう単純な話かねえ、これが」
 哲生が、アコーディオンを抱えた和奏をみつめ乍ら、右手で無精髭の生えた顎を撫でた。
「フロイト曰く、エロスは生への欲望、タナトスは死への欲望。エロスは肯定、タナトスは否定。自己保存の欲動と、分解破壊の欲動。快感の追求と、罪と罰の抑圧。……まあ、こんなトコだったか? とにかく、えらくややこしいって話だ。愛してるから一緒に死にたいとか、もしくは逆に命懸けで守りたいとか、いっそ殺して自分だけのものにしたいとか。可愛さあまって憎さ百倍とかな。方向の違うベクトルが入り乱れて、わけが分からねえ」
「アンビヴァレンスっていう、あれですか。……それにしても、志賀さん、随分詳しいんですね、フロイトに」
 愁に言われて、哲生は、ばつが悪そうに眼を逸らした。
「あー……、何だ、俺は探偵業を始める前は、刑事だったんだよ。ちょっとした不手際で、今じゃ元刑事って肩書きしかねえがな。刑事やってた頃は、犯罪心理に詳しい同僚とかもいたんでね。その受け売りってヤツだ」
「へぇ、刑事さんだったんですか」
 愁の感心したような声に、哲生は「もうその話はいい」と言わんばかりに、すっとその場から身を離した。

 エロスと、タナトス。
 現実を肯定し、ここに自らを留め置きたいような、
 組み上がってしまったパズルを分解し、何もかもを壊してしまいたい、ような。

 エロスとタナトスのために響く、アコーディオン――――。

「……どうする? 蓮」
 トオルが訊いた。
 蓮は返辞をする代わりに、ケースからヴァイオリンを取り出し、和奏のベッドへと歩み寄った。
 それまで皆の話を聞き乍ら、泣いている和奏の背をずっと撫でていた弓弦は、蓮を見上げて少しだけ不安そうな顔をした。
「あの……、香坂さん」
「ああ」
「和奏さん……どうなるのでしょうか。お兄さんの想いが、アコーディオンから消えてしまった後……」
「どうもなりはしないだろう。傷が癒えたら、今までと同じ生活が続くだけだ」
「……そう、ですよね。アコーディオンは普通のアコーディオンに戻って、和奏さんも今までどおりの毎日に戻る……」
「そういうことだ。アコーディオンの残留思念が浄化されたら、妹の精神状態も落ち着くだろうし。兄が還らないことを淋しく思いはするだろうが……、それを認められたら、今の現実も乗り越えられる筈だから」
 蓮の言葉に励まされるように、表情に明るさを見せた弓弦は、
「分かりました。あの、私も、浄化のお手伝い、します。少しなら力になれると思います」
「……ああ、頼む」
 蓮は赤くざわめくアコーディオンに暫し視線を落とし、それから慣れた仕種でヴァイオリンを構えると、静かに弓を弦の上へ滑らせていった。
 弓弦は和奏とアコーディオンに手を触れ、心の裡に祈りつつ眼を閉じた。

 これはきっと、絆を断ち切る鎮魂歌ではなく、
 絡み合った糸を解き、新たに繋ぎ直すための一弓。
 浄きを拒み、タナトスの衝動に抗しきれなかったアコーディオンを揺さぶる、ヴィブラート。
 生命あるものを生命あるものとして、逝くものを逝くものとして、
 互いに惹かれ合い乍らも一線を画すための、
 清らかな光射す、
 音色。


SCENE[6] おかえりなさい。


「あれ。コウサカ君」
 特別室で皆の帰還を待っていた千駿の声に、愁と蓮が同時に視線を向けた。
「あ、……そうか。そうだね。名前で呼ばせてもらった方がいいかな。……蓮君」
「え?」
「頬、どうした?」
 そう言って、千駿は蓮の頬の傷に手を当てた。
「痛……っ」
 蓮が、思わず眦を歪ませた。
「んん、きれいに切れてるね。ガラスの破片か何かで切った?」
「ああ……、割れたコップの欠片が飛んで来て」
「何だ、まさか結構派手にやって来たわけじゃないだろうね、患者さんの病室で?」
 蓮は返答に詰まり、曖昧に頸を振った。
「とりあえず、こっちへおいで。この室にも多少の治療具は揃えてあるから。一応、僕も医師免許はあるしね、手当てするよ」
 千駿に連れられて治療を受けに行く蓮の背を何となく眺めていた愁は、ポンと肩に置かれた手の感触に、振り向いた。
「お疲れ」
 哲生だった。愁は、ぺこりと会釈で応じた。
「志賀さんも、お疲れ様でした」
「ああ。何とかなってよかったよな。感情移入能力だの、浄化の力だの、偶然にしろ結構使える能力持ってるメンバーが集まったのがよかったのかもしれねえが」
「志賀さんの力添えも大きかったじゃないですか」
「俺か? 俺は……何だろうな、この病院に来て最初ッから最後まで、死の匂いに惑わされてただけの気もするがね」
「志賀さんのアコーディオン演奏、素敵でしたよ」
 愁はそう言って笑い、哲生は複雑な顔で天井を仰いだ。
 そこへ、
「志賀さん、この後は院内で彷徨わずに、ちゃんと帰宅してくださいね」
 ユリが、トオル、弓弦と伴に近寄って来た。
 トオルは、和奏の病室から持ち帰ってきたアコーディオンを事務机の上に置くと、
「いくら死に惹かれるからって、まさか、霊安室に忍び込んだりしませんよね?」
 冗談とも本気ともつかぬ言葉を、哲生に投げた。
 哲生はそれには直接応えず、もう一度、お疲れ、と皆に声をかけた。
 弓弦は机上のアコーディオンをみつめ、
「浄化されたアコーディオン……赤い色のまま、落ち着いたみたいですね」
 窓辺から射し入る冬の陽を受け、きれいに照り返しているその器体に眼を細めた。
「高遠さんも、結構無理して力使ったんじゃない? 大丈夫?」
 トオルが心配そうに言うのへ、弓弦はにっこり微笑んで、
「いいえ。主も、苦しんでる方を見たら何かをするのが当然だと仰るでしょうし……、少しでも私の力が役立ったのなら、これ以上嬉しいことはありません」
 敬虔な信者らしい発言で応じた。
 と、
「あ」
 愁が、何を思い出したか、急にユリに向き合った。
「黒薙さん、僕、今日、貧血の診察受けてないんですけど」
「あぁ、そういえば」
 愁と蓮は、内科受付前でユリに逢い、そのままこの一件への協力を依頼されたため、二人とも結局、診療を受けず終いだったのである。
「ごめんなさい、私、これからすぐ内科の先生つかまえて来ますから、香坂さん――――蓮さんと一緒に、診察室まで来ていただけますか」
「それは構いませんけど。レン、今、雲切さんに頬の傷の治療をしてもらってますから……」
「……あ。じゃあ、愁さんも、千駿さんに診てもらいますか? その方が早いですし」
 ユリが、その手があったと言うように、微笑んだ。
「えっ? 雲切さんにですか? でも」
「大丈夫ですよ、千駿さんの診察、丁寧ですから。私も時々診てもらってますし。手術が必要なほどの症状でなければ、この室でもそれなりの診断は出来ますよ」
 そう言うと、ユリは千駿に話をつけに、一足先に彼の許へ向かって行った。
「折角だから、診てもらって来たら?」
 愁に向けられたトオルの笑顔に、弓弦と哲生が同時に肯いた。
「向坂」
 不意に名を呼ばれて、視線を遣ると、頬の創傷部を保護ガーゼで蔽った蓮が愁を見ていた。
「診察、受けるんだろう」
「……あのさ、レン」
 愁は軽い足取りで蓮に近寄ると、
「仮にも実の兄に向かって、『向坂』はないんじゃない?」
「……急に……、いきなり、勝手に現れておいて――――そんなことを言われても、困る。……大体、他になんて呼べば」
「そうだなぁ、和奏さんが言ってたみたいに、『お兄ちゃん』とか。『兄さん』でもいいな」
「……断る」
 蓮は苦々しい表情で愁に背を向けた。
「あー、つれない返辞。いいから、一回、呼んでみてよ。声に出して言ってみたら、実感、湧くかもしれないし」
「遠慮しておく」
「レン」
「…………愁、じゃ、駄目なのか」
 躊躇いがちに声を揺らす蓮に、愁は、仕方ないなあ、と、笑った。


[アコーディオンの響く時/了]


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
+ PC名 [整理番号|性別|年齢|職業]

+ 佐和・トオル
 [1781|男|28歳|ホスト]
+ 向坂・愁
 [2193|男|24歳|ヴァイオリニスト]
+ 香坂・蓮
 [1532|男|24歳|ヴァイオリニスト(兼、便利屋)]
+ 高遠・弓弦
  [0322|女|17歳|高校生]
+ 志賀・哲生
  [2151|男|30歳|私立探偵(元・刑事)]

※ 上記、受注順に掲載いたしました。

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

こんにちは、ライターの杳野と申します。
今回は、異界初依頼、「アコーディオンの響く時」にご協力くださいまして、ありがとうございました。
SCENE[1]では、当異界の雲切病院とみなさんとの接点を書かせていただきました。
お一方ずつそれぞれの視点での導入部となっていますが、その中で他PCさんやNPCとの出逢いがありますので、他の方のノベルをご覧になっていただけると、また少し違った雰囲気が味わえるかと思います。
今後も雲切病院を舞台にPCのみなさんと新たな物語を生み出していけたら嬉しいです。

最後に、雲切千駿と黒薙ユリより、皆様にご挨拶があるようです。
それでは、またお逢いできることを祈って。

――佐和トオルさんへ。
この間に引き続き、今回も調査に協力してくださって、ありがとうございました。
本当に、何か事件の起こるところに居合わせること、多いんですね?
今日は黒のライダースーツ姿だったので、一瞬見違えてしまいました。スーツと名の付くものは、何でも似合いそうですね、佐和さん。
バイクで事故を起こしたりしないよう、お気を付けて。
入院中のご友人の看護は、しっかりやりますから、安心してくださいね。 [ユリ]