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ビター・アンド・スイーツメロディー
―― ボクは未熟ですけれど、誰より幸せになって欲しいと思っているんです……
▽▲▽ けんかの理由
「ヨハネくーん!!」
不意に声が聞こえてヨハネと彼の師匠は振り返る。
「みさきさん、こんにちは」
「おや、どうなさいました、みさきさん?」
礼拝堂の扉を開ける音と同時に杉森みさきの顔が見えた。扉をバタンと閉めると、こちらに向かって走ってくる。
「今日はデートですか?」
「違っ……」
真っ赤になってヨハネは師匠に言う。
「ヨハネくん……」
涙をぽろぽろと零してヨハネに縋りついた。
小さな手が震えている。
「み、みさきさん!?」
驚いてヨハネはみさきに問い掛けた。ぎゅっと握り締め、俯いたままたまま、みさきは答えない。
「おやおや、いけませんよー女の子泣かせちゃあ」
「な゛っ…そんなんじゃありませんっ!」
なにやらニヤニヤとしながらヨハネを見る師匠に思わず言った。
「女の子の涙に弱いですねえ……みさきさん、ヨハネ君が何かよからぬことでもしましたか?言ってごらんなさい、私が聞いてあげます」
「師匠! 話が拗れます、あっち行ってくださいッ!!」
「おやおや……経験多き年上に対して酷いいいようですねー」
一体どういう経験なのか聞いてみたいものだったが、聞けばここに居続けること必至なので訊かなかった。代わりにじーっと睨んでみる。
師匠は「おぉ、怖い怖い」とおどけるように言って去っていった。
それを見届けると、
「どうしたんですか、みさきさん」
ヨハネはドキドキとしてくる鼓動を押さえるように、出来うる限りゆっくりと穏やかに言った。
「みゆちゃんが〜〜〜〜……」
「え?……みゆきさんに何かあったんですか?」
「違うのぉー……みゆちゃんが許してくれないの」
言いたい事が分からなくて、ヨハネは小首を傾げた。
じれったそうにみさきが口を尖らせる。
「前の依頼でね、ピアノのおじいさんがうちに来たいって……だから、連れて行っちゃったの」
ピアノのお爺いさんと聞いてヨハネは納得できた。
バーのママの持ち物であったピアノが喋りだし、みさきが引き取る事になった依頼を思い出して頷く。
「了解してくれたんじゃないんですか?」
「みさね―……その日、みゆちゃんとお買い物行く約束だったの。でも、ピアノの依頼だって聞いたから………」
「はぁ」
ヨハネは天を仰いだ。
―― 天にまします 主よ。彼女たちが仲直りできますように。
「それは怒っても仕方ないですよ、みさきさん」
「だってぇ……おじいさん可哀想なんだもん」
「それとこれとは違いますよ。お約束を破って、おうちにいきなり高価なピアノがあったら、怒るし、心配もしますよ」
「分かってるけどぉ……みさはピアノのおじいさんと居たいの!」
部屋の主はみゆきであって、みさきではない。その事を本人は分かっているのだが、喋るピアノと居たいがために首を縦に振らない。
最初は置き場所の話だったのだが、みさきが約束をすっぽかしたことに発展し、いつの間にか日々の不満が爆発したのだった。
「みさは絶対帰らないの!!」
愛らしい頬を膨らませたまま、みさきはプイッとそっぽを向いた。
どう説得しようかとヨハネは頭を抱え込んだ。
▽▲▽翁とみゆき
「ふぉっふぉっふぉ……お嬢ちゃん、何で机の下に隠れておるのかな?」
「ひぃいいい……やっぱり喋ってるー!」
みゆきは半泣きで机の下から喋るピアノを見た。
艶やかな光沢の美しいピアノはご機嫌な様子でみゆきに話し掛けてくる。
「何をそんなに怖がっとるんじゃのー。わしゃ、ただ喋っとるだけじゃぞい?」
「普通は喋らないよー」
「喋るんじゃからしょうがないじゃろうに」
むふと笑うと、ピアノはみゆきに話し掛ける。
「お嬢ちゃんはあのお嬢ちゃんとよう似とるのう」
「だってボク、みさと双子だもん」
「そうかそうか……」
人の形をしていればあごひげでも触りながら笑っているだろう、柔らかな声だった。そう思うと少しは安心できる。
そっと机の下から顔を出してみゆきは覗いた。
「お嬢ちゃんもあのお嬢ちゃんの姉妹なら、楽器は弾くのかの? わしゃ、聞きたいのう」
「ボクは楽器は弾かないの」
「ほう、勿体無いのう」
「そのかわり、ボクが楽器なの」
誇らしげに胸を張っていったみゆきの言葉を聞くと、ピアノは満足そうに笑った。
「そうかそうか……わしに聞かせてくれんかの」
「え?」
「わしゃな、歌も好きなんじゃ。あのお嬢さんは大層上手に弾いておったぞ。お嬢ちゃんも良い歌を歌うんじゃろうなあ」
嬉しそうに言うと笑って歌を催促してくる。
しかたないなぁ…と呟いてみゆきは歌い始めた。
歌い始めれば喋るピアノの怖さも何処かへと吹き飛んで歌の世界に浸り込んだ。
少しだけ疾走感を強めて『春の小川』を歌う。情景が浮かんでは消えて、電車の窓に映っては流れていく様を思い描いた。
歌が終わるとピアノのおじいさんは大層喜んだ。
「お嬢ちゃん凄いのぅ。さすがあのお嬢ちゃんの姉君じゃの」
「そうかなあ……ありがと」
そう言って返すと、ふと今上がった妹への賞賛も気になった。
「みさってそんなに凄いと思う?」
「おぉ……わしゃ思うの。あのお嬢ちゃんはわしを使うというよりもわしと一緒に歌ってくれているようじゃった。ここにいて一緒にわしを弾いてくれたらどんなに楽しい事じゃろうなあ……お嬢ちゃん、わしをここに置いてくれんかの?」
「ここじゃ狭いし……近所から文句出ちゃうよ」
「わしゃ、お嬢ちゃん達が好きなんじゃ……一緒にいたいんじゃよ」
「困ったなあ」
これ以上大きな部屋に移るとなるとお金のほうが大変だった。
確かにピアノがあったら楽しいとは思う。三人で歌って暮らせたらそれは素晴らしい毎日になる事だろう。それにはみさきが入なくてはダメだ。
自分も少し言い過ぎたかもしれない。
最後の方ではおやつ云々の話にもなっていたからだ。それは謝らなくてはならないだろう。
暫し、頭を悩ませていると玄関のほうで呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。
「みさ?」
「ほう、お嬢ちゃんが帰ってきたのかの」
ガチャリとドアノブが回される音がし、続いて靴音が聞こえる。パタンとドアが閉まる音がすればみさきとヨハネが顔を出した。
「みゆちゃん〜〜〜〜」
頼りなげなみさきの声が聞こえる。
その声を聞くとみゆきの胸はきゅうんと痛くなった。目の奥が痛くなって目元が熱く感じた。
「みさ……ごめんね?」
「だってぇ……みさがおじいさん連れてきちゃったんだもん。いいよぅ……」
「ボクもこのおじいさんと居たいな」
「え?」
「ほんとうかの?」
ピアノはふぉっふぉっふぉと声を上げて笑い、鍵盤の蓋をパタンパタンと動かして喜んだ。
みさきの表情がふわっと明るくなる。
「みゆちゃん……」
「みさきさん、良かったじゃないですか」
先ほどから心配そうに見ていたヨハネは、ホッとしたように肩を落として言った。
互いに抱き合って双子の姉妹たちは謝っている。これなら大丈夫だと思い、ヨハネは早々に退散しようと一歩下がった。
「これなら大丈夫そうだし、僕は帰りますね?」
「ヨハネくん、ごめんね」
「気にしないでください、みさきさん」
にこっと笑って心配しないようにと手で制した。
「ってことは、おじいさんと居て良いてことよね」
「うん……まあ……そうなんだけど、問題が……」
みゆきは腕を組んで考え込んだ。
人差し指を唇に当てて小首を傾げる。
「はっきり言って狭くなっちゃうんだよね。あとは壁が近くなっちゃうから外に音が漏れちゃうし」
「そんなぁ……」
「しかたないじゃん、ここは元々ピアノ置くつもり無かったんだし」
「うーん」
暫し頭を抱え込んで三人は悩んだ。
「みさに収入がちょっとはあれば、割り勘でここ出ることも出来なくは無いんだけど……ボクのお金じゃ、無理」
「お金があればいいの?」
「まぁ……そうかな? せめて、あと3万ほど毎月払えれば3LDKの部屋とか借りれるし」
みゆきの呟きにヨハネは暫し考えて、みさに向かってニッコリと笑った。
「月3万なら何とか稼げると思いますよ。音楽関係の仕事を探せばいいし。チャリティーコンサートでも開けば少しは足しになるかと思います」
「でも、何処でコンサートするの?」
「師匠に頼んで開いてもらうかもしれませんし、幼稚園とか……きっと方法はありますよ」
「ボク、それならいいと思う。3万でおじいさんと居られるなら……」
「本当、みゆちゃん!」
「うん、ボクも居たいかなって思うし」
「ありがと!!!」
思いっきりみゆきに抱きつくとみさきはぽろぽろと涙を零した。
依頼の日に見た夕日色のピアノのおじいさんの姿を思い起こして胸がいっぱいになる。新しい年を迎えようとしていた街の明かりに照らされて考えた音楽とあのバーのママへの思いはもの悲しいものだった。
温かくおじいさんを迎えてくれなかった姉への苛立ちが、今こうして終焉を迎えようとしている。
言葉にならない思いで溢れて、目元が熱くなった。
柔らかい部屋の明かり色に視界が滲む。
抱きしめた温もりと見つめてくれる若い神父の眼差しが暖かい。
このまま果てなく彷徨う惑星のようにこの姉と擦れ違ってしまったらと思った杞憂は涙とともに爆ぜた。
ピアノの翁と姉と仲良く一緒に暮らしていけるかもしれない。
そう思うだけでみさきは満たされる。
―― ボクは未熟ですけれど、誰より幸せになって欲しいと思っているんです……
二人の隣でヨハネはそんな幸せそうな姉妹を見つめていた。
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