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鬼斬りコロコロ
☆★食あたりのあと★☆
朝。
田中緋玻(たなか・あけは)の新しい朝。
寝ぼけ眼で髪を梳かしていると、鏡の中にハムスターがいることに気がついた。
お洒落なハムスターだった。茶色と白のマダラな毛並みに櫛を入れ、ピシッとノリのきいたシャツを着ている。ほんのり、アイラインとルージュまで差しているようだ。そして、頭の上に、かわいらしい角が2本、生えていた。
普段、自宅と会社を往復する毎日で、たまの休みでも調べなければならない資料があったり、語学の勉強をしたり、映画を観たりと忙しい。
−−ハムスターかぁ……。
−−飼ってみてもいいかな〜。
ふとそう思って、楽しい気分になる。いままで−−自分が特殊な能力の生き物であるためか−−ペットを飼うことなんて考えてみたこともなかった。いや、自分の中に潜む魔のペットの面倒をみることだけで精一杯だったのだ。
ちょっと、検討してみようか。
そう思って、朝食を取りにテーブルに上がった。ロッククライミングするくらい大変な作業で、汗だくになった。そして、左頬にどんぐりを2つ、右頬にひまわりの種を3つ入れたところで−−手が止まった。
−−え?
−−あたし……
自分の手を、もう一度よく見る。それは人間の手ではなかった。
寝てる間に、鬼が暴れた?
−−いえ
ダッシュでテーブルを駆け下り、もう一度、鏡の前に戻る。
そこには、どんぐりとひまわりの種で頬をぷっくり膨らませた、1匹のハムスターが映っていた。
☆★出発!★☆
「うわ〜〜ん、ハムスターになってる〜、あたし!」
緋玻は小さな両手で頭を抱え、小さな両足でアタフタと歩き回った。どうして、どうして、と考える。思考言語までが、なんだかいつもと違っているようだ。そのとき、彼女はハンドバッグにつまづき、コロンと転がった。ハンドバッグも小さくなっていた。
−−どうなってるの、どうなってるの〜?
昨日のことを懸命に思い出す。
そう−−緋玻は昨日、食あたりをしていのだ。なじみのおでん屋台の若女将に相談したところ、1粒の【丹】をくれた。よく効く薬だということだった。帰宅して、その【丹】を飲んだところ、急に眠くなってきて、そのまま化粧も落とさず眠ってしまったのだ……。
そのとき、手にしていたもの、着ていたものがそのままハムスターサイズになってしまっている。そして、自分自身がかわゆいハムスターになってしまっている。
原因は、その薬!
それしか考えられないっ!
そう思い立つと我慢できなかった。なんとかしないと。とりあえず、屋台へ行って、女将を問い詰めねば。緋玻はドアに向かって走り出した。
しかし!
普段、何気なく開閉していたその玄関ドアは、まるで異界と現実世界を隔てる獄門のように彼女の行く手を遮っていた。
「あたし、負けないっ!」
運よく、新聞の受け口が開いていた。新聞が押し込まれているため、隙間がある。彼女は素早くドアを駆け上がり、角がひっかかって難儀しながらも狭い口を通り抜け、外へ跳躍した。
とおっ。
しかしまだ、緋玻はそれが長い旅の始まりだということに気づいていなかった。
☆★ハムスター珍道中★☆
「にゃ〜おぉ」
のどかな朝の風景を、緋玻は地面すれすれからの視点で眺めている。
それは、自分がハムスターであるということを除けば、いつもの景色、いつもの音、いつもの微風。小学生がランドセルにつけている鈴の音が、ちりんと鳴る。車が轟音をたてて、彼女のそばを通り過ぎる。近所の猫が、陽だまりを求めて、あくびをしながら塀の上を歩いている。
「にゃ〜おぉ。おお?」
その猫と、目があった。
馴染みの猫だ。出勤途中で出会うと、おはよう、くらいは挨拶する仲。しかし、いま、その猫の視線を受けて……緋玻は少なからず恐怖を覚えた。
猫は、音をたてずに、道路へ飛び降りてきた。緋玻は、びくん、と立ち止まった。
−−あたしを狙っている!?
そんな気がした。猫は忍び足で、彼女との距離をせばめてくる。彼女にすれば、身の丈10メートルのライオンが、目と毛を逆立てて、無音で近づいてきているようなものだった。
「あたしよ!田中緋玻よ。覚えてるでしょ?」
緋玻はそう大声で言ってみた。まったく通じていない。猫は、ぺろりと舌なめずりして、さらにこちらへ近づいてくる。
−−やられるっ!あたしが猫ごときにやられるっ!
猫が跳躍の体勢に入り、ふっと体をかがめた瞬間、緋玻は逃げ出した。思い切り、横へ飛ぶ!猫の爪がアスファルトにささって、激しい音がした。間一髪で、緋玻はその手を逃れた。彼女はついに4本足を使って、猛然と走り出した。
「あたしよー!気づいてっ。あたしなんか食べたっておいしくないんだから!」
そう叫びながら、緋玻はジグザグに逃走する。猫は追撃の手を緩めず、爪と牙で彼女を襲う。
塀のわずかな隙間に逃げ込み、茂みに入った。これで大丈夫だろうと振り返ると、塀の上から猫が笑って緋玻を見ていた。ダメだ!この辺りの地理は、猫のほうがよく知っている。
そしてとうとう、緋玻は塀際へ追い込まれてしまった。もう、逃げ道がない。
猫と真正面から対峙する。じりじり、と詰められる間合い。
「にゃ〜ご〜っ!」
両の爪をかざして猫が襲い掛かってきた瞬間、緋玻は思い切ってその猫へ飛び掛っていった。頭からの突進!
「ぎゃっ」
爪が、緋玻の背中を一閃し、出血があった。しかし、彼女の頭にある角はそれにもめげず、猫の瞳へ攻撃を加えた。当った!猫が怯んでいるその隙をついて、彼女は全速力でその場を去った。
どこをどう走ったのか覚えていない。
気がつくと、緋玻は公園のベンチでぐったりと横になっていた。背中の傷が痛い。
猫に追われ、犬にも追われ、水溜りで溺れかけ、車に轢かれそうになって、ここへ来た。
いつも、5分で行ける道程が、ハムスターだとその何十倍もかかる。非常に疲れるし、危険がいっぱいだった。おでん屋台までが、永遠に遠く感じられる。
「おい、見ろよ、ハムスターじゃないか?」
声の主は、小学生だった。4年生くらいの男女が、上から緋玻を覗き込んでいる。
「かわいい。でも、ハムスターがなんでこんな所にいるんだろうね?」
「死んでるんじゃないか? あ。角が生えてるぞ、新種だ」
一難去ってまた一難。緋玻は、ハッと身構える。まだお昼頃だというのに、小学生が公園でデートだろうか。学校をさぼった不良小学生に違いない。あまりにも危険すぎる存在。
女の子が、緋玻をつかもうと、手を伸ばしてきた。さっと緋玻はその手を逃れる。
また手が出てくる。もう一度、避ける。
「あ〜ん。つかまえてよ」
「任せて」
今度は、男の子が手を伸ばしてきた。しつこい!緋玻はその手を、がぶっと噛んでやった。
「いてて。こいつっ」
人の姿である緋玻にとっては、こんなガキは相手にするまでもない。しかしいまは、最強の天敵だ。捕まれば、どうなるかわからない。おもちゃにされてしまう。とにかく、彼女はその場から逃げた。
逃げる、逃げる、どこまでも逃げるっ!
夕闇がせまるころ、すれ違った区のPR車が、拡声器でこう告げていた。
「えー、ただいま、大変危険な野良ハムスターが出没しております。現在、区では、対ハムスター捕獲用といたしまして、えー、ロボットハムスターを99匹、放っております。ロボハムは人に対して危害を加えることはございませんが、お飼いになっておられます小動物は念のため外に出さないよう、お願い致し……」
−−なんですって?ロボットハムスター?
ハムスターにはハムスターで対抗しようというのだろうか。
あの小学生が通報したのかもしれない。なんてこと!
心身ともボロボロになりながらも、緋玻は先を急ぐことにした。一番に考えるべきことは、いまのハムスター状態から抜け出し、人に戻ること。こんな形のままでは、いつかやられてしまう。鬼斬り、あるいは鬼喰い鬼と呼ばれる特殊な能力さえ、充分に発揮できない。
人に戻る−−そのためには、あの女将に会わなければならない。
−−あのおでん屋台はどこ?
緋玻は、フラフラと歩く。もう屋台の近くには来ているはずだ。多くの人が行き交い、夜の明かりが明滅し、汚れた空気が漂う底を、緋玻はハムスターのまま、歩く。
そのとき−−
『発見!発見!ワレ容疑者ヲ発見セリ!』
目をライトにして光らせ、車輪の足で走るロボットハムスターが背後からやってきた。
『容疑者発見セリ!請ウ、応援。要請ス、応援部隊。集合セヨ!』
「もういやー!」
最後の死力を振り絞って、緋玻は走りに走った。−−屋台を目指して。
☆★同じ穴のムジナ★☆
濁った夜風が、緋玻の毛並みをすり抜けていく。
いつも屋台があるその場所へ、ようやく彼女は到着していた。
だけど−−そこには、あるはずのおでん屋がなかった。そして彼女は、99匹のロボットハムスターに囲まれていた。
絶体絶命っ!
緋玻を中心にして、ぐるりと円になってロボハムがまわりを囲んでいる。目から出る光がサーチライトとなって、彼女の姿を闇に浮かべていた。
もう彼女には、戦う気力が残っていなかった。屋台がなければ、ハムスターになってしまった謎が解けない。この姿では、銃やミサイルを装備するロボハム部隊には勝てない。
隊長らしきロボットハムスターが1匹、進み出て緋玻に告げた。
『オ前ハ完全ニ包囲サレテイル。両手ヲ挙ゲヨ』
緋玻は言われたように、大人しく、その小さな両手を挙げた。
『ヨロシイ。デハ、ユックリト武器ヲ捨テヨ』
「武器? あたしは、武器なんて持ってない」
『ソノ頬ニ入ッテイルノハ爆弾ダロウ。ソレヲ吐キ出セ』
思い出した。ほっぺに食料を詰め込んだまま、ここまで来てしまったのだ。爆弾を口に入れている物好きがいるとは思えないが……言われた通り、まず右頬に入っていた、ひまわりの種を3つ、道路に吐き出した。
その瞬間−−サーチライトがさっとその種に集まった。ロボハム兵たちがザワザワと何か言っている。その中の一匹が飛び出してきて、緋玻が出したひまわりの種に飛び掛った。そして驚いたことに、食べ始めたのだ。
『バカモノ!卑シイ事ヲシテ、恥ヲ知レ!』
隊長から発射されたミサイルが、そのロボハムを木っ端微塵に消し飛ばした。
−−ロボットのくせに、腹が減っているのか……。面白いっ。
再び、ライトが緋玻に集中した。緋玻は意識してゆっくりと、左頬からどんぐりを1個、地面に落とした。
それは、コロコロと道を転がる。コロコロコロコロ……。
サーチライトが一斉に、どんぐりを追いかける。ゴクリ、というロボットが唾を飲み込む音さえ聞こえそうなほど、緊張した瞬間が訪れていた。そしてどんぐりは、たまたま近くの地面に開いていた暗い穴へ、音もなく吸い込まれた。
そのとき−−ロボハムたちが次々とそのどんぐりを追いかけ始めた。小動物の本能がインプットされているのだろうか。さっき部下を抹殺した隊長までもが、ソレハ私ノ物ダー、と叫びながら、穴へ突入した。99匹のロボハムたちが高速でびゅんびゅんと穴へ吸い込まれる光景は圧巻だった。
−−助かった……のかな?
ほっとして緊張が緩んだとき、残っていたどんぐりが1つ、緋玻の頬からこぼれ落ちた。コロコロ…。コロコロコロコロ……。そして、油断して人的思考力が停止していたハムスター緋玻がとったとっさの行動も、どんぐりを追いかけることだった。
本能から我に返ったときには、緋玻も同じく、その暗い暗い穴へと落ちていっていた。
夜。月。ぼんぼり。
緋玻はそこに立っていた。人間の姿をして。
目の前に、おでんの屋台がある。その場所に、いる。
何がなんだか、わからない。夢でも見ていたというのか。白昼夢?
緋玻は、地面を眺めてみた。どこにも穴なんて開いてない。
自分の手を見る。細くしなやかな、彼女の指。
なんだったんだろう。彼女は、いつもの彼女だった。そして、月明かりを受け、空腹だった。
あれ? 食あたり、治ったんだ……。
おでんのいい匂いが、彼女の鼻腔をくすぐった。
屋台の暖簾が、おいでおいで、と誘っているように風に揺れた。
《了》
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