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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


風光る

【風使いと時の魔術師】

 森村俊介の朝は、遅い。
 もともと、一般的な人間社会からはかけ離れて、どこか悠然として構えている彼のことだから、時の流れに対する概念も違う。この時間には、何をして、どこへ行って、と考えることは、ほとんど無い。
 だから、腕時計も身に着けないし、懐中時計も持たないし、携帯の時刻を気にしたこともない。目覚ましなど論外だ。寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。食べたいときに食べて、必要があれば、何かを学ぶ。
 決して、だらけた生活をしているわけではない。自分に見合った生き方をしているだけだ。
 慌ただしく日常に追われるのが、俊介は、好きではなかった。
 何からも自由でいたいのだ。それは、時間すらも、決して例外ではない。

 今日は、比較的、世の一般人と同じような時間帯に、目が覚めた。
 とりあえずカーテンを開け、朝の光を取り入れる。秋の初めとは思えないほどに、寒かった。
 暖房を入れた。急いで着替えようとは思わない。テレビをつけ、新聞に目を通し、珈琲でも飲みながら、時間を潰す。
 ふと窓の外を見ると、太陽がだいぶ高い位置に昇っている。通勤ラッシュに追われる忙しない人々の影も、無くなった。車の通りが、落ち着いてきた。つまりは、朝から昼に変わりつつある時間帯だということだ。
「そろそろ、客が来る時間ですね……」
 面倒くさいからと居留守を使ったら、あの素直な少年のことだ。どれほどがっかりするか、計り知れない。
 俊介は手早く着替えを済ませると、もう一人分の珈琲を落とし始めた。もらい物の菓子の詰め合わせの箱を、テーブルの上に置く。
 彼が来てくれるのは、正直にありがたい。森村一人だけでは、もらい物の菓子など、腐れるまで無くなりそうにないからだ。
 ふと、玄関のインターホンが、鳴った。

「シュンスケ〜。俺だよ、俺! 遊びに来たぞ!」

 声の主は、葛西朝幸(かさいともゆき)。俊介を師匠と仰ぐ、風のように元気な少年だ。基本的に執着心薄く、他人と積極的に関わろうとしない森村の、数少ない親友でもある。
 森村は、知人友人は多いが、家にまで上がりこめるほどの既知となると、この朝幸を含め、片手で数えるほどしかいなかった。
「シュンスケ〜! 早く開けてくれってば!」
 朝幸が催促する。森村が、オートロックの錠を外した。
「玄関は開いていますから、勝手に入ってきてください」
 森村の部屋は、オートロック式高層マンションの、二十五階。値段の高さに見合った、素晴らしい景色が一望できる。
 部屋に入ってからの朝幸の行動は、いつも、全く同じだった。ともかくベランダに一番に駆け寄る。冬だろうが雨だろうが雷が鳴っていようが、遠慮なくがらりと窓を開けるのだ。煙と何とかは高い所が好きというし……今更、朝幸のささやかな幸せを奪う気にもなれない。
 それにしても、寒いから、早く窓を閉めてくれと、森村は思う。思ったら、それを強制実行させるだけの様々な方法を、彼は知っていた。とりあえず、穏やかな微笑を浮かべつつ、危険な刃のカードを投げる。朝幸の鼻先数ミリの箇所に、カードが突き刺さった。
「閉めてくださいね。朝幸君」
「し、師匠〜。その爽やかな笑顔と、それに恐ろしく似合わない怖すぎる行動と、どちらかちゃんと統一して下さいよ〜」
 ずりずりと窓辺から離れると、仕方なく、今度は、部屋の中の物色を始める。葛西朝幸。君は、少しは、おとなしくしていられないのか。
「シュンスケ! シュンスケ! これ! この時計! 全然時間違っているぞ!?」
 飾りなどほとんど無い、寂しすぎるほどに簡素な森村の部屋で、妙に存在を主張しているのが、時計だ。棚の上に何個も置かれてある。その一つ一つが、全て、正確な時刻を示していない。針はばらばらの箇所を差して、無言のまま動き続けている。
 俊介が、苦笑しつつ、答えた。
「世界時計ですよ。ニューヨーク、ロンドン、モスクワ……。時間が違っているのは当然です」
「世界時計? これ、違う国の時間を差しているのか」
「そうです。日本時間を示しているのは、一つだけですよ」
 なぁんだと、朝幸が頭を掻く。森村が、世界時計の一つを手に取った。
「せっかく来たお客さんだ。一つだけ、面白いマジックを、教えてあげますよ」
「何?」
「この時計の針を、回して御覧なさい。窓の外を見ながらね」
 何の変哲もない、世界時計。時刻は夜の九時を示していた。どこの国の時間を差しているかは、わからない。プレートの上の文字が、擦れて消えていた。
「回せばいいのか?」
 朝幸の指が、針に触れる。
 急に、辺りが暗闇に包まれた。
「え? えぇ!?」
 窓の外を覆うのは、夜の闇。初秋の夜景が曇りのない硝子越しに、広がっている。思わず窓辺に駆け寄ろうとした朝幸を、師が引き止めた。
「時間を元に戻してください。そのままにしておくと、間もなく一日が終わってしまいます」
 どんな仕掛けがあるのか、正直、朝幸は、気になった。
 だが、マジックは、種を知らないからこそ面白い。物事に何でも解答を求めてはいけないのだ。知らないから、わからないから、だからこそ、興味は尽きず、好奇心は止まない。
「シュンスケ。今、何時?」
 弟子が訊く。師が答えた。
「ちょうど、昼の十二時です」
 朝幸が、時計の針を、さらに進める。闇が深まり、街灯の数が減った。重い沈黙がしばらく続いたその後に、東から徐々に光が満ちてきた。世が明けてくる。更に時計を進めた。十二時三分まで進めたとき、ぱちんと、何かが填まるような音がした。
「戻った?」
「戻りました」
 不思議なことに、時計の針は、それ以上進めようとしても、まるで動かない。今の時間から外れることを、時計自身が、まるで、拒んでいるかのようだった。
「昼食時ですね。何か食べますか」
 森村が服の袖を捲くりつつ、台所に立つ。一人暮らしが長いこの師匠、顔にまったく似合わないが、実は、料理が上手かったりもする。
「なぁ、シュンスケ。今の時間のマジック、俺にも出来るかな?」
「少し難しいかもしれませんね」
「やっぱり。じゃあ、もう少し、簡単な手品、教えて欲しいな」
「いいですよ。初歩的なものから、教えましょう」
「俺が、何か一つマスターできたら、シュンスケにちゃんとお礼するから」
「十六歳の子供から礼をせしめるほど、僕は、生活苦には陥っていませんよ」
「違うよ。シュンスケ。シュンスケのデートのときに、とびっきりの風を、送ってあげようって、思ったんだよ」
 嘘のような真のような、少年の言葉。からかいの雰囲気は無く、かと言って、本気に出来るほどの響きも無い。少年は窓の外を目を細めながら見やり、その心は、魔術師の力を持ってしても計り知れなかった。
 そう言えば、彼は風の化身だったなと、改めて思い出す。

 葛西朝幸は、風の友。風の兄。
 この世で最も形定まらないものたちを、従える者。

「そんな日が来れば、借りを返してもらえるのですがね」
 冷蔵庫の中身を漁り、適当な具財を入れて、手早く昼飯を作り上げる。さほど時間もかかっていないのに、ふと見ると、朝幸はソファで眠り込んでいた。
「不思議ですよ。君みたいな子が、どうして、この僕に懐くのか」
 風は誰も縛らない。風は何からも捕らわれない。
 むしろ自由に焦がれているのは自分の方なのに、風使いの少年は、臆する気配もなく、「シュンスケは大好きなお師匠様だから」と、何度でも笑いかけてくる。
「たまには昼寝も良いかもしれませんね」
 間違っても、少年が風邪などひかないよう、毛布をそっとかけてやる。
 穏やかな午後の晴れ間が、二人を、優しく見守っていた。





【風光る】

 森村俊介の日本初公演後、東京のごく一角で、異常気象が起こったことを知る者は、多くはない。
 まして、空のテナントが目立つ雑居ビルの屋上で、天を見上げていた少年がいたことを知る者は、皆無に等しかった。
「風よ。遠く、北の地より、冬の結晶を、今この場に」
 北海道の丈高い山の彼方から、風が、雪雲を連れて来る。師匠がどんなに驚くだろうかと、嬉しそうに眼下を眺めやった朝幸だったが、俊介が夏タイヤの車を乗り回していたことを思い出し、青ざめた。
「しまった。危ないかも……」
 積もるほどに降らせるのは危険かと、空を振り仰ぐ。自分が呼んだわけではない雪雲があるのに気付いたのは、その瞬間のことだった。
「雪だ……本当に……。東京に」

 師匠は、全てを見通していたのだろうか。
 彼は、車を置いてきていた。

 弟子がささやかな悪戯を考え付いたことも。本物の雪が降ることも。その雪が、積もるほどに量を増すことも。
 全てを、予め、知っていたのだろうか……。
 
「風よ、今は吹くな。雪は……静かに降るものだから」



 東京の、晩秋の白い幻想の、それは、秘められた物語……。