コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


そこまでして食いたいか


 雪が降っている。
 これは、少し積もりそうだ。
 降っているものは同じでも、雨よりは雪の方がいい。宇奈月慎一郎は、そう思う。雪の夜は静かだし、空気が湿気ることもなく、彼が愛する本に迷惑もかからない。
 彼は本棚に『いい盆の書』……もとい『エイボンの書』を戻した。膨大な蔵書は、ジャンル別に分けてある。彼にはそれを成すほどの時間(暇)があった。『エイボンの書』の隣には、『根暗な未婚』……もとい『ネクロノミコン』が在る。それも『アル・アジフ』と呼ばれるアラビア語の原書だった。専門家たちもまさか日本の古い屋敷に禁書が眠っていようとは、考えもしないだろう。
 ――すっかり癖になってしまいましたねえ……『いい盆の書』に、『根暗な未婚』。
 あるおでん屋を知るまでは、慎一郎にとってその本は『エイボンの書』であり、『ネクロノミコン』だった。おでん屋で知り合った、横文字が苦手な知人の影響だろう。今や『いい盆の書』と『根暗な未婚』だ。
 ――『ルルイエ異本』は? 『留守家慰問』かな? 『エルトダウン・シャーズ』なんて……どう覚えているだろう。『妖蛆の秘密』……あ、これはわかりやすく邦訳されていましたか。
 慎一郎は苦笑しながら、また窓に目を向けた。
 今夜の雪は大きい。まるいかたちに固まって降ってきている。
 丸いもの。
 おでんの中の大根、卵、薩摩揚げ。そう言えば屋敷の近くのコンビニのはんぺんは丸くてふわふわしていてなかなかの逸品だ。
 ……いや、宇奈月慎一郎というものは、常におでんのことばかり考えているわけではない。丸いものを見て満月や時には魔法陣を思い描くときもある。だが時折こうして――
「はう!」
 慎一郎は奇声のようなものを上げ、長い髪を振り乱し、コートを取ると、凄まじい勢いで玄関まで走った。知るものが見れば、「ああこいつもあの手の本を読みすぎてついに」と眉間を揉むところだろうが、これはしかし実際よくあることなのだ。宇奈月慎一郎は重度のおでん中毒だった。おでんが切れると禁断症状を起こす。危険だ。危ないのだ。危険が危ない。
 しかし玄関のドアノブに手をかけたところで、慎一郎ははたと足を止めた。
 ――そう言えば、今日は……。
 考えて、記憶を手繰り寄せ、慎一郎は力なく笑うと、その場に崩れ落ちた。

 あるおでん屋がある。
 その道では悪名高い、アパート『あやかし荘』の近くだ。『あやかし荘』からは近くても、慎一郎の家からは遠い。それでも足を運ぶ価値あると、慎一郎は思っていた。あの店のおでんは、慎一郎が求める味なのだ。
 だがそのおでん屋も、本日定休日。
「ふ……仕方ありませんね……」
 コートの前を掻き合わせると、慎一郎は寂しく微笑み、徒歩10分のところにあるコンビニで妥協することにした。
 がちゃり、とドアを開け、がちゃり、と玄関の中に戻った。
「……寒い。僕を殺す気だ」
 コートを以ってしても、骨の髄まで凍りつきそうなこの寒さ。雪も勢いを増している。これは明日、東京の電車という電車は止まり、道路ではスリップした乗用車による玉突き事故が起こり、ガソリンが爆発し、街は滅びるだろう。慎一郎は真面目な顔で至極真面目に危惧した。
 ――さて、どうしましょう……。天候を変える術は無きにしも有らず……でもまだプログラムが完璧じゃないから……失敗して日本海側並みの大雪にしてしまう恐れもありますね。
 彼はどうやら禁断症状によって一時的狂気に陥っているようだった。とにかくおでんが食べたいという気持ちは本物だったが、そこに至るまでの手段は常軌を逸していた。慎一郎は暖かい自室(とは言ってもこの屋敷全体が彼の自室のようなものだったが)に取って返し、現時点では世界最小のノートパソコンを開いた。小さすぎてタイプが大変だが、小さいことはいいことだ。小は大を兼ねる。
 慣れた調子で、mp3ファイルを突っ込んだフォルダを開く。
 彼のある方面には自慢出来る特技は、表計算ソフトで魔法陣を組めること、人間には正しく発音できないあちら方面の呪文を正確に打ちこんで、パソコンに代唱されることだ。
「ああ、彼らなら……10分の道も3秒ですね」
 ファイルの名前を辿っていって、やがて慎一郎は微笑んだ。
「ええと、石の笛石の笛……蜂蜜酒……は、宇宙を行くわけではないから要らない……ヒヤデスは……まあ多分いい位置ですよね。石の笛石の笛」
 世界最小のノートパソコンを手に、ぶつぶつと呟きながら屋敷を徘徊する慎一郎の姿は――恐らく多くの者にとって、戦慄と眩暈を誘うものであろう。
 慎一郎は両親の膨大な遺産の中から、目指すものを見つけだした。古い屋敷の中に、石の笛の寒々しい音が響き渡る。その音は屋敷の壁と屋根を貫き、雪を溶かし、雲を裂いた。地球を飛び出し、銀河の果ての何処かへと吸い込まれていく。
 名も知られぬ星の中心で、名状し難いものたちが目を覚ます。

 ――お呼びだ、何処だ、何処の誰だ。

  イア! イア! h^5|¥・!
  クフアYeク ブルuiトム
  ブグ5tl_ラグルン ブルg9tトム
  アイ! アイ! h^5|¥・!

 ――あすこだ、ほれ、ユゴスの近くの。
 ――ああ、あの二足の生物がわんさか居るところか。
 ――面倒くせえよ。
 ――またどうせろくでもない用事であろうな。
 ――でも呼んでるわけだから……。
 ――行かないとh^5|¥・様に大目玉だ。
 ――あのお方は大目玉を食らわすような程度の低い御心では……
 ――行ったほうがいいって。
 ――それに、あの星の生物にしちゃ発音がよく出来てたぜ。
 ――どうれ、わしが行くとしよう。
 ――ご苦労さん。
 ――すまねえな。


 宇奈月慎一郎は、一瞬だけ窓を開けた。身を切るような寒さと、雪と、風が吹きこんできた。そして、翼を持ったやかましいものが飛びこんできた。
「どうも、遠いところをわざわざ。それでですね、今回の用件なのですが……」
 慎一郎は、蜂とも蝙蝠とも腐った人間ともつかぬ生物に、メモ書きを見せた。
「あ」
 見せてから、息を呑んだ。
「……そうですよね、言葉が違いますから、『はんぺんひとつ』というのも通じないわけで……」

 結局、星間を飛ぶものの足に捕まって、雪の中を飛ぶはめになる男がひとり。その意気だけを見れば、まったく、漢と言ってもいいか。
 コンビニまでは3秒だったが、慎一郎の身体は本当に冷えた。空は想像を絶する寒さだった。
 これは、おでんと熱燗で温まらなければならない。
 しかし飛んでいる間も待っている間も、ずっとその生物は文句を言っていた。どこの国の言葉でもないが、文句を言っていることは確かだった。肝心の慎一郎には伝わっていないのが問題だ。
「食べます?」
 ああお礼を忘れていたと、慎一郎が湯気立つちくわを差し出す。その存在は怒りも露わに何かを叫んで、やまない雪の寒空の中に消えていった。
「美味しいんですけどね……いや、あのお店のおでんとは比べるのもおこがましいんですけど……『お礼なんて要らない』とは、いい方々です」
 ぱくり、と慎一郎はちくわをくわえた。
 ほう、と溜息をつき、にこにこと上機嫌で、彼はちくわを咀嚼した。
 今頃あの生物は、自分の寝床に帰っている頃か。
 そしてぶつくさ文句を言っていることを、慎一郎は知らないし、そんなことは考えてもいないのである。

 そうだ、あのおでん屋に行こう。明日。
 きっと道は大変なことになっているだろうから、また彼らを喚んで。




<了>