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<東京怪談ノベル(シングル)>


クロガネ邸の戰い


 ――何がクリスマスか。何が冬休みか。私はこのままでは正月も返上だ。このままでいいのか。いいのかバルコフ。おまえは莫迦だな、バルコフ・クロガネ。
 男は久し振りに見る(ともすれば懐かしいとすら感じる)自宅を前にして、溜息をついた。確か、自分が日本を出た頃は、こうして夜に溜息をついても息が白くならなかったような気がする。しかしながらそれほど長く日本の外で仕事をしていたというのに、まだその件は片付いていないのだった。このままでは、彼が今危惧している通り、クリスマスも大晦日も正月も返上だ。
 何とか半日前に一区切りついて、せめて子供たちの顔でも見て、自宅のベッドで休もうかと日本に戻ってきたのだが――疲れのせいか単にボケてしまったのか、時差というものを忘れてしまっていた。バルコフが屋敷に着いたのは、もう深夜0時をまわった頃だった。
「……ふっ」
 思わず知らず、ニヒルな笑いが漏れる。おそらくいま、自分は自分を愚弄したのだ。
 ――莫迦めが、バルコフ。
 バルコフは扉を開けて、自宅に入った。明かりは落ちていたが、中は暖かかった。住みこみの使用人がばたばたと寝巻き姿のまま出迎えたが、バルコフはしいっと唇に人差し指を当てて、部屋に戻るように命じた。
「あの子たちは、もう眠っているのだろう?」
「え、ええ……お二人とも、明日はお早いですからね」
「それなら、静かにしてやろう」
 ふうっ、と今は優しく微笑んで、バルコフはひとり、暗い階段を上り始めた。


 息子は明日も朝練が入っているらしい。そして、小学校というものは朝が早い。娘も、早く出なければならない。バルコフはふたりの部屋の前に行くまで、忍びこんで寝顔だけでも見るべきか、さんざんに迷った。迷う時間がある程、クロガネ邸は広いのだ。そして、バルコフには大英博物館にも侵入出来得るスキルがある。子供たちを起こさずに、寝顔を見て微笑むことは朝飯前だった。
 ――ん?
 しかしバルコフは考えるのをやめた。端正な顔立ちを、かすかに曇らせた。
 娘の部屋のドアが開いているのだ。冬は暖房の問題があるから、すべての部屋のドアは閉め切っているはずなのだ。
 かたり、
 ざっ、とバルコフは振り向いた。
 音と、開いた扉。
 バルコフは瞬時にしてその歪みを結びつけ、音もなく走った。物音は、もう何年も入っていないような気がする、自室から聞こえてきたのだ。


 バルコフ・クロガネの自室、今は暗闇の中で、ごそごそごくごくと音がする。
 バルコフは物も言わずに部屋に入ると、明かりのスイッチを叩いた。シャンデリアが輝いた。
「!」
『!』
 ばほっ、とバルコフのデスクの上に飛び乗ったのは――熊だ。
 黒い熊のぬいぐるみだ。つぶらな瞳は片方しかなく、ついでに熊はげふっと大きくゲップをした。ぷはあと吐いた息はアルコール臭かった。
『曲者!』
「それは私の台詞だ――あッ!!」
 使用人に「静かに」と諭したのはほんの10分前だったが、そのときばかりはバルコフの自制心が吹っ飛んだ。動いて喋るぬいぐるみが持っているのは、10年間あたためておいたブランデーだった。いつか(それが具体的にいつになるかはバルコフも見当をつけていなかった)呑もうと大事に大切にとっておいた逸品だ。
「貴様ぁあ、返せーッ!」
 ぼク!
『げほぅあ!』
 一瞬で間合いを詰めたバルコフの掌底が、見事に熊のぬいぐるみの鳩尾に決まった。隻眼の黒熊は上質のブランデーを吐きながら吹っ飛んだ。本棚に激突してぼへんと跳ね返り、飛んでいった勢いそのままで床に激突した。
『おのれ、叩っ斬ってくれる! 曲者めが!』
「この屋敷は私のものだぞ! おまえに見覚えはない。成敗する権利はこちらにある!」
『俺は5日前からこの屋敷の民だ、たわけめ!』
 黒い熊はゴムボールの勢いで跳んだ。バルコフはまともに弾丸タックルを受け、派手に吹っ飛んだ。一瞬宇宙が見えた。ああ懐かしい。
 そして、仕事と移動の疲れ、午前0時の帰宅、見られなかった子供たちの笑顔、言えなかった「ただいま」、聞こえなかった「おかえり」、秘蔵の酒に唐突に訪れた「いつか呑む日」――それらが積もり積もって、バルコフ・クロガネのひとつの感情を解き放った。
「……死に急ぐか、黒熊!」
『ほざくか!』
 どっかん。


 庭の雪ん子は見ました。
 お屋敷の2階のお部屋がひとつだけ、明るくなっていて――中で、黒服のおじさまと黒毛のくまさんが激しくどつき合っていました。
 雪ん子は、こっそり笑いました。
 「ケンカするほど仲がいい」という言葉を、おかあさんの雪女から聞いていたからです。


 手刀が黒熊の右頬に叩きこまれた。黒熊のほわほわした身体が吹っ飛ぶこともよしとせず、バルコフの長い脚が追い討ちをかける。床に叩きつけられて一瞬へこんだ熊ではあったが、中身は綿だ。ふんぬ、と気合。跳んでバルコフの顎に頭突き。人体の急所をつかれても、バルコフ・クロガネは斃れない。ぐぬう、と床を踏みしめて、正拳突きをお見舞いした。ばいんと吹っ飛んだ黒熊は、部屋の片隅のクリスマスツリーに突っ込んだ。
 ――んっ?!
 クリスマスツリー?
『隙あり!!』
 一瞬集中が解けたバルコフの鳩尾に、黒熊が投げたサンタの置物がクリーンヒットした。
 バルコフの呼吸は刹那止まった。それほどの勢いでサンタが飛んできたのだ。たまらず彼は胃のあたりを押さえてうずくまった。幸い腹の中には何も入っていなかったので、無様にリバースする事態には至らなかった。
 黒熊はそれを見て、してやったりと笑みを見せたのだが――がくりと力を失い、もみの木の枝の中にくずおれた。
「……うう」
 呻きながら、バルコフは投げつけられたものを拾い上げた。陶器製のサンタは無事だった。たくさんの玩具を抱えた、優しげな表情の白髭の老人だ……。

「……」

 ようやくバルコフは我に返り、ぐるりと自室を見回した。
 いつも殺風景だったはずの自室は、クリスマスの装いだった。ツリーがふたつも置かれていて、スイッチこそ入っていないものの、丁寧に電飾まで巻きつけられている。壁には、柊やリース、金銀のテープがかかっていた。
『あの娘と小僧が飾りつけたのだ』
 短い失神から覚めて、黒熊がツリーの中で呻いた。
『父親の帰りを待っていたぞ』
「……」
『……俺はどうかしていた。俺はああいう子供に抱きつかれて、一緒に寝床に入ってやったりするのが務めだというのに……あの部屋の桃色っぷりやら橙っぷりに嫌気がさしてしまった。部屋を抜け出したところで旨い酒を見つけた。俺が間違っていたのだな』
「いや、きっと、それも悪いことではないかもしれない」
 バルコフは鳩尾をさすりながら苦笑した。
「私も仕事に嫌気がさしていたところだ。苛々して、周りも見えていなかったな……お蔭で気づいた。私がどれだけ長い間傍に居なくとも、子供たちは私を忘れたりはしない」
 バルコフは、床に転がったブランデーの瓶を拾い上げた。振ると、舌なめずりを誘う香りと音がする。
「まだ残っているな」
『旨い酒だ』
「……呑むか」
 黒服の主は胡座をかくと、ツリーの中の黒熊に瓶の口を向けた。


 翌朝、「今晩は寒いから」と、居間に置いてある黒熊と茶熊を部屋に入れた姑娘は、パジャマのままで探しものをしていた。黒熊が、部屋から消えていたのだ。茶熊も、兄も探すのを手伝った。
 黒熊は見つかった。さほど時間はかからなかった。いつもはテンションが高く、声も大きい茶熊だったが、兄妹を手招きしたときは無言だった。
 声を立てずに、そうっとひとつのドアの向こうを覗いたふたりと茶熊が見て、微笑みあったのは――クリスマスツリーの下で寄り添って眠っている、黒服の男と黒熊だった。
 漢の手から、空になった酒瓶が転がり落ちた。
 目を覚まし、目が合った。




<了>