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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


<エスメラルダ>


 友人たちは楽しそうにしていた。その夜は不思議と、自分でも疑問に思えるほどに、羽澄は卑屈なきもちになってしまっていた。こんな夜なのに――こんな、クリスマス・イヴだというのに。
 ――このひとたちは、本当に心の底から楽しんでいるのかしら?
 いや、考えるまでもない。いつもなら考えることもないからだ。彼らは中堅クラスのシャンパンを飲んでいい気分になっているし、企画・実施したクリスマスイベントも大成功に終わった。心の底から打ち上げを楽しんでいるに違いない。
 だが、光月羽澄は……。
 彼女はちらちらと腕時計を気にしては、シャンメリー(さすがに大っぴらに飲酒をするわけにはいかなかった)を口に運び、切り分けられたターキーを口に運んだ。話を振られたら勿論笑顔で応じたし、メンバーと一緒に笑いもした。彼女自身、楽しくないわけではなかったのだ。
 しかし実際のところ、友人たちの手で今宵催されたクリスマスイベントの詳細を、羽澄はよく覚えていないのだ。Lirvaとして関わったことは間違いない。イベントの会場に、Lirvaの新曲が流れた。そのくらいだ。
 また、腕時計を見てしまった。午後9時半だ。
 高校生が出歩く時間じゃない、と渋い顔をする父親も、随分遅かったのね、と心配する母親も――彼女は3年前に失ってしまっている。羽澄が現在世話になっている男は羽澄に甘く、午前0時以降の彼女の帰宅を咎める者は誰も居ないはずだった。
 それでも、羽澄はこっそりと、賑わう打ち上げ会場を抜け出した。「明日も学校あるから」とでも、隣の席の友人に告げるべきだとは思った。宴の途中で帰るには妥当で、尤もな口実だ。だが彼女は結局のところ、何も言わずに会場をあとにしたのだった。


 イヴの東京は、普段とあまり代わり映えしていないように――羽澄には見えた。
 歌舞伎町の通りはいつもの『夜』だ。サンタのコスプレをした女性たちがうろついているが、それとて12月の頭からよく見かけたもの。さすがにこの時間帯になると、住宅地の辺りの人通りは少なくなっているだろうが――凍りついた夜空に、電飾に、赤と緑の装飾に――今夜は毎年目にする、12月のひとつの夜に過ぎないように思えた。
 ――そんなものよ。ここは日本だもの。
 いろいろな事件が起きるのは、映画の中くらいのものなのだ。
 ――でも、私はどうして寂しいの?
 羽澄にとっても、今夜は何の変哲もない、365日のうちの一夜であるはずなのに――羽澄の足取りは重かった。冷気が骨身に沁みるような厳しい寒さを感じて、羽澄はコートの襟をしっかりと押さえつけながら、調達屋『胡弓堂』への道を急ぐ。いっそ映画の中のような最悪のクリスマスの事件でも起きたらいいと、羽澄は思った。きっとそれなら、寒さと、意味不明の寂しさを忘れることが出来るだろうから。

『おい、クリスマス、予定入ってるか?』
『あっ……ごめん、イベントがあるの。多分あの人たちのことだから打ち上げも盛大にやるだろうし……夜中まで忙しそう』
『何だと!』
『なに、その言い方。……今日何日だと思ってるの?』
『……12月20日』
『普通先約入ってるでしょ、この時期じゃ。1ヶ月前には予約を入れなくちゃ』
『あぁ、悪かったよ。じゃア、来年だな。来年は、1ヶ月前に予定を聞くさ』

 ――本当に、1ヶ月前に予約を入れてくれてたら……打ち上げにも出なかったし、何かプレゼント用意してたし、お店の予約だって……伊織のバカ。
 そうして、自分が寂しいのは、これから住居兼店舗に戻って眠るだけだからだと気づくのだ。こっそり、熱く、彼女が想っている若い針師はたった独り、今頃くさって眠っている。
 『胡弓堂』の古びた佇まいが視界に入った。羽澄は、建物の古さのわりには新しいタイプの鍵を取り出して、白い息を吐きながら、勝手口の鍵穴にさし込んだ。
「羽澄! おウ、やっぱり羽澄だ」
 その声に、羽澄はまず驚いた。歓喜が沸き起こるはずもない。歌舞伎町の裏路地の暗がりと静寂の中で、若い男の声は大きかった。
 白い息を切らせながら走り寄って来る若い男は、葛城伊織であった。先程、羽澄が心中でバカ呼ばわりした和装の男だ。
「……寒くないの、そんな格好で」
「これはなア、丹前っつって、冬用の――」
 ひう、と冬の風が吹く。
「ひょぅう!!」
「バカね」
 飛び上がりそうな勢いで肩をすくめた伊織を、今度ははっきり「バカ」と口に出して、羽澄は笑った。
「寒ィな、今夜は寒ィ。危うく心まで凍えちまうとこだった」
「え?」
「言わせる気か? 無粋だぞ」
「言ってることがよく……」
「オイ、カラオケじゃリルバだかリンバだかの甘い恋の歌ばっかり歌ってるくせに、わかってくれないのか? クリスマスにひとりで熱燗呑んでる野郎の気持ちとか、独りでクリスマス特番見る野郎の気持ちとか、もう寝てンだろうなアとか思いながらも丹前着て女の家まで走る野郎の気持ちとか」
「ああ」
 伊織の切々たる遠回しな訴えを聞いて、羽澄は思わず頬を赤らめ、照れ笑いにも似た苦笑を浮かべて、うつむいた。
「ごめん」
「疲れてるだろ。俺は用が済んだら帰るさ」
「用?」
「今済ませる」
 伊織はごそごそと懐を探り、ビロード張りの小さなジュエリーケースを差し出した。驚き、想わず、羽澄はかぶりを振って一歩退いた。
「そんな……悪いわ。私、伊織に何にも……」
「どこまで粋じゃねンだ。黙って受け取れよ。今夜は特別なんだろ。俺は日本人だから、どうってことない夜のはずなんだけどな」
 伊織は、がっしと羽澄の手を取って、ビロードの宝石箱を強引に握らせた。懐にずっと入れていたおかげで、ケースはぬくぬくと温まっていた。
 しかし、そうとも――こんな冷え込みの中でも和装で、飲物はいつでも煎茶で、酒はいつでも焼酎か米酒の男にとっては――12月24日など、何でもない夜であるはずなのだ。
 他でもない羽澄が、伊織の12月24日を、特別な日に変えたのだ――
「あ、ありがと……メリークリスマス、伊織」
「ああ、メリークリスマス。じゃアな」
 くるりと踵を返す伊織の後ろ襟を、羽澄はすかさず捕まえた。伊織は奇妙な声を上げてたたらを踏んだ。
「オイ、何する?!」
「無粋はどっち? 手、冷たかったわ。唇も震えてるし」
 待っててくれたのね?
「シャンパンとケーキと残りものくらいならあると思うから、少し中で温まっていったら?」
 伊織は首だけ振り返り(筋を痛めそうなほど無理な体勢になっていた)、口をうっすらと開いたが――何も言わなかった。
「あぁ」
 ただ、そう呻き声じみたものを上げた。
 羽澄は伊織の襟から手を離すと、黒いビロード張りのジュエリーケースを開けた。
「……きれい」

 一筋の傷もない、細い銀の輪。
 緑の石。
 ガラスとメッキではとても導き出せない素晴らしい光。
 それは彼女の髪と瞳。
 小指にぴったりと合うサイズ。
 内側の刻印、925。

「すてき。……あ、値段を聞くのは無粋なのよね」
「まー、給料3ヶ月分か?」
「そんなに?」
「冗談だよ。でも一応エメラルドらしいぞ」
 羽澄は冷えた指でそっとリングを取ると、左の小指に嵌めた。伊織に指のサイズを教えた覚えはなかったが、手を握った覚えはあるし、「手相を見てやろうか」と手をじっくり見られたこともある。葛城伊織という男なら、それだけの情報で指輪のサイズの見当をつけることが出来るのかもしれない。
 ――でも、本当に無粋はどっちだろ。薬指の方が……ね。
「薬指はここぞというときのために取っておけよ」
「え?」
 心中を見透かされたかのようなタイミングの言葉に、羽澄は思わずぎくりとして、顔を上げた。羽澄の小さなわがままなど意にも介していないか、或いは気づいていないか、伊織は笑っていた。
「左の薬指ってのは、本番用だ。最近の若者みたいに気安く銀の指輪なんて嵌めるべきもんじゃアないだろ。やっぱり左の薬指には白金か金で、ダイヤ入りで、銀座で買ったものじゃないとな」
「……伊織、いくつ?」
「おオ、22だ」
「最近の若者が言う台詞じゃないわ」

「でも、ありがとう」

 その指輪には装飾が一切なかった。伊織らしい選択と言えた。それでも、エメラルドの輝きは本物で、それだけで充分な彩りがあった。白金ではないから、いくら気をつけていても、この指輪には傷がつく。金ではないから、ついた傷もきっと目立つだろう。だが、傷がついてこその銀。そして、傷つく銀は、薬指に嵌めるべきではない。
 嵌めていない指の指輪が、傷つくことは決してない。

 羽澄は伊織の腕を取った。
 息は白いし、伊織と羽澄の手はすっかり冷えている、こんな冬の夜。腕を取って歩くのも、店に入るまでの数歩の間。
 羽澄の小指で光るエメラルドに目を落として、伊織が言った。
「エメラルドってのは、つけてると運が良くなるらしいぞ」
「そういうの、信じるタチだっけ?」
「ばっ、つけてるのは俺じゃないだろ。お前が信じるかどうかが肝心だろうが」
「ああ、そうね。じゃ、信じることにするわ」
 イヴはあと1時間30分で終わる。それでも、残り物とケーキを食べて、高校生の羽澄がこっそりシャンパンを飲むには充分だ。
「来年は、1ヶ月前に予約を入れるさ」
「その台詞、録音しておく?」
「粋じゃない真似はよせって」

 古い店の中の一室に、灯がともった。
 灯は、長いこと消えない様子を見せていた。
 この夜は、そういった灯が世界の中にいくつもあった。
 この夜も、あったのだ。




<了>