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温泉旅行
【秘湯の地へ】
探偵・草間武彦は、最近、スノーボードに凝っている。
実は、本格的にハマり出したのは、今年に入ってからのことだ。にも拘らず、その辺の高校生など及びも付かないほどに、既に、凄まじいまでの上達ぶりを見せていた。
もともと運動神経は抜群に良い男であるから、体の覚えも早いのだろう。装備品一式が、全て友人たちのお古というのが、なんとも言えず彼らしいが、見た目の凡庸さは滑りの見事さで補って、ゲレンデでは、それこそ水を得た魚のように楽しんでいるのだった。
「シュラインさん。温泉、ここが良いんじゃないですか?」
零がシュラインの前に差し出したパンフレットには、温泉とスキーの激安パック旅行が載っている。兄の武彦のために、あちこちの旅行代理店を梯子して、やっと見つけてきたものだ。
妹の鏡よね、と、シュラインは、ただひたすら感心するしかない。
武彦と零は、本当に、仲の良い兄妹だった。二人に血の繋がりがまったく無いこと、それどころか零が人間でないことなど、今では忘却の彼方にまでも押しやって、思い出すことも稀になってしまっている。
「近くにスキー場があるのね。それにしても、よくこんなの見つけてきたわねぇ」
「スキーの方はオプションですから、付けないことも出来るそうです。義兄さんにはスノーボードを楽しんでもらって、私たちは温泉で綺麗になりましょう!」
今やすっかり零のほうが温泉旅行に乗り気である。
この時期、上手く予約が取れるかしらと一抹の不安を覚えつつも、早速、シュラインは、零を連れて代理店へと急いだのだった。
旅先の温泉と、スキー場は、どちらも、あまり聞いたことがない場所だった。
いわゆる秘湯の地なのだろう。スキー場のほうは、ここ数年の間にオープンしたばかりで、恐ろしいほど知名度が低い。
大人数が泊まれるホテルなどはなく、そこには小さな旅館が窮屈そうにひしめくばかりだった。狭い道路を一本挟んで、古い瓦屋根の建物が軒を連ねる、宿場町。近くに源泉の滝と川があり、驚くほどに湯量は豊富だ。
草間は、温泉もそこそこに、スノーボードを担いで雪山へと出かけて行く。今回は、足しげく興信所に通う者も家族同然に同伴していたため、けっこうな大所帯になっていた。男たちはウィンタースポーツを楽しみ、女たちは温泉で肌を磨くような構図だ。
「武彦さん、せっかく来たのに、温泉ほとんど入らないで終わりそうな勢いね」
「代わりに、私たちが、たくさん入りましょう」
旅館は、古いことは古いが、手入れと掃除は行き届いて、思いのほか快適だった。肝心の温泉は、地域全てをあわせると、なんと露天風呂だけで二十五個もある。
地脈が三種類あり、それぞれに効能の違う湯があるので、素直に楽しめた。とりあえず美肌の湯に漬かっていると、サービスですからと、お盆の上に梅酒が用意されて流れてきた。
「はぁ〜。極楽極楽」
このどこかおばさんくさい台詞を吐いたのは、草間零である。人間らしくなってきたのは良いものの、どこかに実年齢の顔が覗くらしく、時々、少女らしからぬ言動をしてくれる。
「シュラインさん〜。私、とっても幸せです〜」
「はいはい。ふやけちゃう前に、とりあえずあがるわよ。零ちゃん」
「え〜。次はこっちのお湯を……」
「それは次のお楽しみ! 本当に顔が赤くなっているじゃないの。ああ! それ以上梅酒飲んじゃ駄目よ!」
「梅酒、美味しいです〜」
どうやら、温泉で腑抜けているばかりではなく、かなり酒も入っているらしい。熱い分、アルコールの巡りも良いのだろう。
「梅酒もっと〜」
ぽややんと幸せそうな零を引きずって、大急ぎで風呂場から脱出する。
火照る体を冷ましつつ歩いていると、今では懐かしい卓球台を、見つけた。
「これ、何ですか?」
零が首をかしげる。彼女の知識は、かなり穴がある。戦中のせかせかした世代に生まれた零にとって、確かに、卓球は馴染みの薄いものだろう。ラケットと球を借りてくると、シュラインが、早速手解きを始めた。
「持ち方は……そうそう。ルールの方は、説明するよりも、やっているのを見たほうが早いわね。誰か引っ張ってきて……」
上手い具合に、草間が戻ってきた。全身が雪まみれだった。腰の辺りを押さえているところを見ると、派手にすっ転んだらしい。痛い、とぼやいてはいたものの、卓球台を見ると、この男、途端に元気になった。
「お。懐かしいものがあるな。シュライン、やるか?」
「出来るの? 武彦さん」
「何か引っかかる言い方だな。こう見えても、大抵のスポーツは、人より出来ると自負している!」
「お手柔らかに頼むわよ。私は、素人なんだから」
「勝負の世界は厳しいからな。こればかりは何とも」
「本っ気で嬉しそうね。武彦さん。ボロボロに打ち負かしてやるって、顔にはっきりキッパリ書いてあるわよ?」
「な、なんでわかった?」
草間が、目に見えて動揺する。シュラインは、大げさに一つ溜息を吐いて見せると、付き合い長すぎるんだもの当然よ、と、心の中で呟いた。
「変なところで子供なのよねぇ……。武彦さんって」
草間武彦は、大人気なかった。
素人同然のシュライン相手に、かなり容赦なく打ってくる。温泉卓球なんて、のんびりと打ち合いを楽しむためのものであるはずなのに、完全に本気だ。興信所に戻ったら覚えていなさいよと恨めしく考えたシュラインに、その時、しばらく観戦者と化していた零が、声をかけた。
「任せてください。シュラインさん! やり方は覚えました。義兄さん、勝負です!」
びしっ!と草間に指を突きつける。のんびり温泉旅行が、何か違う方向に流れ始めたのを感じないでもないシュラインだったが、もはや、誰にも止めようがなかった。
「れ、零ちゃん、ほどほどに……」
「シュラインさん! 私が仇を取ってあげますからね!」
いや。誰もそんなことは言っていない。
虚しいシュラインの突っ込みなど無視して、義理の兄妹対決が始まった。
結果。
零の圧勝。
昨今人気の少女卓球プレーヤーもかくやという、素晴らしい活躍を見せて、零が、次々と挑戦者たちを打ち負かしていく。
同行者、同じ旅館の泊り客、果ては地元の暇人までもを巻き込んで、一大卓球大会が、いつの間にか催されていた。
旅館の主は、気をきかせて、黒板と模造紙を用意してくれた。それにわざわざトーナメント表を作り、参加者の名前を書き込んでは、敗者を赤いバツ印で消して行く。
草間零が、なんと十五連戦を飾っていた。肩ではぁはぁと息をしつつも、汗まみれになって、なおも果敢に戦い続ける。
「零ちゃん……。せっかく温泉でサッパリしてきたのに……」
「零に卓球の才能があるとは、知らなかったな……」
保護者二人が、しみじみと、可愛い妹の活躍を遠巻きに眺めやる。とりあえず風呂の用意でもしておこうと、シュラインが、その場を離れた。草間が何食わぬ顔で付いてくる。
「武彦さんも、温泉入るの?」
「ああ。スノボーの直後に、卓球に付き合わされて、汗だくだ。とりあえず風呂に入ってサッパリしたいな」
「本当は、ぶつけた腰が痛いんでしょう」
「…………どうしてそう勘が鋭いんだ……」
「やだ。あたり? 大丈夫? 武彦さん」
「心配そうな口を利いても、顔が笑ってるぞ。少しは引き締めろよ」
「失礼ね。武彦さんよりは締りのある顔しているわよ」
「どういう意味だ」
「そういう意味よ」
まだ戦い足りない様子の零を、半ば強引にさらって、シュラインは再度温泉に舞い戻った。今度は、草間が、竹垣の壁一つを挟んで向こうの露天風呂にいる。
女風呂には梅酒が用意されているが、男風呂のほうは、熱燗らしい。シュラインがこっちに送ってと叫ぶと、竹垣のわずかな隙間から、早速、熱燗の盆が流れてきた。
「ねぇ、武彦さん。明日もスノボー三昧?」
もちろんだと、自信満々な答えが返ってくるのを覚悟した上で、シュラインが聞いてみる。少しの沈黙の後、草間が、いいや、と、意外なことを言った。
「明日は、氷爆祭りでも見に行くか」
「氷爆祭り?」
「地元の人間に聞いたんだ。雪祭りの氷バージョンみたいなもんらしいぞ。花火も上がるし、屋台もあるし、結構賑やからしい。スノボーはまた今度にして、そっちに行ってみるさ」
「もしかして、零ちゃんのため?」
「……思い出作り、なんだろ? 零の」
「前に言ったこと、覚えていたの」
「覚えているさ。俺の記憶力も満更でもないだろ」
ぱしゃぱしゃと、遠くで水を叩く音がした。広い露天風呂の遥か向こうにいた零が、泳ぎながら戻ってきたのだ。あるいは会話の一部が聞こえたのかもしれない。竹垣に取り付くようにして、義兄に話しかけた。
「義兄さん。どこかに行くのですか?」
露天風呂の湯気と、竹垣越しに、草間がわずかに苦笑する気配が、伝わってくる。妹を驚かせるには効果的な台詞を、兄は、あれこれと、一瞬の間に考えた。
結局、上手い言葉が見つからなかったのか、それとも、楽しいことはぎりぎりまで秘密にしておきたいと思ったのか、相も変わらず笑いを含んで、やがて、答えた。
「それは、明日のお楽しみだな」
【思い出は確かに】
二泊三日の温泉旅行は、あっという間に終わりを迎えた。
スノボーをしたり、氷の祭りを見に行ったり、と、予想外の散財が続いて、興信所の臨時収入は、霞のように掻き消えた。
電話も、インターホンも、相変わらず古いままである。黒電話に呆れて逃げ出す客もいれば、ブザーに恐れをなして近寄らない押し売りもいる。
代わり映えしない興信所で、こんなもんよねと苦笑しつつ、シュラインが、せっせとボランティアの仕事をこなす。その隣で、零が、兄さんの煙草のせいでカーテンのヤニが取れないと、聞き慣れた愚痴をこぼしていた。
貧乏探偵事務所の、いつもながらの、光景。
「違うことと言えば」
草間事務所の棚の上に、大切そうに置かれた、二つの卓球ラケットと、ピンポン球。
零が、温泉旅館で買ってきたものだ。彼女が欲しがったお土産が、それだった。可愛い草木染のハンカチよりも、木彫りのキーホルダーよりも、手製の布バッグよりも、妹は、この卓球セットが欲しかったのだという。
「シュラインさん! 卓球しましょう! 卓球!」
時々、暇な時間を見ては、零とシュラインが、近くの区会館へと出かけて行く。もちろん、二人で卓球を遊ぶためだ。
抜群に上手い零にコーチされて、シュラインもかなり上達した。今、リベンジを図ったら、きっと草間にも勝てるだろう。所長を事務員が打倒するのは、そう遠くない日のことかもしれない。
「零ちゃん。温泉は楽しかった?」
「はい! とっても!」
また行こうねと、約束をする。
思い出は、幾らあっても、困ることは無い。
生きている限り、それは、終わりなく、間断なく、雪のように、降り積もるものだから……。
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