コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


こだわりの酒



 乾いた風が路地を吹きぬけていく。コートを着てマフラーを巻いても、寒い時期である。
 ここは、寒さに凍えたサラリーマンたちの癒しの場、『蛸忠』。おでんの屋台だけあって、ここのおでんは美味しいという評判が評判を呼び、日々それなりに繁盛していた。
 ところで。
 『蛸忠』の店主、本郷源の屋台へのこだわりは、並々ならぬものがある。しかも、そのこだわりや情熱は、少々世間とずれているのである。
 おでんの具にしようと野菜を育ててみたこともあれば、ウミチョウザメの存在を信じて海へ挑んだこともあった。
 源にしてみれば目頭を熱くさせる思い出だが、傍からすれば笑い話。
 だが、源は決して『蛸忠』へのこだわりを捨てた訳ではなかった。どうすれば屋台がより良い店になるかを、毎日考えているのだ。
 そして今日も。

 ここはあやかし荘の部屋の一つ。薔薇の間。
 コタツにみかんをおいてくつろぎながらも、わしは大切なことを考えておった。どれくらい大切かというと、あやかし荘の面積くらい大切なことじゃ。
 目の前には嬉璃殿が渋茶をすすっておる。その表情は退屈そのもの、心の中では三十分後に始まる通販番組のことで一杯なのじゃろう。まったく、わしが真面目なことを考えておるというのに。
(よぅし)
 物事は始めが肝心じゃからの。嬉璃殿にパシッとがちっと言うのじゃ!
「嬉璃殿、わしと一緒に酒をつくるのじゃ!」
 案の定、嬉璃殿は驚いた表情を浮かべおった。ここに第三者がおったなら、わしと嬉璃殿の表情を見比べずにはおれんじゃろう。
「おんし、何を急に……」
「急ではないのじゃ。実はずっと前から酒造りのことは考えておったのじゃ」
 それは本当じゃ。わしはもう大分前から酒造りを計画し、許可を得、あやかし荘の部屋に道具を揃えておったのじゃ。
「確かに、今は酒造りの季節ぢゃしのう。――して、酒にも色々あるが、何を造るのぢゃ?」
 訊ねながらも嬉璃殿の目が物語っている。やはり比較的簡単な濁酒ぢゃろう――嬉璃殿はそう思っておるのじゃ。
(ふっふっふっ)
 甘いの、嬉璃殿。濁酒など、フフフのフじゃ。
(わしをその辺の素人と一緒にしては困るのじゃ)
 わしは余裕の笑みを浮かべつつ、声に凄みをつけて。
「純米吟醸酒を造るのじゃ!」
「じゅ、じゅん・まい・ぎん・じょう……!!」
 座っているにもかかわらず、嬉璃殿はまるでB級サスペンスドラマの序盤に出てくる第一発見者のように上半身を後ろへ引き、よろめいた。
「おんし、大きく出たのう」
「ビッグじゃろう?」
「うーむ、ビッグぢゃ」
 嬉璃殿は唸るように頷き、目は爛々と輝き始めた。それでこそ嬉璃殿じゃ。
「楽しそうぢゃのう」
「楽しいに決まっておるのじゃ!」
「うーむ、やりたいのう」
「じゃろう?」
 決定じゃ。もっとも、嬉璃殿が興味を示すのは最初から予定していたことじゃったがの。
「さっそく、部屋を変えるのじゃ!」
 いそいそと移動するわしと嬉璃殿。楽しくなってきたのう。ワクワクじゃ。

 ある部屋の一室。
 嬉璃殿は入るなり「暑っ」と言って顔をしかめた。
「何ぢゃこの暑さは」
「ここは麹室なのじゃ」
 麹室というのは、無論麹造りを行うための場所である。では、この麹造りとは何なのか。
「それは酒造りにおいて、最も重要な作業じゃ!」
 麹は米のデンプンを糖化した上に、たんぱく質や脂肪分などを分解してくれるという酒造りに欠かせないものなのだ。
「酒は一に麹、二に酒母、三に仕込み、これは順序の話だけではないのじゃ! これからわしらは一番重要な作業を行うのじゃ!!」
 わしはそう言うなり、蓋を掴んだ。この蓋はわしの手の十五倍はある大きさで、大変に重かったが、これを持ち上げられないとわしの面目はまる潰れなのじゃから、顔を真っ赤にして持ち上げた。ここにもわしの情熱が隠れているのじゃ。
 湯気が雲のように出て、その中には蒸した米が入っている。
「おお!」
 嬉璃殿が歓声をあげた。良い反応じゃ。
「これは玄米を精米し、洗米して浸漬した上に蒸したものじゃ」
 わしは力いっぱい大きなしゃもじを動かし、米を台に移した。米は外側が硬く内側が柔らかい外硬内軟の状態。非常に良い出来じゃ。
「これに麹菌をふりかけるのじゃ」
 ざっざと軽快なリズムで麹菌を米にかける。これを置いておくと、麹菌が米の中に繁殖していき、米麹が出来るのだ。
 嬉璃殿は麹菌が米に繁殖するのを眺めていたが、思い出したように
「して、おんしはどういう酒にしたいのぢゃ?」
 と訊いてきた。
(鋭いところをつくのう)
 麹菌が繁殖することを『破精(はぜ)』というが、この破精のまわり方で酒の味が変わるのだ。
 米全体に破精がまわった『総破精型』の麹は芳醇な酒に、米粒の表面に麹菌が斑点のようについて内側に菌糸が入っていく『突破精型』の麹は端麗な酒に。だからどんな酒にしておくか今のうちに決めておかなければならぬ。さすがは嬉璃殿じゃ。
「最初は端麗な酒にしようと思ったのじゃが」
 このあやかし荘のこと。あっさりとした酒を造ろうとしても濃厚なものになるじゃろう。
「ということは、総破精型の麹を造るのぢゃな?」
「いかにもじゃ」
「ううむ、美味そうぢゃのう。楽しみぢゃ」
 麹米自体が酒であるかのような目。嬉璃殿も乗り気じゃ。
「普通は五十時間ほどかかるのじゃが、あやかし荘じゃからの、三十分あれば十分じゃろう」
 それにしても暑い。これでは米の温度も上がりすぎておるかもしれぬ。
「嬉璃殿、しゃもじで米をもっと広げるのじゃ」
「おうけいぢゃ」
 嬉璃殿がしゃもじを使って米を端へ寄せる。
「うーむ、これでは逆に温度が低くなりすぎた気がするのじゃ」
 今度はわしがしゃもじで米を寄せた。米は互いに寄り添い、丸くて白い積み木のようじゃ。これを三十分繰り返した。

 という訳で、場所を移し。
「次は酒母造りぢゃろう?」
「イエスじゃ!」
「これは麹造りの次に重要なのぢゃろう?」
「紛う方なくイエスなのじゃ!!」
 蒸した米と水、麹を混ぜてそこに酵母菌を入れる。
「速醸ではないのか?」
 嬉璃殿は不思議そうだ。それは無理もない、普通はこの時点で乳酸を添加して、雑菌が入らないようにする『速醸』という方法をとるのだ。
(ふっふっふ)
 ここがわしのこだわりなのじゃ。速醸よりも、天然の乳酸菌を使って乳酸醗酵させながら酒母を育てる『生もと』という製法で進めるのじゃ。これによって味はより濃厚になるのじゃ。
 難点は期間が一月近くかかることじゃが、あやかし荘のことじゃから二日で平気じゃろう。
「こだわっておるのう」
 嬉璃殿の感心した表情を見て、大満足じゃ。
「これが終わると仕込みじゃ。米と麹に水を加えてゆくのじゃ」
 大抵四日かかるが、半日くらいかければ平気じゃろう。一回目の初添えと三回目の中添えの間に酵母が弱まらないように踊りと言う名の休みを入れるが、あとはひたすら混ぜてゆくのじゃ。
「ううむ、味はどうなっておるのじゃろう」
 酒らしくなっていくのを見ていると、味が気になるものじゃ。
(一口くらい、試しても良いじゃろう)
 と手を伸ばすのじゃが、嬉璃殿に阻止されてしまう。
「おぬしだって『美味そうぢゃのう』とこぼしておったじゃろう」
「思うのと実際にやるのとでは別ぢゃ。味見したければすれば良いが――ここで味見をするのは、『通』のやることではないのう」
「うう……」
 そう言われると『蛸忠』の店主としては辛い、我慢するしかなさそうじゃ……。
 仕込みの最終である留添えが終わると、これは『もろみ』と呼ばれる。酒になる一歩手前じゃ。醗酵していくのを待つばかり、もろみ日数というやつじゃのう。
 こうなるといてもたってもいられない。わしは酒が出来上がるのが待ち遠しくて、もろみを造った翌日から、
「もう良いじゃろうか?」
 と訊いては嬉璃殿に、
「まだぢゃ。おんしは気が早いのぢゃ」
 と返されておった。
(そうかのう?)
 普通なら確かに日数は一月かそれ以上かかるが、ここはあやかし荘じゃ。
「もう良いじゃろうか?」
「まだぢゃ! おんしもくどいのう!」
 嬉璃殿はテレビの通販番組に夢中じゃ。司会者の大げさなリアクションを面白そうに眺めておる。
(わしは酒が気になって仕方がないというのに)
 つれないのう。

 じゃがそれから三日後、とうとうこの日がやってきたのじゃ。
「初絞りじゃ!」
 わしは胸の高鳴りを感じながら、槽を動かした。これも勿論旧式のもので、丁寧に絞ってくれるものじゃ。
(お陰で味がなめらかになるのじゃから、旧式を使用するのは当然じゃ)
 多少の時間が流れ――。
 ついに初絞りが出来た。目の前のコップには、透明の液体が入っている。
「ここで飲むのは勿体無い気がするのう」
「薔薇の間に戻ってゆっくり試飲するのぢゃ!」
 さて。
 コタツに入り、わしはもう一度しぼりたての酒を眺めた。最初目にしたときは透明だと思ったが、今見るとそうでもない。うっすらと琥珀色に染まっているそれは、かなりの光沢を持ち、揺れて波立った状態で光が入るとなまめかしい赤に変わった。
(変わっておうのう……)
 ぎざぎざに波立った中の赤――まるで果実の柘榴のようじゃ。
 鼻を近づければ、馨しい香りが鼻腔をくすぐり――まるで脳まで支配されるようじゃ。
「美味そうじゃ……おかしくなるくらいじゃ……」
 と、嬉璃殿の表情がサッと険しくなり、わしのコップを奪い取った。
「何をするのじゃ!」
「ちょっと待つのぢゃ! これは嫌な予感がするのぢゃ」
「何がじゃ?」
「酒を眺めるおんしの目――尋常ではなかったのぢゃ。悪魔に魅入られたようだったのぢゃ」
「気のせいじゃろう。飲んでみなければわからぬのじゃ」
「いいや、これは渡せぬ! 危険なものに違いないのぢゃ!」
 酒の取り合いになった。どうしてなかなか、嬉璃殿は素早い。
「絶対に渡せぬのぢゃ! おんしを思えばこそなのぢゃ!!」
「返すのじゃぁ!!」
 わしはついに嬉璃殿の腕を掴んだ。じゃが、しかし。
「あ〜!!!」
 わしが掴んだ拍子に嬉璃殿はバランスを崩してコップを落としてしまった。
「わ、わしの酒がぁ……」
 これではとても飲めぬ。わしは夏休みに課せられた観察日記を放棄した小学生が持つ枯れた朝顔のようにへなへなと力をなくして座り込んだ。
(せっかくのわしの初絞りが……)
「にゃあ」「にゃぁにゃあ」
 ――そこに、二匹の猫が現れた。にゃんこ丸とにゃんこ太夫である。
 にゃんこ丸とにゃんこ太夫は、わしが飲みたくても飲めなかった初絞りの酒を、いとも簡単に舐めて味わった。にゃぁにゃあ泣きながら酒を飲む姿は可愛らしいが、今のわしからすればその泣き声すら悲しみの要素じゃ。
「良いのう、羨ましいのじゃ……」
 にゃんこ丸とにゃんこ太夫は零れた酒を飲みきった。美味かったというように、猫たちは鳴くのをやめたのじゃが――。
 次の瞬間、巨大化した。わしくらいの大きさになったのである。
「おお!」
 ジャイアント猫じゃ!
「やっぱりなのぢゃ!」
 嬉璃殿はしきりに頷きながら、おんしは飲まなくて正解ぢゃったと繰り返し呟いた。
「残念じゃがあの酒は無しぢゃな」
「なんでじゃ?」
 嬉璃殿が目を大きくあけて、わしを見た。
「おんし、この猫を見ても何も思わぬか?」
「大きくなっても猫は可愛いのじゃ」
「そういう問題ではないのぢゃ! これをサラリーマンに飲ませたらどうなるかを考えるのぢゃ!!」
「“サラリーマンに飲ませたら”?」
「そうぢゃ!」
 わしは屋台に訪れたサラリーマンがこの酒を飲む図を思い浮かべた。巨大化するということはつまり……。
「一杯酒が飲めておでんが食べられるようになるのう。……銭儲けじゃ!!」
「違うのぢゃ!! 観点が間違っておるぞ、おんし!!」
「案ずることはないのじゃ。椅子が壊れないように、立ってもらうのじゃ。おでんも酒も多めに用意してじゃのう、」
「違うのぢゃ!! おんしの言っておることはある意味では正しいが、明らかに間違っておるのぢゃ!!」
 嬉璃殿の言葉はいまいちわからぬ。
「正しいのなら、それで良いのじゃ。さっそく絞りたてのものを今日の屋台に出すのじゃ!」
「………………」
 嬉璃殿はため息をついて黙り込んでしもうた。
(何か疲れることでもあったのじゃろうか?)
「嬉璃殿、酒の名前は何が良いと思うのじゃ?」
「もう好きにするのぢゃ……」
「では、うーむ」
 わしは知恵を絞って考えたが、名と言うのはそう簡単には浮かばない。
(仕方がないのう)
 今は見たまま、仮の名で呼ぶことにするのじゃ。

 はたしてその夜、『蛸忠』を訪れたサラリーマンは一人残らず、源にある酒を勧められることとなった。
「あやかし荘・純米吟醸酒『柘榴』はどうじゃ? 絞りたてなのじゃ!」
「いいねぇ!」
 客たちは喜んで『柘榴』を注文していった。
「おまちどうさま、絞りたて『柘榴』なのじゃ!」
 心なしか、屋台の周りでは驚きの悲鳴が絶えなかったという――。




終。