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<東京怪談ノベル(シングル)>


水に微睡む

「確かにとても美しいのですが、このままですと、明らかに、箪笥の肥やしになりますわね……」
 姉の不吉な一言が、あたしに、高価な着物にハサミを通す決意を与えた。
 京都の匠の手によるという、一品物の金彩友禅の振り袖。大切に和紙にくるんで、衣装棚の奥に仕舞い込んだのはよいものの、とにかく着る機会がない。
 唯一着物の出番と言っても過言ではないお正月には、あたしたち一家は、南の島でゆったりと過ごすことになっている。その常夏の地で、振り袖を着込む勇気は、さすがのあたしにも、無い。
 どうしようかな、と思っていたあたしに、膨大な衣装持ちの姉が、一つの提案をする。
「着物は海では致命傷ですけど、水着に加工したら、いつでもどこでも、お手軽に着れますわ」
 着物を水着に加工する。
 実は、あたしも、それは密かに考えていた。
 あたしは、人魚だ。海に属するもの。そのあたしにとって、水着姿は、あるいは一番馴染みやすい格好と言えるのかもしれない。
 金彩友禅の着物の地柄は、ちょうど、あたしが生み出す水の羽衣の色に似ている。藍から碧へ。菫から翠へ。全ての海の色を織り交ぜて、一つとして同じ顔を見せない、流水の彩。
「仕立屋さんなら、わたくしが良い方を知っております」
 姉の、あの複雑かつ華麗な衣装を次々と作り出す、お気に入りの仕立屋さん。
 あの人なら、着物を水着に加工するという無理難題も、きっと引き受けてくれるに違いない。
 あたしは、姉に連れられて、金彩友禅の着物を持って、その仕立屋さんの家に行く。何だか、どきどきした。どんな水着に仕上がるのだろう? 出来上がりに想いを馳せて、生地を預ける。
 任せておいてと、仕立屋さんが笑った。
「一週間後に、届けるよ」
 その一週間の間に、あたしは、新しい水着のために、海水浴の計画を立てた。



 海水浴には、近場で行きたかった場所を選んだ。
 沖縄の与那国。海の底に沈んだ、巨石の遺跡。
 観光客も、調査団も、いなかった。いくら沖縄でも、さすがに真冬の十二月ともなれば、海水浴は出来ない。いや、入ろうと思えば入れるけど、そこで無理をする必要などないのだ。もっと暑くて、もっと綺麗な日和は、いくらでもある。
 新しい水着を着て、無人に近い沖縄の海に、飛び込む。
 沖縄の海は、エメラルドグリーン。
 だけど、いったん水の底に沈むと、深い碧だ。水面から惜しみなく降り注ぐ陽光に、全ての景色が青く煙って見える。
 与那国島南端の新川鼻から、遺跡までは、わずかに百メートル前後。遺跡の一部は、海面に突き出ている。
 海に入り、人である自分を手放すと、あたしの感覚は無限に近い広がりを見せる。遠くにかすむ遺跡の姿が、はっきりと見えるほど。
 水の抵抗が、消えた。あたしを受け入れてくれる。あたしを導いてくれる。何を意識しなくても、手足が勝手に動いてくれる。
 泳ぐことが、息をすることよりも、自然になる瞬間。
 
 あたしは、人魚に、戻る。

「お姫様が来たよ。遺跡に、戻ってきたよ」
 小さな南海の魚たちが、寄ってくる。あたしの周りをひらひらと巡り、時には追い抜き、追いかけて、嬉しそうに語りかけてくる。
「お姫様?」
 遺跡の崩れかけたアーチを潜り抜け、あたしは、座り心地の良さそうな石の上に、腰掛けた。
 それが「太陽石」と呼ばれる特別な石であることを、もちろん、この時のあたしは、知らなかった。
「ここは、竜の宮。竜宮の一部。今は、お姫様がいなくなって、みんな、ばらばらになってしまったけど」
 竜宮。
 おとぎ話に出てくる、あの竜宮?
 確かに、竜宮には姫がいた。古い古い伝承でも、語られている。
「ここが、その、竜宮の跡なのですか?」
 あたしは、少し強めに水を蹴った。水面ぎりぎりまで浮かんで、遙か眼下を眺めやる。
 計ったように正確に切り取られた石段。真っ直ぐと突き進む水路。何かの供物を捧げていたのだろうか。あれは、台座?
 それに、人の顔に見えないこともない、奇妙な石!
 人工の匂いのするその周りを、無数に泳ぎ回る、魚たち。ゆらゆらと、くるくると、風に揺れる木の葉のように、舞い続ける。
 古い建物に、色鮮やかな何かが、一瞬、重なった。
 新しい柱。新しい石畳。精巧なアーチ。あたしの中に、水の記憶が流れ込んでくる。開闢からほとんど変わることのない、海の思い出が、あたしを満たす。
「竜宮……」
 ここには、確かに、水の眷属の宮があった。
 同じ青に属する者として、あたしには、わかる。

「……帰ってきたんじゃないの?」
 魚たちが、あたしに聞く。あたしは、嘘をつくことは出来ないから、正直に答える。
「あたしは、姫じゃないんです」
 あたしが、ここで、姫だと答えたら。
 魚たちは、あたしに何を求めてくるのだろう?
「そうなの? がっかり。絶対に姫だって思ったのに」
 黄色い背びれを持つ、綺麗な熱帯魚が、拗ねたように尻尾を動かした。海の色に同化してしまいそうな、鮮やかな青色の魚が、それを嗜める。
「姫はもういないんだよ。長老様も、そう言っていたよ」
「姫じゃないけど、あたしに、何かお手伝いできること、ありますか?」
 あたしがそう尋ねると。
 聞きつけた魚たちが、いっせいに寄ってきた。
「姫はね。あの一番高いアーチに座って、外の様子を、いつも見ていたの。僕たちに、外の世界がどうなっているのか、教えてくれたんだよ」

 魚たちの言葉に従い、あたしは、一番背の高いアーチまでゆるゆると泳ぐ。
 アーチは、上の半分ほどが、海面に突き出ていた。
 その上に座ると、島を遥かに一望できる。
 沖縄の南風が、心地よい。海の中にいると感じなかった潮の香りが、何だか、ひどく、懐かしかった。

「ひめ、ですか……」

 それは、海の物語の住人。もういなくなった、過去の残像。夢の中でしか、会えない。
 だからこそ。
 微かな期待を胸に抱いて。
 魚たちは、あたしの中に、「姫」の影を探すのだろう。



 そして、あたしは、水に微睡む……。



 着物を加工した水着は、多少の動きにくさはあるものの、思ったよりも快適だった。
 洗濯、乾燥しても、型崩れも起きない。塩も吹かなかった。
 これなら大丈夫。

 お正月には、家族みんなで南の島へと旅行に行く。
 あたしは、今から、その準備に余念が無い。あれもこれもと詰め込んだ荷物リストの中に、着物の水着も、書き加えた。
 バッグの奥に、可能な限り小さく畳んで、着物を入れる。
 姉と妹が、同じく荷物を選り分けながら、あたしの隣で笑っていた。

「楽しみだね! お姉ちゃん!」
「持って行きたいものが多すぎて、お互い、困りものですわ」

 家族で見る、南の島の、初日の出。
 そこに行く前から、光が、見えたような気がした。