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―覚 醒―
目の前には一人の少女がいた。
虎蔵が守るべき少女である。
にこやかに微笑むその様子は、虎蔵の存在に気づいた様子はない。
それもそのはず。
虎蔵は六歳という幼年ながら、忍術の修行を修めた立派な念法師なのである。
少女を影ながら守るのが虎蔵の努め。
気づかれようはずがなかった。
何も知らぬげに微笑む少女に、虎蔵は微かに胸が高鳴るのを感じた。
「……様」
そっと呟いた虎蔵は、自分の声に気づいて思わず頬を染める。
影としてはあるまじき事とは知りながら、虎蔵が少女に思いを寄せていることは、誰にも、特に雇い主である彼女の祖父には絶対内緒なのであった。
「そういえば……」
数年前にも同じ事があった。
この気持ち。
この想い。
感じたのは初めてではない。
まだ自分が念法師として未熟な頃、一人の少女に出会った。
虎蔵は何かを思い出すかのように、そっと片目の眼帯に触れた。
虎蔵が生まれ育ったのは、現在の忍者ともいえる光画流の里であった。
虎蔵はそこで、幼き頃より日々忍術の訓練を受けていた。
ある日の事だ。
修行の為に里を降りた虎蔵は、知らずうちに町の近くまで来ていた。
生い茂った木々の枝をそっと払うと、そこには広い草原が広がっていた。
「だれ……?」
小さな声に振り返ると、そこにいたのは一人の少女であった。
年のころは虎蔵と同じ頃であろうか。
無邪気に草原の花を摘む少女は、木々の間から現れた虎蔵に、一瞬驚いた顔を見せたものの、にっこりと虎蔵に微笑んだ。
「こんにちは」
思わず立ち尽した虎蔵の心に、その笑顔は強い印象を残した。
「あ、あの」
あなた様は……?
だが虎蔵が口を開こうとした瞬間、少女はパッと立ち上がると、走り出したのだ。
「お母様ー」
嬉しそうに走っていく。
そういえば、近くにいくつか大きな家があった気がする。
少女はその一つに家族で訪れているのだろう。
母親を見つけたらしき少女は数メートル先の女性に嬉しそうに走り寄って行く。
虎蔵は、そんな少女から目を離すことが出来なくて、その背をじっと見つめていた。
なんだろう?この気持ちは。
心が暖かい。
自分は一体……。
足は自然と少女の方に向いていた。
走り寄る少女。
少女が母の元にたどり着いた時、きっと綺麗な笑みを浮かべて笑うに違いない。
その笑顔を見てみたいと思う自分に、虎蔵は気づいていなかった。
ただ惹かれるままに、虎蔵は少女へと向かう。
だがその時である。
「キャーーー!!」
まるで雲を裂くかのように、それは響いた。
少女の目の前には、一匹の野犬が立ちはだかっていたのだ。
「グルルルル……」
低い犬のうなり声が響いた。
犬はまるで理性を失ったかのように涎をたらし、牙をむき出している。
あの犬が少女を襲えば、幼い少女はひとたまりもないだろう。
無力な少女が野犬に対抗できようはずがない。
「危ない!」
まだ修行中とはいえ、日頃から訓練を受けている虎蔵である。
すばやく少女の元にたどり着くと、さっと少女を背に庇った。
「大丈夫でございますか?」
野犬から目を放さすに背にした少女に問いかけると、少女は青ざめながらも辛うじて頷く。
だが、その小さな手は虎蔵の背をつかんで離さない。
この方は、わたしくめがお守りしなければ……!
背に感じる暖かさに、強く感じる虎蔵だった。
だが、野犬はジリジリと距離を縮めて来ていた。
いくら広い草原とはいえ、駆け出した所で子供の足では追いつかれてしまう。
後がない。
それを悟ったのか、野犬はそっと地に伏せ、助走をつける動作をする。
来る!
瞬間、虎蔵は隠し持っていた苦無を放った!
風を切って鋭い刃が飛び出す。
苦無は犬の足をとめるだろう。
その隙に逃げればいい。
虎蔵はそう思っていた。
だがどうした事だろう。
犬の勢いは止まらない。
「なんだと!??」
サッと日が翳った。
目の前に迫る牙。
「くっ!」
鮮血が飛び散った。
「キャァ!」
虎蔵は近くで少女の悲鳴を聞いていた。
少女は無事だろうか?
怪我はしていないだろうか?
確かめようとするが、何故か目が開かない。
やっとのことで片目を開くと、少女の泣き顔が写った。
「大丈夫でございますか?」
「血!血が……!!」
血?
まさか、少女はどこか怪我をしているのだろうか?
己は少女を守れなかったのか?
重く沈んだ時、何故目が開かなかったのかを悟った。
少女を庇った瞬間、虎蔵は野犬の牙により片目を負傷していたのだ。
「大丈夫でございます。これしきの傷……」
泣きじゃくる少女に安心させるように微笑んで見せるものの、再び狙いをつけてくる野犬に、虎蔵は内心あせりを感じていた。
確かに虎蔵は見ていた。
虎蔵が放った苦無は、野犬に届く瞬間、まるで実態がないかのようにすり抜けたのだ。
この野犬はただの野犬ではないのだ。
一体どうすればいい?
虎蔵は念法師としてはまだ未熟だった。
このままでは、自分はおろか少女まで……。
数人の声が耳に届いたのはその時である。
気づいた少女の家族がやってきたのだろう。
「あ、お父様!」
え?
背中の温かさが消える。
まさか……!
その瞬間を野犬が見逃すはずがなかった。
父を見つけ走り寄る少女に、野犬は飛んだ。
その鋭い牙は少女のすぐ近くまで迫っていた。
だめだ、届かない!
このままでは少女が……!
「危ない!!」
その瞬間、虎蔵の中で何かが変わった。
自分の中に何かを感じる。
微かに、でも確かに息吹いたそれは、ずっと虎蔵の中にあったもの。
虎蔵の中で、この日をずっと待っていた。
いま、それが目覚めた。
苦無は野犬に効かない。
それは判っていた。
だがそれでも、確信をもって虎蔵は苦無を放つ。
虎蔵の手から放たれたそれは、目に見えない念の刃を放ち、野犬を切り裂いた。
念法師としての、目覚めであった。
あの出来事から数年後。
虎蔵は一人の少女を守るために、影としてここにいた。
大切な大切な少女を守るために。
あなた様の身は、わたしくめが命に代えましてもお守りいたします。
きっと。
そう心に誓う虎蔵であった。
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