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<東京怪談ノベル(シングル)>


黒ノ想歌

 何色の髪が好き?と聞かれたら、すぐに答えてしまえる色がある。

 ――黒が好きよ。

 特に黒髪の放つ艶のある、黒は良いと思わない?
 陽にあたっても尚、黒く、それでいて艶のある黒が、とても――好きなの。


                    ◆ ◇ ◆

 音が、室内に溢れていた。
 細く長い指先が奏でているのであろう、その音に一人の女性は瞳を閉じる。
 女性の名は、ウィン・ルクセンブルク。
 豪奢なプラチナブロンドと蒼の瞳持つ、艶のある美女である。

 音に身をゆだねる様に、リクライニング・チェアへ背をあずける。
 スプリングの効いたリクライニング・チェアが、キィ…と軽い音を立てるのも気にならないほど――好きな、曲。
 ――ベートーヴェンのピアノソナタの一つと言われる「ピアノソナタ第8番 ハ短調 作品13」……一般的には「悲愴」と呼ばれ親しまれているものだ。

(ああ、違うわ……私が、この曲を好きになったのは……)

 ――好きな人が得意な曲だったから。

 黒髪、黒い瞳の穏やかな性格の――あの人が、いつも弾いていたからだわ。
 繰り返し、繰り返し、何かを訴えるように、いつも。

『どう? 似合う?』

 不意に、その思い出の中に先ほどまで逢っていた恋人の顔が思い浮かぶ。
 私が今、付き合っている年下の恋人は、私が黒い髪に憧れにも似た好意を持ってるなんて知らない筈なのに。
 突然、茶色だった髪を黒に染め変えて――かなり、ときめいてしまったわ。
 その色が、とても懐かしかった。
 初恋の人も付き合っていた彼も黒髪だったから、尚更。

 そのままの彼も勿論大好きだけれど、私は黒髪が大好き。
 艶があって、綺麗で…陽光の下で見ているのも…また闇夜の中で見ているのも。

 室内に流れる旋律は語りだし、溢れる。
 CDに刻まれた、一人のピアニストの名前――それは。

 何よりも――昔、好きだった人の名前。

 先日、CDショップへ立ち寄ったときに見かけ、買ったものだ。
 今は成功して元気にやっているのだと知ることが出来、ただ嬉しくて考える間もなくレジへ向かってしまっていた。
 そんな自分を苦笑しながらも、再び好きな音を耳にすることが出来る、そう思えばやはり、幸せで。

 CDに収録されていたのは、彼の人が得意としていたベートーヴェンの3大ピアノソナタである月光、熱情、悲愴の3曲。

 緩やかに、それらはウィンの思い出を呼び覚ましていく。
 愛しき日々へ、想い馳せるように。


                    ◆ ◇ ◆


 奏でる旋律が、記憶の底から呼び覚まされるように聞こえてくる。
 くすくすと微笑う声。
 室内に大きな存在感を示すグランドピアノ。
 黒く艶を放つピアノよりも更に、差し込んでくる陽光の下で艶を放つ――彼の、黒い髪。

 音が不意に途絶えると、14歳の私は16歳の彼へと唇を尖らせるようにして囁いたものだったわ。

『……もう、駄目よ途中で止めちゃ』
『どうして?』
『……貴方がピアノを弾いているとき、どれだけ幸せそうか知ってる?』
『いいや? 自分で自分自身は見れないからね』
『見ていて嬉しくなるくらい、なのよ? だから途中で止めちゃ駄目』

 微笑みながら私は彼の首へと腕をまわす。
 くすり、と微笑う声が響いて――抱きしめられながら青年は最初に弾いてた曲を弾くのをやめ、「月光」を弾き始めた。
 緩やかな音が、水面に映し出され染み出すような月の光を語りだす。
 ゆっくり、ゆっくり、喋るように、囁くように。

 それにあわせて私は首へ回していた腕を放し、旋律を追うように歌う。
 私にピアノの才能はないことは解っていたけれど、ピアノが紡ぎだす音を聞くのは大好きだったし、彼のピアノに合わせて歌うのも好きだったから。

 ずっと一緒に居られるのだと思っていた、大好きだった人。
 プロのピアニストでもある義母の愛弟子だった彼。
 だから。
 ――彼にプロのピアニストとしての道があると聞いたとき、私は彼よりも喜んだものだった。

『おめでとう! 貴方なら絶対だと思っていたの』
『ありがとう』
『……どうしたの? 浮かない顔ね?』
『……いや、何でもないんだよ……何でも、ね』

 ポーン、と音が一つ響いた。
 義母か、もしくは母から何か言われたのかもしれないって気付いたのに何も聞けないまま。
 私と、ピアノ。
 彼と、ピアノ。
 どちらの視線を通してもあるのは、ただ一つ、ピアノだったわ。

 彼は悩んで、私は彼の態度に惑って……それでも彼は最後にはピアノを選ぶんだってもしかしたら解っていたのかもしれない。

『ごめん』と言った彼の声が震えていたもの。

 もう二度と一緒に居ることは出来ないのだと気付いた時には、泣いて、泣いて、泣いて。
 涙が出なくなるまで、泣き続けて。

 行かないで欲しいと何度、口から出そうになっただろう。
 でもプロになって欲しいと言う気持ちも本当。
 絶対に絶対に、彼にこそピアニストになって欲しかったから。

 ――そう、最後には笑って送り出すことも必要なんだと気付いたのもこの時。

 それだけが私が彼にへ出来る最後の愛情表現でもあったから。




                    ◆ ◇ ◆


(そして最後の日は笑って見送った……懐かしいわね……)

 あれから、様々なことがあったけれど。
 14の頃の優しい想いは今も私の胸に灯りを点してくれている。

 まるで濃い霧の中、迷い人を出迎えてくれるランプのように。

 彼との出会いが無ければ。
 もし――出会えていなかったなら。

(…そんなことを考えるのは、愚かなことだとは思うのだけれど)

 今の、私ではなかったかもしれないと思うのも確か。
 黒髪が好きで、悲愴や月光――熱情と言う三大ピアノソナタが好きな私では無くて。
 もしかしたら違う私だったのかもしれない、と。


 だから、彼には懐かしさと同時に深い感謝を覚えては――何度も何度も思い出を辿る。
 懐かしさと一緒に溢れてくる思いは、私だけのものだから。

 でも――ね?

 こうして昔と貴方へ思い馳せても。
 やっぱり私が愛しているのは今現在の恋人だけ。
 さっきだって、昔を思い出していても不意に恋人の顔が浮かんでしまうのだもの。

 それだけ大切で大事な唯一の、人。
 とても可愛くて何かをしたくなってしまう一面もあって様々な表情を見たいと思ってしまうのよ――不思議なことにね。

 ――今、貴方の隣に大事な人はいるのかしら?

 ……居ると良いのだけれど。

 私に様々なことを教えてくれた貴方だから誰より――幸福であると良い。


 ウィンは瞳を開けると、窓の外を仰ぎ見る。
 きらきらと陽光は輝き、室内へ光を満たしてゆく。

 懐かしさと愛しさ。
 決してひとつにはならない、ふたつの想い。

 CDから流れる柔らかな、柔らかな音はただ想い歌のようにウィンの思い出と心をゆっくりと浸し……優しく包んでいった。




―End―