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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


或いは傀儡葬送


●序

 痩せた、女だった。
 ――タツキを、帰してください……。
 落ちた前髪に遮られ、表情は窺えぬ。口元だけが僅か動いて、言の葉を結んだ。
 乾いた唇は、乾いた声を発して、先程から幾度も同じ名を繰り返し、呼ぶ。
 龍紀。
 彼女の、たった一人の息子の名前――だった。

 一年前。
 龍紀は、マンション七階の自宅のベランダから、誤って転落し、死亡した。
 四歳になったばかりだった。
 母親は慟哭し、己を責めた。
 ――隣の部屋に居たのよ。すぐ近くに居たのよ。なのに、なのに。
 父親は、妻の姿と、息子の亡骸を前に、ひとつの提案を。
 ――……龍紀を、生き返らせてやろうか。

「父親は傀儡師ってやつらしくてな。といっても、内容を聞く限りじゃ、呪術師とか、祈祷師とか、そっちの類だろう」
 そっちの類、で軽く括って、草間は一家について纏められた調査書類に視線を落とした儘、説明を続けた。
 傀儡師。古来より伝わる傀儡法を用いて、人型の物体を自在に操り、時には対象に霊魂をも封じてみせるのだと云う。
「死んだ息子を、その……術、か? そいつで生き返らせたんだな。傀儡として」
 母親の前に再び笑顔をみせたのは、確かに己の息子だった。
「だが、最近になって、問題が出てきたらしい」
 親子は幸せだった。嘗てと同じ生活、同じ会話、同じ――姿。
 育ち盛りの年齢の息子は、しかし成長しなかった。
 背も伸びぬ。髪も伸びぬ。爪も伸びぬ。
 新しい知識や言葉も、全く覚えなかったのだ。

 傀儡は、人形に過ぎない。

「……父親は、元に戻そうと言い出した」
 元に。
 息子を、元の屍体に。
「母親は、反対した」
 たとえ成長しなくとも、息子の体であることには違いない。
 笑って此処に“いる”のならば、それで良いではないか、と。
「父親は無理矢理、龍紀を連れて家を出た。……居場所は掴んでる。実家の近くだ」
 言って、書類の一枚を引き抜いてテーブルに置いた。
 銜えた煙草の先、紫煙がすうと細い筋を昇らせる。
「そこに……依頼だ」
 ――龍紀を、帰してください。

 傀儡の子と、永久に続く幸福の夢を。
 或いは。


●始

 雨。
 依頼を引き受け、草間興信所を辞したモーリス・ラジアルは、ビルの狭い階段を降りる途中に、先程までは聞こえていなかったそれに気付く。
 ビルの入口まで降りれば、尚強く。
(天気予報も、当てになりませんね)
 車を停めた駐車場までの距離は大してない。モーリスは小走りにビルを出る。
 擦れ違いにビルへ入る、大柄な体躯の男を目にした。

 父親と龍紀の居るアパートへの道筋を、頭の中の地図と重ねて、車をゆっくりと発進させる。
 暫く走ると、次第に雨は激しさを増し、やがてワイパーも追い付かぬほどの豪雨となった。
 信号待ちで軽く息を吐き、シートに僅か凭れて、車内に響く雨音に耳を傾ける。狭い空間には暖房が掛けられており、人工的な暖かさを齎していた。モーリスは形の良い眉を微かに顰め、弱まる様子のない雨と、暗い空に視線を上げる。
(傀儡……成長することのない子供)
 浮かぶのは、興信所で聞かされた依頼の内容だった。
(それに疑問を持ちながら、それでも子供に執着する母親)
 無感動にちらりと助手席に置かれた封筒を見遣る。
 中には、一家に関する調査書類が収められている。
(気になるのは、父親ですかね)
 死んだ息子を傀儡とした。
 理――自然に背いてまで、何故そのような行為に及んだのか。
 そこにどんな感情があったのかと、モーリスは思案する。
 愛情か。知的好奇心か。それとも。
「……何れにしろ、正常な判断だとは、思えない」
 呟き、視界の端で、ぱっと青に変わった信号を確認して、アクセルを踏む。
 振動と共に伝わる低いエンジン音。
 意識的にそれを追い遣り、車のウィンドウを打つ、小気味好い雨の音に、聞き入った。


●想――父親

 左手に電車の線路を見ながら車を走らせ、やがて右手に植物の溢れる、一軒の住宅を見付ける。両隣と然して変わらぬ形のありふれた家だが、こうして車を徐行させ、外部からそっと窺ってみるだけでも、その庭の素晴らしさには素直に感嘆した。見た目は勿論のこと、しっかりとひとつひとつの植物への手入れが行き届いている。
 三軒ほど先の家の前まで進んでから車を停め、封筒から取り出した書類に添えられた写真に確認する。態々停車してまであの家の様子を見たのは、なにもガードナーという職業柄というだけではない。
 写真に写された家の玄関、アルファベットで記された表札の苗字、その両方に、間違いなくあの家が父親の実家だということを確認した。現在は父親の両親――龍紀の祖父母が住んでいる。
 恐らく、孫が既に他界しているとは知らぬ儘。
 モーリスはぱさりと写真を助手席に抛って、近くにある筈の、父親と龍紀の住むアパートを目指し、車を出す。
 ふと、バックミラーに、あの家の素心蝋梅が映り込んだ。
 黄色の愛らしい花は、強い雨に打たれつつも、優雅に誇る。
 そのまま進み、五つ先の角を右に折れて幾つか曲がると、密集した住宅の中、やはり此方もありふれた、少々年代を感じさせる小さなアパートの前、再び車を停めた。
 雨は変わらずの強さで降り続く。
 出来るだけ濡れぬように、素早く車から出て、二階建てのアパートの階段を昇った。屋根の下、軽くスーツに付いた雫を払い、奥の扉の前に立つ。傍らの表札には、几帳面な手書きの字で、先程の家と同じ苗字が漢字で記されていた。
(隠れているわけでは、ないのか)
 母親の許から無理矢理に連れ出したと聞いている。これでは母親が捜しに来れば、直ぐに見付かるというものだ。
 それに。
(なぜ、すぐに子供を……死体に戻さない)
 書類には二人が家を出てから、二週間が経っていると書かれていた。
 ――もしかすると、既に龍紀は。
 モーリスは考えていても仕方がないと、チャイムを鳴らそうとして、それが壊れていると知れると、日本式のノックで二三度ドアを叩く。
 中で動く気配。暫くの間を置いて、躊躇いがちに男の声が返った。
『……どちら様でしょうか』
 警戒している。
 さて、どう答えたものかと僅か逡巡し、セールスを装うことも考えたが、結局正直に身分を明かす。
「奥様に依頼されて参りました。興信所の調査員です」
 返事はない。
「そちらに、息子さんの――龍紀くんは、いらっしゃいますか?」
 沈黙。
 強行突破でもしてみるかと考えた矢先、カチャリと金属音と共に、ゆっくりと扉が開いた。直ぐに閉められぬよう、そして逃げられぬよう、体を滑り込ませる。
 しかし、それは杞憂だった。
 相手の、恐らくは龍紀の父親は、突然の侵入に驚いている様子ではあったが、柔和な、そして力ない笑みで、モーリスを迎えた。
「お待ちして、いました……」
 そんな言葉と共に。

 どこにでもある家庭。
 そう、モーリスは思った。
 父親から聞いている限りは本当に、どこにでもいそうな、といった。
 ただ、やはりひとつ、大きな差異がそこには存在する。
 ここで暮らし始めてからというもの、生活に最低限必要なものだけは揃えたというが、やけにがらんとした空間である。二間続きの部屋には、テーブル、食器棚、洋服箪笥と、確かに家具も揃ってはいるが、生活臭というものが全く感じられなかった。
 ぐるりと部屋を見渡して、最後に視線が行き着く先は、畳敷きの奥の部屋に横たわる、小さな――子供。それが傀儡人形と知っていて尚、子供としか呼べぬが如き寝顔だった。
「……生きてる、みたいでしょう」
 モーリスの視線に気付いて、その傀儡の造り手である男は、言った。
「ええ、とても。精巧で、傀儡とは一見しただけでは知れませんね」
 微笑を添えて、モーリスは答える。
 白金の、癖のないさらりとした髪に、過ぎるほどに整った美貌。翠玉を嵌め込んだ瞳が、すうと細められ、男を正面から見据えた。全体的に人当たりの良い印象だが、その瞳だけは何処か酷薄な光を宿す。……それに気付くのは、極僅かな人間だけであろうが。
 男はそんなモーリスの外見に気圧されたとみえ、視線を外すと別の質問を投げ掛けた。
「それで、その……由紀子は」
 妻の名を呼ぶ男の横顔は、酷く疲れている。
「由紀子は、私と龍紀を捜してくれ、と?」
「そして連れ戻して欲しいと、依頼されました」
 声音は優しい。けれど淡々とした口調に、男は何故か、意識下に恐怖を抱く。
「他には、何か……」
 言っていませんでしたか、と呟いて、モーリスを窺った。
「何も」
 モーリスが短く返した直後、男が動いた。
 畳に横臥して眠る息子の許へと走ろうとしたのだ。
 ――しかしそれは、敵わなかった。
「そう慌てずとも、傀儡というものは主のもとを離れられぬものと聞きますよ」
 男は、動けなかった。
 頸に、冷たいものが当てられている。
「それに、確かに私は奥様から子供を連れ戻すようにと依頼されていますが、どのような状態で連れ戻して欲しいとまでは指定されておりません」
 暗に、龍紀を“自然な状態に戻す”と、モーリスは言っているのだ。
 男の頸に突き付けられているのは、鈍く銀の光を反射する、手術用のメス。医師でもあるモーリスは、人間のどの部分をどのように傷付ければ死に至らしめることが可能なのか、心得ている。相手に恐怖を与えることも、然り。
 薄く鋭利な刃が男の頸動脈の上を、す、と滑る。未だ皮膚を裂くには至らぬものの、男は無機質な冷たさを身近で感じ、震えた。
 見開かれたその眼が、おずおずと背後――モーリスに向けられる。様子に、モーリスは興味を失くしたとでもいうように、ふっと身を離した。途端、男はがくりと項垂れる。
「なぜ、突然逃げようとしたのですか」
 質問に、虚ろに息子を眺めて、男は呟いた。
「……龍紀を、由紀子のもとへ連れ帰るのでしょう」
 モーリスの沈黙を肯定と受け取って言葉を続ける。
「今、龍紀を由紀子のところへ戻したら、きっと……この先何年も、ずっと……成長しない息子と、暮らしていくことになる。……由紀子は、怖れているんです」
 何を、とは男は言わなかった。
「しかし、息子を傀儡にしたのは他でもない。貴方だ」
 硬質さを帯びたモーリスの声が男を射抜く。びくりと肩を震わせて、男は俯いた。
「あの時は、俺自身、気が動転していたのだと……思います。ただ、俺にすがって、ひたすら泣き叫ぶ由紀子をどうにかしてやりたくて、それで……ッ」
 まさか、成功するとは思わなかったのだ。
 祖父から幼い頃に教えられた、傀儡の法。大人がやっと抱えられるほどの大きさの木箱に、何体かの小さな人形が収められていた。それとは別に、禁忌とされる術があるのだと、確かそう言って、祖父は傍らの、別の大きな、自分と同じ子供ほどの大きさを持つ人形に何事か囁いたと記憶している。
 そしてその人形――傀儡が。
「では、母親のもとから連れ出したにも関わらず、すぐに息子を元に戻さなかったのは?」
「……出来なかったんです。愚かなことだ」
 男は僅か平静を取り戻して、呼気に自嘲の笑みを滲ませた。
 と。
 パパ、と小さな呼び声が聞こえた。
 モーリスと男は同時に振り向く。
 触り心地の良さそうな毛並みの毛布の下から、もぞもぞと目を擦りながら起き出した、子供。
 龍紀と云う名を持つ、傀儡の子。
「パパ? お兄ちゃん、だあれ?」
 寝惚け眼で首を傾げ、モーリスを見上げるその姿は、やはり人形というには出来過ぎている。
 モーリスはふわりと微笑んで名を名告り、「パパのお友達だよ」と言い添えた。
 男はモーリスを仰いで、視線で問うてくる。
 ――どうするつもりだ、と。
「龍紀くんは、母親のもとへ連れて行きます。そして、そこで元の自然な状態に戻す。……起こった事実には、目を向けるべきです」
「私も、一緒に行っても?」
「勿論です」
 男は息子に出掛ける旨を伝え、自分は押入れからひとつの木箱を取り出してきた。両手に収まるほどの大きさで、大分年月を経ているもののようだが、頑丈な造りである。飴色の木目が美しい。所々に紙の剥がれた跡や刃物で抉られた跡、そして何よりも上部に書かれた判読不能の朱字に、それが呪術に使用される物であると知れた。
 コートとマフラーを纏い、毛糸の帽子を身に着けた龍紀と、薄手のコートを羽織っただけの父親を伴って部屋を出る。
「ここ、お兄ちゃんのお家?」
 不意に龍紀はそう尋ねた。
 傍ら、
「龍紀の時計は、『あの日』から止まったままです。眠るという行為で、すべてリセットされてしまう」
 泣きそうな笑みを浮かべ、父親が囁いた。

 雨は未だ強く降り頻る。
 遠くから、雷鳴をも呼び寄せて。


●連

 車に戻ると、車内に置いた儘にしておいた携帯電話が着信を知らせていた。
 表示を見れば、草間興信所の文字。
「はい、モーリスです」
『あ、俺だ』
 草間は今回の依頼に関わっているもう一人の調査員の存在と、彼の方は龍紀の母親の方へ向かったことを伝えてきた。
 父親に自宅のマンションへの案内を頼み、後部座席に二人を乗せて出発する。
 途中、父親の実家の前を通ると、父親は僅かに視線を投げたものの、直ぐに傍らの龍紀へと向き直った。
「……あの」
「はい?」
「一応、由紀子の方へ連絡しても良いでしょうか。突然帰るのは、なんだか」
「構いませんよ」
 ちょうど信号で停まり、携帯電話を父親へ渡す。父親は礼を述べると早速自宅へ掛けた。
 暫くの間があって、相手が出た様子。幾つか言葉を交わすと、「同僚の方が」と言ってモーリスに電話を差し出した。同僚という訳ではないのだが、と思ったが、一応出る。
「草間さんが仰っていた、もう一人の調査員とは貴方のことですか」
 相手が代わったのを察して尋ねると、「ああ」と素っ気無い返事が返ってきた。
「初めまして、モーリス・ラジアルと申します」
『藍原和馬だ。それで、龍紀は?』
「一緒に此処に居ます。もうすぐそちらのマンションに着くところです」
『あー、と……どんな状態だ、龍紀は』
 やや言い淀んだ調子で言う相手に対し、モーリスは意識的にはっきりと答えた。
「動いていますよ。まだ元の状態には戻していませんから。そちらに着いてから行おうかと思っています」
 藍原和馬がどう動くかは知らぬが、自分はそうするつもりだと伝える。
 と、暫くの沈黙があった。
「……藍原さん?」
 歩行者用の信号が点滅している。
「信号が変わりますので、切りますよ」
『何でもない。じゃあな』
 最後まで素っ気無い態度だった和馬に、つれない人ですね、などと思って、携帯電話を懐へ戻し、マンションを目指した。


●雨

 一年前も、今日と同じような強い雨が降っていた。

 点けた儘の居間のテレビも、常よりは三つほど音量を上げているのだが、隣の部屋に居ると雨音に掻き消されて殆ど聞こえなかった。偶に聞こえてくるのはヒーローの叫び声や、爆音で、朝からずっと息子はビデオで特撮ものの番組を観ている。ライダーだったか、レンジャーだったか、未だに私は覚えられないのだが、息子にとってはとても重要な問題で、何度も聞かされる名前や必殺技の名称を、それでも幾つかは私も記憶していた。
 数日前から降っている雨に、梅雨時でもないのにと、やや憂鬱になりながら乾燥機にかけたばかりの洗濯物を折り畳む。
 一段落付いたところで、コーヒーでも飲もうかと立ち上がり、居間を通ってキッチンへ向かう。
 ふと。
 豪雨にも関わらず、ベランダの窓が開いている。
 乾燥機から取り出した洗濯物を持って通った時は、勿論のこと閉まっていた。
 不思議に思いながら居間に視線を戻すと、点けっ放しのテレビ。息子の一番好きだったヒーローが、何やら叫びながら洞窟のような場所を走っている。仲間がピンチに陥っているらしい。随分いいところなのに、息子は観ていなかった。
 息子はテレビの前に居なかった。
 トイレにでも行ったのかと、ぼんやりと、やけにゆっくりと歩いて廊下を進み、トイレのドアを開ける。誰も居ない。風呂場も覗いたが居ない。玄関のドアは内側から鍵が掛けられた儘だ。
 どこへ行ったのかしら。
 玄関に立って、ゆるゆると振り向いた。
 新調したばかりの白いカーテンが、はためいていた。
 ベランダの窓は開いている。
 強い風が吹いて、カーテンが大きく捲れ上がる。
 ガーデニングを趣味としていた夫の両親から贈られた、様々な植物の乗る台がベランダに設置されている。それが、よく見えた。
 私は昔から土いじりが好きではなかったので、専ら植物の世話は夫がしている。花の名前さえ碌に知らないが、一番上の段の右端に置かれた鉢植えの、紫の小さな花が寄り集まって咲く、その花は可愛らしくて好きだった。
 その鉢植えが、倒れている。
 風のせいかと思ったが、紐で固定していたので、容易には移動が難しかった筈だ。
 それが、倒れている。
 さあっと、血の気が引いた。
 訳の分からぬことを喚きながら、走ってベランダに出た。
 鉢植えは強い力で押されたように倒れていた。
 吹き込む雨風に構わず、私は手摺りに手を掛けて、そっと下を――。

 *

 一年前も、今日と同じような強い雨が降っていたと、由紀子は言った。
 電話のあと、モーリスと父親、それに龍紀は、五分ほどでマンションに到着した。
 部屋で待っていた由紀子が飲んでいたココアを龍紀がねだったので、和馬はついでにと、父親とモーリスの分まで淹れてきた。以前喫茶店ででも働いていたのだろう。
 母親の隣のソファーに座った龍紀は、まだ熱いココアがちょうど良い温度に冷めるのを待って、ふうふうと息を吹き掛けている。それを見守る両親。
 どこにでもある、温かい家庭。
 和馬とモーリスはそれぞれ別のソファーと、椅子に座った。外見年齢は二十代後半、三十歳ほどだが、共にそれを上回る遥かな年月を過ごしている。スーツを纏った二人は、確かに興信所の調査員といえば、それらしいかもしれなかった。
「……龍紀」
 父親が、ふと呼び掛ける。
 大して大きくもないカップの中身を、少しずつ飲んでいた龍紀は顔を上げた。
「パパとママは、このお兄さんたちと大事なお話をするんだ。龍紀は畳の部屋で、ひとりで遊んでいられるよな?」
 言葉に、龍紀は「うん!」と元気良く返事をして、両手で持ったカップを零さぬように気を付けながら、ゆっくりと隣の部屋に歩いていった。姿が消えたと思うと、戻ってきて此方に手を振ってみせる。モーリスは微笑んで、小さく手を降り返した。それに満足したとみえて、扉をしっかりと閉める。完全に龍紀の姿は見えなくなった。
 さて、と和馬は呟いて、傍らのテーブルに肘を突く。
 風だけは弱まったようだが、遠くに雷鳴が聞こえる。雨がベランダの手摺りを打つ。中ほどに開いた儘のベランダから、冷たく湿った風が入り込んで、特有の匂いが鼻を擽った。

 父親は、龍紀を屍体に戻すつもりで連れ出した。
 けれど。
 出来なかった、とモーリスに語った。

 母親は、龍紀を帰してくれと依頼してきた。
 けれど。

「龍紀は帰ってきたぞ」
 和馬の声に、由紀子は俯いた儘だった視線を上げた。
「で、あんたはどうするんだ?」
「私は……」
 由紀子は僅かに震える声に自分でも気付いたのか、一度言葉を切ると、大きくひとつ息を吸った。
「龍紀と暮らしますよ、これからも」
「由紀子!」
 父親は悲痛な叫びで妻を諫める。肩を掴んだが、由紀子は抵抗する様子もなく項垂れていた。
 軽く腕を組んで、それまで興味なさげに傍観していたモーリスが、由紀子を見遣った。
「そろそろ、現実に目を向けても良いのではありませんか?」
 すべてを見透かすように透った翠の瞳が、由紀子を見詰める。
「成長しない息子に疑問を持っている時点で、自分の息子ではないと信じていないのと同じです」
「龍紀は私の息子です!」
「そう、息子だ」
 あっさりと肯定して、モーリスは白く細い指を己の唇に当て、なぞる。
「間違いなくあの龍紀くんは、貴方の息子です。龍紀の魂を、龍紀の屍体に封じ込めた人形ですよ」
 ――不完全なね。
 さらりと言い放ち、見るものを落ち着かせる穏やかな微笑を浮かべて、軽く首を傾げてみせた。真意を覚らせぬ男である。
 和馬は様子に、気に入らぬのか、やや不機嫌さが窺える声を上げた。
「とにかく、あんたは龍紀が傀儡だってのは理解してるんだよな?」
「はい」
「その上で、これからも暮らしていくつもりか?」
「はい」
「そりゃあ、おかしいだろう」
「……おかしい、ですか?」
 由紀子は初めて眉を顰めた。
「この兄ちゃ…」
「モーリスです」
 モーリス・ラジアル、とやはり微笑みを湛えた儘でモーリスは註釈を入れた。
「どーだっていいだろうが。……モーリスがな、言ってた通り、やっぱりあんたは現実を見てねぇよ」
 風が凪いだところへ、閃光が迸った。
「あんたは逃げてるだけだ」
 数秒ののち、轟音が響いて、僅かな震動を齎す。近い。
「好い加減、龍紀を自由にしてやったらどうだ」
 由紀子は、突かれたように目を見開く。
 龍紀と父親の居たアパートは、父親の実家の近くに存在した。このマンションからも程近い。
 その上、草間から居場所を聞いていたにも関わらず、自分からは龍紀の許へ行こうとはしなかった。
 それは。
「どこかでこのままではいけないと、理解していたからでしょう?」
 和馬の言葉を、モーリスが継いだ。
 由紀子は二三度口を開いては閉じ、開いてはと繰り返すと、隣に座る夫を振り仰いだ。父親は、何も言わず由紀子の肩にそっと手を置いて、抱き寄せる。
 そうして、二人は揃って、隣の部屋へ続く扉を見た。

 雷鳴は近く。
 然し風は弱まり、雨も先程までの勢いを失いつつある。


●時

 雨が降る度、息子の手をしっかりと握って、ベランダを眺めていた。

 何故、と何度も己に問うた。
 息子は何故あんな雨の日にベランダへ出たの、あの縁台に登ったの。
 私は何故、それに全く気付かなかった?
 何故。
 答えが返ることはもう二度とないけれど。
 そんな問いにすら、目を背けてきたのは、紛れも無く私なのだ。
 認めるのが怖かったのかもしれない。
 でも、見なければならない。

 *

 居間に続く部屋は和室になっていて、隅に積まれた布団の上で、龍紀は寝息を立てていた。由紀子は龍紀を優しく揺り起こす。小さく唸って、龍紀は目を開けた。
「出掛けるぞ、龍紀」
 父親がそっと呼ぶ。
 龍紀はまだ完全には覚醒しきってはおらず、由紀子に支えられてふらつきながら立ち上がった。モーリスと和馬に気付くと「お兄ちゃんたち、だあれ?」と見上げてくる。
 和馬が怪訝な表情を浮かべたのに、
「眠るとそれまでの記憶がリセットされてしまうそうです。だから、新しい知識も覚えない、ということでしょうね」
 小声でモーリスが説明を加えた。
 揃って家を出て、エレベーターは使わずに、階段で一階まで降りる。龍紀は両親に手を引かれて、一段一段、時折ジャンプしてみたりと甘えながら降った。その後ろを、モーリスと和馬が続く。
「おい」
「はい?」
 二人共視線は前を行く龍紀に向けられた儘、言葉を交わした。
「どうするんだよ」
「戻すんでしょう?」
 龍紀を、自然な状態に。
「分かってる。……どうやって戻すんだ? 父親はそれらしい道具も持ってなかったみてぇだが」
 ああ、とモーリスは頷いた。
「呪術の心得はありますね?」
 ありますか、ではなくそう尋ねたモーリスに、和馬は「一応な」とぶっきらぼうに返す。実際、和馬はそれによって人間の何倍もの寿命を持っている。
「では、頼みたいことがあります」
「なんだ?」
「それは、あとで。龍紀くんは私の能力で戻しますよ」
 一階に着き、エントランスを抜けて外に出た。誰一人傘を持ってはいなかったが、構わず其の儘歩いて、マンションの反対側へ抜ける。
 エントランスのある方は駐車場に続いていたのでアスファルト敷きだったが、此方側は直接花や植木が並んでおり、土の地面だった。所々に泥濘がある。
 見上げた。
 雨に打たれ見辛いが、七階の左から三つ目が、一家の家だと確認する。
 そして、ちょうどその下に、立った。
 父親の羽織ったコートに顔を埋めて、龍紀が不思議そうな表情で一同を見る。由紀子は屈んで、ぎゅっと龍紀を抱き締めた。「由紀子」、と父親が心配そうな声音で呼ぶ。龍紀を腕の中に抱いて、由紀子は「大丈夫よ」と囁き返した。龍紀の頭を何度か撫でると、由紀子はゆっくりと龍紀から身を離す。龍紀はやはり首を傾げていたが、父親の許にも母親の許にも駆け寄ろうとはしなかった。

 一年前、この場所で龍紀は死んだ。
 今と全く変わらぬ姿で。

 モーリスは龍紀に歩み寄り、此方を見上げる龍紀の額に、そっと己の手で触れた。
 龍紀はきょとんとしてモーリスの顔を見たが、彼の優しい微笑みに、自身もあどけない笑みを零す。
 由紀子は夫に肩を抱かれ、二人は息子を必死な形相で見詰めていた。

 今日も、あの日と同じような雨が降る。

 モーリスから龍紀へ、注ぎ込まれる、力。
 すべてのものを、在るべき姿へと還す、調和の能力。

 龍紀の瞳が、ふっと、閉じた。
 唇が、僅かに震えて、微かな呟きが漏らされる。
 ぐらりと傾いだ体は、音も無くその場に倒れた。

 今、やっと龍紀の時間は、『あの日』に戻り。
 その魂は、開放された。

 ――ありがとう。


●兆

 その後、龍紀の両親は救急車を呼び、面倒なことになるからと、モーリスと和馬は帰された。何かあれば、草間を通して連絡が来るだろう。
 傘は持ってきていたものの、ずぶ濡れになった和馬を、駐車場からモーリスが呼び止めた。
「なんだよ、野郎の車に乗る気はねぇぞ」
「残念ながら、デートのお誘いではなくてですね。さっき言っていた、頼みごとです」
 全身ずぶ濡れになったのはモーリスも同様で、素振りからするに、車で帰る気はないらしい。後部座席から、布に包まれた、両手に収まるほどの大きさの物体を取り出すと和馬に手渡した。
「……なんだ、これは」
「箱です」
「見りゃ分かる」
 弱まってきてはいるものの止んではいない雨に、濡れて拙いものかの判断が付かなかったので、布を少しだけずらしてその下を見た。
 木箱だった。大分古いものである。
 更に布をずらすと、上部の恐らく蓋の部分に、朱字が記されていた。
「……父親の物か?」
 モーリスは頬に張り付いた髪を、鬱陶しそうにかき上げて、「分かりますか」と尋ねた。
「まあ、なんとなくだけどな。で、これを俺に処分してくれと?」
「ええ。中身は私の能力で処分を試みたのですが、残った粉と、その箱自体はどうすればいいのか分からなかったもので」
「呪術に使われている箱を、おいそれと開けるなよ……」
 独学とはいえ呪術の心得もある和馬は、了解して箱を小脇に抱えた。モーリスの能力を通したものなら、害はないだろう。
 和馬は「じゃあな」と手を振って、駐車場を後にする。
 暫くして。
「……なんで付いてくるんだ」
「この格好で車に乗ったら、張り替えたばかりの車のシートが台無しです」
「野郎と雨の中、ずぶ濡れになりながら二人で歩くなんざ御免だ」
「最寄り駅はこっちですし」
 チッと和馬は舌打ちして、早足になる。その様子にモーリスは微笑を漏らすと、面白がってか自分も早足で歩き出した。
 外見三十歳前後の九百歳代と五百歳代のスーツ姿の男二人は、早足で駅を目指す。
 と。
 不意にモーリスが立ち止まった。
 思わず釣られて和馬も止まる。
「どうした」
「ああ、残念ですが藍原さん、ここでお別れです。お疲れさまでした」
 事情が呑み込めずにいる和馬に、モーリスはにっこりと――恐らく本日初めての心からの笑顔で別れを告げた。
 主が呼んでいる。
 直接意識への呼び掛けに、水面に落とされる一滴が波紋を生じさせるように、静かに己の波長をそろりと合わせ、其れに身を任せた。
「またお会いする機会がありましたら、よろしくお願いします」
 そしてモーリスは転移した。
 あとに残されたのは、人通りの少ない住宅街の一角に、ひとり佇む和馬のみ。
「……誰かが見てたらどうするんだよ」
 呟き、いつの間にか止んでいた雨に気付いて、空を仰いだ。
 雲がやっと切れてきた。

 晴天の兆し。


●終

 後日、草間から、龍紀は転落死として、改めて葬儀が執り行われたと知らされた。
 その後の夫婦は穏やかに過ごしているという。

 モーリスは次に設計している庭園の図面を見ながら、候補にしている植物の写真をぱらぱらと捲った。
 ふと、手が止まる。
 文字通り、蝋細工のような、鮮やかな黄色の花が大きく写されていた。
(あの家に咲いていたものの方が、良かったな)
 写真に添えられたデータの文章を追うと、花言葉まで記されている。
 と、名を呼ばれ、モーリスは席を立った。
 龍紀の祖父母の家に咲いていた、素心蝋梅の花は、本当によく手入れされていた。
 ――散らぬと良い。
 見事に咲いていた花に、飽くまでガードナーとして思い、手にしていた書類を閉じて、デスクに置いた。

 蝋梅の花言葉は、慈愛。


 <了>


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1533/藍原・和馬(あいはら・かずま)/男性/920歳/フリーター(何でも屋)】
【2318/モーリス・ラジアル/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】

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■         ライター通信          ■
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こんにちは、ライターの香守・桐月(かがみ・きづき)です。
この度は調査依頼『或いは傀儡葬送』にご参加頂き、ありがとうございました。
(微妙にタイトルが合っていないような気もします(汗))
今回は「始」「想」「連」「終」が個別の物語となっております。

モーリス・ラジアル様
初めまして、ご参加ありがとうございます。
どことなく冷たい性格、を目指したつもりが、なんだかとっても冷酷な感じに……。
とても興味深い能力でしたが、描写はこのようなもので良かったでしょうか?
未熟な点は多々あるかと思いますが、少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。
またの機会がありましたら、どうぞ宜しくお願い致します。
本当に、ありがとうございました。