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この日、聖なる花。
SCENE-[1] クリスマスミサ
カトリックの聖堂にしては、煌びやかさに欠けているかもしれない。
ステンドグラスや天井絵は勿論有しているが、しかしそれは技巧装飾を凝らしに凝らした大判ステンドグラスではないし、文化財にでも指定されそうな有名宗教画家による天井絵でもない。パイプオルガンは、やわらかな透明感あふれる音色こそ近隣では評判の代物だが、姿形はひどく落ち着いていて、如何にも外見より中身で勝負という佇まいである。
佐和トオルが高校時代までを過ごしたそんな教会も、この時期だけは、あたたかな鮮やかさを帯びて周囲に厳かな光を放つ。
降誕祭。
12月に入ってからはアドヴェントの時節となり、それが24日、25日には世間一般のクリスマスの盛り上がりの相乗効果もあって、教会内は心地よい喜びの火と聖歌のひしめき合う空間となる。
24日の夕方には、別段クリスチャンでもない一般者を招いての、比較的気軽なクリスマスの集いが催され、その後真夜中のミサへと続く。そして一夜明けて25日、この日は午前中からクリスマスミサが執り行われる。
高く冴え上がった冬天の下、すっくと聳え立つ白い尖塔。教会を取り囲む木々には昨夜来のイルミネーションが施され、扉を開けた堂内にはキャンドルが、来訪者に進むべき道を示すように奥へと連なり灯されている。その行き着く先には、美しく整えられたイタリア大理石製の祭壇。中央に、パントクラートル――――すべてを支配するキリスト――――のイコン風モザイクが安置されている。台上にディスプレイされた精巧な作りのプレセピオの周囲には、持ち込まれたポインセチアの鉢植えが並べ置かれ、聖堂の一角を赤く染め上げていた。
そこに、佐和トオルの姿が在った。
25日の今日は、教会にとってそうであるように、トオル自身にとっても特別な日なのである。
毎年、この日だけは、他に誰との約束も入れず、自分の育った教会でミサに参加し、仕事の時間ぎりぎりまで子供達や同じ施設にいた仲間達と過ごす。それが、もう何年も変わらず続けているトオルのクリスマスの在り方なのだ。
「もう、入祭唱、始まってるかな……?」
教会裏手の《司祭館》の通称で親しまれている施設に、持参して来た大量の贈り物と菓子を置いて急ぎ足で聖堂へ向かったトオルは、ちらりと腕時計に眼を遣り、聖歌を唱い上げる美声の重なり合うその中へ静かに身を浸していった。
ミサは、讃美歌と祈りの儀式の場である。
降誕祭ともなれば、一層の歓喜の声の裡にみな興奮を隠せない乍らも、やはりどこか厳粛と心身の引き締まる空気を実感する。
白く清らかな衣裳を纏った神父の後を、同じような白さを身に帯びた少年達が随いて歩き――――祈りの歌が高く広く響きわたる。
Gloria Patri et Filio
et Spiritui Sancto
Sicut erat in principio
et nunc et semper,
et in saecula saeculorum
トオルは、堂内に久し振りに逢う仲間の顔をいくつか見かけた。が、すぐには声をかけず、聖歌を口遊む彼らの横顔にそっと微笑を送り、自らもまた、次々と流れゆく歌声に同調していった。
SCENE-[2] 約束の逢瀬
厳かなミサの後に待っているのは、教会の施設で暮らす子供達の明るい歓声沸き立つ、クリスマスパーティ。室内には、昔乍らの暖炉、そのそばにパンを焼くサンタクロースを描いた飾り絵。テーブルの上には七面鳥の蒸し焼き、ブッシュ・ド・ノエル、アーモンドやクルミといったナッツ類と果物を盛り合わせたデザート皿に、様々取り揃えられた菓子皿。それらを、小さなキャンドルの灯火が取り囲んでいる。
クリスマスツリーの下には、今日教会へ足を運んだトオル達施設卒業生からの贈り物がところ狭しと置かれ――――子供達は、天辺にきらめく星を冠したモミの木に飾り付ける手作りのオーナメントを手に手に、いつになく紅潮させた頬で笑い合う。
トオルは、そんな少年少女の輪を眺め、胸が穏やかな笑みに満たされてゆくのを感じていた。
(ミサも勿論大事だけど……、俺は、この子達の笑顔を見るために、毎年ここに来るのかもしれないな)
テーブルに置かれた菓子皿の上から、チョコレートクリームを挟んだココア色のマカロンを一つ、口に抛り込んだトオルに、
「トオルお兄ちゃん!」
背後から、同時に二人の男の子が脚にタックルして来た。
「うわっ! ……っとと、ビックリした! 二人して俺を転ばせるつもり?」
トオルは振り返りざま、両腕にそれぞれ男の子を抱きかかえ、笑った。
「そう簡単に俺が倒されるとでも思った? 甘い、甘い」
「わあッ、お兄ちゃん腕が長いんだもん、ズルい!」
「そうだよ、ズルいよな! それに、甘いのはトオル兄ちゃんの方だろー? ここに来るといっつも、甘いお菓子ばっか食ってるじゃん」
トオルが甘い菓子を好むのは、何も教会に来た時に限ったことではないのだが。
「みんなにもちゃんとお菓子持って来ただろ? ほら」
そう言って、トオルは少年の体からいったん手を放すと、三日月型のワイヤーバスケットに入ったレモンクッキーやメレンゲクリスピーの詰め合わせを差し出して見せた。
二人は一度顔を見合わせたものの、またすぐトオルに向き直り、再び足並み揃えてタックルの暴挙に出た。
「え……、って、わッ!」
手にしたバスケットを無造作に投げ出すわけにもいかず、トオルは今度こそ床に尻餅をつく羽目になった。
「えへへ、ボク達の勝ち!」
「やった! トオル兄ちゃんに勝った!」
ハイタッチを交わし、少年達は坐り込んだトオルの周囲を巡り乍ら、愉しげにスキップした。
「はは……、分かったよ、分かりました、今のは俺の負け」
苦笑したトオルの頭上から、
「……相変わらず、子供にはやたら好かれるんだな、トオル」
「ホント、ホント。羨ましいぜ、そんな見事にすっ転べてさ」
年に一度、必ずこの場処で出逢う仲間の声とからかうような笑顔が降って来た。
「子供には、って何? 普段はちゃんと大人の色香漂う淑女にも好かれてるんだけど?」
トオルが満面の笑みで切り返すと、
「あー、そうかよ。もういい、お前、そのままずっとここで倒れてろ」
「よし、俺が縛り付けといてやる」
「え? 縛り付け……って、ちょっと待った! 本気で縛るなって!」
トオルは、部屋の飾り付け用ペーパーロープで手頸と足頸を拘束されそうになって、慌てて身を捩った。
と、その時。
眼前のクリスマスツリーの蔭に、ふわりと朧に立ち昇る色が視えた。
(ん?)
見ると、そこに、背に回した両手に何かを大事そうに握っている、見憶えある少女の姿が在った。
(あ……、あの子、この前教会に来た時に逢った――――)
きれいに切り揃えられた黒髪。
澄んだ眸に、白く透き通った頬。
大人しく控えめ乍ら、どこか一本筋の通った芯の強さを秘めているような少女。
少女とは、二ヶ月ほど前の秋の日、トオルが何かに導かれるように一人教会を訪れた折、出逢った。それが初対面というよりは、正確には再会に近い。初めて彼女の存在を知ったのは、もう十年の昔。寒風吹き荒ぶ中、毛布にくるまれて教会の前庭に放置されていた赤子は、トオルの知らぬ間に清げなる少女へと成長していた。実の両親に棄てられた自分に救いの手を差し伸べたのが、佐和トオルその人だと、知ることもないままに。
トオルは、ちょっとゴメン、と仲間達に言い置き、眼許に優しい微笑みを浮かべつつ少女に近付いて行った。
「約束どおり、逢いに来たよ」
突然横合いから声をかけられて、少女は一瞬ビクッと体を硬くしたが、相手がトオルだと分かるや、安心したような笑顔を見せた。
「……お兄ちゃん……」
「元気にしてた?」
「う、うん……、あのね、最近、お友達も増えて……、よくいっしょに遊んでるの」
「そうか。よかったね」
トオルが応えると、少女はほんの少し躊躇った後、それまで後ろ手に隠し持っていた籠をすっと差し出した。
「え? ……俺に?」
訊き返したトオルに、少女が深く肯いて、眦を赧らめる。
トオルが、籠に被せられた薄いナプキンを持ち上げると、中には。
手作りの、パンケーキ。
少し厚めに焼き上がり、仄かにシロップの甘い香りが漂っている。
「この前トオルさんと逢った後に、この子が作り方を教えてほしいと言い出しましてね、お兄ちゃんに食べてもらうのだからと、一生懸命練習していたんですよ」
少女の隣で、子供達のツリーの飾り付けを手伝っていたシスターが、穏やかに事の次第をトオルに教えた。
「……これ……、メープルシロップに漬けたレーズンと、くるみのパンケーキなの……」
羞ずかしそうに俯き、か細い声で言う少女に、トオルは明るい笑みで顔中を染め、
「俺のために? 嬉しいな……!」
早速パンケーキを一枚手に取ると、大きく口を開けて、齧り付いた。
「ん、旨い!」
その様子に、シスターは「まあ」と口に手を当てて笑い、少女はホッとしたように表情を和らげた。
「よかった……、お兄ちゃんにおいしいって言ってもらえて」
「うん、本当に旨いよ、このパンケーキ。しかも、キミが俺のために頑張って焼いてくれたんだと思うと、より一層美味しい」
「……誰が焼いたのかなんて、パンケーキの味に関係あるの?」
少女が頸を傾げた。
「もちろん。食べ物の味って、不思議なものでね、それを作ってくれた人の愛情が、食べる方にも伝わるんだ」
「愛情……」
「そう。つまり、キミが俺のことを想って作ってくれたパンケーキに勝る味は、此の世には他にないってこと」
本当に嬉しいよ、ありがとう――――と言って、トオルが少女の手を握ると、
「あ…………」
少女は応える言葉をみつけられぬまま、小さく肯いた。
「んー、こんなに素敵なプレゼントを貰ったお返しっていうと……、難しいなあ」
トオルはパンケーキの甘い匂いの中、考え込むように視線を彷徨わせていたが、急に「あ」と一言呟くや、スーツのポケットの中からしゃらりとロザリオを取り出した。
59個の天然アメジスト・ビーズを使って環を組み、センターメダイには聖母マリアの横顔が刻まれた、ネックレス仕上げのロザリオ。今までずっと、トオルが日常的に携帯し、ミサの時にはそれを以てロザリオの祈りを行っていたものである。
「お礼に、これは俺からキミへのプレゼント」
トオルはにこやかに言い、戸惑いがちにトオルを見上げる少女の華奢な頸に、ロザリオを回し掛けた。
「で、でも……、お兄ちゃん、これ……、お兄ちゃんの、大事なものじゃないの? 私なんかがもらっちゃって、いいの……?」
少女は、どうしたらいいのか分からない、といった顔で、クロスに恐る恐る指先を触れた。
「……いいんだよ」
トオルは微笑し、少女の髪をそっと撫で、
「キミがくれた、最高のプレゼントへのお返し。俺のために焼いてくれた、このパンケーキと……それから」
そこで一度言葉を切ると、改めて少女の双眸をしっかりみつめて告げた。
「キミの、その笑顔の、ね」
「……お兄ちゃん……!」
トオルの言葉につられるように、花のような笑顔を咲かせた少女は、自分からトオルの腕にぎゅっと抱きついた。
そう、キミはきっと、
この聖なる日に咲く、清らかで涼やかな一輪の花。
今はまだ小さな、けれどやがて自分自身の力で誰よりも美しく咲き誇る、
俺がみつけた、聖なる、花。
[この日、聖なる花。/了]
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