コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


或いは傀儡葬送


●序

 痩せた、女だった。
 ――タツキを、帰してください……。
 落ちた前髪に遮られ、表情は窺えぬ。口元だけが僅か動いて、言の葉を結んだ。
 乾いた唇は、乾いた声を発して、先程から幾度も同じ名を繰り返し、呼ぶ。
 龍紀。
 彼女の、たった一人の息子の名前――だった。

 一年前。
 龍紀は、マンション七階の自宅のベランダから、誤って転落し、死亡した。
 四歳になったばかりだった。
 母親は慟哭し、己を責めた。
 ――隣の部屋に居たのよ。すぐ近くに居たのよ。なのに、なのに。
 父親は、妻の姿と、息子の亡骸を前に、ひとつの提案を。
 ――……龍紀を、生き返らせてやろうか。

「父親は傀儡師ってやつらしくてな。といっても、内容を聞く限りじゃ、呪術師とか、祈祷師とか、そっちの類だろう」
 そっちの類、で軽く括って、草間は一家について纏められた調査書類に視線を落とした儘、説明を続けた。
 傀儡師。古来より伝わる傀儡法を用いて、人型の物体を自在に操り、時には対象に霊魂をも封じてみせるのだと云う。
「死んだ息子を、その……術、か? そいつで生き返らせたんだな。傀儡として」
 母親の前に再び笑顔をみせたのは、確かに己の息子だった。
「だが、最近になって、問題が出てきたらしい」
 親子は幸せだった。嘗てと同じ生活、同じ会話、同じ――姿。
 育ち盛りの年齢の息子は、しかし成長しなかった。
 背も伸びぬ。髪も伸びぬ。爪も伸びぬ。
 新しい知識や言葉も、全く覚えなかったのだ。

 傀儡は、人形に過ぎない。

「……父親は、元に戻そうと言い出した」
 元に。
 息子を、元の屍体に。
「母親は、反対した」
 たとえ成長しなくとも、息子の体であることには違いない。
 笑って此処に“いる”のならば、それで良いではないか、と。
「父親は無理矢理、龍紀を連れて家を出た。……居場所は掴んでる。実家の近くだ」
 言って、書類の一枚を引き抜いてテーブルに置いた。
 銜えた煙草の先、紫煙がすうと細い筋を昇らせる。
「そこに……依頼だ」
 ――龍紀を、帰してください。

 傀儡の子と、永久に続く幸福の夢を。
 或いは。


●始

 初めはひとつ。
 ああ、と気付けば、ぽつりぽつりと其処此処のアスファルトの地面に染みが増えてゆく。間を置かず染みは一面に広がった。
 藍原和馬は慌てることなく手にしていた傘を開く。
 雨の降る日というのは、特有の匂いがする。
 ここ三日程、連続で天気予報は外れている。気象庁ででも働くか、思ったが、資格やら手続きやらが面倒そうで、直ぐにその考えを消した。それに年末年始は何処でも忙しいもので、幸い職は幾らでもあるのだ。
 そして、それは草間興信所にも当て嵌まるらしい。
 前方に見えてきた、特徴のない雑居ビルにそう思う。ふと、其処から一人の男が小走りに出てゆく。ビルの入口で立ち止まり、その後姿を再び見、間違いなく性別が男性らしいことを確認してから、和馬は興信所の入るビルへと足を踏み入れた。

「今出てったばかりなんだが、擦れ違わなかったか?」
 窓から表を見下ろし、草間は二本目の煙草に火を点けた。
「スーツ姿の兄ちゃんか?」
「ああ」
「雨に降られて、走って出てったのを見たな」
 女性だったら迷わず傘を差し出したのだが。
 草間は苦笑して、窓から離れると、再び書類を繰り、和馬が所望した情報の記載された一枚を探して手渡した。
 母親の、つまり一家が住んでいるマンションの住所である。
 和馬は父親と龍紀が現在居るらしい住所と見比べ、
「……近いんだな」
 車でも、きっと三十分も掛かるまい。しかも地図の方で見れば、同じ電車の沿線上にある。
「母親には、二人の居場所は?」
「伝えてある。いや、依頼に来た時には、既に知ってたようだな。父親の実家の近くだろうと思いますって言われて、捜したら本当に近くに居た」
「知ってて、母親は自分じゃ行ってないのか」
 草間は頷いた。
 和馬は暫く書類を前に考えた末、立ち上がる。
「さっきの奴は、父親の方に行ったんだな?」
 再び頷いた草間から書類を受け取り、和馬は軽く挨拶して興信所を後にした。
 ビルを出れば、豪雨。
 まだ時刻は昼過ぎだというのに、鈍色の空は陽を隠した儘、夜を迎えそうだった。


●想――母親

 三度目だ。
 和馬は可能な限り丁寧に、誠心誠意対応したつもりであるが、既に二度も失敗している。一度目は名告った途端、「龍紀は?」と聞かれ、今は一緒ではないと答えると、言い終わる前に通話を切られた。二度目など受けてもくれない。
 草間から教えられた、一家の住むマンションのエントランス。セキュリティシステムにより、住民以外は此処で来訪先の住民に開錠操作をして貰わねば中には入れない。
 予想外の母親の対応に、盛大な溜息を落とすと、駄目で元々と、再び目の前のパネルに部屋番号を入力した。
(今度も駄目だったら、一旦引き上げて父親の方に合流するか)
 空しく響く呼び出し音に、諦めを感じ始めた頃、不意にガチャンッと音がした。
 開錠されたのだ。
 軽い電子音とともに透明な自動ドアが開く。
 今このエントランスに居るのは和馬だけだ。
 と、いうことは。
『……早く入らないと、閉まりますよ』
 インターホンから聞こえてきた静かな声に、和馬は三度目の正直、とつまらぬことを思って、早足で其処を通過した。
 エレベーターを使って七階に到着すると、順にドアに表示された番号を確認してゆき、目当ての家を見付け出す。
 流石に此処まで通しておいてドアを開けぬなどということはないだろうが、やや不安になりながらチャイムを押した。
 鳴り終わるとほぼ同時、勢いよくドアが外側に放たれる。和馬は持ち前の敏捷さで颯と避けると、反動で閉まりそうになるドアを押さえた。
「あ……ッ」
 中からは支えを失ってよろける女の姿。ドアに添えている右手は其の儘に、半身でそちらも受け止める。努めて慎重に。
 女は暫く和馬の左腕に縋っていた。息が荒い。震えている。大丈夫か、と声を掛けると、初めて顔を上げた。
 痩せた、女だった。
 息を弾ませているわりには、その頬は些かの赤みも帯びておらず、長く乱れた黒髪にも艶は感じられなかった。髪の間から、それでも真っ直ぐに和馬を見詰める両の眼は落ち窪み、瞳の光も頼りなく、ただ和馬を映して揺れている。
 一際、ざあっと、背後から湿った風を伴って雨音が吹き付ける。
 このまま玄関先で立っていても仕方がない。
「入っても?」
 女は、あ、と無意味に呟くと、こくん、と子供染みた動作で頷いた。
 後ろ手にドアを閉めると、雨音は遮断される。
 けれど短い廊下の先、はためく白いカーテンの向こうからノイズにも似た其れは継続していた。
 居間まで女の手を引いて支え連れて行き、ソファーに座らせる。浅く腰掛け、己の手首を違う方の手で強く掴んで、やはり女は小さく震えていた。視線の先が何処に向けられているかは髪に遮られて知れぬが、ずっと俯いた儘である。
 動揺している。
 それが何によって齎されるものなのかは分からぬ。
 和馬の来訪にか、息子の安否――死者には不似合いな言葉だが――を気遣ってか、或いは別の理由に因るものか。
 さあ、と強い風が室内を過ぎる。
 外気温と大差の無い寒さに、和馬は開け放たれた儘のベランダの窓を閉めようと動いた。
 と。
「そのままで」
 振り向けば、女は腰を浮かせ、その白い手を制止の意を表すように伸ばしている。
「……あ、その、そのままで、お願いします……」
「俺は構わないが、あんたは寒くないのか? 見たところ、大分体の調子が悪そうだが」
「大丈夫です。私は、大丈夫ですから。だから、そのままで」
 呟くと、すとんとソファに頽れた。
 疲れた、というよりは衰弱したその様子に、和馬はキッチンへと向かう。
「台所、勝手に使って大丈夫か?」
 お好きに、と弱々しい返事を聞くと、見当を付けて手前の戸棚を探る。案の定、直ぐにココアのインスタントの粉を、次いで砂糖を見付けた。下の棚から雪平鍋を取り出し、冷蔵庫からは牛乳を取り出す。
 念の為確認したが、消費期限の日にちから察するに、昨日辺りに購入したものだろう。他の食材も問題なく、種類も一通り揃えてあり、大抵の料理は直ぐに作れる状態だった。
 しかし、ゴミ箱をひょいと覗いてみると、無造作に捨てられた未開封のパックや、店頭に陳列されている姿の儘の野菜が見える。
 スプーンを見付けると鍋にココアと砂糖をそれぞれ一杯ずつ入れ、牛乳を少し垂らして練る。ペースト状になるまで練ると、鍋を火に掛けた。牛乳を少しずつ足していきながら、ゆっくりとココアと混ぜ合わせる。表面にぷつぷつと気泡が発生し始めたところで火から下ろし、頃合いのカップに注いだ。
 カップを手に居間に戻ると、先程と変わらぬ姿勢で女はベランダをじっと凝視していた。膝の上で重ねられた手はもう震えてはいない。幾分かは落ち着いたのだろう。
 カップを手渡すと、僅かに首を傾げ、「すみません」と目を伏せた。
 そっとカップに口を付け、熱い液体を少しだけ含む。ココアの甘い香りに、ほっとしたように、息を吐いた。
 和馬は何も言わず、彼女の斜め向かいのソファーに腰を下ろす。
 女はもう一口飲んでから、カップを両手で包んで、膝の上に置いた。
「先程は大変な失礼を……申し訳ありません。調査を依頼した、神谷由紀子と申します」
 名告り、すいとベランダを眺め、それが遠い場所に存在するかのように目を細めた。
「龍紀の、母親です」
 カーテンが大きく、ひらめいた。

 由紀子は一年前に此処で起こったことを、淡々と和馬に話した。言葉はやけに素っ気無く、声も一調子を保った儘で、視線だけが時折、手元のカップとベランダを行き来している。
 龍紀がベランダから転落した時のこと、それを知り混乱して夫に縋ったこと、「龍紀を生き返らせてやろうか」、その言葉に直ぐに頷いたこと。
 ――生き返らせて。
 ――龍紀を帰して。
 そして、望み通りに帰ってきた息子。
 成長することのない、ずっとあの日の儘の私の子供。
「……あんたはそれで、幸せだったのか?」
 和馬は由紀子の言葉が途切れたのを合図に、語りかけた。
「幸せでした」
 由紀子は即答した。
「幸せでない筈がないわ……龍紀が、帰ってきたのだもの」
 震える声、怯えたような眼差し。
 それだけは、と。
 それだけは信じていなければと、必死に言葉を重ねる。
「どんな状態であれ、龍紀は私の子供なのだもの」
「龍紀は帰すさ。今、他の調査員が向かってる」
「そう、ですか」
「ただ……」
 和馬は言葉を選んで、やっと此方を見た由紀子に視線を合わせた。
「取りかえしたあと、あんたはどうするんだ? ただ取りかえしただけじゃ、また同じことを繰り返すんじゃないのか?」
 同じこと。
 言葉に、由紀子は息を呑む。
 手の中のカップで、茶色の液体が揺れた。
「私は……」
 何事か言おうとした時、唐突にそれは遮られた。
 電話だ。
 逡巡する由紀子に、「出ろよ」と返す。由紀子はのろのろと緩慢な動作で立ち上がり、受話器を取った。
 ふと、雨音に先程までは聞こえていなかった音が雑じったのに気付いて、和馬は眇めた目を窓の外に遣る。風までが強くなってきている。少しぐらいは構わぬだろうと、全開になっていた窓を半分ほどに閉めた。
 背後から、由紀子の声が掛かる。
 電話は、父親からだった。

 雨は未だ強く降り頻る。
 遠くから、雷鳴をも呼び寄せて。


●連

 父親は、龍紀と共に此方に向かっていると伝えてきた。
 途中で由紀子に促され、電話を代わる。
『草間さんが仰っていた、もう一人の調査員とは貴方のことですか』
 言われて、ビルの前で擦れ違ったあのスーツの男だと気付く。
「ああ」
『初めまして、モーリス・ラジアルと申します』
「藍原和馬だ」
 我ながら無愛想に短く名告る。
「それで、龍紀は?」
『一緒に此処に居ます。もうすぐそちらのマンションに着くところです』
 車の中から掛けてきているのだろう。携帯電話特有のノイズに、くぐもったような雨音が重なっている。
「あー、と……どんな状態だ、龍紀は」
 自分のすぐ後ろに立ち、此方を窺っている様子の由紀子に気遣って、それとなく尋ねたつもりだった。
 が。
『動いていますよ。まだ元の状態には戻していませんから。そちらに着いてから行おうかと思っています』
 相手はやけにはっきりと断言したもので、思わず和馬は背後を振り返った。
 今の声量からして、聞こえていた筈だ。
 元の状態に、とは明確にどういったことを指すのかは分からぬが、恐らくは何らかの方法を以て屍体に戻すことを言っているのだろう。
 和馬はそれに、反対している訳ではないが。
 母親は。
 由紀子は、きっと聞いていた。
 しかし、由紀子は微かに首を傾ぐと、ふっと吐息して、ソファーに腰掛けた。
 穏やかに。
『……藍原さん? 信号が変わりますので、切りますよ』
 声に、「何でもない。じゃあな」とやはり無愛想に答え、乱暴に受話器を置く。
 耳に届く雨音が、電話から聞こえていたノイズと混じったような心地がした。


●雨

 一年前も、今日と同じような強い雨が降っていた。

 点けた儘の居間のテレビも、常よりは三つほど音量を上げているのだが、隣の部屋に居ると雨音に掻き消されて殆ど聞こえなかった。偶に聞こえてくるのはヒーローの叫び声や、爆音で、朝からずっと息子はビデオで特撮ものの番組を観ている。ライダーだったか、レンジャーだったか、未だに私は覚えられないのだが、息子にとってはとても重要な問題で、何度も聞かされる名前や必殺技の名称を、それでも幾つかは私も記憶していた。
 数日前から降っている雨に、梅雨時でもないのにと、やや憂鬱になりながら乾燥機にかけたばかりの洗濯物を折り畳む。
 一段落付いたところで、コーヒーでも飲もうかと立ち上がり、居間を通ってキッチンへ向かう。
 ふと。
 豪雨にも関わらず、ベランダの窓が開いている。
 乾燥機から取り出した洗濯物を持って通った時は、勿論のこと閉まっていた。
 不思議に思いながら居間に視線を戻すと、点けっ放しのテレビ。息子の一番好きだったヒーローが、何やら叫びながら洞窟のような場所を走っている。仲間がピンチに陥っているらしい。随分いいところなのに、息子は観ていなかった。
 息子はテレビの前に居なかった。
 トイレにでも行ったのかと、ぼんやりと、やけにゆっくりと歩いて廊下を進み、トイレのドアを開ける。誰も居ない。風呂場も覗いたが居ない。玄関のドアは内側から鍵が掛けられた儘だ。
 どこへ行ったのかしら。
 玄関に立って、ゆるゆると振り向いた。
 新調したばかりの白いカーテンが、はためいていた。
 ベランダの窓は開いている。
 強い風が吹いて、カーテンが大きく捲れ上がる。
 ガーデニングを趣味としていた夫の両親から贈られた、様々な植物の乗る台がベランダに設置されている。それが、よく見えた。
 私は昔から土いじりが好きではなかったので、専ら植物の世話は夫がしている。花の名前さえ碌に知らないが、一番上の段の右端に置かれた鉢植えの、紫の小さな花が寄り集まって咲く、その花は可愛らしくて好きだった。
 その鉢植えが、倒れている。
 風のせいかと思ったが、紐で固定していたので、容易には移動が難しかった筈だ。
 それが、倒れている。
 さあっと、血の気が引いた。
 訳の分からぬことを喚きながら、走ってベランダに出た。
 鉢植えは強い力で押されたように倒れていた。
 吹き込む雨風に構わず、私は手摺りに手を掛けて、そっと下を――。

 *

 一年前も、今日と同じような強い雨が降っていたと、由紀子は言った。
 電話のあと、モーリスと父親、それに龍紀は、五分ほどでマンションに到着した。
 部屋で待っていた由紀子が飲んでいたココアを龍紀がねだったので、和馬はついでにと、父親とモーリスの分まで淹れてきた。以前喫茶店ででも働いていたのだろう。
 母親の隣のソファーに座った龍紀は、まだ熱いココアがちょうど良い温度に冷めるのを待って、ふうふうと息を吹き掛けている。それを見守る両親。
 どこにでもある、温かい家庭。
 和馬とモーリスはそれぞれ別のソファーと、椅子に座った。外見年齢は二十代後半、三十歳ほどだが、共にそれを上回る遥かな年月を過ごしている。スーツを纏った二人は、確かに興信所の調査員といえば、それらしいかもしれなかった。
「……龍紀」
 父親が、ふと呼び掛ける。
 大して大きくもないカップの中身を、少しずつ飲んでいた龍紀は顔を上げた。
「パパとママは、このお兄さんたちと大事なお話をするんだ。龍紀は畳の部屋で、ひとりで遊んでいられるよな?」
 言葉に、龍紀は「うん!」と元気良く返事をして、両手で持ったカップを零さぬように気を付けながら、ゆっくりと隣の部屋に歩いていった。姿が消えたと思うと、戻ってきて此方に手を振ってみせる。モーリスは微笑んで、小さく手を降り返した。それに満足したとみえて、扉をしっかりと閉める。完全に龍紀の姿は見えなくなった。
 さて、と和馬は呟いて、傍らのテーブルに肘を突く。
 風だけは弱まったようだが、遠くに雷鳴が聞こえる。雨がベランダの手摺りを打つ。中ほどに開いた儘のベランダから、冷たく湿った風が入り込んで、特有の匂いが鼻を擽った。

 父親は、龍紀を屍体に戻すつもりで連れ出した。
 けれど。
 出来なかった、とモーリスに語った。

 母親は、龍紀を帰してくれと依頼してきた。
 けれど。

「龍紀は帰ってきたぞ」
 和馬の声に、由紀子は俯いた儘だった視線を上げた。
「で、あんたはどうするんだ?」
「私は……」
 由紀子は僅かに震える声に自分でも気付いたのか、一度言葉を切ると、大きくひとつ息を吸った。
「龍紀と暮らしますよ、これからも」
「由紀子!」
 父親は悲痛な叫びで妻を諫める。肩を掴んだが、由紀子は抵抗する様子もなく項垂れていた。
 軽く腕を組んで、それまで興味なさげに傍観していたモーリスが、由紀子を見遣った。
「そろそろ、現実に目を向けても良いのではありませんか?」
 すべてを見透かすように透った翠の瞳が、由紀子を見詰める。
「成長しない息子に疑問を持っている時点で、自分の息子ではないと信じていないのと同じです」
「龍紀は私の息子です!」
「そう、息子だ」
 あっさりと肯定して、モーリスは白く細い指を己の唇に当て、なぞる。
「間違いなくあの龍紀くんは、貴方の息子です。龍紀の魂を、龍紀の屍体に封じ込めた人形ですよ」
 ――不完全なね。
 さらりと言い放ち、見るものを落ち着かせる穏やかな微笑を浮かべて、軽く首を傾げてみせた。真意を覚らせぬ男である。
 和馬は様子に、気に入らぬのか、やや不機嫌さが窺える声を上げた。
「とにかく、あんたは龍紀が傀儡だってのは理解してるんだよな?」
「はい」
「その上で、これからも暮らしていくつもりか?」
「はい」
「そりゃあ、おかしいだろう」
「……おかしい、ですか?」
 由紀子は初めて眉を顰めた。
「この兄ちゃ…」
「モーリスです」
 モーリス・ラジアル、とやはり微笑みを湛えた儘でモーリスは註釈を入れた。
「どーだっていいだろうが。……モーリスがな、言ってた通り、やっぱりあんたは現実を見てねぇよ」
 風が凪いだところへ、閃光が迸った。
「あんたは逃げてるだけだ」
 数秒ののち、轟音が響いて、僅かな震動を齎す。近い。
「好い加減、龍紀を自由にしてやったらどうだ」
 由紀子は、突かれたように目を見開く。
 龍紀と父親の居たアパートは、父親の実家の近くに存在した。このマンションからも程近い。
 その上、草間から居場所を聞いていたにも関わらず、自分からは龍紀の許へ行こうとはしなかった。
 それは。
「どこかでこのままではいけないと、理解していたからでしょう?」
 和馬の言葉を、モーリスが継いだ。
 由紀子は二三度口を開いては閉じ、開いてはと繰り返すと、隣に座る夫を振り仰いだ。父親は、何も言わず由紀子の肩にそっと手を置いて、抱き寄せる。
 そうして、二人は揃って、隣の部屋へ続く扉を見た。

 雷鳴は近く。
 然し風は弱まり、雨も先程までの勢いを失いつつある。


●時

 雨が降る度、息子の手をしっかりと握って、ベランダを眺めていた。

 何故、と何度も己に問うた。
 息子は何故あんな雨の日にベランダへ出たの、あの縁台に登ったの。
 私は何故、それに全く気付かなかった?
 何故。
 答えが返ることはもう二度とないけれど。
 そんな問いにすら、目を背けてきたのは、紛れも無く私なのだ。
 認めるのが怖かったのかもしれない。
 でも、見なければならない。

 *

 居間に続く部屋は和室になっていて、隅に積まれた布団の上で、龍紀は寝息を立てていた。由紀子は龍紀を優しく揺り起こす。小さく唸って、龍紀は目を開けた。
「出掛けるぞ、龍紀」
 父親がそっと呼ぶ。
 龍紀はまだ完全には覚醒しきってはおらず、由紀子に支えられてふらつきながら立ち上がった。モーリスと和馬に気付くと「お兄ちゃんたち、だあれ?」と見上げてくる。
 和馬が怪訝な表情を浮かべたのに、
「眠るとそれまでの記憶がリセットされてしまうそうです。だから、新しい知識も覚えない、ということでしょうね」
 小声でモーリスが説明を加えた。
 揃って家を出て、エレベーターは使わずに、階段で一階まで降りる。龍紀は両親に手を引かれて、一段一段、時折ジャンプしてみたりと甘えながら降った。その後ろを、モーリスと和馬が続く。
「おい」
「はい?」
 二人共視線は前を行く龍紀に向けられた儘、言葉を交わした。
「どうするんだよ」
「戻すんでしょう?」
 龍紀を、自然な状態に。
「分かってる。……どうやって戻すんだ? 父親はそれらしい道具も持ってなかったみてぇだが」
 ああ、とモーリスは頷いた。
「呪術の心得はありますね?」
 ありますか、ではなくそう尋ねたモーリスに、和馬は「一応な」とぶっきらぼうに返す。実際、和馬はそれによって人間の何倍もの寿命を持っている。
「では、頼みたいことがあります」
「なんだ?」
「それは、あとで。龍紀くんは私の能力で戻しますよ」
 一階に着き、エントランスを抜けて外に出た。誰一人傘を持ってはいなかったが、構わず其の儘歩いて、マンションの反対側へ抜ける。
 エントランスのある方は駐車場に続いていたのでアスファルト敷きだったが、此方側は直接花や植木が並んでおり、土の地面だった。所々に泥濘がある。
 見上げた。
 雨に打たれ見辛いが、七階の左から三つ目が、一家の家だと確認する。
 そして、ちょうどその下に、立った。
 父親の羽織ったコートに顔を埋めて、龍紀が不思議そうな表情で一同を見る。由紀子は屈んで、ぎゅっと龍紀を抱き締めた。「由紀子」、と父親が心配そうな声音で呼ぶ。龍紀を腕の中に抱いて、由紀子は「大丈夫よ」と囁き返した。龍紀の頭を何度か撫でると、由紀子はゆっくりと龍紀から身を離す。龍紀はやはり首を傾げていたが、父親の許にも母親の許にも駆け寄ろうとはしなかった。

 一年前、この場所で龍紀は死んだ。
 今と全く変わらぬ姿で。

 モーリスは龍紀に歩み寄り、此方を見上げる龍紀の額に、そっと己の手で触れた。
 龍紀はきょとんとしてモーリスの顔を見たが、彼の優しい微笑みに、自身もあどけない笑みを零す。
 由紀子は夫に肩を抱かれ、二人は息子を必死な形相で見詰めていた。

 今日も、あの日と同じような雨が降る。

 モーリスから龍紀へ、注ぎ込まれる、力。
 すべてのものを、在るべき姿へと還す、調和の能力。

 龍紀の瞳が、ふっと、閉じた。
 唇が、僅かに震えて、微かな呟きが漏らされる。
 ぐらりと傾いだ体は、音も無くその場に倒れた。

 今、やっと龍紀の時間は、『あの日』に戻り。
 その魂は、開放された。

 ――ありがとう。


●兆

 その後、龍紀の両親は救急車を呼び、面倒なことになるからと、モーリスと和馬は帰された。何かあれば、草間を通して連絡が来るだろう。
 傘は持ってきていたものの、ずぶ濡れになった和馬を、駐車場からモーリスが呼び止めた。
「なんだよ、野郎の車に乗る気はねぇぞ」
「残念ながら、デートのお誘いではなくてですね。さっき言っていた、頼みごとです」
 全身ずぶ濡れになったのはモーリスも同様で、素振りからするに、車で帰る気はないらしい。後部座席から、布に包まれた、両手に収まるほどの大きさの物体を取り出すと和馬に手渡した。
「……なんだ、これは」
「箱です」
「見りゃ分かる」
 弱まってきてはいるものの止んではいない雨に、濡れて拙いものかの判断が付かなかったので、布を少しだけずらしてその下を見た。
 木箱だった。大分古いものである。
 更に布をずらすと、上部の恐らく蓋の部分に、朱字が記されていた。
「……父親の物か?」
 モーリスは頬に張り付いた髪を、鬱陶しそうにかき上げて、「分かりますか」と尋ねた。
「まあ、なんとなくだけどな。で、これを俺に処分してくれと?」
「ええ。中身は私の能力で処分を試みたのですが、残った粉と、その箱自体はどうすればいいのか分からなかったもので」
「呪術に使われている箱を、おいそれと開けるなよ……」
 独学とはいえ呪術の心得もある和馬は、了解して箱を小脇に抱えた。モーリスの能力を通したものなら、害はないだろう。
 和馬は「じゃあな」と手を振って、駐車場を後にする。
 暫くして。
「……なんで付いてくるんだ」
「この格好で車に乗ったら、張り替えたばかりの車のシートが台無しです」
「野郎と雨の中、ずぶ濡れになりながら二人で歩くなんざ御免だ」
「最寄り駅はこっちですし」
 チッと和馬は舌打ちして、早足になる。その様子にモーリスは微笑を漏らすと、面白がってか自分も早足で歩き出した。
 外見三十歳前後の九百歳代と五百歳代のスーツ姿の男二人は、早足で駅を目指す。
 と。
 不意にモーリスが立ち止まった。
 思わず釣られて和馬も止まる。
「どうした」
「ああ、残念ですが藍原さん、ここでお別れです。お疲れさまでした」
 事情が呑み込めずにいる和馬に、モーリスはにっこりと――恐らく本日初めての心からの笑顔で別れを告げた。
 主が呼んでいる。
 直接意識への呼び掛けに、水面に落とされる一滴が波紋を生じさせるように、静かに己の波長をそろりと合わせ、其れに身を任せた。
「またお会いする機会がありましたら、よろしくお願いします」
 そしてモーリスは転移した。
 あとに残されたのは、人通りの少ない住宅街の一角に、ひとり佇む和馬のみ。
「……誰かが見てたらどうするんだよ」
 呟き、いつの間にか止んでいた雨に気付いて、空を仰いだ。
 雲がやっと切れてきた。

 晴天の兆し。


●終

 後日、草間から、龍紀は転落死として、改めて葬儀が執り行われたと知らされた。
 その後の夫婦は穏やかに過ごしているという。

 草間からの電話を切って、目の前に置かれた木箱と、今回の調査資料の書類に視線を投げる。
 書類の方は仕舞おうと、何気なくもう一度内容に目を通した。
 そして、
(ああ、変わった名前だと思ってたら、そうゆうことか)
 並んで記されている、一家の名前。
『神谷龍平 ・ 由紀子  ・  龍紀』
 龍紀の名前は、両親から一字ずつ取って付けられたものだったのだ。
 無造作に封筒に書類を押し込むと、今度は木箱を手に取る。
 蓋を外すと、モーリスが言っていた通り、白い粉が少量、底に広がっていた。
 部屋の窓を開ける。
 右手の人差し指と中指を立てて剣の形を取ると、短く咒を唱えて、箱の上で薙いだ。
 すると粉が箱の中で渦巻くようにして集まり、回転しながらするすると上に向かって形状を細長くした。ちょうど小さな蛇に似ている。蛇のような其れは、とろりとした気を纏って、箱の中から飛び出すと、窓の外へ出て行った。其の儘ずっと空を目指して昇ってゆく。
 これで、二度とこの木箱を使って、呪術が行われることはないだろう。
 和馬は、残った木箱をどうしたものか、と玩ぶ。骨董屋辺りなら引き取ってくれるだろうか、と思い立ち、頑丈な造りのそれを、コツと指で弾いた。
 空を翔る白蛇は、もう完全に見えなくなっていた。


 <了>


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1533/藍原・和馬(あいはら・かずま)/男性/920歳/フリーター(何でも屋)】
【2318/モーリス・ラジアル/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

こんにちは、ライターの香守・桐月(かがみ・きづき)です。
この度は調査依頼『或いは傀儡葬送』にご参加頂き、ありがとうございました。
(微妙にタイトルが合っていないような気もします(汗))
今回は「始」「想」「連」「終」が個別の物語となっております。

藍原・和馬様
再びお会い出来て嬉しいです。ありがとうございます。
母親自身で解決を、とお望みでしたが、如何でしたでしょうか?
あまり能力を発揮出来なかったのが心残りです。その分、ココアを…(笑)
少しでも楽しんで頂けるものに仕上がっていれば、幸いです。
本当にありがとうございました。