コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談・PCゲームノベル>


蒼穹の羽 1
-----------------------------------

もうだめだと思うこともあるし 誰も傍にはいないんだと思ったりもする
だけど、人生にはやり遂げなくてはいけない奇跡があるんだ
それは他のどこでもない、自分の心の中にある

それが何かさえわかれば、きっとそこまでたどり着ける
きっと叶うんだと信じていれば、それはきっと本当になる

きっと空も飛べる
あの青空を両手で抱きしめることもできる
朝も夜もそのことを考えているんだ
両手を広げて、どこかへ飛び立ってしまえたらいいと
開いたドアを飛び出して どこまでも飛べるさ


―――お前となら、空だって飛べると思ってたんだ。



現れた男は、くたびれたように街を歩くサラリーマンの波に、見事に同化していた。わずかばかりの違いといえば、その確りした歩き方だろうか。それすらもほんの些細な違いで、余程の注意力がない限り見逃してしまいそうだ。
「この国の人々は生気のない目をしている。こればかりは、努力しても似せられるものではない」
近づいてきた男はそう言って、冷たい光を湛えた黒い目でこちらを見つめた。東洋人のようだが、普通の日本人とはどこか漂わせる雰囲気が違う。
その理由は、すぐに知れた。名刺を出すこともなく、ありふれた喫茶店のテーブルの向こうから、男は太巻を見つめる。
「IO2調査官のチェンだ。君の噂はかねがね」
「いやそれほどでも」
謙遜を謙遜とも受け取らず、ふてぶてしい態度で太巻はタバコを咥える。
火をつけて、これみよがしに、煙を相手に向けて吐き出した。笑みが崩れないのが余計にいけ好かない。
「探して欲しいのはこの少女だ」
テーブルの上を、チェンが取り出した写真が滑った。
視線を落とす。制服を着ているところを見ると、どうやら十代らしい。サロンで焼いたらしい浅黒い肌。明るく脱色した髪。整った容貌をしているが、写真には面白くもなさそうな仏頂面でうつっている。
「最近のヤングな若者じゃねェの。ただの家出じゃねえか?」
面白くもなさそうにちらりと視線をやっただけで、太巻は相手に視線を戻す。こちらの反応を伺うように、顎を引いて上目遣いにチェンは視線を外さなかった。
「それが違うのだ。この少女を誘拐した犯人がいる。名前は榊リョウ(さかき・りょう)。現在、我々が要注意人物として目を付けている異能力者だよ」
「知ったこっちゃねぇな」
「君は、あらゆるジャンルの仕事の斡旋・紹介をしていると聞いた」
「客を選ぶんだよ」
椅子を蹴って、席を立とうとする太巻に、声が追った。
「君の奥様は長年、我々のデータの中に名前を見かけるよ」
「…………」
「無論、」
薄ら笑いを浮かべて、テーブルの上で肘をつき、チェンは指先を組み合わせた。
「現在はまだ、要注意人物に過ぎない。……だが、こちらの気分次第で、いつでも風向きが変わるんだということは、覚えておいたほうがいい」
「……おウチに帰って○#の@$#でもしゃぶってな、このク○X&*%野郎」
「下品だな」
口元を僅かに歪めてチェンは笑い、掬い上げるように太巻を見た。
「コトは、誘拐事件だよ。何も同類を殺してくれと頼んでいるわけではない。誘拐された少女を助けるのに協力してほしいだけだ」


-----------------------------------
「IO2か」
話を聞き終えて、ケーナズ・ルクセンブルクは器用に片方の眉を上げた。IO2に紹介屋。なんとも信じられない組み合わせである。
「キミが関わりたがる連中とも思えないが……宗旨替えかね?」
「うるせえ」
普段どおりに紹介屋は憎まれ口を叩き返し、これまた普段どおり、ケーナズの不快な顔も気にせずにタバコを吹かした。問いかけは、返事を得られぬまま、暗い室内に吸い込まれていった。
普段は偉そうに踏ん反り返っている太巻大介は、満足のいくまで煙を吸い込んでから、ようやく身を乗り出して居並んだ一同を見回した。
「犯人は榊リョウ。誘拐されたのは山岸正美、ヤマンバ女子高生。榊リョウはIO2が数年前から目を付けている要注意人物だ。悪霊使いで、幻術使い。現在は坂崎ってェ名前の悪霊と行動を共にしている」
壊れかけの丸テーブルには、IO2から渡された薄っぺらな資料が乗っている。枚数にして3枚。表紙を入れなければ2枚にしかならない。資料に書かれていることは、太巻が説明した言葉だけで全て事足りた。
資料を読んだ面々の反応はまちまちである。「これだけ?」という顔をして太巻を見つめるのは、硝月・倉菜(しょうつき・くらな)と倉塚・将之(くらつか・まさゆき)だ。ケーナズは資料に二度、目を通してから、それを丁寧に折りたたんだ。シュライン・エマと御影・涼(みかげ・りょう)は、何度見たところで増えるはずのない資料を捲り、難しい顔をしていた。
「なんか、あるか?注意事項とか、言っとくこととか?」
「……そうだな。榊の幻を見せる能力は要注意だ。視覚に頼りすぎて見失うことがないよう、用心したほうがいいかもしれない」
太巻の言葉にちらりと視線を上げ、それだけ言ってケーナズは再び物思いに沈む。思い出したように折りたたんだ資料に視線を落とし、5分もあれば読み終えてしまう簡単な報告を再び読み直していた。
「太巻さん。もしかしてご存知ないかもしれないけど」
重みもなにもない三枚の紙をテーブルに置いて、倉菜が紹介屋を見た。チビたタバコを根元まで吸って、太巻は顎をしゃくる。
「あんだよ」
「私、普通の女子高生なんですけど?」
「それが?」
と、返ってきたのは味も素っ気もない返事である。まあ、言っても無駄だとは思っていた。太巻は、この店に足を踏み入れた者は都合のいい働き手だと思っており、彼の前に人が現れるのは、すべからく自分のためだと考えている。いくら倉菜が「偶々だったのよ」と言おうが、将之が「バイトがあるんだけど」と抗議しようが、それは彼には関係のないことである。
「ま、いいけど」
諦めて、倉菜は細い肩を竦めた。榊が連れている男が持った「妖刀」には興味もある。それに、誘拐されたのは彼女と同じ女子高生だ。放っておくわけにも行くまい。
「あ、そうだ。もう一人、この件を手伝ってくれそうな人がいるんだけど。連絡したらダメかしら」
「……誰だ?」
首を傾げて迷う様子を見せてから、太巻は尋ねた。倉菜はクールな顔にちらりと笑みを浮かべる。出て来たのは……某財閥の総帥の名前だった。



「総帥」
真っ赤に燃え立つような空が、黒い大地を鮮やかなコントラストを織り成す夕暮れである。控えめなノックとともに、ノックの音がした。
「お電話が入っております。硝月様という方ですが」
「ほう……」
硝月という名を聞いて思い浮かぶのは、音楽の才能に長けた銀の髪の少女である。年よりも大人びた彼女が、平日の夕方、しかもこんな中途半端な時刻に、世間話程度の理由で電話を掛けて来るとも考えがたい。「電話を回しなさい」と指示を出して、セレスティ・カーニンガムは車椅子を窓際から、オーク材の机へと移動させた。殆ど間をおかずに、デスクに載った電話のボタンが明滅して、着信を告げる。
『セレスティさん?』
案の定、声の主はセレスティが予想したとおりの人物だった。
「倉菜さん。ご無沙汰しております」
『ご無沙汰しています。お元気でしたか?忙しい時間にごめんなさい』
まずは中途半端な時間に電話をかけたことへの非礼を詫びて、倉菜は声の調子を変えた。すぐに話の核心に触れる喋りには無駄がない。やや懸念を含ませた声が、電話越しに微かな雑音ごと流れてきた。
『実はIO2のダイ・チェンと名乗る男が、本部から日本に出向しているみたいなんです。ご存知でした?』
「いえ。その男が何か?」
『異能テロリストに誘拐された少女を探して欲しいって、私の知り合いを通して依頼があったんです』
「なるほど」
相槌を打ちながら、セレスティは首を傾げた。彼の脳裏を、瞬時にいくつもの疑問がよぎる。
考えた末、電話の向こうの相手に一つだけ尋ねた。
「警察には、知らせていないんですね?」
『知らせていないみたい』
「そうですか」
細い指先は頭の中でめまぐるしく働く思考を示すように、テーブルに意味のない模様を描く。
警察には知らせていない事件。チェンという男。
誘拐事件だと名言しておきながら警察に連絡を入れないのは、知られてはまずいことでもあるのか……それともただの矜持だろうか。
「……わかりました。私の方でも、色々と探ってみましょう。倉菜さんはこれからどうなさるおつもりです?」
『明日にでも、被害者の少女のことを探ってみようと思ってます。よかったらセレスティさんもご一緒にいらっしゃいませんか』
さばさばした物言いの裏に、それとなく隠れた気遣いが微笑ましい。セレスティは、電話の向こうにまでは届くはずのない笑みを、端正な口元に刻んだ。
「もちろん、喜んで同行させていただきましょう。よろしければ、ご自宅まで迎えの車をやらせますよ」



「はい、悪いけど将之君、そっちを持ってくれる?」
K高校の校門からは、制服を着た生徒たちがぱらぱらと吐き出されていく。それを横目で見ながら、倉菜はセレスティの車椅子を、トランクから引っ張り出しているところだった。――スチール製の車椅子をトランクから引っ張り出すのは、倉菜ではなく将之の仕事である。
倉菜とセレスティが一緒に行動すると知った太巻が、気軽に将之に言ったのだ。「お前、お供してこい」と。
お供というよりはていのいい荷物持ちである。勿論、大人用の車椅子などはかなりの重さがある。倉菜にそんな大仕事をさせるわけにはいかないから、結果的には良いのだが。
(お供ってな……)
なんだか釈然としない将之である。
「友達の話によると、山岸さんはここの学校の生徒なのよね」
と学校を振り返った倉菜が手に持つのは、むき出しの竹刀だ。正確には、竹刀に見せかけた霊刀である。犯人に遭遇した時に備えて、刀のほかにも、セレスティに作ってもらった聖水の小瓶もポケットに入っていた。
将之が苦労しながら車椅子を組み立てると、黒塗りの高級車の後部席のドアが開いて、セレスティが椅子へと移動した。ちらほらと通りがかる生徒たちが、奇妙な取り合わせと高級車に、興味深げな視線を向けていく。
「チョーやだ〜〜〜」
女子高生たちの、変に甲高い声が聞こえる。
振り返ると、髪を縞模様に脱色した少女たちが、冬だというのにミニスカートで、日に焼けた肌を晒しながら高い声を上げながら歩いてくるところだった。
「……アレ?」
臆した様子で、将之がそっと彼女らを指差した。今は廃れ始めたヤマンバルックというやつである。あまり異性と話す機会に恵まれなかった将之は、相手が女性だというだけで気後れを感じる。
風が吹いただけで倒れてしまいそうな儚げな女の子も苦手なら、ジャングルだろうがサバンナだろうが、草を掻き分けてズンズン歩いていきそうな女も苦手である。ヤマンバルックの少女たちは、明らかに後者の部類に入った。
「大丈夫よ、将之君」
竹刀を片手に、傍目には部活帰りのいでだちの倉菜が頷いて見せた。
「力仕事以外のことはあまり期待していないから」
勇気付けるように言われる。
それも一体どうだろう。ちょっと悲しくなったが、とりあえず黙って頷いた。
倉菜はセレスティの車椅子を押して、右へ左へと蛇行して歩く少女たちに近づいていく。
「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら」
倉菜が声をかけると、ぴたりと彼女らは喋るのを止めた。訝しげな顔で倉菜を見つめ、将之に視線を投げ、興味深げに、車椅子の上の麗人をまじまじと魅入る。
セレスティが微笑んでみせると、少女たちは途端に騒がしくなった。
「ウッソ。カッけくない?」
口々に少女たちは「カッケーよ」と囀り始める。
「……おれ、リタイア」
速攻で将之が引退を表明した。すっかり少女の迫力に押されている。
長い時間を生きてきたセレスティも、こんな不思議な言語を操る少女たちには免疫がなかった。
「山岸正美さんって知ってる?」
と、倉菜は少女たちの「カッケー」コールに割って入った。アイシャドウ(らしきもの)で真っ白に塗った瞼をもちあげて、少女たちは倉菜を見る。
「正美はぁあたしらのダチだけどォ」
「今日来てないよ。ブッチしてる」
倉菜がちらりとセレスティと将之に視線を送った。どうやら、アタリを引き当てたらしい。彼女らは正美のことを知っているのだ。
倉菜は自分たちのことを、正美の友人だと説明した。以前から、一緒に出かける約束をしていたのだが、当日になっても正美が現れない。携帯電話で連絡を取ろうにも、番号を失くしてしまった……。
嘘がバレるかとひやりとしたが、むしろセレスティに注意がそれている彼女らは気づかなかったようである。
「正美さんって、学校をよく休んだりするの?」
うん、と何の悪意もなく頷いてから、僅かに言い訳するように彼女らは付け足す。
「うちらだって休むよ、かったるいと」
「正美も学校、きらいだからさぁ、やってらんねーってカンジ?」
「もしかしたら、家族で出かけているのではないかとも思ったんですが」
とセレスティ。
「正美が〜〜?」
信じられない、というように少女たちは薄笑いを浮かべた。
「ありえなーい。それに、正美あたしらに何も言ってなかったもん」
「ねぇ?」
こうして話してみると、少女たちは案外気さくだ。……態度には少し問題があるが。
「正美さんに、最近なんか変わったことはなかった?新しい知り合いが出来たとか、誰か知らない人と歩いてたとか」
少女たちは、その言葉を聞いて、意味ありげに視線を交し合った。心当たりがある……というよりは、言っていいものかどうか、確かめたかったらしい。
「何か、思い当たることでもあんのか?」
倉菜の背後から顔を覗かせて、将之が少女に声を掛ける。肘を突付きあったりして、少女たちはしばらく責任を押し付けあっていたが、やがてそのうちの一人が口を開いた。
「思い当たるっていうかぁ。正美は毎晩違う男と歩いてたしィ。いちいちわかんないっしょ」
「違う男って……」
返事をした少女は、何故か誇らしげに胸を逸らした。
「エンコーだよ、エンコー。イマドキみんなやってるっしょ」
「……信じらんねぇ……」
唖然とした様子で、将之がぼそりと呟いた。
「……まあ、とにかく」
未だにショックから覚めやらぬ心を無理に引き戻して、セレスティが軽く頭を振った。
「これで正美さんの行動範囲の目星が付きましたね」
ぞろぞろと去っていった少女を見送って、倉菜は銀の髪を振って息を吐いた。
車椅子を押して来た道を戻ると、先ほど彼らを落としたのと同じ場所に、黒塗りの車は停車していた。セレスティたちが近づくと、運転手はすぐに気がついて車を降り、主人のためにドアを開けた。
「さて、シュラインさんに連絡しないと」
シュラインは、涼と連れ立って別方面から正美の身辺を当たっているのだ。
「車内電話をお使いなさい」
将之に手を貸してもらいながら、シュラインが倉菜に告げる。礼を言って、倉菜は手を伸ばすと、受話器を取り上げて番号をプッシュする。
二度目のコールで、シュラインが電話を取った。こちらの報告を待っていたのだろう。
『どう?首尾は』
「ええ、それが……」
倉菜は今あったことを、シュラインにかいつまんで電話の相手に伝えた。援助交際のくだりについては、シュラインは少し考える素振りをみせたが、すぐにはっきりとした声で了解を示した。
『わかったわ。何かあったらまた、電話するわね』
外にいるのだろう、雑音に混じってシュラインの声が通話口から洩れてくる。
『そちらは何か分かった?』
「いいえ……。セレスティさんが榊・リョウについてのデータを調べてくれたんですけど、そちらも国内に該当者はいないって」
正美が通っていた学校へ向かう途中、セレスティの車内で聞いた話である。どんな手を使ったのか、戸籍まで照合して調べたらしいが、IO2から提示された資料に該当する名前の男は、日本には存在しない、というのが調査の結果だった。
電話の向こうで、シュラインがしばらく黙る。
『日本には、榊リョウという名前で、それに該当する人はいないのね?』
「ええ」
『――、元々榊はアメリカに居たということは考えられないかしら?』
だから、わざわざ本部からダイ・チェンが出向いたのではないか……。
シュラインに言われて、三人ははっと顔を見合わせた。
シュラインからの電話を切ると、すぐにセレスティが受話器を取り上げる。迷いもせずに十桁の番号をプッシュし、相手が電話を取る少しの間だけ沈黙した。
「――ああ、私です。榊・リョウの件ですが、アメリカに該当者がいないか、あたってみていただけますか。――ええ、市民権保持者です。それで見当たらないようならば、……そうですね、不法入国者から当たってみてください」


■――interval
「やれやれ……」
IO2に関する依頼を受けて店を出ていった時雨をようやく正しい方向へ導いて、太巻は無人の店の椅子に腰を落とした。
誰もいないのは、気配を探るまでもなく承知している。だらしなく椅子にもたれたままポケットを探り、彼は携帯を取り出した。
メモリーセットしていない電話番号をそらで押し、通話ボタンを押して耳に当てる。
相手が出るまでの数コールの間に、タバコを咥えて火をつけた。
『もしもし……』
相手が出た途端に、太巻は喋りだしている。
「おれだ。参加者がもう一人増えたぜ――」
ややあって、電話の向こうで空気が震えた。
ヤツが、笑ったらしかった。



「エンコーだって。最近の女の子がそんなことをしているなんて、父が知ったらなんて言うかしら」
セレスティを車内に残して、将之と二人、情報収集にいそしんできた倉菜は、車内に戻るなり、皮ばりのシートに身体を沈めてため息を漏らした。
将之も、疲れたように両手で顔を撫でている。
「まったく……最近の若い子はわかんねえよな……」
将之は、「オヤジなんて、ちょっと付き合ってやればホイホイ金くれるんだよ」と悪びれもせずに爆笑した女子高生にあてられて、ショックを受けているのである。自分も同年代のくせに、妙に年を取った気分になったらしい。
「何か収穫はありましたか?」
目を伏せたまま、顔を二人の若者に向けて、セレスティが穏やかに尋ねた。将之が頭を抱えて唸っているので、かわりに倉菜が答える。
「友達の話だと、正美さんの家庭環境は複雑だったみたい。……家に帰っても誰もいないからって、夜遅くまで遊んでいたみたいなんです」
「朝帰りっちゅーか……、ホテルからそのまま学校に来るなんてこともあったらしい。なんつうか……」
しきりに頬を撫でながら、将之は何度も首を振る。一言で言えば、いわゆる「風紀の乱れ」とでも言い表すのだろうか。だが、そんな言葉だけでは、肝心な何かを言い表せないまま終わってしまう。
「わかんねぇよなあ。そんで、売春とかしちまうのかなぁ」
「人と関われない、交われない寂しさというのは、何にも増して辛いものですからね」
僅かに微笑を浮かべて、セレスティはそれぞれに微妙な顔をしている若者たちを、光の差さない瞳で見つめた。
「たとえそれが朝になれば覚めてしまう夢幻でも、人間とは、人と共に過ごしたいと思うものなのかもしれません」
二人の若者がそれぞれに考え込むような仕草をしているので、セレスティは笑みを深めて話題を変えた。
「正美さんに、最近変わったことはあったのでしょうか?」
「あ。それなんだけど」
物思いから引き戻されて、将之が手を上げた。セレスティが彼を見ると、教師に指名された生徒のように、将之は手を下ろしながら言葉を続ける。
「ここ数日、正美ちゃんが若い男と歩いてたのを見かけたっていうんだよな」
「若い男……ですか」
「そうなんです。学校の生徒でもないし、渋谷の男にしては、雰囲気が違ったって言うんですけど。カレシ?って聞いても、そういうんじゃないと言うだけだった、って」
「それが、榊という可能性は、あるかもしれませんね」
指先で唇を撫でて、セレスティが首を傾げた時、車内の電話が鳴った。運転手が受話器を取り上げ、一言、話しただけで後部席にいるセレスティたちを振り返った。
「旦那様。お電話でございます」
『連絡が遅れて申し訳ありません。榊リョウについて、いくつか新しいことが分かりましたのでご報告を』
まるで機械を思わせる抑揚のない声が、スピーカーから流れてきた。
どうやら、セレスティが抱えるネットワークに属する者らしい。
「続けてください」
『数週間前、成田空港にて、榊・リョウと思われる人物が日本に入国していました』
「アメリカから……ですか?」
だとするならば、シュラインの予想は当たっていたことになる。榊リョウは、アメリカでIO2と関わったのだ。だとしたら、本部からチェン捜査官が派遣されてきても不思議ではない。
しかし、相手の返答は短い否定の言葉だった。
『いいえ、アメリカではありません』
「えっ。……じゃあ、どこから?」
『……カナダです』
セレスティ以外の人間の質問に、電話の向こうで相手は不審そうである。それでも、主人が何も言わないのだから、と考え直したのだろう。しっかりとした返事が返ってきた。
『出入国には、偽造パスポートが使われたようです。名前は……ジェフリー・フォスターとなっています。アメリカからカナダへ飛んで、日本へ来たのですね。それならば、IO2の手も届きにくい』
報告書を読み上げるような口調で、調査員は言った。少しの沈黙の後、迷うように声が続ける。
『残念ですが、アメリカに滞在していた頃の足取りは、まだつかめていません』
「そうですか……」
『ソーシャル・セキュリティナンバーに運転免許、パスポートをあたりましたが、今のところ当たりはありません』
「やっぱり、不法入国なのかしら……」
怪訝そうに倉菜が首を傾げた。彼女の父親は、NYに滞在する音楽家である。彼女自身もアメリカで育ったため、勿論米国の事情には詳しいのだ。
「日本人が不法入国なんて、聞いたことがないけど……」
「他にはなにか、わかったことはありますか?」
セレスティが尋ねると、電話の向こうでページを繰る音がした。肩と耳で受話器を挟んでいるのか、声がくぐもる。
『山岸正美との関連も、今のところ見当たりません。榊・リョウによるテロ活動の記録ですが、こちらは一切記録されてないようです』
「一切?公的に記録されなかったということなのか?」
将之の問いに少し考えた末に、「恐らく、違うのではないかと思います」と、男は歯にものが引っかかったような言い方をした。
「どういうことです?」
『これは、あくまで私の私見ですが』
と前置きして、彼は言った。
『異能力者によるテロ活動は、IO2以外にもいくつかの機関がデータを採取しています。無論、IO2が世界で最大規模の機関であることに変わりはありません。しかし、これは各所のデータを見比べた印象ですが、榊・リョウという人物に関して、データの改竄は行われていないのではないかと思われます』
遮光ガラスが巡らされた車内で、三人は揃って顔を見合わせた。
「チェン捜査官については、何かわかりましたか?」
榊に関する調査を依頼する時に、セレスティはダイ・チェンと名乗るIO2捜査官に関しても調べるように、彼に頼んであったのだ。
それに関しては、淀みない返事が返ってきた。
『ダイ・チェンはワシントン州にあるIO2本部に所属しています。異能力者がらみの事件をいくつも手がけた、いわばエリートですね』
言いながら、彼の経歴を言い連ねていく。
19XX年、ワシントン大学心理学部を卒業。
19XX年、IO2に所属。




1987年、カリフォルニア州に異動。



1991年、FS事件。ワシントンにある本部に召還。


「FS事件?」
『ファイア・スターター事件と呼ばれているようですね。彼はここでも異能力者への対応に関して、本部からの評価を上げています。詳しいことは、殆ど資料が残っていないのでわかりかねますが』
報告は以上だと言って、電話口の男は通話を切り上げた。
これからまた、足取りの途絶えた榊リョウの過去を探るのだろう。
なんとなく深くため息をつきながら、電話を戻しかけた時、再びベルが鳴った。
今度は、運転手が受話器を取るまでもない。セレスティは伸びていた手を滑らせて、通話のボタンを押した。
『セレスティ殿……』
聞こえてきたのは、別行動を取って情報を集めていたケーナズの声である。
「何か、わかりましたか?」
ケーナズの口調にやや硬いところを感じ取って、セレスティは問うた。身を乗り出すようにして、倉菜と将之もスピーカーフォンから出る声に耳を傾けている。
『六年前にアメリカのカリフォルニア州で起こった、ファイアスターター事件と呼ばれる出来事に、榊らしき人物の名前が出てきているようだ』
「ファイアスターター事件……」
車内にいた三人ともが、声をそろえて絶句した。
「そこに、榊の名前が出てくるのか?」
電話にかじりつかんばかりに身を乗り出して、将之が声を出す。
『ああ……。榊の名が出ていたわけではないのだが』
後半部分は再びセレスティに話しかける形で、ケーナズは先を続けた。
『FS事件で、R.S.というイニシャルの人物が関わっていた、と。ファイア・スターター事件では死亡者が出ている。死亡したのは、ジェフリー・ラドクリフ。彼も異能力者だったようだ。……その少年と同様、IO2によって保護観察下に置かれていたのが、R.S.という……』
「ジェフリー」
思わず倉菜と将之が声をそろえた。
『その青年に関して、何か知っているのか?』
「榊氏が日本への入国に使った偽造パスポートに記載されている名前も、ジェフリーなのですよ」
『なるほど』
と言ったきり、ケーナズも電話の向こうでしばし言葉を失ったようだった。それに、と倉菜はこめかみに指を宛てて考え込む。
「R.S.でRyo Sakaki……ね。チェンは、そこで榊と関わったのかしら」
『二年後の1998年、R.S.はワシントン州にあるIO2の研究機関から失踪。12日後には、IO2に対するテロ活動容疑で、全IO2メンバーに、要注意人物として指名手配が出されている。……それが、榊ではないかと思われるのだが』
なんともいえない沈黙が、車内を支配した。

シュラインから、榊と坂崎の居場所を告げる電話が入ったのは、それからまもなくのことである。



「榊っ!」
大通りを曲がって人気のない通りを歩いていたところを呼び止められて、青年は足を止めた。テロリストと聞いて無意識に人相が悪い人物を想像していたが、振り返った青年は、予想していたよりもずっと静かな雰囲気を漂わせていた。
それに、まだ若い。ケーナズと殆ど年齢は変わらないのではないかと思われた。
声の主を確かめるように、青年……榊はセレスティたちをじっと見つめた。車椅子に座ったままの麗人に、かすかに怪訝そうな表情が窺える。
「正美さんを誘拐したのはあなたね?」
「ああ……」
ようやく思い当たった、というように榊は声を漏らした。その隣では、坂崎が主人を守るように三人を見つめている。
「IO2に依頼されたのか」
ちらりと笑いを浮かべて、榊は一歩下がった。逃げるような仕草だったが、本人には臆した様子はない。
「待てよ……ッ」
「正美さんは無事なの!?」
返事はない。榊は、そのままセレスティたちに背を向けて、人の通りがない路地を歩き始めていた。
「あんにゃろ……」
戦闘になるのではないかと、気を張り詰めていた倉菜と将之は、予想外の相手の行動に戸惑っている。
彼らが攻撃をしてこないか、確かめるように眼差しを見つめていた坂崎も、ようやく榊を追ってきびすを返す。
――と。
「っ……」
今まで真っ直ぐに歩いていたはずの榊が、バランスを崩してよろめいた。そのまま、体勢を立て直すことが出来ずに壁に肩を打ちつける。
「逃げるのですか?」
問いかけたのは、セレスティだ。榊の体内に流れる血流の動きを抑えることで、貧血症状を引き起こさせたのである。
「……戦う理由がないと思うが」
力の篭らない声で、榊がその問いに答えた。未だに苦しいのか、背中を丸めて壁に寄りかかったままだ。
「正美さんの無事を確かめないうちは、みすみす逃がすわけにも行きませんので」
何をしているとも思えないのに、榊の顔が歪んだ。みるみるうちに肌が色を失っていく。
血流を操るセレスティの能力に、どう反応していいか分からない若者たちの間を、風が走り抜けた。
はっと気づいた時には、榊の横に控えていたはずの坂崎の身体は、セレスティの側へと移動している。車椅子のハンドルを握っていた倉菜は、迫ってきた坂崎の手に引きずられて、セレスティの元を離れてしまっていた。
突き飛ばされた倉菜を、将之がすんでのところで受け止める。
「てめ……っ」
「動くな」
反射的に武器を探して手を動かした倉菜と将之を、坂崎の低い声が止めた。
片手にはスラリと伸びた刀が握られ、その切っ先はセレスティの喉元にぴたりと宛てられていた。脅しも警告も必要ない。その態度だけで、彼がどうするつもりなのかを悟らせる口調だった。
「……セレスティさん」
「…………」
切っ先から逃れるように、わずかに顎を上げて、セレスティは表情を動かすこともなくじっとしている。
「榊を自由にしろ」
「……」
セレスティが黙っていると、促すように坂崎の刀の切っ先が喉に触れる。倉菜が息を呑み、将之が唇を噛み締めた。
少しの間を置いて、榊が大きく息を吐き、ゆっくりと身体を起こした。セレスティが血流の拘束を解いたのだろう。
「……大丈夫だ」
掠れた声で、榊が坂崎に呟く。坂崎は了解したというように頷いて見せたが、セレスティに宛てた刀の切っ先を逸らそうとはしない。
「ちょっと、彼を解放したんだから、あなたもセレスティさんから離れなさい!」
バラバラと複数の足音が聞こえてきたのは、その時だった――。


「大丈夫!?」
路地の向こうから現れたのは、別行動をしていたシュラインと涼である。その後ろには、黒ずくめで刀を背負った大男……五降臨時雨が続く。途端に騒がしくなった路地に、状況を確かめるように、坂崎は視線を走らせた。
壁に手をついて身体を支えているのは、榊だ。坂崎は、抜き身の刀を車椅子に座ったままの麗人の喉元へ押し当てている。薄暗い路地でも、まるで夕陽を吸い取ったように赤い刀身は、白いセレスティの肌と対比をなして不吉に見えた。
「さかざき……。あれが」
時雨の目が、坂崎の手にする刀にひきつけられる。思わず刀の柄に伸びた手を、シュラインが止めた。
「やめなさい」
短く言った目が、目立つことはするな、と告げている。
「……きみが、榊か」
坂崎の視線を気にしながらも、涼は一歩、壁際にいる榊に歩み寄った。黒い瞳が静かに涼を捕らえた。
「正美さんは無事なのか?おれたちは、彼女を無事に家に帰すように依頼を受けているんだ」
言いながら、内心で涼は動揺を押し隠すのに苦労していた。
まさか、榊がこんなに若いとは思っていなかった。……二十代前半……せいぜい、25,6というところだ。ニュースで放送されるテロリストたちのような険しい目もしていない。
手を出せずに立ち尽くしている涼たちの前で、榊はようやく息を整えて背筋を伸ばした。身体の感覚を確かめるように、拳を握ったり開いたりする。
「IO2か」
短く榊が呟いた。黙ったまま、坂崎が榊へと視線を向ける。
榊は自らの手に視線を落としたまま、しばし物思いに沈んだようだった。
やがて、おもむろに顔を上げて、一歩、二歩と彼らから距離を取る。
「IO2に関わる時は、気をつけたほうがいい」
「……なんのことだ」
涼の鋭い瞳を見返して、榊は口元だけに笑みを閃かせた。軽く首を左右に振る。
「利用されているのかもしれないと思っただけさ。老婆心だったな」
言うなり、背中を向けて歩き出す。
「待てよ、お前……!」
思わずと言ったようすで将之が手を伸ばしたが、視界の隅に移った坂崎の姿に、悔しそうな顔をして足を止めた。榊の後姿は、角を曲がって人気のある通りへと消える。
榊が十分な距離を取ったことを確認したのか、刀をセレスティの首筋に宛てたまま、涼や将之と睨み合っていた坂崎が刀を引いた。
腕を下ろすと、チャリ、と鍔が鳴る。両腕をだらりと下げたまま、坂崎は仲間たちの間を悠然と歩き出した。攻撃に備える気配もない。
「てめぇっ……ちょっと待てよ!」
ざっとアスファルトを蹴って、坂崎に攻撃を仕掛けたのは将之だった。バックパックに忍ばせていた刀を抜き、坂崎の背中に向けて横に薙ぐ。そのスピードと切れに、相手を捕らえたと確信した瞬間、硬いものにぶつかって将之の刀は弾き返された。
金属同士がぶつかりあう耳障りな音が響き、強く振ったはずの腕は、それ以上の強さで跳ね返された。
「……何……」
「力任せの太刀筋では、すぐに軌道を読まれるぞ」
相手の反撃を覚悟して身を硬くした将之に降ってきたのは、刀ではなくて低い声だけだった。一振りで将之の刀を振り払ってみせた男は、それ以上は追撃する様子もなく、悠々と刀を鞘に収めた。
それきり、その場にいる者たちから興味を失ったかのように歩き出す。
「坂崎惣介」
背中から届いた女の声に、角を曲がりかけていた足が止まった。怪訝そうな顔をして、坂崎は声の主を振り返る。
黒い瞳がゆっくりと動いて、シュラインの切れ長の瞳を見つめた。
「産まれてくるお子さんに、透という名前を付けたのはあなたなんでしょう?」
「えっ……」
シュラインの言葉に、坂崎よりも驚いて数人が振り返った。IO2によって渡された資料には、数百年前に名をはせた剣豪としか記載されていないのだ。ただ榊によって呼び出された悪霊だと思っていた男に、過去や家族があるなどとは考えてもいなかった。
「どういうことなんですか?」
「知り合いに、そういう子がいるのよ」
唖然として問いかけた倉菜に、シュラインはそれだけ答えた。多くを説明するのは、後でもいいだろう。
シュラインは、ある事件がきっかけで、渋谷透という名の青年の過去を垣間見たのだ。その中で、二人の男女が、生まれてくる子どもに透という名前をつけるという話をしており……男の方は、彼女の目の前にいる坂崎惣介と同じ名前と顔だった。――かいつまんでいうなら、そういうことである。
黙って足を止めた坂崎に、シュラインは言葉を続けた。
「あなたの息子さんにかけられた血の毒は、呪縛を逃れたわ」
「――なるほど」
ゆっくりと顎を引いて、坂崎はシュラインに頷いた。ゆっくりときびすを返して歩き出す。
その姿からは、彼が何を感じたのかは測り知ることが出来なかった。
「ちょっと……待っ――」
制止の声が届くよりも先に、坂崎の姿は路地を曲がって視界から消えた。
坂崎が遠ざかると、ようやく弾かれたように将之と涼が駆け出す。
角を曲がると、人通りが多い通りに出た。左右を見回しても、ぞろぞろと身長も体格もさまざまな若者たちが、同じようなペースで歩くのみで、肝心の二人組を見つけることは出来ない。
「見失った……くそっ!」
舌打ちする将之の後ろで、時雨が空中に手を伸ばした。まるでスズメが鳴くような声を呟いている。
「何やってんだ……?」
敵を見逃した憤懣のやり場を見失って、将之が不機嫌な声を掛ける。
パタパタと軽い羽ばたきがして、街路樹の一つで羽を休めていたらしいスズメが、大勢の人に臆することもなく飛んできて、伸ばした時雨の指先に止まった。
しきりに首を傾げて、時雨の手の上でスズメは囀っている。
鳥の鳴きまねをして時雨がそっと手を持ち上げると、スズメは彼の指を蹴って飛び立っていった。
「……何?今の」
「二人……探して後を追うように……頼んでみた……」
「……はぁ」
時雨の能力を知らない倉菜は、さてなんと言うべきかと思いながらも生返事をして、灰色の空に吸い込まれた小さな姿を目で追った。


■榊・坂崎
するりと温い風が吹いて、榊は坂崎が追いついてきたのを知る。
12月も半ばの街では、立ち並ぶ店から、耳慣れたクリスマスソングが路上にあふれ出している。一方で若者たちは漂うように街を通り過ぎるばかりで、明るい曲はどこか場違いだ。
「……二人。人の中に一人、今、店から歩き出した男がもう一人」
低く、坂崎が呟いた。彼の人並み外れた感覚は、的確に二人を追うIO2の人数を言い当てる。わかったと言うように頷いて、榊は背後に意識を集中した。
現実と幻との境を感じさせず、彼らに幻影を見せる。しばらくまっすぐ歩いてから、二人は歩道橋を上った。半分まで上り切った位置にある踊り場で足を止めて、背後を振り返る。
それぞれらくだ色とグレーのコートを纏った男が、足早に歩道橋の脇をすり抜けていった。先ほど、坂崎が捕らえたIO2の捜査員である。彼らはいるはずのない坂崎と榊の後姿を追って、足早に雑踏に紛れて消えていく。
彼らが完全に見えなくなったのを確かめて、榊は再び階段を上った。ひっきりなしに車が潜る歩道橋を渡り、通路の向こうへとゆっくりした足取りで歩いていく。
ズボンのポケットに手を入れ、マフラーを首に巻きなおして、榊は空を見上げた。
ビルの切れ間に覗く黒に近い色をした雲は重く、人の気分を憂鬱とさせる。
「……なんていうのかな」
「どうした」
「こういう天気のことを」
海外暮らしが長い榊は、こんな空をなんと表現していいのか知らない。同じように空を見上げた坂崎は、あぁ、と吐息のような声を漏らした。
「今にも泣き出しそうだ、と言えばいい」
目を細めて、榊は笑う。
「日本語はきれいだな」
そして空から落ちてきた最初の一滴を頬に受けて、「あ、泣いた」と呟いた。
見上げた空を、小さな鳥が一羽、横切っていく。
「……あれは」
その鳥影を見送って、ぽつりと坂崎が声を漏らした。
「いいんだ、あれは」
空よりも暗い色をした足元に視線を落として、榊はゆっくりと歩き出した。
彼らが歩いた跡を、ぱらぱらと降り出した雨が、黒い染みへと変えていく。


■太巻・チェン
「見失っただと?」
冷えたなかに苛立たしさの混じったチェンの声を、太巻は右から左へと聞き流した。どうせ、彼が話しているのは、坂崎と榊の後を追いかけていた捜査官である。
チェンが太巻を呼び出す少し前、シュラインからは携帯に連絡があった。時雨が機転を利かせて、小鳥に後を付けさせたのだという。
彼らは都内のマンションへ入っていった、とシュラインは苦々しい口調でそう言った。首尾に不満があるわけではないだろう。だが、思うところはあるに違いない。
今度ゆっくり話を聞かせてもらいたいと、彼女の台詞の端々が言外に語っていた。
顰めたチェンの声を後ろに聞きながら、太巻はゆっくりした仕草でタバコを抜き出し、口に咥える。
ジッポでその先端に火をつけたところで、チェンが通話を終えて大股に歩み寄ってきた。
「サカキの居場所は分かったのか?」
それが相手の神経を逆撫でするのを承知で、太巻は眉を上げ、ことさらゆっくりした仕草でチェンを見た。口元に笑みを浮かべる。
「オタクの捜査員が、追ってたんじゃなかったのか?」
「くだらん嫌味はやめてもらおうか。君も聞いていただろう」
叩きつけるように返事が返る。
指先でタバコを摘んで、太巻はソファに身体を沈めた。
「お前が使っている者たちは、サカキの居場所を掴んだのか、と聞いている」
タバコを吸って、煙を吐き出すまでの間、チェンを待たせてから太巻は鼻を鳴らした。
「路地で撒かれた、ってよ。大方、あんたらの捜査員と同じ手で目を眩まされたんだろう」
太巻の台詞に目を細め、チェンは座ったままの男に、僅かに腰を屈めて顔を近づけた。
「……もう少し協力的になってもらいたいものだな。君の立場を、忘れられては困る」
形式上、日本に詳しいこの男に協力を仰いだことになっているが、所詮立場はIO2の方が強いのだ。いつでも好きな時に、IO2は彼の妻を要注意人物に仕立てて「狩る」ことが出来る。
「サカキは、能力者だ。同じ能力者ならば今回の件に有利に働くと思ったからこそ、この件に彼らの介入を許したのだ」
そして、まだ発見されていない能力者を見つけだし、リストに加算する。
一石二鳥だな、と心中で嘲笑いながら、太巻は肩を竦めて見せた。
「デキのいいヤツの考えることは、ムズカシすぎてわかんねェよ」
一時間ほど前から降り出した雨は、サァサァと耳に心地よい音を立てて、乾いた大地に降り注いでいる。


■サカキ
雨が降っている。細かな水滴が優しく窓を叩き、そっと窓を開くと風とともに雨が落ちる音まで室内に吹き込んだ。
雨は嫌いじゃない。
しみったれた路地が色とりどりの傘に彩られるのが好きだったし、雨が降る音も好きだった。
雨の音に混ざって、小さな鼻歌が聞こえる。
英語どころか国語だって「ワケわかんねーよ状態」な彼女には、ちんぷんかんぷんの曲だ。
ただ、彼が歌うと哀しげに聞こえる。することもないので、彼女は聞いた。
「なに、それ」
静かな部屋に彼女の低い声が響くと、鼻歌が止む。勿体無いことをした。
「……何って?」
「今、歌ってたじゃん。なんて歌?」
「……I believe I can fly」
「どーゆー意味?」
少し考えてから、彼は手を伸ばして窓を閉めた。細く開いた窓の隙間から、雨が降り込んでいた。
「『きっと空も飛べる』」




空だって飛べる。
そう信じて僕たちは…………


雨の音が、思い出も記憶も掻き消してゆく。
晴ればかり続く青い空の下でみた夢は、手を伸ばしてもまだ届かず、今にも見失いそうなほどに遠のいてしまったのかもしれなかった。



□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
・2194:硝月・倉菜
・0086:シュライン・エマ
・1481:ケーナズ・ルクセンブルク
・1883:セレスティ・カーニンガム
・1555:倉塚・将之
・1831:御影・涼
・1564:五降臨・時雨

=============
NPC
・太巻大介:相変わらずろくでなし。
・榊・リョウ:悪霊使いで幻術使い。
・坂崎惣介:数百年前に非業の死を遂げた剣豪。渋谷透の父親。

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
こんにちは!
クリスマス後納品予定のはずが、さりげなくイブ納品になっていて、ちょっとライター通信を失敗したなぁと思っている在原です(……)
今回は参加いただいてありがとうございました!
某所では踏んだり蹴ったりすいません!(平伏)
殴り返してもけり返しても(多分)反撃しないので、好きに料理してやってくださいあの男は……。
さて、蒼穹の羽、第一部のお届けです。
これが少しでもクリスマスプレゼントになっていれば幸いなのですが……(どうだろう)
よいクリスマスをお過ごし下さい。

在原飛鳥