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<東京怪談ノベル(シングル)>


空の向こう

 空が好きだ。
 すべてを受け止め、水に還す包容力。
 それは遠い日の誰かに似ていた。
 手を伸ばしても届かない。
 声も聴こえない。
 本当は何もない。
 ただ視界のどこかに引っ掛かってる。
(心のどこかに)
 だからこんな日は、空を見上げたかった。
 空と平行になって。
(対等になって)
 俺の声を、聴いて――。



 10歳の時だった。
 どうしようもない父に、母がキレたのは。
 女遊びが絶えない父は、それに対し母が何かを告げるとすぐ暴力で返していた。きっと母でなくとも、離婚を考えたことだろう。
 だが母はただ別れるのでなく、自分もしっかりと男をつくってから出て行ったのだ。
(そう)
 出て行った。
 俺が入る隙をなくして。
(置いていかれた)
 その事実が、酷く俺を苦しめた。
(原因を作った父が憎い)
 置き去りにした母が憎い。
 けれどその憎しみの中に、どうしても黒く塗りつぶすことのできない場所があるのはどうしてだろう?
(時折)
 どうしようもないほど、淋しさを感じるのは。
 その頃の俺は、理由もわからぬままただ枕を濡らしていた。

     ★

 中学に入ると、周りの家庭との違いがより目につくようになり、感情が抑えられなくなっていた。
 毎日のように父とケンカをくり返しては、家を飛び出した。
(泊まる場所は)
 友だちの家なんかじゃない。
 街で知り合った女の人の家に、転がり込んでいたのだ。
(――年上の)
 それは年上でなければならなかった。
 その理由に、しばらく俺自身気づかず過ごしていた。俺に優しくしてくれるのは圧倒的に年上が多かったから、気にならなかったのだ。
(……バカだよなぁ)
 どうしてあんなにも、嬉しいと感じるのか。
 どうしてあんなにも、安心して眠れるのか。
 年上の女の人と一緒にいると、何故か俺は癒されているような気になっていた。
 そんな感情の中、再び。今度は白く塗りつぶすことのできないゾーンに気づくまで、俺は考えもしなかったのだ。
(空しい、だって?)
 こんなにも満たされているのに。
 望んだハズなのに。
(じゃあ)
 その空しさの理由は。
 埋められない感情は。
 ――そこに、投影されていたものは――



(本気の恋なんて、できるワケがない)
 面倒くさいから、だけじゃなくて。
(俺は求めている)
 多分母のような温かさを。
 多分母のような包容力を。
 多分母のような――何かを。
(だけどそれは――)
 頭から切り離すことのできない可能性を秘めていた。
(なぁ、誰が信じられる?)
 俺が本気で誰かを愛した時。
 母のように、俺を裏切って去ってしまうんじゃないか。
(去ってしまわないって、信じられる?)
 それは恐怖だ。
 だから俺は、軽めの”好き”しか知ろうとしなかった。
(それは踏み越えてはならないもの)
 心が勝手に鍵をかけた。ある意味それは、トラウマであったのかもしれない。

     ★

 鳴り始めたチャイムに、俺の思考は一気に現実へと引き戻された。
 ベンチの上に横たえた身体をまだ起こさないまま、1つ、考える。
(またあいつになんか言われるかなぁ)
 目に映る空に、映るクラスメイトの顔。
 俺が屋上でサボっていると、大抵いちばんにやってきて忠告をするのだ。けれどサボっている俺の方が成績優秀ということもあり、結局は逆に俺にからかわれて終わる。
(顔真っ赤にするんだよなぁ)
 反応を想像して、俺はひとり笑った。
 心が、温かい。
(考えると)
 一緒にいると。
 何故か埋まっていく。塗りつぶされていく。
 いつも俺を遠くから見ていた、立ち入り禁止の感情。そこに踏みこんだ存在は、足跡で傷を消してゆく。
 ゆっくりと、こまやかに。
(俺はやっと、見つけたのか?)
 この空の、向こうにあるもの。
 伸ばせば手の届く、幸せ――



 その時、勢いよく屋上のドアが開いた。
 俺が自分の中の変革を理解し起き上がった今日は――母の、誕生日だった。





(終)