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<東京怪談ノベル(シングル)>


綺麗な4冊目


 12月は誰も彼もがどたばたするものだが、海原家もその例に漏れなかった。しかも、海原家でまともに動けるのはみなもくらいのものだった。長女はあまり家に居ないし、両親が帰って来るのはさらに珍しいこと、三女はまだまだ子供でお手伝い程度しか出来ない。クリスマスや年末年始の準備をするのはみなもの役目だった。それを彼女は別段名わしとは思っていなかったが、さすがに12月も終盤に差し掛かった頃には、疲れてしまっていた。しかもまだ忙しい日々は続くのだ。正月を迎えても、まだ数日は油断できない。クリスマスを楽しく終えた彼女も、今後のことを考えると少しげんなりしてしまうのだった。
 と、そんなみなものもとに――
 年末年始に限らず、年がら年中忙しいみなもの父から、久し振りの連絡があった。父の声を聞けたことをみなもが喜んだのも束の間だ。父親の電話の用件は、臨時アルバイトの要請だった。
 いま、忙しいんだけれど……と思ったし、声色にもその感情が混じってしまったものの、みなもは父の頼みを断り切れなかった。
『そうか、やってくれるか! ありがとう! お礼は必ずするからね』
「そんなの、いいのに……。それで、どういう仕事なんですか?」
 そう、みなもの失敗は、アルバイトの内容を聞く前に承諾してしまったことだった。
『インド洋に行ってほしいんだ』
「はい?!」


 インド洋は常夏だった。
 仕事が終わって日本に帰ったとき、自分はひょっとすると風邪を引くかもしれない。冬だと言うことを忘れさせる太陽の熱線に、みなもはくらくらして、逃げるように甲板から海へ飛びこんだ。水に飛びこんだ彼女の耳と足はヒレとなり、指の間には水かきが生まれ、下半身は蒼い鱗で覆われた。現地の船員たちは、わあわあと叫んだ。
「人魚だ! 本物だ!」
「まさかホントにいるなんて!」
「オレのじいさんはうそつきじゃなかった……人魚はいるんだ……!」
「手ェ振ってくれー!」
「ちゃんと帰ってこいよー!」
 みなもは苦笑しながら船に向かって手を振ると、海中へと潜った。彼女は泳がずとも、海流を少しずつ操って、身体を前に推し進めるだけでよかった。流れに身を任せながら、父親から与えられた仕事の内容を反芻した。
 彼女はある『本』を回収しなければならない。『隠蔽されしものの書』の写本だ。小さな島にあるという。
 『本』の内容に興味はなかったが、何故自分が駆り出されたのかと、みなもは不思議に思っていた。父はよく母にも依頼を持ちかけているはずだ。母には話が行かなかったのだろうか……。
 腑に落ちないままに彼女は流れ続けた。

 不意に、流れがとまった。
 彼女は慌ててその場に静止し、自分の力でしばらく進んでみた。
 ――水の流れが……支配されてる。あたしの力じゃだめみたい……。
 海水は、厳格な統率者によって静かに流れていた。何人たりともその流れを乱すことを赦さないつもりらしい。みなもは海面の上に顔を出してみた。
 『本』が――いや、 島が見えた。

「すっごい、沖ノ鳥島みたい」
 それは『島』というよりも、『本』だった。『本』が海に浮かんでいる。
 1坪に毛が生えた程度の岩に、推定縦5メートル横3メートル厚さ50センチの『本』がと乗っていた。みなもは水かきがついた手を伸ばし、『本』に触れた。『本』は石で出来ているらしい。海水と波、時の流れによる侵食をまったく受けていないようだった。古びていて、干からびた藻やフジツボの屍骸があちこちにこびりついているものの、どこも欠けてはいなかった。タワシで磨けば光沢さえ取り戻しそうだ。そして、ひんやりしていた。いやに、ひんやりしていた――
 低周波の電気を流されているかのような、ぴりぴりとした嫌な感触が手にのこる。みなもは『本』から手を離した。『本』に触れた指は、青く変色していた。ひどくつめたい。こんな、常夏のインド洋の只中に在るのに――手はかじかんでいるかのような感覚に襲われている。まるで、石になってしまったかのよう。
 ぞっとして、みなもは拳を握った。
 気を取り直し、みなもは孤独でちっぽけな島を調べようと、ざぶんと海に潜りこんだ。
 この辺りの海域には、めったにひとの船も通らない――
 船乗りたちは言っていた。
「嬢ちゃんが行くとこはな、ちいっと厄介なトコなんだ。だから誰も寄りつかねエ。迷っちまうんだよな。まるで海があすこだけ寝てるみてエなんよ」

 島は、柱のようだった。
 すっくと、直径4メートルの不恰好な柱が、決して見えない海底から生えている。
「すっごい……」
 みなもは思わず、呟いた。ごぼごぼと、大きなあぶくがその呟きをかき消した。柱は、ぎらぎらと降り注ぐ陽光で、美しく輝いていた。石英か何かが含まれているのかもしれない。
 みなもは『柱』に近寄り、触れてみた。あの嫌な感触がまた戻ってきた。ぴりぴりと、ひんやりとした感触だった。
 そして――
 がぼっ、とみなもはあぶくを吐いた。悲鳴を上げたのだ。思わず島から手を離した。しかし、今の今まで気がつかなかった。この島に近づいてきてから、物珍しそうに泳ぎに付き合ってくれた魚たちの姿がどこにもない。海草もない。そう言えば、『本』についていた藻やフジツボは干からびて死んでいた。
 島は岩ではなかった。島を美しいラメで彩っていたのは、石英ではない。宝石だ。みなもが名前を知らない石たちだった。凶暴なウツボが居た。目が、ムーンストーンのような石になっている。鱗はメノウだ。ヒレは水晶か。ヒトデは五角形のカーネリアンにすぎない。ダイバースーツを着た人間は、黒曜石とバッファローストーン。どれもが指輪になるような宝石ではなかったが、確かに、生物たちは石となって、『本』を支える島になっていた。
 ――この『本』、動かすことなんて出来ない。『本』が動こうとしていないもの。お父さん、これは、動かしちゃいけないものだよ――
 気づいたときには遅かった。
 驚いてその手を引いたはずなのに、右手は島から離れていなかった。青い鱗は、ラピスラズリとなりつつあった。その腕は、ひとりでに身体を島に引き寄せた。みなもは意思に反して、ひしと島に抱きついていた。
『我は独にあらず。我に数無し。汝は我と共に在り、また我そのもの也』
 隠蔽されしものの声だろうか。それは、声と呼べるのだろうか。みなもは確かに聞いた気がした。それが最期の思考になるのかと、彼女は恐怖した。最期の感情が恐怖だと言うことに、
 悲しむ――
 悲しみは――
 それは何であろうか――
 そもそも何であろうかとは――
 …………。


 はあっ、と目を覚まして息をついた。
 みなもは目を開けて、こわごわとものを見た。
 そこは冬真っ盛りな日本の、東京の、海原家の、みなもの部屋だった。みなもはパジャマを着て、ベッドに横たわっている。額には、ぬるくなり始めたタオル。自分はどうやら懸念通り風邪を引いたらしいと、咳込んでから悟った。熱もあるようだ。

『 みなもへ
 
  怖い思いをさせたね。すまなかった。
  時間が経ってしまってから無理矢理引き離したので、
  しばらくの間体調がよくないかもしれない。
  年明けまで、ゆっくり休みなさい。

                     父より  』

 父が助けてくれたのだと理解はしたものの、みなもはぐったりとやつれた顔で溜息をついた。
「あたしがゆっくり休んだら、誰がお正月の準備をするの? お父さん……」
 だが今は、ゆっくり眠っていたい。
 嫌な夢を見ないことを願いながら(ドリームキャッチャーでも買おうかとみなもは考えた。きっと大活躍だ)、みなもは額のタオルを自分で取り返ると、ぬくぬくと温かい布団の中に潜りこんだのだった。

 右手の小指の爪が、金粉混じりの蒼のままだった。




<了>