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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


農夫のおとしもの


■序■

 物憂げな紫煙を燻らせて、碧摩蓮はそれでも笑うのだ。彼女は似たような危機を、これまでにも何度かくぐり抜けてきていたからか。それとも、偶然このアンティーク・ショップを訪れた4人の客に、光明を見出したか。
「あンた、頼まれてくれるかい? ちいっとばかり、とンだことになっちまってねえ」
 ぷか、と煙管の紫煙を吐きながら、連は1冊の黒い手帳を取り出した。
「見とくれよ。あア、16ページさ。ようく見てごらん」
 言われるままに、古い手帳の16ページを開いてみると――
 そこには確かに、『碧摩 蓮』という名前と年齢が記されているのだった。蓮の名前だけではなかった。老若男女、世界194ヶ国の人間の名前が、まるででたらめに手書きの文字で書き連ねられているのだった。
「わからないかい? ようく見てみな。ようく、触ってみなよ。『死』の感触って、どんなもんなんだろうね。あたしゃア、その手帳の感触なんだと思うよ」
 おッと、と蓮が肩をすくめた。
 彼女の背後の壁に立てかけてあった古い矛(これもきっと、ぞっとしない曰くつきの代物に違いない)が倒れたのだ。蓮が肩をすくめて身を縮めなければ、きっと蓮は矛に頭をかち割られていた。
「その手帳を手に入れてから、ずうッとこの調子さ。あたしゃア、死神のリストの末席に加わっちまったようだ。生憎まだあたしゃア死にたかアなくてね。どうだい、それを持ち主に返してやる礼として、あたしの名前を消してもらってくれないかね? あたしは仕事がたまってて、ちょいと外に出られないンだよ――」
 とても彼女が死を恐れているようには見えなかったし、この手帳を持ち主に返すことで、彼女の生命の危機が去るかどうかは定かではなかった。
 だが、放っておくわけにはいかないようだ――
 客が手に取った途端か、或いは16ページを開いた途端に、どうやら17ページの内容が改訂されたようであったから。
 見慣れた名前が記されていたから。
 綾和泉匡乃。
 常雲雁。
 ウォルター・ランドルフ。
 ラクス・コスミオン。
 3人の男はその名前をみつけて、眉をひそめ、それから思わず顔を見合せて苦笑しあった。ただひとり、ラクス・コスミオンは、蓮のそばで小さくなっていた。
「そんな……ラクスは『管轄外』ではありませんか?」
 その嘆きは、ナイルの蚊の鳴き声よりも小さかった。


■逝きつく先■

「人の運命には筋道がある……ってな。それを見ちまった。ミステリーの最後のページを読んじまったってわけか。はァ、つまらねェことになったよ」
 ウォルターは肩をすくめ、匡乃の二度目の苦笑を買った。
「随分と冷静ですね」
「自分のことを棚に上げるのかよ」
「僕は実は心中穏やかではないかもしれませんよ。面白そうですから」
 自分の名前が載った、見知らぬ手帳を手に取ると、匡乃は蓮に微笑みかけた。
「引き受けましょう」
「ありがとう。――どうやらその持ち主は、この店が気に入らないらしいんだよ。とっくに取り戻しに来てもいいはずなんだけどねエ」
「そうだそうだ、そうだった。訊き忘れてた。こんなもん、いつどこでどのようにして手に入れたんだ?」
 ともすれば少しは警察らしいかもしれないウォルターの質問。蓮は呑気に、ぷかりと煙草の煙を吐いた。
「あア」
 それから、目が呑気に泳いだ。
「……忘れちまったねエ」
「おいおいおい」
「せかせか焦るんじゃないよ。……あア、そうだ。あたしの前の名前は何になってた?」
「『道徳寺元次郎』とありますが?」
「そいつだそいつだ。うちの常連でね。珍しいものを売りに来たり買いに来たりするんだよ。確か色んなものと一緒に一山いくらでなんぼか払ったンだよねエ」
「今はどちらに?」
「生きてたら、葛飾の豪邸に居るはずだよ」
 ウォルターと匡乃は顔を見合せて、思わず軽く頷くと、アンティークショップの出入り口に足を向けた。それから、ウォルターがひょいと振り向いた――
「なぁ、旅は道連れだ。あんたらも来るだろ?」
 その言葉は、骨董品を物色していた雲雁と、蓮のそばで震えていたラクスに向けられたものだった。彼は、手帳の落とし主を見つけだすのにはさほど時間もかからないと思っていたのだが――彼にはその職に役立つ力があって、物体を持っていた者を追跡するのは朝飯前だった――手帳にはどうも、妙に触りたくなかったし、さっさと解決してしまいたかったのだ。そのためには、ひとりよりも道連れがいた方がいいような、そんな気がしていた。


 ラクスと雲雁は、それまでの蓮たちのやり取りを聞いていなかったわけではない。むしろ、じっと耳を澄ませていた。手帳には自分たちの名前があって、蓮は何かに命を狙われている。
 ――天命に狙われているというわけだよ。
 雲雁は三国時代の大陸の楽器をみつけ、ひとり懐かしさに目を細めながら、はっきりとそう考えた。
 ――しかし天命と云うものは、いつでも生命を狙っているものだからなあ。今このときになって初めて目を光らせたわけではないだろう。さて……その持ち主は、すんなり僕らの望みを聞き入れてくれるかな?
「可愛いライオンさん」
 雲雁はにこりと微笑んで、蓮の陰のラクスに声をかけた。
「行きましょう」
「あ、あ、あの、ええと、その、確かに、そ、それは『書』なので、ええと、あのう――ひっ!」
 雲雁が一歩近づくと、ラクスはそれまでやっと話していた言葉さえも飲み込んでしまった。雲雁は首を傾げた。ラクスの目にはあからさまな恐怖があったのだ。雲雁は自分の容姿がそれほどいかついものでも、恐ろしいものでもないと思っていた。小さなスフィンクスを怖がらせる要因は何一つないはずだった。
「ようようよう、怖がってるぜ」
 ウォルターがすかさず雲雁の肩を軽く掴んだ。
 蓮が苦笑しながら煙を吐く。
「この子はねエ、男がダメなんだよ。キリストもブッダもダメさアね、たぶん」
「それなら、彼女の好きに」
 匡乃が微笑み、さらりと本音と尤もな解決策を言った。


「……アヌビス、セト、……オシリスの視線を感じます」
 小さくなった体勢のまま、ものすごく小さな声で、ラクスが呟いた。
「その手帳のち、力は、お、抑えられるものではありません……いい、命あるものには」


「行き先は?」
「カツシカだろ。カメアリなんだろ。フーテンだろ。かーッ、行きたいね! 今すぐ行きたいね!」
「失礼ですがウォルターさん、どちらの国からおいでです?」
「ステイツ!」
「ああ、下町の良さをわかって下さるとは、粋な方です」
「だろ! ……って!」
 アンティークショップを出た一行の前を黒猫が横切り、たちまち軽トラックに轢かれて息絶えた。血が飛び散り、匡乃の頬と蓮の店の看板を汚した。
 黒猫の、飛び出した金色の目玉は、しっかり4人をとらえていた。ばさばさと、夕刻でも早朝でもないのに、どこからともなく鴉の群れがおりてきて――死んだ黒猫の躰をついばみ始めた。金の瞳は、鴉の胃袋に消えた。耳障りな鳴き声が、4人の鼓膜を貫いた。
 ウォルターはただ、「って!」と言った体勢のまま固まっていたし、雲雁は軽く手を合わせ、匡乃はまたしても苦笑し、3人の男から10歩離れたところに居たラクスは、小刻みにふるふるとかぶりを振った。
 不吉だ。


■ページ■

 金町駅までの道のりは、大したものではなかった。ウォルターは蓮の店にハーレーでやって来ていたのだが、仕方なく置き去りだ。ハーレーがいくら大きくとも、4人は乗れない。
 3人の男は、ラクス・コスミオンの特異過ぎる姿に気づいていて、街中で歩くことに初めのうちは危惧を覚えていたのだが、しばらくしてから安堵したのだった。ラクスは何か術か力でも使っているようで、東京都民にとってラクスの存在は当たり前のものであるらしい。3人の男が、ラクスが特異なものだと気づけているのは――ひとえに、3人自体が特異だからだった。
「どっから来たんだい? 何しに? いくつなんだ?」
「あ、えと、あのう……」
「ウォルターさん、怖がってますよ」
「そっとしておいてあげましょう」
 ウォルターの質問には一応答えようとはしているのだが、ラクスは駅に近づくにつれて多くなってきた人間たちに(恐らくは、男たちに)おどおどと目を向けているばかりで、心ここにあらずといった様相だった。雲雁は親切に、ラクスからは心持ち距離をおいてやっている。匡乃に至ってはラクスをほぼ居ないものと見なし、ずっと古びた手帳を調べていた。
「切符を買ってきましょうか」
「ああ、お願いします」
「……何か、わかりました?」
 匡乃はしかし、上の空なのだ。表情は飄々としたもののまま大した変化もないのだが、手帳の観察に夢中になっていることは間違いない。雲雁は匡乃の顔を覗きこみ、控えめにそう尋ねてみた。匡乃がようやく顔を上げて、ふ、と溜息混じりの苦笑を返す。
「気づいたことと言えば、17ページに載っている名前は日本人ばかりといったところですかね。それと、僕が読んでいる間に内容が改められたことはありませんね。ページ数の変化もありません」
「じゃ、ページ……少なくしてみませんか」
 雲雁が悪戯っぽく笑って言った言葉に、めげずにラクスとの交流を試みていたウォルターがぴくりと反応した。
「待て待て待て、ひとのモンだ。勝手に破ったり汚したりしちゃ、持ち主は悲しむぞ」
「やはり、困っておられるのでしょうかねえ。落としたということは、さほどこれを重要視していないということではありませんかねえ。大事なものなら、落とさないように気をつけます。名前すらも書かれてないんですよ」
 匡乃ののんびりとした皮肉に、ラクスがこっそり相槌を打っていたことに気がついた者はなかった。
「……誰でも落とし物はしますよ。命の次に大事なものに限ってなくしたりする。それが、自分の生活に当たり前のものであれば尚更です。そこにあって当然だと思うからこそ、油断してしまうのでは?」
 雲雁は切符を差し出した。金町までの切符だ。
 そしてそのとき、ラクスが悲鳴を上げた。

 それは些細なことで、物をなくす(または、落とす)ことよりもよくあることだった。急ぎ足のサラリーマンが、ラクスの肩にぶつかったのだ。よろめいたラクスの尻尾を、切符売場に急ぐ青年のスニーカーが踏んだ。
 痛みより何より、男に二度も触れられたことにショックを受けて、一瞬パニックに陥った彼女は――脱兎の如く、駅を飛び出した。奇声のようなものも上げていた。
「ようようよう、待て待て待て! くそっ! あのコ、この辺の地理わかってるのか?!」
「放っておく……わけにいきませんね」
 その頃には、雲雁がものも言わずに駆け出していたし、ウォルターもテンガロンハットを押さえながら走り出していた。
 匡乃は「放っておくのが一番です」という本音をひとまず自分で撤回してから、ひとり残って手帳に目を落とした。
「おや?」
 17ページ――自分が見ているのは間違いなく、17ページ。
 4人の名前が消えている。
 綾和泉匡乃。
 常雲雁。
 ウォルター・ランドルフ。
 ラクス・コスミオン。


■焔と鉄片■

「も、もうだめです……ううう、『図書館』に帰りたい……ラクスは汚されました……うぅ」
 駅を飛び出して、ウォルターと雲雁に呼びとめられ、天下の往来で座り込んでしまったラクスは、さめざめと涙を流した。泣いているラクスに興味を持っているのは、雲雁とウォルターだけだ。他の誰もが、当たり前の存在に気を取られることなく歩き去っていく。
 雲雁とウォルターは顔を見合せ、それから、どちらからともなく優しい言葉をかけた。
「ここは人通りが多いぞ」
「行きましょう。どうも落とし主は金町に居るようですから」
「……し、しってます……」
 ラクスはごしごしと目をこすりながら、振り向いた。
「『繋がりの糸』と『オシリスの視線』は……そ、その駅から……」
「何だ、ふたりとも持ち主の居場所知ってるのか? 最終的にはこの俺がつきとめようと思ってたのにな」
「ウォルターさんにも、探索の力が?」
「……あるんだけど、あの手帳にはどうもあんまり触りたくなくてね。触る前からわかるんだ。何だか、何十億っていう気配がするのさ。レンも言ってただろ? 触ったら多分、死の感触がするんだ。俺ァ、出来れば勘弁願いたいね」
「説得は、終わりましたか?」
 匡乃がようやくやってきた。どこか拍子抜けしたような顔色に、雲雁が首を傾げる。
「そちらもどうかしましたか? 綾和泉さん」
「よくわからないのですが、リストが更し――」
 金属がぶつかり、ひしゃげて、爆発が起きたかのような音が――駅周辺を包み込んだ。
 ウォルターが誰よりも早く走り出していた。


 JR常盤線が止まり、駅は人でごった返した。この人込みを構成しているのは野次馬と足止めを食った人間の2種類、そのうちマスコミも加わるだろう。15:26発の列車が発車直後に脱線し、構内に入ってきていた別車両と衝突する大事故が発生したのだ。原因などはあとで警察か誰かが解明してくれるとして――結果はこうだ。
 4人は15:26発の列車に乗るはずだった。金町まで行くはずだったのだ。そして発車直後に事故に遭うはずだった。
 死ぬはずだったのだ。


「ラクスさんのおかげで命拾いをしましたね」
「あ、あの、ラクスは、その……」
「そうか。17ページに日本人の名前が多かったのは――」
 それ以上はたとえ独り言でも、どうも言う気になれず、雲雁は口をつぐんだ。
「で、どうする? 俺は救助活動を手伝いたいところなんだが、その手帳も気になってね。……でも、カナマチまでどうやって行く?」
「タクシーで行きましょうか」
「遠いですよ」
「蓮さんに払っていただきましょう。この件が終わるまで蓮さんが生きていたらの話ですが」
 匡乃はぞっとしないことをさらりと言ってのけ、肩をすくめて、マスコミが駆けつけ始めた駅を先に出て行った。


■神、多忙中につき■

 それまでに、何人かの農夫とすれ違った気がした。
 4人はその男を見て、ようやく思い出した。全てはラクス・コスミオンと同じ。すれ違っても、何も見なかったのと同じことのような――『当たり前』の存在がそこに居て、ベンチに座り、途方に暮れているのだった。金町駅の閑静な改札前にいるのは、その農夫くらいのものだった。
 ラクスが辿った『糸』は、運命の赤い糸とも言う『繋がり』そのもの。
 雲雁が辿ったのは、ひどく無色透明な力。それは悪でも善でもなく、存在そのものだった。
「もしもし」
 匡乃は臆することなく農夫に近づいた。そして、古びた手帳を差し出す。
「これを、落としませんでしたか」
 農夫の顔色が、ふわあと明るくなった。皺だらけの手が、匡乃から農夫の手に渡った。
「ああ、東京駅で落としてしまったのだ。手帳を開いているところで、人がわたしにぶつかってきた。踏まれて蹴られて、どこかに行ってしまってな。夕方だったから、人通りが物凄かった……しゃがんで拾うこともできなかった」
 綻んだ茶色のジャンパー、首にかけた汚れた手ぬぐい、ゴム長靴、裾をゴム長靴の中に入れたぶかぶかのズボン、ポケットの中の汚れた軍手、それが落とし主の姿の全てだった。ウォルターはとりあえず拍子抜けした。どこからどう見てもその男は農夫で、死ではなかった。
「オレぁ、黒ローブに大鎌だと思ってたよ」
「そう見られることもある。きみには、わたしがそうは見えないのかね」
「テキサスで畑耕してるひとに見えるな」
「そうか」
「……た、魂は、収穫するものです」
 ラクスが小さな声で言った。彼女は初めて、男というものに向かって一歩歩んだ。
「収穫するじ、順番がきまっているものです……」
「そうだ、順番――お願いがありますが、聞いてもらっても無意味かな」
 雲雁は苦笑した。我ながら、無意味で滑稽な頼み事だと思ったのだ。
「16ページに、碧摩蓮という名前があります。その名前を消すか少し後にするか、してもらえますか? その手帳を拾って、届けることを思いついたのは彼女なんです」
「そうか」
 農夫は意外にも、深く頷くと――16ページを開いた。
「消すことは出来ない」
「わかります。その手帳は『全て』ですから」
「順番を変えるのは、容易なことだ。きみたちがその手で変えたらいいだけのことだからな。この女性も、自分の手で変えていっている。本来ならば、昨日棚から落ちた壷で頭を打って死ぬところだったが――首をすくめただけで回避した。きみたちは、スフィンクスの彼女が驚いたから電車に乗り遅れただろう。順番などは、そういったことで変わるのだ。わたしが書き換えるまでもない」
 だが、と農夫はうっすら微笑んだ。
「――いつまでも16ページのこの1行が片付かないのは問題だ。そのうち収穫し忘れるかもしれない。とりあえず、16ページからは消しておこう」
「どうも、助かりましたよ」
「それはこちらの台詞だ」
 農夫は手帳を閉じると、懐に入れた。
「では、その手帳を手にした者が死ぬということではないのですね」
 つまらない、と匡乃は続けようとしたが、おし留めた。農夫は白髪混じりの髭が生えた口元を、ふわりと緩めた。
「ただ、順番を知って、つまらなくなってしまうだけだ」
「まったくな」
「しかしきみたちは、この手帳に黒猫と鴉を見出したはずだ。順番とはそう云うものだ。黒猫と鴉を気にしない人間もいる。そういった人間に取っては、この手帳はただの手帳なのだよ。碧摩蓮などは、年がら年中壷や矛に頭を打ちつけそうになっているのだ。彼女の元にたまたまこの手帳があった。壷と矛が落ちるのを、彼女は手帳のせいにした。よくあることだ。悪いことではない」
 農夫はゆっくりと立ち上がった。
「あ、あのっ、アヌビスにして、オシリス。バー、そしてカー、ひいてはアクを運ぶものよ。お、畏れながら、ええと」
 ラクスが――静かに、農夫の足元に近づいた。農夫の姿は明らかに男だったが、ラクスはその姿に男を感じなかった。農夫は男のものでも女のものでもあるからだ。
「い、今このときから、『糸』を撚り合わせた『紐』で、その手帳を首に……かけることを……おすすめいたします……」
「おうおう、キョウノもそう言ってたしな。無くすなんてホントに大事なのかよ、とかなんとか」
「大切だとも。ああ、紐だな。早速、そうすることにしよう。――ありがとう」
 農夫はまた、ふわりと微笑んで……
 どこかにいなくなってしまった。
 いつでも、4人のそばにはいるはずなのに、またどこかへ消えてしまったのである。4人の名前が、手帳の何ページにあるのかは告げないまま。
「親切な方でしたね」
 雲雁は、ほうと安堵の溜息をついた。
「しかし、戦って勝てる相手ではないわけです」
 匡乃はひらひらとタクシーの領収書で顔をあおぎながら、彼らしい一言を漏らした。
「オレは署に行くよ。あの駅、一応管轄だからな。レンにはよろしく言っといてくれ」
 黒のテンガロンハットを押さえて走り出した――はずのウォルターが、足を止めた。
「ああ、5時からのフジのジダイゲキを録画しといてくれ! 誰か!」
 そう、3人の誰にともなく頼みこんで、今度こそ走り去っていった。
「ラクスは、そろそろか、帰ります。大家さんが、心配しているかもしれませんから」
「お気をつけて。……送りましょうか?」
「い、いいえっ、結構です大丈夫ですそれでは!」
 雲雁の親切を必死になって遠慮すると、ラクスは獣の速さで走り去った。
「……さて」
 匡乃は、残る雲雁に目をやる。
「僕らで、蓮さんに報告といきますか」
「そうですね。……少し気になるものも、置いてありましたから」
「曰くつきのものですよ?」
「それでも構いません。曰くには縁があるから」
「僕もです」
「面白い人生ですよ」
 ふたりは、にいと無邪気な笑みを見せ合って、歩き出したのだった。


 葛飾区金町に住む道徳寺元次郎は、餅を喉に詰まらせて死んだそうだ。
 享年、79歳。




<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1956/ウォルター・ランドルフ/男/24/捜査官】
【1537/綾和泉・匡乃/男/27/予備校教師】
【1917/常・雲雁/男/27/茶館の店員】
【1963/ラクス・コスミオン/女/240/スフィンクス】

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               ライター通信
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 モロクっちです。大変お待たせ致しました。『農夫のおとしもの』をお届けします。本当ならば急ピッチで仕上げて、年明け前にお届けしたかったのですが……。申し訳ありません。
 今回は初めてのゲリラ募集となりまして、なかなか新鮮な面子でした。常雲雁さま、はじめまして!
 これからも暇をみて(隙を突いて(笑)?)告知なしでこうして依頼を立ち上げることがあるかもしれません。またよろしければどうぞ。そして、今回の死のお話がお気に召したのであれば幸いです。
 それでは、この辺で。
 またお会い出来る日を楽しみにしております。