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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


歌う雨音
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灰色の景色を一面に透かし見る窓ガラスに水滴を落として、優しい雨が降っている。時折通りかかる車が、サァッと音を立てて細かな雨を二つに裂いていった。
雨の日の喫茶店はどこか物憂い。カウンターの向こうから食器の触れ合う音だけが聞こえる室内は適度に暖かく、店内に人は少なかった。
温度差で曇ったガラスには、自信のなさそうな黒い瞳をした青年が映っており、葛城・樹(かつらぎ・しげる)は気まずいものを見た気分で視線を逸らした。
(自信のなさそうな顔、してるよなぁ)
それがまるで自分の将来を暗示しているように見えて、樹の気分は余計に滅入った。
樹たち受験生にとって、十二月は特別な月である。今月が過ぎれば年が明け、受験シーズンが駆け足でやってくる。
光陰矢のごとしとはこのことだ。まだ余裕があると思っていた夏が過ぎ、あっという間に秋を通り越して、気がつけばもう一年が終わる。
そして受験生のうちの何人かは、残り時間の少なさと、模擬試験の成績を見比べて青くなるのだ。……樹のように。
葛城樹、18歳。彼が目指すのは某国立の音楽大学作曲科志望。長いこと思い悩んでいた進路もようやく決まり、息子の進学を気にかけていた母を、ようやく安心させたところである。
真面目に取り組んできた甲斐あって、実技は問題ないと、教師が太鼓判を押してくれた。
問題は筆記試験の方である。こちらは、予備校の教師に指摘されるまでもなく、本人がそれを理解していた。
樹は今まで、可もなく不可もない成績を残してきた。元々生真面目な性格だから、予習復習もきちんとこなしていた。
これならなんとななるだろうと、高を括っていた部分もある。
その油断のせいで、足元を掬われた。
返ってきた模試の結果が思わしくなかったのだ。特に、国語の成績はお世辞にも良いとは言いがたい。
このままでは受からないかもしれないと青くなって、助けを求めたのは樹の従妹にあたる人物である。彼女は勉強好きが高じて、延々と大学に留まっているという変わり者だ。
「他の科目だったら教えてあげられるんだけど……」
そう言いながら、従妹は首を傾げた。まあ、それも無理はないだろう。いくら勉強ができるとはいえ、樹が頼んだのは国語の家庭教師。ドイツ人で、ドイツ語を母国語とする彼女に、日本語を教えてくれというのも変な話である。在日期間で言うのなら、樹のほうが圧倒的に長いのだ。
「そ、そうですよね。……すいません、変なこと頼んじゃって」
「あら、ちょっと待ちなさいよ」
肩を落とした樹を呼び止めて、従妹はアドレス帳を調べ始めた。
「知り合いに、塾の講師をしている人がいるのよ。頼んでみるから、ちょっと待っていて?」

そうやって紹介してもらったのが、現在テーブルを挟んで樹の前に座り、長い足を邪魔そうに組んでいる、綾和泉・匡乃(あやいずみ・きょうの)である。
ドアの開け閉めや子どもの泣き声、料理の音。それらの生活音に溢れた一人暮らしのマンションから、匡乃は樹を連れ出した。
「外で勉強するのも、案外いいものだよ」
というのが彼の意見である。何しろ、眠気覚ましのコーヒーも、小腹がすいた時のつまみも、お金さえ払えば出てくるのだ。喫茶店には新聞や雑誌も備えてあるし、外を眺めるだけだって、小休止を入れたくなった時の気分転換になる。
部屋の方が静かだと思われがちだが、普段何気なく聞いている雑音は、案外集中力を乱すものだ。その点、喫茶店で聞こえる音は、車が雨を跳ね上げる音と、食器の触れ合う音。それに気づかないくらいのボリュームで流れるBGM程度のものである。
人が少なく、店を追い出されることのない喫茶店は、確かに格好の勉強場所だった。
「基本はきちんと出来ているみたいだね。漢字の読み書きや文法問題は、ほぼ問題ない」
樹の実力を見るために実施した試験の解答に目を通して、匡乃はそう結論を下した。樹はというと、大きな体を小さく縮めて、恐縮している。
試験の結果は、樹が思っていたよりも悪かった。……点数は書き込まれていないが、バツの数の多さがそれを語っている。
生徒の理解度を確かめるために匡乃が作ったその問題は、決して簡単ではなかった。だから樹が取った点数は恥じるようなものではないのだが……樹は、それを知らない。
匡乃は、その結果について、意見を言うわけでも、励ますわけでもない。それが一層樹を不安にさせた。呆れて何も言えないんじゃないかと、そればかりが気になる。
そんな樹の心配を知ってか知らずか、匡乃は解答用紙を脇に追いやって、参考書を広げた。
「さて、じゃあ授業を始めよう。まずは古文における動詞や形容詞の当てはめ問題だけど、これは各単語の意味と文脈を、しっかりと掴んでいることが大切だ……」
匡乃の授業は、殆ど書き取りを必要としない。授業を始めて一番初めに、彼が樹に注意したのはそのことだった。
「教師の言葉を書き写しているうちに、授業は進んでいくからね。授業に追いつこうとして必死にノートを取っても、それじゃあ教師が何を言ったか、きちんと考える暇もない。ノートなら他の人間に借りればいいし、分からなければ聞いたらいい。まずは教師の言葉を理解することが大事だよ」
「は……はい……」
のろのろと、匡乃に促されて樹はルーズリーフを脇に寄せた。なんだか心もとない。
整理整頓にも気を使う樹は、ノートの取り方も丁寧だ。後で見ても、参考書のように整然とまとまっているので、友人にノートを貸してくれと頼まれることも多い。樹にとっては、ノートは自分が勉強していることの証明でもあった。
不安は、顔に出ていたのだろう。匡乃が表情を柔らかくして笑みを浮かべた。
「騙されたと思って、一度やってごらん。授業といっても、ぼくと葛城君しかいないからね。このやり方がきみにむいていないと思ったら、もう一度同じ授業をすればいい。その時に、ノートを取ればいいだろう?」
「はい……」
軽く身を乗り出すようにして匡乃が話し始めたので、樹は彼の指先を追って、教科書に視線を落とした。
「読書をきちんとできる人間が、必ずしも国語の試験でいい成績が取れるわけじゃない。試験というのは、コツだからね」
と匡乃が言ったのは、授業が文章問題に差し掛かった時である。樹の文章題の点数は、可もなく不可もなく、といったところだった。部分点などで点を稼いで、大体70パーセント前後をキープしている。平均点が低いので、それでも樹の偏差値は悪くない。
「文章を読み込んで感じたこと、思ったことを答えるだけでは、部分点しかもらえないんだよ。必要なのは、出題者が何を求めているかを理解した上で、解答することだ」
匡乃は、授業のはじめに行った試験で、樹の弱点を的確に見抜いているようである。樹が、目に見えて点数の悪い古文や漢文にばかり気を取られていたのに対し、匡乃は、ちょっと工夫をすれば点数を稼げる部分を見逃さない。
「問題で示されている箇所のちょっと前を見れば答えがあるのは、小学生までの話だ。文章題で正解を得るには、文全体を理解して、読み通さなくてはいけない」
そして、その上で出題者の意向に叶った解答を導き出すのだ。
「たとえば、この設問。『"それでは問題がある”とあるが、作者は何を言おうとしているのか』。機械的な読み方をしていると、この前の一文が正解に見えるね。実際、きみはそう解答して部分点を貰っている」
「はい。『それ』が示すものを言う問題だと思ったので……」
返事をしながら、樹は身が引き締まる思いがした。言われてみれば、そのとおりだ。
問題にされている点を巻き戻し式に読み直し、答えになる部分を見つけて、ただ抜き出している。
「もう一度読んでごらん。いくら作者の文章が下手でも、論文にはかならずその人の意図や思想が反映されている。読者として読むのではなく、作者の言いたいことを理解するつもりで。一文一文を理解していくんだ。分からなかったら、何度も読み直していい」
言われて、樹は文章に視線を落とした。今度は匡乃の助言に従って、ものの見方を変えてみる。
作者が何を言おうとしているのか……どんな事を考えているのか。
(あ、そうか)
匡乃のすすめに従って二度ほど文を読み直し、ようやく得心がいった。イデオロギーがどうの、日本の国民性がどうの、果ては靖国神社参拝の件で問題になった政治家の態度がどうのと話を広げているが、ようするに、出題された文章は挨拶の必要性を論じているのだ。
政治家とか、現代の若い子が使う言葉とかを挙げて批判している裏には、「最近は挨拶のできない人間が増えている。情けない」という気持ちが窺える。
そうやって読んでいくと、先ほどの解答では、作者が言おうとしている事を完全に説明できていないのだと気がついた。
気持ちの篭っていない挨拶をすることが間違っていると言うのと同時に、それでいいと考えるその姿勢がいけないと、この文章は言おうとしているのではないだろうか。
「そうか……、作者にとっては'挨拶に対する人の姿勢’も重要なんですね」
樹が答えにたどり着くのをじっと待っていた匡乃は、答えを聞いて微笑んだ。
「その通り。この問題では、その一文を追加してようやく完全正解になる。文字制限のある解答では、自分の言葉で説明して文章を短くすることも重要だよ」
試験では、読み方にも、解答の仕方にもコツがあるのだ。
いつの間にか、店内に流れる軽いジャズの音楽も、時折水しぶきを立てて通り過ぎる車の音も、気にならなくなっていた。
むしろペンの走る音を掻き消してくれる、そのわずかなざわめきが心地よい。
樹は受験が近づいて神経質になっていたのか、部屋での勉強にも手がつかなかった。行き詰まりを感じていたところに、今日は思いがけず道が開けた感じだった。
雨は、相変わらず降り続いている。
乾いた雨だった。湿気の多いこの国で、そんな雨を見ることは滅多にない。銀の糸のように降り注ぎ、溶けるように消えていく。
俯き加減で真面目に参考書を読み進む樹に、匡乃は密かに笑みを浮かべた。
最初は周囲を気にしてばかりいた彼が、ようやく勉強に集中し始めたのだ。
「じゃあ……」
頃合を見計らって、ぶつぶつと独り言を言いながら参考書に鼻を突っ込んでいる樹に声をかけた。
「さっきの問題を、もう一度やってみてごらん」


風が吹いて、サァッと雨がアスファルトに吸い込まれた。
店内には、挽きたてのコーヒーの匂いが充満して、雨の気配を包み隠している。
テーブルの上では注文したコーヒーが湯気を立て、向かいに座った匡乃の姿をぼやけさせた。
湯気に遮られた匡乃からは答えが得られず、樹は再び二度目の採点を終えた解答用紙に視線を落とす。
さっきより、正解数が圧倒的に多い。部分点をとり損ねたいくつかを除いて、殆ど全問正解である。
信じられない気持ちで再び匡乃を見つめると、その顔が余程間抜けに見えたのか、彼は吹き出して笑った。
「言っただろう。試験で点を取るには、コツが必要なんだ。葛城君は基礎がきちんと出来ているから、点数を稼ぐのはそう難しいことじゃないんだよ」
言われて、誇らしさで全身に血が巡った。
気を使って慰めてくれているのかも知れない……普段ならまず始めに浮かぶ後ろ向きな考えも、今日は思い浮かばなかった。何しろ、実際に点数が樹の進歩を示している。いくら二度目の解答でも、だ。
だって、答え合わせだってしていない。言わば、問題を見直しただけなのである。
「焦らずにいけば、点数もかなり変わるはずだよ」
そう言う匡乃の言葉には、素直に頭が下がった。
「あ、ありがとうございます……!」
「あとは、じっくり考えることだ。自信をもっていいよ。この点数が、そのまま君の実力なんだから」
解答用紙を引き寄せ、初めて匡乃は空欄に点数を書き込んだ。
89点。90点には一歩届かないが、始めにテストを受けた時に比べて、20点近い進歩だった。
「あの、次回も是非よろしくお願いします」
「もちろん。今度はここで待ち合わせてもいいかな?それとも、部屋で勉強するかい?」
誰かが入ってきたのか、外の風が吹き込んで、コーヒーの香りに雨の気配が混じった。
「いえ」
雨音がする。
まるで歌っているようだ。軽やかで、優しい。
こうして自然の音に耳を傾けることを、長いこと忘れていた気がする。
「今度も、このお店で勉強を教えていただいていいですか?」
また風が吹いて、雨が乱れた。
窓の外を見なくても、てんでばらばらの方向に吹き飛ばされた雨の筋は、紙の上で踊る音符のように、鮮明に脳裏に浮かび上がった。




「歌う雨音」