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<東京怪談ノベル(シングル)>


■アドリアの風に■

 月が虚空を支配してから間もなく、セレスティ・カーニンガムは水と戯れるのをやめた。と言うのも、ただ入浴を済ませただけの事なのだが、バスタオルを渡して差し上げようと思って立っていた執事の目からすると、戯れるというのが相応しい。
 幾分細めた目を更に猫の目のように細めて執事は微笑んでいた。
 先ほど連絡したネイリストは既に到着している。寝室と続きになっているプライベートルームに呼んで待機させていた。
 バスルームのドアを開け、一糸纏わぬ姿で出てきたセレスティにバスローブとタオルを渡す。セレスティはそれを身につけ、バスタオルで髪を拭くとボディーローションの瓶を手にとって胸元に吹き付けた。手の平でゆっくりと伸ばしてゆく。辺りに芳醇な香りが漂った。腕にもそれをつけて伸ばし、瓶を棚に置けばバスルームを後にしようと歩き始めた。
 傍らに立っていた執事は素早くドアのところまで歩いていって開けた。
 ドアの側に立てかけてあったステッキを持つと、セレスティはバスルームを出てプライベートルームの方へと歩いていく。ドアを開ければ専属のネイリストが立っていた。
 未だ若い女性は金髪をアップにしてスーツを着こなしていた。すっと頭を下げて挨拶する。
「Buona sera.sinor Celesti Carnningham.Come sta?」
「Bene grazie.buona sera.e Lei come sta,sinora」
「Non c'emale grazie.sinor Carningham.」 
「貴女の故郷はイタリアでしたね?」
 ふいに日本語に代えてセレスティは言った。
「えぇ、そうですわ。私の母国語が話せるとは思っていませんでしたわよ。シニョール」
「私が話せるのは旅行できるか出来ないかぐらいですよ、とんでもない」
「おやおや、お戯れを。十カ国語はいけると評判ですのに」
「そんな噂は誰が流したのやら。うちのクルーでないのは確かのようですけれどね?」
 そう言ってセレスティは若いネイリストを見遣った。自分とて数ヶ国語を操るではないかと思うも、それは口にしない。
 スクールを出てさほどの歳を取っておらぬ女性はクスクスと声を立てて笑い、そ知らぬ振りをする。
「まぁ、私が流したとでも?」
「私にも分かりませんね。貴女でないとしたら誰なのか。皆目見当がつきません」
 誰が犯人だか知ってますよといわんばかりに笑ってセレスティはソファーに座った。ソファー前のテーブルにはすでに道具が用意され、使われるのを待っているかのようだ。
 リズムの良い会話を交わしているとひどく懐かしくなってセレスティは微笑んでしまう。かつて旅行先で会った少女の気性に良く似た女性の会話に、郷愁に似た思いが浮かんでは消えた。
 湯を張った白い陶器の洗面器をセレスティの足元に置き、女性は彼の足を中に入れた。もう一つの洗面器には同じほどの温度の湯を入れ、セレスティの手を恭しく掴み、その湯の中に入れた。甘皮を柔らかくするためだ。入浴が終わっているので柔らかくなってはいるのだろうが、少し会話を交わしたあとなので、冷えてはいないだろうかというこの女性なりの配慮だった。
 程なく暖まったであろう手を出せばタオルで水気を拭き取り、甘皮押しで押してから甘皮切りで浮いた部分を切ってゆく。足湯の法も温くなったので退かし、足を拭いた。
 整って美しい手を見ればふと悪戯心が湧くのだが、あまり品の無い悪戯は出来ない。仕方無しに添加物の無いエバメールというハンドクリームを指先に塗ってマッサージし始めた。後できる事といえば爪を磨く事だろうか。
 入念に指をマッサージし、整えれば荒めの爪磨きで磨いていく。爪の表面にある凹みを無くし、均一な綿ができれば今度は光沢を出すためになめし皮のような爪磨きで磨いていった。
 どうにかこうにか悪戯でもしてやろうかと思ったがチャンスが無い。ネイリストの女性はこそりとセレスティを見た。
 終わりに近くなったころ、執事がドアをコンコンと叩いた。セレスティが「どうぞ」と短く言えば、執事は音無くドアを開けて入ってきた。
「セレスティ様、お電話でございます」
「どなたからですか?」
「懐かしい方からです」
「懐かしい?」
「旅行先でお会いになられたお嬢様からです」
「あぁ、あの子ですね?分かりました、出ましょう」
 返事を聞けば執事は笑顔を浮かべ、コードレスフォンの子機を持ってきた。柔らかな仕草でそれを受け取ると「Ciao?」といってセレスティは笑った。
『Ciao! e Lei Come stai? sinor Celesti♪ Io sto bene.』
「Molto bene,grazie.」
『聞いて! 私、日本語覚えたのよ、セレスティ!』
 いきなり日本語になってセレスティは目を瞬いた。不意に笑顔になって言う。
「それはすごい! どうなさったんですか?」
『だってセレスティがいる国の言葉だもの、憶えなくっちゃ! ここ最近は遊びにきてくれないのね』
 悪戯っぽく、そして少し寂しそうな声で少女は言った。申し訳ないような気がしてセレスティは苦笑する。
「えぇ、最近は忙しくて。お父様はお元気ですか?」
 同族の一人をセレスティは思い出す。そして、美しいアドリアのターコイズブルーを思い出して遠い視線になった。
 彼女はその美しい海で知り合った少女だった。
『この上ないぐらい元気よ』
「それはよかった。仕事の手が空き次第、遊びに行かせて頂きますね?」
『本当!! 分かったわ、来るときは連絡頂戴ね? 絶対よ。じゃあね』
「えぇ、約束しますよ。sinorina.Ciao,a presto!」
『待ってるわ。Ciao,a presto!』
 電話を切ると執事に渡そうとする。
 ネイリストの女性はテーブルの上を片付けるとバックに仕舞い、礼をして部屋を後にした。セレスティは手を上げて「ご苦労様」と労った。ドアを開けた女性はにこやかに微笑むと去っていく。
 セレスティは突然の電話に何処か満足しながら、執事にコードレスフォンを渡した。
 ふと、渡された指先を見て執事は目を瞬いた。
「どうしました?」
 執事の視線を感じてセレスティは小首を傾げる。
「あ……はい、セレスティ様。お指の方が……」
「え? あ!」
「やられましたな」
 くすりと笑って執事はコードレスフォンを受け取り、元あった場所に置いた。
「しかたないですね……気がつきませんでした」
「私も気がつきませんでした、セレスティ様。女性ならではの素早さでしょうな」
 二人はクスクスと笑ってセレスティの指を見た。
 セレスティの小指には、小さなジルコンの宝石が一つだけ指輪のようにネイルされていた。

■END■