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<東京怪談ノベル(シングル)>


『いつか出会うあなたのために』
 僕が彼を知ったのは、とある古本屋であった。
 その日、僕はただあてもなく道をぶらぶらとしていたのだけど、なぜかちょうどその古本屋の前を通った時、何かに呼び止められたようにふと、足を止めた。
「誰だい? 僕を呼んだのは?」
 そう、確かに僕は呼ばれたんだ。その古本屋にある何かに。
 そうして僕はその古本屋に足を踏み入れた。
 数の概念など無視したような何千冊もの本は無造作に棚に並べられ、または床の上に積み重ねられている。それは到底、図書館のような本の分類別にされた並べ方とは無縁の本の扱い方だ。
 僕はその混沌とした店の光景につい、微苦笑を浮かべてしまう。
 だけどこういうのは嫌いではない。
「僕を呼んだのは誰だい?」
 僕は耳というよりも、すべての感覚を僕を呼ぶ声に向ける。
 それは店の一番奥にある角の闇・・・店のどの闇よりも濃密などろりとした闇の中にその本はただぽつんとあった。
「クトゥルフ神話考?」
 その本のカバーはなんだかざらりとした艶かしい感触をしていた。まるで剥いだ人の皮を使っているかのような・・・。なんとなく無意識に鼻にその本を近づけて、臭いを嗅いでみるが、それは周りの古本と同じ古いインクと紙、湿気と埃・・・言い方が悪いが、嘔吐物のような臭いがした。
 僕はその本を開く。そこにはこのクトゥルフ神話に出てくる神々の絵や名前、そして説明が書かれていた。
 そしてその本を閉じた僕の手はズボンのポケットに突っ込んであった財布に伸び、僕は中身を見る。
「3万5千852円、か」
 おそらくは買えるだろう。
 僕は暖かい陽光が窓から入る店の出入り口に置かれた机に突っ伏して寝てる店主に声をかけた。
「あの、この本をもらえますか?」
 店主はぴくりと曲がった背中を動かすが、起きない。
「あの、この本をもらえますか?」
 先ほどよりも声を大にして言った。すると、店主が起きた。60代後半ぐらいの老人は黄色い前歯を見せて、僕ににやりと笑った。
「いらっしゃい」
「この本をください」
 本を机の上に置くと、店主は怪訝そうに眉根を寄せたが、すぐに愛想笑いを浮かべながら僕を見上げて、
「1000円でいいよ」
 いいよ、か。アバウトだな。僕は苦笑いを浮かべながら財布から出した1000円札を彼に渡して、店を出た。

 見慣れた自分の部屋はしかし、なぜか知らない場所かのように妙に僕によそよそしく感じられた。
 部屋の空気もなんだかざわざわとしている。
 しかし、僕はそれを気にせずにベッドに腰をかけると、【クトゥルフ神話考】を開いた。
 その本に寄れば、【クトゥルフ神話】とは1920年代にアメリカに住む作家が作り出した世界で、莫大な人気を得たそうだ。そして日本に伝わったのは1948年で、とある雑誌で紹介されて以降、やはり莫大な人気を得たそうだ。ちょうど僕が生まれて数年後の1980年代にその人気は絶頂期であったらしい。
「へぇー。【クトゥルフ神話】を賞賛したのは探偵小説の父だったのか」
 その組み合わせはものすごく意外な物のように思えたが、しかしページを読み進めていくうちに納得できた。
「なるほど、【クトゥルフ神話】を作った作家は、魔術師であった説もあるのか。あの人の好きそうな話だ」
 そう呟いた瞬間、ぞくっと僕の肌に鳥肌が浮かんだ。
 部屋を漂う空気は無味無臭のはずなのに、しかし僕のわずかな上唇と下唇の間から割り込んできて、舌に触れる空気はなんだか腐った物を食しているかのように、すごくすっぱい味がして、そして鼻腔をくすぐる空気が孕んだ臭いってのもゴミ捨て場の臭いがした。
「うぅ」
 僕はこみ上げてきた嘔吐感を我慢できずに口に片手をあてて、トイレに駆け込んだ。
 じゃぁー。
 トイレを流れていく水の音がまるでどこか遠い世界の物のように感じられた・・・いや、もうそれは遠い世界の音なのだ。
 そう、僕は確信せざるおえない。【クトゥルフ神話】の作者が魔術師であったというのは眉唾物の噂ではなく、事実だと。
 そして僕はあの本に確かに呼ばれたのだ。

 なぜ?

 その自分に問い掛けた疑問に、僕は自分で答える。
「クトゥルフ神話の神が、人間界を征服できないのは、お腹が空いているから。だから彼らの空腹を満たせる者が必要なんだ。そう、その役目を背負うのが僕。そういう事なんだろう、なあ、おい?」
 僕は【クトゥルフ神話考】を手にとって、それに語りかけた。ひょっとしたらそのカバーは本当に人の皮なのかもしれない。

 そうして【クトゥルフ神話】の信者となった僕は、いつかこの世界に空腹のままに現れた彼らの腹を満たせるように、いかもの料理の勉強をしだした。
 いかもの料理とはなにか? それは腐りかけの野菜くず、足元の雑草、そして蠅などを食材に使った料理だ。
 だから僕には親の遺産があるのだが、それをあまり使わずにレシピ研究ができる。
 今日も僕はいつか出会うあの人のために草を摘んだり、ゴミ捨て場を漁ったり、ミミズを捕まえたり。
 と、その僕の前に、魚のような顔をした変な男が出てきた。
「やあ、君が宇奈月慎一郎君?」
「そう言う、あなたは?」
 僕は頷くと、彼に問い掛けた。しかし、彼は僕ににやりと笑みかけると、逆に問い返してきた。
「もはや僕に人間であった時の名前などは無意味さ。そう、これがどういう意味で、そして僕が何者かは、君ならばわかるね」
 僕はこくりと頷いた。
「あなたは【深きものども】だね」
 深きものども・・・それは水棲種族。つまり、頭が魚の半漁人だ。確か寿命はほぼ永遠で、陸上でも活動可能。しかしまあ、彼らの歩き方ってのはぴょんぴょん飛び跳ねるような歩き方だから、奇怪な事この上ない。その彼らは僕ら人間とも交配が可能で、そしてその間の子は若いときは人の姿だが、年齢を重ねていくうちに魚を思わせる風貌になっていき、そしてついには海へと帰る。つまり今、僕の前にいるのは人と【深きものども】のあいの子で、そして海にこれから帰ろうとしているのだろう。
 その僕の言葉を聞いて、彼は魚のような顔に満足げな表情を浮かべて頷いた。
「そうだよ。それで、君に会いに来たんだ」
 僕は訝しげな想いに眉根を寄せる。すると彼はけたけたと笑って、
「そう、変な顔をするなよ。僕は地上の最後の思い出にと君の料理を食べに来たんだ」
「僕の料理を?」
「ああ。食べさせてくれるかい?」
 その申し出は僕にとっては願ってもないことだ。もちろん、僕は首を縦に振る。
「ああ。あの人により美味しい料理を食べてもらうためにも誰かの意見は聞きたかったところだ。OK。君のために腕によりをかけて作らせてもらうよ」

 お客さんは【深きものども】。つまりは魚だ。魚釣りは僕もしたことがある。海釣りも川釣りも、もちろん、池でも。その時に使った餌をベースにすれば・・・
 まずはミミズとゴカイ湯がいて、そしてバターで焼いて、ケチャップをかけて、パスタの出来上がり。
 次はみの虫に、鉢の子をボールにいれて、灰汁抜きをして、そしたら市販のグラタンの素を使って、鶏肉やマカロニの代わりに、それを入れて、レンジでチンして、特性グラタンの出来上がり。
 さらに腐った野菜を使ってのサラダに、腐敗野菜ジュース。
 後は一週間前の糸を引き始めたご飯をねちねちとねって、それでボールを作り上げて、その真ん中にチーズや、飴、ガムなどを入れて、小麦粉、卵、パン粉をかけて、油で揚げて、特性ボールを。
「ああ、あとはこの昨日、やくざから仕入れた奴を隠し味にヘビの毒苺を使ったタルトにかけて、と。完成だ♪」
 僕は額の汗を拭って、おそらくは最高にイイ笑みが浮かんでいるであろう顔を彼がいる方に向けて、声をかけた。
「できあがったよぉー」
 するとすぐに彼が現れて、
「おお、いい臭いだ」
「さあ、たーんと食べてくれ」
 彼は実に嬉しそうに食べてくれる。
 そして綺麗にぺろりとすべてを食して、細かく感想を述べてくれる彼を更に驚かせてやろうと、僕はタルトを出した。
「さあ、デザートだ」
「おお、デザートまで」
 僕はナイフで切ったタルトを彼の前に置き、そして腐敗野菜ジュースのおかわりをコップに注いだ。
「では、いただきます・・・って、そんなまじまじと見ないでくれよ。恥ずかしいじゃないか」
「いや、すまん。だけどやっぱり、料理を作った者とすれば見ていたいさ」
 彼は恥ずかしそうにタルトを食べて・・・食べて・・・急にもがきだした。
「どうした?」
 僕は焦る。まさか、昨日、やくざから買ったアヘンの量を間違えて、中毒症状を出させてしまったか? 僕はぞっとする。彼をそんな目に遭わせた事にではなく、あの人にその料理を出していたら、って。しかし、彼は思わず身を乗り出した僕に・・・
「美味い」
 と、にこりと微笑んだ。どうやら、軽いジョークだったらしい。そんなお茶目な彼に言ってやるべきであろうか? 今、僕がそんなにもお茶目な彼を包丁で三枚におろしてやりたいと心底思っている事を・・・。
「ふぅー、ご馳走様」
 最後の野菜ジュースを飲み干した彼は、ナプキンで口の周りを拭いて、僕に微笑んだ。
「ありがとう、美味しかったよ」
「どういたしまして。こちらもいい勉強をさせてもらったよ」
 僕らは握手をした。

 そして彼を海まで見送った僕はうーんと伸びをする。
 夕焼け空がとても美しい。こんなにも美しい世界を早くあの人に見てもらいたい。そして僕の料理をこの美しい世界を見ながら食してもらいたいと思う。あの人が僕の料理を食べてくれているのを想像するだけでも・・・
「ぞくぞくと興奮するね」
 そう、僕はまるで卵の殻の中でひよこが、外の世界を想像して身悶えするように、あの人が美味しそうに僕の料理を食べてくれているところを想像して、ぶるっと体を震わせた。
「さあ、その日のためにも早く家に帰って、レシピの研究だ」