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<東京怪談ノベル(シングル)>


誰が為に雨は降る ─庭の千草〜雨に歌えば─

 カウンターで煙草を吹かす男の耳に、外からの幽かなヴァイオリンの音が流れ込んだ。
「……今どき、艶歌師ってヤツかよ。……古いねェ」
 紫煙と共に溜息を吐いた彼は、だが不意に立ち上がると扉を開けて店外へ出た。
「おい、何時迄も小煩い流しやってんなら、ちょっとは気の利いた歌でも演んな、」
 甲高い金属音が街角のヴァイオリン弾きの手を止めさせた。投げ銭に気付いて視線を上げた彼は店から顔を出した男に向け、首を傾ぐ。
「リクエストは?」
 何だって良いよ、と頭を掻き回しながら男は投げ遺りに吐き捨て、こんこん、と店先の看板を叩いた。
「ただ、あんまり場違いな歌を歌うなっつってんのさ、ここが何の店か、分かっちゃ居ないな。場所借りてる店の看板位見ろ、ってんだよ」
 それだけ云うと、男は再び身体を引いて扉を閉めた。
 直後、再び始まったヴァイオリンを耳に男は眉を顰めた。
「……そのまんまじゃ無ェかよ。……気が利か無ェ、不粋な艶歌師もあったもんだな」

 ──Irish Bar<the Last Rose of Summer>──

「……、」
 拍手と共に投げ入れられた紙幣に驚いたヴァイオリン弾きの前に立っていたのは、白皙の麗人だった。儚気な微笑を浮かべた穏やかな貌を白銀色の髪で際立たせ、脆弱そうな身体はステッキで支えていなければ存在出来ないかのように、彼には思えた。
「素晴らしい、」
 手を止め、賞賛の言葉を送った麗人に会釈して足許に視線を落としたヴァイオリン弾きは、何気無く投げられた報酬の額に寧ろ愕然として再び顔を上げた。
「……いや、あの……、」
「いいえ、本当に良い演奏でした。あなたのヴァイオリンのお陰で、懐かしい空気に巡り合わせて頂きましたよ。感謝します」
 慌てて頭を下げたヴァイオリン弾きに一礼すると、ステッキの音を響かせながら麗人は扉の向こうへ入って行った。

「Cead mile faite.(いらっしゃい)」
 今や自然と極まり文句になってしまった、遠い国の言葉で店主は客を迎えた。
「Feasgar math.(こんばんは)」
 セレスティ・カーニンガムは穏やかな笑顔で挨拶を返し、店主の前のカウンターに掛けた。店主は驚いた、と云う風に目を見開き、口笛を吹いてセレスティを眺めている。
「いや、こりゃ立派なお方がお見えになったと思ったが、あんた、何だ、同郷かね」
 店主は混血らしかった。大雑把な髪は枯れた榛のような色で、瞳の色も淡い。
「そのようですね」
 優美な返答には、当初不躾な程にじろじろと──こんな場末のアイリッシュ・バーには不似合いな程高貴な雰囲気の──来客の姿を眺めていた店主もどこか気分が和んだらしい。煙草を灰皿に押し付けると、棚から取り出したグラス二つにクラッシュアイスを投げ入れてカウンターに置く。無造作なボトルから独特の香りの漂う液体を注いで、一つを手に持ち、もう一つをセレスティの前に置いた。
「面白い巡り合わせもあるもんだな、こんな商売やってたって、ここ東京じゃそうそう同郷人には会わ無ェよ。……poteen(ゲール語で『密造酒』の意。アイルランド独特の蒸留酒)、懐かしい匂いだろ。これはサービスする、乾杯と行こうぜ」
「有り難うございます。では、お言葉に甘えて」
 セレスティもグラスを掲げた。グラス越しに見える混血の店主の顔は、心から楽し気に笑っていた。
「Slainte(乾杯)!!」
「──Slainte.」

「あんた、東京育ちか?」
 杯を合わせた後は同郷の念からか気安く、店主はカウンターから身を乗り出してセレスティに話し掛ける。くたびれた風な中に、無邪気な親しみを見せる彼の瞳はセレスティにとってもどこか懐かしさを覚える。碎けて話す彼の声の響きから、連想するものがあった。アイルランドの壮大な空、高山植物や野鳥の戯れる沼地。──親しみのある愛すべき人々。
 無意識の内に、セレスティはこの場末のアイリッシュ・バーの堅いスツールの上で安らぎを覚えていた。常から穏やかな彼の微笑にも、今夜は特に暖かさが感じられた。久し振りに口にした、独特の土臭さを持つ、それでいて無性に懐かしい蒸留酒の味のように。
「いいえ、こちらへ来たのは比較的最近の事ですね。当初はビジネスの為でしたが、東京の出来事も人間も、中々に興味深く面白いものです。今では、すっかり気に入って根を落ち着けてしまいました」
「ふぅん……、ビジネス、ねェ。どっか高貴な方だと思ったが違うね、矢っ張り。然し面白いかね、こんな無愛想な街が」
「勿論です。あなたはお嫌いですか?」
「まぁなァ、嫌いって訳でも無いけどよ。そう云や最近、面白いなんて思った事は無いな」
 店主は既に飲み干してしまったグラスに新たに蒸留酒を注ぎながら、頬杖を付いて冷めた溜息を紫煙と共に吐き出した。
「ま、慣れちまったのかも知れんね。仕方無ェだろう、俺ぁ見ての通り、寂れた場末の酒場に閉じ籠って久しいんだからよ。……冷てェ街だしな、人も、空気も」
「……、」
 自嘲的に独白を付け足した店主の顔は、どこか憎めなかった。頑なそうな彼は、東京に馴染めなかったのだ。冷たい空気の中で、──こんなものだ、と諦める事でそのクールな温度に染まる事が出来ず、半分の血の記憶と本能のままに生活して来たらしい青年。どれ程か辛く、孤独だっただろう。──だが同時に、何と喜ばしく、愛しい事だろう。
 睫毛を伏せ、ぼんやりと彼を眺めたセレスティには、彼の纏っている母国、アイルランドの空気が雄大な景色と共に見える気がした。
「……何見てんですかね、旦那」
 じろ、と斜に構えたまま、店主はセレスティを見上げた。ふっ、と笑みを零してセレスティは答える。
「あなたは、美しい」
「──……はァ!?」
 唖然として煙草の灰が溢れた事にも気付かない彼は本当に無邪気だと思う。くすくす、──更に笑みが洩れる。
「いいえ、おかしな意味ではありません。──見えるのです、あなたの身体に半分だけ流れている血の記憶が。……寒い国でした、然し、その空は、大地は雄大で穏やかだった。暖かく、素朴で、……美しい国でした。あなたの瞳は、アイルランドの色彩そのものですよ。──とても、美しい」
「あぁ……、そうかい。……誉められてんのかよ、それァ」
「勿論。……とても好ましく思います」
 そりゃどうも、と店主はその枯れた榛のような短髪を掻き回した。極まり悪そうに片目を瞑りながら。
「……誉められた気にもなれ無いがね。俺にとっちゃァ、あんたの方が余っ程おキレイに見えるが」
「有難う。──あなたのような方にそう仰って頂けるのは本当に嬉しく思います」
「はいはい、幾らでも云いますよ、俺なんぞからの賛辞で良けれァ、」
 
 その時だ。入口の扉が軋んだ音を立てて開き、困り果てたような様子で先程のヴァイオリン弾きが入ってきた。
「──何だよ、またあんたか」
「ちょっと、……雨宿りをさせて貰えませんか」
「雨?」
 庇うように古いヴァイオリンケースを抱えた彼の肩も俯いた横顔も既にずぶ濡れだった。──雨が、いつの間にか降って来たらしい。店主は窓際に歩み寄り、気付かなかった、と呟いてからヴァイオリン弾きに向かって肩を竦めた。
「別に構いやし無ェがな、客なら。雨宿りでも何でもやって来な、」
「すいません、」
 恐縮したように頭を下げながら、ヴァイオリン弾きは未だ自分よりも楽器を気遣って雨の滴を払っていた。
「床に巻き散らすんじゃ無ェよ、ただでさえ掃除が面倒なんだ。……ほら、拭きな」
 店主は舌打ちしながらも、棚から手拭いを取って投げて寄越した。
「──優しいのですね」
 セレスティはひっそりと、笑顔を店主に向ける。「別に優しか無ェや、後が面倒なんだよ、」と彼は殊更無愛想だ。
「あなたもこちらへいらっしゃいませんか?」
 薄暗い店内の片隅のスツールに蹲って滴を拭っていたヴァイオリン弾きにもセレスティは声を掛けた。彼はちらり、と視線を上げたものの、やや気後れしている様子で「いいえ、どうも」とだけ応えてそこに留まった。
「……、」
 セレスティはとんとん、と軽くカウンターを叩き、店主の意識を喚起して紙幣を差し出した。
「あ?」
「──あちらの方のお支払いも私が持ちますから、どうぞ、何か身体の温まるような物を」
 気付いてしまえば途端に耳につく雨音に紛れ、第三者には聴こえ無いような低声でセレスティは告げた。
「はいはい、……矢っ張りあんた、物好きだねェ。……ま、俺にとっちゃどっちが支払おうがどうでも良いんだが。──おい、何にするよ、」
 最後の一声はヴァイオリン弾きに向けられた。彼は相変わらず俯き加減で、「何でも」とぼそりと答える。
「何でも、っつーのが一番困んだよなァ、」
 店主はそうぼやいてグラスを取り出し、酒瓶の前で逡巡した挙げ句「何でも良いか」と結局、先程と同じ蒸留酒を選んだ。──但し、今度はアルコール度数が90度にもなる強い物だ。
「……それは、」
 店主の手許に気付いたセレスティは苦笑して目を細める。振り返った彼はにやり、と悪戯めいた笑みを口唇の端に浮かべていた。
「身体があったまるヤツ、てあんたの御注文だろうが」
「知りませんよ」
 そうは云いながらもセレスティは楽し気に店主の手許を見守った。──こうした悪意の無い悪戯は、見た目に反してセレスティの好む所である。視線の合った彼と店主の間に忍び笑いが交叉した。
「あんた、意外と楽しい人らしいな」
「そうですか?」
 声を顰めて囁き合った後、店主はずかずかと大股でカウンターを出てヴァイオリン弾きの許へグラスを運んで行った。
「ほらよ、」
 どん、と乱雑に置かれたグラスから衝撃で蒸留酒が僅かに溢れた。──強度のアルコール臭が鼻を突く。
「あちらのお客さんからだよ、立派な方だろうが、有り難く思え」
「……、」
 ヴァイオリン弾きは引っ込み思案なようで、感謝の言葉を述べられ無いながらも恐縮してセレスティに頭を下げた。何度も、何度も。
「……!?」
 冷えきって震えた口唇は、一口グラスを煽った途端に驚愕でぱっくりと開いた。
「──あはははははは!」
 可笑しくて仕方が無い、と云った屈託の無い笑い声が店主から上がった。それを眺めていたセレスティも笑みを零さずにはいられず、店内の雰囲気が一気に明るく揺れた。
「吃驚したかよ、そりゃそうだろ。然しなあ、飲む前に気付けよあんた。いや、然しこの際だ、一気にやっちまいな、あったまるぜ」
「無理に飲ませては不可ませんよ」
「……、」
 哀れなヴァイオリン弾きは未だ何が起こったものか理解出来ない様子で面喰らっていた。──然し、こうした光景は悪く無い。

 雨は止みそうにも無く、長丁場を覚悟したらしいヴァイオリン弾きはその後、ケースから出したヴァイオリンをピツィカートで気侭に奏し出した。──バラバラバラ、と雨垂れが屋根を打つ音が湿った木の床や天井に響く音、そこに紛れた弦を弾く音が無性に郷愁を誘った。
「だから、辛気臭いんだよ、」
 店主はそう管を巻くが、ヴァイオリン弾きはその時にちらりと顔をあげて「はあ」などと答えたきり、手を止める気配は無い。
「……全く……、」
 諦めたように、乱暴にスツールに腰を下ろした店主にセレスティは穏やかな微笑を向けた。
「良いではありませんか? 時には、感傷に任せて物事を思い返すのも悪くはありません」
「想い出っつったってなァ、──思い返した所でどうなる訳でも無し、正直、遣り切れ無いんだよ」

「単純だが、自分でも忘れかけちまってるような母国の言葉で話して貰った事がどれだけ嬉しかったか、……分かって貰えないだろうな、あんたみたいな立派な人には」
 皮肉と云うよりは気恥ずかしそうに、彼は視線を反らした。
「いいえ、良く分かりますよ」
「本当かよ」
「本当です。……何しろ、嬉しかったのは私も同じなのですよ。それより以前に、私はあのヴァイオリンに誘われてここへ辿り着いてしまったのです。あまりに懐かしく、また嬉しくて」
 何が嬉しいんだよ、と──少々酔っているのだろうが、この無邪気な店主は客たるセレスティに向かって投げ遣りに吐き捨てた。
「なあ、あんたなあ、寂しく無いか。──いや、あんたには故郷を想えば待っててくれる人間の一人二人居るのかも知れ無ェがよ、俺みたいな人間はどうだよ、東京で独り、けど幾ら故国を想ったってそこへ帰った所で誰が待ってる訳でも無いんだ。そこで、いつまでもぐずぐずとここを出る事も出来ないでこんな隅っこの暗がりに引っ込んでるんだぜ、」
 ──おやおや、と呆れて静かな溜息をセレスティは吐く。
「そうかも知れません、──然し、人間はいつでも──何処へ行っても結局は孤独ですよ。自ら、他者を受け入れなければ」
「だから、それが出来りゃあ世話無いんだっつー。……ああ、全く辛気臭くて遣り切れ無い街だよ、かといって北へ行ったって何がある訳でも無いしな、いっそ、アメリカとか行きてェよ、あんな大きな国はからっとしてて良いだろうな、賑やかでさ、」
「望みがあるのならば、お行きになれば宜しいでしょう?」
「どこにんな金があるんだっつー。それに、行った所でどうせ俺なんかスラムに埋もれんのァ目に見えてるさ」
「……、」
 俄に莞爾と笑顔を浮かべたセレスティに、「だから何が嬉しいんだって」と不貞腐れた非難が向く。
「いえ、……全く、仕様の無い人ですね。寂しいと仰るのに、然し他者と打ち解けるのは怖いと。……但し、外の世界を受け入れるのが怖いと云う気持ちは分からないでもありませんが」
 ちら、と未だにピツィカートを奏しているヴァイオリン弾きが横向きの視線を投げた他、暫し沈黙が訪れた。──雨は、止まない。東京の街は、雨に掻き抱かれて薄く烟っていた。
 慈愛さえ見取れる微笑で以て目の前の哀れな、純粋な混血児を見詰めていたセレスティの表情に、ふと何かを閃いたらしい変化が現れた。
「──では、こうしましょう」
「何を」
「私からあなたに、ささやかな贈り物をしましょう。……いえ、アメリカへ行きたいと仰るならば費用を工面して差し上げるのは造作無い事です。ですが、それでは結局あなたの心は満たされないでしょう。もっと、あなたにとって安らぎとなり得るものを」
「何をくれる?」
「──そう、……どこへ行ってもあなたと共に在り、それは決してどこへ消えてしまう訳でも無い。あなたが寂しく憶う時に、包み込んでくれる存在を」
 そして、セレスティはカウンター越しに手を差し伸べた。
「手を貸して頂けませんか。──外へ出ましょう」
「雨だって。何が面白い訳でも無ェよ、」
「手を。……すみません、私はあまり身体の自由が利かないのです」
 セレスティは変わらず微笑む。──あ、と店主はスツールに身を預けたステッキを見遣った。
「……ただの飾りじゃ無かったのか、そりゃあ……悪かった、」
 そして慌ててカウンターを出て、セレスティの手を取って肩を貸す。ゆっくりと歩いて出口に向かいながら、ぽつりと彼が呟いた。
「──あんた、軽いな。大丈夫なのかよ、そんな、俺に構ってるより先に自分の身体の方気遣った方が良か無ェか?」
「心配には及びませんよ、……元々なのです、視力が弱いのも、身体の自由が利かないのも」
「──ったく、御立派なもんだ。俺なら遣りきれんね、この上歩け無ェ、見え無ェ、なんつー事になったら」
 ふっ、とセレスティは笑みを零す。
「悪くはありませんよ。──そうで無くとも、人間は色々と余計な物まで見えてしまうのです」
「出るぞ、どうすんだよ、これじゃ傘だって差せ無ェぞ、」
「構いません」
 扉を開く、──ザァッ、と一瞬で雨垂れの音が大きく広がった。
「……、」
「……浴びて御覧なさい」
「……雨を?」
「そうです」
「何云ってんだ、寒いだけで良い事なんか何一つ無ェぞ、」
 そう云わずに、と自らも既に雨を受けた身体を戸口に凭せ掛けながら、セレスティは彼を促した。純真な彼は小首を傾いで訝りながらも、歩み出て滴を受けながら両手を翳した。
「──……、」
 
──少しばかり、あなたの運命に安らぎを与えてあげましょう。但し、一時の間に全てを覆すような変化では無い。少しずつ、……ほんの僅かばかりずつ。……そう、雨が、あなたを受け入れるように。何は失っても、雨だけはあなたと共に一生在り続ける。……暖かいでしょう? ……今後、絶望した時にもこの雨垂れだけはあなたの支えとなり、包み込むようにしてあげましょう。……いつでも、受け入れてあげますよ。

「……、畜生、」
 背を向けたままの混血児が、今まで雨を嫌って閉じていた目を見開いた。ぐしゃ、と両手で前髪を掻き上げ、呆然と天を仰ぐ。
「……あんた、何をしたんだよ。……何で、こんな、……畜生、……泣きたくなって来たじゃ無いかよ、畜生!」
「暖かいでしょう? ……心を開きさえすれば、全ては暖かく包み込んでくれるものです」
「熱いんだよ、……この辺が、」
 片手で胸を抑え付けながら、それでも彼は雨降る空を見上げたままだった。
「……?」
 何事か、と店内からひょっこり顔を出したヴァイオリン弾きが目を瞬かせている。ああ、と気付いたセレスティは彼に大きく頷いて見せた。
「丁度良い、……あなたからも、彼に贈り物をして差し上げて下さい。何か、音楽を。あなたの思うままの音楽で構いません、」
「……、」
 事情が飲み込め無いながらも、ともかく了承した、と云うように彼が弾き始めた音楽は軽快なスウィングである。
「……、」
 その音楽に耳を傾けながら、セレスティの口許には心からの楽し気な笑みが浮かんだ。
 混血児は、未だぼんやりと雨を抱きながらいつの間にかヴァイオリンに合わせて歌を口ずさんでいた。
「……、……アイムシンギングインザレイン、……って、お前、矢っ張りそのまんまじゃ無いかよ!」
 くるり、とヴァイオリン弾きを振り返った彼は、そう突っかかりながら何故か満面の笑顔を浮かべていた。目許がきらきらと濡れていたのは、涙の所為か雨なのか分からない。或いは、涙を雨が洗い流したのかも知れない。
 つかつかつか、と混血児はセレスティを素通りして扉を開け放したままの店内へ入り、まだスウィングしているヴァイオリン弾きの頭を軽く小突いた。
「だから、執着こいって。イージー、安直すぎんだよお前は。そんなだから街頭で流しやってんだ、」
「すいません、……すいません、」
 ヴァイオリン弾きはただ恐縮して頭を下げるばかりだ。が、店主は今度は「まぁ良いや、」とにやりと笑って見せる。
「……野暮だけど、嫌いじゃ無いしよ」
 セレスティは微笑ましく二人を眺めながらスツールへ戻り、勘定をカウンターの上に置いてステッキを手に取った。
「そろそろ、私はお暇します。……仲が良ろしいようですね」
 未だ戯れている店主とヴァイオリン弾きが気付かない内に、彼はアイリッシュ・バーを後に、雨の中に歩み出した。
「……あなた方に、祖国と雨の御加護を」

 振り返った店先の看板を見て、思い出した。彼の、セレスティ自身の待つ人を。

──是非、再び御会いしたいですね。……連れて来たい女性が居るのですから。 

 雨は止まない。雨は降る、──誰が為に。