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<東京怪談ノベル(シングル)>


そこまでできるかな


『 人間が眠りという鍵を持ってのみ、その世界に行くことが出来る。だがただひとりだけ、ランドルフ・カーターなる夢想家は、「銀の鍵」を用いて770段の階段を下り、かの幻夢卿への到達を果たす。
  しかしながらランドルフ・カーターなる人物の記録は英国においても存在しないものであり、カーターはラヴクラフト本人であるという見方も―― 』

 ぴちゃん、ぴちょん。

 宇奈月慎一郎は、そこで文字を追うことを止めた。というよりも、追うことが出来なかった。突然、頭のてっぺんに水滴が落ちてきたのだった。おまけにその水滴は心臓麻痺を起こすのではないかと思えるくらい冷たかった。ものすごく冷たかった。尋常ではなかった。
 慎一郎は読みふけっていた『幻夢卿考察』を古びた机(亡くなった父のものだ。机に限らず、彼が今いる書斎、読んでいる書物、果ては屋敷に至るまでが慎一郎の両親の遺したものだった)に置くと、憂いを含んだ目で天井を見上げた。
「築50年には荷が重いようですね」
 思わず呟いたその愚痴は、あながち大袈裟な皮肉とも言えなかった。
 屋敷の屋根は昨日から、ひどい重さの荷を抱えているのだ。関東の昔の家が、大雪を支えられるように作られているとは考えにくい。
 昨日、外にも出かけられないほどの大雪が降って、今日1日は外にも出かけられないほどの冷え込みだった。慎一郎は無謀な真似はせず、いつも通り書斎で読書をして過ごしていたが、街は大変なことになっていたらしい。古い鉱石ラジオが伝えてきたのは、何とも頭が痛くなるニュースばかりだった。都民は雪かきに追われているだの、玉突き事故が起きただの、老人が滑って転んで頭を打って意識不明だの――慎一郎は、好物を食べにおでん屋に行くことも出来なかった。
 だがここは関東で、夕方頃から気温はいつもの調子を取り戻し始めていた。雪は明後日にはなくなっているだろう。夜になった今でも、溶けている。慎一郎はおでんを食べるのもなんとか我慢して、雪かきが必要ではなくなるまで屋敷にこもっているつもりだった。ものぐさなのではない、彼は非常に計画的に行動しているのだ。彼はそう主張する。
 その計画も、冷たい水滴に阻まれそうだったが。


 天井から落ちてくる水滴の量は増し、慎一郎はバケツを取り替えた。
 屋根がぎしぎしと軋んでいる。
「参りましたね……以前から染みには気づいていたんですが……何もしなかったのが仇となりましたか」
 今は深夜で、明日は日曜。業者は休みだ。しかしこのまま月曜と雪溶けまで待っていては、書斎の本が湿って劣化してしまう。
「お手伝いさんを呼びますか」
 慎一郎は、ちらりと愛用のノートパソコンを見た。彼が抱えているお手伝いさんは、人間でも妖精でもない。どんなお手伝いさんになるかは、慎一郎の気分次第だ。
 世界最小のパソコンは、数時間前から起動しっぱなしだった。


 ファイルを選択して、実行。
 だが何時間もほったらかしにされていたパソコンは機嫌を損ねたか喉を悪くしたか、慎一郎が打ち込んだデータは軽くバグを起こして、ざりざりと愉快な雑音を交えた。
「あ! 失敗かな」
 慎一郎は顔を曇らせ、パソコンの詠唱を止めようとした。バグ混じりの詠唱でろくな結果になったためしがないのだ。
 だが――
 すでにそいつは、770段の階段をのぼり、扉を開けて、宇奈月慎一郎の屋敷へと到達してしまっていた。
 慎一郎が『中止』をクリックしたのは、詠唱が終わると同時だった。

 召喚はとりあえず失敗したが、慎一郎は喜んだ。
 立ち昇る白い煙の中に浮かび上がった、ずんぐりフカフカとした影。影を見た途端に、慎一郎は小さな歓声を上げていた。
 喚ぼうとしていたのは、蝙蝠の翼を持った顔がない夜鬼だったのだが――バグによる雑音混じりの詠唱は、フカフカとした茶色の毛の生物を呼びつけたのだった。慎一郎は以前にも、偶然この生物を呼んだことがあった。愛らしかったので、慎一郎はとりあえずファンになった。黄色の帽子と大きな赤い鼻が特徴だ。
「『夜のゴーンタ』! 来てくれるとはこれ幸いです、嬉しいです、握手を是非!」
『ふごーぐごごーふんごごご!』
 不満げで眠たげな生物の手(指は多分ない)を取り、慎一郎はぶんぶんと強くしつこく握手した。生物はくぐもった唸り声じみた文句を言ったのだが(「オイ寝てたんだぞ、ここはどこなんだ、おまえ誰だ」)、慎一郎には当然ながら通じなかった。ちなみに『夜のゴーンタ』という種族名は、慎一郎が一方的に付けたものだ。本来の種族名は不明だった。どの研究書にも載っていない生物だが、この生物について記述する野心は慎一郎にない。
「せっかく来ていただけたのですから、お手伝いをお願いします!」
『ふご?』
「いえあの、雨漏り……いえ、雪漏りといいますか……屋根に穴が開いているようなので、修理してほしいんです。僕は寒いのが苦手で……すみません」
 生物の身体は茶色の毛で覆われており、寒さには強そうであった。おまけに、その赤い大きな鼻がひとの良さを醸し出している。お願いしたらやってくれるだろうと慎一郎は期待して、にっこりと首を傾げてみせた。
 そして、
『ふんがー!!』
「はう!」
 『夜のゴーンタ』の下手投げ(ちゃぶ台返しとも)が華麗に(そして豪快に)きまった。慎一郎の身体は宙を舞った。
『ふんがーがががふごーふごー、ふごーごごごふんがー!』
 人語に訳すと、「何でおれがそんなことやんなくちゃいけねーんだボケ自分でやれ自分でぇええええエェ!!」なのだろう。おそらく。たぶん。ぜったいに。
『ふんごーふんががふがふごふがー、ふががふごー! ふごがー!』
 「つーかこの手でそんなことさせようってのかてめェはバカにしやがっておれは不器用なんだよ悪かったなチクショー!」
 幻夢卿に住まう生物は、来た道をすぐに引き返していった。門を開け、まどろみの70段を下り、そして……。

 凍てつく水が入ったバケツに頭を突っ込み、倒れた宇奈月慎一郎だけが残された。

「……なかなか強烈な愛情表現です……素敵だ……」
 水滴を髪や鼻からぽたぽたと滴らせながら、慎一郎は元気に起き上がった。それから、「はう」と身震い。タオルで即座に水気を拭き取り――
 しょんぼりと肩を落としたまま、その辺にあった薄茶色のチューリップハットをかぶった。またあの水滴が頭のてっぺんに落ちてきては、かなわない。
「でっきるかな、僕にでっきるかな、はてさてふむぅー……」
 古びた工具セットと、剥がれた床板を持って屋根裏に上がる慎一郎の姿がここにある。少し間違った歌を歌いながら、慣れない手つきで工作……いや、屋根の修繕を始めたのだった。

 修繕が終わったのは夜も更け始めた頃だったが、読みかけの『幻夢卿考察』が水滴をもろに受けて、全ページのインクがすっかり見事ににじんでしまったことに慎一郎が気づくのは、2日後のことだった。




<了>