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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


THE BAD END



                 □ せめて、さようならを □




 偉大なるもの、来たる。
 イギリスの、誰もその名を知らなかった湖、ゴーツ・レイクに封じられていたもの。
 それは有体に言ってしまえば、宇宙生物。
 しかし人間にとっては『神』。
 その力とその姿は、生物という枠組の中に収められるものであろうか?
 外宇宙より、古代地球に流れ着いてきたかの偉大なるものは、ちいさな哺乳類に気まぐれの慈悲を与え給うた。それは、進化した生物たちの信仰を得るためであった。ミッシング・リンクはこうして生まれた。ヒトは偉大なるものを永遠に敬わねばならぬ。何故ならば、かの偉大なるものは、ヒトの親であるからだ。

 偉大なるものが『神』ではないのだとすると、それはひとつの誤算を犯したことを指摘するより他はない。
 かのものはヒトに想像力を与えてしまった。
 ヒトは様々な『神』を生み出し、地球の中に封じられた偉大なるものを忘れた。或いは、偉大なるものを直に崇めるのを畏れたか、無数の『神』を想像しては、その『神』を通して、偉大なるものを畏れ崇め続けてきたか――。

 ともあれ、地球の地水火風の力は破られた。邪悪な、意思すら持たぬ神々の息吹が、地球の力を打ち砕いたのだ。偉大なるものは目覚め、自らを崇めていた唯一無二の男の躰を器として、この地球上に現れた。
 その触腕の一筋を見れば、ヒトの心は畏れのあまりに砕けてしまう。
 その顔のような顔を見れば、ヒトの身体はたちまちタガを外されて、融けてしまう。
 崇めることを忘れたヒトを、偉大なるものは恐らく赦さぬ。
 ミッシング・リンクを打ち砕き、ヒトの存在は宇宙の記憶から忘れられるのだろう。瞬きの間、ヒトが偉大なるものの存在を忘れていたときのように。


 武田一馬はそこにいる。
 九尾桐伯はそこにいる。
 天樹昴はそこにいる。
 ササキビ・クミノはそこにいる。
 星間信人はそこにいる。
 山岡風太はそこにいる。
 影山軍司郎はそこにいる。
 田中緋玻はそこにいる。
 九耀魅咲はそこにいる。
 ステラ・ミラはそこにいる。

≪吾は、50数えよう≫
 そして世界の記憶たちは消えていった。

 地球はのろのろと真の姿に戻りつつあった。削られた山が、埋められた海が、理由を思い出したかのように蘇っていく――否、もとより山と海は失われてはいなかった。奪ったものは、いなかったのだから。
 偉大な力は、じわじわと焦らしながら、地球に力を戻そうとしている。偉大な力を封じこめたあの頃の地球の力が戻ってくる。地球の力をもってしても、偉大な力は偉大なままで、また別の鎖をみつけ、ミッシング・リンクを創り出すのだろう。
「私に、人間を忘れろというの?」
 闇色の髪の女が、表情も感情もない声で言い放つ。
「それは無理。私が覚えている限り、人間たちは永遠」


 一馬はその日、どうしても大学に行きたくなった。最近はめっきり、1週間のうち行く日よりもサボる日の方が多くなっていた大学だ。好きで選んだはずの学校だというのに、外国文学よりも楽しいことを見つけてしまったせいだ。
 鞄の中に、何も入れていない。本の1冊も、レポート1束でさえも。講堂はがらんとしていた。いつものことだ。教授も、いつもいつも見ていた顔だ。
 そして一馬は、2校目を終えて講堂を出たそのときに、2校目の講義内容をすっかり忘れていた。いつものことだ。つまらないことだから忘れてしまうのだ。
「よう、カズマ」
「ぅえッ?!」
 講堂を出たばかりの一馬を出迎えたのは、隻腕のアメリカ人だ。周囲の視線が痛い。驚く一馬を、男は有無を言わさず学生ホールへと引っ張っていった。
「ぼ、ボックスさん……何スか、何なんスか」
「こんな非常事態にガッコなんか通いやがって!」
 そう言ってから、ブラック・ボックスは口をつぐんだ。
「……無理もねエか」
「はい?」
「純粋な人間にはわからねエんだろう。おまえ、メカニカル・ペンシルがペンケースに入ってないことに気づいてねエな。発明したやつが消えたんだ。いなかったことにされちまった。そうやってこの世は宇宙から忘れられていくのさ。そのうちその服を縫ったやつもいなかったことになる。おまえの家を建てたやつもな。おまえを生んだやつもだ。みんな消えて、オレたちはどんじりに消えるんだ。ああ、……堪えられねエ!」
 しかしながら、まくし立てられるボックスの台詞を、一馬は何一つ理解できなかった。確かにペンケースに入っているのは鉛筆と消しゴムだけだ。そもそもメカニカル・ペンシルとは一体何だ。
「ボックスさん、何かやったでしょ」
「何かって何だコラ」
「ほら、コカインとか」
「ぶっ飛ばすぞ!!」
 彼はぶっ飛ばすぞと凄みながら頭突きをかましてきた。一馬は声を上げてよろめいた。よろめいた一馬を、ブラック・ボックスはまた掴み、ずるずると引きずり始めた。行き先は大学の外で、黒塗りの高級車の中だった。
 大学内では、武田一馬が外国人に誘拐されたようだと、ちょっとした騒ぎになった。


 バー『ケイオス・シーカー』の客入りはまばらだった。かと言ってこの店は、毎晩が満員御礼になっているような大衆居酒屋ではない。至ってよくある光景であり、このほどほどの静寂が、九尾桐伯のお気に入りだった。グラスを磨き、棚にキープされているボトルの数を確認する。
「……」
 奇妙な具合に、ボトルとボトルの間が空いている。「歯抜け」とはこのことを指すのだろう。はて、自分はいつも、整然とボトルを並べるたちであるはずだ。何故こんな、みっともない、ボトル1個分の隙間をいくつもいくつも空けているのだろうか。桐伯は首を傾げ、それでもすぐに、ボトルとボトルの間を詰めていく。
 前に向き直って、また眉をひそめた。
 作りかけのホット・バタード・ラムがあった。
 カウンターには誰も座っていない。自分のために作っていたはずはない。営業時間なのだ。では、誰がホット・バタード・ラムを?
 からん、ころん、
 客が入っていない『ケイオス・シーカー』の中に、鈴の音が響き渡る。
「我がお主を忘れるか。それは有り得ぬ。我が導いてきた魂もまた、無に帰すというか。それもまた、大いなる矛盾だ」
 手鞠を抱えた振袖の少女が、現れた。桐伯は何も言わずに、温かいグラスから手を離す。
「……何が起きているのです?」
 ただ静かに、そう尋ねた。自覚することが出来ないが、九耀魅咲が堂々と店に現れた以上、何かがどこかで(或いは今ここで)起きていることは明白だ。桐伯はうっすらと笑み
 浮かべて、棚からチョコレート・リキュールを取り、冷凍庫から自家製アイスクリームを出そうとした――だがそれを、魅咲は制した。
「飲み食いする刻は残されておらぬ」
「それほど深刻ですか」
「我がお主らを記憶のうちに留め置いているうちに動け」
 魅咲は眉をひそめて、軽くかぶりを振った。
「……ああ、彼奴は神なのか。我が神であるならば、彼奴は何であると云うのだ。我は忘れ始めている。我は一体、これまでに何を為してきたのか――」
 桐伯は魅咲の言葉に耳を疑い、それから我が目を疑った。自分は今、何をしていた?
 ……何を、持っていた?


 ここから早く消えなくては。
 消える前に殺してしまう。
 いや、殺さずに済むのなら、両親が歴史から消えて、自分もいなかったことになったらいい。
 ササキビ・クミノは鏡の前に立ち、結った髪に大きなリボンを結びつけた。
 あと31分29秒。28秒。27秒。両親が死ぬまで30分強しかない。適うのならば、その30分は両親のそばにいて、ラスト1分で走り去ってしまいたい。20メートル離れたら済むことなのだ。たぶん。自分は20メートルだけ両親と距離を置いていたらいい。何て幸せな生活だろう。
 クミノの『壁』の力は、消えていなかった。
 リチャード・レイから連絡があったのは、イギリスから帰ってすぐのこと。レイはIO2だの、虚無の境界だの、わけのわからない団体名を並べ立てたが、クミノの「何それ?」の一言で押し黙った。そして、掻い摘んで事情を説明してくれた。クミノは通話を切ってから、すぐに自宅に帰った。両親がメイドロボ2体が淹れた茶を楽しんでいるところだった。
「その名前は誰がつけたの?」
『我々です』
「じゃ、かれには名前もないのね」
『厳密に言えば知性も感情もありませんね。意思よりも高等なものを持っているか、或いはバクテリアのように無心か――我々には計り知れないものですよ』
「偉大だわ」
『まさに』
「偉大だということを自覚してもいない。気の毒だけど、羨ましいかも」
 クミノはそして、戦慄する。
 彼女を護り、彼女を苦しめる『壁』は、その偉大な力を受けたとき、一体、因果として何を呼び出すのだろうか?
「きっと宇宙よ」
 クミノは鏡に向かって吐き捨てると、外に出た。
 黒塗りの高級車が停まっていた。


 久し振りの恐怖だ。
 影山軍司郎はタクシーを止めた。
 とりあえず、時間を失った身体は人間のものだ。食べなければ痩せるし、動かなければ鈍る。金がなければ身動きできない世知辛い世の中にもなってしまったし、軍司郎はこの期に及んでもタクシーを転がしているのだ。
 ぅおーいよっこらしょ、と唸りながら、恰幅のいいサラリーマンが座席に乗り込んできた。軍司郎は特に愛想笑いなどはせず、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。
「渋谷駅まで」
「了解」
 まばらな車と、まばらな人通り。
 これが東京のいつもの姿だ。そういうことになっている。街並みは、とかく更地が目立つ。まるで完成させてから一度落としてしまったジグソーパズルだ。間が抜けていて、無秩序極まりない。
「迷っちゃってねぇ、助かったよ、ハハハ」
「……この街では、無理もない」
「そうそう道に迷ったりしないクチなんだがねえ、ハハハ」
「……そういう方は、目印をつくるのが上手いと聞きますな」
「ああ、そうだね。高いビルとか、橋とか、そこから動かないものを目印にするのがコツだ、ハハハ」
「難しいことです」
「そうかい、ハハハ」
「永遠にそこに在り続けるものなど、ありませんからな」
 軍司郎は、タクシーを止めた。
 バックミラーでちらりと確認してから、ゆっくりと振り向いた。メーターは回っていて、『賃走中』は点灯しているのに、高部座席には誰も乗っていないのだ。
 乗っていたはずだ、と軍司郎は覚えている。
「邪神め」
 軍司郎は呪詛した。
「せめて、忘れさせろ」


 MDを返さなければならない。今日こそは。もう、うっかり持っていくことをうっかり忘れてから何週間も経ちはじめているような気がする。友人はそれほど影が薄いわけでもないのに、山岡風太は、忘れ始めていた。今日こそはと、借りたMDをザックに詰めて、第三須賀杜爾区大学に向かう。
 古い大学だった。無言の威圧感を放つキャンバスだった。大学はしんと静まりかえり、風太は身震いした。大学を見上げてから、しばらくが経っていた。風太の意識はここのところ、こうして無意味に飛んでいく。歯抜けの意識が、風太にもどかしさと恐ろしさを与える。
「あれ」
 我に返ってから、彼はぽりぽりと頭を掻いた。
「今日は、講義入ってないはずなのに」
 何故自分が今、大学の前に立って、ぼんやりしていたのかがわからない。
 風太はザックからファイルを取り出して、履修課程を確認した。1週間のうちに、大学に行かなければならないのは水曜と金曜だけだ。風太は3回生だったが、それでも、表の空欄は多すぎた。
「ま、いいか……あいつにMD返さなくちゃ。あいつ、図書館かな?」
 ファイルをしまって、2歩歩く。
 ふと足を止める。
「あいつ?」
 それが誰なのか、風太は思い出せない。


 そして、私立第三須賀杜爾区大学付属図書館。
 無限へと続いているという噂の閉架書庫の中も、段々と片付いてきていた。星間信人が1日中かけても、わずか3メートル四方ほどの面積しか片付けられないほどに雑然としているのだが、ここのところすっきりしてきている。本などもともとこの場に存在していなかったからだ。
「偉大なるもの……Great Thing……偉大……」
 小さく呟きながら、信人は眉をひそめて、呪われた魔術書や古文書を読み漁っていた。彼は、この世界で知らず進んでいる崩壊に気づいている、数少ない人間のひとりだ。地球から人間が消え始めていることを知っている。が、それはさして信人の興味を惹く出来事ではなかった。彼がいま欲しているのは、その崩壊を助長させている存在についての知識だ。だが、どの書にも偉大な存在の記述はなかった。本当に忘れられ、封じられていた神であるらしい。
 地球が完全に、かの神を封じてしまっていたのだ。
 そして地球は恐らく、もうかつての力はない。人間たちが奪ってしまった。地球も、力を奪った人間たちのために動いてくれるほどひとがよくもあるまい。
 ――地球も、「ひとがよくはない」……おかしな表現です。
 思わず知らず笑みを漏らして、信人はお気に入りの禁書を開く。
『 そは永久に横たわる死者にあらず 測り知れざる永劫のもと死を越ゆるもの也 』
 死が死にたえたこの世界で、最早誰が死ぬというだろう。
 本当に忘れられたときに存在は死ぬ。
 だが死ぬことも忘れた神が、どうして忘れられるというのだろうか?
 そうして、信人は閉架書庫の中、ようやく少し面白いものを発見した。1625年に著された魔術研究書、『バランスの中の宇宙』。
 著者は、フロンサック・リトルだ。
「ほほう」
 ふうっ、と表紙の埃を吹くと、信人は椅子に腰掛けた。
「お手並みを拝見致しましょうか、総裁」


 パソコンを立ち上げて、仕事用フォルダの中を覗いたところで――田中緋玻の手は止まる。彼女は顔をしかめて首を傾げた。この仕事に就いてからしばらく経っていて、このパソコンとの付き合いも長いのだが、どう見てもファイルの数が少なすぎる。
「そんなに怠け者だったかしら……ああ、お腹減った」
 溜息をついて、緋玻は手元の虫篭に手を伸ばした。街中でみつけた鬼は、大抵すぐにその場で味わってしまうのだが、時折こうして生け捕りにして、後の楽しみにすることもある。彼女はわりと気まぐれなのだ。その鬼が美味そうだったからとか、甘そうだったからとか、そのときは満腹だったとか、そういう因子は彼女に結果をもたらさない。ただ、生け捕りにして後で食べようと思っただけだ。
 虫篭の中は空だった。
「……変ね」
 何故、自分は空の虫篭を持って来たのだろう。
 虫篭の中には鬼を入れることにしている。何も入っていない虫篭を持ってくるほど、緋玻は要領が悪くない。
「変だわ。何か起きてる……」
 ぴんと来るものがあった。
 緋玻はメーラーを起動してみた。新着は3件で、ふたつはスパム、ひとつはリチャード・レイからのものだった。
「やっぱり、起きてたわね」
 レイが雑談メールを緋玻によこすはずがない。明らかにパソコンに不慣れな調子で綴られた古風な英文メールは、切々と人間社会の危機を語っているのだった。
「……困るわ」
 人間が、いなかったことになっているのだそうだ。
「……あたしの食事はどうなるの?」
 空の虫篭。


 怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い恐ろしい怖い怖い怖い、ああどうしたらいい、瞳は何も教えてくれないれないない、あの神はにはないのだ何も、弱点、弱みも強みも何も初めは無で、あの神を神と呼んでいいものか。
 目を閉じたままで、天樹昴は動けなかった。
 数値化された正気が削り取られていっては零れ落ち、初めて『見る』未来と神に絶望した。神はあまりにも単純な存在だった。ただそこに居るだけ、というものなのだ。意思や感情、姿をつくったのは自分たち人間に過ぎない。たかが人間が考え出した神の偶像ほど、神というものは複雑ではなかった。そこに在るだけのものを、どうして斬り捨て、封じられるというのだろう。
 昴は自問自答を繰り返し、未だに動けない。
 地球はもうかまってはくれないだろう。
 人間たちが忘れてしまったほど遠い昔、地球が神を抱き締めたのは、神が人間と言うものを作り出したからだ。昴の瞳は未来を見るはずであったが、そのときは違う未来を見ていた。人間が消え去り、また新しく始まる未来を見ていたのか。それとも、本当に過去を見てしまっていたのか。偉大な力が鎖を作り出し、未来の地球を脅かす生物を作った。すべての生命が、地球を殺すことなど考えもしないのに――偉大な力によって生み出された生物だけが、邪悪な意思のもとに地球を破壊していく。
 結局のところ、偉大な力は何度やり直したところで、同じような結果しか導き出せないのだ。
 昴は思わず嗤ってしまった。
 その肩を掴んで、昴を現実に引き戻した手と声がある。
「おい、しっかりしろ。考えすぎると、目を閉じてても頭がいかれるぞ」
 フランス語混じりの英語を話すその男は、とりあえず、昴を心配しているようだった。
「俺たちはもう終わりだ。せめて明るい未来でもおねがいしようじゃないか」
 ケイオー・ピトフも、呆れたように嗤っていた。


≪双子星。ステラ・ミラ。吾は見た。真理を忘れたものたち。ただ生きようとする≫
「それにしても、何故地球を?」
≪ ≫
「私と同じ、ただの気まぐれなのかしら。それとも、私と同じで、考えさせられる何かがあったの?」
≪双子星は輝いている。それと同じだ≫
「永久に輝く星ね」
≪夕焼け≫
「朝露」
≪其が、すべてであった≫

「……地球が、好きなのね」

「私は、そうではなくなってきているのかもしれない。≪50」数え終えるまでもう少しあるはず。……人間を見ていきましょう? それからでも、きっと遅くはないわ」



「フロンサック・リトルは、陰秘学者だったんだ。ゴーツ・レイクで偉大なるものの髭でも見たんだろうな。彼に仕えることを誓ってしまった。彼は神の器だよ」
 車中、ジュリアス・シーマの弁。
 この世に起きている異変を知っている。
 わざわざ日本に来て、かつての協力者たちに事情を説明してまわっているところだと、彼は言った。車中には、クミノ、桐伯、一馬、昴がいる。ブラック・ボックスは外で呑気に煙草を吸っているようだ。
「器なら、壊してしまえばいいわ」
 クミノが物騒なものを抱えながら物騒な解決策を口にした。怖いね、と言いだけにシーマが肩をすくめる。
「壊れるための器だったんだ。もうその必要はないよ」
「確かに、水は器から溢れているようです」
 桐伯はぼんやりと外を見た。東京の街中に、人影はない。空が青く、まばらになったビルを飲みこもうとしている。
「水を元に戻す方法はありますか?」
「地球が力を貸してくれるなら別だがね。あとは慎重に説得するか、殺すかかな」
「殺すのはおすすめしねエぞ」
 ボックスのぼやきが、電光石火の勢いで釘を刺した。
「ボックスさん、殺したことがあるんスか?」
「1回な」
 一馬は皮肉を言ったつもりだったが、事も無げに返された。一馬は目を白黒させてシーマを見つめ、助けを乞う。ボックスがあまりにも自然に言ってのけたので、事実なのかジョークなのかさっぱり判断できなかったのだ。
「本当らしいよ」
 シーマは苦笑していた。
「その罰を受けてね、21なのにあの外見なんだ」
「え、ほ、本当に21歳?!」
「ボックスくんが嘘ついてないのであれば」
「この状況なら信じてもいいけど、やっぱり嘘臭いのよね」
「黙れガキ、オレの気持ちがわかってたまるか!」
「良かったわね、私にはわからないわよ」
「この……」
「あーあーあー、ストップストップ、落ち着いて!」


「白王社ビルまで」
 ばたん、とドアを閉めた後に――軍司郎は振り向いた。
「まだ生きていたか」
 そう挨拶した。
「……白王社ビルまで。まだあるのなら」
 灰色の髪と目のイギリス人は、頬杖をついて、むっつりともう一度言い放った。東京の街は、すでに灰色となっていて――誰も歩いてはいないのだ。茫漠とした更地が広がり、ショーウインドウの中に商品はない。
「この期に及んでも、編集部で同志を募るのか」
「儂が募らずとも、既に揃うておるだろう。この国にも、話がわかる人間が居た。それが判ったのは、幸福なことだ」
 すでにレイは包み隠す気も放棄したようで、紫色の瞳でそうぼやいていた。
「リチャード・レイがアカシック・レコードから消えたその時は……儂は何処で、どのような姿で、何をしているのだろうな? お主にでも、とり憑くか」
「薦められんな、この身体は」
「謙遜を」
「事実だ」
「お主は恐れているのだな」
 軍司郎は車を止めた。赤信号だ。最早赤で走っても、それを咎める者はないだろう。角にあった交番が消えている。ただ十字路があって、信号だけが動いていた。
「恐れているのではない。とうに諦めているだけだ」
 そして、信号が青になっても――
 軍司郎は、アクセルを踏まなかった。
「あの黒い男の祝福が、わたしに忘れさせようとはしない。今日1日、13人を乗せた。貴君は14人目だ。14人が14人、まったくいつもと変わらぬ日々を送っている最中だった。終わりなど考えもしていない人間たちだった。貴君と同じなのだ。意識もしていない期待をしている。終末に抗うものたちだった。わたしだけが――すでに諦めているのだ」
 空と信号は青い。
「空を見ろ」
 パ=ド=ドゥ=ララが言った。
 後部座席にリチャード・レイの姿はなく、影山軍司郎はタクシーを降りた。黒い外套も着ていない運転手の姿で、軍司郎は言われたままに空を見た。
 偉大な力をそのときに見た。
 自分という存在はそのとき消えることが出来るのだろうかと、彼は彼らしくもなく期待してみたのである。
「何故貴君は生きようとしたのだ?」
 その問いが誰に向けられたものなのか、知っている者はもういない。


 星間信人が書庫から出て見たものは、風と、偉大なる力だった。
 すでにそこに人はないものと思っていたのだが、人ではないものがそこにいて、信人は腰を抜かしそうになった。その姿は、以前見た彼の中の神に似通っていたからだ。無理矢理風の神の姿を縮めて、人間の器の中に納めたかのようなものだった。
 山岡風太という名前があったことを、信人が知っていようといまいと――大学付属図書館に現れた異形の神子は、しゅるしゅると風を生み出しながら、のたのたと歩いていた。
『気が……快感があって……そらに……熱い、痛い。ちちよ……田舎。風が……偉大な空……俺……帰らなくちゃ、風に』
「あなたは、まさか――」
 ごおうっ!
 風が吹いて、図書館が消え去った。書物という書物が、歴史の中から消えていき、信人の記憶の中からこそげ落ちていった。
『ちち、よ』
 草が生い茂る更地の中に投げ出された信人は、呆然と空を見上げていた。
 それから笑いだし、草をむしって、祈りを捧げた。彼が祈りを捧げているのは、いま空を満たしている力にではなく、風だった。彼は今になっても風を信じていた。何故なら、人間ごときが消えたところで、その風の神が消えることはないし、何も感じることがないからだ。
 自分は幸せものだと信人は思った。彼は、彼が終わる前に、何よりも信じているものの子を見ることが出来たのだから。ははは。


「どうしたらいいの? 地球はもう力なんか貸してくれないわよね。絶対に、人間なんか消えてくれたほうが助かるって思ってるわ。そもそもその神さまが、鬼の祈りなんか聞いてくれるかどうか……」
 緋玻は空を見上げた。
「でもね、一応祈っておくわ。お腹が減るから、人間を助けてやって」
 人間のものではない彼女の身体はひどく丈夫で、空を見上げたとしても、軋みもしなかったのだ。桐伯と昴は、空を見たがる一馬とクミノを何とか制した。人間が見てはいけないものが空にあった。魅咲は、高級車の屋根に座り、張り詰めた表情で空を見ている。すでにそこに神の姿はなく、ただ、偉大な力だけが渦巻いていた。もう時間がないのだろう。魅咲はしかし、呟いた。
「美しい」
 オーロラだ。
 緯度も何も無視した光のカーテンが、東京の空に浮かび上がり、揺らめいている。
「これが神の力か? 我の力は、目に見えぬ。ヒトのさだめが見えては、つまらぬ故に。ああ、つまらぬほどにさだめを見た。そのさだめに委ねるより他はない」
≪吾は、48数えた≫

≪49≫


「私たちはまだ覚えていられる」
 ジュリアス・シーマの顔色に、焦りが浮かんでいた。彼がティータイムを取らなかったのは実のところ初めてで、雨をまとわなかったのも珍しいことだった。彼の力を凌駕するものが空で揺らめいているのだ――
「私たちは、人間の想像力と人間の血で出来ているから――私たちは混じりものでね――まだ時間はあるはずだ。私たちと出会った人間はまだ残っているはずだよ。でもどうしたらいいかわからない――せめて、赦しを乞おうか?」
 オーロラを見上げて、シーマは匙まで投げたのだった。
「赦しを乞う前に、総裁」
 昴は窓の外から目を背け、目を閉じて、微笑みながら苦笑するという技を見せた。
「まずお礼を言わなければ」

 昴が思い出したのは――
 そう、彼はまだ忘れていなかった――
 頼もしい恋人と――
 優しい姉に――
 いまここに居るものたち。
「何とかしてやるよ」
「大丈夫」
「ただの一瞬で消えるわけはない。これほどたくさんの思い出たちが」
 彼は二振りの刀を握り締め、目を開けた。
 ――あなたのおかげで、俺たちはきっと強くなれたんだし――こうして生きているんだし――忘れられない思い出を作ることが出来ました。俺にとっても、あなたは偉大なものです。俺には出来ないことを、気が遠くなるほど昔にやってのけたから。
 昴は≪50≫が来るその直前に、オーロラを目の当たりにしたのだった。
『焔』と『月姫』が砕ける音を聞いた。
 自分の最後の正気が砕けていくのも、わかっていた。
「譲れないのです。だから、とても、譲れはしない――」

「忘れたくないものが多すぎるんだ。困っちゃうよ、ホントに」
 それでも、一馬が呼べるものは、確実に少なくなってきている。銃も、バイクも、本も――忘れてしまった。今覚えているものの全てが、一馬が忘れたくないものだ。そうして、今になって、自分の脳味噌には随分空き要領があるのだななどと考えてみた。まるで隙間が多すぎた。「もうこれ以上覚えられない」と思ったくらいに、本を読んだり、バイクについて勉強したり、色々なことを経験してきて――
 今覚えているのは、A.C.S.、イギリスで起きたこと、自分、この車の周りにいる人間たち。
「ああ、忘れるもんか。絶対に忘れるもんか! 忘れさせることなんて出来ないはずだ、忘れようと思ってないんだから。やってみろよ、おれはいつまでも覚えてる!」

「ナイアーラトテップに嫌味を言われるかもしれませんよ」
 桐伯は苦笑混じりに呟いた。どこでどう呟こうが、あの存在は聞いている。すべての時間と空間を、同時に訪れることが出来るものであるはずだから。
「たとえあなたの子供たちだとしても、かれにとっては遊び道具ですからね。玩具をひとつ失えば、気を利かせて文句のひとつでも言うでしょう。きっと、踊りながら」
 じっと耳を澄ませて、あと≪1≫の間に、何もかもを聞いておこうとしている神がいる。屋根の上の鈴の音を感じながら、桐伯は次に、言葉を結んだ。
「大切な『親』だから、私にはあなたを殺せない。あなたが私を殺すことは出来ても」
 ちりん、ちりん――
 桐伯は聞こえすぎる耳を塞いだ。鈴の音は、実は、いつも耳を塞ぎたくなるほどに強烈なのだ。……彼にとっては。


「お腹が減ったのよ。だからお願い、放っておいて」
 田中緋玻の故郷の風が、もう生ぬるいものになってきている。
 祈りはそのとき、願いになった。

「あなたに救いを」
 ササキビ・クミノの『壁』に、力が――

 そして、≪50≫は、永遠に訪れなかったのだろうか。

「待って」


「見たでしょう」


 武田一馬はそこにいる。
 九尾桐伯はそこにいる。
 天樹昴はそこにいる。
 ササキビ・クミノはそこにいる。
 星間信人はそこにいる。
 山岡風太はそこにいる。
 影山軍司郎はそこにいる。
 田中緋玻はそこにいる。
 九耀魅咲はそこにいる。
 ステラ・ミラはそこにいる。


「これが貴方が生み出したものたち。夕焼けと朝露を愛しているの。私たちのような真似事ではなくて、心の底から愛しているわ。貴方が与えた心が本物であるから。私は思うの――彼らは、うつくしいと」
 双子の星が、手を伸ばす。
「愛せるかどうかはわからないけれど、きっと彼らも夕焼けや朝露と同じなの。だから、ガス灯の光もうつくしいわ」

「よろしければ、見守りませんか。場所と時間はいくらでもある。私たちはきっと理解出来るでしょう。彼らが居たら、きっと……楽しいし、嬉しいわ――」


≪50≫











「すみません、白王社ビルまで大至急」
 黒塗りのタクシーに乗り込んだ灰色のイギリス人は、黒い運転手に、噛みつくようにそう言った。運転手が誰であるかなど、まるで気にしていないようであった。
「了解」
「これを取って下さい」
 チップを前払いするほど急いでいるらしい。運転手はむっつりとしたまま、一応、急いだ。白王社ビル前には、すでに何人もの男女が居て、灰色のイギリス人を待っていた。
「ああもう、遅いっスよー」
「遅ェぞ、このクソッたれ」
「16分21秒の遅刻よ」
「しかし、急いでいるのなら、待ち合わせ場所を空港にした方がいいのでは?」
 からん、ころん。
「まあ、焦らずいきましょう。転んだりしたら大変です」
「……あたしの目の前で転んだのは、誰だった?」
「本当に申し訳ありません。ホシマさんはもう先に向かっているとのことで」
「あ、あのー、俺こういうツアー初めてなんですけど、何したらいいんですか?」
「頑張って下さい」
「はい?」
 からん、ちりん……。
「移動中に説明しますよ。とりあえず目的地は太平洋の真ん中です」
「頑張ろうな!」
「うん、まあ……」
「24時間以内に着くの? その目的地には」
「おそらく……」
「着かないとみんな、私に殺されるわよ」
「それはまた、物騒な」
 ちりん、ちりん――
「あの、ミサトさんは? ステラさんからのお手紙があります」
「だからそういうことは移動中に――」
 がやがやと動き出した一行を、黒い運転手は眩しげに見つめていたが――やがて発車した。

 闇色の髪をした、中性的な美貌の女が立っていた。何の感情もない顔に、うっすらとした安堵感のようなものと、喜びのようなものが浮かび上がっていた。ただしそれでもやはり無表情なのだ。女は、そっと首を振った。
「行かなければならないところがあります――わかりますね?」
 白い狼の背を撫でる。
「心を持とうと、努力はしているのですよ。貴方がたが、羨ましいから――」
 最後に残していったのは、微笑みだろうか。
 古書店『極光』は、終わりがなかったことにされたその日からずっと、閉まっている。

 そこに街があり、人がいた。




<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0332/九尾・桐伯/男/27/バーテンダー】
【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1057/ステラ・ミラ/女/999/古本屋の店主】
【1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない】
【1559/武田・一馬/男/20/大学生】
【1943/九耀・魅咲/女/999/小学生(ミサキ神?)】
【1996/影山・軍司郎/男/113/タクシー運転手】
【2093/天樹・昴/男/21/大学生&喫茶店店長】
【2147/山岡・風太/男/21/私立第三須賀杜爾区大学の3回生】
【2240/田中・緋玻/女/900/翻訳家】

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               ライター通信
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 モロクっちです。大変お待たせ致しました。『THE BAD END』をお届けします。クトゥルフ大イベントはこれで終わり……というわけではありませんが、月末恒例というかたちではなくなります。クトゥルフネタ自体はこれからもちまちまと出していく予定です。好きですから……(笑)。A.C.S.メンバーの秘密についてこのノベルでも明かし切れなかったので(シーマはもっと喋っていたのですがカットしました。何か……新事実のオンパレードって感じで慌しかったので(笑))今後少しずつ語らせていこうかと思います。
 ともあれ、毎月のように参加して下さった皆様には何とお礼を申し上げたら良いのかわかりません。
 さて、今回のノベルは長いですが、あえて分割せずに1本でお届けしております。どうしようもない終末感が出せていたら幸いです。皆さんの心情を描くのには少し苦労しましたが、心情で進み、心情で解決した依頼も珍しいものかもしれませんね。
 それでは、この辺で。
 本当に有り難うございました!