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聖しこの夜
聖夜は静かに過ごすものだが、七瀬雪の場合、その限りではない。
彼女はピアニストだ。音と調べで、聴衆を夢の彼方へと誘う者。聖なる夜には、この世界に無数にいる恋人たちのため、優しい曲を奏で続ける。
満員のコンサートホールには、普段は演奏会など見向きもしない若者たちが、数多いた。中には、高校生のカップルも。
少ない小遣いを遣り繰りしたのか。バイト代をはたいたのか。
彼らは、夢を買いに来たのだ。
ささやかな幸せを求める恋人たちに、今日この夜、天使がしてやれることは、多い。
旋律を、祝福に、変えて……。
コンサートが終了したのは、午後六時。
何だか中途半端な時間ねと、七瀬雪はひっそりと溜息を漏らす。
クリスマスパーティーを楽しんでいる友人たちの元に、強引に途中参加するのは、気が引ける。だが、一人で過ごすには、夜は長すぎた。
いつものように迎えに来た森村の車に乗り込みながら、雪は、ふと、ケーキを作ってみようかと考える。
真っ白いケーキがいい。雪で出来たように。飾り付けは、朱と緑。柊を使おう。少し贅沢に、木苺があればなお綺麗かも。飴細工も添えてみたい。サンタクロースやトナカイを手描きできたら、すごいだろうな……。
とりとめなく考えすぎて、しばらく、自分が呼ばれたことに、雪は気付かなかった。
え？と、首をかしげる。
隣で、森村が苦笑した。
「雪さん、これから、時間はありますか？」
「え？」
「よろしければ、一緒に夕食でもどうかと思いまして」
「え……え？ いいのですか？」
「さすがにこれから店を予約するのは無理がありますから、僕のマンションでという事になりますが。何もありませんが、夜景だけは見応えがありますよ」
「あ……それなら、私が作ります。お夕飯」
言いながら、雪の顔に、くすくすと笑いが広がる。急に顔を綻ばせた彼女の様子にやや戸惑いつつ、森村が、尋ねた。
「どうかしましたか？」
「すごい偶然だと思ったんです」
「何が……ですか？」
「私、クリスマス料理のこと、考えていたんです。そうしたら、森村さんが、早速、腕をふるう機会を作ってくれました」
「自分の運の良さに、心から感謝していますよ。雪さんの手料理が食べられるとは、思っていませんでしたから」
「私も」
雪が、同じく、自分の運の良さに、心の中で、感謝した。
「本当は、今日のコンサート、二時間後に始まる予定だったんです。それが、急に、早まって……」
おかげで、二人で過ごす時間が、出来た。
運命の洒落たこの悪戯に、聖夜の小さな奇跡を、感じずにはいられない。
「今日は、クリスマスですものね」
二十五階の高さから見る夜景は、森村の言う以上に、絶景だった。
急ごしらえにしては凝った雪の料理が、テーブルの上に並べられる。森村は、ワインを用意した。雪のことを考えて、甘口で飲みやすいドイツワインを棚から取り出す。
トロッケンベーレン・アウスレーゼ、と、ラベルに銘が打ってあった。ドイツワインの最高峰、貴腐ワインだ。ちょうど二十年前のものだった。値段は、軽く十万円を超えるだろう。
「いいのですか？ こんな高価なワイン」
「こういう時にこそ飲まないと、溜まる一方ですので」
やはり不思議な人ね、と、雪は思う。
人付き合いなどまるで興味が無さそうなのに、一方で、こんな高価なワインを惜しげもなく送ってくれる友人知人がいるのだ。加えて、このマンション。
ここは賃貸ではなく、完全買い取り方式の高級高層マンションだ。東京の一等地に、こんな部屋を持とうものなら、冗談ではなく、億単位の金が飛ぶ。
「森村さんのご家族のこと、お伺いしても良いですか？」
彼は、どういう人なのだろう？
もっと知りたい。もっと話したい。
人の秘密を暴き立てるのは、趣味の悪いことだと、わかってはいる。だが、それにも増して、興味は尽きない。
好きな食べ物は？ 好きな趣味は？ 好きな色は？
普段、余りすぎた時間を、どうやって過ごしているの？
当たり障りの会話が続き、ふと見ると、食事は完全に終わっていた。そろそろ片づけなければならない。雪が立ち上がり、重ねた皿を手に持った。森村が手伝おうとする。座っていてくださいと、笑いかけ……一瞬後、雪の表情が凍り付いた。
「森村さん!?」
ぐらりと、魔術師の体が傾く。慌てて差し出した雪の腕の中に、長身の体が倒れ込んでくる。青年は、近くの壁に手をあてて、倒れるのを辛うじて堪えた。
雪の体格では、彼を支えきれない。運ぶことも出来ないだろう。それを考えて、意思の力で、意識を保つ。
苦しげに、二、三度、途切れ途切れに息を吐き出した後、魔術師は、何とか自力でベッドまで歩いた。だが、そこまでだった。雪が洗面器とタオルを持って戻ってきたときには、彼は、完全に闇の中に落ちてしまっていた。
「森村さん……森村さん！ どうしたのですか。急に……」
昏々と眠りこんでいる彼の寝台の傍らに、何かが転がっていることに、気付いた。
「これは……あの森の」
不可視の森の、硝子の植物。その欠片。
雪が手に持った途端、消滅してしまった。天界の者に対しては、森は悪意が全く無いのだ。
「私……私のせいだわ。あの森の気が、こんな所まで生きて……」
魔術師の手を、そっと両手で握り締める。
森の害意は、病魔と言うよりは、呪いに近い。自然治癒は、ほとんど考えられないだろう。後は、強制的に追い払うしかない。
「森村さん……」
滲んできた目元を、慌てて拭う。あの一件以来、すっかり涙脆くなってしまったようだ。雪はきゅっと唇を引き締めた。泣いている暇など無いのだ。森村を助けなければ！
「光よ……」
森村の手が、不意に、動いた。
痛いほどに握り締めてくる。指と指が絡みつく。微かに唇が動き、雪がこれまで聞いたこともないような異国の言葉を呟いた。一瞬だけ、目を開けた。
まるで、小さな子供が母親に縋り付いてくるような、その表情。
雪の姿を認めた途端、安堵が波のように押し寄せてきたのだろう。魔術師は再び意識を手放した。
悪夢に捕らえられたようなあの苦しげな息づかいは、もう、聞こえない。
「ここにいます」
眠り込んでしまった彼に、囁く。
夢の中でもいいから、伝わるようにと、祈りを込めて。
「ここにいます。私は」
この声が、聞こえますか？
この声は、届きますか？
「今日は、クリスマスだから」
何度でも、私は奇跡を起こせます。
この雑多な街で、一番、主が、身近に感じられる日だから。
「貴方のためだけに、光の翼を……」
聖しこの夜。
魔性の都、東京の片隅で、小さな奇跡が、再現された……。
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