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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─破壊へのカコフォニー─

【xxx】

──ユートピア国家の理想は軍部と専制政府の完全なる支配下に因ってこそ実現され、それでこそ研究に於ける完全なる秩序とその研究を通じて芸術が目指す素晴らしい成果が保証されるというものである──

 東京音楽才能開発教育研究所内の大ホール。客席は暗く、伽藍としている。ただ一人、冷めた瞳をした未だ幼い少年が独りだけ、二階席の隅で舞台上のピアニストが奏するソナタに耳を傾けていた。
 少年がぼんやりと耳許に手を翳した時、彼の背後からその肩に手を置いた人間が居る。
「……──先生?」
「……いや、」
「──……?」
 見知った筈の人物の、異質な表情を子供らしい敏感さで悟った彼は眉を顰めた。
 その男は笑みを浮かべた視線を舞台に向けたまま、少年の耳許で囁く。
「どう思う?」
「……上手い。……部類なんだろう」
 子供らしく無い、捻くれた返答だ。男は満足気に頷いた後で、どこか相手を話に引き込む力の在る朗々とした調子で語った。
「そうだ。彼は世界に向けても充分に通用する実力を得た。だが、所詮は旧式なんだ。君は頭が良いな。そしてそれは冷静な評価だ。君の感性に間違いは無い。彼のピアノは素晴らしい、だが、退屈だろう。時代は進化して行く、今やただ上手なだけでは世界の目を惹き付ける事は出来ないぞ。何かが、必要なんだ。残念な事に今時の聴衆は贅沢でね、美しい和声などただの背景としてしか認識出来ないんだ。然し、限界を極めた技術の巧みというものは芸術の枠を越えて万人を魅了する。いいかい、今、こうして私と君がお喋りしている内にも時間は流れる、その一分一秒の間に、世界は進化しているんだ。その進化の最先端を行く技術を、君ならば得られるぞ。どうだ、君は世界が欲しくは無いか」
「……別に」
 然し、少年の目には本当に僅かな、余程注意しなければ見逃してしまいそうな動揺が見えた。男はその変化を見逃さなかった。
「見給え」
 舞台の袖に、じっとピアニストを見守る少女の姿があった。彼女を見遣った少年は口唇を半ば開いて、声を発する前に押し止めた。
「君のお姉さんだ」
 少女の陶然とした瞳は、ただピアニストだけに向けられていた。こんな暗がりで交わされる、少年と男の会話には気付きもしない。
「表現など、極めようとすればキリが無いぞ、仕方無い事だ、音楽は人類の歴史を遡った太古から存在する。然し、技術には最先端が存在する。時代の最先端を極めた者が勝者だ。勝者には全てが与えられる。……彼女の意識など、簡単に手に入るぞ」
「……、」
「来なさい」
 男は、少年の腕を取って立たせた。舞台上では、演奏を終えたピアニストにパパ、と歓声を上げた少女が駆け寄った所だった。
「君に最高の高みを見せてやろう。先ずはリストだ。今でも、彼の超絶的な技巧を全て弾き切れる奏者はそうそう居ない。だが君はそれを全て得る。然しそこで安住しては駄目だぞ、新しく生み出され続ける技術も知識も、絶間なく吸収するんだ。その為には特訓も勉強も必要だが、耐えられるな?」
「……、」
 未だ、未練があるように舞台を振り返って少女と、その頭を撫でてやっているピアニストを見遣った後に少年は頷いた。男は満面の笑みを浮かべて頷き返す。
「良いだろう。──自己紹介をして置こう、私はクシレフだ。……後で君に、私を見つけ出す為の合図を教えて置こう。簡単な旋律だよ。私はその旋律を象徴として、何処にでも、君の為に現れよう」
「……クシレフ、」
「私と一緒に革命を起そう。君に、ユーフォニア──音楽一つで君の意のままに動く世界をプレゼントしてあげよう」
「……音楽に何が出来るって?」
 少年は幼い顔立ちに似合わない、嘲笑的な笑みを口許に浮かべた。
「何でも出来るぞ。人間の精神を操る事も、世界の流れを決定する事も、何でも。音楽は絶対だ。但し、生易しい美学は不可ないな。情は捨てる事だ。後々、役に立たない所か邪魔になる」
「……クシレフ、」
 何だ、──男は笑顔で頷く。
「──俺に世界を見せてくれ。……その為なら、あんたの云う事を聞く」
「上出来だ。──結城磔也君」

 『Dies Irae 怒りの日』の旋律と共に、その日から少年の世界にクシレフの思想が君臨する事になる。

【12:30_F】

「そうした訳で、今日は私が指揮も兼ねているような物ですから使用する楽譜は総譜の方です。ピアノパート譜は使いません、持って上がる時、くれぐれも間違わないようお願いします。何ならパート譜はもう仕舞い込んでしまって置いても良いですね。タイミングは昨日のような感じで充分です。貴女はリズム感覚に優れていらっしゃるようだから、信頼しています」
 1時からのG.P.(※ゲネプロ・ゲネラルプローゼ/本番と同じ手順で行う最後のリハーサル)に備え、譜捲りの役目を仰せつかった(実際には彼女がその立場を利用して監視に回る積もりなのだが)ウィン・ルクセンブルクはピアニスト、結城・忍から最終的な注意事項の確認を受けていた。
 そうした簡潔な要点に逐一頷いて了承し、最後にウィンはサービス過剰の笑顔を忍に向けて手を差し出した。
「宜しくお願いします、精一杯頑張ります。──あら、御免なさい、私の方から握手を求めるなんて」
 打ち合わせさえ終わってしまえば、一転して温厚な表情に代わった忍は「いいえ」と首を振ってその手を握り返す。
「こちらこそ」
 莞爾、とウィンはまた微笑む。──この握手はただの軽率な興奮からでは無い。

──矢っ張り、あくまで自分は無邪気な積もりなのね。……本当に、今日これから自分が演奏する音楽が引き起こす結果なんて考えても居ないんだわ。

 時間だ。忍に続いてオーケストラピットに入り、先に軽く運指練習を始めた彼を背後から見守りながら──弱音ペダルを下ろしているのに、まるでホール全体がこのオーケストラピアノの共振体であるかのような反響の良さと音量、鍵盤楽器の限界を越えた、タッチ一つでヴァイオリンのように自在に変化し得る音色に目を見開く。

──これは、矢っ張りあの娘に何とかして貰わなきゃ……。

 このピアノで「シェトラン」が弾けば、またそれに里井薫やあの無気味なコーラスの歌が加わればどうなるか。眉を顰めたウィンは、オーケストラピット内部からも僅かに見える最前列の客席に「あの娘」を見付けた。
「……、」
 忍に勘付かれないよう、こっそりと手を振る。硝月・倉菜(しょうつき・くらな)はそれに答えて微笑んだ。

【16:20_AF】

 厳密なクラシック界に於いても、リハーサルやG.P.が時間を押すのは良くあることだ。予定より20分遅れてG.P.は終了し、スタッフの一人が倉菜の許へやって来た。
「すみません、押しまして。でも本番までの余裕は見てありますから。半くらいから、最終調律、お願い出来ますか」
「分かりました」
 倉菜は立ち上がり、一旦ホールを出て通用口からオーケストラピットへ入った。
 中には未だ忍とウィンが居る。
「……、」
 倉菜は素早く視線をピット内部に走らせた。
 このホールは、恐らく元々オーケストラを入れる気など無かったのだろう。無論、オーケストラを収容出来るだけのキャパシティはある。が、内部の構造は殆どオーケストラピアノの為だけにあるようなものだ。
 パイプオルガンを連想すれば良い。壁に同化したピアノは一見アップライトのようだが、弦と共振体の構造がオーケストラピットからホール全体に接続されているのだ。
 振り返った忍に、倉菜は頭を下げて挨拶した。
「先日はどうも。硝月楽器工房の者です、今日は最終調律を任せて頂く事になって」
「──ああ、そうですか。宜しくお願いします」
「何か御希望はありませんか」
「特には。全体のピッチは現行のままでお願いします。それだけは変えないように。──それと云うのも、このピッチの振動数が丁度ホール全体の共振になっているので」
 ──成る程ね、少しでもその共振が得られなくなると困る訳だわ、と倉菜は表面上真面目に頷きながら思う。
「分かりました」
 勿論、要望通りで調律はしてやる積もりだ。どうせ、彼ほどの演奏家なら僅か1ヘルツ、否0.1ヘルツの変化でも直ぐに気付いてしまう。──調律はあなたの思い通り。但し、全体的にホールに及す影響の主導権はこちらに貰うわ。いざと云う時には弦自体を消滅させて消音させて貰うから。
 ウィンと擦れ違い様、倉菜は無言で彼女にある物を押し付けた。目配せを交わして受け取った物を眺めたウィンは苦笑した。──オルフェオの衣装だ。

【19:00_F】

 拍手の後、──本来ならば指揮者が進み出て挨拶をする所であるが、今日の所はそれはつまり結城忍の役目である。
 忍に付いて、楽譜を抱えてオーケストラピットへ進もうとしたウィンは、袖口からの拍手に気付いてはっと振り返った。
「Bon courage ! (御健闘を!)」
 満面の笑顔でウィンに囁いた少女、──シドニー・オザワ。
「……、Merci beaucoup. (有難う)」
 ウィンは冷ややかな声で、にこやかに礼を述べて通り過ぎた。

【19:01】

「……うわぁ、ウィンさんキレイ……、」
 レイが呟いた。ウィンは譜捲りと云う裏方なので黒一色だが、それでも彼女らしく豪奢でセンスの良いドレスを着ていた。その服装で、輝かしい笑顔をちらりと客席に向けた彼女は同性(特に女を捨てた人間からは……)から見ても非常に美しい。
「……葛城君、……それに天音神君も勝るとも劣らないと思いますよ。楽しみに御覧なさい」
 傍らでカーニンガム総帥は何やら意味深長な事を宣った。

 一個のオーケストラに値する豊かな音色の幅と音量を持つオーケストラピアノ。
 結城忍、──シェトランの手に拠るそのオーケストラピアノで、序曲が流れ出した。
 暗転した舞台に、一条の光が射す。そこに照らし出されたのは、最愛の妻を失い、悲嘆に暮れるオルフェオの姿である。

「……ん?」
 レイは疑問を発しそうになって、慌てて声を飲み込んで内心で呟く事にした。
 オルフェオ……、別に黒髪のまま演っても良いんじゃないの? 鬘にしても金髪か栗色かその辺り……、──わざわざ、明緑色にしなくても。──にしても、どこかで見たような色だわ……。
「……ああ、葛城君です。彼は」
 序曲のダイナミクスに合わせ、囁きが漏れないよう低声で、然しどこか楽しそうにセレスティが答えた。
「か……葛城君!? 何で、里井薫じゃ無いの?」
 レイも愕然としながら低声で更に質問を。
「……と、天音神君です」
「!?」
 ──道理で、何処かで見たと思えば。……「あまねちゃん」……、孝の合体した魔法少女の姿である。レイを始め、結城家の人間にはお馴染みも良い所だ。
「……、」
 涼がちらり、と危惧したのは、もしこの場に磔也が乗り込んで来たとして舞台上の彼、否彼女の姿を見て激昂し、銃口を予定変更してあまねちゃんに向けてしまわないだろうか……、と云う事である。──まあ、流石に杞憂に終わるだろうが……。
「オペラでは化粧も濃いですし、要は、『天使の歌声』であれば良いのですから」
「はあ……、」
 天使ねぇ……、とレイはぼやく。あまねちゃんの美しいソプラノで、樹が主導権を持って歌唱力を発揮すれば確かにそれはもう天上の歌声になるだろうが……。──イマイチ複雑。

【19:11】

──Ah, se intorno a quest'urna funesta, Euridice, ombra bella, t'aggiri……

 オルフェオに先駆け、羊飼いとニンフのコーラスが歌い出す。通例は、そのコーラスも舞台上に配置されているものだが本日に限れば、舞台上には抽象的、且つ現代的な演出の舞台装置の中に居るのはオルフェオ……嗚呼もうややこしいのであまねちゃんにして置こう、彼女だけである。──コーラスは、何時かのように3階バルコニーから「降り注いで」来た。

「……成る程……、」
 セレスティは片方の眉を少しだけ持ち上げ、口許には笑みを浮かべて「彼等」を見上げた。
「……何れにせよ大人しくしては居ないと思いましたが。──まあ、宜しいでしょう」

──オペラが上演されている内は、出演者ならば限界までは起きていても許しましょう。

【19:27】

「……、」
 シュラインが、俄に耳を覆った。片手で倉菜から貰った耳栓を探ろうとして、──然し、と思い留まったように再び仕舞う。指先でこめかみを押さえ、眉をやや顰めて俯くことで我慢していた。丁度、第一幕の終わりに近いレスタティーヴォをあまねちゃんが、それこそ天使のような歌声で歌っていた時だ。
「シュラインさん?」
 亮一が顔色を伺いながら訊ねた。──「遮断」します?
 いいえ、とシュラインは手を振って亮一を留め、倉菜に耳打ちした。
「──気付いた?」
「……、」
 倉菜も黙ったまま頷いた。──妙な音が紛れ込んでいる。
 不協和音では無いし、楽譜から外れた音は特に音に敏感な彼女達二人が耳を澄ましても聴こえない。──が、何か、強拍(※便宜上、ここでは小節毎の一拍目と定義する)毎に心臓に響くような、神経に触るリズムが刻まれているような気がする。
「──……、」
 それを受け、セレスティが耳を澄ました。彼は直ぐにああ、と頷く。
「コンティヌオ──通奏低音です。古典作品の多くに見える、伴奏のバス声部。大抵はバス音や和音記号等が示されているのみで、内声は奏者の即興性に任される。……どうも、そこにある振動数の倍音が発生するようなばかりを選んでいるようですね」
「……、」
 どうしよう、と倉菜は逡巡した。何か、不協和音で無くとも特定の音域で人間の不快感を煽るような音が存在する筈だ。それがどの辺りの声部かは、今暫し様子を見れば自分なら割り出せるだろう。──が、良いのだろうか。こんな当初から弦が切れれば、結城忍が異変に気付かない訳は無いし、こんな大掛かりな構造のピアノの弦を切った結果の影響も明確には分からない。それに、自分達でさえここまで不快感を味わっているのだ。周囲の音楽専攻学生達、──一般人で、その上音には敏感な人間が多いだろう彼等にも直ぐに悪影響が出る筈だ。のんびりしていて良いものか。

 舞台上では、彼(女)もまた異変に気付いたらしいあまねちゃんが、少しでもその影響を軽減す可く、不快音──カコフォニーへ呪歌で対抗し続けている。
 ──樹君が頑張ってる、……でも、どうしたら……。

「……気持悪い」
 徐ら、レイがそう呻くと口許を押さえて項垂れた。レイさん、──涼が慌てて支える。
 
 オーケストラピアノの壮大なダイナミクスと、あまりに反響の良いホールに響く音楽は最早、そこまで騒ぎ出した彼等の物音をさえ掻き消していた。

【xxx】

『低周波振動公害』
 
 ……新幹線や多数の大型トラックなどが高速走行すると、その重量やエネルギーは非常に大きなもので大地をも揺るがす。
 こうして発生する振動は大地と云う非常に大きな面積と大きな質量であるため、物理的にも必然的に波長が長くなる。このため、可聴域以下の低い周波数帯域(20Hz以下)の振動が発生し、大きな振動エネルギーで波長も長い事から広範囲に伝播する事になる。

 ……循環系への影響/生物には外界からの刺激に抵抗して体の中を安定した状態に維持しようとする働き(恒常性)があり、これを維持する為には交感神経の反応や、下垂体副腎皮質の系統などが関与すると云われている。振動刺激に対しては、交感神経に影響が現れ6Hz近傍で心血管系の反応が顕著に現れる。

 ……呼吸系への影響/呼吸系への共振周波数と考えられている3あるいは4〜6Hzにおいて著明。上下振動では呼気の場合6Hz、吸気の場合5Hz、水平振動に対しては呼吸ともに3Hzに最大の山があると認められる。
 
 ……消化器系への影響/交通車両従業員で胃症状が訴えられる率が高いが、これも4〜5Hzにおいて最大の影響が認められている。

 ……心理的影響/ストレス、不快感、苦痛、不安感、恐怖感などをもたらす場合が多いことが知られている。

 以上、振動音響療法的見地からの雑学を蛇足ながら述べてみた。

【19:32】

 オペラは第2幕へ移行し、愛の神アモールがそろそろ登場するか、と云う時である。

 ──ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…………!!!!

 突如、幾ら火災警報装置と云え「有り得ない」程姦しいベルが響き渡った。元々注意喚起の為大音量に設定されている警報が、ホールの反響を借りて増幅されたと思えば当然である。
 大した騒音だ。東京コンセルヴァトワールなんぞが出て来ないまでも、これだけで充分音楽──とは云えないが「音の暴力」だ。
 最初の1秒程を聞いた時点で、予めその事が頭に合った一同だけは耳栓が間に合った。他の観客はと云えば、驚く、慌てるの前にあまりの姦しさに耳を塞いで絶叫している光景が多々見受けられる。

「早いよ、レイさん!!」
 ──幾ら何でも! レイが蹲ったと思ったら、片手ではちゃっかり例の携帯電話(=火災警報発動装置)を操作しているのを認めた涼が、耳栓をした上更に耳を塞ぎながら呆れて叫ぶ。
「だってぇ!! 気持ち悪いんだもん!!」
 筆者の知る所では無い。レイに操作を任せる事を提案したのはあまねちゃん、では無く孝である。それが、良い結果に傾いたか悪く傾いたかは、中々に判断の難しい所だ。

【19:33】

 響きの良いホールの特性が役に立った。ベルが途切れたと同時に、シュラインは反響を調節しながら殊更機械的な──録音音声を、スピーカーを通して流した声を模して──声色と調子で朗々と語り始めた。

『火災発生、当ホールのスモーキングルームより火災が発生しました。御客様にお願いします、以下の指示に従い、速やかに退避して下さい。混雑を避ける為、最寄りの出口に近い座席の御客様より順番に外へ退避して下さい。火災発生、当ホールのスモーキングルームより──、』

【19:37】

「……何だよ」
 すっかり暗くなった夜道を、遠くに巣鴨ユーフォニアハーモニーホールを仰ぎ、中からわらわらと出て来る人の群れを認めた磔也は呆然と呟いた。
「……あいつら、何かやらかしやがったな」
 東京コンセルヴァトワールの思惑通りに進んだとすれば、観客が一斉に逃げ出す筈は無い。磔也は立ち止まっている彼にぶつかった手近な青年を掴まえ、「何があった?」と訊ねた。
「……、……」
 彼は短く、この混乱の中では磔也には到底聞き取れない言葉を吐いてまた逃げて行った。
『火事だ、君も逃げろ』
 読唇術は得意では無い。が、恐らくはそう云っていた筈だ。
「火事ィ……?」
 眉を顰めながら人の流れから脇に反れ、ホールを見遣る。
「……んな訳無ェだろ」
 コートのポケットに手を突っ込んだまま、人混みに逆らう。──好都合だ。俺は、あいつらさえ殺れれば良い。

【19:49】

「……まあ、良いでしょう」
 亮一はのんびりと観客の逃げて行ったと思しい方角を見遣りながら呟いた。避難してしまえば、後はセレスティが予め配備しておいてくれたSP連が誘導してくれるだろうし、不審に思った所で再びホールには入って来られないよう、「遮断」はしている。

 さてさてそうしてホール内部は壮観な程にすっきり──基い伽藍としてしまった。残っているのは、客席には倉菜、セレスティ(彼が呼んだ録音技師も、流石に火事となれば殉死する意味も無いので既に避難したらしい)、亮一、涼、シュライン、レイ、そしてオーケストラピットのウィンに忍、舞台上でオルフェオの衣装のまま立ち尽くすあまねちゃん、3階のコーラス達は眉一つ動かさずにそのまま、……スタッフでも本当に何も知らない連中は避難した。後は、東京コンセルヴァトワールの人間程度である。冨樫、シドニー、……いつの間にか物陰に現れた水谷・和馬。

「……あーらら」
 コツ、コツ、……とヒールの高いサンダルが舞台を踏む音が響く。シドニーだ。シドニー・オザワ。涼は既に一度対峙している。フランス系の端正な顔立ちで、この騒動に慌てる様子も無く余裕のある笑みを浮かべて肩を竦めていた。
「大変」
 舞台上から、先ずはあまねちゃんを、続いて客席の一同に視線を投げて、さして大変そうでも無くそう云う。
「折角の壮大な実験だったのに。──随分とせっかちにぶち壊してくれたじゃない。『ZERO(不要品)』、それにお友達の皆さん。……ねえ、どうする? インスペクター、それにクシレフ」
 そしてくるり、と彼女が振り返った先に居たのは冨樫──インスペクター(※監督者/そのままでオーケストラ団体内での役割名)、そして水谷──クシレフ、だ。
 冨樫はコイツもまた気楽そうに肩を竦めて「さあ」などと宣う。
「僕、ただのインペクだし。そういう判断はトップに任せるとして」
「どうする? クシレフ! ねえ、只じゃ済まないわよね、これ」
 シドニーが、先程からずっと自信に満ちた、然し不穏な笑みを浮かべて黙っていた水谷、否その肉体を器として利用したクシレフに声を掛ける。──と。

「只じゃ済まないのはお前達の方だぜ、……シドニー、……冨樫」
 クシレフが口を開く前に、2階席の中央入口から声が響いた。
「──磔也!」
「……磔也君……、」
 涼と倉菜が真っ先に声を上げた。やや逆光でぼんやりとしか見えないが、磔也だ。──左手一本で、太巻の許から持ち出した件のニューナンブを構えていた。
「……、」 
 レイが顔を両手で覆ってその場に崩れ落ちた。丁度良く、座席の陰になっている。涼はレイの肩を押さえ込んで、「そのまま、伏せて立ち上がらないで」と鋭く命じた。そうしていれば、更に自分が庇っていれば万一の事があっても被弾はしないだろう。
「あら? 未だ死んでなかったの?」
 シドニーが笑った。「生憎な」と磔也もやや精神の崩壊が疑われる笑い声を上げた。
「Mauvaiseherbecroittoujours、──ってな」
 何て? と涼はこっそりシュラインに訊ねる。
「……『憎まれっ子世にはばかる』……、」
 溜息と共にシュラインは答えた。相変わらずだ──、と涼もつい眉間を摘んで俯いてしまう。
「ねえー、ここがホールで良かったわね。良く聞こえるでしょ? あ、辛うじて、かしら?」
「ああ、煩いから黙って十字でも切っとけ。……よぉ。散々人の事弄んでくれたなぁ。……そう、特にお前だ、クシレフ」
 ──カチ、とセーフティを落とす音がした。
「──駄目!!」
 倉菜が悲鳴に近い声を上げた。あんないい加減な姿勢で発砲しようものなら、間違い無く肩が壊れる。つまり、演奏が不可能になる。それは楽器を愛する倉菜にとって許せる事では無かった。
「駄目よ磔也君、撃っちゃ駄目!」
「煩ェ! 云うだろうが、Oeil pour oeil, dent pour dent !! ──De mort !!」

「『目には目を』、『死ね』」
 シュラインは同時通訳してみたが、最早誰も聞いていなかった。無論、彼女としてもそれを承知の上で、次に起こる事を察知していたからこそそんな余裕をかまして見たのである。
「……Precherdansl'oreilled'unsourd、かな」
 ついでに、彼女なりに格言を呟いてみる。……その通り、何を云おうが今の磔也が聞く筈も無く。

【19:59】

「……!?」
 トリガーを引く、──カチ、カチ、と小さな音が響くだけで撃鉄が下りない。──太巻の奴、嵌めやがったか──?
「駄目よ、撃たせないわ!」
 倉菜が叫んだ。太巻から銃の事を聞いてから考えていた事だが、トリガーを引け無くしたのは倉菜が咄嗟に銃の内部に鉄板を具現化させたからである。
「──畜生……、」
 発砲が不可能だと悟った磔也はだらりと腕を下ろして悪態を吐いた。──その隙に、亮一は素早く彼の前へ駆け寄って腕を捻り上げ、最早使い物にならなくなったニューナンブを一応取り上げた。
「痛──、」
 自業自得だ。知った事では無い。
「忘れたとは云わせないぞ、云っただろう、巧く配置しろと! ──『手駒』には、俺達も含まれてるんだがな、」
 筆者の口調表記誤りでは無い、念の為。この罵声は他成らぬ──あの、常に温厚で穏やかな笑顔を浮かべた──亮一から発せられたものである。
「……だっ──」
「だって、じゃ無い!」

【20:00_F】

「……、」
 オーケストラピットから顔を出してその遣り取りを聞いていたウィンは、今の隙に、と一早くシドニーが冨樫を連れて踵を返したのを認めた。カッカッカッ……、と、通路を掛けて行く足音を遠くに聞きながら。
 ──まあ良いわ。ちらりと目配せしたセレスティが穏やかに微笑して頷いている。

──後で、どうにでも出来るでしょう。どの道、彼女の行く先など分かっているのだから。 

 それよりも──、とウィンは、黙ったまま彼の養子が引き起こした騒動をただ傍観している忍に声を掛けた。
「結城さん、……あなた、御存じだったのでしょう。今日のオペラで起こる事を」
「……、」
「……レイも磔也も苦しんでいる。それを見ていて、何も思わないの?」
「……全ては、崇高な目的の為の、研究の一部です。美しいだけが、芸術では無い」
「崇高?」
 ウィンは流石に眉を吊り上げた。
「何が崇高なものですか、──こんなの、ただの人体実験よ、今日のコンサートだってどうせ、オーケストラピアノの……これだって試作品か何かなのでしょうね、このピアノが大勢の人間に及す影響の実験データを取る為のものだったのでは無いの?」
「──私は、ただ『弾く事』だけを命じられた人間です」
「そう、その積もりなら結構よ、あなた、良い大人なのに大した無邪気さだこと。でも、二人はどうなるの。研究者の気紛れでファクトリーメイドのように生産されて、自らの本当に求める音楽も聴覚も奪われて自殺覚悟で乗り込んで来た磔也は? レイなんか、何も知らずにあなたを慕っていたわ、あなたの事を自慢そうに語る時のレイ、本当に生き生きしてた。──それでも、あなたは自分は実の親じゃ無い、東京音楽才能開発教育研究所が勝手に作っただけで自分の知った事では無いと云えるの?」
「……磔也は、」
「ストップ。止めて、才能が有るから自分の子だと認めても良い、なんて理屈は聞きたくないわ。──本当なら、あなたも東京コンセルヴァトワールと一緒に破滅に追い込んであげたい所よ。……でも、」
 でも、とウィンは極力、激昂しそうな感情を押さえて鋭い視線で容赦無く云い放った。
 教育に関しては、ウィンもただの他人事として傍観出来ない事がある。「妙な力」、──サイコ能力を持って生まれた自分達。そして自分達は父親を知らない。厳しい母と、優しい義母の存在が無ければ、自分はもしかしたら人間では無くなっていたかも知れないという自覚がウィンにはある。──磔也、彼はもう遅いかも知れない。然し、間に合う可能性もある。出来る事なら、磔也もレイも自分が免れた道を進むような事にはなって欲しく無い。
「少なくとも、未だあなたは二人の父親。だから、出来る事ならあなたを破滅させて二人を悲しませたく無い。分かっているでしょう、こんな事が明るみに出れば、あなた、今後は一生表舞台にも立てずピアノも弾けなくなってよ。──こうしましょう。今後、最低でも養父としての自覚と責任を持って二人と接すると約束出来るのならば、私があなたのパトロンになるわ」
「……は、……?」
 ウィンは腕を組み、口許に笑みを浮かべた。
「御存じでしょう、私の義母は世界的なピアニストで、叔母は声楽家。芸術には理解のある血筋なのよ。──私だって芸術は好きだし、あなたのピアノの腕も──あくまで妙な使い方をしなければ、よ。認めるわ。困ったちゃんの芸術家を一人抱える位の個人資産もあるのよ。これでもね」

【19:00】

 一気に全身の力が抜けたように、磔也は呆然とその場に蹲っていた。が、やがて低声で吐き捨てる。
「……どうすれば良かったんだよ」
「──何か云いました?」
 くるり、と振り返った亮一はもう常からの彼らしい穏やかな笑みを浮かべている。
 項垂れた磔也に合わせて屈み込み、「さあ云いたい事があるならはっきりとお兄さんの目を見て云って御覧なさい」と云わんばかりの満面の笑みで彼の顔を覗き込む。
「──俺だって、本当はピアノだけ弾いてたかったんだ、……でも、」
「でも?」
 その言葉を聞いた亮一は不穏な程緩慢に目を細めて先を促した。
「……何だかんだ云ったって、権力者に逆らって音楽なんて出来ないんだ、……最終的には、権力者に付いた人間だけが先の音楽を開拓出来る」
「……ふ────む、」
 聞き分けの良い大人らしく何度も頷きながら、亮一は磔也の頭に手を置く。──が、無論そこで「よしよし辛かったねぇ」などと云いながら頭を撫でてやるほど亮一は甘く無い。
「その責任転嫁はちょっと鮮やかじゃ無いですねえ、」
 前髪を鷲掴みにされて、顔を上げざるを得なかった磔也の目の前にあったのはもう使い物にはならないものの、先程亮一が取り上げた拳銃だ。
「これは、何です? 分かってます? 実銃ですよ、『本物』の。ちゃんと水鉄砲との区別が付いてますか? はい、良く見て」
「……分かってるよ」
「だったら今更子供じみた云い訳をするんじゃ無い!!」
 その場に居た倉菜やあまねちゃんまでがびく、と肩を竦める。涼などは信じられないような目付きで唖然と亮一を眺めていた。
「あなた、幾つです? もう17でしょう、玩具でなくて実銃を持ち出す程の判断力はあったと云うことですよ。そうまでしておいて、今更本当はやりたくなかった、なんて云甘えても許されません」
「亮一さん、ちょっと厳しいよ、──磔也だって耳の事もあるし、混乱してたんだから──」
 流石の涼も遠慮がちながら口を挿む。──その肩に、手を置いたのはウィンだ。
「ウィンさん?」
「御影君、あなたの思い遣りは分かるけど、でも本当の事よ。磔也はもう、何も知らなかった、未だ子供だから、って無条件で許される年齢では無いわ。明らかに、あの子は確信犯だったんだから」
「でも──、」
 その時、それまで亮一の一喝で黙り込んでいた磔也が突如ヒステリックな叫びを発した。
「分かったよ、責任取れって事だろ、取ってやるよ、──死ねば良いんだろう!」
 キン、と金属音が響く。(ああ出た)バタフライナイフの刃が飛び出す音だ。
「駄目だ! 駄目だ、磔也君!」
 ──と叫んだのは真摯だが愛らしいソプラノのままのあまねちゃん、──の意識主導権を持つ樹である。
「磔也君、死んじゃ駄目だ、生きて、生きなきゃ駄目だ、──何も望みが無いって云うなら、僕を虐めて遊べば良い、それで生きる望みが出来ると云うなら!」
「……何云ってんだ、お前……、」
「君の為に、曲を作ったんだ、磔也君の為のピアノ曲を! ──未だ、弾いて貰って無い」
 樹はあまりにも純粋なだけに、やや奇妙な事を口走った。磔也は呆気に取られて口唇を一瞬ぼんやりと開いたものの、手はそのままナイフを自分の首筋(致死率の高い丁度耳の下当たりである)を切ろうとしていた。
 ──何も分かってない、亮一は舌打ちしたい気分で制止しようと手を伸ばした、──が。
「──……、」
 わざわざ止めるまでも無く、磔也は俄に呆然として身体を硬直させ、ナイフを取り落とした。──背後から、倉菜が肩越しに磔也を抱き締めたのだ。
「あ」
「あら」
「……、」
 先程は肩を竦めた面々は今度は目を瞬いて口許を押さえる。亮一までがおやおや、と云うように吊り上げた眉を元に戻し、──一応ナイフは拾い上げた上で──「不粋者は消えますか」などとにこやかに呟いて退く。
 ──既に、ホール内にはセレスティとシュライン、それに舞台上に居た筈のシドニー達の姿が無かった。
 亮一は涼を促す。涼も状況を把握した上でレイをウィンに任せて、亮一に続いた。

【19:07】

「磔也君、一つだけ確認したい事があるんですがね?」
 何喰わぬ顔でホールに戻った亮一は、一瞬で全ての気力を失ったように呆然と座り込んでいた磔也を認め、──一言、釘を刺しておく必要がある、と声を掛けた。磔也はその声にはちら、と視線を上げただけだ。やや声を顰めて囁いたのだが、何故か聴こえたらしい。
「あなた、自分の命に一体どれ程の価値があると思ってるんです?」
「……、何……、」
「さっき、死んで責任を取る、そう仰いましたよね」
「云ったよ。──今からでも死んでやろうか、返せよ、ナイフ」
              ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
「お言葉ですけど、あなたには死ぬ価値もありませんよ。あなたの命じゃあ、何の代償にもなりません」
「な……──、」
「いつ捨てても惜しくないと思っているような命で、帳消しにして貰おうなんて虫が良すぎませんか?」
「……、」 
「そこまで安く無いですよ、俺達の労働はね? 『雇い主』がそれじゃあ、困りますよねぇ……、何せ、リンスター財閥のトップたるセレスティさんまで借り出して置いて」
 くす、と後に続いて入って来たセレスティが笑う。──まともに交渉して、こんな一高校生が彼を雇える筈は無い……。
「まあ、追々、ですね。──ツケておいてあげますよ、今回の代償は」
 亮一は爽快な笑顔でそう、留めを刺した。──ふっ、と(もうどうとでも云えとばかり)天井を仰いだ磔也が呟く。
「……あーあ、……死に損なったな」

「……、」
 その一言を聞いた涼は眉を顰めた。──が、今は自分が何を云っても聞く訳は無いだろう。恐らく、倉菜達に任せて大丈夫な筈だ。ならば自分は、と──こちらもまた完全に脱力したように座席の陰にへたり込んだままのレイの身体を立たせ、「帰ろうか」と殊更明るく促してみせた。
「……、」
 レイは、うん、ともはあ、とも付かない頼り無い返事を返してふらりと立ち上がった。
「──パパは?」
「大丈夫、後から帰るよ、ちゃんと。先に俺と帰ろう? な、レイさん、」
 そう云ってレイの背中を押し、一同には「お先に」と軽く上げた片手だけで挨拶した涼に、いつの間にかウィンが並んでいた。彼女もまた何処かへ行く予定があるらしく──。
「磔也、大丈夫かな」
「大丈夫でしょう、倉菜と樹ちゃんに任せて置けば。……ただ、辛いのはこれからよ。……今までは、管理され、拘束されると云う不自由はあっても、逆に安心感があったのも確かでしょう。すべき事を他人に決定して貰える、権力者の傘下に居ると云う安住が。──自由になれば、同時にそうした安定を失えば、今後は全て磔也が自分で極めていかなくてはならないのだもの。……そして、だからこそ甘やかしては不可ないわ。少なくとも精神的に、あの子は未だ子供だけど今更劇的に感性が変化するとも思えないわ。……幾らか、分別を身に付けて行ってくれれば良いのだけど」

【19:50_F】
 
 ──成田空港。
 テレポートで取急ぎロビーに到着したウィンは、丁度8時台のフランス行きの旅客機を示す電光表示板を眺めている少女の背後に立った。
「Laraisonduplusfortesttoujourslameilleure.」
 ──勝てば官軍。
 彼女、……シドニー・オザワは振り返らないまま、独白のように呟いた。
「優れた芸術家に聖人のような人間なんて居ないのよ。必ず、エゴは存在するわ。──問題は、罪の是非では無いの、彼が ……勝てば官軍、でしょう?」
「あらあら」
 くすくすくす、と云う笑い声を殊更耳許で響かせながら、ウィンはシドニーの肩越しに腕を巻き付けた。傍目には如何にも外国人らしい別れの抱擁ですよ、と強調しつつ。──それでも美女二人ではどうしても目立ってしまうが……。
「困ったちゃんねえ、貴女も。──生意気な所がまた、可愛いけどね☆」
「『利己的な遺伝子』って、読んだ?」
 徐ら、シドニーは突拍子も無い事を云い出した。
「ドーキンスの著書ね?」
「Oi. 彼は巧い事云ったと思うわ。──例えばね、ある音楽が人間に取って非常に有害な事が分かりました。その音楽を地上から撲滅しない事には大変な害が生じるとします。でもね、その音楽を完全に消し去る事は不可能なのよ。思想と同じ。音楽はね、ミーム(※文化遺伝子/文化を「行動という手段による情報の伝達」と定義し、文化の伝達や複製の基本単位となる単語)なの。その音楽を演奏する事を禁じ、録音媒体や楽譜の流通を禁じたって、消えないのよ。絶対に。だってそんな物、今どき一体誰が何処で複製してどんな所に隠れているか分からないんだもの。それに、歌は人の心に残るわ。ミームは絶対に滅びない。そして、ほんの一つでもそのミームが残っている限り、それは増殖するのよ」
「クシレフは、消えたわ」
「知ってる」
 ウィンの腕の中で、未だシドニーの余裕は消えない。
「でも別に構わないのよ、だっていい加減クシレフなんか古いもの。良い事教えてあげる。クシレフが生まれたのはずーっと昔なのよ、そうね、200年か、もっと前。当時、ヨーロッパは飢饉や疫病の恐怖に占領されていたの。人間って現実的よね、そこで救われようと歌った聖歌は、でも結局は死の恐怖の象徴にしかならなかったのよ。それから、クシレフのミームはずーっと受け継がれて来たの。──尤も、それにクシレフ、って名前を付けたのはベルリオーズだけどね」
「……まさか、Dies Irae? クシレフの正体って……」
「正解。……どう、クシレフは消えた、でも、彼が象徴していたDies Iraeの旋律とそれに纏わる人々の恐怖を完全に消し去る事、あなた達に出来て?」
「……それは無理ね」
「でしょう?」
 くるり、とシドニーはウィンの腕の中で振り返った。一種無邪気にさえ見える、楽し気な笑顔を浮かべていた。
「……でもね、ある種の音楽が象徴する恐怖や思想を無くす事は出来なくても、少なくともそれを悪用しようとする人間を潰して行く事は出来るわ」
「素敵!」
 止める間も無かった。陶然と歓声を上げたと思うと、シドニーは素早くウィンの頬に軽く音を立てて口付けした。フランス人が良くやるような、別れの挨拶のように。──良い度胸。ウィンは眉を吊り上げたまま微笑した。
「あなた、ルクセンブルク女史の姪なんですってね、私、彼女の歌声は大好きよ。初めて聴いたのは何だったかしら。──そう、シューマンだったわ、本当に素敵で感動で胸が震えたわ。……貴族様の血かしら、そっくりだわ。毅然とした態度も、美しいお顔も。私みたいに『素性の妙な』人間には真似出来ないわ、素敵」
 矢張り確信犯だ。そう云って莞爾と笑ったあたり、嫌味さが良く出ている。
「あら、あなただって本当に可愛いわよ」
 ウィンは微笑み返し、シドニーの頬にフレンチキスを返してそのまま耳許で囁いた。
「可愛いわ、……どこまでも追い掛けたくなっちゃう☆ ──私にはそれが出来るのよ、あなたがフランスに帰っても、どこで何をしていても、妙な動きをしたら直ぐに逢いに行ってあげることがね」
「待ってるわ」
「……素直に云ってみない? クシレフが消え、東京コンセルヴァトワールが活動を縮小せざるを得ない今、あなた、これ以上何をしようと云うの? ──結城さんは駄目よ、今後は私が彼のパトロンよ」
「忍先生で良ければいくらでもあなたに差し上げるわ。私は一人で充分。磔也とは違うの。──私はね、」 
 シドニーはウィンの腕を離れた。口唇の前に指を立てて軽く当てながら、朗らかに云い放つ。
「クシレフの次のミームを生んでみたいの。もう面倒なオーケストラなんて必要無い。……一人でも、世界を動かせる音楽家の私のミームを」
 ──投げキス。そして、シドニーはゲートの向こうへ消えた。

「……冗談では無いのよ。もし妙な行動を起したら、私は本当に一瞬であなたの前に現れるんですからね」
 取り残されたウィンはぽつりと呟いた。それにしても、文化遺伝子、──厄介な物を。

【XX:XX】

 音楽都市、ユーフォニア。
 ──それは、『調和』と云う名を騙り、ユートピア思想に依存する運命共同体の顔をした独裁国家の理想図である。
 音楽は、ただ美しいだけでは無い。
 それは暴力となり得る一面も、また非常に効果的に洗脳の材料として用いられる一面も合わせ持つ。

 『壮大な実験』を以てユーフォニア市の最初の拠点となる筈だった東京、巣鴨。
 ここは、彼等の尽力に依てその実験を阻止され、陥落を免れた。東京コンセルヴァトワールも今後は表立って大々的には活動を行えない。
 
 然し、組織とは個人の集まりである。そして、ユーフォニアの思想を掲げる個人は既に世界へ向けてばらまかれた。
 文化遺伝子<ミーム>は、限り無く増殖する。

【00:00】

「……で、お前ェ何でおれの所に来るんだよ」
 カウンターの中から、太巻は店内の隅に呆然と座り込んだままの人影に向かってそうぼやく。
 彼は、ほんの少し前にふらりと入って来たと思うと「暫く泊めてくれ」とだけ──太巻の返事を聞きもせずに──云い、太巻の手許からマルボロを一本かすめ取って火を点けた切り、ああしてずっと黙り込んでいるのである。──黙り込んでいる、と云うよりは精神薄弱者のような、生気の無い体だ。先日、彼の許から実銃を持ち出した時よりもある意味で酷い。
「……、」
 返事は無く、代わりに夥しい紫煙だけが吐き出された。
「ったく……、ちったァおれの面倒も考えろ。朝っぱらから煩ェ連中に怒鳴り込まれたと思ったら、今度は物も云え無くなったアホの居候かよ」
「……、」
「だんまり極め込んでっと、お前ェの養父とやらに連絡しちまうぞ(笑)、」
「……、」
 相変わらず、何を云われても彼は答えない。仕方無ェ、と重い腰を上げて彼の許へ歩み寄り、その目を覗き込んだ太巻は目を細めた。──気力と云うものが皆無に近い、呼吸活動さえ面倒そうな、……死んだ魚のような目……。
「……やる事ァ全部遣っちまって、目標が無くなったってとこかねェ。……ま、その内起きるだろ」
 今は何を云っても仕方無い。されるままのだらりとした指先からフィルターに到達した煙草を取り上げると、後は放置して太巻は彼の生活に戻った。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【水谷・和馬 / 男 / 27 / 巣鴨ユーフォニアホール人事担当者】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【里井・薫 / 男 / 24 / 歌手】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】

【太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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皆様、お疲れ様でした。
そして第一回からの御参加、心より感謝致します。本当に有難うございました。

東京怪談「幻想交響曲」シリーズよりもすっきりと終わった感の無い最終回となってしまいました。
連載開始前には「音楽の武器」とだけ云って居りましたが、今回の本当のテーマは「プロパガンダとしての音楽」でした。
自然、教育問題や多岐に渡る音楽学、政治的な要素までが絡み合い、シナリオとしても捻くれた上にWR自身の知識とキャパシティが追い付かないと云う無様な事となってしまい、多いに反省しております。
後味の悪さを残さない為にも、後程後日談と云う形で終了したいと思います。
前述の事とは全く無関係ですが、1月中はWRの個人的な事情によりOMCでの受注をストップ致します。それを受けて後日談の予告と受注も2月に入ってからとなる予定です。
やや興醒めかと思いますが、それでも気乗りした際にはどうぞ構い付けて下さいませ。
詳細は目処が立ってから個別受注ページで行います。
また、その間でも感想、苦情、誤りの指摘、後日談含む今後の御希望などありましたら遠慮なくお聞かせ下さいませ。

尚、今回受注時に行いましたシナリオ分岐アンケートの結果は以下の通りです。

A:太巻から拳銃を入手した磔也、その使い道、標的は?
1)東京コンセルヴァトワール……………………………………4※決定
2)身内(養父、姉)………………………………………………2
3)ホール内無差別発砲……………………………………………0
4)自殺………………………………………………………………2

B:プロパガンダとしての、音響行動学に基づいた人間の精神を洗脳し得る音楽が奏される。対処法は?
1)一般客の避難を促す……………………………………………3
2)混乱を生じてでも、演奏を止める(奏者を拘束する)……4※決定
3)逃げる……………………………………………………………0 
4)便乗してみる……………………………………………………0

C:水谷和馬の処理
1)殺しはしない……………………………………………………8※決定
2)クシレフが未だ中に居る場合に限り、殺す…………………0
3)クシレフが居ようが居まいが、殺す…………………………0
4)知ったこっちゃない……………………………………………0

重ね重ね、「音楽都市、ユーフォニア」シリーズへの御参加と辛抱強く文章へお付き合い下さいました事、深くお礼申し上げます。

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