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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


漆黒の鏡

1.
「さんした!」
 バシッ!!
 聞き慣れた女性の鋭い声と共に、三下・忠雄は頭をしたたかに叩かれた。
「…はっ…はいぃッ!?」
 その声が、寝惚けた声だった事は言うまでもない。
 三下は今の今まで、デスクの上で、どうやら居眠りをしていたらしい。
 そんな三下を見つけた碇・麗香が、彼女が抱えていた、分厚い封筒で思いっきりぶっ叩いた、と。
 飛び上がったのは、三下である。
 いつの間にそんな居眠りをしていたのか…記憶に、ない。
 唖然呆然としていたら、麗香がその封筒を、三下の前に、放り出した。
 三下はいまだ呆然としていたが、麗香に「いい加減、気合を入れなさいっ!」と一喝されて、ようやく覚醒する。
「あの…この分厚い封筒は…?」
「自分で中身を見ることね」
 麗香は無情だった。
 三下は、嫌な予感を感じながら、恐る恐るの態で、その宛先も何も書かれていない封筒を開く。そして、中身を覗いた。そこには、さらに、封筒やら葉書やらがぎっしり詰まっていた。
「……ファンレター…でしょうか」
 麗香は、その美しい柳眉を、きりり、と吊り上げて言い放った。
「寝言を言っていないで、自分で読んでみなさいっ!」
 三下は、これ以上麗香の怒りを招かないように、と、慌ててその手紙類を斜め読みしだす。
「……黒い…鏡…?」
「そうよ。怪現象が起きているらしいの。その報告を読めば読むほど、ネタになる怪現象だと思ったのよ」
 三下は、その手紙類を読んでゆく内に、珍しく険しい顔つきになっていった。
「主に夜…『鏡を貰ってちょうだい』と言って、行く手を阻む美貌の女性がいて…そういう時は、大抵、ひと気が無くて…仕方なくその小さな鏡を貰うと、誰しもが、必ずその夜から悪夢を見て、身体も弱ってゆく。でも、病院に行っても『異常はない』と言われて、手の施し様がない。…では、その鏡を捨てればいいか、となると、どんなに捨てても、その鏡は持ち主の元に戻って来る…?」
「そう。そして、とうとう死人が出たそうよ。……衰弱で」
 麗香は頷いた。そして、こう付け加えた。
「そしてね。特徴として、その鏡は、みんな、黒いのよ」
「はぁ…。黒い鏡って、役に立つんですかねぇ? あんまり想像つかないですけど」
 寝起きの三下のボケを、麗香は聞き流した。
「もうひとつ、面白い話があるわ」
 麗香のルージュが笑みの形に艶めく。
「その女が、ピラミッド型の鏡の中に、溶けるように入ってゆくところを見た、という報告もあるのよ」
 三下はきょとんとした。
「溶けるように…ピラミッドの鏡の中へ?」
「そう。さんしたくん、調べてくれるわね? 実は、もう、調査員は集めてあるの。貴方はガイドになればいいだけよ。そして、証拠写真は…気絶してでも撮って来なさい! 調査員との合流地は、いつもの喫茶店よ! さぁ、さっさと行ってらっしゃい!!」
 麗香に檄を飛ばされて、三下は思わずデスクから立ち上がると、ゴミ箱に躓きながらも、最敬礼した。
「はっ…はいぃっ!!」
 そして、三下は、一も二もなく、麗香に教えられた合流場所へと向かうべく、ビルの狭い廊下を駆け出したのだった。


2.
 三下がその合流地である喫茶店へと辿り着いたのは、十数分後の事だった。
 ドアベルをけたたましく鳴らして店内へと飛び込んだ三下は、ランチタイムも終わって閑散とした店の中へと視線をめぐらした。
 使い古してくたびれたビジネス鞄の中から、麗香に渡された今回の調査の協力者たちのデータ書類を取り出す。
「ええ〜っと。写真、写真……と、名前……」
 キョロキョロと辺りを見回しては鞄をガサゴソあさっている三下は、ウェイトレスから怪訝な視線を向けられていたが、彼にとってはいつもの事であり、また、今はそんな事を気にしている場合でもなかった。
「せせ…セレスティ・カーニンガムさん……と、紗侍摩…刹さんですかぁ……。はらまぁ、どちらも綺麗な方ですねぇ。というか、今回の調査、危険そうなんですけど、この方々で大丈夫なんでしょうか……」
 写真を見ながら、己の役立たずさを丸っきり棚上げして小さく唸る三下であった。  やがて、店内の一角に、それらしきふたつの人影を見つけた三下は、写真と交互に見遣りつつ、彼らの方へと歩み寄っていった。
「えっと、月刊アトラスの者ですが、カーニンガムさんと紗侍摩さんでしょうか? あ、僕は三下と言いますが……」
 後姿を見せていた、紅茶を飲んでいたと思しき姿が、名前に反応したのか、三下の方を振り向いた。また、その向かいで何もオーダーはしていなかったと見える少年らしき姿もテーブルの傍らに佇む三下を見上げた。
 三下は改めて彼らの容姿をまじまじと見詰める。
 片方の男は腰まであるのではないかと思われるほどの、長く艶やかな銀髪を背に流しており、見返り美人さながらの麗しい相貌には、三下さえも息を飲んだ。三下がその透き通るような白皙と、限りなく澄んだ湖の底のような蒼い瞳に魅入られていると、彼は柔らかく微笑んで口を開いた。
「アトラスの三下さんですね? こちらも伺っております。では改めて自己紹介を。私は今回の調査に協力すべく名乗り出ました、セレスティ・カーニンガムと申します。よろしくお願いしますね」
 彼が優美な会釈を向けると、三下は何故かギクシャクした動きで深々と一礼を返した。「えっ、いや、その、こちらこそよろしくお願いしますっ。……で、そちらの方は……」 と、セレスティの向かいに物静かに……むしろ身じろぎひとつせず腰掛けている少年へと視線を流した三下。その視線に気付いたのか、彼は顔を上げると、淡としたひと言を返した。
「……紗侍摩、刹」
 彼もまた男性としては至極端正な容貌だった。が、どことなく、店内の雰囲気にはそぐわないような妙な違和感を漂わせていた。三下は首を傾げていたが、すぐにその原因に気付いた。
 彼が和装だったから、ではなく、両手首に嵌められた、鎖を垂らした堅く重そうな、容易に外す事は出来なさそうな鉄の枷。
 三下は思わず、それは? と訊きそうになったが、訊く事が出来そうな雰囲気は皆無だった。それくらいの寡黙さを醸し出している刹に、三下は仕方無しに沈黙を守る。
 その場に重く圧し掛かった沈黙を破ったのは、セレスティだった。
「では、凡そは伺っておりますが、今回の調査内容の具体的な計画の相談を始めましょうか」
 紅茶のカップをコトンと音を立ててソーサーへと置いたセレスティは、三下に隣の席へ座るようにと、促すように指し示した。
 三下は相変わらずその場の雰囲気に慣れぬまま、不自然さ丸出しでセレスティの隣へと腰を下ろす。ソファが、ギシ、と音を立てた。
 三下は三下でようやく本来の目的を思い出したか、今回の怪現象のあらすじを、ふたりへと時々どもりながらも報告書を片手に説明してゆく。
「……というわけなんですが。どうしますかね? その黒い鏡とやらも謎なら、その鏡を渡してくる女性も謎で、僕としては、その鏡を受け取ってしまう人の心理もわからないんですが……とりあえず、被害者は水面下で膨れ上がっているそうで、何とか阻止したいところですよねぇ」
 セレスティは話を聞いている間、多少憂いを帯びた表情で黙していたが、ひとつゆるく頷くと、質問しても良いですか? と三下へと視線を向けた。三下は一も二もなく頷いてしまう。
「黒い鏡などというのはそもそも役には立ちませんよね? 鏡とは何かを映し出すもの。その黒い鏡は何を映すためにあるのでしょうか? 何らかの目的があるからこそ、その女性は鏡を人へと渡すのでしょう? ……そうですね、三下さんの仰る通り、受け取る側の心理にも興味があります。まずは、出来ればその被害者にお会いして、顛末を伺いたいですが、身体は衰弱なさっているとの事。面会謝絶などでなければ、病室へ伺いたいところですが、出来ますか? ……刹さんはどうお考えです?」
 それまで、堅く重い沈黙を背負っていた刹が、お鉢を回されたせいか、僅かに顔を上げると、さらに重そうな口を開いた。
「……その鏡の女とやらに会う。そして、俺が鏡を受け取る。女と接触する事でわかる事があるだろう」
 三下はふたりの提案に頷いた。頷きつつも、不安そうな表情を浮かべた。
「被害者に直接話を聞くのは、僕も賛成ですけど、その鏡の女性に会って、鏡を受け取るとは……刹さんにも危険が及びませんか? 僕はそれが心配で……」
 眉根を寄せて逡巡するような顔を見せた三下に、刹は笑みにも見えないことはない、かすかな、不敵そうにも見える微笑を向けた。
「……俺が、単純に鏡を受け取って、今までの被害者たちのような目に遭うとでも思っているのか?」
 その口調はまるで、遭遇したなら一瞬にして片をつける、と言わんばかりの口調であり、三下は、刹のただならぬ雰囲気に、背筋に水でも流れたような感覚を覚えた。
「……や、それは……」
 そうですけれども、と言いかけて、固まってしまった三下と、刹の様子を見ていたらしいセレスティが、ただひとり、柔和な微笑を浮かべると、ゆっくりとした動作で席を立った。脇に立てかけていた杖を取り、テーブルの上の伝票を取る。
「では、こうしましょう。その女性は深夜に出没するのでしょう? そして三下さんの説明によると、どの辺りに現れるのかも大体の所は想定できていますしね。今夜、私たちはその女性に会ってみる事にしましょう。その前に、例の被害者が入院しているという病院へ向かい、彼らから話を聞き出して下調べを。いががです?」
 あ、はい、と、また思わず頷いてしまった三下は、杖を突きつつ歩き出すセレスティを見送りかけて、慌てて追いかけようとし、そして、刹さんも行きましょう、と声をかけた。
 刹も同意を示すように微かに頷くと席を立ち、足にも嵌められていた枷を重い音鳴らして引きずりつつ、歩き出す。三下はやはり、その枷を怪訝そうに眺めていたのだが。
 そして、三人は喫茶店を後にした。
 しかし、三下が後になってから気付いた事。
「うわーっ! 会社の経費で落とすはずのお代、セレスティさんに払わせてしまいました〜っ! 麗香さんに叱られる……」
 そう嘆き、それを聞いたセレスティの楽しそうな小さな笑い声が大通りに残った。
 そして、三人は一路、被害者たちのいる病院へと向かったのだった。

3.
  一向は電車を幾つか乗り継いだ後、郊外に建つとある大病院へと到着していた。
 三下が案内役を買って、病院の通路を先に立って歩く。その後に続くふたり。
「え〜っと、この511号室に、ふたりの患者さんがいらっしゃるそうで……」
 ネームプレートを見て立ち止まった三下、ふたりを振り返って、入りますか? と尋ねた。セレスティが頷く。
「面会謝絶などではなくて良かったですね。早速お邪魔して、お話を伺いましょうか」
 刹もまた、黙したまま頷く。
 病室のドアを3回ノックし、応答の声を聞いた後、スライドさせて開けば、その4人部屋には女性の患者がふたり、それぞれのベッドに横たわっていた。
 どちらの患者も、かなりやつれたような、酷く血色の悪い顔をしていた。
「失礼します」と頭を下げる三下の隣で、セレスティは同じく丁寧な会釈を患者たちへと向け、刹は相変わらず佇んだまま沈黙を守っていたが。
 セレスティは眉根を寄せて小さく呟いた。
「……気が酷く澱んでいますね……」
 セレスティは、カツン、カツンと杖と革靴の音を床に響かせ、ドア付近に立っていた三下より先に患者たちのいるベッドの方へと歩き出す。そして、患者たちの傍らに立った。「こんにちは。セレスティ・カーニンガムと申します。今回の怪現象の調査の、協力者のひとりです。アトラスに報告してくださったのは貴女がたですね? お身体の具合に差し支えなければ、事件の詳細をお聞かせ願えませんでしょうか」
 患者たちは暫し、セレスティの美貌に見惚れていたようだったが、その言葉に納得したように頷いた後、ひとりが口を開いた。
「……新宿のゴールデン街ってご存知です? 私、OLなんですけれども、帰宅途中に必ずその近くを通らなくちゃならなくて……そうしたら、もう3週間程前になりますけれども、深夜の終電に間に合うように急いでいたら、そこで彼女と会ったんです。黒尽くめの奇妙なドレスを着た女性でした。今から思えば、それだけでも充分不審な女性だったのでしょうが、彼女はとっても……私のような女から見てもとても綺麗な人で……そう、貴方のように。で、彼女が言ったんです。『私を助けて。この鏡少しだけで良いから貴女に預かって欲しいの』って。どうしたの、って訊いたら、彼女は泣きながら言うんです。『私には愛する人がいるの。でも、その人は不治の病に冒されて、近い内にはこの世の人ではなくなってしまう……』。私はその言葉を聞いて、酷く同情しました。何故って、私も愛する人を交通事故で喪った事があったから。彼女はたしか、こうも言っていたような気がします。『これは願掛けなのよ。この鏡を預かってくれる人が現れたら、彼が生き残れるって』…というような事を。私は何故か、見た事も無いその『彼』に生きて欲しくて、鏡を預かると決意しました。そして、受け取ったんです。彼女はこうも言いました。『彼が生き延びる事が出来た時には、お礼を兼ねて、また会う事もあるでしょう。本当にありがとうね』って。あんな綺麗な人が愛する人ならば、きっと素敵な男性に違いないって、その時は羨ましくさえ思っていました……」
 そこまで話して、疲れた、と呟いた彼女の後を取るように、もうひとりの患者が口を開いた。
「私も似た事を言われたわよ。でも、私の場合は父が亡くなりそう、とか言っていたけれど。私は幼い時に両親を亡くしたから、やっぱり哀しくなったのよね。で、やっぱり鏡を受け取ろうかどうしようか悩んで……。でも、私、小さい頃、母から聞いた言葉を思い出したの。『鏡は人から貰うものではありません』って。縁起が悪いとか、そういう話だったわ。だから、私は、預かれないって拒否したのだけど……彼女、怖かった。おぼろげにしか覚えていないけれども『貴女は受け取るわ』って言っていたような気がする……。それも、笑って。私、怖くなって逃げ出したのだけど、家に帰ってから、バッグの中を見てみたら、これが入ってた……」
 そう言うと、彼女は消灯台の引出しを開け、布包みを取り出した。
 セレスティは彼女の元へと歩み寄る。
 それまで戸口に三下と共に佇んでいた刹もまた、そちらへと鎖の重い音を鳴らしながら歩み出した。
ふたりが、彼女が開いた布包みの中に見たものは。
 銅縁に装飾が施された、古めかしい一枚の鏡。報告通りの闇色の鏡。
 その黒は、光すらも飲み込んでしまうかのように、何をも映さず、ある意味においては鏡とは言えないだろう代物だった。
 セレスティはそれを暫し眺めていたが、「鏡に触れてもいいですか?」と患者に尋ねた。
 しかし、彼女はその言葉にいささか怯えたような表情を浮かべた。否、怯えると言うより奇妙な拒絶するような表情を浮かべた。
「……これは……あの人よ……触ったら壊れてしまう……いなくなってしまう……」
 ごく小さな声だったが、セレスティには、はっきりと聞き取れた。その声が尋常ではない響きを帯びていたという事も。
 身体を小刻みに慄かせながら、その布包みを胸に、さも大事そうに抱える彼女だった。「どうかしましたか?」
 それを察したセレスティは、努めて穏やかな声で彼女に尋ねた。
 その時、不意の背後からの呟きが、セレスティの耳に届いた。
「セレスティ、触わるな。その鏡自体が呪いだ」
 声の主は、刹。
 それまで気配さえ殺していたかのようだった彼が、はじめて動いた。
 相変わらず、異様な響きを立てる足枷の音を立てながら、患者たちのベッドへと歩み寄ってゆく。
「……俺にはわかる。その鏡に触れた者が、何に囚われているか」
 セレスティは刹の方へと向き直り、続けられるべき言葉を促すかのように沈黙した。
 刹は言葉を続ける。
「今、俺たちがその鏡に触れる事は、おそらく禁忌だ。例の女とやらに接触するまでは。……セレスティ、お前が今、他に出来る事はあるんだろう」
 やや脈絡無く紡がれる刹の言葉だったが、セレスティは察した。刹が何かを感じ取ったという事を。そして、彼の言葉に首肯した。
「そうですね。直接、かの女性と会う事にしましょう。では、私はこの彼女たちを少しでも、その呪いから解き放ちたいところなのですが……。おそらくは、その呪主である、かの鏡の主である女性と接触しない事には、彼女たちの呪いも解けないのでしょう。でしたら、せめて身体面でのフォローを」
 セレスティは鏡に触れる事を今は諦め、患者たちの額へと、そっと両手を伸ばした。
 その異様に冷え切った額に掌で触れると、セレスティは目を閉じる。彼女たちもまた、何らかの暗示にかけられたかのように、目を閉じた。
 彼の脳裡には、彼女たちの体内に流れる血液、気脈、鼓動、細胞、代謝をもって変容するすべての物の在り処が手に取るようにわかった。そして、それを操る。それが彼の秘めた超常の能力だった。
 彼女たちの体内で滞り澱んだ気脈。不規則な流れを示す血液。異常に高い心拍数。形を歪められた細胞。それらがイメージとして浮かび上がり、彼はそれを正常な形へと導くべく、その能力を行使し始めた。
 目を閉じた患者たちには見えなかっただろうが、セレスティの周囲の空気は一変した。 空気はゆらりと揺らぎ、彼の掌へと集まり始める。それは水の精霊の化身たちだった。 仄かな青い光さえ帯びたそれは、彼の掌の中に凝固するように集中し、彼女たちの額へと吸い込まれてゆく。セレスティはその精霊たちへと心の中で呼びかける。
 ―― 彼女たちの体内において、流動する一切のものを司り、正常な値へと導きなさい――
 指令を下されたそれらは、ただちに彼女たちの体内で活動を始めた。
 土気色をしていた彼女たちの顔色には紅が差すようになり、鼓動は緩く穏やかなものへと。脈動は一定の規則正しいリズムを刻むようになり、形を歪められた細胞は本来あるべき形へと戻ってゆくのが、セレスティにはわかった。彼はひとつ息をつく。
「目を開いてもいいですよ」
 その言葉に呼び覚まされたかのように、彼女たちは夢から醒めたような面持ちで瞼を上げ、瞳を見せる。その瞳には、今しがたまでとは比較しようのないほどの生気と輝きとが宿っていた。
 彼女たちはそれぞれ、自身の身体に感じる感覚に驚いたような表情を浮かべていた。
「あんなに身体が重くて仕方がなかったのに……」
「息をするのも辛かったのに、こんなに呼吸が楽になるなんて……」
 ふたりともが口々に呟きを漏らし。それから、驚愕の表情のまま視線をセレスティへと向けた。
「……貴方たちは一体……?」
 何者なのか、と。
セレスティは、その言葉を訊くと口元に微かな笑みを刻んで、ベッドサイドから腰を上げた。そして、患者たちへと背を向けるべく、ゆっくりと踵を返す。
「刹さん、三下さん。私たちはそろそろ退き際のようですね」
 患者たちの不可思議なものでも見るような視線を浴びながら、3人は病室から出る事にしたのだった。
 病棟の廊下を歩きながら、三下が恐る恐るふたりへと尋ねる。
「あのー……。結局、鏡を見る事も出来ませんでしたし、触る事も出来ませんでしたし、出来た事は患者さんの体調を治したくらいで……。何か得る所はあったんでしょうかねぇ?」
 それを聞いたセレスティは微笑んだ。
「鏡の主たる女性の凡その出没場所がわかったでしょう? ちなみに、私は彼女たちを完全に治したわけではありません。一時的な身体面の回復を図っただけです。彼女たちが完治するためには、刹さんの言う『呪い』を解く以外に方法はありません。……そして、私は刹さんが感知した事を信じます。彼は……どうやら、私以上にある面においての感覚神経が発達しているようですからね」
 それを聞いているのかいないのか、刹は沈黙を守っている。しかし、その無表情にも近い相貌には、どこか憂いを帯びているような色が見えたように、三下には思えた。
 そうして、いつしか夜も更けつつあったこの時間、3人は、夜の新宿ゴールデン街へと向かったのだった。

4.
 新宿へと辿り着いた一行は、適当な店で軽い夕食を済ませた後、そのまま店の片隅に居座って作戦会議を開いていた。
「報告によると、ここ最近は毎晩のように、その女性が現れるとかで。だからおそらく今夜も現れない事はないと思いますけどねぇ」
 三下がくたびれた鞄の中からいちいち書類を引っ張り出しては、今更のように情報を整理している。
 セレスティはそれを聞いて頷いた。
「現れてもらわないと困りますね。折角ここまで足を運んだ苦労が水の泡になりますから。ところで、最初の説明にあったピラミッドとやらの話はどうなったのでしょう? 鏡の女性はそのピラミッドを棲家にでもしているのでしょうか」
 三下は質問を受けて困ったように唸った。
「それが……そのピラミッドを目撃した被害者は数少ないんですよねぇ。だから情報も今ひとつで……。鏡の女性がそのピラミッドの中に吸い込まれるように入っていった、という事意外はサッパリなんです。本当に、調査依頼者としては情けない限りなんですけれども。こればかりは体当たりでいってみるしかないかな〜……なんて」
 セレスティは暫く顎に手を当てて思考を巡らせていたようだったが、沈黙を守っていた刹の方へと向き直った。
「刹さん。今夜私たちが鏡の女性に遭遇したならば、そして鏡を手渡されようとしたならば、それは受け取っても構わないのですよね?」
 確かめるように彼の瞳を覗き込んだ。刹は瞳を見詰め返して頷きを示す。
「……俺が、病室での患者たちが持っていた鏡に触れるな、と言ったのは、あれが既に個を対象として形を為していた呪いだったからだ。他人が触れればその呪いまで背負い込む事になる。だが、今夜もしその女から鏡を受け取れと言われたならば、俺も受け取ろう。鏡の呪いの構造を解くにはそれが一番手っ取り早いだろう」
 セレスティはまたひとつ頷きを返した。
「……呪いの構造、ですか……」
 そう呟いて、後を続けた。
「古来より呪いというものは単独では成立しません。呪う対象を得てこそ成り立つもの。病院での彼女たちの話を聞いた分には、彼女たちそれぞれに違う呪いがかけられていたと私は見ました。勿論、共通点はあるのでしょうけれど。では、私たちが……ああ、三下さんは危険ですから、鏡は受け取らないで下さいね? 刹さんと私が鏡を受け取り、その呪いを身に受けたならば、どうなるでしょうか。私たちの能力をもって、その鏡の呪いを打破する事ができるかどうか、その女性に何らかの対処を出来るかどうか。そのあたりの勝算を考慮しなければならないでしょうね」
 難しそうな顔でセレスティが言うのを聞いた三下は、思い切り狼狽した。
「そ、そんなっ! あなたがたがそんなリスクを背負ったら大変じゃないですか! 下手をすると命を落とす可能性もあるんですよ!? 僕は……僕は何も出来ないし……っ」
 取り乱しかけていた三下を一瞥した刹が、冷たく淡と言い放った。
「……いざとなったら、俺が、その一切すべてを『断つ』だろう」
 その謎めいた言葉に、三下は困惑した。
「断つ……って、どうやって……?」
 刹は説明するのも面倒だ、と言いたげな様子で、ジャラと足枷の音を鳴らすと席を立った。
「……その場に居合わせれば、わかる」
 セレスティもまた、席を立った。杖を取って、店の出口へとゆっくりと歩き出す。
「大方の方針は決まりましたね。言うなれば、体当たり方式という事ですが。今回ばかりはそれも仕方がないでしょう。……では、そろそろ彼女の現れそうな時間ですから、行きましょうか」 
 三下も後に続いたが、今度こそ作戦会議の代金を経費で落とす事は忘れなかった。

5.
 深夜の新宿ゴールデン街。
 寂れ切った、人の気配すらしない建物の軒並みが並ぶ小道を、真っ黒な野良猫が目を金色に光らせつつ、のそりのそりと歩いてゆく。
 そこまでの道のりを、三下の用意した車椅子に乗せられ押されてやってきたセレスティと、重そうな足枷を引きずりながら歩いてきた3人だった。
「出没場所が大体ゴールデン街だという事はわかりましたけど……具体的にどのあたりに出るんでしょうねぇ?」
 まるで幽霊か何かでも出るかのような口調で呟いた三下に、車椅子に腰掛けたセレスティは、杖を片手に弄びながら笑みを零した。
「今夜のターゲットが私たち以外にいなければ、おのずと彼女の方から姿を現してくれる事でしょう。また、私たちは彼女に遭いたいと望んでいます。彼女はどうやら人外の者のようですから、私たちの意思にも気付く事があるかもしれませんしね」
 穏やかな口調で三下に告げていたセレスティの横合いから、刹が呟きを漏らした。
「……あの鏡の呪いの存在に、深く関わろうとした俺たちを、あの女が見逃すはずがないだろう」
 平淡な口調だったが、三下はあからさまに怖気づいた。
「あ、あのッ……! ひとつ訊いてもいいですかっ!? 僕はその間どうしていれば……っ」
 セレスティがアドバイスのひと言を入れようとした矢先に、刹が言い放っていた。
「適当に隠れてろ」
 そんなぁ、と嘆く三下を無視して、刹は通りの前方を凝視し続ける。
 セレスティは笑っていたが、彼もまた、目を閉じ、他の感覚を研ぎ澄ませて、冬の夜の空気の流れを感じていた。
――小一時間ばかり経った頃。
 三下が凍えそうな余りの寒さに、根を上げそうになっていた時だった。
 どこからか流れ込んで来た、季節外れに生暖かい風が、3人の頬を嬲り、そして纏わりつくように絡んだ。そう、まるで触手のように。
 セレスティが閉じていた目を開いた。
 刹が低く呟いた。
「……来たぞ」
 間もなく、ゴールデン街の通りの奥深く、闇の中から、乾いた靴音が響いてくるのを3人は耳にした。
 その靴音は徐々にこちらへと近づいて来る。
 やがて、その靴音の主は暗闇の中にぼやりと姿を現した。徐々にその輪郭が明瞭になってゆく。
 身体のラインも露な闇色のスーツとタイトなロングスカートを身に纏った女性だった。 闇の中でもそれとわかる、寧ろ、燐光を放っているかのように思われる、漆黒の艶やかなストレートの髪を、腰の辺りまで流している。
 その髪は、彼女が一歩、歩みを進める度に、ゆらりと揺れるのだった。
 彼女は、3人――三下は既に逃げ遅れていた――の少し手前で立ち止まると、噂にたがわぬ美貌を、僅かに首を傾げるようにして、まるで船主を惑わせるローレライさながらの、切なく物悲しく、そして甘さを帯びた美しい声音で言葉を紡いだ。
「ねぇ、そこの貴方がた、少し頼みたい事があるの。聞いて下さるかしら?」
 その声を聞いても、セレスティと刹は黙していたが、三下は反射的に「はいっ!?」と素っ頓狂な声を上げて応えていた。
それを聞いて傍らで舌打ちをしたのは刹である。セレスティもまた、眉根を顰めていた。「……何も出来ないくせに、真っ先に術にかかったか」
 刹が苦々しげに呟く。
 セレスティが、その言葉を聞いて、苦笑を浮かべて囁き返す。
「わかりませんよ? 彼が術にかかってくれた事で、案外と良い展開になるかもしれませんし」
 しかし、女が三下の応答を聞いてそちらへと視線を流しつつ、歩み寄ろうとした瞬間、美貌に惑わされたか、ふらりと歩き出そうとした三下の前に手を差し出し、ふたりへと制止の声をかけたのはセレスティだった。
「少々お待ち願えませんでしょうか。貴女の頼み事とやら、私が聞きましょう」
 そして、刹もまたその声に続いた。
「……俺も聞こうか」
 女はひと度足を止め、セレスティと刹へと視線を向けた。
「貴方たちが聞いてくれるの? 預かって欲しい物が……」
 ふたりを見詰めていた女の声が、途中で途切れた。
 暫しの沈黙。その間、女はふたりの瞳を射るように、何かを見透かすように、凝視していた。
 そして、その美貌が鬼女のように歪み、変容してゆくのが、間抜けにも魅了された三下にさえわかった。
 次に女が口を開いた時には、まるで別人のように低い響きの声と豹変した口調になっていた。
 まさしく、鬼のように。
 そして喉元から、辺りに響く含み笑いを漏らしていた。
「……ほほう。これはこれは珍しくも面白い。人にあらぬ者と、底無しの闇を背負った者。わざと私の獲物になるべく出向いて来たと見える」
 セレスティと刹はその言葉に、一瞬、凍りついたかのように沈黙した。
 女はもはや三下には関心を示さず、セレスティと刹の方へと、にじり寄るように歩み寄ってゆく。
 そして、あと数歩、というところで立ち止まり、まるで魔術師のように、どこからか取り出した鏡らしき物を、ふたりの前に、す、と差し出した。
「お前たちだったのか。私の事を嗅ぎ回っていたのは。……欲しいのだろう? この鏡を。では、くれてやろうではないか」
 女は相変わらず愉快そうな、しかし剣呑さを含んだ口調で笑い続けた。
 セレスティは刹へと視線を送った。刹もまた、ゆっくりと顔を上げ、セレスティの瞳を見詰め、了、とでも言うかのように、微かに頷きを見せた。セレスティが女へと、その劣らぬ美貌に、誰をも魅惑するかのような微笑を湛えて応える。
「貴女には、何もかもがお見通しのようですね? そう、私は人ではありません。そして、私は貴女の持つ鏡と、貴女の目的とに興味があります。この鏡、私が預からせて頂きましょう」
 刹は何を思考しているのかわからぬ表情のまま、同意するように頷いた。淡と応える。「……俺も、その鏡、預かる」
 女はその応答に妖艶な笑みを見せ、ふたりの手へと件の鏡をそれぞれに渡した。
 見た目は銀縁の古典的ながら豪奢な装飾が施された鏡。しかし、肝心の鏡面の硝子は漆黒。容姿も映さぬ、光も届かぬ、何をも映さぬ、それを見る者を、闇の深淵へと吸い込むような、奇妙な鏡だった。
 セレスティと刹は、自分たちが術中に嵌っただろう事を承知の上で、その鏡を見詰めた。
 そして、ふたりはそのただ黒いだけの鏡を見詰める内に、しかし、間もなく奇妙な感覚に囚われてゆくのを感じた。
 視界が歪み、眼前に形無き幻影が、現実の光景にダブって現れ始めた。
 聴覚もまた、狂い出す。鼓膜の奥で誰かの声、何かの音が木霊する。
 挙句の果てには、全身が浮遊するような感覚に陥り、神経に異常が来たし始めたように思われた。
 セレスティは眉間を曇らせ、小さくうめいた。
 己が生き長らえてきた永い時間。遥かに遠い記憶が蘇る。己の本来あった姿を垣間見る。
 気の遠くなるような歳月の間、生きながらにして、どれほど己の感情を彷徨わせて来ただろうか。
 己はそれこそ呪わしくも長寿の身。
 己が好意を抱いた者、己が愛情を感じた者、己に愛情を注いでくれた者、その皆が己よりも先にその姿をこの世から喪ってしまった。
 己が生き続ける上において、尊敬の念を抱いた者も、永遠の誓いを立てた者も、さらには、己が頼りとした在るべき地も何もかも、時の流れの中で失われ、絶え間なく変化し、己はその濁流に飲まれるかのようにして、生きて来た、と。
 どれほどの闇を見詰めて来ただろう。
 どれほど己の闇と対話してきた事だろう。
 どれほど己の抱える闇を持て余してきた事だろう。
 セレスティは、いつしか、その闇色の鏡に魅入られたかのように、見詰めていた。
 そこには、己が存在し続けるためには辛過ぎて、わざと目を背けて来た事物が、その色も鮮やかに映し出されていた。
 セレスティの身の内が、心が、徐々に闇に侵食されてゆく。
 楽しかった事も、喜びを感じた事も、幸せだと思えた事もあったはずだった。
 しかし、今はそれらは神隠しにでもあったかのように、セレスティの記憶には蘇らない。
 今まで己はそれらの感情のすべてを、理性で制御していたつもりだった。
 この宿命の元に生を受けた以上、何もかも受け入れるべきなのだと。
 だが、この耐え難い孤独。
――耐え難い、孤独。
 己を蝕むものは底無しの虚無。
 何も映さぬはずの鏡の面に、己の瞳が過去に映した光景が去来してゆく。
 同じくして、その時に抱いていた感情が鮮明に再現される。
 セレスティは、女の術中にある事も忘れ、虚無という絶望の淵に追いやられていた。
 己は人ではない存在でありながら、人という存在と、余りにも時を共有し過ぎた、と。 今、己の周囲に築き上げた人間関係も、仮初のものにしか過ぎぬのだろうか、と。
 己を取り巻くすべては、いつかは塵のように捉えぬ事の出来ぬものへと変わり果ててしまうのだろうか、と。
 ――流すべき涙など、とうの昔に涸れ果てた。
 存在する事は苦痛。
 永きに渡る半生の中で、己が得たものはどれほどあっただろう。喪ったものはどれほどあっただろう。
 そして、これからも喪い続けるのか。
 人とほぼ等しい感情を持つ生命体として存在しなければならない己が、ただ呪わしく。 セレスティは、常ならば滅多な事では陥らぬはずの、己の昏闇の底で頼るべきものも無く、ひたすら足掻き続けていた。
「……私は……いつまでこうして……生き続けねば、ならないのでしょうか……」
 目の前が深い闇色に染められた中で、死に至る病に冒されたかのような弱弱しい声音を漏らし、彼は小さく虚ろに呟いた。
 彼が己の闇の深淵に囚われていた、その時。
傍らで闇をつんざくような悲鳴にも似た叫び声が響き渡った。
 それは、刹の声だった。
 セレスティは、その悲鳴を耳にして、ようやく己の抱えた迷宮から解放され、我に返った。刹を見遣ろうと傍らへと顔を向ける。
「刹さんっ!?」
 いつしか、刹もまた、己の闇に囚われていたのか、その場に蹲るようにして、足枷に血が滲みそうなほどに爪を立て、ガタガタと傍目にも明らかに全身を慄かせていた。
 刹が片手で鏡をアスファルトへと、渾身の力で何度も叩きつける。
 しかし、鏡は割れない。
狂ったように鏡を壊そうとしている刹を見てしまったセレスティは、両腕を伸ばすと、殆ど暴れていると言っても過言ではない、刹の身体を抱き締めた。
  尚も腕の中で闇雲に暴れ、言葉にならない悲鳴を上げている刹に、己が知る太古の昔に覚えた、鎮めのチャントを静かに唱えると、彼の身体からは徐々に力が抜けてゆき、最後には、糸の切れた繰り人形のようにぐったりとその身体をセレスティへと預けた。
 セレスティは彼を抱き締めながら、今までの自分たちの様子を観察していたと思しき女へと、いつになく鋭い視線を向けた。
「……貴女の術と目的、私にはわかりました。人という存在の、最も弱い部分を攻撃する貴女の呪い、私には許し難い……」
 憤りすら含んだ声音で女へと声を投げると、彼女は高らかに哄笑した。
「闇に取り憑かれた者よ。私の呪縛から自ら脱したとは見事。だが、お前の抱える闇は際限なく深いであろう? 再び陥落しないと言い切れるのか?」
 セレスティは女を睨みつけた。そして断言する。
「私は堕ちません。迂闊にもひと度は惑わされましたけれども。貴女は言いましたね。私の事を『人にあらぬ者』と。それが所以です。私がただ安穏と、この狂気すら覚えそうな歳月を過ごして来たと思われては困ります」
 女は愉しそうな表情を面に乗せ、試すかのようにセレスティの顔を覗き込んだ。
「だが、そこな少年は私の術に堕ちたと見えるがの? お前たちふたりとも、食いでがありそうだと思っていたがゆえに、お前ひとりを逃した事すら惜しい。では、その少年だけでも喰らう事にしようか?」
 女は紅色の舌を覗かせて、下唇をペロリと舐めた。そして、片腕をゆるり、と星ひとつ見えぬ闇深い天へと翳した。
 その突如、女の指先の上に現れたのは、情報にもあった通りの、夜闇と同じ色をした、人がひとり入れるほどの大きさのピラミッドだった。その側面は、鏡と同じ、何をも映さぬ真の漆黒。
 セレスティはそれを見上げながら、まだ脱力したままの刹を揺さぶって、必死に起こそうとした。
「刹さん! 刹さんっ! それはただの幻惑……っ!」
 女がその様子を見て、またもや笑う。
「人外の者にはさほど効き目はなかったようだが、人には余程辛いと見える。そこな麗しき男よ、何も手段を講ぜぬまま、その少年が私の餌食になるのを指を咥えて見ているか? それとも、私に挑んできた以上は……或いは?」
 挑発するように高らかな笑い声を上げる女に、セレスティは僅かに眦を上げてその顔を見据えた。
「私は彼を、貴女の餌食などにはさせません。貴女が何者であろうとも、彼を守って見せます。……誰しもが抱える、人の心の闇に付け込む悪魔であろうとも……」
 セレスティにとって、刹は調査においてのただの仲間のはずだった。
 だが、今しがた、おのれの闇の再現された事で苦しみ悶える彼に触れたセレスティは 、幾ばくかの彼が今まで拒絶するように隔絶させていた事柄が、その瞬間だけ無防備に露になっており、そして垣間見てしまった。
 セレスティは思う。
――この感情は、単なる憐憫などではなく、異なる形であろうとも、重過ぎる闇の苦痛を抱えている者としての共感――
 そう感じたからこそ、セレスティは刹を守ろうと決意したのだった。
 だが。
 女は妖しげな笑みを見せたまま、愉しそうに言葉を続ける。
「ほう? そこのほぼ関係もない人間ひとりを守るために、お前はその身体を張るとまでいうのかえ? 物好きの骨頂よのう? まあ、いい。それでは、お前は私に何が出来ると? 水霊使いよ。私は涙も持ち合わせていなければ、流す血液も持ち合わせておらぬ。お前の能力とやらを使ってどうこう出来る相手だろうかね?」
 どこかからかうような女の口調に、セレスティは無意識の内に唇を噛んだ。
 この女もまた、人外の者。そして己の能力は見透かされ、見切られている。攻撃どころか、防衛出来る事も可能かどうか、と。
 その時、セレスティの腕の中で、それまで頼りない身体を預けていた刹が身じろぎした。そして、小さな声ではあったものの、はっきりとした口調で言った。
「……女。俺を忘れてはいないか」
 腕の中を見下ろせば、刹は普段以上に研ぎ澄まされた鋭利で危険な眼差しを女へと投げていた。
「刹……さん。大丈夫、ですか……?」
 それを見てやや瞠目していたセレスティが囁きかけると、刹は彼を一瞥した。
「……お前に守られずとも、俺は俺自身を自らで守る」
 淡とした声音を投げ、そして、彼はセレスティの腕の中から身を起こすと、女へと向き直った。
「……女。言っておこう。お前が感じ取っている以上に、俺はお前の事を知っている、と。お前の『呪縛』を崩してやる。俺は決めた。お前を抹消すると」
 殺意を感じるどころか、凍てついた氷の響きのような声音で、刹は女へと宣告した。
 それを聞いた女が片眉を上げて刹の顔を面白そうに見遣る。
「それはまた笑止な。一度は私の術に掛かり、ただ翻弄されていたお前が、私を抹消するなどという大きな口を叩くのか? 私は鏡を通してお前の過去をすべて知っているのだが? ただの人間でしかないお前にいったい何が出来るという。……それよりも、素直に私の餌食になってみるつもりはないか?」
 女は鼻を鳴らして一笑すると、宙に浮遊しているピラミッドへと掲げていた腕を、ゆっくりと下ろした。ピラミッドもまた、地上近くへと、ごくゆっくりと降りてゆく。その側面を女はスルリと撫でた。
「口だけは小生意気な少年よ。お前の近い未来を見せてやろう」
 セレスティと刹が凝視する中で、ピラミッドの側面のひと撫でされた箇所が、パックリと口を開いた。
 途端に、その開いた隙間から漏れ出したのは、男のものとも女のものともつかぬ苦悶の声、声、声……。
 言葉にすらなっていないそれらのうめき声は、しかし、どこか官能的な色さえ帯びているように聞こえた。
 女は、その声を聞いているのか、味わうように目を細めて笑み、そして、突如、それまでそこに佇んでいたその姿が、ふっと夜闇の中へと溶け消えた。
 我が目を疑うように瞠目したのは、ふたりともだった。
「あの女、どこへ消えた……!?」
 そう思わず言葉にした刹の首筋に、生ぬるい吐息が、ふぅ、と掛かった。
 刹は反射的に振り返り、そこにいた女の顔を間近な背後に捉えると、自由には動かぬ両手だったが、両拳を握り合わせ、肘打ちを喰らわせるつもりで、曲げた肘を叩き込んだ。 だが、その肘はあえなく空を打つのみで、再び女の姿は消滅していた。
「……底無しの闇の快楽。お前たちも堕ちてみようとは思わぬかえ?」
 喉元から含み笑いを漏らして、今度は、セレスティの傍らに地上から僅かに浮遊した状態で漂うように揺れていた彼女は、誘うかのようにふたりに囁いた。
「妬み、悲しみ、裏切り、苦しみ、そしてあらゆる人の昏い欲望の吹き溜まりは、陰鬱にして心地良い事この上ないぞ」
 セレスティは眉根を顰めた。
 刹は相貌から表情が失せた。
 しかし、不意に刹はセレスティの耳元へと顔を寄せ、ひっそりとした小声で耳打ちをした。
「……セレスティ。どうにかしてあの女の動きを封じる事は出来ないか? そうすれば、トドメなら俺が刺す」
 セレスティは、女に悟られぬように刹へと視線のみを流し、暫し何事かを考えた後、アイサインで「了」の意を返した。
 セレスティが目を閉じて小声でチャントを唱え始めた。その微かに聞こえてくる唱文の声に、女は警戒をしたのか、すぅ、とセレスティの傍から離れてゆく。そのまま、ピラミッドの前へと再び降り立った。
 いつしかセレスティの両手指は組み合わされており、チャントを唱え終えた瞬間、天へと向けて10本の指が開かれた。
 そこから、ダイアモンド・ダストのように煌めく輝きの微小な粒が天へと立昇ってゆく。
 それが天空へと消えた直後。
 一天、俄かにかき曇り、急速な速さで夜目にもわかる鉛色の暗澹たる雨雲が頭上に垂れ込め始めた。
 そして、ポツリ。また、ポツリ。
 間もなく水滴が天から降って来て、それは物を言う間もなく、尋常ならぬ豪雨へと変わったのだった。
 女と刹とが瞬時にして全身水浸しの格好になった一方、セレスティは何かに守られているかのように、一滴たりともその雨に濡れてはいなかった。
 セレスティは鋭利な眼差しを、やや呆然としているような女へと向け、言い放った。
「始めましょうか。私は貴女を赦しませんと申し上げたはずですから」
 雨音がアスファルトに叩きつけられ、轟音にも似た音を響かせている中で、セレスティの声はやけに通った。そんな彼を横目に眺める刹。
 セレスティは黙したままそれまで腰を下ろしていた車椅子から杖をついて立ち上がった。 そして空いている片手を宙に翳す。
 その途端、先刻、天空に消えたダイアモンド・ダストの如き光の輝きがどこからともなく彼の手の中に集まってきた。一際輝きを増して。
 彼の手が青白い光の中に包まれたと思うと、彼の目は細められ、手は女へと向けて投げられた。
 光の球体は尾を引いて、瞠目していた女の身体を瞬時に包み込む。
 「氷となれ」とセレスティは呟いた。
 その言葉が紡がれると、同時に、女を包んでいた光の渦が凝固し始め、瞬きをする内に、それは氷結して女の身体を氷像と化させた。
「私の氷は、テレポテーションも許しません。刹さん、君の手で」
 とどめを、と促すセレスティの言葉に、頷き、ある言葉を口に乗せようとした刹の目に映ったものは。
 一切の動きを封じられた、氷像と化した女の姿が、まるで煤のように黒い粉となって崩れ落ちてゆく様だった。
 刹は目を瞠った。そして彼の脳裡に別のイメージが過ぎる。
「セレスティ! 違う! あの女は本体じゃない! 本体は……!」
 かの、ピラミッドだと。
 そう悟った時、煤となって地に落ち、跡形なく失せたはずの女の姿が、ピラミッドの中から腕を一本二本と伸び出てきて、いつしか三体のクローンのように同じ姿をした影が現れた。
 ピラミッドから生まれた、三人となった女の姿は、まるで分身のように嫣然とした笑みをふたりへと投げかけた。
「人の心から闇が消えぬ限り、私が消滅する事は有り得ぬ」
 セレスティは、そう言い切る女を見据えながら、再びチャントを唱え始める。
 絶え間なく、地面を穿つ勢いで降り続けていた局地的豪雨の雨の雫が、彼のチャントを聞きつけたかのように、身体の前に、水塊となって集中し、渦をなし始めた。
「刹さん、あのピラミッドを破壊すれば、あの女もまた消えるでしょう」
 そう小声で告げた言葉に、刹は頷き、彼もまた目を閉じ、特殊能力を秘めた頭脳の中で、とあるイメージを作り始める。
 セレスティはチャントを唱え終えると、ゴオ、と唸りを上げる水塊をその手に操りながら、女へと宣言した。
「人の心にあるのは、闇ばかりではありません。光もまた、同等の価値を持って存在するでしょう。貴女が人の心の闇を弄び、それを喰らって生きる糧としているのならば、私はそれを消滅させましょう」
 静かな怒気を孕んだ声音で女へと言い放つと同時に、彼の片手はピラミッドへと向けて振り下ろされた。
 水槐はピラミッドへと飛ぶ内に、鋭い剣のような形へと変化し、ピラミッドへと飛んだ。
 その剣がピラミッドへと突き立った瞬間に、刹の目が開かれた。彼は最大の武器たる言葉を宣言する。
「誰しもがお前の闇に囚われ続けると思うな。……『断』…!!」
 ピラミッドへと突き立ったセレスティの水剣は物理的にその側面を突き破り、刹の宣言した森羅万象の一切を断ち切る言葉は、そこから溢れ出しかけていた闇を劈き、その空間を歪め、歪みと共に間隙を帯びたそこへと闇は轟く音を立てて飲み込まれてゆく。
 女はその様を見て驚愕の表情を浮かべ、次の瞬間には断末魔の悲鳴を上げていた。
「ただの人間如きに、私が……っ!!」
 打ち破られようとは、と言う微かなひと言を残響のように残して、三体の女の姿もまた、まるでブラックホールのような空間の間隙へと吸い込まれ、消え、ついには滅した。
 それを見届けた刹とセレスティは、暫し沈黙していたが、ふ、と深い吐息をついた。
「……人の心の、闇……ですか……」
 呟いたのはセレスティだった。
「あの女はただのまやかしにしか過ぎなかった。いくら闇を糧にしていると言っても。……俺のテリトリーの中に土足で上がり込みやがった」
 表情の無い声でそう応える刹。
 それを聞いていたセレスティが、不意に質問を投げた。
「君と会った時から気になっていたのですが、その手や足の枷はいったい……?」
 その言葉に、ジロリ、とセレスティを見遣る刹はひと言呟いた。
「……誰が言うか」
 いつもならば、表情を殺すくらいはするはずの刹が、ふ、と口元に微かな笑みを刻んだ。
「お前の名前。長過ぎて忘れたぞ。もう一度教えろ。……俺は、紗侍摩、刹」
 その言葉を聞いたセレスティは、柔らかく微笑んだ。
「私は、セレスティ・カーニンガム。よろしかったら覚えておいてください」
 刹は、その名前を頭に入れるように頷くと、さて、帰るか、と呟き、足枷の鎖の音を鳴らして踵を返した。セレスティもまた車椅子に座り直すと、元来た道へと戻ろうとして、そういえば、とそこで思い出した。
「あ、三下さんは……どうしたのでしょう?」
 いつしかやんでいた雨。
 一方の三下は、今は存在を喪った女に魅了された時からの記憶を飛ばしていたらしく、電柱の陰でぼうっとしたまま突っ立っていた。
 それを見て笑ったセレスティは、三下に声を掛けた。
「三下さん、大丈夫ですか? 終わりましたよ。とりあえずは解決したのでしょう」
 それを聞いた三下は、我に返ったものの、うろたえた。
「どっどうしましょうっ! 僕、この事件の一部始終を記事にしなきゃならなかったのにっ! 麗香さんに怒られる〜〜っ!!」
 記憶がまるで抜け落ちてるって、と嘆く三下の手を引いて、セレスティは車椅子を進め、刹もまた歩き出す。
 冬の明け方の、月や星の代わりに、太陽の光差し始めた空を一度仰いでから、三人はその場を後にしたのだった。
 ――あれほど割ろうとしても割れる事のなかった、漆黒の鏡を残して。

6.エピローグ
 三下はアトラスの編集部に戻った後、麗香に散々な言われようをした。
 折角の大きなネタを一文字たりとも記事にも出来ないなんて、と。
 しかし、こんな報告も耳にしたのだった。
 例の、鏡の呪いによって衰弱していた患者たちは、医者が不思議に思うほど、急遽回復し、退院していった、と。
 三下の耳に、刹とセレスティの、遠い意識の中で聞いたような、ある言葉が響いていた。
――誰しもが、必ずお前の作る闇に囚われ続けると……思うな――

――心を持つものならば、誰しもが闇をその内に抱え込み囚われる事もある。でも、それと同等の光もまた持っていると……信じたい――



   <了>

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1883/セレスティ・カーニンガム/男/ 725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い
2156/紗侍摩・刹/男/17歳/人を殺せない殺人鬼

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■         ライター通信          ■
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 まずは、計算外も程々にと思うくらい、遅れに遅れまして、多大なご迷惑をお掛けし、大変申し訳ありませんでした!!
 蒼月紫峰、初挑戦の東京怪談をお送りします。
 オープニングを書いた時点で長編になりそうな気はしたのですが、ここまで長い話になろうとは思ってもおりませんでした……。
長過ぎるこの話を、ここまで読んで下されれば、幸いに存じます。
 では、限りなく、果てしないお詫びの気持ちを篭めました上で、今回こうして書かせて頂けた事を、心より感謝申し上げます。   蒼月紫峰 拝