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静止する、時
どれ程思い悩もうと。
この仮面は脱ぐ事が出来なかった。
五歳離れた清廉な弟。
誇り高き青の薔薇。
その彼――新久、孝博に。
新久義博はただ、惹かれていた。
彼の前でなら自分を隠す事など厭わない。
毒の滴るような内面を。
人の魂はすべて美しいもの、と信じる彼に見せたくはない。
紙一重の、美醜を。
曝してしまえばどれ程楽か。
彼がその私を見てどんな反応を示すか。
ふと、考えるだけでも甘美過ぎる事柄。
けれど曝してしまえば――私は。
彼は――弟は。
考えれば考える程、それは決して為されてはならない事だと。
その答えしか出て来ない。
醜いが故の心の美しさ。
孝博はそれを理解出来ない。
ましてや。
そんな私が、孝博を心底愛しているなどと――。
肉親に対する想いでは無い事は――疾うに気付いていた。
決して相容れぬ想い。
孝博は。
私を肉親として以外――以上で見る事は無い。
そう、確信出来るから。
兄としてなら愛されている。
これ以上無い程、深く。
ならば。
私には。
孝博が、尊敬出来るような…立派な存在で居る事しか、残されていない。
孝博の愛している、兄として。
ずっと。
ずっと。
………………私たちは前世では夫婦だったのですよ。
いつだったか、静かに告げたその科白は――孝博にはどう聞こえていたのだろうか。
…願わくは。
伝わる事を。
伝わらない事を。
そこにある美しく長い髪と透けるようなまっさらな瞳、その姿を纏う心だけは――私にとって特別だ、と。
孝博は。
兄の想いを知ってか知らずか、誰よりも尊敬出来る兄だと信じ。
慕い続けている。
…否。
兄の本当のその想いを知っている筈もない――もし万が一知っていたとしても、理解は出来ない。
その“想い”は孝博の辞書には存在しないから。
可能性を考える事さえ、有り得ない。
ただ、純粋な好意だと。
大切にされているのだと。
そう、信じている。
異常な程深い愛情だと感じたとしても。
それは、私自身が兄に心底愛されているが故の事。
…肉親として――弟として。
わかっている。
決して伝わらぬ事はわかっている。
…ああ、私は。
いつになれば、この狂おしいまでの想いから逃れる事が出来るのでしょうか。
くしゃりと。
握った掌の上には、深い深い血赤の花弁。
腐り落ちる寸前の。
腐臭にも似た甘い甘い馨しさ。
小さくも、決して朽ちない非情なる棘を纏い。
毒を滴らせ、堕ちる、魂。
――これが、私。
高潔なる青い薔薇とは、未来永劫、交わらぬ。
義博は、静かに遠くを見遣る。
その表情は優しげで、穏やかな。
どろどろに渦巻く内面など想像も出来ない、華麗さで。
次第に。
自分の行動がおかしいと気付いたのは――いつ頃だっただろうか。
そう。
普段からしている行動。
けれど。
自分でもおかしいと思う程。
自分の望む行動が。
エスカレートして来ていて。
…だから、何ですか?
死にたければ死ねば良い。
愚かしい貴様はそれが一番だとお思いになっているのでしょう?
どうせ真っ当に生きてはいない。
その手がお嫌いだと言うのなら切り落とせば簡単に済みますよ。
いえ、死なれては後の処理に困りますね。…死んでも迷惑なんですか。どうしようもないですね。
夢の中で。
追い詰める。
生きる価値の無い人間など居ません。
…価値の無いひとりが、貴様ですね。
一緒に頑張っていきましょう。
…どうぞひとりで野垂れ死になさい。貴様に味方する物好きなど存在しませんよ。
普段なら。
この程度の輩、放っておく。
…ほんの時折、我に帰れば何故かと思う。
恐ろしいくらいの攻撃性。
どうあっても曝す事の出来ない、こもる熱。
孝博。
そう。
…孝博の事を考えるたび。
この熱は。
消えない
正常な判断など疾うに鈍っていた。
だからこそ。
あんな事件に――巻き込まれてしまったのだろう。
その事件で。
私は、生を喪いました。
その最期の瞬間ですら。
考えていたのは、孝博の事。
この場に立ち会う事が無くて良かった。
死に瀕した愚かしい私の姿など孝博には見せたくない。
ああ、これも。
新久の家の汚点になるでしょうか。
否。
両親が、隠すでしょうね。
弟には。
私の死、その事自体は隠し切れなくとも。
語られるだろうその経緯は――すべて嘘。
真相は漏らされる事は無い。
新久が動くなら。
そう、孝博には、無難な言い訳しか、知らせられる事は無いだろう。
それで良い。
すべての物が美しいと、信じている弟の為にも。
けれど。
…それでも。
私は。
ただ
■■■
ある日、孝博は両親から唐突に聞かされた。
兄の、死を。
それは。
弟――孝博の世界が壊れた刹那。
兄――義博はそれを知る事もなく。
…自らが、最愛の者に刻む事が出来た――何よりも深く残酷な傷痕を。
後になって私はそれを知りました。
愛しい孝博が、私に、私の死に囚われて、雁字搦めになっている、その事を。
…背筋が、ぞくりとしましたね。
私にしか出来ない。
私だからこそ。
孝博に。
あんな思いをさせられる。
譬えようも無い心持ちでした。
孝博が私の事だけを考えている。
私は――死ぬ事で、最愛の弟を漸く、自分のものに出来たのでしょう…ね。
けれど。
人は時を止めたままでは生きていく事が出来ない。
その為のメカニズムが存在する。
――忘却と言う名の。
優しくも呪わしい装置。
時が経つ。
一年。
二年。
三年。
…七年。
それは、完全に忘れた訳では無い。
けれど。
幾ら嘆いても、その存在だけを見ていても、戻っては来ない。
手の届かない場所に行ってしまった、兄。
時が想いをやんわりと静めて行く。
自分を見守ってくれていた、他の優しさに気付き始める。
兄の死、その事実を孝博は漸く受け入れる事が出来始めていた。
…そして、新たな自分の世界を。
そうです。
私は、もう。
兄は。
もう居ない。
それでも。
私は。
生きるしかない。
囚われていても何も始まらない。
変わらなければならない。
私は。
孝博が漸く、本心からそう思い切れた、決意した、その時に。
残酷過ぎる姿が彼の網膜に焼き付けられた。
七年の間何よりも望み、そして今この時には――何よりも見たくなかったその姿。
…それは義博の想いの顕れ。
忘れられたくない。
ずっと囚われていて欲しい。
拘り続けていて欲しい。
私に。
「…久し振りですね、孝博」
私の居ない世界を構築するなんて、赦さない。
孝博。
…望んでしまう。
それでは孝博が生きる事が出来ない。
構わない。
私と言う致命的な傷痕を、時に癒されてしまうくらいなら。
私と言う重い槌で、いっそすべて砕き散らしてしまいたい。
孝博。
孝博の耳に流れ込んで来たのは、穏やかな快い低音。
誰よりも聞き慣れた。
誰よりも聞く事を望んでいた。
けれど今、そこにあるなどとは有り得ない筈の。
兄の、声。
見開かれる瞳。
そこに在る、何も変わらぬ兄の姿。
目の前に。
微笑んで。
七年も時が経ちながら、何ひとつ変わらない、優しい兄。
語り掛け、そ、と手を差し伸べて来るその姿。
嘘だ。
けれど。
自分が兄を見間違う訳は無い。
孝博の頭の中が真っ白になる。
自らの決意、想い、常識――すべてが一瞬にして消え失せた。
――――――時が、静止する。
【了】
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