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<東京怪談・PCゲームノベル>


蒼穹の羽 2
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「サカキから、身代金要求の連絡があった」
顔を合わせるなり、眉一つ動かさずにチェンが告げる。
「金額は」
「百万ドル。身代金としてはあり得る額だが、我々にはそれだけの金額を大人しく払うつもりはない。……きみたちには、サカキがアクションを起こしてくる前に、少女の身柄を確保してもらいたい」
殆ど表情を動かさずに、チェンはそう言って全員の顔を見渡した。その顔には、今も幽閉されているであろう少女に対する同情や懸念など微塵も見られない。そうあるべく訓練されているのかも知れなかったが、まるで蝋人形のような無表情さだった。
「サカキは、都内のウィークリーマンションの一室を根城にしている」
階数と部屋番号を挙げながら、チェンは地図の白黒コピーをテーブルに滑らせた。赤いマジックで、高見ライオンズマンションの文字を丸で囲ってある。
「私がサカキを誘い出す。きみたちはその隙に少女を救出してもらいたい」
こめかみを指で揉みながら足を組み、取り上げた地図を眺めている太巻を置いて、チェンは立ち上がり
「また連絡する」
言い捨てて部屋を出て行った。
「さて、まあコトのあらすじはそんなところだ」
チェンから渡されたライオンズマンション周辺の地図を手渡しながら、太巻は機嫌よくタバコをくわえた。
この話を持ってきた時には、まったく気乗りしなそうな顔をしていたくせに、今日は妙に機嫌がいい。
「ただな、こんだけの人数がマンションを襲撃するのはいただけねぇ。ここは二手に分かれて、一組は榊の後を尾けてくれ。尾行組は、特殊能力はご法度だ。くれぐれも、サエねェツラした捜査官どのに見つかるんじゃないぜ」


■回想
宇宙飛行士になるのが夢だった。
あの頃の僕らはまだ夢と希望を捨てておらず、突き抜けるような高い蒼穹の下で、いつまでも飽きずに将来を語り合った。
彼は、空を見上げては宇宙と銀河と大気の話ばかりをする。いつしか僕も、空ではなくて宇宙を見る大人になりたいと思うようになっていた。
「じゃあ、僕は宇宙船を開発する設計者になろう」
そう言うと、山裾から朝の日差しが一条差し込むように、彼は満面の笑顔になった。
その時から、僕と彼は同じ夢を見るようになり、僕の夢は彼なくしては立ち行かなくなった。

空すらも紅く染め上げ、森を殺したあのすさまじい劫火の中で、僕が君と代わることが出来たなら――
今頃、君は宇宙から青い惑星を見て、「地球は青い」なんて、得意げに叫ぶことが出来たのだろうか。


――序章――
電話の向こうにいるはずの相手の声は、ひどく遠い。
互いにこれが茶番だということを承知していながら、そのことを口にはしない。
まるで予定調和のように、この状況に相応しいありふれた台詞を述べ立てるだけだ。
「……何が目的だ」
「百万ドル」
「……いつまでも逃げ切れるものではないぞ。サカキ」
かすかな笑い声が闇を震わせた。
「身代金の相場がわからない。安すぎたかな」
そしてぷつりと声が途切れる。
そして、ツーツーと味気のない音が響いてきた。
チェンは顔を上げる。
逆探知をしていたIO2の仲間と目があった。感情などおくびにも出さずに、声が告げる。
「携帯電話です」
居場所は突き止められなかったということか。携帯電話は、今頃、コンビニのゴミ箱にでも捨てられていることだろう。
「……迷うこともあるまい」
新たな声に、チェンは内心、眉を寄せた。あの男の声が人の神経に障るのは、出会った時から変わらない。そこにあるのは自由で賑やかなアメリカの裏の一面で、チェンはそれを忌避していた。
表向きは無表情に、声の主を振り返る。金色の髪を短く刈り込んだ、一見優男然とした男が雨に濡れたレインコートを部下に持たせて、部屋の入り口に立っていた。口元に浮かんだ笑みは冷笑に近い。
「各国の顔色を窺って我々に追従することしかできない日本人に、一体どれだけの価値がある?」
発せられた言葉は英語だったが、台詞には明らかな侮蔑が混じっている。
男のエメラルドグリーンの瞳から、チェンは視線を逸らした。



「一万分の一でも……身代金欲しい……な……」
太巻が出ていった後……しみじみと呟いたのは五降臨時雨(ごこうりん・しぐれ)だった。
言っていることはえげつない。「多分冗談だろう」という希望的観測のもと、彼の言葉は黙殺された。
「さて、どうしたものかしら。太巻さんの話では、二手に分かれろってことらしいけど」
腕を組んで発言したのは、シュライン・エマだ。その視線は太巻の出て行った先を冷たく見つめている硝月倉菜(しょうつき・くらな)を通り過ぎ、内心を窺わせない美貌の総帥……セレスティ・カーニンガムにひっかかって、物思いに沈んでいるケーナズ・ルクセンブルクに留まる。
「っつうかさぁ」
喫茶店の椅子に浅く腰掛けて話を聞いていた倉塚将之(くらつか・まさゆき)が、ノンビリと発言した。
「気になってたんだけど。こないだ、おれたちで……っつーかそこのでっかい人が、鳥を使って榊の居場所を突き止めたわけだろう?」
と、行儀悪く人差し指をピンと立てて、将之は時雨を示す。彼は……最近この店で頻繁に顔を見せるようになった少年に命じられて、割烹着姿で掃除をしていた。タクヤと呼ばれている少年は、店主の前で文句を言えば掃除を押し付けられると分かっているので、悪賢くも人に押し付けるのである。
そんなわけで、時雨の手によって、さっきまで散々に太巻が散らかした落花生の殻は一つ所に集められていた。店はそれでようやく、少しはマシに見える。
「さっきの太巻さんの話だと、チェンは自分で榊の居場所を突き止めた……みたいに聞こえるわよね」
倉菜の口調は、お世辞にも機嫌が良いとは言い難い。将之と同じことに引っ掛かっているので、太巻を責める声にも棘が篭るのだ。大体、育ちのいい倉菜は太巻とは反りが合わないのだ。彼女にしてみれば泥を這ってでも生きていそうなあの男は、全く住む世界が違う。
「指示はいつも太巻さんを介してで、結局わたしたちはチェンと顔合わせだってしてないわけでしょう?何企んでるのかしら」
「さて……IO2に目をつけられている身としては、直接関わらなくていいのは有難いですが」
憤懣やるかたない様子の倉菜をいなして、セレスティは光の殆ど差さない瞳を、黙り込んでいるケーナズに向ける。
「心配事ですか?ケーナズ殿」
「ああ……いや」
呼ばれて我に返ったケーナズは、軽く頭を振って考え込む表情を振り落とした。
「IO2の尾行は、簡単に撒かれてしまったからな。下手に我々が居所を掴んだと言って、特殊能力を疑われても面倒だったのかも知れん」
筋は通っているが、ケーナズの関心はそこにはないようである。再び、彼の瞳には沈思の表情が浮かんだ。
「用心するべきは、IO2だけではないのかもしれないですね」
面白がっているような調子でケーナズを見てから視線を逸らし、セレスティは笑みを漏らした。
集まった一同は、それぞれに思い思いの表情で顔を見合わせる。
「おれは……まあ、太巻さんのことは信じてもいいと思う」
と、口を開いたのは、今まで黙って皆の言葉を聞いていた御影・涼(みかげ・りょう)である。
「人間関係が結構入り乱れてるみたいだけど……今回は俺、太巻さんの側として行動するよ」
「太巻さんもしょうがないわねえ……」
万感含まれた感想を漏らして、シュラインがため息を吐いた。比較的太巻に近しい彼女だが、太巻が疑われているこの状況下で、特に口を挟む気もないらしい。自分で望んで疑われたような太巻の態度なのだから、それも当然であるが。
「まあ、どうでもいいけどさぁ」
自ら指摘しておきながら、将之は大して気にも留めずにゆらりと立ち上がった。
「二手に分かれるんだろ?おれは、坂崎にカリがあるんだ。尾行組に行かせてもらうぜ」
布につつまれた刀で、トン、と肩を叩いてみせる。どこか飄々としたところは相変わらずだが、将之の視線は狼を思わせて鋭い。坂崎に向けた一撃を、難なくあしらわれたことが気に入らないのだ。IO2の注意人物リストに名を連ねている……という事実も、彼を引き止める役には立たない。
「わたしはセレスティさんと救出組にいくわ。坂崎の相手は、ちょっと務まるとも思えないし」
セレスティの脇で倉菜が手を挙げ、同じ理由でシュラインも救出組に加わった。
「じゃ……ボクは……坂崎を殺……」
「キミは」
何か不吉なことを言いかけた殺し屋を、ケーナズがすかさず遮った。
「私と一緒に来るといい。キミはどうやら方向音痴のようだからな。一人で行動しては尾行に差し支えるだろう?」
時雨を一人で行動させると、何をするか知れたものではない。こう見えても彼は殺し屋であり、彼の発想は最終的に「みんな……死ねば、問題も……文句も、なくなる……ね……♪」という一点に帰結する。全ては無に返るかもしれないが、その実あまり物事は解決されていない。
「ざ……んねん」
無垢にすら見える殺し屋はとても悲しそうな顔をしたが、とりあえずケーナズの言葉に頷いて同意した。
どうやら厄介な荷物を抱えてしまったらしい美貌の青年を、一同は同情と哀れみを込めた生暖かい目で見守った。
「あ……と」
「どうした」
「太巻……から伝言。……ボクのこと……よろしく、……って」
「……ほぉう?」
語尾上がりにもなる。根性の悪い紹介屋は、初めからケーナズに彼を押し付ける気だったようである
「そういうことをするから、尊敬を集めないのよね、あの人は」
呆れ果ててぼやいたシュラインの言葉に、そこに居合わせた全員が深く頷いたのだった。



雨足が強くなる気配を察知して倉菜が一足早く帰ってしまった。
釣られたように将之と涼が肩を並べて辞去し、「バイトがあるから……」と時雨が入り口で大刀をひっかけながらも出て行くと、店は途端に静かになった。
「失礼」と言い置いてケーナズが店を出て行ってしまった後は、外に降り続いている雨の音さえ聞き取れるほどだ。残っているのはシュラインとセレスティだけである。
「さて。もう少し、色々と調べる必要がありそうですね」
セレスティの声は、雨のせいで湿った空気の下を滑って、シュラインの注意を引いた。視線を向ければ、相変わらずその瞳は伏せたままだ。気候のせいか、瞼は青白くすら見える。
「裏がある……と思うのは考えすぎかしら」
「確かに、情報はみなどこか不明瞭ですね。太巻氏も……少し様子がいつもと違う。もしかしたら、いいように踊らされているのは、彼も同じかもしれませんね」
「あの人がねぇ」
腕を組んで、シュラインは暗い色をした天井を仰いだ。
「そういうのは嫌いそうだけど」
あるかもしれないけどねぇ、と煮え切らない口調で言って、手持ち無沙汰に皆が置いていった食器を重ねた。雨音に、陶器の触れ合う音が響く。
太巻の性格上、人に使われるのも、操られるのも嫌悪していることは想像に難くない。だが、彼は良くも悪くも大雑把である。シュラインが観察した限りでは、彼は大概のことがどうでもいいのだ。時には、その隙につけこまれることもあるかもしれなかった。
「それに、今日は機嫌良かったんじゃないかしら、太巻さん」
お店から出た後、鼻歌歌ってたわよと、耳の良い彼女ならではの指摘をして、コップの底に残った珈琲の残りからセレスティへと視線を戻す。
冷めてしまった紅茶のカップを、迷いのない手つきでテーブルに戻して、セレスティは微笑んだ。
「彼が今回の依頼を受けた理由を、調べてみるつもりです。……もっとも、調べなくてはいけないことは他にも色々とあるのですが」
正美嬢のこととか……と呟きながら、窓の向こうを眺める仕草をした。冬の薄い日差しは、生憎の雨模様のせいで余計に薄い。それでも、彼には光の在り処が分かるようだった。
「無駄手間になるかもしれませんが、正美嬢の過去を調べてみましょう。それと、彼女と榊の接点も」
「やっぱり、誘拐ではない……と?」
「身代金要求のタイミングといい、IO2の動向といい、不自然ではありますね。それ以上のことは」
現段階では確定できない、ということだろう。少し考えて、シュラインは話題を変えた。
「正美ちゃんのことを調べるなら、もう一つ」
「なんでしょう?」
顔を僅かに動かして、セレスティがこちらに注意を向ける気配がした。視線こそ窓の外を向いたままだったが、僅かな所作だけで、彼は多くのことを人に伝える。
「山岸家が、海外に滞在したことがないかどうか。……1987年頃のカリフォルニア州、とか」
「興味深いですね」
穏やかな笑みが、深くなった。車椅子の麗人は「承知しました」と顎を頷かせ、再び雨の音に耳を済ませた。




■ファイア・スターター
僕もジェフも孤児だった。
ジェフリーの父親はドラッグのディーラーで、母親は当時恐ろしく治安の悪かったベトナムを一隻の小船で逃げ出してきたベトナム人。父親の職業以外はパーフェクトな家族だったと、彼は良く言っていた。
僕の両親はといえば、若者が運転する車に時速100マイルで突っ込まれ、ガードレールと車の間に挟まれて即死した。事故を起こした方は奇跡的に助かって、その事を喜ぶべきなのか怨むべきなのか、僕は未だに分からない。残された僕は遠い親戚の家に引き取られ、学校のカウンセラーから報告を受けた警察が僕を保護しにきてくれるまでは、ガレージに出現したネズミみたいな扱いを受けた。
アメリカではよくある話だ。両親が揃った家のほうが珍しい。
最終的にどんな結果を迎えたにしろ、誰かに引き取られた僕らは、ラッキーな子どもだった。

当時僕らが隔離されていたのは、要するに「超能力者はどれだけ能力を制御できるのか」という試みのためだった。
今にして思えば当時から、IO2は2派に分立していたのだ。特殊な能力を持つ者たちに正しい使い方を指導しようという動きと、間違いが起こる前に、災いの芽は摘んだほうが良いという動きと。
当時は今ほどに過激ではなかった両者の歩み寄りの結果が、あの小さな町の自然ばかりに囲まれた小さな小屋だったのだ。
時の流れはあまりに緩やかで、僕らは永遠に子どものままでいられるんじゃないかと思った。

その生活に黒い影が射したのは、あの男が現れてからだった。
その情景は、いつ思い出しても鮮烈な赤と黒のコントラストで、僕に迫ってくる。
乾燥した小屋は、信じられないくらいよく燃えた。ごうごうと狂ったように燃え盛る火は深い深いタンジェリンオレンジで、僕らがまだみたことのない太陽の炎は、こんな色をしているのかと思った。
迫る火に照らされて黒く家の梁が、柱が浮き上がり、それもやがて火に呑まれていく。
「10年なんてあっという間だ」
清々しく、彼は笑った。顔もからだも煤を被って真っ黒で、彼の体についた痣痕は覆い隠されている。真紅に流れるはずの鮮血までが黒く、一秒ごとにじわじわとその染みを広げていた。
「見ろ!!」
凍り付いている僕を無視して、ジェフはぐいと空を仰いだ。
蒼い空なんてどこからも見えない。ただもうもうと立ち込める黒い煙と、火につつまれた梁が、僕には見えただけだった。
「僕たちは空だって飛べるぞ!」


夢を信じて努力をすれば、僕らは何だって出来る。


――彼は、僕には見えなかった空を見ていた。
大地を震わせる轟音と共に家は崩れ、彼の小さな体を飲み込んだ。




海外出張の記録については……とパラリと探偵が手元の資料を捲る。シュラインとセレスティも、それにつれて手にした報告書に視線を落とした。
「山岸正美の父は、何度かアメリカに訪れてますな。しかしまあ、例のFS事件とは無関係ですね。山岸が海外を訪れているのはあの事件よりも大分後のことで、関連性は認められない……が」
探偵は言葉を切って顔を顰めた。
ぼさぼさの髪にペンを突っ込んで、頭を掻く。粉雪のようにフケが落ちる。眠そうな目の下には濃い隈が浮かんでいて、肌は不健康な色をしていた。
セレスティとテーブルを挟んで差し向かいに、探偵は面白くもなさそうな声でボソボソと報告した。
「ですが、山岸の父親とIO2には、意外な接点がありましたぜ」
「ほう……それは何です?」
今回の誘拐事件に不審を抱いてから、何かしらあるだろうとは思っていた。セレスティは車椅子の上で足を組み替えて、廃れた顔の男を見つめた。
「正美の父親は、IO2日本支部の役員なんですよ。……それも、結構重役だ」
「ほう……」
覚えず、感心した声が漏れた。正美にばかり目を向けていたが、なるほど……そういうつながりか。
「山岸氏が勤める会社は、表向き社会に馴染まない人たちにカウンセリングをする非営利目的の会社って形をとっているが、ようは超能力者による事件・現象の調査をしてンですよ。IO2の東京支部役員名簿の名前にも、山岸のそれがある」
「それじゃあ……正美ちゃんがこの事件に巻き込まれたのは、父親がいたからなのね」
腕を組んで聞いていたシュラインが、確認するように口を開いた。まあそういうことで間違いないんじゃないですかと、眠そうな探偵は答える。
「娘さんについちゃ、調べられる限りのことを調べちゃあみましたが、特に目ぼしいことはない。山岸正美は特殊能力などない普通の高校生です。……まあ、ちょっとばかし、不良っちゃー不良ですがね」
「榊との関係は?何か出なかった?」
「出ませんな。榊が日本を訪れたのは、ごく小さい時に数度、両親に連れられて。以降は数ヶ月前に密入国するまで、一度も日本の土地を踏んでいない。もっとも、また偽名を使われたんなら、網に引っかからなかった可能性はありますがね」



■時空の狭間
外では……まだ雨が降っている。それぞれが止まない雨にうんざりした顔をしながら、報告に耳を傾けていた。
ジェフリー・ラドクリフと榊リョウは、幼少時IO2に身元を引き取られ、能力の成長を見守る形で、保護を受けて暮らしていた。
「特に、危なげなことは行われていなかったようだ。だが……事件は起こった。ジェフリー・ラドクリフの力が暴走し、山火事を引き起こすような巨大な火を巻き起こしたのだ」
淡々と、ケーナズは調べてきたことを全員に報告した。
「これにより、能力者の対応について、意見が2分していたIO2では、能力者は危険と唱える強硬派の立場が俄然強くなったようだ」
「それで……火災のきっかけになったのは?」
学校帰りなのか、教科書の束を小脇に抱えたまま、涼が視線を向けた。ケーナズは軽く首を振り、ため息を吐き出す。
「詳しいことは分からなかった。事件が起こった当時、子どもたちを預かっていたのが、ダイ・チェン。とはいえ、当時のヤツは、ただの世話役のようなものだった。ただ、ダイ・チェンの同期で、同じIO2の職員が一人、時折彼らのもとを訪ねてきていた……ということだが」
ケーナズの視線は、セレスティの元へと向かった。麗人は、膝にかけられたショールの上で指を組んで、頷いてみせる。
「ジョセフ・ウォルフという白人です。超能力者の存在そのものを否定する過激派の一人で、相当な切れ者だったようですね。火災が起こったときにも、彼はその場に居合わせた……可能性がある」
「可能性って?」
木の器に盛られた落花生を割りながら、将之が顔を上げる。
「居たかどうかは、わからないのか?」
「わからないんですよ」
穏やかに、セレスティは頷いた。
「事件の直前、ウォルフ氏がワシントンからカリフォルニアまで、飛んだことは分かっている。しかし、火災の現場に居合わせたかどうかまでは、わかりませんでした。火災が起こった当時、その場に居合わせた人に関しては、記録が一切残されていないのです」
「ますます怪しいわね」
形のいい眉を顰めて、倉菜が苦い顔をした。シュラインも、顎のあたりに指を当てて考え込む仕草をしている。
「その事件の後、チェンはワシントンに呼び戻されて、その年の終わりには昇進した。……これは、実力というよりも寧ろ、FS事件によってチェンの所属する過激派の勢いが強まったせいだろう。ウォルブについては……事件当時、すでにチェンよりも階級は上だったようだが、その後どうなったのかは、分かっていない」
ケーナズが黙ると、外の雨音が強くなった。大地を雨が濡らす音が、穏やかに部屋に立ち込めていく。
「……まー結局」
落花生を口に放り込みながら、将之が言った。
「本当のことなんて、本人に聞いてみなくちゃわかんねえよ。いいじゃねえか、どうだって」
「まあ、確かにね」
「知っていても……ボクには関係……ないし」
涼が苦笑し、時雨も──丁寧に落花生の殻を剥く手を止めて頷いた。
「それじゃあ──」
シュラインが、一同を見回した。
「正美さんの救出作戦と、榊リョウの尾行作戦にうつりますか」




「これが、マンションの見取り図です」
三人乗せてまだ余りある車の後部席で、セレスティは運転席から秘書が差し出した高見ライオンズマンションの青写真を広げた。
よくある間取りのマンションだ。短期滞在を目的にしているためか、多くはワンベッドの小ぶりの間取りになっている。
「榊が潜伏しているのは、ここの12階……ツーベッドのマンションですね」
「侵入するには……エレベーター」
「……と、階段ね」
「階段ね……」
左右から広がった青写真を覗き込んだシュラインと倉菜は、それぞれに歯切れ悪く沈黙した。
階段は、マンションの側面に寄りかかるように取り付けられている。むき出しの鉄のタラップと手すりが、雨に打たれて寒々しく濡れているのを、ここへ来る途中に目の当たりにしたばかりだ。
万全を機するなら、無論エレベーターと階段の両方から侵入するのが常道なのだ、が……。
風が吹いて、ポツポツと雨が車窓を叩いた。
「……雨止まないわねえ」
「そうね……」
例年にない寒波のせいで、外は寒い。寒いのである。
その上霙交じりの雨なんかが降られた日には、誰が好き好んで雨ざらしの階段を上りたがるだろうか。
「階段の方は、私が見張りましょう。お二人には、エレベーターで部屋に向かってください」
二人の姿を飽くまで見やったセレスティが、ようやく微笑んで救いの手を差し伸べた。シュラインと倉菜は、そろって胸を撫で下ろす。
「じゃあ、よろしくお願いします。セレスティさん」
「ご一緒させていただきたいのですが、なにぶん不自由な身の上ですので」
と、穏やかな微笑を苦笑に変えた。何しろセレスティは、榊を追った時に、坂崎に刀を突きつけられているのである。坂崎の血の流れを操作することで防御を試みたのだが、うまくいかなかった。坂崎の肉体は、血の通うそれではないのだと、気づいたのはその時のことである。
「大丈夫です。いざとなったら、力を使えばいいし」
「それでも、お気をつけください」
活発な倉菜をたしなめる表情で、セレスティは首を傾ける。
「IO2に能力を使うところを見られては、都合がよくないですからね」
IO2が敢えて太巻に依頼を持ち込んだのは、芋蔓式に能力者を炙り出すためとも考えられる。セレスティの言葉に、その可能性を思い出して、倉菜は表情を引き締めた。
「はい……」
「では、いきますか」
黒いコートをしっかり着直して、シュラインがドアを開けた。
途端に、冷たい風に混じって雨が吹き込んでくる。
「榊は、幻覚も使うんでしょう?念のために、部屋の上下左右も確認しましょ」
寒そうにコートの襟を立てて、シュラインは風に吹かれた髪を押さえた。
「連絡は、携帯電話で。いつでもサポート出来るよう、控えておりますので」
音もなく開いたパワーウィンドウの向こうで、セレスティが見えない瞳で穏やかに二人を見送った。



マンションに入ってしまうと、雨の音は途端に遠ざかった。マンションの住人のものらしい濡れた足跡だけが、外の天気を知らせている。
十二階のボタンが、薄暗いエレベーター内でオレンジ色の光を発して行き先を告げていた。
携帯のむこうで、雨の音が聞こえている。
「身代金の引渡しに、坂崎を連れて行ったってことは、あちらも用心してるってことよね」
「そうですね。IO2は何をするか、知れたものじゃないし」
「でも、何にせよ人質が居なかったら本末転倒。……人質を放っぽっといて出かけるなんて、なんだか腑に落ちないわねぇ」
『幻術をかけて、人が立ち入らないようにしているので、気を抜いているのかもしれませんよ』
電話の向こうでセレスティが言う。言っている本人がそれを信じているかどうかは、かなり怪しい。
「どちらにせよ、わたしたちは正美さんを無理やりにでも連れ戻すだけですから」
『抵抗するようなら、気絶させてしまったほうが良いかもしれないですね』
「……うーん」
息を吐いて、シュラインはエレベーターの階数を示すランプを仰いだ。ゆるゆると10階を通り過ぎ、11階へと至る。
何か言いかけた言葉は、エレベーターが止まってチンと音を立てたので、口に出ることはなかった。
また後で連絡します、と倉菜がセレスティとの通話を切った。

1213。ドアに取り付けられている部屋番号を確かめて、倉菜はドアをノックした。
ここが榊の部屋ならば、中には正美がいるはずだ。
分厚い扉を、何度か叩いても返事はない。聞こえないのかと、さらに強く叩いてみたが、結果は同じだった。
「あまり気が乗らないけれど……」
無理にでも侵入するか……とドアノブを見つめた倉菜を、シュラインが止めた。
「ちょっと、待って」
言った彼女は、1211とドアに掲げられた部屋をノックしている。
榊が幻覚を使えるのは、報告書にもあったとおりだ。だとしたら、彼女らが目にしている部屋番号は信用できないということだろうか。
「はぁい」と声がして、ドアが薄く開いた。
はっと息を詰めたが、倉菜の予想に反して、ドアの隙間から顔を覗かせたのは人の好さそうな女性だった。
「なんでしょ?」
驚いている倉菜の隣で、シュラインは落ち着き払って女性に笑顔を見せた。
「友達が、このマンションに住んでいるんですけど、部屋番号を忘れちゃって……。1211号室か、1311号室か……このあたりであることは間違いないと思うんですけど」
あらそうなの、みんな似てるからねぇと、彼女は疑う様子もなく首を傾げた。
「なんて方?ウチのお隣は、今は人は住んでいないわよ」
「あ、そうなんですか。……榊といいます」
榊君ねえ……と女性は少し表情を和らげたようだ。
「お行儀のいい人よね。いつも挨拶してくれるの。部屋番号まではわからないけど、一つ上だったんじゃないかしら」
「ありがとうございます」
ドアの隙間からは、夕食の用意をしているのだろう。暖かい匂いが流れてきていた。
扉が閉められ、シュラインは倉菜を促した。
「もう一階上みたいね。行きましょうか」



雨が窓を叩く音が心地よい。まるで時の流れが違う世界に閉じ込められた気分になる。
やはり、榊はマンションに幻覚をしかけていた。数分前に切れた電話で、倉菜がそう言っていた。また何かあったら電話をすると言って通話は切れたが、まだ連絡はない。
(色々と進行しているようですね)
待機している間、時間だけは余るほどにあった。指先を頬に宛てて、セレスティは考えを巡らせる。
シュラインが疑問を示したように、坂崎も榊も、人質が奪回される可能性に関しては無関心だ。それだけ自分の能力に自信を抱いているとも思えない。榊の行動を介して実を結ぶ榊の人物像は、むしろ慎重である。行動の一つ一つが、何かしらの目的を持って為されている気がしてならない。
(買い被りかもしれませんが……ね)
榊の血の流れを操作して彼の自由を奪った時、迷いなく首筋に当てられた刀の冷えた感覚が蘇る。あんな風に脅迫された記憶など、生きてきた何百年を振り返ってもあれきりではないだろうか。
話を聞いた紹介屋は、「ああそう」とどうでも良さげに返事をしただけである。銀髪の少女はそれが不満だったようだが、実際に怪我をしたわけでもない。ただ、彼女に余計な心配をかけないように、セレスティは今回、実働を手控えた。
それはそれで、二人きりで送り出した女性の身の上が心配ではあるのだが……。

電話が鳴った。運転席でハンドルを握っていた秘書が、2コールで受話器を取り上げる。
「御影さんです」
「おや」
てっきり、シュラインと倉菜からの報告かと思っていたセレスティは、手を伸ばして差し出された受話器を受け取った。
「もしもし?」
『セレスティさん、』
駅の構内にいるのか、聞こえてきた涼の頭上では電車のアナウンスが聞こえている。三番線に、電車がまいります―――、
「どうかしましたか」
呆気にとられた涼の声に、セレスティは聞き返した。
『あの……それが、おれたちは榊と坂崎を追っていたんですが』
彼らにはIO2の職員らしき影もついていたらしい。尾行組を買って出た者たちは、IO2に姿を見咎められないように気をつけて行動をしていた。榊と坂崎は帰宅ラッシュで込み合う電車に乗り込んだというのだが。
『その……尾行していたIO2の職員らしき人が、捕まってしまったんです』
「……は?」
誘拐犯が捕まるというのなら話はわかるが。
「何があったんです?」
『いやそれが……あの。……痴漢容疑で』
「は」
『痴漢容疑で、警察に連れて行かれてしまったみたいで』
言葉が聞こえなくて聞き返したわけではないのだが、丁寧に涼は繰り返した。
事の顛末を聞きながら、さてあの紹介屋はどう反応するだろうかと頭をめぐらせた。
……きっと大笑いするだろう。

■シュライン・倉菜
トントン、とノックをする。住民と話をした階から一つ上がった部屋には、たしかに1213と書かれていた。
しばらく待つと、人がドアに近づく気配がする。ドアが薄く開いて、白っぽく脱色した髪の少女が隙間から顔を覗かせた。ドアチェーンがちゃんと掛かっている。感心だ。
「……なに?」
「山岸正美さん?」
ドアは少女の不審そのもののように、それ以上は開かない。少し沈黙してから、彼女は「そーだけど」と返事をかえした。
「あなたを連れ戻しに来たのよ」
相手を安心させるように口調を和らげたシュラインとは対照的に、きっぱりと倉菜が言い切った。顎を引いて眉を顰め、正美は険悪な顔になる。
「はぁァ?何言ってんの。てゆーかあんた誰。勘弁してよね」
ドアが閉じかかる。ガツ、とその動きが止まったのは、倉菜が閉じかけた扉の隙間に足を挟んだからだ。
「ちょっと、何すんだよ!泥棒!!」
「倉菜さん、まずいわよ」
シュラインの止める声は周囲を憚って低いが、パニックに陥って喚き散らす正美の声のせいであまり意味をなしていない。
「あんたたち何の権利があってこんなことすんの。ワケわかんないヤツについてくわけないでしょッ!?」
「誘拐されたことになってるのよ、あなた」
「誘拐しようとしてんのはてめえのほうだよっ!」
「もうっ、聞き分けのない……!」
「倉菜さん……!」
「何だって……!」
言うんだよ、という最後の言葉はブラックホールに吸い込まれるように細くなって途切れた。ずるりと正美の体は力を失い、ドアの向こうに崩れ落ちる。
「正美さん?」
「気を失わせただけだから、大丈夫」
ドアの隙間に手を差し入れて、倉菜はドアチェーンを外した。シュラインは辺りを見回す。まだ住人の多くは仕事から戻っていないのだろう。騒ぎを聞きつけてドアから顔を覗かせる者はいなかった。
「正美さんのあの調子じゃ、説得して連れて帰るのは無理よ」
まだ考え込んでいるシュラインを力づけるように言葉を強めて、倉菜は榊の部屋に滑り込んだ。
「手を、貸してくれますか?正美さんを外に運び出さないと」
気分を変えるために息を吐いて、シュラインは正美を起こそうとしている倉菜に手を貸した。無理に彼女を連れ出しては、反感を買うだけではないかと思ったが、時既に遅し、というやつである。
「目が覚めた時、ちゃんと説明できるといいんだけど」
親の敵でも見るようにこちらを睨みつけた正美の表情を思い出して、シュラインはひそかに息をついた。
部屋は、正美が今まで使っていたらしい毛布と飲みかけのカップが残っている。特に拘束されるでもなく自由に動き回っていたらしい正美の、目を閉じてしまえば幼い顔を見下ろして、シュラインのため息が再び床に落ちた。

シュラインと倉菜が正美を連れて出て来たのに気がついて、運転手はすぐに車を玄関に回してくれた。ぐったりしている正美を後部席に乗せて、雨から逃れるように倉菜とシュラインは車に乗り込む。
「先ほど、御影君から連絡がありましたよ」
相変わらず穏やかな口調で、セレスティが二人に声を掛けた。
涼たちは、榊と坂崎を尾行していたはずである。セレスティの落ち着いた態度を見れば、何か問題が起こったわけではないらしい。
「なんて言ってました?」
「それが、少し興味深いことになりましてね」
セレスティの口元にちらりと微笑とは違う笑みが浮かぶ。
「どうやら、榊を追っていたIO2のメンバーが、痴漢容疑で警察に捕まったようですよ」
「「……はい?」」
見事なまでのタイミングで、二人は声を揃えた。


■墓

枝ばかりを見せる紫陽花が、雨にしっとりと濡れていた。生い茂る常緑樹は、どこにもまんべんなく雨の雫が降りかかり、重くこうべを垂れている。
石畳は黒く濡れて光り、木のトンネルを通って奥へと続いていた。
人がすれ違う程度の広さしかないその道を抜けると、右手に上る苔むした石階段があり、それを上りきると視界が開ける。雨に濡れる板塔婆と墓石が、雨の中で静かに佇む墓地に出るのだ。
連日降り続いた雨のせいで、訪れる者も少ないのだろう。枯れかけた仏花は濡れそぼり、雨の中でくったりとしている。
その中で一つだけ、白い煙を立ち上らせている墓があった。
花は供えていないが、墓石もそのまわりも、枯葉が取り除かれて丁寧に掃除されている。白い煙をのぼらせているのは、半ばまで白くなった線香だった。
雨に濡れるのも構わずにそこで長い間手を合わせていた青年がいたことを、人は誰もしらない。
丁寧に掃除をして線香を供え、初めて訪れたその墓に、青年が何を報告したのか、それは今となっては誰にも分からないことである。
榊家之墓、と刻まれたその墓には、交通事故で死んでしまった、彼の両親の名前も刻まれていた。



■警察
向かい合った警察官はウンザリした顔をしている。ウンザリしたいのはこっちの方だ。
一秒ごとに不機嫌になっていくチェンの神経をさらにささくれ立たせて、警察官はため息をついた。
事情聴取というヤツである。
煩いオカマが「謝ったって許さないワヨ」と言ったので……そしてチェンには「何かあったら謝る」という日本人の感覚にはまったく疎かったので、こんなところまで連れてこられてしまった。
チェンはオカマなどには到底興味がなく、そもそも彼と榊とを隔てる邪魔な物体が、女に扮した男だったことすら気づかなかった。
日本の警察は被害者に優しいのか……ただ単に応対に出た誰もが、オカマの勢いに迫力負けしただけだと思うが……、チェンは榊を見失い、不機嫌の極みで警察と睨み合っている。
「勘弁してくれよなぁもう」
まだ若い警官は疲れたように髪を掻き上げ、はぁ〜っとため息を吐いた。勘弁願いたいのはこちらの方だ。
ガチャリ、と扉が開いた。
警官は身を捩って振り返り、「あっ、ご苦労様です」と背筋を伸ばした。入ってきたのは貫禄もない頭頂部まで禿げ上がった小男である。眼光だけが鋭いのは、刑事の性だろう。
かったるそうに若者に頷いて、すぐに刑事はチェンに目を向けた。
「出て」
「あっ、あのしかし」
「許可は貰ってるから。被害者の方も気が済んだみたいでね。帰したからもう」
困ったように口を挟んだ若者は、その言葉に安心したように「はいっ」と言った。彼にしてみれば、ホモのチカン(非常に不本意だ)の相手をしなくて良いのだから、願ったり叶ったりなのだろう。
チェンが立ち上がったのを見届けて、刑事はさっさと歩き出した。狭いコンパスで歩くので、すぐにチェンは追いついた。
「被害者は一応気が済んだっていってるから」
「……」
「もうこういうことのないようにね」
気のない風に刑事は言って、警察署の玄関口で立ち止まった。
チェンも立ち止まり、自動ドアのすぐ傍に備え付けられた灰皿の前で、悠然とタバコを吹かしている男を見つけて、表情を険しくした。
「迎えきてるから。じゃ、気をつけて帰んなさい」
小柄な刑事は偉そうにタバコを吹かすマフィア然とした男に一度だけ視線を投げて、すぐに奥へ歩いていってしまった。
太巻は、そ知らぬ顔でタバコを吹き上げている。
相手に動く気配が見られないので、ようやくチェンは彼に近づいた。
「よう」
黒いビニール皮のベンチに座ったまま、紹介屋は口元だけでニヤリと笑った。この顔は、何があったかまで聞き知っている顔だ。
「散々だったな」
「……貴様が」
「オタクの組織にほっぽっとかれてるお前に同情して、わざわざこうして手を回してやったんじゃねェか。感謝されても、怨まれる筋合いはないと思うが?」
しゃあしゃあと言ってのける男に、チェンは舌打ちした。
ではやはり、あの男は知っていて自分を放置したのだという事実と……
チェンがその言葉を鵜呑みにしないことを承知していながら、人をからかう態度の悪い紹介屋の両方に。
「貴様が仕組んだんじゃないのか」
受付にいる婦警から見えないように身体の位置を移動させて、太巻の胸倉を掴む。そんな事態には慣れきっているであろう男は、案の定薄笑いを浮かべてチェンの怒りに油を注いだだけだった。
「おれが。何を?」
襟首を掴んだ拳に、思わず力が篭った。相手がやり返さないのは、それが得策だと知っているからだ。チェンは、警察でこれ以上騒ぎを起こすわけにはいかない。
「何を企んでいる。……太巻」
怒りと一緒に声まで噛み殺して、低くチェンは問いかけた。恍けて、太巻は片頬を歪めて煙を吐き出す。
「お前ェはよ」
「……」
「人質まで取っておれを脅しておきながら、まだ不安かよ」
ゆっくりと上がった男の手がチェンのそれを掴み、ゆっくりとチェンの手は太巻の服から引き剥がされた。
怒りに立ち尽くしているチェンの前で、太巻はゆらりと立ち上がる。
「青二才め」
口の端に短くなったタバコを咥えて、太巻はチェンに背を向けた。
「待て」
振り返らないで歩いていく。センサー仕掛けの自動ドアが開いて、風に任せて雨がパラパラと吹き込んだ。
返事がないまま、またドアが閉まり、雨の中に男の広い背中が紛れていく。



■―――
『あんなに笑ったのは、久しぶりだよ』
言葉どおり、青年の口調は以前よりも柔らかかった。
そりゃあ良かったと返事を返して、肺の奥まで溜め込んだ紫煙をゆらりと車内に吐き出す。車の中が白く煙った。
「気は済まねェのか」
言いながら、それこそ気のない台詞だと思う。電話の向こうで相手も笑ったようだった。
『ずっと前から、もう気持ちの問題じゃなくなってるんだ。多分』
そうだろうなと、車を煙で満たしながら、彼も思う。ダッシュボードに足を掛けると、跳ねた泥がつま先についているのが目立った。
『僕らが住んでいる社会は、僕らに前向きな気持ちを抱かせない。この社会が僕らに教える幸せも、幸福の定義も、本当は間違っているんだってことに、みんな中々気づかない。その価値観をはねつけられるほどに強くなくちゃダメなんだ。幸福は、自分の手で見つけるものだよ。……多くの人間はそれが出来ないんだ。そういう人は、僕よりもずっと不幸だと思う』
「キレイゴトばっかり並べやがって」
『後悔してないってことを言いたかったんだ』
してないのなんて、声を聞けば分かる。
「おれはお前が、他の道を歩んでいたらと、ちょっとは本気で思うぜ」
『……同情してんの?』
雨の向こうで男が苦笑した。
「しねェよ」
雨の音が煩い。面倒くさくなって、再びタバコの先端を紅く染めた。
車には、紫煙ばかりが増えていく。


■―――
シュラインと倉菜の手によって気絶させられ、榊のマンションから運び出された正美は、一旦セレスティの屋敷へと連れていかれた。太巻に連絡を取ろうにも彼の携帯は繋がらず、IO2に至っては連絡先すら知らない。
セレスティの屋敷の客室で手厚いもてなしを受けた正美は、素直に出された食事を摂り、シャワーも浴びた。普段着のまま連れ出してしまったので、倉菜が気を使って、洋服を買ってきた。
相変わらず無理に連れ出した事を怒っているのか、誰とも口を利かなかったが、正美は比較的落ち着いているようである。

……と思っていたその夜に、正美はセレスティの屋敷を脱走した。
部屋は庭を見渡せる一階にあったとはいうものの、それはもう見事としか言いようがないほど忽然と姿を消した。
始めから、正美は自分を無理やり「誘拐」した変な女子高生やお金持ちそうな美形の男など、信用してはいなかったのだ。服を素直に受け取ったのも、食事を摂ったのも、つまりはこの脱走を見越してのことだったのである。
やっと連絡が付いた太巻は、正美の救出と脱走の話を、「あっそう」の一言で片付けた。
これが雇用主だったら、確実に社員の顰蹙を買うところである。
「女の子が真夜中に街中を歩いているのよ」
とシュラインが電話口で叱りつけると、渋々というように言葉を付け足した。
「あのガキが行くところは分かってんだし……あとは奴らが勝手に見つけるだろ」
と。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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・1883:セレスティ・カーニンガム
・1481:ケーナズ・ルクセンブルク
・0086:シュライン・エマ
・2194:硝月・倉菜
・1555:倉塚・将之
・1831:御影・涼
・1564:五降臨・時雨
・1588:ウィン・ルクセンブルク

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NPC
・太巻大介:相変わらずろくでなし。
・榊・リョウ:悪霊使いで幻術使い。
・坂崎惣介:数百年前に非業の死を遂げた剣豪。渋谷透の父親。
・ダイ・チェン:チャイニーズアメリカン。今回ちょっと不幸。
・ジョセフ・ウォルフ:過去にチェンとともに榊と関わりがあったらしい。

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■         ライター通信          ■
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こんにちは〜〜。いつもお世話になっております。
そしてお待たせしてすいません〜!!!
いつまで待たせるんじゃい!と痛いツッコミを自ら入れながら、お届けさせていただきます。
ようやく三部目です。何故ここまで手間取ったのか…(すいません)
そして余計にすいませんな感じで、身の回りが忙しくなるため、微妙に……この話の続きがいつ書けるのか、わからな……(撲殺)
本当ならもう少し早いペースで執筆をして、忙しくなるまでに話を終える予定だったのですが(土下座)。
時間を見て、スケジュールを騙し騙し、シリーズはきちんと終わらせる所存です。
長い目で……見てやっていただけると幸いです……(這い蹲る)
短編などは、ちらりと空いた時間を見て、こそこそ窓を空けるつもりではいるのですが。

セレスティさん……三部の段階で、危険な目に遭ったのはセレスティさんだけでした(愕然と)
ある意味チェンも危険な目にあってますが。オカマちゃん相手に。あれはノーカウントの方向で。
太巻の依頼に危険はつきものという事で、あまり気にせず(お前が言うな)好きに動いてやってください!

いろいろとお世話になっています。
息子に誤解される父とか、なんだかそういう話題も楽しいです。ふっふっふ。
今後も、どこかで見かけたら構ってやってください。
どうもありがとうございました!

在原飛鳥