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<東京怪談ノベル(シングル)>


またいつか

 気ままな旅が好きだ。
 時間に囚われず、仕事に追われず、思い付いたときに足を運び、気が向いたときにふらりと帰る。
 いちいち規則正しいツアーの旅行にも、もちろん、楽しさはある。見知らぬ他人との、奇妙な連帯感。一時だけと知ってはいても、同じホテルで、狭いバス中で、親しげに会話する。あの仲間意識は何なのだろう?
 だけど、それにも増して、何にも縛られない一人旅は、やはり良い。
 急ぎもしないから、ゆったりと、普通列車の不便さをも味わう。
 名も聞いたこともない、小さな無人駅。遠くに手付かずの自然が見える。どこで降りようかと考えるのも、また一興。いずれは、必ず、待っていた景色に出会えるものだから。
 槻島綾(つきしまあや)は、もう長いこと、そうやって、自分だけの風景を探し当ててきた。
 決して有名ではない仏閣。間引きされない原生林。人が見向きもしない遺跡の中にこそ、「本物」を感じる。
 今回も、「本物」を旅先で見つけてきた。古い石造りの城跡だった。土地の人々が、大切に、守っていた。国の遺物の指定は、受ける気がないという。その価値も知らない上辺だけの旅行者に、踏み荒らされてはかなわない。彼らは頑なにそう言っていた。
「もうそろそろ帰るかな……」
 長居をしすぎて、知人友人たちに、捜索願でも出されてはたまらない。
 綾は一つ苦笑して、座席の背にもたれかかる。列車の振動の心地よさに半ばウトウトしながらも、ふと窓の外を眺めやったとき、気になる文字を、駅の看板に見つけた。

「きりゅう」

 どういう漢字を充てるのだろう? やはり「桐生」か。
 わずかな興味の赴くままに、綾は、少ない荷物を担いで慌ててホームに飛び降りる。
 駅は完全に無人だった。切符を入れる箱すら無い。地図を確かめてみたが、そんな駅名は載っていなかった。
「それにしても、寒いな……」
 コートの襟を掻き合わせても、冬の寒気が容赦なく染み込んでくる。
 雪深い山道を、一つ、一つ、綾は慎重に歩いた。
 長いのか、短いのか、それすらもわからない不思議な数時間の徒歩の後、唐突に、眼下の崖下に、村の景色が広がった。
 何かの祭りの最中なのだろう。小さな里の人間全員が、表に出ていた。
 唄が……聞こえた。

「冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉つをば 取りてそ偲ふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし」

 これは良い所に来たな、と、綾は、思わず口元を綻ばせる。
 名も知らぬ小さな里の、名も知らぬ小さな祭り。目まぐるしく移り変わる外界にも一切の影響を受けぬ人々が伝えてきた、古来よりの伝統文化。
 この唄だけでも、十分に聞き応えがある。それに、舞!
 彼らは本当に人間だろうか?
 ほんのりと燐光を発する太刀を携えて、艶やかに魅せる、二人の舞師。冬が逃げて、春と秋の大気が辺りを包む。あれほど寒かった北風が、暖気を孕んで南より吹き、今は素直に心地良かった。
 コートを着ているのも馬鹿馬鹿しくなって、綾は外套を脱ぎ捨てた。雪深い地面は既に無く、土の香が薫る低い崖上の特等席に、腰掛ける。
 視界は良好。
 全ての景色が、一望できた。
「里の祭りは、いかがですかな?」
 振り返ると、村人と思われる老人が立っていた。
「素晴らしいです。この場に居合わせることの出来た自らの幸運に、心から感謝しているところです」
「これも、鬼と龍の神のお引き合わせにございましょう」
 老人の言葉に、はっとする。
 きりゅうの文字。そうか。ここは、鬼龍の里か。鬼と龍の住まう郷。
「ここは特等席ですなぁ」
 老人が、嬉しそうに目を細める。
「わしは、この鬼龍で生まれ、この鬼龍で育ちましたが、こんな場所があるとは、ついぞ知りませんでした」
 涼しい風の吹き抜ける、低い崖の上の特等席。深い木々の緑が、何故か、ここだけ切り取ったように丸く穴を開けている。遮る物は何も無い。無音のまま太刀を振るう二人の舞師も、それを固唾を呑んで見守る観客たちも、全てが一様に見渡せた。
 ほんの少し遠いのが、玉に瑕。
 荷物の中から双眼鏡を取り出して、時々、思い出したように覗き込む。
「わしも、もう少し目が良ければ、ここで毎年見守るのですが」
 少し悔しげな老人に、綾が、どうぞ、と、双眼鏡を差し出す。老人は、ひどく驚いた顔をした。
「これは希有な。景色が、目の前にあるように、大きく見えます」
「これがあれば、多少の視力の悪さは、気にならないでしょう?」
「しかし、それでは、貴方が」
「僕には眼鏡がありますから」
 上着の胸ポケットに突っ込んでおいた眼鏡を、取り出した。最近、少し近眼気味で、持ち歩くようになっていたのだ。
 眼鏡を付けると、元々線の細い文学青年様の風情に磨きがかかり、友人たちにからかわれてしまうので、普段は掛けないようにしているのだが……幸い、ここには、それをいちいち指摘してくる人間もいない。
 旅先に、一人。
 道端に咲いている小さな草花のように、しがらみに囚われない。誰も、うるさく、口を挟んでくることもない。
「旅で出会った人は、僕を、僕として、見てくれるから……」
 だから、旅が好きなのかも知れないと、考える。
 自分が自分へと還る場所。
 日常から離れ、何かが少しずつ変わる瞬間。
 日々の暮らしが、決して嫌いなわけではない。そこで必要とされているのを知っているから、一日を大切に過ごすことが出来る。

「でも、今だけは……」

 今日で終わる。
 この祭りを見終わったら、急いで列車に戻らなければ。
 明日には東京に帰る。旅行雑誌の執筆途中のエッセイを書き上げ、友人たちに手土産の一つも渡してやろう。次の仕事の打ち合わせもしなければならない。
 そういえば、某オカルト雑誌の編集長から、短編を書いてみないかと、誘いも受けていた。まだ返事をしていない。向こうは、きっと、キリキリしながら待っていることだろう……。
「もう、行かないと」
 祭りは、まだ、続いている。
 綾は立ち上がった。隣にいた老人が、名残惜しそうに、目を細めた。
「皆まで見ては行かないのですか」
「全部を見てしまったら、何だか、かえって、勿体ないような気がします」
「また、ここに、来られますか」
「来られたら、いいですね」
 確かな約束は、しない。
 旅先での出会いは、まるで幻のように儚いものと知っているから。
「お引き留めするのも、野暮なことなのでしょうなぁ……」
 視力の悪い老人のために、双眼鏡を、置いてきた。その代わりに、村で採れるという原石を、一つ、二つ、手に入れた。
 名も知らぬ旅人と、村人の、ささやかな交流。
 頭の片隅に刻まれる、小さな記憶。
 原石を見るたびに、きっと、幾度となく、思い出すことになるのだろう。

「さようなら」

 音楽が、遠くで鳴っている。
 まだ止まない。
「今回の旅は、終わりかな」
 また、いつか、時間を見つけて、出かけて行くことになる。
 生きている限り、未知の土地への期待感が、消えて無くなることはない。
 一生涯、何処かを彷徨い続けても、満足することは出来ないのだろう。
 旅は、彼の生活の一部分なのだ。
「また、いつか……」
 磨かれる前の、自然の貴石に、あてにならない誓いを立てる。
「また、いつか、お会いしましょう」
 負担にならない、約束。
 旅をする毎に、増えて行く。

「だから、また、行きたいと思うのかな」

 降り積もる。一つ一つの、記憶の欠片。
 何かが残る。足を運んだ異郷の数を遙かに上回る、無限に近い、様々な思い出。

 いつか、また……。