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あの場所で待ってる
「……ああ、今日もよく働いたぜ、全く」
規則的に揺れる電車がホームに到着すると、藍原和馬は大きな欠伸と共にうんと大きく両腕を上げて伸びをし、そこに降り立った。
夜通しのアルバイトは不摂生以外のなにものでもない。
ましてソレが、世界の理から外れたものならばなおさらだ。3日間フルで活動すればさすがに体力も尽きてくる。
しなやかさを残す長身の体躯を包む黒のスーツも、連日のアルバイトで少々よれていた。
今日はこのまま自宅に戻って、あとはひたすら寝倒すつもりだった。
12時間後に起床後、今度は3日ぶりにオンラインゲームへ参入し、相棒とレベルを上げるのである。
「おばちゃん、これもらうね」
習慣で駅の売店から新聞をひとつ買うと、その足で駅に程近い小さな公園のベンチを目指す。
指定席となりつつあるそこに腰掛けると、気怠げにばさりと新聞を広げた。
どの新聞を読むかは決めていないが、それを広げる場所は『この場所』と決めている。これはちょっとしたお遊びめいたこだわりである。
「さてと」
少々寝不足のために太陽がしみる目で、TV欄から順に情報を拾い始める和馬。
相変わらず、世間は殺伐とした事件に溢れている。
犯罪履歴のような社会面の次は、情報や広告となり、そして地域の話題へと移っていく。
「………ん?」
それまで規則的に文字を追っていた和馬の黒い瞳が、ある箇所で不意に止まる。
「……………これは……」
ライフワークというよりは、既に中毒に近いオンラインゲームを3日も我慢したのだ。
今日は全ての仕事をオフにして、徹夜で遊び倒そうと思っていた。
だが、
「見つけちまったしな……しょうがねぇよな」
誰にでもない、自分に言い聞かせるように小さくこぼす。
あの子のことを、思い出してしまった自分。
和馬は自分の行動を変えた新聞を近くのくずかごに投げ入れると、その足でふらりと降りたばかりの駅に向かった。
――――――またね……また来てね、お兄ちゃん………
「どんくらい、前だっけか……」
時を数える行為をやめて久しい和馬には、去年のことも数十年前のことも、そして数百年前のことすら平面的にしか捉えられない。
特別なことのあった瞬間を刻んでも、その記憶を時系列に並べておくことはもう出来ないのだ。
――――――ずっとずっと探してるんだけど、見つからないの。
――――――………帰れないの。ね、お兄ちゃんは見なかった?
「………ああ、なんだ。本当にここであってたんだ。さすがだな、俺」
いくつかの電車を乗り継げば、やがて景色もひしめくビル群から、どこか古ぼけ寂れた道が延々と続く町並みに変わる。
視覚と嗅覚が記憶するおぼろげな感覚だけを頼りに辿り着いた和馬が見上げているのは、いまや全ての機能を停止した古いデパートだった。
解体作業を知らせる囲いや看板、張り紙といったもの以外何もない、がらんとして空虚なコンクリートの匣。もしくは『塔』だろうか。
覗き込めば、灰色の瓦礫が、積もったホコリや割れたガラスと共に、床を侵食しているのが分かる。
次々と、まるで古い映画のフィルムを空間に投影するかのように、流れ去っていったあの時間が展開されていく。
ヒトの世は目まぐるしく移り変わっていく。
ある時間までは思い描くことすらなかったコンクリートの塔もまた、流れを図るもののひとつであり、和馬の興味を充分に惹くものだった。
記憶をなぞるように、和馬は荒れ果てたデパート内を地下に向かって進んでいく。
賑わいを見せていたかつてのデパートの姿を思い描ける自分は、あの頃とまるで変わらない。
キラキラと乱反射を繰り返す無数の照明。
ガラス張りのフロアと、ふき抜けの高い天井。
ヒトとモノが溢れていた、機能よりもデザインを重視したキレイな箱の中。
30年前の和馬も、やはり今と同じように、こうして奔流に身を置くものたちを流れの外から興味深げに眺めていた。
だから、あの時も『社会勉強』と銘打って清掃員のアルバイトとしてデパートに潜り込み、客ならばけして入り込むことの出来ない隅々までを観察して回っていたのだ。
あの少女と出会ったのは、そんな時だった。
―――――あのね、お兄ちゃん……
「あのね、お兄ちゃん。あたしね、じつは迷子なの」
「は?」
従業員しか立ち入りを許可されていない『スタッフONLY』の表示がなされた長い渡り廊下。そのど真ん中で、唐突に和馬は1人の少女にズボンの裾を引っ張られた。
ありえない出来事に、思わず間の抜けた声を上げる和馬には構わず、彼女はなおも問いを重ねる。
「ずっとずっと探してるんだけど、見つからないの。お兄ちゃん、どこにあるか知らない?」
死角となっている脇をすり抜けて、彼女が自分の前に回りこむと、視界の端でその動きに合わせて白いワンピースと、植物を連想させる緑の髪がふわりと広がるのが見えた。
「そうしないと帰れないの。ね、お兄ちゃんは見なかった?」
髪が肩からさらりと落ちて揺れる。
自分の腰ぐらいしかない彼女は、和馬にはまったくもって不透明な内容を繰り返す。
「嬢ちゃん、悪いが、もう少し分かるように話してくれ」
とりあえず視線を合わせるようにしゃがみ込み、ぽんっと軽く頭に手を乗せる。
「嬢ちゃんの探し物はどんなものだ?」
「ええと……どんなもの……どんな……?」
言葉が見つけられないのか、彼女は指を口元に添えて必死になって考え込む。
落し物なら総合案内あたりに問合せた方がいいし、迷子なら『迷子センター』に行くべきだ。
自分は単なる清掃員なのだから。
だが、それは言わない。
どこから入り込んで来たのか、それも聞かない。
この長い廊下の真ん中で和馬を驚かせる出現の出来た彼女に、それを聞くのは『愚問』だと分かっているから。
「あのね、探してるものを言ったら、お兄ちゃん、いやだなって思ったりしない?」
「モノによるな。でもまあ、話してみろって」
彼女の頭に手を乗せたまま眼を凝らすと、ぼんやりとだがその子の探しているものが何か見えてくる。
「ほんと?あのね、あたしが探してるのはね」
まるでナイショ話を打ち明けるように、彼女は和馬の耳に口を寄せて囁いた。
言葉に重なる映像は、暗い暗い闇の色。
組み立てられた小さな匣が彼女の帰るべき場所。
「………なるほど。じゃあ、まあ俺と一緒に行くか?多分、そんな時間を掛けずに見つけられると思うんだが」
掃除用具のモップを右手に持ち、彼女の小さな手を左手で握ると、和馬はとりあえず自分の感覚に従って階段へと向かった。
沈み込んでいた少女の顔に、ふわりと一瞬笑みが浮かぶが、それはすぐに気遣わしげな表情に変わる。
「あ。あのね。お兄ちゃん、お仕事、いいの?あたしと一緒に行っても平気?」
「ん?ああ、そうだな。サボるのはよくないか。というわけで、だ。嬢ちゃんといっしょに行っても叱られないようにちょこっと小技を披露しよう」
にっと口元を歪め、和馬は自分の髪を一本引き抜くと、軽く眼を閉じてそこに呪を込める。
ふわりと燐光が手の中からこぼれる。
そうして一瞬のうちに出来上がったのは、和馬と全く同じ姿形をした一体の人形だった。
「これで完了。後はこれに任せていこうぜ?」
掃除用具をソレに押し付けると、不思議そうにその造型を見上げる少女にもう一度笑って、和馬はまた手を繋ぐ。
「お兄ちゃん、すごいね」
「他にもすごいこと出来るんだぜ?」
得意げに胸を張って見せる自分に、彼女ははじめて純粋な笑顔を弾けさせた。
アルバイトの青年と迷子の少女は、コンクリートの大きな箱の中を、2人きりで手を繋いで歩き出した。
彼女の探し物はそれほど難解ではなさそうだった。
階段を降りる。いくつもいくつも、ぐるぐると。
足音ががらんとした冷たい世界に反響する。
和馬の研ぎ澄まされた嗅覚を刺激し、進むべき道を示すのは、人間たちが纏う『生』の中に紛れ込んだ、ただひとつの『違和感』だった。
アルバイトを始めて2ヶ月。
ずっと気になっていたその正体をようやく突き止めることが出来る。
「お兄ちゃん、うれしそうだね。あたしと一緒に探すの、めんどくさくないの?」
「俺は自分が興味のないことはしない主義だ。その辺心配すんな」
「お兄ちゃんだけだよ。あたしのお願い聞いてくれたの」
「他にも声掛けてみたのか?」
「うん。でも、無視されちゃった」
「………随分と長く迷子をやってんだな」
「うん」
「疲れるだろ?」
「………うん、ちょっとだけ」
和馬に関して言えば、予感は常に確信に成り代わるためにあるのだ。
照明の光量がだんだんと弱くなり、異質さがその存在を強く主張し始める頃、2人はコンクリート製の塔の最下層にようやく辿り着いた。
『関係者以外立ち入り禁止』
そんな表示が黒と黄色の警告テープと共にあちらこちらに張り出されている冷たい通路を、2人は誰にも見咎められることなく進んでいく。
反響するはずの足音は、どこかに吸い込まれてしまったかのように聞こえない。
「お兄ちゃん?」
「探し物はここだな」
ずっと感じていた違和感。
それは、ヒトの世界には既に馴染まなくなって久しい『清浄すぎる空気』だった。
「………お兄ちゃん……どうしよう……」
踏み込もうとした和馬の手を、少女はぎゅっと握って引き止めた。
かすかに伝わる震え。
「入れない。せっかく見つけてくれたのに……」
困ったように、戸惑うように、彼女は見上げる。
ちりちりとかすかに肌を刺激するこの感覚は、清浄な存在を弾く穢れだ。
「任せとけ。他にもすごいこと出来るって言ったろ?」
安心させるように笑いかけると、少女を自分の背中に庇うようにして扉の前に立ち、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
空気が変動する。
次の瞬間、振り上げられた和馬の腕はヒトではなく体毛に覆われた獣のそれだった。
獰猛な爪が、あらゆるものを一瞬にして薙ぎ払う。
「あ…っ…」
愕然とした声が、少女の口から小さく洩れた。
開かれた扉の向こう側。暗い暗い闇の向こう。
僅かな光を頼りに踏み込めば、ダンボールなどが大量に積み上げられた倉庫の一番隅に、半壊した桐の匣と、それを祀る為の30センチ四方の小さな社が無造作に投げ出されていた。
「………あたしの……」
ほとりと瞳からこぼれ落ちる雫。
忘れ去られた彼女の神性。
奪われてしまった彼女の居場所。
御神木という言葉も、御神体という存在も、ソレが持つ本来の意味や慣わしを忘れて、ヒトはこの社と同じように、過去の遺物として置き去りにしていくのだろう。
年月と共に薄れていく意識。
このデパートを建設する際に追いやられてから、そのまま顧みられることのなかった存在。
人間がもたらした無知ゆえの偶然が、彼女をこの白い匣から弾き出し、彷徨わせてしまったのだ。
このままでは彼女は帰れない。
「心配すんな」
ただただ深い哀しみと共に無言のまま立ち尽くす緑の髪の少女に、和馬は笑いかける。
「いますぐ、寝心地のいいベッドを作ってやるから」
印を結び、呪を口にしたのは、彼女の時間を護ってやりたいと純粋に思ってしまったから。
たとえどれほど壊れてしまおうと、そこに僅かでもチカラが残っているのなら再生は可能だ。
この両手には、それを為しえるチカラがある。
「あ」
彼女が本当は何者で、かつてどんな意味を持ってここに掲げられていたのか、過去を見る能力のない自分には分からない。
だが、それでも、彼女が望むなら、たまにはこんなふうに手を差し伸べるのも悪くない経験だ。
「………帰れるのね、あたし…ようやく、帰れるんだ………」
かつての姿を取り戻し始めた社を前に、少女は安堵に似た呟きを洩らす。
ほのかな笑みにほころぶ口元。
ヒトの形を真似たその姿がゆっくりと薄れていく。
「嬢ちゃん」
消えゆく少女の姿を追いかけるように、和馬はそっと声を投げかける。
「また、何かご用命がありましたらいつでもどうぞ?」
――――――またね……また来てね、お兄ちゃん…………
――――――あたし、ここで待ってるから……
完全なる眠りにつく瞬間、彼女は振り返って、花がほころぶようにふわりと笑った。
――――――お兄ちゃん…ありがとう……
「………またねって言ったくれたのにな……」
ニンゲンの世界には面白いことが多すぎる。
気がつけば、あっという間に月日は流れてしまっていた。
ぱきん――――――
不意に、ガラスの割れる音が鳴る。
普通の人間ならば聞き取ることの出来ない可聴域ギリギリの微かなその物音を、和馬の鋭敏な聴覚は拾い上げていた。
振り返る。
「よお、やっぱり居たんだな」
「うん」
あの時と寸分違わぬ姿で、彼女はにっこりと笑って頷いた。
真冬の冷たい空気にさらされて、白いワンピースの裾が揺れる。
「あの時はありがとう、お兄ちゃん」
「これからどうするんだ?ここは取り壊されるんだろ?」
彼女には行く場所などないはずだ。
彼女の安寧を約束してくれる場所は、ここにしかないのだから。
「どうしようね?」
首を傾げて問い返す。
困ってはいるのだろうが、その表情に悲観的な色は窺えない。
ただ、しかたがないという諦めにも似た感覚だけがほんのわずか垣間見れるだけだ。
和馬はぐるりと思考をめぐらせる。
「………希望とかあるか?」
「希望?」
きょとんとした顔で和馬を見上げる彼女のために、膝を折って、あの時と同じようにしゃがみ込む。
視線を合わせ、ぽんと頭に手を置いた。
「今度は迷子の家探しじゃなくて、引越しを手伝ってやるって話だ」
少女の満面の笑みが弾けた。
*
今日、ネットの海で相棒に会ったらこの話をしよう。
3日間の出来事を、その最後に出会った少女の話をしよう。
彼女はなんと言うだろうか。
その反応を愉しげに思い描きながら、和馬は大幅に狂った予定を立て直すべく、足早に駅へ向かった。
END
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