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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


気の早い春

 先日降った雪も、今日のうららかさに殆どが溶けてしまい、後は日陰や道の端に僅かに残っているだけだ。日差し自体は暖かくとも、空気そのものはやはり冬のもの、時折吹く風が冷たく感じられる時があって、思わず茉莉奈はぎゅっと目を閉じて首を竦めた。
 「茉莉奈、無理しちゃダメだぞ。寒いのならちゃんと言わないと」
 隣を歩く、小柄な姪っこを見下ろして桐生が言う。隣を歩く、長身の叔父を見上げて、茉莉奈はにこりと微笑み返した。
 「大丈夫よ、叔父さん。寒いかも、と思っていっぱい着てきたもの。それに…ほら」
 そう言って茉莉奈が悪戯っけな笑みを浮かべる。ピンクの可愛いコートの、大きな包みボタンを数個外して少し前を肌蹴ると、そこからひょこりと黒猫のマールが顔を出した。その様子に、思わず桐生は吹き出してしまう。
 「そうか、生きたカイロ持参か」
 桐生の言葉に答えるよう、顔だけ出した生きたカイロがにゃあと一声鳴いた。

 たった三年と言うべきか、もう三年と言うべきか。この高台にある墓地を訪れるのは、もう何度目になるだろう。この丘からは二人が住んだ街が一望でき、ここなら妻も退屈ではないだろうと言う事で、ここに彼女を葬った。こんな天気のいい日は、丘の茶色(春や夏なら緑色なのだが)と空の青、街並みの薄灰色が綺麗なコントラストを作っていて、この美しい風景を眺めているだけで、自然と心が和むような気がする。
 「だが、和むのはあくまで私達が今生きているからであって、既にこの世の人でない彼女はどう思ってるかは分からない。もしかしたら、この美しい世界を見て、何故自分が今生きていないのかを悲しみ、悔やんでいるかもしれない」
 特に、妻のように、全く思い掛けない事故で、その若い命を散らしてしまったような場合は。

 世の中には、己の死の瞬間を前もって理解し、それを受け入れて死していく人もいるだろう。桐生や茉莉奈にはそう言った能力はないが、普通の人には無い魔法と言う力がある。それ故に、ある程度のこの世の不可思議は認めて受け入れ、消化する事が出来るが、桐生の妻はあくまでも普通の女性だった。ただ、普通の女性よりは幾分かバイタリティーがあり、夫に向ける愛情がひたむきで深かったかもしれないが。
 「大体、海のものとも山のものとも予想がつかない、将来が不透明な研究職の男と結婚するってだけでも凄いだろうに、そのうえ私達は学生結婚だったからな。研究職と言っても、私がどこかの研究所にでも勤めているような男ならともかく、博士課程に進んだばかりの、学生に毛も生えてないような身分の男だったし…」
 「でも今は教授でしょ?助教授になったのだって、同期の中では一番早かったって聞いたわ」
 そう言って自分を見上げてくる姪っ子に、桐生はくすりと小さく笑って立てた人差し指を振った。
 「それは結果論だろ?あの当時、私には、本当に助教授になれると言う保証は全く無かったんだよ。ま、ある意味ギャンブル、或いは先の見えなさ過ぎる投資みたいなもんだったのさ」
 「じゃあきっと、叔母さんは凄く勝負強い人だったのよ」
 実にあっさりと、自信を持ってそう頷く茉莉奈に、桐生はただ口元で笑うだけだ。こんな姪っ子の言葉を、女の勘と取るべきか、はたまた若さ故の無知、或いは勢いと取るべきか。実際の所、結果としては前者なのだろうが、今から思えば、例え運命はそう言う風に流れる予定では無かったとしても、強い意志、そして思い遣りと思い込みがあれば、決められた流れを捻じ曲げてでも、何でも思った通りに事は運ぶのではないか、と思える時もあるのだ。

 そして彼女には、普通の人にはない、そんな力が備わっていたのかと思う時も。

 自分が今まで、好きな研究に身を窶し、助教授になった後も、閉じ篭りっぱなりの研究者と違ってフィールドワークをメインとする桐生は、常に世界中を飛び回る生活を続けてこれたのは、ひとえに、そんな彼を暖かく見守り、支えてくれた妻のお陰に他ならない。しかも彼女は、単なる『待つ女』ではなく、その間に自分の好きな事を職業に出来るだけの努力や勉強を惜しまず、一人の自立した人間としても成長を続けていた。そこが、単なる内助の功ではない、と桐生の自慢する点でもあった。

 「ね、叔父さん。このお花、綺麗ね」
 茉莉奈が、隣で叔父が抱える、色とりどりの花束の中にある、ひとつの小さな花を指で軽く突付いた。星の形をして薄青紫のその花は、妻が特に好きだったものだ。
 「お墓に供えるお花って言うと白色ばっかだけど、こう言う華やかな色のお花の方がいいわよね。だって、誰だって綺麗なお花を見ると嬉しくなるもの。きっと、ここにいる人達は皆普段は静かに眠っている人達ばかりだから、せめてお花ぐらい、ぱぁっと明るくなって貰いたいものね?」
 茉莉奈にとって、叔母の印象は、この花束のように華やかで優しいイメージであった。
 茉莉奈が物心つく頃から、叔母はフラワーアレンジメントを趣味としていて、花と関わる事が多かったし、それで収入を得る頃には更に花との関わりは深くなって。茉莉奈が、いつ彼女の元を訪れても、いつも彼女の周りには花が溢れ、香りが充満して茉莉奈を迎え入れたものだった。
 『寂しくなんかないわよ?だっていつでも一緒だもの』
 いつも出掛けてばかりの叔父、どこに行ったの?と幼い茉莉奈が質問すれば、叔母の口から出てくるのは聞いた事の無いような国名ばかり。それで寂しくないの?と問うた茉莉奈に、叔母はいつでも笑顔と共にそう答えた。
 傍に居ないのにいつでも一緒とはどう言う事か、その当時の茉莉奈には訳が分からず、ただ首を傾げたものだ。今でも、まだ十六歳の茉莉奈には、理解不可能な事も多い。だが少なくとも、いつでも一緒だと言う、その気持ちだけは分かるようになった気がしていた。
 「ねえ、叔父さん」
 「ん?」
 「叔母さんは、いつでも叔父さんと一緒に世界を旅しているように感じていたんじゃないかしら」
 唐突な姪の言葉に、何故、と桐生は優しい笑みを返した。
 「だって、私、思ってたの。どうして叔母さんのアレンジメントは、その時によって印象が変わるのかなぁって。あれはきっと、叔父さんと一緒に世界を旅して、今まで見た事のない、いろんな新しいものに触れて、叔母さんの感性が変化していってる証拠だったのかな、って」
 「…ああ、確かに私が戻った時は勿論、旅行中も、彼女はその行った先の国の事をいろいろ聞きたがったよ。私は、単なる好奇心だけかと思ってたのだが、そう言う意図もあったのかもしれないな」
 そうよ、きっと!と微笑む茉莉奈だが、それ以外にも、叔母の『いつでも一緒』と言う言葉を証明する出来事があるのだが、それはあえて叔父には伝えずにおいた。

 丘の上の墓地の、その中でも一番端っこ、丘の突端辺りに桐生の妻の墓はあった。持参した色とりどりの花束、そして姪っ子の心を込めた手作りのクッキー。それらを供えて故人を偲んで手を合わせた後、桐生は、冷たい風に前髪を煽られながらぽつりと言った。
 「…良く、運命の悪戯か、際どい所で偶然にも一命を取り止めた話とか、あるだろう?ああ言う時、人は、この人はまだ死んではならぬ運命だから命を取り止めたのだ、とか言うじゃないか。それを聞く度私は、では、運悪く命を落とした私の妻は、そこで死んでも構わない運命だったのか、と問い詰めたくなってしまうんだ」
 「……」
 いつも冷静でクールな叔父が、珍しく少しだけ感情を露にしている。茉莉奈は黙って、叔父の言葉の続きを待った。
 「だけど、きっと私が逆の立場…偶然にも命を取り止めた家族を持つ側だったとしたら、やはり同じ事を、やはりまだ死んではならぬ運命だったのだと言って喜ぶだろうな、と言う事も容易に分かる。結局、私も自分の事しか考えない、自分勝手な男なのかもしれないな」
 「それは違うわ、叔父さん」
 それまで黙って聞いていた茉莉奈だったが、不意に語調を強めてそう反論した。驚いたように桐生が隣の茉莉奈を見れば、いつもにこやかで人懐っこい笑顔を浮かべている姪っ子が、珍しくキッときつい真剣な眼差しをして叔父を見上げていた。
 「叔父さんは自分勝手でも自己チューでもないわ。だっていつでも誰かの事を真剣に、親身になって考えているじゃない。叔父さんが叔母さんの死に目に逢えなかったのは叔父さんの所為じゃないし、今、叔父さんに他の愛する人がいるのも、亡くなった叔母さんを蔑ろにしているからと言う訳でもないもの。叔父さんが本当に自分勝手な人だったら、叔母さんの最期に逢えなかったからと言って、今こうして悔やんだりしてないだろうし、新しい恋人の事だって罪悪感なんか欠片も持たなかった筈よ。いつもそうして悩みながらも、走り続ける事を止められない、それが叔父さんのいい所だと思うもの」

 『あなたは泳ぐのを止めたら死んでしまう魚みたいな人だもの。だから、自分の思うがままに生きて行動していればいいのよ?』

 生前、妻が良く言っていた言葉が甦った。あなたは子供みたいな人よね、そう言って良く自分を揶揄った妻だったが、それは決して否定的な意味ではなく、そんな、いつまでも少年の心を失わない桐生を愛していると言う、妻の想いに他ならなかった。
 ふわり、と桐生の頬を風が撫でる。冬の空気にしては暖かく、優しい感触の風。まるで、一足先に春がやってきたような、そんな感じだった。
 茉莉奈には、その風の正体が分かっていた。それは叔父が愛した女性、茉莉奈の叔母、その人。先程の、『いつでも一緒』の言葉を証明する出来事とは、今でも遠い空から愛する夫を愛し続け、見守り続けている事。その事を茉莉奈は知っているが、桐生には伝えていないだけなのだ。それは、今、叔父には他に愛する女性がいるからと言う姪としての気遣いであり、叔母その人の希望であるからだ。

 私の存在を知っててくれなくてもいいの。あの人が私を愛している事は、私は百も承知だから。

 自信満々な叔母の言葉は、自惚れている訳では無い。それは、叔父を見ていれば分かる。私もいつか、そんな人と出逢えるかしら?そう尋ねる茉莉奈に、叔母は空から勿論!と微笑を返してくれる。茉莉奈も同じように、空に向かってにこっと微笑を返した。

 「ね、ママがね、ご馳走作って待ってるわ、って。だからそろそろ帰りましょ?ヘンリー叔父さん!」
 そう言って茉莉奈が桐生の腕に自分の腕を絡めてくる。そんな姪の様子に楽しげな笑みを返しつつ、桐生も頷き返し、風だけが早春の丘を後にした。