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<東京怪談ノベル(シングル)>


破滅に至る病 〜輪廻〜

 それは、おざなりな行為だった。あるとすれば、一方的な愛情。与えられ受け止められていた時は、とうに過ぎた。男に抱かれながら、女は終わりを感じていた。
 だが、まだ一つだけ、女は秘策を隠していた。捨て身の行為とも言える。告げて訪れるのが破滅だとしても、女にはそれしか残されていなかった。それだけ追い詰められていたのだ。
「あたし、妊娠したみたいなの」
 紫煙吐き出す男の横顔に向かい、女は言った。どちらがこの部屋の主なのか、今では分からなくなっている。
 高級マンションの十階。窓の外に広がるのは、台場のネオンだ。この乱れたシーツの上で男が横たわるのも、今日が最後になるかもしれない。
 女の作る痛々しげな視線の中、男は鼻で笑った。
「それで?」
「それで? それでって……。『ここ』にあなたの子供がいるのよ? もっと他に──」
 女はそう言って、自分の下腹部に手をやった。腫れ物にでも触るようなぎこちない手つきは、愛おしむ動作にも似ている。
 だが男にとって、それは煩わしいだけであった。これは『ビジネス』なのだ。愛情など、微塵も無い。一人の女をものにすれば、それだけ金になる。肝心なのは、給与明細に記されたゼロの数なのだ。店のトップに君臨し続ける事なのだ。
 この女から離れた瞬間に、男は別の女の物になる。そうやって、夜と女と嘘の狭間をかいくぐる。どこにも、本音などありはしない。男の肩書きは『ホスト』だった。
 不要の長物となった女と、いつまでも一緒にいる理由も時間も無い。
 男は、煙草の火を灰皿に押しつけると、ベッドをきしませて立ちあがった。
「俺に何を期待してるんだか。まさか『父親』になるとでも?」
 冗談じゃない。
 男は女を無視したまま、服を身につけ始めた。
「今までの事が、本気だったとでも思うのか? 全部、演技だ。仕事なんだよ、し・ご・と」
 何度、見つめたかもしれない背中を見つめ、女は唇を噛んだ。どこかで、別の答えを期待していた。ささやかな幸福を夢見る。その気持ちは僅かだと思っていた。ところが、男に言われて女は気がついたのだ。
 あまりにも、描いていた夢が大きすぎた事に。
 女は黙り込んだ。返す言葉が見つからなかった。視界が霞み、頭の中が黒く濁った。何も、考えられなかった。
『終わり』が、やってきてしまったのだ。
 男の吐いた残酷な言葉は、それまでの甘い記憶さえ幻と変えた。
「俺を縛るのは無理だ。その気になれば贅沢な部屋の一つや二つ、簡単に手に入る。そんな暮らしを手放して、お前みたいなつまらない女と一緒になれと? あの店を辞めて、ガキとお前のお守りをしろと? ハ……」
 冗談じゃない。
 男はグイと女の長い髪を掴み、顔を引き寄せた。鼻と鼻が触れ合う程の距離。そこに『愛』などなかった。男の顔に浮かんでいたのは、怒りと軽蔑だった。かつて、見た事の無い恐ろしい形相を、女は見た。
「産むのは勝手だ。だが、俺を巻き込むな」
 そして、男は拳を振り上げた。女は構える余裕も無いままに、それを顔で受け止める。
 脳が激しく踊った。目頭が熱くなり、同時に激しい痛みが女を襲った。ベッドの上に倒れ込み、女は呻いた。ガーンと耳の奥が鳴っている。押さえた手が濡れているのは、血では無いだろうか。女は恐る恐る薄目を開けて確認した。涙だ。苦痛に流れた涙が、女の手を濡らしていた。
「ヒドイ──わ」
 女は、やっと言った。
 声が震えていた。
 男が恐ろしかった。怖かったのだ。
 一体、自分が何をしたと言うのだろう。『子』を宿した事は、そんなにも罪な事なのだろうか。もしそうなら、男も同罪なはずだ。
 女は男を見上げた。顔にかかる髪が、女の視界に黒いすだれを作った。
「ヒドイわ……」
 女は、もう一度言った。プライドなどない。あるのは、惨めな敗北感だけだった。
 男はスーツの内ポケットに手を突っ込み、財布から無造作に金を取り出した。
「餞別をやる。これでガキを『どうにか』するんだな」
 そう言って男は、女の腹にそれを撒いた。ヒラリヒラリと舞う札は、たった五枚。男は最後の一枚を的にして、強烈な蹴りを叩き込んだ。その向こうにあった女の腹に、男の足がめり込んだ。
 グッと、女の喉が鳴る。背中を丸め、女は腹を抱え込んだ。
「悪いな。そこまで届かないと思ったんだ」
 男は左足で立ち、右足をブラブラと屈伸させた。細く長い足が、男の自慢でもある。それを見せつけるようにして、男は女の目の前で伸縮を繰り返した。
 女は、男の顔を見た。吐き気がした。眩暈もする。殴られた顔と腹の痛みもひどい。だが、何よりも、女を支配したのは恐怖だった。
 男の顔からは、表情が消えていた。
「もう店には来るな」
 男はじっと女を見下ろした。冷たい、射抜くような視線で。時間にすれば数秒。しかし、女には永遠のような長さを感じた。これは警告なのだ。女が感じたのは、身を切るような殺気だった。これ以上、男に近づく事は許されない。
 終わった。全て終わったのだ。
 男が扉を開けて出て行く。女は下腹を押さえて蹲っていた。
 男は去った。
 腹の子もじきに去るだろう。この痛みは、その準備なのだ。
 ホストになど、入れ込んだ自分が馬鹿だった。悪名も聞いていた。最初から、こうなると分かっていた事ではないか。
 泣いていた女が、自室のベランダから飛び降りたのは、それから数時間後の事だった。

 紅い瞳は、それを見ていた。

 倒されたゴミ箱。そこに群がるカラス。
 冬の陽は遅い。午前六時の朝も、まだ暗かった。
 男は女を一人送った後、やっと仕事から解放された。地下鉄の階段を下りながら、煙草をふかす。男が素に帰る時である。
 土曜日の下りホームに、ひと気は薄い。男は滑り込んできた電車に乗ると、シートに腰を下ろした。男以外に、客は無かった。
 深く息を吐き出し、男は腕を組んだ。
 ゴトンゴトンと、くぐもった音を響かせて、電車は走る。
 男は、何を考えるでもなく、ボンヤリと車内に揺れる広告を見つめていた。目を惹く派手な色彩と、日々変わるゴシップ。LEDのアナウンスは『新宿三丁目』を告げている。次の停車駅であった。男はそれを、どうでも良いような気持ちで見つめていた。
 ふと、爪先の上に重みを感じた。何かが自分の足を越え、通り過ぎて行ったようだ。
 男は何気なく足下へ視線を落とした。ぬらぬらとした光沢のある細い筋が、靴の上に出来ていた。見ればそこら中に、それはある。男は首をひねった。眠い頭がたたき出したのは、ナメクジと言う言葉だった。
「まさか……電車の中に?」
 男は呟いて、その帯を辿った。左足から右足を越え、『それ』はまだ動いていた。
 男は声を失った。
『あれ』は一体何なのだろう。人差し指の長さにも満たない、ころりとした薄桃色が、ムズムズと懸命に這っている。手や足とも思えぬ突起を前後に動かしている姿は、生まれたてのネズミの子を思わせた。
 だが、ネズミなどでは無い。毛も無く、形も変だった。頭が異常に大きい。全長の半分は頭が占めている。何より顔が尖っていない。
 男はゾッとした。その異形から、目を離す事が出来なかった。『それ』はゆっくりゆっくりと、前進する。這うと言うより、のたうつに近い。
 男は無意識に、床から足を離した。シートの上で膝を抱え、ゴクリとツバを飲む。いつのまにか、床一面にビッシリと『それ』の通った跡がついていた。
「な、何なんだ……」
 たかだか三センチほどの塊である。踏みつぶしてしまえば良い。
 揺れる車内で、男と『それ』は二人きりだった。あと、三つ。男は駅を過ぎなければならない。
 その間、この虫のような物体と、一緒に過ごすつもりは無かった。
 男は足のやり場を探した。ヌメヌメとした筋を踏まずには、『それ』に近寄る事は出来ないようだ。渋々、男はそれを踏み立ちあがった。
 八十センチと言う距離は、男にとって一またぎの長さである。足を延ばしさえすれば良い。それで、この変な生き物とはおさらばできる。
 男の爪先が、床から離れた。ムズムズと『それ』が動く。小さな尻には突きだした骨が見えた。背中は伸びきっておらず、丸い。そこに男は、狙いを定めた。
 その途端、電車ががたんと揺れた。男は、バランスを失って床に尻餅をついた。
「テッ」
 体を支える為に男は両手をついた。ねばっとしたとイヤな感触に、男は顔を歪めて舌打ちする。
 目の前の『それ』が、その音に反応した。頭の大きな三センチの赤裸が、男の目の前でUターンしようとしている。
 顔と呼べぬ顔が、男へと向いた。皮膚と同じ色の厚いビニールを被っているような、のっぺりとした顔。男は思わず眉根を寄せた。目のような黒い滲みが二つ。小さな口が一つあった。シワシワとした薄い皮から透けて血管が見える。
『これ』は一体、何なのだろう。
 男は尻餅をついたまま、後ずさった。何者であるかなど、問うまでもない。だが、分かっていても、理解などしたくは無かった。
 あれはネズミでも、虫でも無い。人。人なのだ。これから何ヶ月かを水の中で過ごし、人として形成されるはずだった『人の子』なのだ。
「……わ、うわ……」
 男は目を見張った。胎児は手と足になるはずの突起を動かし、男に向かって迫ってくる。膜の下の見えない目が、男を見つめていた。
 小さな口が開いた。声は出ない。まだ、声帯が作られていないのだ。
 ただ、口中の綺麗なピンク色の粘膜が見えただけだ。
「ひ、ひぃ……っ」
 男はまた後ずさった。その拍子に、ドン、と何かにぶつかった。振り返ると、視界に赤一色が飛び込んだ。少女であった。振袖を着ている。年は、小学生ぐらいであろうか。シートに腰掛けていた。男は、その膝にぶつかったのだ。
「……あ、あわ、お」
 いつから、そこにいたのだろう。ここには男の他に誰もいなかったはずだ。それとも、男が気づかぬ内に停車した駅で、少女を拾ったのだろうか。
 それにしても、電車は規則正しく揺れ続けている。振動が止んだ事は無かった。少なくとも、『あれ』が現れてからは。
「……どういう事だ……」
 男はかぶりを振った。
 窓の外には、暗闇が流れ続けている。白い光に照らし出されたゴシップも、次の駅を記したLEDも、男が先程眺めていたものと変わらない。
 男の声が、扉の上の電飾文字をなぞった。
「次は……『新宿三丁目』……」
 男は、少女を見た。電車はどこも通過していない。どこにも停車していないのだ。だが、だとしたら、少女は『どこから乗って来た』のだろうか。
 ゴトンゴトン、と電車は揺れている。
 男は錯乱したまま、少女を見上げた。その身に纏った着物よりも、なお深い紅の瞳。それを男は見つめた。
 吸い込まれそうな深淵。
 少女の薄い唇が囁いた。
「見るが良い。『それ』は、お主の子よ。父を求めて、泣いておるわ」
 男は振り返った。爪先にかかる小さな突起。小さな小さなそれは、いずれ指となり腕となるはずだった。膜の奥の黒い瞳が、男を見つめていた。
「ひ……」
 男は息を吸い込んだ。ヒュッと音がして、男は咽せた。背中を丸め咳き込んだあと、男は少女の膝に縋りついた。
「た、たす、助けてくれ!」
 男の髪を、白い手が撫でた。救われた気がして、男は顔を上げた。だが、そう思ったのは気のせいだったと分かった。
 そこにあった顔は、少女の顔では無かった。それが誰であるのか、男は知っていた。乱れた顔さえ、容易に思い出す事が出来た。
「……お前は──」
 脳が割れ、顔の崩れた女がそこにいた。女の目は男を見ていなかった。グルリと反転した白い眼球に、幾筋かの赤い帯が流れていた。
『ヒドイワ……』
 女は言った。
「ッヒ……」
 男の首筋に、『何か』がペタリと貼り付いた。
 分かっている。確認するまでもない。首にしがみついたのは、『あれ』だ。
 男は絶叫した。
「俺は悪くない! 悪くないぞ! お前がいけないんだ! お前が勝手に作ったんだ!」
 不意に車内が明るくなった。電車がホームに滑り込んだのだ。男は助かったのだ。電車を乗り換えよう。タクシーを、捕まえても良い。男は慌てて立ちあがると、扉の外に飛び出した。
 だが、飛び出した瞬間、あったはずの地面が失せた。明るかった照明が消え、辺りが闇に飲まれた。
 男を迎えたのは、時速四十キロで流れる冷たい壁だ。地下鉄の暗く狭いトンネルに、男の絶叫がこだました。
「己が滅した者に追われ、己を滅す。その気分はどうだ?」
 ゴトンゴトンと、電車が揺れる。少女の薄赤い唇が、静かに微笑した。



                           終