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<東京怪談ノベル(シングル)>


土星のネコに弄ばれろ、黒い鼠ども


 にゃうにゃうとは鳴かずとも、かのものは土星より来たる。
 黒い鼠を追い回し、きっと捕らえて転がして、ぱくりぺろりとゲップをひとつ。


 さて、宇奈月慎一郎が見つけた村は、土星から来るネコが喜びそうな村だった。
 千葉県は浦安市から離れた、海沿いの村だ。名前は慎一郎も忘れた。とりあえず日本のインスマスのようなところだ。何でも黒鼠面が流行っているとか何とか、未確認情報なのだが、慎一郎が得た情報は比較的確かなものなのだ。ここですでにおかしな矛盾が起きている。
 ともあれ、矛盾などを気にかけていたら、彼は宇奈月慎一郎ではなくなっていることだろう。彼が今回狙っているのは、黒鼠面、ミックィーマウスな面、即ちインスマス面なのだ! どこの誰から聞きつけたのかは慎一郎もすでに忘れていた。気がつけば彼は旅支度をしていたし、切符を買って千葉に向かっていたのだった。
 海が見え始めた。
 列車の中で、前もって買ってきていたコンビニのおでんを頬張りながら、慎一郎は未知の世界へと思いを馳せた。ちなみにスモークチーズを土産に持ってきている。彼は極めて用意周到だ。

 駅からは2時間に1本しかないバス(しかも土日祝日は運休)で終点まで1時間弱、それから歩いて1時間半、普通人ならば裸足で逃げ出すほど遠い村だ。慎一郎は体力があるようでないようで実はある方ということがなきにしもあらず、ともかく根性と好奇心で村に辿りついた。
「……鼠のお宿というのは、あるのでしょうか……」
 具体的にどれくらい滞在するという予定はないので、荷物は多い。先に彼は極めて用意周到だと言ったが、同時に極めて行き当たりばったりな人生を送ってもいる。ここでもやっぱり矛盾しているのであった。そこで眉間を揉むな。
 慎一郎は、やっと見えた村の入口で、どさりと荷物を取り落とした。すでに日が傾き始めている。人影はなく、潮風は冷たかった。どこか肌寒い、いやな風だった。魚とチーズを混ぜ合わせたかのような匂いもしていた。ただしこの匂いは慎一郎のバッグも放っている。
「やーいわーいばーかめーがーねー!」
「はうっ!」
 突然、魚の匂いをまとった小さな人影が、慎一郎にぶつかってきた。疲れてもいた慎一郎はもんどり打った。そして、そこら辺に落ちていた大きなガラスの浮きに頭を打ちつけた。おぞましい匂いを放つ影たちは、意味不明かつ下卑た言葉を吐き散らしながら、慎一郎の長い髪をこねくり回し、ジャケットを踏みつけ、実に愉しげに嘲笑っていた。
「こらァ! なァにやっとるかァ! こっち来て早く水揚げ手伝わんか!」
「きーおこったーうきーきーきー」
「おーこったーうわー」
 ばたばたと足音は遠ざかり、慎一郎は呻きながら身体を起こした。小さな人影を追い払ったのは、体格のいい、真っ黒に日焼けした鼠……いや、至って普通の人間だった。たぶん。ちょっとヒゲがぴょんぴょんと長いかもしれないが。
「あああ! これはまたミックィーな感じです!」
「?!? はァ?!」
 起き上がるなり、慎一郎は目を輝かせ、男の腕にすがりついた。男は慎一郎にとってはまさに完璧な黒鼠面だったのだ。インスマスな面だったのだ。多分凡庸な専門家が見たら「どこが」か、「普通の人間だね」というところであろう。慎一郎はちっとも凡庸ではなかった。だから彼にとってはインスマスなファミリーなのだ。
「お会い出来るのを楽しみにしていました! 夢にまで見ていました!」
「……あんたァ……ガキんちょどもにアタマやられたな……」
「アタマ?」
「アタマったらアタマしかねエだろうよオイ」
 慎一郎はアタマアタマと反芻しながら、自分の頭に手をやった。
 おお、何ということだ! この慄然たる恐怖と、奇妙なほどに晴れ上がる己の中の疑念! 信一郎は自分の頭に起きた変化に気がついた。
「僕は皆さんの仲間だったのですね! 血を分けた一族なわけですね!」
「……」
「ああ! これは夢ではないかしら!」
「……あんた、と、とりあえず、ウチ来い」
「喜んで! あはは!」
 ……慎一郎の頭には、某テーマパークで大人気のカチューシャによく似たものがかぶせられていた。黒い小皿をふたつくっつけたかのような――そう! ネズミミミ! こう書くとわかりづらいので漢字にしよう! 鼠耳だ!
 彼はインスマスなネズミと化していたのだ! しかしこの感動と興奮は最早慎一郎にしかわからない。
「あのガキどもはもう、連休に遊びに行ったのがよっぽど嬉しかったんだな……」
 真っ黒に日焼けした男は、足取りが怪しい慎一郎の手を引いて、潮の香りが漂うまばらな宅地へと入っていったのだった。


 男は気さくなたちであるらしく、飲む前から前後不覚な慎一郎を相手に、ワンカップで晩酌を始めた。すでに、客人用の布団も敷いてある。あまり使わないものだからと、男は布団が黴臭いのを謝った。
「インスマスは長いのですか」
「はぁ? なんだそりゃ」
「そうですか、忘れるほどに長いのですか……僕も一族の記憶をなくしています……」
「よくわかんねエが大変だな」
「はい、我々は迫害される立場にあるのです。いつの時代も。イアイア」
「……とりあえず飲んで寝とけ」
「興奮してしまって眠れそうにありません!」
「ガキみてエなこと言うな、もう」
「お土産をどうぞ!」
 呆れる男に、慎一郎はスモークチーズを差し出した。偶然か必然か、酒の肴にちょうどいい。男はおッと破顔一笑、遠慮なくチーズを頬張った。
「やはりネズミはチーズがお好き……」
「オレは辰年だよ」
 男はぼやきながら、割合すぐに空になる慎一郎のコップに酒を注いでいった。
「あのガキどもはなア、もう手に負えンわ」
「変化し始めているのですか」
「ろくでもないことばっかり覚えてきやがる。街ってのァ怖エな。ガキが変わっちまうな」
「しかし、止められるものでもないでしょう」
「まアなア、いつまでもガキっていうやつはいないからなア。でも、修正はきくだろ。完璧に傾いちまう前に何とかある程度抑えてやるとか、まアそこら辺が難しくて困ってるわけだが」
「恐れてはいけません! 運命なのです! この地に生まれた宿命なのです!」
「んー、ちょっと大袈裟だけど、まア一理あるのかもなア」
「海の一族と言えども、悩みは尽きないものなのですね」
「当たり前だろ、生きてるんだから」
「ともに神に祈りましょう。必ず迎えに来てくれます」
「……は? あんた何教だ?」
 話は慎一郎の脳内でのみ噛み合いながら、夜は更けていく。慎一郎の脳内はいつもこんなことになってはいないかもしれないが一概にそうとも言えないというか、とりあえずこの日慎一郎がノートパソコンを起動しなかったのは不幸中の幸いであった。パソコンが動いていたら、今頃この晩酌に魚臭い神や夜鬼や空気じゃなくて空鬼あたりが参加していただろう。


 土星のネコがころりと転がす、あれは起きあがりこぼし。
 子供たちが吹いて膨らませた黒い大鼠の姿。崇め奉る鼠神が、朝日の中に浮かび上がる。
「おお、我らが黒き神よ。我らを見守り給え」
 何かアタマがヤバげだからと、慎一郎は男の軽トラックの荷台に積まれ、祈りながら村をあとにした。向かうのは隣町の外科だ。何も知らない慎一郎のガタゴトと揺れながらの祈りは、この世のものとは思えない、奇妙で異様な儀式のダンスにも見えるのであった。
 某テーマパークのネズミは、潮風に揺れながら村を見守っている。たぶん慎一郎が祈らなくてもしばらくそこにいるだろう。ネコに引っ掻かれてしぼむまでは。




<了>