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過去の4冊目
ラクスのもとに手紙が届くのは、最早珍しいことではなくなりそうだった。差出人は相変わらず不明のままだが(ラクスの魔術をもってしても、手紙を書いた人物を特定することは出来なかった。高度なレジスト処理がされている)、同一人物が送ってきていることは確かだ。証拠はないが、確かなことだった。
『 「隠蔽されしものの書」を知っているだろうか
決して動くことのないその本は きっときみの興味を惹くはずだ 』
「『隠蔽されしものの書』……」
ラクスは広大な知識の海に思いを馳せて、その『本』の名前を探したが、みつからなかった。自分が属する『図書館』にはないものだ。紛失したものでもない。ということは、わざわざ手紙が指定している場所に行く必要はないわけだ。これは、ラクス・コスミオンの使命ではないのだから。
「動くことはない……一体どういうことでしょうか……」
しかし、彼女のナイル色の瞳はきらきらと期待に輝いていたし、手は手紙を撫で回し続けていた。ただ、場所が場所だけに、彼女は行くのをためらっていた。
「でも、行って、『見る』だけ……すぐに帰ってこられそうだから……」
彼女は意を決すると、屋敷の主に出かける旨を伝えることもなく、いそいそと転送魔術の準備を始め――実行したのだった。
ラクスが放り出されたのは、懐かしい赤道上の太陽が照りつけるインド洋の只中だった。真っ青な海原が、ラクスの視界一杯に広がった。海に落ちる前に、ラクスは背の翼を広げて、不器用に羽ばたいた。あまり彼女はその雄々しい鷲の翼を使ったことがなかった。長いこと自転車に乗ったことがない人間が、久し振りに乗ったときにそうするように――ラクスはこわごわとしばらく羽ばたき、感覚を取り戻そうとした。
「ああ、びっくりした。……座標を、間違えたのでしょうか……」
ラクスはきょろきょろと周囲を見回した。
見渡す限りの海だ。まさか『本』が浮いていることなどあるまい。彼女はてっきり、人々から忘れられた無人島か岩礁に着くものだと思っていた。
だが、現実はこうだ。広々とした海原がどこまでも続き、海の他に見えるものと言えば、ぽつりと浮かぶ岩ひとつくらいのもの――
「!」
それは、岩ではなかった。
ラクスの目は鷲のように良い。暗がりで本ばかり読んでいる彼女だが、それしきのことで視力が落ちるような生物ではなかった。
転送先の座標から多少ずれたのは確かなようだ――
岩は、かなり遠くにあった。ラクスは不器用に羽ばたくと、その孤独な岩に近づいた。
不可思議な手紙以上に強固な『絶対処置』が施された『島』だ。或いはこの島に抱かれた『本』が、その力を持っているのか。
『隠蔽されしものの書』の写本は、浮かんでいるようにも見えた。他に羽根を休めるところもなかったので、ラクスは『本』の上に降り立った。脚の裏の肉球が、妙にひんやりとした。ぴりぴりとした、不愉快な感触も後についてきた。
「すごい。この星の『本』ではありませんね。これで、写本なのですか……原書を見てみたいものです」
独り言を呟きながら、ラクスはぺたぺたと表紙を撫でた。
『本』は石で出来ている。正確に言えば、石のようなもので出来ている。フジツボの屍骸と干からびた藻に絡みつかれた、島そのもの。4ページほどありそうだったが、開くことはないだろうと、ラクスは表紙に爪をかけようとも思わなかった。読みたいのは山々だが、一筋縄では開きそうもない。『本』が拒絶している。
波は死んでいるか、眠っているようだ。『本』がそうさせているに違いない。この周辺では、どんな魔術も効果を期待できないだろう。ここがしっかりとした『島』で、しっかりとした儀式を行えるのであれば、或いはラクスの力で『本』をこじ開けることも出来ただろうが。
この『本』は、生きているのだ。
だがラクスは何冊もの生きた『本』を見ている。振れたとも読んだことも、その力を目の当たりにしたこともある――今更驚くほどのことでもなかった。
この『隠蔽されしものの書』は、忘れられた身ながらも、貪欲に生き続けようとしていた。『島』がその証だった。生命という生命を食らっては、己を支える骨と肉に変えている。きらきらと宝石と同じ輝きを放つ、元生命体たちは――死よりも深い眠りにつかされ、永久に『本』を支え続けるのだろう。
「ウジャトの眼をもはねのける力であるならば――」
ラクスは悲しく微笑んだ。
「貴方ではなく、貴方の周囲を見ることにしましょう。貴方はきっと、ずっと前から、ずっとここを動いていないのでしょうから」
神の眼が開き、ラクスの脳裏に過去を運んできた。
大陸があった。
いつかは津波と地殻変動で、いつしかインド洋と呼ばれる海の中に没するさだめにあるものだ。特異な服装の、肌の青い人間たちが――ムーとアトランティスとともに滅びたとされる青人だ――潮の香りがする神殿に、果物な海産物を手にして、入っていく。まるで鯨が開いたあぎとに自ら入っていく蝦のようだった。
失われた言語が囁かれ、祈りが始まっていた。
祈りが向けられているのは、『本』だった。石のようなもので出来た『本』は、そのとき、開いていた。この世のものではない文字がびっしりと並び、人間たちを魅了している。神官は、読めないその文字を指でなぞり、失われた言葉で説法をしている。ラクスは耳を傾けたが、文句は聞こえるだけで、理解は出来なかった。ウジャトの眼は、見るだけだ。眼を通して見たものを理解するのは、見たものの務め。ラクスが知らない言語は、ラクスに何も教えてはくれなかった。
青い人間たちの数は増え続け、見る見るうちに神殿は人で埋まり、1000人にも届こうかという数にまで膨れ上がった。美しい女が、神官たちに手を引かれ、しずしずと『本』の前に立つ。手を伸ばし、『本』に触れた。
女は、たちまち美しい瑠璃の柱になった。
神官が触れても何も変化は起きていなかったはず。
ラクスははっと気がついた。
息を呑んだそのとき、神殿に集う人間たちの視線が、ラクスに一斉に向けられた。瞳という瞳は、宝石だった。瑠璃や瑪瑙、金剛石、翡翠が――ラクス・コスミオンを見つめていた。
ラクスは慌てて羽ばたき、『本』から離れた。
『本』の好物を知ってしまった。『本』は普通の味――普通の人間よりも、特異な力を持った人間や生命体を己の血肉に選ぶのだ。
しかし元より有機生命体よりも高位の存在である神獣スフィンクスに、『本』の魔力は効果が薄かったらしい。ラクスは石にならずに済んだ。だが、この『本』の上で1泊する気にはならなかった。
「ラクスにも、この『本』は動かせません……」
『本』はこの地に、思い出や生贄たちとともに在り続けることを望んでいる。人間が引っ張ったところで、動きはしないだろう。まさにてこでも動かない。
ラクスは力強く翼を羽ばたかせ、青い空の中に飛び上がった。『本』の姿は、波の間に溶けていった。
とりあえず『図書館』には、強大な『本』が在ることを報告するつもりだ。
しかし、報告したあと、『図書館』がどうするかは、ラクスも考えなかった。
きっと聞いたところで、『図書館』はラクスと同じ対処をするはずだ。
つまりは、そこに置いておくのである。
『本』が張っている魔術結界から抜け出すまで、ラクスは飛ばなければならなかった。へとへとになった頃、運良くタンカーを見つけてこっそり甲板に降りたのだが――ラクスはそこに留まる気にはなれなかった。船は漢の世界だからだ。
<了>
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