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<東京怪談ノベル(シングル)>


懐香


 制服から普段着である黒いスーツに着替え、ロッカーの扉を閉め終えたところで、藍原さん、と同僚から名を呼ばれた。
「今日は早番でしたっけ?」
「ああ、忙しい週末なのに悪ぃな」
「構いませんよ。先週その分働き通しでしたからね。……デートですか?」
 にやりと笑んだ男の頭を、軽く握った拳で小突く。イテテ、と戯けた儘の表情で、男はひょいと唯一の出入り口である建て付けの悪いドアを開け、和馬を促した。スタッフルームを後にして、廊下で擦れ違った別の店員と軽く挨拶を交わし、裏口から外に出る。途端、刺すような冷たい風に煽られたが、生温く澱んだビル内部の空気から開放されて、清々しく感じられた。
 ネオンに霞む街は、夕暮れの朱と玄を合図にゆっくりと目覚め始める。
 常ならこれから本格的に仕事開始といったところだが、今日は違った。現在の勤務先であるビルの通りを一本違えた場所に在る、大手のデパートを目指す。その入口の花屋の前で立ち止まった。以前は相場が分からなかった花だが、その後店に来る客から教わって、なんとなくだがどれ程の値段を提示すれば良いのかぐらいは知り得ている。店にずらりと並ぶ花々は形も色も取り取りで、春に咲く花の隣に冬の花が並んでいたりと、季節感はめちゃくちゃだった。
 店員に、用途を伝えて花束を作って貰う。花の種類は何でも良いが、色だけは揃えてくれ、と言い添えた。
 白い菊と百合の花束を片手に、ビルの駐車場に停めてある車に戻る。
 助手席に花束を抛り、沈みゆく太陽を背にして、車を出した。
 海岸へと。

 藍原和馬は、その外見からは想像も出来ぬ程に長い――余りにも長い年月を過ごしている。
 九百という年を経て尚、呪術を施した肉体は、老いることが無い。
 東京が未だその名称を持たぬ頃から、この土地で職を転々とし、ヒトの生きる様を見詰め、現在に至ってもこうして生きている。
 その中で、決して少なくはない数の人物と知り合い、そして、別れてきた。
 多くは、相手の死を以て。

 高速道路を暫く走り、前方に目当てのインターチェンジの表示を見付けて、国道へと降りる。事前に道路地図で軽く確認していたが、殆ど勘で方角に当たりを付けて走らせていた。
 以前は、海がもっと近いところにあったように思う。右手に見えてきた海に沿って存在する、やけに整えられた人工の公園は、埋立地に作られている筈だ。自分がこれから向かう海岸は、幸いにして開発がされていない区間だが、きっと景色は大分変わっているだろう。
 舗装されていない、草が所々に繁った空き地に、車を停めた。
 ドアを開けると、強い海風が吹き込んできて、車内に潮の匂いを満たす。
 コートを羽織り、無造作に助手席から花束を掴み取って車外に出た。街中とは比べものにならない冷えた風に、顔を顰める。
 夜の闇はすっかり辺りを蔽い尽くしていて、波の音だけが、其処に海の在り処を知らせていた。
 和馬は一度目を伏せ、すいと細めて再び視線を上げる。獣は夜目がきく。背後を走る道路を車が過ぎるのを待って、ごつごつとした岩場を軽い足取りで伝い、降って行った。
 ぐっと強くなる潮の香りに、汀に近付くにつれ、確かに以前も存在したのだと、岩の形状が記憶の隅のそれと重なる。同時に思い起こされる姿が、ちらりと視界を横切った。しかし意識して姿を追おうとすれば、忽ちぼやけて再び遠く記憶の彼方へと消え去ってしまう。
 その感覚は、夢に似ている。
 けれど、存在が現実であったことを、和馬は知っている。
 嘗て、そのひとが生きていたことを、和馬は確かに知っているのだ。
 既に彼の人を知るものが皆無となった今でも。
 その顔も、声も、はっきりとは思い出せなくとも。
 ぱしゃん、と小さく音を立て、波は鋭角に浸蝕された岩に打ち寄せた。和馬は濡れるぎりぎりの場所まで進んで、安定の良い岩のひとつの上に降り立つ。
 手にした花束の包装紙が、ばさばさと耳障りに鳴る。後ろに撫で付けていた茶褐色の髪が僅かに乱れるのには気を留めず、じっと波間を見詰めた。
 冴える蒼の月光が、闇に降りて水面を仄かに照らし出す。遠くはない場所で、轟と岩を打つ音が聞こえた。
 対岸を望めば、打って変わって眩い灯りが、無機質な建造物の影を明瞭と投射している。
 此岸。
 では、対する此方は。
 ふと思って、莫迦莫迦しい、と軽く頭を振った。
 あれは、何時のことだったか。
 記憶の中の姿の、服装と周囲の景色からして、恐らくは随分と昔のことだろうと馳せる。
 友と呼んだ、相手だった。
 幾ら思い出そうとしても、甦るその表情は何時だって笑みのそれで、最期の姿さえ、穏やかな微笑の儘だ。
 或いは、笑んでいたのかも知れぬ。
 ただ、強く刻まれているのは、この場所で。

 海、だった。

 ああ、そういえば。
 あの日は、雪が降っていた。
 現在に比べ、大分冬が冬らしく、黎明の海原など推して知るべし。すべてが凍り付くような早朝だった。

 友人は此処で、その命を落とした。

 風が吹く。
 常人よりは寒さに強いとはいえ、流石に応える。
 和馬は花束を持ち替えて、冷え切った手をコートのポケットに入れた。
 花束は、小さいものだ。
 以前依頼の際に購入した物の、半分の値段にも満たぬ簡素なものである。
(アイツにゃ、そんな贅沢な花は似合いそうにもねぇしな)
 その口元を僅か綻ばせ、花を贈る相手の顔を今一度思い出そうとして――やはり、朧に霞むことに、復た笑みを深くした。記憶を過ぎる顔は幾つも、そしてその何れもが、既にこの世を去りて久しい面々だ。
 中には、死して尚、現世に留まる者もあったが。
 今、和馬が想う相手は、なんの思念をも遺さずに逝った。
 時が経つにつれて、友人を知る人も、一人、亦一人と、消えてゆき。
 残るのは、和馬だけだ。

 風が、凪いだ。

 手にしていた花束を、力一杯遠くに投げる。

 空中で、ふいと再び吹いた風に乗り、花ははらりと頼り無く着水した。
 吸い付くように水と出会い、波に揺蕩う。

 純白の花は、それ自身が灯火の如くに誇り、深遠の闇の中を彷徨っている。
 あの日の、雪のように。
 白く。

 暫く見ていたが、一度空を見上げると、瞳を閉じた。
 やがて届く波と風の音に訣別して、目を開けると、もう海には視線を遣らずに背を向けた。振り返らず、来た道を引き返す。
 潮の香りと波音が、何時までも和馬を追っている。
 車に戻ると音は遮られて、僅かな海の匂いだけが名残りとなり。
 暫く走ればそれさえも、少しずつ薄まって間を置かず消えゆく。
 と。
 助手席に、一片の白い花弁を見付けた。
 摘み取り、少しだけ開けたウィンドウに運ぶ。
 花びらは瞬く間に風に攫われて、闇に融け込んでいった。

 在る筈の無い花の残り香が、
 ふっと過ぎ去ったような、
 気がした。


 <了>